3ー56 仲間の豹変
クエスと少女の日々は慎ましく幕を開けた。
彼女の名前はレイチェルと言うそうで、自ら地面にそれを書いて見せたのだ。
たどたどしくも書き慣れていない仕草で。
文字を知っているのなら良家のお嬢さんかというと、そうではない。
たまたま自分の名前だけ習う機会があっただけのようだ。
当然のように他の単語は一切知らないようである。
それでもコミュニケーションは取れるらしい。
事実、口で会話が成立しなくとも、2人はとても幸せそうに居たのだから……。
とある午後のこと。
レイチェルが空をぼんやりと眺めている。
どうやら薪割りの作業中のようだが、割った薪を集める事もせず、ただ流れ行く雲を目で追いかけている。
空を自由に飛んでみたいのか、それとも心に浮かぶ何かを重ねているのか。
そればかりは当人のみが知ってる事だろう。
しばらくぼんやりし続けていると、彼女の瞳が突然輝きだす。
そして慌てて髪を手ぐしで整え、服の汚れを払い、姿勢を正した。
それからすぐに空から男が舞い降りた。
もちろんクエスだ。
片手に一輪の花、そして小さな革袋を携えて、彼はやってきたのだ。
ーーレイチェルさん、お久し振りです。お変わりありませんか?
その言葉に笑顔で返しつつも、すぐに頬を膨らませてみせる。
ーーすみません。少し仕事が忙しくて。埋め合わせにもなりませんが、まずはお花をどうぞ。
差し出したのは紫色の花だった。
それが何なのか、オレは知らん。
花は花と知っていれば良いと思う。
レイチェルはそれを受け取ると、鼻を近づけて深く呼吸した。
しばらく動きをとめ、そして静かに、長く息を吐く。
その頃にはすっかり機嫌を直したようで、無邪気な笑顔をクエスに送った。
ーー珍しいお菓子も買って来ました。一緒に食べましょう。
こうして2人は小屋の中へと入る。
中は外観から察せられる通りに質素だった。
カビの生えたテーブルに椅子、朽ちかけたカマド、錆び方の激しいストーブ。
タンスも相当の年代物なのか汚れが酷く、部屋の奥のトイレらしきドアも傾いている有様だ。
どの角度から考えても、彼女の生活は楽ではなさそうだ。
にも関わらず悲壮感が感じられないのは、眩いほどの笑顔でいるからだろう。
白湯を注いだ木のコップが2つ並ぶ。
クエスはそこにリンゴの蜂蜜煮を加えた。
レイチェルは少し遠慮しつつも、ひとつ口に入れる。
そして目を力いっぱい瞑る事で感激を示した。
その姿をクエスが目を細めて眺める。
彼自身は湯をすするばかりだが、それだけで幸福感を得られているようだった。
ーーこの前は西方にあるヤポーネという国へ行って来ました。あそこは不思議な方々が多いですね。
レイチェルが顔を覗き込む。
次の言葉を待っているようだ。
ーー海の向こうにあるのですが、少し面倒な事になっていました。クジラが陸に打ち上げられてしまい、どうにかして海に戻そうと頑張っていました。結論、成功しましたが。
レイチェルが首を捻る。
話についていけなかったのだろう。
ーーそうか、あなたは海を知らないのですね。クジラというのはとても大きな……魚でしょうか。すごいですよ。どれくらい大きいと思いますか?
レイチェルが逆の方に頭を倒し、長考した。
それから、家の端から端までを指差した。
ーーいえいえ、もっとですよ。この家から向こうの湖まで、くらいでしょうか。
この答えは想定外だったようだ。
彼女はしばらく目を見開いて固まったが、やがて眼を笑わせる。
そして手を仰ぐように左右に振った。
からかわれたと考えたのだろう。
ーーおや、冗談と思われましたか。まぁ実際に目で見なくては信じられないでしょうね。これから見にいってみますか?
クエスが手のひらを差し伸べる。
レイチェルは一瞬体を硬くしたが、すぐに自分の手を乗せた。
つなぎ合う2人の手。
多少のぎこちなさが有りつつも、強い絆が感じられるようだった。
ーーでは行きましょう。しっかり掴まっててくださいね。
やや密着し、ゆっくりと上昇。
それから2人は西の空へと飛んで行った。
そして映像は再びここで途切れた。
「どう思う、ライル?」
モコがオレの方を振り向いて言う。
心底辛そうな顔をしていると思った。
確かに人がイチャついてるシーンは、タイミングによっては胸に刺さるだろう。
だからと言ってそのリアクションは心が狭すぎるだろうに。
独り身が嫌なら年頃の子猫を拾ってきてやらんでもないぞ。
「どうって、仲睦まじいカップルじゃないか。何だお前の顔は。欲求不満か?」
「妙な勘ぐりをしてるようだけど、きっと認識違いだよ。僕の顔が浮かないものに見えるのなら、それはこの先の事件を知っているからさ」
「この先の事件……ねえ。その部分は口頭説明でも良いんだぞ?」
「ダメだね。これから見てもらうから」
「クソ猫!」
場面は切り替わり、クエスとモコの2人となっている。
どうやら最初の無機質な会議室で話し合いをしているようだ。
ーーお願いします。催促しているようで心苦しいのですが、例の件を考えてもらえませんか?
ーーうぅん。もう計画を走らせちゃってるしなぁ。文明のコントロールって、君が考えている以上に複雑で、すっごく難しいんだよ?
モコに頼みごとがあるらしい。
クエスは丁寧な口ぶりながらも、真剣な様子だ。
簡単に引き下がるようには見えなかった。
ーー君のお願いって、地上での薬学テクノロジーの進化だったよね。
ーーはい、そうです。魔法学を優先させたいようですが、薬学も同時進行という訳には参りませんか?
ーー動機がねえ……。あの少女に口がきけるようにしたいんでしょ? そこまで肩入れするのはなぁ……。
ーーいけませんか? 別に彼女だけが恩恵を受ける訳ではありません。地上の同じ症状を持つ者たちが皆、享受できるのですよ?
互いの目線がぶつかる。
荒っぽさはないが、激しいものだ。
しばらく動きはなかったが、先に根負けしたのはモコだった。
ーーわかったよ。君の熱意に免じて、何とか対応してみるよ。
ーー本当ですか! ありがとうございます!
ーーその代わり、今日明日なんて事にはならないからね? 君の望むような薬が世に出回るのには数年はかかるよ。
ーー十分です。お聞き届けいただいて感謝します。
クエスが深々と頭を下げると、部屋をあとにした。
足取りは軽いというよりか急いでいるように見える。
「正直言うと、この時僕は安心したんだ。クエスは真面目で責任感が強い。でもその性格が災いして、自分の仕事に対して酷く悩んでいるようだったから」
「それが目標というか、生きる張り合いを見つけた事で、好転すると思ったのか?」
「その通りさ。あの少女と短い時間でも過ごす事で、彼の心も救われるんじゃないか……そう思っていたんだ。でも、その見通しは甘かった。血で血を洗う過酷な大地は、そんなささやかな幸福を見逃してはくれなかった」
場面は再びレイチェルの小屋へと戻る。
クエスもいつものように降り立つが、出迎えはない。
ドアをノックして問いかける。
返事は無かった。
ーーレイチェル? 不在ですか?
わずかにドアを開いて中を覗く。
すると、異変に気付いたクエスが血相を変えて室内へと入った。
辺り一面血の海だった。
一人の人間のものだとしたら、間違いなく致死量だろう。
ーーレイチェル! クエスです! どこに居るのですか!
普段の冷静さは微塵もない。
半狂乱になって室内を捜索する。
ベッドのした、タンスの中、トイレ。
一通り隠れられそうな場所を調べるが、手がかりはない。
何者かの血で汚されているだけだった。
ーーレイチェル! お願いです、返事をしてください!
懇願するような声で叫び続ける。
探索場所を外に広げると、何かに気付いたようだ。
草木に隠れるように血痕があった。
それが点々と森へと続いている。
クエスはすぐにその後を追った。
ーーレイチェル! レイ……!
森の中へ足を踏み入れると、とうとう目撃してしまった。
変わり果てた姿となった愛する女性を。
一糸まとわぬ姿で、乱暴された形跡がある。
更に相当いたぶられたのか、体の損傷も激しい。
極め付けは体に刺さった槍。
体の中心を真っ直ぐに貫き、槍の柄を地面に刺す事で晒し者となっていた。
ーーへへっ。こんな所にもニンゲンが居たのか。隅っこで震えてればよかったのによ。
木々の間から獣人が数人現れた。
その手には血塗られた武器がある。
ーー口のきけねえ女をいたぶるだけで退屈してたところだ。お前はどうやって殺してやろうか。指をひとつずつ切り落としていくのはどうだ?
ーーそりゃ前にもやったろう。腹かっさばいて腸を引きずり出すのとかどうよ?
ーーおう悪くねえな。今回はそれにするか。
最も体つきの良い獣人がクエスに手を伸ばす。
やがてそれが肩を掴み、引きずられようとしたのだが。
ーーギ、ギギギ、ギィヤァァアア!
その男の体が突然あらぬ方向に歪んだ。
少しずつゆっくりと体が縮み、その度に断末魔が響きわたる。
血が飛び散り、それが僅かにクエスの顔を濡らした。
そして、男の体は小石ほどの大きさにまで圧縮され、潰れた。
クエスは表情を変えずにそれを見た。
瞬きもしていない。
相手が苦しみ悶える様を、一瞬たりとも逃さないつもりのようだ。
ーーテメェ! 今何をしやがった!
ーー何を、しやがった、だと?
それまで静かだったクエスの気配が膨らんでいく。
殺意、と一言で表すには生ぬるい。
条理からかけ離れた存在が放つ、途方もない暴力的すぎる波動。
並みの生物では向けられただけでも卒倒するだろう。
事実、獣人たちも抵抗すらできず、武器を放り出してその場に膝をついた。
ーー貴様らこそ、何をしたのか、何を踏みにじったのか分かっているのかッ!
その瞬間、辺りが濃紫色の光に包まれた。
それはあらゆるものを腐食させ、朽ちさせた。
木々も、草花も、当然獣人も。
ドロリと粘性の強い液体となり、地面に溢れた。
そして付近からは全てが消えた。
美しい森も、透明な水をたたえた湖も、不届きなる犯罪者どもも。
彼が愛した女性の亡骸も。
その全てが世界から消えてしまったのだ。
だがクエスの破壊はおさまらない。
この日を境に多くの国や村が滅ぼされた。
獣人、亜人、人族の隔てなくだ。
「ここからは、君の知る姿だろうね。清廉なるクエスは、破壊をもたらすだけの存在となってしまった」
「こんな事が起きてたのか……。てっきり、はなから殺しを愉しむようなクソヤローだと思ってたよ」
「それは違う。彼は絶望しきったんだよ。争いの耐えない世界に、弱者がいたぶられる時代に」
言葉はない。
クエスにとって彼女は何にも代えがたい存在だったんだろう。
オレにとってはシルヴィアやシンディのようなものか。
もし同じ目に遭っていたとしたら、きっと世界を滅ぼすほどに怒り狂っただろう。
少なくとも冷静に自我を保てる自信は欠片も無い。
「この後はね、僕らとクエスとの戦いとなるよ。ディストルが彼の力を大きく削り、僕と君とでどうにかして封じたんだ」
「3人がかりかよ。そこまでアイツは強いのか?」
「そうだね。ディストルが一番強いけど、それも大陸の状況次第さ。この頃のクエスは手が付けられないほどに力を持っていたよ。実際、この戦のあとディストルは長い眠りにつくことを余儀なくされるんだ。力を使い果たしたからね」
「おっかねえ話だ。んでさ、この心にズシリと来る話を見せてさ、どうしようってんだ?」
「どうかしたい訳じゃないさ、ただ……」
「ただ?」
「何というか、彼をあまり嫌わないで欲しいんだ。殺人鬼や破壊の権化みたいな風に思ってるだろうけど、彼が狂ってしまったのにも理由があるんだよ」
モコが暗い目でオレを見る。
後悔、嘆き、哀しみ。
そんな感情が複雑に交じり合っているものだった。
つい目線を逸らし、ごまかすように大きな声で返した。
「お前の言いたいことはわかったよ! でも同情はするが、もし再び戦うような目になったとき、手加減はしないぞ。何せオレにだって家族は居るんだからな!」
「もちろんだよ。そのときは僕だって容赦はしないさ」
「さてと、もう用事は済んだよな? アシュリーの所へ戻ろうぜ」
「そうだね。長々と付き合ってくれてありがとうね」
オレたちは部屋を後にした。
心の中は異様に重たい。
そのせいで場を明るくする軽口でも叩こうと思ったが、たったひとつすら想い浮かぶ事は無かった。




