第三話 漂泊の獣
洞窟はまだまだ続く。
うつろな目とふらつく足取りのまま、彼はひたすら歩いていた。
「どうしたの、トゥレン君。お腹空いてないの?」
おうごんちょの台詞は字面だけなら心配しているようだが、声色には明らかに嘲笑が混じっている。
そう聞こえるのは、彼の神経が完全に削り切れているせいかもしれなかった。
「いえ、食欲がありませんので……」
彼は暗い目で足元を見やった。
そこには無数の紫キノコたちがわらわらと群がり、元気に駆け回っている。
いくら冷酷な彼でも、これらを焼いて食べる気にはとうていなれなかった。
可哀想というより、食べた後遺症の方が恐ろしい。
だが、そうは言っても腹は減る。
食欲がなくとも、人は食べなければ必ず死ぬのである。
「敵どころか、まともな味方が一人もいないとは……だいたい、この鳥は何なのです? 敵よりも私ばかり攻撃してくるではありませんか!」
トゥレンの肩には、引き続き丸っこい黒鳥が止まっている。
服を裂いた布切れを巻きつけて保護しているものの、鋭い爪はそれを突き破って肩の肉に食い込んでくる。
だが、追い払えば今度は脳天に止まろうとするので、妥協して己の肩を犠牲にしているのだった。
「嫌だなあ、トゥレン君。もう忘れたの? 『鴉』だって言ったでしょ?」
「こんな丸い鴉がいるものですか!」
トゥレンの叫びに呼応するように、黒鳥が鳴いた。
「カア」
「申し訳程度に鴉ぶらないでください!」
しかしトゥレンの意思とは無関係に、どんどん悪化する胃痛のお陰で、彼の魔力はいっそう増大していた。
本来なら暗闇に包まれているはずの洞窟で、明かりもなしに歩いているのは、彼の全身にみなぎった魔力がまばゆく発光しているからである。
いい加減、出すぎた胃酸で内臓全て溶かしそうになってきた頃、彼は洞窟の分かれ道の片方から、鼻をくすぐる匂いに気がついた。
ふらふらと吸い寄せられるように行った先には、ぐつぐつ煮える大鍋のスープをかき回す店主の姿があった。
――店?
こんな洞窟の奥に料理屋があるなど非常識も甚だしいが、この地に来てから彼の常識が通用したことは一度もない。
きっと今回もそうなのだろう。
そう思ったが、振り返った店主の姿を見て彼は卒倒しかけた。
「あら、いらっしゃい」
子供のような、女性のような、愛嬌のある可愛らしい声色。
だが、それを発したのは、茶色の体毛に覆われた謎の生き物だった。
「あっ、たぬき食堂さん! 出張ご苦労様だね!」
「どうも、おうごんちょさん。お久しぶりです」
どうやらこの獣はおうごんちょと顔見知りらしい。――いや、なぜ獣が食堂を?
「た、たぬき……?」
聞き慣れない単語に困惑するトゥレンを、おうごんちょは丁寧に無視した。
「たぬき食堂さんはね、屋台一つで全世界のダンジョンを放浪して回っているさすらいの料理人なんだよ! その料理を一口食べたら、あら不思議! 魔力が1.1倍に増えている!」
「微妙な増え方ですね……」
魔力とやらが何なのか、彼にはまだよくわかっていなかったが、誇らしげに語るには増加率がやたらしょっぱく感じた。
「まあまあ、せっかく来てくれたんですから、一杯どうですか?」
たぬきは愛想よく微笑みかけ、席につくよう促した。
温かなスープの湯気と香りに誘われて、さすがのトゥレンもつい素直に腰を下ろしてしまった。
慣れた動作でたぬきはスープを椀に注ぎ、小さな手でそっと差し出してきた。
中には踊るキノコのような怪しい具材もなさそうに見える。
これなら問題ないだろう。すでに腹が減りすぎている彼は、一瞬のためらいを捨てて椀に口をつけた。
「あっつ……」
慢性胃痛に加えて猫舌の彼は、熱いスープを一気には飲み干せない。
ふうふうと息をふきかけて冷ましつつ、少しずつ嚥下して、ついには椀の中身を空にした。
「はあ……どうも、ごちそうさまです。空腹のせいか、今まで飲んだことのないほどおいしいスープでした」
トゥレンは素直にスープの出来映えを褒めた。
たとえ作っているのが謎の獣でも、具材の来歴が不明でも、今の彼を温め、空腹を満たしてくれたものには礼を述べるべきだろう。その思いが彼に自然と頭を下げさせていた。
彼の故国に、牢屋で出されたパンがこの世で一番うまかったなどと意味不明なことを言う無職の居候がいたが、今ならその気持ちが少しだけわかるような気がした。
「さて、食事も済みましたし、先に進みましょう……か……」
立ち上がった瞬間、トゥレンは体の奥底から突き上げる衝撃に、思わず膝から崩れ落ちた。
「こ……これは……!?」
それは彼にとってもはや生活の一部となった胃痛。――だが、その激しさが尋常ではない。
胃袋を直接手でつかんでねじり上げられているかのような、あまりにひどい苦痛に、彼は地面に倒れ込んで悶絶した。
「い、いったい……何を盛ったんですか……っ」
おうごんちょを信用したわけではない。
というより、この場所で信用できるものなどない。
それでも、ついうまそうな匂いにつられて、怪しげな獣の料理に口をつけたのが過ちだった。
己の失敗を悟り、トゥレンは歯噛みする。
だが、おうごんちょはそんな彼を悠然と見下ろし、にっこりと笑いかけてきた。
「嫌だなあ、トゥレン君。ちゃんと説明聞いてなかった? 一口食べたら魔力は1.1倍なんだよ? 君、ゆっくりスープを飲んでたよね? 二十口だとして、1.1倍の20乗は約6.73。君の魔力は胃痛と連動してるから、つまり胃痛も6倍以上増大してるってわけ」
言っている意味がわからない。
わかりたくもなかった。
ただ、この尋常ならざる胃痛が、獣の作ったスープのせいだということだけはわかった。
「ほらほら、凄い魔力があふれ出てきた! これならラスボス戦も楽勝だね!」
ふざけるな、という叫びはもはや声に出すことができなかった。
薄れゆく意識の中、彼はたぬきの屋台がガラガラと立ち去る音と、誰かが近づく気配を感じ取っていた。
トゥレン君、いよいよラスボスと対峙!?
明日9/18(金)、二話更新&最終回です!
お見逃しなく!!
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