第8話 左足
足音は、戸倉の部屋の前で止まった。
ペタ。
それきり。
美琴は廊下へ出た。
誰もいない。
「また配管ですよね」
そう言いながら床を見る。
そこで動きが止まった。
濡れている。
廊下の突き当たり。
一つ。
二つ。
三つ。
裸足の足跡が続いていた。
森岡が遅れてやって来る。
「え……?」
美琴はしゃがみ込んだ。
足跡は小さい。
おそらく女性。
だが、もっと奇妙なことがあった。
右足がない。
左足だけ。
一定の間隔で、
濡れた左足の跡だけが廊下に続いている。
ぺたり。
少し先。
ぺたり。
「片足で跳ねたってことですか?」
森岡が聞く。
「そんな歩き方する?」
「しないですよね」
久世が近づいた。
足跡には触れない。
床。
壁。
天井。
順番に確認していく。
「誰も踏まないでください」
その声を聞いて、戸倉が部屋から出てきた。
そして足跡を見た。
口が開いた。
「……まだ」
「戸倉先生?」
「まだ残ってたのか」
美琴が立ち上がる。
「何がです?」
戸倉はすぐに首を振った。
「何でもない」
「今、『まだ残ってた』って」
「知らない」
「この足跡、知ってるんですか?」
「知らない!」
突然の大声。
森岡がびくっとする。
戸倉は自分でも驚いたようだった。
「……すみません」
久世は戸倉を見つめていた。
「二十四年前にも、似た足跡を見ましたか?」
戸倉の顔が固まる。
「何を言ってるんです」
「質問です」
「見てません」
「ではなぜ、『まだ残ってた』と?」
「言ってない」
「私も聞きました」
美琴が言う。
戸倉は美琴を睨んだ。
その目には怒りより恐怖の方が強かった。
「聞き間違いだ」
そう言って部屋へ戻り、
乱暴に扉を閉めた。
久世は何も言わなかった。
足跡は、零号室から始まっていた。
正確には、
零号室の扉の内側。
濡れた左足の跡が、
部屋を出て、
廊下を進み、
階段を上がり、
二階へ続いている。
そして、
戸倉の部屋の前で終わっていた。
「分かりやすすぎません?」
森岡が言う。
「何が?」
「幽霊だったら。戸倉先生狙ってますって言ってるようなもんですよ」
「だからって喜ばないの」
「喜んでないです」
久世は小さな温湿度計を床近くに置いた。
「今朝、清掃した人は?」
「してません」
美琴が答える。
「昨日の撮影後から誰も」
「雨漏りは」
三枝が床を見ながら言う。
「ここはしてない」
「配管?」
「この辺には通ってない」
三枝が不機嫌そうに久世を見る。
「今度は俺のせいじゃねえぞ」
「責めてません」
久世は足跡の一つを綿棒で採取した。
佐伯が階段の途中から見ている。
美琴は声をかけた。
「佐伯さん」
「何?」
「この足跡、昔もあったんですか?」
佐伯の表情が一瞬だけ止まる。
「どうして?」
「戸倉先生が、まだ残ってたって」
「聞き間違いじゃない?」
「そうでしょうか」
佐伯は足跡を見下ろした。
「昔のことなんて、もうあまり覚えてないわ」
そう言ったあと、
ぽつりと続けた。
「覚えてても、いいことないし」
午後。
久世は足跡を調べ続けていた。
液体はほぼ水。
特別な薬品は検出されない。
「誰かがつけた可能性は?」
美琴が聞く。
「当然あります」
「でも片足だけ」
「作ろうと思えば作れます」
「先生なら?」
久世が美琴を見る。
「私なら、もっと自然に作ります」
冗談なのか本気なのか分からなかった。
美琴は笑わなかった。
「じゃあ、何なんですか」
「まだ調査中です」
また、
まだ。
美琴はその言葉に慣れていなかった。
夜。
戸倉は夕食にもほとんど手をつけなかった。
途中で突然、佐伯に言った。
「明日の朝、山を下ります」
「道、崩れてるのよ」
「歩いてでも」
「危ないわ」
「ここにいる方が危ない」
片桐が低い声で言う。
「戸倉」
「何です」
「落ち着け」
「あなたは平気なんですか」
片桐が眉を寄せる。
戸倉が笑う。
「そうですよね。あなたは平気ですよね」
「何が言いたい」
「別に」
戸倉は椅子から立った。
そのまま食堂を出ていく。
佐伯が追おうとした。
美琴は何となく、
「私が行きます」
と言った。
廊下。
「戸倉先生」
追いつく。
戸倉は振り返らない。
「少し話せませんか」
「取材ですか」
「カメラなしで」
そこで戸倉が止まった。
「どうしてあの足跡を見て、あんなこと言ったんです?」
「しつこいですね」
「気になるんです」
「好奇心で首を突っ込まない方がいい」
「二十四年前の事故と関係あるんですか?」
戸倉が振り返った。
「事故」
その言葉だけを繰り返す。
「そう聞いています」
「誰から?」
「片桐先生からも、資料でも」
戸倉は笑った。
「事故ね」
「違うんですか?」
沈黙。
やがて戸倉は、
「神崎さん」
と言った。
「はい」
「幽霊って、いると思います?」
「分かりません」
「昨日までなら?」
「いないと思ってました」
「今は?」
美琴は答えなかった。
戸倉は壁にもたれた。
「俺もですよ」
「え?」
「二十四年前まで、そんなもん信じてなかった」
美琴の胸がざわつく。
「二十四年前に何を見たんです?」
戸倉の唇が動く。
しかし声は出なかった。
そのとき。
廊下の奥。
ペタ。
戸倉の顔が凍った。
美琴も見る。
床には何もない。
ペタ。
音だけ。
配管。
そう思った。
けれど今いる場所は、
三枝が配管は通っていないと言っていた場所だった。
ペタ。
戸倉が後ずさる。
「来る」
「戸倉先生?」
「また来る」
「誰が」
戸倉は美琴の腕を掴んだ。
痛いほど強く。
「明日、絶対にここを出る」
「先生」
「あなたも出た方がいい」
その目は、
冗談を言っている人間の目ではなかった。




