第6話 零号室
きっかけは、古い図面だった。
午後四時過ぎ。
美琴は一階の資料室で、番組に使えそうな資料を探していた。
埃の積もった棚。
研究報告書。
人事記録。
建物の設計資料。
「これ、使えそう」
美琴は一枚の平面図を机に広げた。
二十四年前の地下階。
実験室がいくつも並んでいる。
だが、現在の地下を歩いた美琴には違和感があった。
「ここ……」
図面の端。
廊下の長さが合わない。
現在の地下には、図面より数メートル長い壁がある。
美琴は図面を持って地下へ降りた。
突き当たり。
壁。
懐中電灯を当てる。
塗装の色が一部分だけ違う。
近づく。
縦に細い隙間。
扉だった。
取っ手はない。
上を見る。
薄汚れたプレート。
何か書いてある。
指で埃を拭う。
数字が現れた。
「0」
背後で足音がした。
美琴は振り返る。
片桐だった。
「何をしている」
強い声。
「図面を見ていたら、この先が」
「そこはいい」
片桐が言った。
「え?」
「撮影する必要はない」
「でも、図面には載ってません」
「昔の物置だ」
片桐の顔色が悪い。
「開けないでくれ」
美琴は少し驚いた。
「何かあるんですか?」
「ない」
「だったら」
「ないからだ」
片桐はそれだけ言って立ち去った。
入れ替わるように佐伯が現れた。
「怒られた?」
「少し」
美琴は扉を指す。
「ここ、何だったんですか」
佐伯の目が扉へ向いた。
ほんの一瞬。
笑顔が消えた。
「さあ」
「佐伯さんも知らない?」
「二十四年も前だからね」
再び微笑む。
だが今度は、少し無理をしているように見えた。
その日の夕食。
美琴は久世に聞いた。
「零号室って知ってますか?」
フォークを持つ手が止まる。
「どこでその名前を?」
「地下に0って書いてある扉があって」
久世は片桐を見る。
片桐は食事を続けている。
「古い研究資料に、一度だけ出てきます」
「何の部屋です?」
「分かりません」
「先生でも?」
「研究所の正式図面にはありません」
久世は水を飲んだ。
「明日、調べてみましょう」
午後十一時。
雨が降り出した。
窓を叩く雨音。
遠くで雷。
美琴は割り当てられた旧職員室で撮影メモを整理していた。
廊下から足音。
ペタ。
ペタ。
もう怖くない。
配管だ。
思わず笑った。
久世の顔が浮かぶ。
答えのない怪異などない。
午前一時四十分。
眠ろうと思ったとき、
ドアが激しく叩かれた。
「神崎さん!」
森岡。
美琴はドアを開ける。
「どうしたの?」
「地下です」
「何が?」
森岡の顔から血の気が引いていた。
「電話が鳴ってます」
「電話?」
「零号室の」
美琴は森岡と地下へ向かった。
階段を降りる途中から聞こえてきた。
ジリリリリ。
美琴の足が止まる。
ジリリリリ。
古い電話特有のベル音。
「誰が?」
「分かりません」
零号室の前には、
久世。
片桐。
戸倉。
三枝。
佐伯。
全員がいた。
扉は開いていた。
どうやって開けたのかは分からない。
中は小さな実験室だった。
机。
椅子。
観察窓。
そして、
灰色の電話機。
ジリリリリ。
片桐が呟いた。
「ありえない」
久世が聞く。
「どうしてです?」
片桐は答えなかった。
三枝が電話を見ている。
「線は死んでる」
「確認しましたか」
「二十四年前に切った」
ジリリリリ。
誰も近づかない。
久世が部屋へ入った。
机の裏を見る。
電話線を確認する。
壁。
床。
受話器。
いつものように淡々と調べる。
美琴は少し安心した。
きっと今回も、
何か理由がある。
久世なら見つける。
ジリリリリ。
久世が受話器へ手を伸ばす。
その瞬間。
「待って」
佐伯だった。
全員が振り返る。
佐伯は自分でも声を出したことに驚いたようだった。
「……ごめんなさい」
「どうしました?」
久世が聞く。
「何でもない」
佐伯は一歩下がった。
久世が受話器を取った。
ベルが止まる。
静寂。
「もしもし」
何も聞こえないようだった。
「……」
久世の表情が変わらない。
美琴は、その顔を見ていた。
十秒。
二十秒。
「先生?」
久世が受話器を置いた。
「何か聞こえました?」
森岡が聞く。
久世は電話を見た。
「いいえ」
三枝。
「だから何かの故障だろ」
久世は答えない。
電話機を裏返す。
再び線を調べる。
壁の接続部分も見る。
五分。
十分。
十五分。
いつもより長い。
美琴は次第に不安になった。
「先生」
久世が振り向く。
「何でしょう」
「原因、分かりました?」
短い沈黙。
「まだです」
美琴は初めて聞いた。
久世冬馬の口から、
その言葉を。
そのとき。
ジリリリリ。
電話が再び鳴った。
全員が凍りついた。
久世は触っていない。
受話器は台の上。
ジリリリリ。
そして、
壁の時計が、
午前二時十七分を示した。
戸倉が小さく息を飲んだ。
佐伯は電話を見たまま動かない。
片桐の唇が震えていた。
三枝だけが、
「馬鹿な」
と呟いた。
久世が受話器を取る。
今度は、
スピーカー機能に切り替えた。
ザ――。
激しい雑音。
美琴は机に近づいた。
ザザ――。
誰も話さない。
やがて、
雑音の奥から、
女の声がした。
『……と……』
美琴は聞き取れなかった。
久世が電話を見る。
『……くら……』
戸倉の顔から、
血の気が消えた。
『……戸倉さん』
受話器の向こうで、
女が、
はっきり名前を呼んだ。
戸倉が後ずさる。
「違う」
全員が戸倉を見る。
「戸倉先生?」
「俺じゃない」
誰も何も聞いていない。
それでも戸倉は、
何かに弁解するように首を振った。
「俺は何もしてない」
電話が切れた。
ツ――。
ツ――。
静まり返った零号室で、
久世冬馬だけが、
戸倉を見ていた。




