第35話 誰もいなくなった研究所
佐伯が研究所を出たあと。
怪異は、
止まった。
一時間。
二時間。
夜。
電話は鳴らない。
壁から声も聞こえない。
白い女も出ない。
気温も下がらない。
零号室は、
ただの古い部屋になった。
美琴は、
それが一番不思議だった。
あれほど怖かった場所なのに。
人間がいなくなった途端、
何も感じない。
「終わったんでしょうか」
森岡が言った。
研究所の玄関。
外は久しぶりに晴れている。
「たぶん」
美琴は答えた。
本当は、
そう言い切る自信がなかった。
◇
三枝も、
すべて警察へ話すと言った。
二十四年前の不正実験。
明日香の死。
事故偽装。
自分がしたこと。
「今さらだがな」
三枝が言う。
美琴は何も言わなかった。
遅い。
二十四年。
久世から姉を奪った時間は、
戻らない。
でも。
何も話さないよりは、
ましなのかもしれない。
分からなかった。
◇
久世も、
警察から長く事情を聞かれていた。
怪異の偽造。
無断で設備を改変したこと。
関係者へ心理的な刺激を与えたこと。
本人も、
すべて認めている。
夕方。
研究所の外で、
美琴と二人になった。
「これからどうなるんですか」
「分かりません」
「研究者として」
久世が少し笑った。
「少なくとも、これまで通りではいられないでしょうね」
「後悔してます?」
久世は、
すぐには答えなかった。
「姉の死の真相を知ったことは」
「はい」
「後悔していません」
「怪異を作ったことは?」
沈黙。
「しています」
美琴は久世を見る。
「意外」
「そうですか」
「先生なら、『必要だった』とか言うかと思いました」
「実際、必要だと思っていました」
「今は?」
久世は研究所を見る。
「神崎さんに言われたことが残っています」
「私?」
「二十四年前の研究所と何が違うのか」
美琴は覚えていた。
「答え、出ました?」
「いいえ」
「先生でも?」
「ええ」
少しだけ、
以前の久世に戻ったように見えた。
答えのないものを、
答えがないと言う男。
ただ。
以前とは違う。
美琴はもう、
その言葉を無条件には信じない。
それでいいと思った。
◇
午後六時。
警察から連絡が入った。
佐伯について。
正式な手続きが進められている。
そして。
「少し妙なことを言っている」
松永が言った。
「妙なこと?」
美琴。
「誰もいないところを見て話すんです」
久世の表情が変わる。
「何と?」
「最初は意味が分からなかった」
松永の声。
「『立ってる』とか」
美琴の背中に、
嫌な感覚が戻ってくる。
「誰が?」
「本人は言わない」
「精神的に不安定なんじゃ」
美琴が言う。
「こちらもそう考えています」
当然だ。
二十四年間隠していたことを話した。
二人の死亡について追及されている。
極度のストレス。
罪悪感。
幻覚が起きても、
不思議ではない。
久世が聞く。
「他には?」
電話の向こうで、
松永が少し黙った。
「電話が鳴るって」
美琴は、
無意識に久世を見る。
「電話?」
「留置室に電話なんてないんですけどね」
「何時ですか」
久世の質問。
松永。
「何が?」
「佐伯さんが、電話が鳴ると言う時刻です」
数秒。
嫌な予感。
そして。
「二時十七分」
美琴の指が、
冷たくなった。
◇
その夜。
美琴たちは研究所を出た。
番組の撮影は当然中止。
映像も、
すぐに公開できるものではない。
車。
山道。
白鐘研究所が、
後ろへ小さくなっていく。
森岡が、
「もう二度と来たくないです」
と言った。
美琴も同じだった。
でも。
振り返った。
四階。
一番右端の窓。
最初の日。
白い女を見た場所。
今は、
誰もいない。
美琴は前を向いた。
◇
午前二時十七分。
佐伯真由は、
留置室の隅を見ていた。
監視カメラには、
そう記録されていた。
部屋には、
佐伯しかいない。
職員が声をかけても、
最初は返事をしなかった。
佐伯の視線。
入口。
壁際。
少し右。
ベッドの横。
そして。
ゆっくり。
自分の目の前へ移動する。
まるで。
誰かが、
歩いて近づいてきたように。
佐伯の口が動いた。
音声には、
最初の言葉が小さすぎて残らなかった。
二度目。
今度は聞こえた。
「……明日香?」
職員が、
「佐伯さん?」
と呼ぶ。
佐伯は反応しない。
目の前の、
何もない空間だけを見る。
「違う」
誰かに答える。
「違うの」
沈黙。
数秒。
佐伯の顔色が変わる。
「それ……」
後ろへ下がる。
「どうして知ってるの?」
壁まで。
もう下がれない。
「それは」
声が震える。
「冬馬にも言ってない」
職員が扉へ近づく。
佐伯が、
突然首を横に振る。
「やめて」
「やめて、明日香」
そして。
聞き取れるほど、
はっきり言った。
「あなた、あの子には言わないって言ったでしょう」
誰もいない。
何もいない。
監視カメラにも、
佐伯以外、
何も映っていない。
それでも佐伯は、
目の前に立つ誰かを見上げる。
涙が流れる。
「違う」
「私は」
「私は、そんなつもりじゃ」
そして。
最後に。
二十四年間、
一度も言えなかった言葉を、
ようやく口にした。
「ごめんなさい」
その瞬間。
監視映像が、
一秒だけ乱れた。
砂嵐。
復旧。
職員の叫び声。
佐伯は、
床に倒れていた。




