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怪異認定  作者: asnt2026


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36/36

第36話 怪異認定

佐伯真由が死亡した。


その連絡を受けたのは、


翌朝だった。


美琴はほとんど眠れていなかった。


ホテルのベッド。


閉め切ったカーテン。


消していない照明。


午前七時十二分。


スマートフォンが鳴ったとき、


一瞬だけ身体が固まった。


もう、


電話の音そのものが嫌いになっていた。


画面には、


久世冬馬。


美琴は数秒迷ってから出た。


「はい」


『神崎さん』


声はいつもと変わらない。


「どうしました?」


電話の向こうで、


短い沈黙。


『佐伯さんが亡くなりました』


美琴は起き上がった。


「……いつですか」


『昨夜です』


「二時十七分?」


また、


沈黙。


それだけで答えが分かった。


「原因は?」


『まだ詳しくは』


久世が言葉を選ぶ。


『現時点では、急性の心停止と聞いています』


「誰かに何かされたとか」


『その痕跡はないそうです』


「毒物は?」


『これから調べるでしょう』


美琴は、


昨夜聞いた話を思い出す。


誰もいない留置室。


何もない場所を見ていた佐伯。


明日香。


どうして知ってるの。


冬馬にも言ってない。


そして。


ごめんなさい。


「先生」


『はい』


「佐伯さんは、何を見たと思います?」


電話の向こうが静かになる。


久世なら、


いつもの言葉を返す。


幻覚。


強いストレス。


罪悪感。


睡眠不足。


人間の知覚。


そう思った。


だが。


『分かりません』


それだけだった。



数日後。


佐伯の死について、


警察から補足があった。


致命的な外傷なし。


明確な毒物反応なし。


第三者が留置室へ侵入した形跡なし。


最終的な医学的判断は、


致死性不整脈による突然死の可能性が高い。


異常ではない。


起こり得る。


強い心理的負荷が、


引き金になった可能性も否定できない。


説明はできる。


少なくとも、


「幽霊に殺された」


などと考える必要はない。


美琴は、


そう思った。


思うことにした。



警察から、


佐伯の最後の監視映像を確認してほしいと言われた。


理由は、


美琴たちが白鐘研究所で撮影していた映像との比較だった。


小さな会議室。


美琴。


久世。


松永。


モニター。


再生。


午前二時十六分五十二秒。


佐伯が起きる。


壁を見る。


二時十七分。


視線が動き始める。


入口。


壁際。


ベッド横。


そして、


目の前。


「……明日香?」


何度見ても、


そこには誰もいない。


佐伯だけ。


松永が言う。


「典型的な幻視と考えても不自然ではないそうです」


久世が頷く。


「そうでしょうね」


美琴は久世を見る。


ずいぶん簡単に答えた。


「先生もそう思います?」


「その可能性が最も高いでしょう」


映像。


佐伯が後退する。


「それ……どうして知ってるの?」


「冬馬にも言ってない」


久世の表情は変わらない。


美琴は、


その横顔を見る。


聞きたい。


何を。


明日香は、


冬馬に何を言わないと約束したのか。


でも。


聞けなかった。


久世自身、


知らない。


佐伯はもういない。


答えを知る人間も、


おそらくいない。


映像が続く。


「あなた、あの子には言わないって言ったでしょう」


佐伯が泣く。


「ごめんなさい」


砂嵐。


一秒。


映像復旧。


倒れる。


松永が停止した。


「このノイズも調べました」


「原因は?」


美琴が聞く。


「カメラ側の記録エラーの可能性が高いそうです」


「ちょうど倒れた瞬間に?」


「偶然は起こります」


その言葉。


久世が何度も言ってきたことに似ていた。


美琴はモニターを見る。


「もう一回お願いします」


松永が再生する。


美琴は、


佐伯ではなく、


別の場所を見た。


金属製の小さな鏡。


壁の端。


洗面用なのか、


監視カメラの画角ぎりぎりに映っている。


午前二時十七分。


佐伯が何もない場所を見る。


鏡。


美琴は目を細めた。


「止めてください」


停止。


「ここ」


指を差す。


鏡の表面。


白いもの。


縦長。


人の肩にも見える。


女性にも。


ただの光にも。


「拡大できます?」


拡大。


粗くなる。


白い輪郭。


それだけ。


久世が画面へ近づいた。


松永。


「何です?」


美琴。


「人みたいに見えませんか」


松永も見る。


「……言われれば」


美琴は久世を見る。


「先生」


久世は数秒、


映像を見ていた。


「圧縮ノイズです」


あまりにも早い答えだった。


「本当に?」


久世は答えなかった。


「先生?」


「元映像が粗すぎます」


「でも」


「これ以上拡大しても、情報量は増えません」


正しい。


科学的には、


正しい。


それでも。


美琴には、


なぜか気になった。


白い形。


肩まで伸びた、


黒い髪があるようにも見える。


もちろん。


そう見ようとしているから、


そう見えるだけなのかもしれない。


人間は、


足りない情報を、


自分の知っている形へ補う。


久世が最初に教えたことだった。


美琴は、


それ以上何も言わなかった。



白鐘知覚研究所は、


予定より早く解体されることになった。


不正研究。


二十四年前の事故偽装。


二人の死亡事件。


久世による怪異偽装。


残す理由などない。


映像制作会社にも、


警察から返却された機材が順番に戻ってきた。


撮影した素材は、


当面公開しないことになった。


番組にするのか。


ドキュメンタリーにするのか。


それとも、


永久に封印するのか。


誰も決められなかった。


美琴自身、


決めたくなかった。



研究所解体の前日。


最後に一度だけ、


美琴は白鐘へ戻った。


警察から、


撮影機材の回収漏れが一台あると連絡があったからだった。


久世も同行した。


森岡は、


「絶対行きません」


と言った。


当然だと思った。


山道。


晴天。


以前とはまるで違う。


建物も、


昼間に見るとただ古いだけだった。


玄関。


廊下。


地下。


誰もいない。


足音は、


自分たちのものだけ。


零号室。


規制線は撤去されていた。


電話機もない。


投影設備もない。


隠し操作盤も外されている。


白い部屋。


何もない。


美琴は入口で立ち止まった。


「こんな部屋だったんですね」


久世が見る。


「何がです?」


「もっと怖い場所だと思ってた」


今は、


狭い。


古い。


薄汚れている。


それだけ。


「人間って勝手ですね」


美琴が言った。


「何がです?」


「電話が鳴っただけで怖くなる」


壁から声がしただけで。


白い影が映っただけで。


専門家が、


「説明できない」


と言っただけで。


世界に幽霊がいる気がした。


「先生」


「はい」


「一番怖かった仕掛けって何だったと思います?」


「どれでしょう」


「違います」


美琴は久世を見る。


「先生ですよ」


久世の眉が僅かに動く。


「私?」


「久世冬馬が原因を説明できないって言ったこと」


久世は黙る。


「先生が幽霊を信じさせたんです」


「……そうかもしれません」


「みんな、先生を信じてたから」


しばらく、


誰も話さなかった。


美琴は零号室を見る。


「怪異って」


「はい」


「幽霊がいなくても作れるんですね」


久世は答える。


「人が怪異だと思えば」


短い間。


「成立してしまうことはあります」


「じゃあ怪異って、人間の中にある?」


「それは哲学の領域ですね」


美琴は少し笑った。


「逃げましたね」


「専門外です」


以前なら、


もっと腹が立ったかもしれない。


今は少しだけ、


久世らしいと思った。



回収する機材は、


零号室奥の旧収納棚に残っていた小型録音機だった。


森岡の管理番号。


撮影初日に、


環境音を長時間録るため設置したもの。


途中で別の録音機へ切り替え、


そのまま忘れられていたらしい。


美琴が手に取る。


「まだデータ残ってますかね」


「確認してみましょう」


ノートパソコンへ接続。


ファイル。


最後の録音日時。


佐伯が逮捕された翌日。


つまり。


研究所から全員が出たあと。


美琴は眉を寄せる。


「これ、録音止め忘れてた?」


「バッテリー式ならあり得ます」


再生。


無音。


サー。


空調も止まった研究所。


ほとんど何も入っていない。


美琴は再生位置を飛ばした。


十分。


十五分。


二十分。


無音。


「何もないですね」


久世が言う。


「そうですね」


二十五分。


二十八分。


二十九分。


画面。


時刻表示。


午前二時十六分。


美琴の手が止まった。


「先生」


「……続けてください」


二時十六分五十九秒。


無音。


二時十七分。


ザ――。


微かなノイズ。


美琴と久世が、


同時に画面を見る。


「何か入ってる」


音量を上げる。


ザザ――。


息?


風?


判別できない。


そして。


女の声。


小さい。


あまりにも小さい。


『……冬馬』


久世の身体が、


完全に止まった。


美琴も、


動けなかった。


録音は続く。


数秒。


女。


『もう、いいよ』


それだけ。


再び、


無音。


美琴は再生を止めた。


部屋から、


すべての音が消えたようだった。


「……先生」


久世は画面を見たまま動かない。


美琴は、


すぐには聞けなかった。


やがて。


「これも」


喉が乾く。


「先生が作ったんですか?」


久世の顔が、


ゆっくり美琴へ向く。


「何の話です?」


一瞬。


意味が分からなかった。


「この音声」


「私は知りません」


「でも」


久世は録音機を見る。


手を伸ばす。


触れない。


指先だけが、


僅かに震えていた。


美琴は見た。


「声」


「……」


「明日香さんですか?」


「判別できません」


いつもの答え。


でも。


声が違う。


美琴は再び再生しようとした。


久世が、


「やめてください」


と言った。


強い声ではない。


むしろ。


弱かった。


美琴の手が止まる。


「先生?」


長い沈黙。


久世は、


録音機を見つめたまま言った。


「そのファイル」


「はい」


「消してください」


美琴は、


久世を見た。


「どうして?」


久世は、


すぐには答えなかった。


窓のない零号室。


二十四年前。


姉が死んだ場所。


幽霊を否定してきた男。


幽霊を作った男。


幽霊を利用して、


真実を暴こうとした男。


その久世冬馬が。


目の前のたった数秒の音声だけを、


調べようとしない。


「先生なら」


美琴が言った。


「解析するんじゃないんですか」


「しません」


「ノイズかもしれない」


「ええ」


「混線かもしれない」


「そうですね」


「誰かが入れた可能性も」


「あります」


「だったら」


「神崎さん」


久世が、


美琴を見る。


その目には、


科学者の顔がなかった。


ただ。


二十四年前に姉を失った、


弟がいた。


「科学的価値がありません」


美琴は、


何も言えなかった。


嘘だった。


きっと。


久世自身も、


分かっている。


原因不明の音声。


無人。


無電源に近い研究所。


午前二時十七分。


亡くなった姉の名前ではなく、


弟の名前を呼ぶ女の声。


久世冬馬なら、


本来。


何年でも追いかけるはずだった。


それを。


調べない。


美琴はファイルを消さなかった。


でも、


もう一度再生もしなかった。


パソコンを閉じる。


録音機を鞄へ入れる。


二人で零号室を出る。


久世が最後に照明を消した。


暗闇。


扉を閉める。


カチ。


それだけだった。


電話は鳴らない。


声もしない。


三回のノックもない。


白い女も出ない。


何も起きなかった。



翌日。


旧・白鐘知覚研究所は、


解体された。


零号室も。


隠し通路も。


観察窓も。


二十四年前の設備も。


すべて壊された。


その後、


怪異が起きたという報告はない。


少なくとも。


美琴の知る限りでは。



映像制作会社へ戻った美琴は、


企画書の最後の欄を長い間空白にしていた。


取材対象における怪異の有無


最初なら、


「なし」


と書いた。


途中なら、


間違いなく、


「あり」


と書いた。


今なら。


美琴はペンを持つ。


考える。


戸倉を殺したのは、


幽霊ではない。


片桐を追い詰めたのも、


幽霊ではない。


廊下を歩いた女も。


三回の音も。


冷たい部屋も。


名前を呼んだ声も。


そのほとんどが、


人間によって作られた。


だから。


答えは簡単なはずだった。


美琴は、


「怪異なし」


と書こうとした。


そのとき。


机の引き出し。


中に入れていた録音機が、


小さく鳴った。


カチ。


美琴の手が止まる。


見つめる。


何も起きない。


ただの機械音。


電池。


接触。


いくらでも説明できる。


美琴は、


ゆっくり息を吐いた。


企画書へ視線を戻す。


そして。


最後の欄に、


一文字ずつ書いた。


認定不能


ペンを置く。


窓の外。


夕暮れ。


ガラスに、


美琴自身の姿が映っている。


その後ろには、


誰もいない。


美琴は、


振り返らなかった。


――完

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