第31話 壁の奥
コン。
一回。
コン。
二回。
そして、
三回。
音が止まった。
美琴は動けなかった。
隣にいる久世も、
壁から目を離さない。
もう装置はない。
警察が回収した。
久世が使っていた振動装置も、
音響機器も、
制御端末も。
それなのに。
三回。
「三枝さん」
久世が呼んだ。
返事がない。
振り返る。
三枝は少し離れた場所で、
壁を見ていた。
顔色が変わっている。
「どうしました?」
美琴が聞く。
三枝は答えない。
「三枝さん?」
「そこじゃねえ」
「え?」
三枝が壁へ近づいた。
久世が聞く。
「何がです?」
「音の場所だ」
三枝は耳を澄ませる。
「昔の梁じゃない」
「じゃあ?」
三枝が懐中電灯を奪うように取り、
壁の下を照らした。
床。
古い巾木。
その先。
何もないように見える。
だが三枝は、
「まだあったのか」
と呟いた。
美琴の心臓が強く鳴る。
まただ。
この研究所では、
誰かがそう言うたびに、
隠されていたものが出てくる。
「何があるんです?」
「防音区画」
「防音?」
「昔、音響実験の測定に使ってた」
三枝が壁を指でなぞる。
「零号室の裏に、小さい部屋がある」
久世が見る。
「設計資料には」
「ない」
「また?」
美琴が言う。
三枝は苦い顔をした。
「だから零号区画なんだよ」
松永が警察官を呼ぶ。
床と壁を調べる。
数分後。
一人が、
「ここです」
と声を上げた。
壁の一部。
塗装で完全に隠されている。
細い継ぎ目。
工具を入れる。
すぐには開かない。
二人。
三人。
金属が擦れる音。
そして。
ギィ。
壁の一部が、
扉のように開いた。
中から、
冷たい空気。
臭い。
美琴は反射的に鼻を押さえた。
何の臭いか、
すぐには分からなかった。
でも。
森岡の顔を見て、
分かった。
誰も言わない。
松永が、
「皆さん下がって」
と手を上げる。
懐中電灯が、
暗い部屋の中を照らした。
床。
古い吸音材。
倒れた椅子。
さらに奥。
人の足。
美琴の呼吸が止まった。
黒いズボン。
靴はない。
「下がって!」
警察官の声。
美琴は一歩後ろへ下がった。
それ以上、
見たくなかった。
けれど、
目を逸らせなかった。
光が上へ動く。
身体。
腕。
顔。
戸倉雅人だった。
◇
それからの時間を、
美琴はあまり覚えていない。
警察官が増えた。
規制線。
写真。
会話。
無線。
誰かが美琴を一階へ連れていった。
森岡が水を渡した。
「大丈夫ですか」
「……たぶん」
水を飲む。
味がしない。
戸倉は消えたのではなかった。
ずっと、
研究所の中にいた。
壁一枚。
その向こうに。
「幽霊じゃなかった」
美琴が呟く。
森岡は答えなかった。
安心する言葉のはずだった。
なのに。
全然、
安心できなかった。
◇
夕方。
松永が説明した。
「詳しいことは司法解剖を待つ必要があります」
美琴。
「いつ亡くなったんですか」
「現時点では断定できません。ただ、行方不明になった夜から大きくは離れていないと思われます」
「殺された?」
「その可能性も考えています」
久世が聞く。
「外傷は?」
松永が一瞬迷う。
「頭部に傷があります」
美琴は顔を上げた。
「転んだとか?」
「可能性はあります」
「誰かに?」
「今は何とも」
戸倉が、
あの狭い防音室へ自分から入ったとは考えにくい。
でも、
絶対ではない。
「靴は?」
美琴が聞く。
「零号室前にあったものとの照合中です」
「やっぱり戸倉先生の?」
「サイズなどは一致します」
森岡が呟く。
「じゃあ、誰かが靴だけ置いた」
松永は答えない。
それも、
警察がこれから調べることなのだろう。
久世は静かだった。
「先生」
美琴が呼ぶ。
「はい」
「この部屋、知ってました?」
「知りませんでした」
一瞬、
疑ってしまった。
以前までなら信じたと思う。
今は、
久世が何を言っても、
まず一度疑ってしまう。
久世自身も、
それが分かっているようだった。
「疑って構いません」
「……聞こえてました?」
「顔に出ています」
美琴は何も言えなかった。
◇
日が落ちる前。
三枝が美琴を呼んだ。
「神崎」
窓際。
警察から離れた場所。
「何です?」
「戸倉があそこに入ったなら」
三枝が声を落とす。
「裏からだ」
「裏?」
「防音室には、実験側と保守側に扉がある」
「保守通路から?」
「ああ」
「じゃあ、誰かが戸倉先生を連れて」
「分からねえ」
「三枝さん」
「俺じゃねえぞ」
美琴は黙る。
三枝が苦笑した。
「もう、その言葉言うと怪しく聞こえるな」
その通りだった。
「でもな」
三枝は笑わなくなる。
「戸倉は誰かを信じて入ったんだと思う」
「どうして?」
「あいつ、怖がってただろ」
美琴は思い出す。
明日の朝。
全部話す。
研究所から出る。
そんな戸倉が、
深夜。
一人で。
怪異が起きている地下の、
さらに壁の奥へ入るだろうか。
「信じてる人に呼ばれた?」
「たぶんな」
美琴の頭に、
何人かの顔が浮かぶ。
片桐。
三枝。
久世。
佐伯。
そのとき。
三枝が、
「そういえば」
と言った。
「何です?」
「あの夜も、そうだった」
「?」
「明日香が死んだ夜」
美琴の身体が固まる。
三枝は、
遠いものを見るような目をしていた。
「最後まで残った奴がいた」
「零号室の前に?」
「ああ」
「誰です?」
三枝はしばらく答えなかった。
そして。
「佐伯だ」
と、
はっきり言った。




