第3話 誰もいない廊下
最初の夜。
午後十一時四十分。
美琴は二階の廊下で森岡と撮影を続けていた。
照明は最小限。
あえて暗さを残す。
怪奇番組の定番だった。
「もう少し右」
「こうですか?」
「うん」
カメラの先には長い廊下。
突き当たりまで二十メートルほどある。
左右には古い研究室。
壁の塗装はところどころ剥がれ、床には黒い染みが残っていた。
「雰囲気は満点ですね」
森岡が言う。
「そういうこと言うと出るよ」
「やめてください」
「怖いんじゃん」
「怖くないですって」
そのとき。
ペタ。
二人とも黙った。
「……今、何か言いました?」
「言ってない」
ペタ。
廊下の奥。
美琴はそちらを見る。
誰もいない。
ペタ。
ペタ。
湿った裸足で歩くような音だった。
こちらへ近づいてくる。
森岡がカメラを構える。
「撮れてます」
ペタ。
廊下の中ほど。
ペタ。
近づいている。
美琴は動かなかった。
頭では誰かが歩いているだけだと思おうとした。
だが、
見えない。
音だけが近づいてくる。
ペタ。
五メートル。
ペタ。
三メートル。
森岡の呼吸が荒くなる。
「神崎さん……」
ペタ。
目の前。
そこで止まった。
廊下には、
誰もいない。
美琴は唾を飲み込んだ。
「……久世先生を呼んで」
三十分後。
久世は廊下の床にしゃがんでいた。
片桐たちも集まっている。
「聞こえたんですよ。本当に」
森岡が必死に説明する。
「歩いてきました。あそこからここまで」
「なるほど」
久世は壁に耳を当てた。
しばらくして立ち上がる。
「三枝さん」
「何だ」
「この建物、温水管はどこを通っています?」
三枝が天井を見る。
「壁沿いだな。昔は暖房用だった」
「まだ水は?」
「一部残ってる。全部抜くのは面倒だったからな」
久世は壁を軽く叩いた。
コン。
数秒。
ペタ。
森岡が目を見開いた。
久世がもう一度叩く。
コン。
ペタ。
「ウォーターハンマーに近いですね」
「ウォーター?」
「配管内の圧力変化です。古い配管が温度差で伸縮して、固定具と接触する。その振動が壁を伝わっている」
久世は廊下を歩きながら何か所か叩いた。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
さっきと同じだ。
「人間の脳は規則性のある音を、知っている音に当てはめます」
久世が森岡を見る。
「ここが廃研究所ではなく、昼間のオフィスだったら」
「……足音とは思わない?」
「たぶん」
森岡が大きく息を吐いた。
「よかった……」
三枝が笑った。
「だから幽霊なんかいねえって言っただろ」
片桐も鼻で笑う。
戸倉だけは笑っていなかった。
美琴はそれに気づいた。
戸倉は廊下の奥を見ていた。
何もない場所を。
「戸倉先生?」
声をかけると、肩が跳ねた。
「何です?」
「いえ……」
「ただの配管でしょう」
戸倉はそう言って、自分の部屋へ戻っていった。
その背中を見送りながら、美琴は妙な違和感を覚えた。
音の正体が分かったことに、
安心したようには見えなかった。




