第2話 幽霊を信じない男
山道に入ってから、一台の車ともすれ違っていない。
窓の外には杉林が続いていた。
八月だというのに、空はひどく暗い。
神崎美琴は助手席からスマートフォンを確認した。
圏外。
「本当にこんなところで撮影するんですか」
後部座席から声がした。
撮影助手の森岡だった。
「もう戻れないよ」
運転しているディレクター補佐の小西が笑う。
「今日から四泊。幽霊と共同生活」
「やめてくださいよ」
「森岡、そういうの苦手だったっけ?」
「苦手じゃないですけど、見たくはないです」
美琴は窓の外を見た。
「安心して。今回の先生、幽霊を全部否定する人だから」
「久世冬馬ですよね」
「そう」
異常知覚研究者、久世冬馬。
テレビや動画サイトで怪奇現象を扱う番組を見たことがある人なら、一度くらい顔を見たことがある。
泣き声の聞こえる廃病院。
人影の映るトンネル。
誰もいない家で動く家具。
久世はそれらを一つずつ調査し、ことごとく現実的な原因を突き止めてきた。
幽霊否定論者。
世間ではそう呼ばれることもある。
だが本人は、その呼び方を嫌っていた。
車が大きく揺れた。
木々の間から、建物が見えた。
「……あれ?」
森岡が身を乗り出す。
美琴も前を見る。
山の中腹。
灰色の巨大な建物が建っていた。
横に長い四階建て。
窓はほとんどが黒い板で塞がれている。
病院にも学校にも見えた。
だが、どちらとも違う。
建物そのものが、人を寄せつけない顔をしている。
白鐘知覚研究所。
二十四年前に閉鎖された研究施設。
今回の撮影場所だった。
正門の錆びた看板には、
「白鐘知覚科学研究センター」
という文字がかろうじて残っている。
その下に、小さく、
立入禁止。
「歓迎されてないですね」
小西が言った。
美琴は答えなかった。
車を降りると、湿った空気がまとわりついてきた。
玄関前には数人の男女が集まっている。
その中に、見覚えのある男がいた。
黒いシャツ。
細身の身体。
短く整えられた髪。
久世冬馬だった。
テレビで見るより少し若く見える。
美琴に気づき、軽く頭を下げた。
「神崎さんですね」
「はい。今回よろしくお願いします」
「こちらこそ」
握手をする。
手は冷たくも温かくもなかった。
普通だった。
それがなぜか、少し安心した。
「先生」
森岡が恐る恐る聞く。
「ここ、本当に出るんですか?」
久世が森岡を見る。
「何がです?」
「いや、その……幽霊」
「それを調べるために来たんでしょう」
「先生は信じてないんですよね」
久世は少し考えた。
「その質問はよくされます」
「ですよね」
「私は幽霊を信じないとは言っていません」
森岡が目を瞬いた。
美琴も久世を見る。
「これまで私が調べた事例の中に、超自然現象であると断定できたものが一件もなかった。それだけです」
「じゃあ、本当に幽霊だったら?」
久世が笑った。
「それはそれで、素晴らしい発見でしょうね」
美琴は少し意外だった。
もっと皮肉っぽい人だと思っていた。
玄関前で、今回の参加者が紹介された。
元研究所所長、片桐征一。
白髪の多い、背の高い男だった。
二十四年前の閉鎖について聞かれると、不機嫌そうに眉を寄せた。
元研究員、戸倉雅人。
現在は大学教授。
眼鏡の奥の目が落ち着きなく動く。
元設備担当、三枝修司。
大柄で、声が大きい。
「幽霊なんぞ電気代払ってから出てこい」が最初の言葉だった。
そして、
「佐伯真由です」
柔らかな声。
六十代の女性だった。
現在は福祉施設を経営しているという。
「昔はここの看護担当でした」
美琴に向かって微笑む。
「何か困ったことがあったら言ってね。こんな場所だけど、一応勝手は分かるから」
「ありがとうございます」
佐伯の笑顔には、ほっとするものがあった。
最後に久世が紹介された。
片桐が久世を見る。
その視線だけが、一瞬硬くなった気がした。
美琴は気になった。
だがすぐ、片桐は目を逸らした。
玄関の鍵が開けられる。
重い扉が、
ギィィィ。
と音を立てた。
中から冷たい空気が流れてきた。
森岡が小さく言う。
「冷房、ついてないですよね?」
三枝が笑う。
「山だからだよ」
全員が中へ入る。
最後尾の美琴が扉を閉めようとした。
そのとき。
四階。
一番右端の窓に、
誰かが立っていた。
白い服。
女。
そう見えた。
美琴は目を細める。
もう一度見る。
何もいない。
「神崎さん?」
久世が振り返っている。
「どうしました?」
「……いえ」
美琴は建物の中へ入った。
重い扉が閉まる。
その直前、
もう一度だけ四階を見た。
誰もいなかった。




