第25話 壁の向こう
朝まで待てなかった。
美琴は森岡を起こした。
「起きて」
「……何です?」
「壁」
「壁?」
棚を動かす。
重い。
二人で少しずつずらす。
その後ろ。
細長い継ぎ目。
昨日までは、
ただの壁だと思っていた。
けれど今は、
僅かに隙間が開いている。
森岡が懐中電灯を向ける。
「扉?」
取っ手はない。
指をかける。
美琴が止めた。
「待って」
頭の中に、
昨夜の声。
『開けないで』
森岡も同じことを考えたようだった。
手を離す。
二人、
しばらく扉を見ていた。
「どうします?」
「久世先生呼ぼう」
◇
久世はすぐに来た。
隠された扉を見る。
しゃがむ。
縁を確認。
「知ってました?」
美琴が聞く。
「いいえ」
「三枝さんは?」
三枝も呼ばれた。
扉を見た瞬間、
「ああ」
と声を出す。
「知ってるんですね」
「保守通路だ」
「昨日、壁の中は配線スペースだって」
「その先に人が入れる場所もある」
美琴は呆れる。
「それ大事なことじゃないですか?」
「二十四年前の建物だぞ。全部覚えてるわけねえだろ」
久世が聞く。
「どこへ続いています?」
「各実験室の裏」
「零号室にも?」
三枝が久世を見る。
「たぶんな」
美琴の心臓が速くなる。
「だったら」
戸倉。
消えた。
部屋から出た映像はない。
零号室の靴。
壁で消えた足跡。
「戸倉先生、ここを通ったんじゃ」
松永がすぐ動いた。
警察官を呼ぶ。
「中は我々が確認します」
「私も」
美琴が言う。
「駄目です」
「でも」
「危険です」
「私の部屋の壁なんです」
「だからです」
松永は譲らなかった。
警察官二人が扉を開ける。
ギィ。
冷たい空気。
人が一人通れる程度の狭い空間。
壁には古いケーブル。
錆びた配管。
奥は暗闇。
懐中電灯の光が吸い込まれていく。
美琴は入口から見た。
何かある。
床。
新しい跡。
埃の上に、
線が引かれている。
誰かが最近、
ここを歩いた。
「松永さん」
警察官も気づいた。
「全員下がって」
扉が閉じられる。
◇
二時間後。
警察の確認が終わった。
戸倉は見つからなかった。
ただし、
保守通路は美琴の部屋だけでなく、
洗面室。
資料室。
旧実験区画。
そして地下までつながっていた。
零号室の裏側にも。
「じゃあ密室じゃなかった」
森岡が言う。
久世が答える。
「少なくとも、人間が移動できる経路はあったことになります」
「戸倉先生も?」
「可能性はあります」
「片桐先生も?」
「可能性はあります」
美琴は少しだけ安心した。
人間が通れる。
なら、
幽霊じゃなくても説明できる。
けれど。
別の疑問。
「誰が通路を使ったんですか」
沈黙。
三枝。
佐伯。
久世。
警察。
誰も答えない。
美琴は佐伯に聞いた。
「佐伯さん、この通路知ってました?」
「知らなかったわ」
「本当に?」
「私は看護担当よ」
以前と同じ答え。
でも。
美琴は思い出した。
昨夜。
壁から声がしたと話したとき。
佐伯は、
「もう壊れてるでしょう」
と言った。
何が?
壁の音響設備。
なぜ、
壁の中にそんな設備があったと知っていた?
質問しようとした。
だが、
佐伯は警察官に呼ばれ、その場を離れた。
◇
夜。
美琴は別の部屋へ移された。
壁の隠し扉が見つかった以上、
同じ場所には泊まれない。
森岡は向かい。
警察官も一階。
以前より安全なはずだった。
それでも、
眠れない。
午前一時過ぎ。
廊下から、
足音。
美琴は目を開けた。
ペタ。
ではない。
普通の靴音。
静か。
ゆっくり。
ドアを少し開ける。
廊下。
男が歩いている。
久世だった。
「先生?」
呼びかけようとして、
やめた。
久世は懐中電灯も持たず、
地下へ続く階段へ向かっている。
こんな時間に。
美琴は上着を羽織った。
森岡を起こそうか迷う。
やめた。
自分でも理由は分からない。
ただ、
久世に気づかれたくなかった。
距離を空けて追う。
階段。
地下。
久世は零号室には向かわない。
その手前。
何もない壁の前で止まった。
美琴は角から覗く。
久世が壁の一部へ手を伸ばす。
押す。
カチ。
壁が開いた。
今日見つかった保守通路とは、
別の扉。
美琴の呼吸が止まる。
久世は、
迷う様子もなく中へ入った。
扉が閉じる。
暗闇。
美琴は動けなかった。
知らなかった。
さっき、
久世は確かに言った。
保守通路の存在を、
「知らない」
と。
美琴は閉じた壁を見る。
その向こうから、
微かに音がした。
機械が起動するような、
低い唸り。
そして。
廊下の照明が、
一度だけ明滅した。




