第20話 白鐘の実験
警察が到着したのは午後三時を過ぎてからだった。
山道の土砂を最低限除去し、
救急車と警察車両だけが通れるようになった。
白鐘研究所の空気が、
少しだけ現実へ戻った。
現場検証。
事情聴取。
片桐の遺体搬送。
戸倉の捜索。
美琴たちも一人ずつ話を聞かれた。
ただ、
誰も研究所から帰ろうとは言わなかった。
正確には、
番組スタッフには帰る選択肢もあった。
だが美琴は残ると決めた。
戸倉が消えた。
片桐が死んだ。
そして二十四年前、
明日香は零号室で亡くなった可能性がある。
ここまで見て、
途中で帰れる気がしなかった。
森岡も残った。
「怖くないの?」
美琴が聞く。
「めちゃくちゃ怖いです」
「じゃあ帰れば」
「ここで帰った方が後悔しそうなんで」
美琴は少し笑った。
同じだった。
◇
警察が地下を調べている間、
久世と美琴は資料室へ向かった。
三枝の、
「あそこは人間がおかしくなるように作られていた」
という言葉。
調べる必要があった。
古い研究ファイル。
正式名称。
恐怖刺激下における知覚・記憶変容研究
「これ」
美琴が箱を見つける。
久世が蓋を開ける。
資料。
実験計画。
被験者記録。
刺激条件。
美琴は読み進める。
「低周波音響……照度制御……局所冷却」
ページをめくる。
「睡眠制限」
さらに。
「感覚遮断」
久世が別のファイルを見る。
「薬剤投与もあります」
美琴が顔を上げる。
「これ、普通の研究なんですか?」
「現在なら倫理審査を通るとは考えにくい」
「当時なら?」
「内容によります」
「これを見ても?」
美琴が一枚の報告書を見せる。
被験者A-14。
実験開始四十分後。
「部屋の隅に女性が立っている」と訴える。
被験者A-19。
「壁の向こうから名前を呼ばれた」と証言。
被験者B-03。
「誰もいない廊下を歩く音を聞いた」
美琴の手が止まった。
「先生」
「はい」
「これ……」
現在起きている怪異と似ている。
あまりにも。
久世も同じページを見る。
「そうですね」
「白鐘研究所は」
美琴は言葉を選んだ。
「幽霊を研究してたんですか?」
「違うと思います」
「でも」
「幽霊そのものではない」
久世は資料を机に置いた。
「人間に、存在しないものを知覚させる研究です」
美琴の背筋が冷たくなる。
「存在しないものを?」
「音、光、温度、暗示。複数の刺激を組み合わせる」
「そうすると幽霊が見える?」
「必ずではありません」
久世は別の報告書を示した。
「ですが、極度の緊張状態や知覚情報の不足した環境では、人間の脳は不足した情報を補おうとする」
地下から聞こえた声。
久世が言ったこと。
曖昧な音を、
意味のある言葉として補完する。
美琴は資料を見つめる。
「じゃあ、ここで昔やっていたことって」
「現在なら、かなり問題になる研究でしょう」
「片桐先生が責任者?」
表紙。
研究統括責任者。
片桐征一
美琴は息を吐いた。
戸倉雅人の名前もある。
データ解析担当。
三枝修司。
施設刺激制御担当。
佐伯真由。
被験者管理。
全員。
「明日香さんは?」
久世が探す。
研究補助。
久世明日香。
そこにも名前があった。
美琴はページをめくる。
途中から、
明日香の署名だけが消えている。
代わりに。
内部確認記録。
安全基準逸脱の疑い。
被験者同意書と実施内容の不一致。
記録修正の形跡。
「明日香さん、問題に気づいてた?」
久世の目が止まる。
「可能性はあります」
「それで殺された?」
「まだ分かりません」
「でも」
「神崎さん」
久世が静かに制した。
「疑う材料と、事実は分けてください」
美琴は口を閉じる。
分かっている。
分かっているのに、
すべてが一方向を指しているように見える。
◇
一時間後。
森岡が古い磁気媒体の箱を見つけた。
「これ再生できます?」
三枝を呼ぶ。
三枝は最初、
嫌がった。
だが警察官も同席し、
最終的に旧機材を動かした。
音声記録。
日付。
二十四年前。
明日香が亡くなった夜。
時刻。
午前二時十四分。
美琴の心拍が速くなる。
再生。
ザ――。
雑音。
何かを動かす音。
そして、
女の声。
『……聞こえますか』
誰も話さない。
『誰か、聞こえてますか』
久世の顔から表情が消える。
明日香。
生きていた姉の声。
『ここ、開かないんです』
美琴は佐伯を見る。
佐伯は俯いている。
音声。
『ここから出して』
美琴の身体が硬直した。
昨夜、
壁から聞こえた言葉と同じ。
『ここから出して』
森岡も美琴を見る。
誰も言葉を発せない。
音声はそこで途切れた。
ザ――。
数秒。
録音終了。
美琴は久世を見る。
「先生」
久世は機械から目を離さない。
「これ……」
「姉です」
「昨日聞こえた声と」
「言葉は同じです」
「声も?」
久世はすぐには答えなかった。
「二十四年前の音声は劣化しています。断定できません」
美琴は佐伯を見る。
「佐伯さん」
佐伯はゆっくり顔を上げる。
泣いていた。
「この声、聞いたことありました?」
佐伯は首を振る。
「ない」
「本当に?」
「ないわ」
「明日香さんが零号室にいたことは?」
「知らなかった」
「三枝さんは知ってました」
「私は知らない」
「でも」
「知らないって言ってるでしょう!」
部屋に声が響いた。
佐伯自身が驚き、
口を押さえる。
「ごめんなさい」
立ち上がる。
出ていこうとした。
そのとき。
久世が呼んだ。
「佐伯さん」
足が止まる。
「何?」
「今の録音」
佐伯は振り返らない。
「最後まで聞いたことがないんですね」
妙な質問だった。
美琴が久世を見る。
佐伯もゆっくり振り返る。
「……どういう意味?」
久世。
「確認しただけです」
佐伯は数秒、
久世を見つめていた。
そして、
「ないわ」
と答えた。
部屋を出る。
扉が閉まる。
美琴は久世に聞く。
「何だったんです?」
「何が?」
「今の質問です」
「深い意味はありません」
「本当に?」
久世は答えなかった。
代わりに、
明日香の音声をもう一度再生する。
『ここから出して』
そこで停止。
「先生?」
久世が小さく言った。
「おかしい」
「何がですか?」
「この研究記録では、零号室の録音は午前二時十六分に停止したことになっています」
「それが?」
「姉の死亡推定時刻は二時十七分」
美琴は理解する。
録音停止から、
死亡まで一分。
「その一分に何かあった?」
「分かりません」
久世は再生機を見る。
「ただ」
「?」
「その一分を知っている人間が、まだこの中にいる可能性があります」
美琴の背中が冷たくなった。
片桐は死亡。
戸倉は行方不明。
残っている当時の関係者は、
三枝。
佐伯。
そして――
そのとき。
資料室の照明が、
一度だけ明滅した。
消える。
点く。
美琴は入口を見る。
誰もいない。
壁の向こうから、
ごく小さな女の声。
『……開けて』
美琴は凍りついた。
昨日と同じ言葉。
だが、
今聞いた二十四年前の録音には、
その言葉は一度も入っていなかった。
久世も聞いていた。
そして美琴は見た。
久世が声のした壁ではなく、
部屋の外へ出ていった佐伯の方を、
静かに見たことを。




