第18話 ここから出して
翌日の夕方。
三枝が酒を飲んでいた。
一人で。
「朝からですよ」
佐伯が困ったように言った。
美琴が近づく。
三枝はコップを隠そうともしない。
「放っとけ」
「昨日のことですか」
「何が」
「鏡」
「知らねえよ」
「三枝さんも怖いんですか?」
三枝が笑う。
「幽霊が?」
「はい」
「そんなもんはいねえ」
「じゃあ何が怖いんです?」
笑いが止まった。
「二十四年前のこと?」
三枝が美琴を見る。
「お前、しつこいな」
「戸倉先生が消えて、片桐先生が名前を呼ばれた。何も知らないままじゃいられません」
「知らねえ方がいいこともある」
「みんな、そればっかり」
三枝はコップを置いた。
「神崎」
初めて名字だけで呼ばれた。
「あの部屋はな」
「零号室?」
「あそこは、人間がおかしくなるように作られてた」
美琴は黙る。
「どういう意味です?」
「音。光。温度。いろいろだ」
「実験?」
「俺は設備しか知らん」
「感覚遮断実験ですか」
「そんな綺麗な名前じゃねえ」
三枝は苦い顔をする。
「中に入れた奴が、何を見るか。何を聞くか。どれくらい耐えられるか」
美琴の背中が冷える。
「そんなことを?」
「昔は今より緩かった」
「それで済む内容ですか」
三枝は答えない。
「明日香さんも?」
コップを持つ手が止まる。
「明日香さんも、あの部屋に入ったんですか?」
「知らん」
だが、
目が答えていた。
◇
午後十一時四十七分。
研究所の電気が落ちた。
完全な暗闇。
「森岡!」
「います!」
非常灯。
赤い光が点く。
久世の声。
「全員、食堂に集まってください!」
片桐が来ない。
美琴と久世、三枝が二階へ向かう。
「片桐先生!」
部屋。
空。
どこにもいない。
そのとき。
館内のどこかから、
声。
『……ここから……』
美琴が止まる。
女。
『ここから出して』
壁から聞こえる。
前。
後ろ。
方向が分からない。
三枝が青ざめる。
「やめろ」
『ここから出して』
久世は周囲を見る。
「零号室へ」
三人で地下へ走る。
近づくほど、
気温が下がっていく。
吐く息が白い。
夏。
空調は止まっている。
なのに、
零号室だけ、
冬のように冷たい。
扉が開いている。
中。
片桐が立っていた。
壁を見つめている。
『ここから出して』
壁そのものが喋っているようだった。
「片桐先生!」
美琴が呼ぶ。
反応なし。
『ここから出して』
片桐が小さく言う。
「事故だった」
『ここから出して』
「事故だったんだ」
『ここから出して』
「俺は殺していない」
三枝が叫んだ。
「やめろ!」
声が止まる。
静寂。
片桐と三枝。
二人とも息を切らしている。
久世が聞く。
「三枝さん」
「……」
「今、何をやめろと言ったんです?」
「声だ」
「なぜ」
「うるせえからだ」
「この言葉を聞いたことがある?」
三枝は答えない。
「二十四年前?」
三枝の顔が歪む。
「俺は」
誰も動かない。
「俺は、扉を閉めただけだ」
美琴の心臓が強く鳴る。
「何の扉です?」
三枝は零号室の扉を見る。
「違う」
「三枝さん」
「俺じゃない」
戸倉と同じ言葉。
「命令されたんだ」
久世の表情が変わる。
「誰に?」
三枝が片桐を見る。
片桐が叫んだ。
「黙れ!」
三枝の身体が跳ねる。
「もう二十四年前だぞ!」
「黙れと言っている!」
「戸倉は消えた! 次はあんただ! その次は俺かもしれねえ!」
「三枝!」
「明日香は階段で死んでねえだろ!」
美琴の呼吸が止まった。
片桐が三枝へ掴みかかる。
久世が間に入る。
「離れてください」
「こいつが」
「片桐先生」
久世の声。
静かだった。
「今の話を、最初から聞かせてもらえますか」
片桐は久世を見る。
顔には怒り。
恐怖。
そして、
諦め。
「何もない」
「ですが」
「あいつは事故で死んだ」
「階段ではない?」
片桐は答えなかった。
零号室の壁。
突然。
ドン。
全員が見る。
ドン。
二回。
片桐の目が大きくなる。
そして、
三回目。
ドン。
片桐は、
子供のような顔で呟いた。
「まただ」
照明が戻った。
そのときだけ、
美琴は見た。
零号室の観察窓の向こうに、
白い女が立っていた。




