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第九話 彼女の連絡先

 「……雪村さん。これ、返します」


 そう言っていつも通り白衣と、聴診器を受付のカウンターに出す。

 なるべく今の気持ちを表に出さないようにしていたけど、口から出てきた言葉はずっしりと沈んでいた。


 「斗賀見さん、今日もお疲れ様でした」


 いつもの労りの言葉がやけに腹の中に、染みる。

 唾を飲み込んだら溜まった空気が喉からせり上がって、ぐるぅっと音を立てた。


 「それでは、俺は帰ります。お疲れ様です」


 あまり会話をする気になれず、俺はそそくさとその場を後にしようとした。

 すると、彼女から再び「斗賀見さん」、と名前を呼ばれて振り向きかけた体が止まる。


 「はい……なんでしょう?」


 なんとか絞り出した声は力がなくて、カウンターとの境で消えてしまったかもしれない。

 それでも、雪村さんが小さく頷いたと思ったら。


 「——許可、取れましたよ」


 静かに発した言葉が、一階の受付カウンターに溶けた。

 俺の耳に遅れて届いて、脳がそれを処理するのに時間がかかる。


 「へ?」


 理解した時に頭の中にたくさん言葉が浮かんだ。

 でも、俺が掴んだのは間抜けな一文字。

 それが勝手に口を滑るように出てきて、その一文字を空気中に刻んだ。


 「へ? じゃないよ。ちゃんと彼氏から許可取ったもん。だから、ご飯行くよっ!」


 唐突に彼女から仕事モードが無くなって、丁寧な言葉遣いから普通の女性に変わった。

 自然な彼女のそぶりは、さらに魅力を引き立てている。


 「いやいやいや! さすがに彼氏が良いって言っても男と二人はダメでしょ!?」


 俺が言っていることは間違ってない、と思う。

 でも、彼氏さんがいいなら……でも。うーん。


 「それに今ちょっと……」

 「気分が上がらない、かな? さっき茜さんから聞きましたよ。検診で——いろいろあったみたいですね」


 そのいろいろは、いろいろだ。

 雅さんの腫れた頬が頭の中で浮かんで、まだ瞼の裏でその光景が再生される。

 ふと、顔を下げてしまい、視界に映る綺麗な雪村さんの顔から、無機質な木製のカウンターの腹に変わってしまう。


 「それなら、余計に一緒に行こうね。はい、これ私の連絡先だから、登録して試しにスタンプ送って」


 強引に渡された紙切れには、通信アプリのIDが記載されていた。

 女性らしい丸っぽい文字。初めてこうやって異性と交換することで胸がざわついた。

 いや、考えれば彼氏持ちからもらっても、困るだけじゃね。


 なんて思いながら、そのまま視線を彼女から貰った紙に落としたまま動けない。


 「……でも、やっぱりさ——」

 「——いいから、早くしなさい!」


 俺がまごついてると痺れを切らしたように、ピシャリと言い切った。

 少し前のめりになって俺を見つめる雪村さんの圧が強い。

 分かり、ました、と言うと、ポケットからスマホを取り出して彼女のIDを打ち込んだ。


 検索をかけると、クマのぬいぐるみの丸いアイコンが出てくる。

 名前は……ユッキー。

 俺は名前の下に出てきた追加のボタンを押すと、雪村さんスタンプを送る。


 「やった! 斗賀見さんの連絡先ゲット!」


 屈託のない笑みを浮かべて言葉を発した雪村さんは、スマホを大切そうに両手で包んで胸に押し当てていた。


 「てか、このヘンテコなスタンプなんですか」


 俺の送ったスタンプは、WANTEDと書かれた紙に、最大限デフォルメされた猫が描かれている。

 なんと、賞金は100にゃん円。

 可愛らしいフォルムと斗賀()、と言う自分の名前にピッタリだと即決して買った。


 「斗賀見さん……むふふっ。ぷっ」


 俺とスタンプをみくらべて笑う雪村さん。

 なんだよ、と口を尖らせて訴えるとスマホに通知がひとつ来た。


 「……雪村さん」


 体はゴリマッチョ。でも、頭は熊。

 力こぶを作って筋肉を見せつけるポーズをしたスタンプ。

 頭の上に、「元気だせっ!」って書いてある。


 俺と雪村さんの目が合うと、ニシシと彼女は笑う。


 「また、後で連絡しますから、寝ないでくださいね」


 って、今日ご飯行くつもりなのかよ。

 見た目によらず彼女はアグレッシブなのかもしれないと思った。


 雪村さんから解放された俺は、いつもの自動ドアをくぐって外に出る。


 「——神が怒っている」


 そう思っていると、いつものフレーズが耳に届いた。

 ただ、昨日みたいに聞いている余裕はなく俺はそそくさと後にした。


 腕時計に目を向けると、後十五分で正午を迎える。

 まもなく——奴らが活性化する時間帯が訪れる。


 処分場の横を通った時、たまたま視界の隅にブルーシートのようなものを被せられた人が運ばれていく姿が見えてしまった。

 大きく膨らんだシート。彼は感染者だ。


 死んでる、だから襲ってくることはない。

 だけど頭の中に子供の頃のあの時のことが、フラッシュバックする。


 喉が渇く。足、動かない。

 運ばれるブルーシート。

 目が離せない。

 

 すると、風が吹いて少しめくれ上がった。

 少し見えた死人の顔を知っていた。


 赤いボールペンで陽性と付けたから。

 

 あの男は——俺が殺した。

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