第十話 部屋の中の時計の音
俺の家は職場から歩いてすぐの距離にあるアパートだったが、ここに歩いてくるまでに今日のことが頭の中でぐるぐると回っていた。
その気分を体現したかのような、俺のアパートの部屋は中に溜め込んだ空気をむわりと吐き出してくる。
「……ただいま」
昨日に続き二回目の言葉。返ってくる言葉は、もちろんない。
部屋の中は静かだった。隣の部屋も、上の部屋も誰もいない。
このアパートはバイト先の福利厚生の一つで、家賃全額補助で提供される。
つまり、全員辞めてしまったということは、そう言うことだ。
ガサゴソと動き回る音も。
服の擦れる音も。
心臓の音も。
——ちく……たク……
この音はなんだ。
部屋の中にある時計は全てデジタル式。
あの音が部屋の中にあったら気が狂いそうで、俺は傍に置かないし、置きたくない。
「この音は……どこ、だ」
感染者——だとしたら、ここから逃げなくては行けない。
正午になる前に早く——
——ガサッ……ガ……
いつものノイズ音。
間に合わなかった。
早く、早く、早く、逃げないと——死ぬ。
——チクタク、チクタク、チクタク
さっきより鮮明に聞こえる時計の音は、俺の喉を干上がらせる。
唇がパキパキと固くなり、足は思うように動かない。
目の前に迫った死は、体の自由を奪って生きやがった。
俺は指を動かすことすらできず、音がしているであろう方向から目が離せなかった。
もしかしたら、人の生死で金を貰っていたツケが回ってきたのかもしれない。
パキっと乾いた唇が割れて鋭い痛みが、脳を駆け抜けていく。
自分の指先が小さく跳ねて、そこでようやく脳と体の神経が繋がってくれた。
逃げればいいのに。
どうしてか、その時の俺は思考と行動が切り離されていたみたいだ。
◇
「——斗賀見さん、こっちだよ!」
待ち合わせ場所に到着すると、俺より先に雪村さんの方が先に着いていたようである。
元気にぶんぶんと手を振る姿は、職場で見せる清楚な姿とはかけ離れていた。
縛った髪の毛下ろして、俗に言うハーフアップと言う髪型。
いつも綺麗だなって思っていたけど、今日の食事のために身なりをしっかり整えて来てくれた事が伺いしれた。
「遅れて……すいません。お待たせしました」
彼女のところへ小走りで向かう。
大きな声を出さなくても聞こえるくらいの距離に到着すると、待たせてしまったことに対する謝罪の言葉を述べた。
「全然、大丈夫だよ。それよりも……なんか疲れてない?」
そんなに顔に出ていたのだろうか。
肩にかけたバックの紐が落ちないように、押さえながら雪村さんが俺の顔を覗き込む。
生え揃ったまつ毛の向こうにあった瞳に、自分が反射して見える。
それだけ彼女の顔が近いと認識すると、後によろめくように足がもつれた。
「あっ、危ない!」
そのまま転びそうになる俺の手を掴んで引き寄せた。
お互いの心臓の音が分かる距離。
彼女の温もりが服越しにじんわりと伝わってくる。
顔、燃えそう。
抱き合うような状態になってしまい、俺は慌てて雪村さんから離れた。
「うわっ! 本当にごめんなさい! 特にやましいつもりなんて……」
「分かってるよ。もう! そんなに急いで離れなくても、ぶつぶつ」
俺が全力で謝罪の言葉を述べると、雪村さんは素直にその言葉を受け入れてくれた。
だけど、どこか不服そうな彼女の姿に首をかしげる。
「あの……もしかして怪我とか」
「むう! 大丈夫だよ!」
心配したのに何故か怒られた。
行くよ、と言って雪村さんはツカツカと歩いて行ってしまった。
俺は急いで彼女の後を追う。
近くに寄ると、彼女の耳が真っ赤になっているのが見えた。
「……雪村さん」
俺は恐る恐る、彼女に声をかけた。
すると両方の足がピタリと止まる。
「斗賀見さん」
突然自分の名前を呼ばれて、体が勝手にピシッと真っ直ぐになる。
「は、はい」
情けない返事が出た。
「ああ言うの、普通は男性からだよ。女性に助けられるとか、男らしくないな」
俺もそう思う。
特段怒られることはなかったけど、雪村さんから指摘されて自分の不甲斐なさが恨めしく思った。
「次からは斗賀見さんから、お願いね」
彼女がくるりと回ると、膝丈の黒いスカートがふわりと舞った。
その奥に見えた白い足に、視線が一瞬吸い寄せられてしまう。
「返事は?」
返事を返さない俺に一歩近づいて、そう凄むように雪村さんが言う。
「は……い?」
俺はそう言いながら、雪村さんに彼氏がいることを思い出した。
むしろ、さっきの現場を見られて勘違いしたらどうしよう。
そんな焦りが一気に湧き起こり、俺の顔からさっと血の気が引いていく。
「顔、青いけど……やっぱり今日は辞めとく?」
少し落ち込んだ彼女の顔を見て、俺は首を横に振った。
「いや……そうじゃなくて、さっきの見られてたら」
その、やばいんじゃないでしょうか。
途中まで言ったところで雪村さんは、また手の平をポンと叩いて「そう言えば、私、彼氏いたんだった」と、デジャヴを見せた。
「でも、大丈夫だよ。彼氏なんて——」
最後の言葉は上手く聞き取れない。
なんと言ったか聞き返したが、雪村さんは教えてはくれなかった。
ただ、そう言った時の彼女の顔、何か思い詰めてるような。
そんな風に見えて、俺の心がぎゅっと締まる。
「じゃーん! 今日はここのお店を、予約しました!」
目的地に到着すると、雪村さんは楽しそうに両手を広げてアピールしてくる。
ただ、そのお店は物凄く高級そうで、Tシャツとデニムで固めてきた自分の格好を見て俺は後悔した。
「本気、ですか……」
今からでも、着替えてきちゃダメですかと言いたい。
そんな不安を感じ取ってくれたのか、雪村さんが口を開く。
「心配しなくていいよ、普通のお店だからね。ほら、リラックスしてー」
雪村さんがわざとらしく大きく息を吸って、吐いてとやって見せて、俺も一応しておいた。
それじゃ、中に入ろうか、と俺の手を引いて歩いていく。
彼女の手、汗が凄い。
まるで緊張しているように見える。それに動きがどこかぎこちない、ような。
気のせい、かもしれないけど。
体を縮こまらせながら入ったお店の中は、思っていたよりも普通だった。
家族連れだったり、カップルだったり、普通のファミレスが少し高級になったような感じ。
雪村さんが店員へ、予約していたと伝えると個室へと案内される。
ようやくひと息つけて、背中を椅子の背もたれに沈めた。
「お腹すいたね! 斗賀見さんは何食べる? ここのご飯どれも美味しいんだよ」
そう言って彼女はメニュー表を見せてきた。
視線をそれに落とすと、映っている写真はどれも美味しそう。
しかも、値段も手頃で最初の固そうな印象はなくなっていた。
「う〜ん、俺は……迷う」
ハンバーグかステーキか、やっぱり海鮮丼も。
「じゃぁ、俺はこのサーロインステーキランチで」
「おっ、いいね! 若者よ!」
若者って一つしか年齢違わないのだが。
「サーロインステーキランチ一つと、この肉マシマシマシステーキセット一つで、お願いします」
「あ、頼んでくれてありが……とう?」
雪村さんは何を頼んだ?
一キロ? 馬鹿なのかこの人は。
俺がそんな眼差しを向けていると、雪村さんは、どうしたの、と言いたげな目で見てくる。
車輪のついたロボットから運ばれてきた料理を受け取ると、俺は雪村さんの食べっぷりに見とれてしまっていた。
モキュモキュと小さい口が一生懸命動いている。
可愛いい……でも、お肉は可愛くない。
そんな感じであっと言う間に、雪村さんは一キロの肉を食べてしまった。
それからは、雪村さんと談笑してデザートを注文して店を出た。
「いや、満足だよ」
「……雪村さんって、そんなに食べるんですね」
親指を立てて、ニカリと白い歯を見せてきた。
「てか、奢ってもらって……ありがとうございます」
「うん、いいよ。私の方がお姉さんだし。アルバイトの斗賀見"くん"に奢らせるのはちょっとね」
それを言ったら俺の方もそうだ。
あれ? 今なんか違和感があったような。
「雪村さんも、何かあったら言ってくださいね?」
「そう? それなら、その雪村さんっの辞めて、名前で呼んでもらっていいかな?」
「——嫌です」
「えー、いいじゃんか!」
雪村さんが子供のように駄々をこねる。
だって、ずっと雪村さんって呼んでたんだもん。
なんか今更、気持ち悪いし。
そう断っても、一向に引いてくれる気配がない。
「汐音さん」
だから、一度だけ名前で呼んであげることにした。
それだけなのに、彼女は本当に、本当に、嬉しそうな顔をするんだ。
それはまるで——
「うふふっ! ひひひっ!」
——変人。
その変貌ぶりは、これまで積み上げてきた彼女の形をぶち壊してしまうくらい破壊力があったと思う。
「よし! これで本当に満足したよ! それじゃ、斗賀見くんも疲れてるから、また今度ご飯行こうね」
彼女はそう言って颯爽と帰っていく。
でも、おかげで落ち込んだ気分が少し晴れた。
雪村……汐音さんは気を使ってくれたのかまったく仕事の話をしなかった。
家と仕事の往復の生活の俺にとってはそれが新鮮で、居心地が良かった。
後は家の中の奴をどうするか、だ。
「……ただいま」
そう言って玄関を開ける。
「おかえり〜」
——今度は返事が返ってきた。
チクタク、チクタク——




