第十一話 チクタク、チクタク
カーテンに伸ばした俺の指先は、震えていた。
——チクタク、チクタク
ただ、その音に少しだけ違和感があった。
感染者の胸の音はチッチッ、と高い音の連続なのに、今聞こえてる音には低い音も混ざっている。
正午を過ぎて感染者が活性化してるのなら、今すぐ連絡して逃げるべきなのだろう。
——消えないチクタク——
いろいろあって。
気が滅入ってたのかもしれない。
気が狂い始めたのかもしれない。
自分の命よりもデブさんに教えてもらった都市伝説。俺の中では好奇心の方が優先度が高くなっていた。
人を殺し続けた、斗賀。
それを俺は払わなくてはならないのだろうか。
「——誰だ、お前」
カーテンを開けて出た最初の言葉は、それだった。
アパートのベランダ。どうやって侵入したのか分からない。
膝を抱えて座っている女性と目があった。
逃げないと——
今も彼女からは時計の音が聞こえている。
チクタク、チクタクと時を刻むようにその音は止まることがない。
「————」
数秒見つめ合っていると、ガバっとその女が立ち上がる。
心臓が強く跳ねた。
好奇心に負けたと言っても、死ぬ覚悟がある、なんてかっこいいことは言えない。
思わず足が後ろに下がる。
だけど、感染者であれば見境なしに襲ってくるはずが、その気配が見られない。
それどころか。
「あの、えっと、これは……その〜」
と、慌てふためいている。
人を見れば見境なく襲ってくるはずが、人間らしくおずおずとしているだけだった。
「はぅ〜……ごめんなさい! すぐに——出ていきますから! 見なかったことにしてください。お願いします……」
しょんぼりと肩を落とした女は、俺に背を向けベランダの手すりに手をかけた。
もずもずと、足を上げて飛び降りようとしている。
「——待って」
思わず。叫ぶように俺は声をかけてしまった。
——後でこのことを振り返ってみると、彼女に声をかけていなければ——未来はどうなっていたのだろうか。
今もこの時のことを……たまに思い出してしまう——
◇
「お腹すいたよぅ〜」
——チクタク
俺がいつも座っているポジションは、今日出会ったばかりの女の尻に取られてしまっていた。
何年と自分にフィットする形にしていたのに、その形を崩されつつある。
ブカブカのTシャツの袖を、彼女は暇なのかパタパタとして遊んでいた。
クリっとした瞳と、さらっと伸びた長い髪。
風呂を貸してやったら浮浪者の風貌は、はたと消え、汚れの中からは目を奪われるくらい綺麗な女が生まれてきやがった。
ぼんやりとした口調が特徴的で、その声を聞いているとこっちの気も緩んでしまいそうである。
だけど、体から緊張が消えることはない。
——チクタク、チクタク
そう、この音。
これのせいで、まだ彼女を信用できないのだ。
部屋中に響く時計の音は、安心できる場所なのに落ち着かせてくれなかった。
「……なぁ、本当に感染者じゃないんだよな?」
お腹を両手でぐっと押さえた女に、そう言った。
「感染者だよ?」
「は?」
「あっ、自己紹介まだだったね。私は、紗花蕾。よろしくねぇ〜」
自分を感染者だと名乗った彼女は、見上げるように俺を見て動かない。
ただ、ずっと見ているだけで、俺は反応に困った。
「なんだ……トイレか? てかさ、感染者なのになんで——襲ってこないんだ?」
「むぅ! なんだじゃないよ! 君の名前を教えて欲しい! 襲わないのは、私は少しおかしい感染者なんだよね」
ニコニコ笑っていたと思ったら怒り出して、表情がガラリと変わる。
感情豊かな彼女は『感染者』、じゃなければ、人懐っこくて取っつきやすい印象だ。
ただ、彼女の言っていた少しおかしな感染者、このフレーズが妙に気になる。
それを聞き出そうとしたけど、プンプンと声に出しそうなくらい膨らんだ頬を見て、一旦は我慢する。
彼女に俺の名前を教えることにした。
「……神祈斗賀見」
「なにそれぇ〜! 変な名前だね〜!」
人の名前を聞いて爆笑しやがった。
コイツ追い出してやろうか。
握った拳が小刻みに揺れる。
そう、我慢していると腹を抱えながら笑い狂う彼女の動きがピタリと止まる。
「でも……神に祈る、か。なんか、それ好きだなぁ」
そう自然に述べた彼女は、聖女と女神を足したように俺の心を鷲掴みにしてくる。
息を飲むような彼女の微笑みに、次の言葉を発しようとしても声帯が上手く震えてくれない。
変わりに頭の中で思考だけが先に、進んだ。
彼女はいったい何者なんだろうか。
感染者らしい、が……襲ってもこないし。
でも、彼女が言う通り感染者特有の音がしていた。
そう、チクタクと——チクタク?
「……なぁ、紗花さん」
「蕾って、呼んで欲しいな。それで、斗賀くん、な〜に?」
何かを言おうとすると話の腰が折られてる感じがして、リズムを狂わせる。
相手にそんなつもりはないのかもしれない。
けど、ペースは完全に紗花蕾にあるように思えた。
「おほんっ」
わざとらしい咳払いを一つ。
「蕾……さん」
彼女の名前を呼ぶ。
今日、二度目。汐音さんにも名前を強要された。
少し抵抗はあったが、名前で呼ばれたことが嬉しかったのか彼女の眉がヒクリと動く。
そんな彼女は、「はい」と返事して、俺の次の言葉を待っているようだった。
「なんで音が、チクタク——なんだ?」
思っていた疑問を真っ直ぐにぶつけると、蕾さんは困ったように眉を潜めた。
「……分からないんです」
そう、一言だけ発して口を閉じてしまう。




