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第八話 末期症状

 ——チッチッチッチッ


 『検疫官マニュアル第百号

  末期患者が来た場合も、通常と同様の検査を

  行うこと。

  無闇に殺傷することを禁じる(殺傷規定第一号

  六十六条規定)』


 診療室の部屋の中には微妙な空気が漂っていた。

 チッチッチッっと規則正しい音が、耳の中で激しく暴れている。

 書類を見る振りをして、茜さんと雅さんをちらりと見やると二人の表情はこれまでにないくらい固くなっていた。


 「こんにちは。体調はどうでしょうか」


 俺は書類から目を離して、目の前に座る太った男性を見た。

 腕を組んで睨みつけるように視線を向けてくる。

 血走った目は、自分がどう言う状況か理解しているように思えた。


 「そんなのどうでもいい! さっさと検査しろっ!」


 怒鳴るようにわめき散らす男性に、俺は息を詰まらせる。

 このまま聴診器を当てると、興奮した男に何をされるか分からない。

 かと言って、会話をできるような状況でもない。


 「……分かりました」


 躊躇いながら男に向かってそう言うと、俺は聴診器を耳に当てる。

 茜さんへ目配せをして、椅子に座ったまま前に移動した。

 動きの渋くなったキャスターの甲高い悲鳴が部屋にこだまして、それが溶けて消える。


 後では、かすかにカチリとボタンが押された音が聞こえた。


 ——チッチッチッチッチッチッチッ


 聴診器を当てるまでもない。

 俺達の誰もがそう思っている。

 いや、本人だってそうだ。


 末期症状が発症すると、その音は他の人にも普通に聞こえる。それは自身すらも同じだ。

 部屋の隅で鳴る時計の音と、同じ。


 「はい、ありがとうございます」


 聴診器を当てて聞いた彼の音が何度も頭の中で反響して、規則正しい音は俺の感情を揺さぶる。

 しいて言えば、音を聞いている間に男が暴れなかったことだけが救いだった。


 「検査結果をすぐにお出ししますので、待合室でお待ちください」


 なるべく、彼の感情に触れないよう丁寧に話しかける。


 「ふんっ! ——お前、分かってるだろうな」


 鼻を一度鳴らして、重たい言葉を吐き捨てた。

 血走った二つの瞼が大きく開いて俺を睨みつける。

 彼の脅しとも取れる言葉に、俺の胃が縮こまるが押し殺してもう一度「お待ちください」と告げた。


 彼に出す結果は、決まっている。

 役割を交替して、今は茜さんが患者を外に連れて行く。


 雅さんと二人きりになった。

 まだ頭の中に残っている時計の音に顔をしかめながら、書類を巡った。

 『陽性』、その二文字を見て手が止まってしまう。


 「大丈夫ですよ。誰もあなたを責めたりしません」


 とても落ち着いた声だった。

 俺のこれまでの行いを許してくれるようにも聞こえる。

 少し心が軽くなった気がしたが、彼女の励ましは俺の気持ちとずれている。


 「ありがとうございます。でも、違うんです。彼が殺処分されることも……まあ、辛いと言えば辛いですけど。そんなことよりも、結果を聞いたあの人が——」


 雅さんを傷つけるかもしれない、そう思うと怖いんです。そう正直に答えると、少しだけ彼女の瞼が大きく開く。

 そして、口元が綻んで、雅さんの笑顔を——初めて見た気がした。


 「斗賀見さんは優しいんですね。大丈夫です、茜が警備隊の人を呼んでくれてますから。なので、斗賀見さんはその役割を全うしましょう」


 ゆっくりと話してくれた雅さんの言葉に、俺は小さく頷いた。

 "赤いペン"を持って、紙に指先を走らせる。


 「これ……お願いします」


 雅さんに書類を渡すと、もう一度ほほ笑んで診療室から出て行く。

 本当に大丈夫なのだろうか。

 過去に暴れた患者が検査結果を伝えた人を——なんて、話も聞いたことある。

 今は、その対策も取られているとは言うが、不安には違いない。


 彼女が消えていった扉を見つめながら、俺は無事に戻ってくることを願った。


 『検疫官マニュアル第百一号

  末期症状を確認した場合、赤いボールペンにて

  結果を記載すること。

  故意にこれを怠った場合は、懲戒解雇、又は

  隔離区より追放処分とする』


 「ふざけるなっ! 俺が陽性だと——」


 扉の向こう側が騒がしくなる。

 俺はいても立ってもいられなくなると、飛び上がるように椅子から立ち上がった。

 扉に手を伸ばした瞬間、さっきの男の怒声が聞こえてきた。

 

 思わず伸ばした手を引き戻すと、もう一度扉を開けようとする俺の気持ちを押し留めてしまう。

 俺のせいで雅さんが。


 最悪のことばかりが頭に浮かんでしまって、その先の光景を見ることができない。


 ——ガラッ


 そうやってまごついていると、診療室の扉が開かれる。


 「うぉっ!? 斗賀見君……扉の前でどうしたんだ? さすがに俺も驚いたぞ」

 「あ、いえ、その——雅さん!?」


 急に開けられた扉に驚いて、茜さんが支えるように連れてきた雅さんに気づくのが遅れてしまう。

 俺が彼女の名前を呼ぶと、雅さんが力なく顔を上げた。


 「その顔!? 茜さん、ベッドに寝かせてください!」

 「だ……大丈夫ですよ、斗賀見さん」


 青く腫れた左の頬。

 せっかくの綺麗な顔が台無しになっている。

 急いで冷蔵庫を開けて氷を取り出すと、横になった雅さんの頬にそっと当てた。


 「あ、あぁ……俺のせいで——」

 「違い、ますよ。斗賀見さんは正しいことをしました」


 俺の手からそっと氷の入った袋を、雅さんは受け取った。

 指先がかすかに震えている。

 平静を装っているけど、彼女はとても怖かったのかもしれない。


 こう言う時はどうしたらいいのだろうか、彼女が頑張って作った笑顔に何も返すことが出来なかった。

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