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第六話 検察官マニュアル

 「あの、ぼ、僕は大丈夫なんでしょう……?」


 頬がコケた男性が向かいの椅子に座って震えていた。

 吐き出した声も弱々しく、手足もやせ細っている。

 年齢よりも老けてしまった顔は、外の世界で必死に生き残っていたことを現しているようだった。


 「えぇ、大丈夫ですよ」


 なるべく刺激しないように、柔らかい笑みを浮かべるようにする。


 『検疫官マニュアル第一号

  患者に刺激を与えないこと。例え陽性患者でも

  優しい言葉をかけ、否定的なことを言うべから

  ず』


 マニュアルに従って彼と会話を交えながら、診察を始める。


 『検疫官マニュアル第二号

  病院患者と同様の扱いをすること(診察マニュア

  ル第二十二号参照)。例:会話を交えながら患

  者の緊張をほぐすべき』


 「この隔離区は安心ですからね。なんてったって、内部での感染者の発生は0ですから。人気なんですよ? 移住したい人も多いみたいで、早く検査を終わらせて僕達と一緒に暮らしましょう」


 少し饒舌に患者に話をすると、それを聞いていた男性の口がにへら、と笑って肩から力が抜ける。

 妄想に耽るように、隔離区での生活が頭の中に広がっているのだろうか。

 顎が少し上がって、天井を見上げるように目玉が限界まで上を向いていた。


 ここまで力が抜けたら大丈夫だ。

 こんな安っぽい言葉でもこんな風になってしまう。

 それだけ外の環境は劣悪なんだろうと、いつも思う。


 「それでは、検査しますね」


 俺の声には反応しない。

 気にせず、少し冷たいですからね、と伝えて聴診器を当てた。


 ——ドクン……ドクン……ドクン……

 

  『検疫官マニュアル第三号

   検査には聴診器を用い、一分以上当てて

   耳を澄ませること。

   初期感染者ほど、時計の音の感覚が長い

   傾向有り(詳細は別紙、感染者特徴マニュア

   ル参照)』 


 目を閉じて彼の心音に集中する。

 規則正しい心臓の音。


 「はい、ありがとうございます」


 雅さんが、患者の男性を外へ案内する。 

 

 俺は書類の二枚目をめくった。

 患者に見えないように隠しながら、黒いボールペンで丸をつける。


 「茜さん、これをお願いします」


 検査結果を書いた書類を、今日から担当になった茜さんへと渡した。


 「おうよ! 渡してくるからちっと待ってろ」


 茜さんがカルテを持っていく。

 普段であれば診断結果を別の担当者が伝えるようになっているのだが、その人も昨日をもって辞めてしまった。 

 だから、新しい人が入るまでは看護師が直接伝えることになる。


 「斗賀見さん、失礼します」


 雅さんが次の患者を中へと案内する。

 さすがに一人となると忙しい。


 ひと息つけたと思ったら、もう次が来てしまった。


 ——……チッ……チッ……


 今日、初めて聞いた時計の音。

 聴診器を当てるまでもない。


 しわくちゃな顔をしたお婆さんが、椅子にゆっくりと座る。

 優しい顔で常にニコニコ笑っていた。


 「こんにちは」


 平静を装いながら挨拶をすると、お婆さんはゆったりとした口調で挨拶を返してくる。


 「今日は、お一人でここまで?」


 感染者が闊歩する中で、お婆さんが一人で来るとは思えない。


 ——チッ……チッ……


 末期までは、まだ時間がある、が。

 この音が聞こえたら、助かることはないのだ。


 「孫と一緒にのう〜。最後くらい安全なところで暮らしたくての〜」


 こういうのが一番——きついって。

 聴診器を当てるまでもない、時計の音。


 少し会話を交えながら、聴診器を当てるが聞こえてくるのは心臓の音じゃなくて時計の針の音だった。

 ありがとうございます、と言葉を述べて雅さんが外にお婆さんを連れて行く。


 「はぁ……嫌な仕事だ」


 口からそんな言葉が自然と漏れた。

 二枚目の書類の左側へ、目を走らせる。

 黒いボールペンでヤケクソ気味に丸をつけて、手に持ったペンを投げ捨てるように机に放り投げた。


 殺処分——決定。


 「おい、大丈夫か?」


 検診の最中に戻ってきた茜さんが俺にそう、尋ねてきた。

 見上げる気力もわかなったから、頷いて返事だけをすると頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でられた。


 「おう! お前、斗賀見君は、凄いな!」


 突然のことに俺の思考が追いつかない。

 頭の上で暴れ回った手がそっと離れると、俺もつられて茜さんへ顔が向いた。 


 「あの……ありがとうございます」


 笑った口元から見える白い歯。

 覗かせる八重歯と線のようになった目は、大人びた彼女を子供に戻してしまったようだった。


 少しだけ心臓がトクンっと早くなって、その表情に見とれてしまう。

 悟られまいと、急いで視線を下に向けて誤魔化した。


 「んじゃ、後は俺に任せろよっ。書類もらっていくからな」


 茜さんは机に置きっぱなしとなっていた、書類に手を伸ばした。

 身を乗り出すようにしたことで、目の前が彼女の上半身で埋め尽くされる。


 いい匂い。粗雑な彼女から発せられた匂いは、女性そのものだった。


 「よし! ちょっくら行ってくる。斗賀見君は次の患者を頼んだよ」 

 

 元気な彼女の姿は陰が差した俺の心を少しだけ、晴れ渡らせてくれた。

 ぎゅっと拳を握って、落ち込んだ心を奮い立たせると雅さんが連れてくる次の患者を待った。

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