第四十三話 地獄と白衣の男
「……なんだよ、これ」
二階への階段の途中から、何かが腐ったような生臭い匂いが鼻腔を揺らしていた。
一段上がるたびに、その香りはきつくなり、階段をのぼりきる頃には全員が腕で自分の鼻を隠している。
そして、登りきった先にあったのは、地獄の釜の中のような、光景だった。
「うっ……ごめ、さすがにこれはキツイ……」
汐音さんが苦しそうに小さい声でそう言うと、その場で蹲ってしまう。
嗚咽を漏らし、顔は涙と涎でぐしゃぐしゃとなっている。
さすがの海斗さんも眉間にシワを寄せ、目の前の光景からわずかに目を逸らす。
唯一なにも変わらなかったのは、蕾さんだけ。
白い壁に塗りたくられた赤い塗料のようなものを、ただ見つめていた。
「あっ! 斗賀くんは見ちゃだめなの!」
そう言って、蕾さんは俺の二つの目に手の平を被せた。
「海斗は汐音っちのこと、お願いねっ!」
いつもマイペースな蕾さんにしては珍しく、海斗さんに指示を出す。
廊下の状態は別の異界に入ってしまったかのように、不安のような恐ろしさを感じた。
人の中身がぶちまけられて、原型を留めた部位もそこかしこに転がっている。
爆発の衝撃か、壁に突き刺さる足や転がった頭がこっちを向いていて、思わず胃が痙攣を起こして裏返りそうだった。
だけど、それよりも、蕾さんがなにも言わずそれを平然と眺めていた姿の方が印象に残っている。
スプラッター映画の現場に似つかわしくない、彼女の後ろ姿が瞼の裏に貼り付いていた。
この光景を目にして、汐音さんのような人として当たり前の行動を蕾さんは起こさない。
よく言えば――強い。
ただ、彼女が六年間歩んだ歴史がそこに現れているようで、そっちの方が俺は辛い――
「――蕾さん、手汗凄いね」
俺はわざとらしく、嫌がりそうなことを言った。
「へぇ!? やだっ――!」
悲鳴のような声を上げて、蕾さんは手を離す。
その隙に彼女の両手を握る。
クリクリとした瞳を俺に向けた蕾さんは、一瞬、俺が何をしているのか理解できないようだった。
「斗賀……くん?」
疑問を含んだ声色で俺の名前を呼ぶ。
俺は彼女の手を握って、少しだけ安心することができた。
温もりを感じたからとか、好きな人に触れられたからとか、そんな安直なものではない。
彼女の手――わずかに震えてたんだ。
それがどうしてか、俺のざわついた心を静かにしてくれる。
さっき、少しだけ人間味を感じなかった彼女の姿は、脆く何かの拍子に壊れてしまいそうだった。
それこそ、ついさっき蕾さんが俺に感じたものに近かったかもしれない。
でも、今はどこにでもいる普通の女の子だと認識できて、張り詰めた俺の心がゆっくりと解ける。
「怖いのに、守ってくれてありがとね」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見て、そう言葉をかけた。
蕾さんの後には、今も地獄が広がっているけどそんなもの気にならない。
蕾さんのためなら――俺は気持ちが高ぶっているようだった。
「その……ありがとう。でも、大丈夫だよ。私、強いんだからねっ!」
そうかもしれない、だけど彼女の手を離す理由にはならなかった。
もう一度、蕾さんに俺は声をかけようと口を動かす――
――チッ……チッ……チッ……
時計の針の音がする。
「――海斗さん! 感染者です!」
慌てて海斗さんの名前を呼ぶ。
「なんだって、こんな時に。俺と汐音のラブラブな時間を邪魔するなよ、なっ」
「何が、ラブラブな時間よ……早くさっさと立ちなさい。私も、もう大丈夫だからさ」
心底嫌そうな顔をしながら、海斗さんが立ち上がる。
「まだ、末期症状じゃないですけど、時計の音がします」
廊下の向こうを見ながら俺が言うと、海斗さんは俺達を守るように前に出る。
銃を構えながら奥を睨みつけ、小さく深呼吸するようにわずかに肩が浮き上がる。
カツン、カツンと人の足音と、時計の針の音が近づいてくる。
廊下の奥の壁に黒い影が揺らめいて、そこから白衣の男が現れた。
「亮……さん?」
「声がしたと思えば、斗賀見君だったのか」
見知った人物の姿が目に映り、胸を撫で下ろすが彼の胸から聞こえる音に思わず顔をしかめてしまう。
「斗賀見、知り合いか?」
「はい……第二検疫所の所長、神祭亮さんです……」
海斗は銃を下ろすことをしない。
「ふむっ、斗賀見君はやっぱり僕の胸の音が聞こえるのか?」
亮さんはズレた眼鏡を人さし指でクイッと持ち上げて、俺達に近づいてくる。
「止まれっ――!」
海斗がそう言うが、亮さんの足は止まらない。
カツンと乾いた音が水気を帯びた音に変わる。
血の海を平然と渡る彼の瞳の奥には、感情の色がない。
それは、まるで鬼のようでこの場の誰もが彼の異様な空気に飲み込まれていた。
「それが、的中率百パーセントの魔法使いの能力なのか――」
血に染まった廊下のど真ん中で立ち止まると、亮さんは俺だけを真っ直ぐに見てそう呟く。
「私が初期感染者だと言うことに気付いているで、いいんだな? 斗賀見君」
柔らかい彼の口調は鋭くて重たい。
嫌な汗が喉を伝い、まだ距離があるのに喉元を締め付けられているようだった。
俺がそう頷こうとすると。
ダンッ――!
っと、乾いた銃声が廊下の空気を震わせた。




