第三十五話 崩れ始めた日常
「——感! 無量!」
汐音の手料理を食べた海斗さんは、手を合わせて涙を流していた。
大袈裟に騒ぎ立てる彼に冷ややかな視線を送る汐音さんに、いつも通りお腹を擦る蕾さん。
平和な日常が、そこにあった。
「さて、と。そろそろお暇させてもらおうかな。汐音の手料理を食べれるなんて、今日死んでも——悔いはない」
「はいはい、そうですかーって……私もいろいろ準備をしようと思うから、今日は一旦、帰ろうかな。また、夜に来るね」
これからのことも決まったし、一旦はお開きとなる。
「洗い物は俺がしますんで、大丈夫ですよ」
「そう言う、ちょっとしたところが斗賀見くんは、いいよね」
自分の気持ちがバレてしまったのだろうか、汐音さんは開き直ったようにそんなことを、言う。
女性に好意を持たれたことが初めての俺にとっては、反応に困ってしまう。
困ったように笑うと、汐音さんの表情に陰が差したように寂しそうに見えた。
「……それじゃ、帰るね」
「では、アデュー!」
俺と蕾さんは玄関まで見送りに向かう。
「二人とも、帰り気をつけてね〜」
ひらひらと蕾さんが手を振っている姿が横目で見える。
俺もそれを真似て何となく、手を振った。
「なんか、妬ける〜」
と、ボヤキながら、汐音さんがドアノブを回す。
キィッと金属が擦れる音がして、隙間が生まれると太陽の光が隙間から部屋の廊下を照らした。
——チッチッチッチッチッチッ
「————」
遠い、だけど俺のこの"特別"な耳はその音を逃さなかった。
普通の人より敏感で、ある程度開けた場所なら時計の音がよく聞こえるのだ。
「え——?」
俺は海斗さんを押し退けて、汐音さんが開けようとした扉を勢いよく閉める。
目を見開いた彼女の顔が俺の視界の隅に見えたが、反応する余裕はなかった。
乱暴に鍵を閉め、海斗と汐音さんの手を引っ張って玄関から引きはがす。
「ねぇ……急にどうしたの?」
扉が閉まって音は小さくなったが、かすかに聞こえる。
不安そうに俺を見つめる汐音さんに、説明しようと口を開く——
——その瞬間、空気が震えた。
「——きゃっ!」
「これは……斗賀見! 感染者か!?」
「そうみたいだ」、と答えると海斗が急いで部屋の奥へ移動するようにと叫ぶように声を荒げた。
「どうやって、隔離区に入ってきやがった! クソッ! これじゃ、俺と汐音のラブラブ帰り道デートがおじゃんじゃねーか!」
冗談なのか、本気なのか、海斗が部屋に戻るや否やそんなことを言う。
ただ、汐音さんはそれに対して文句を言う余裕がないのか顔を青くして震えるだけだった。
「最悪だ、非番だからって仲間と連絡を取るための特殊無線すらない」
スマホでどこかに連絡をしていたようだったが、繋がらない。
海斗は背中の服をたくし上げると、そこから銃を取り出す。
「あ、あんた、そんな物まで持ち歩いてるの?」
「ふっ、褒めてくれていいんだぜ。って、一応非番でも警察としての役割を任されるからな。隊長クラスは普段から拳銃の所持を許されているだ、よっ」
マガジンを一度抜いて弾を確認すると、銃の上半分を引っ張って壁に向かって海斗は軽く構える。
「よし、オッケーだ。と言っても、残弾は十五発しかないのは心許ないが……無いよりは、マシか」
海斗さんの手際の良さに俺は見惚れていた。
真剣な眼差しでカーテンの隙間を覗く彼の横顔は、映画のイケメン俳優さながらで、太陽の光に透ける金色の髪の毛がカーテンの揺れに合わせるように揺れる。
——男の俺でも見惚れるくらいだった。
「民間人が三人……外の状況は分からないが遠くの方が騒がしいみたいだ」
「あんまり覗いてると……危ないよぅ」
そう、蕾が海斗に言うと、さっとカーテンを閉じた。
「そうだな。キュートな汐音に万が一があったら、たまらんからな」
「こんな時でも、イチイチうざいんだよなぁー。海斗はさ」
青ざめていた汐音さんの顔は、赤みが戻っていた。
「さて、これからどうするか、だ」
「一旦、情報収集しましょう」
海斗さんも汐音さんも最初こそ焦った表情を見せたが、すぐに冷静になって行動に移していく。
俺と蕾さん、完全に二人に頼り切りだった。
『——速報です。第五隔離区セクターβ内部で、感染者によるものと見られる爆発が確認されました。東区、西区の住人は外出を控え政府の指示に従ってください。
また、政府機関よりシェルターの解放が決定されました。避難が間に合わない場合は指示に従い速やかに避難してください。繰り返します——』
これで、さっきの爆発が感染者によるものだと言うのが確定した。
汐音さんが手を口に当てて、考える。
「まだ、外に感染者がいるかもしれない、となれば一旦は建物の中にいた方がいいかな」
「さすが、プリティーな汐音。僕も同意だな……それと、仮に光を見ても発症までは時間がある。末期症状は最低でも七日、となれば少しすれば落ち着くだろう」
二人が冷静に状況を分析する。
光を見て、初期症状が現れるのは数時間から三日。
末期症状になるまでは、普通の人間と変わらない。
「とりあえず、みんな窓に近づかないように。斗賀見、ガムテープとかあるか?」
海斗さんがそう言って、俺は部屋の中を漁る。
引っ越しの時に使ったテープが余っていて、それを渡すと海斗はカーテンの隙間を塞いでいく。
「いったんは、これでよし。ちょっと僕は連絡が取れないか、試してみる」
海斗が銃を片手に、スマホを操作する。
何度も連絡を試みて、ようやく繋がったのか何やら話し始めた。
「それにしても、斗賀見くんのおかげで本当に助かったよ。ありがとう、ね」
窓から離れたところで、三人で固まって会話をしている。
「斗賀くん、凄いね! よく聞こえたよね! 私、全然分からなかったよぅ!」
俺の耳は特殊だし、時計の音に敏感だったようである。
末期患者であれば他人でも聞こえるのだが、三人には聞こえなかったようだった。
「俺の耳が、役に立って本当に良かったよ」




