第二十八話 気のせい
ざわざわと賑わう店内。注文のたびに忙しなく動き回る店員を見つめながら俺は席に座っていた。
初めてお酒を飲む場に訪れて、自分だけが浮いているような気がして落ち着かない。
何をすることもなく暇をもて遊ぶ俺の手は、渡されたタオルをなんとなく触ってみたり、スマホを眺めてみたりと休まることはなかった。
「斗賀見君、お待たせしました」
「うぃーっす」
暖簾のようになっていた入口がはたと揺れて、その奥から亮さんと神矢さんが現れる。
「こんばんは」
「おうおう、斗賀見くんは誰よりも早く来て、真面目だな」
てっきり三人で飲むかと思っていたから、茜さんと雅さん、二人の姿も見えて驚いた。
俺は椅子を引いてその場に立ち上がる。
「あ、あの! 今日は誘っていただいて、ありがとうございます!」
頭を深々と下げて挨拶をする。
「——はっはっはっ! 斗賀見君は元気がいいな! でも、飲みの席では無礼講だぞ。そんな畏まらなくていい」
「ああ、神矢の言う通り。今日は楽しく、飲もう」
豪快に笑う神矢、優しく諭すように話す亮。
「そうだぞ、斗賀見くん。この筋肉ゴリラはただのおっさんだ」
「いつもみたいに、肩の力を抜いてください——」
自分よりも遥かに大人な四人にエスコートされるように、飲み会が始まった。
乾杯の言葉や、初めてのお酒の味。
最初こそ違和感があった店内の雰囲気も、今は逆に楽しい気分にさせる。
とにかく、喋った。
仕事のことはほとんど話さずに、普段何をしているのか。彼女はいるのか、とか。
そんなありふれた話、だった。
それだけのことなのに、ずっとこの時間が続いたらいいなって思ってしまう。
「そう言えば、この前は斗賀見君が書類の不備を見つけてくれたんだって? さすがだね。いつも、人数覚えてるのかな?」
そろそろ飲み会もお開きが近づいてきたのか、初めてこの場で仕事の話を振られた。
「ふぁいっ! 気づいたのはたまたま……です。前は気のせいかと思ってたんですが、二回目だったので思わず」
呂律が回らない。
初めて酔う感覚に、亮さんの言葉を理解しているがどこか他人事のように聞こえていた。
なんとか、質問に答えたが自分ではちゃんと話せているか分からない。
「陽性者の数を覚えてるのかな?」
その問いに「そうでふ」、と言葉を発すると亮さんは顎に手を当てて何か考えるそぶりを見せている。
他の人も神妙な面持ちで、俺からわずかに視線を外して黙ってしまった。
「任せてくだふぁい! ちゃんと陽性の人を俺が見つけまふからっ!」
拳を握りながらそう言うと、神矢さんが乾いた笑みを見せた。
「……おう、それは頼もしいな。ところでよ、本当にどうやって見つけてるんだ? もし、秘訣があるなら教えてくれよ」
そう言った神矢さんは口は笑っていたが、目は笑っていない。
「それは——」
俺は自分の耳について話そうとしたが、その瞬間、出入口の暖簾が捲くられた。
「——そろそろお時間になります」
店員だった。
その瞬間、少し酔いが覚めて俺が思わず口走ろうとしたことを飲み込んだ。
「……それじゃ、今日はここまでかな。斗賀見君、またみんなで飲もう。その時は、雪村さんも誘おうか」
そう言うと、亮さんは伝票を持って立ち上がる。
「最後に、一つだけ教えて欲しいんだけどいいかな?」
「はい、なんでしょう?」
「消えない——チクタク。斗賀見君は知ってる?」
「噂は……聞いたことありますけど、本当にいるんでしょうかね?」
と、はぐらかす。
「うん、ありがとう。消えないチクタク、本当に存在するなら一度、会ってみたいな。きっと、みんなを治す薬の開発がもっと進むと思うんだ」
亮さんの瞳の奥には強い意志が、感じられる。
それは医者としての責務なのかもしれない。
「陽性の患者さんにも人権は——あるからね。人権を、保護を、安らぎを……斗賀見君はこれを忘れないで欲しい」
そのセリフ、どこかで聞いた覚えがあったが、酔の回った頭では——思い出せない。
◇
居酒屋を後にした俺は、その場で解散となった。
亮さんも神矢さんも、日曜日なのに明日も朝から仕事らしい。
休みの日を使って、治療薬の研究をしているとのこと。
そんな尊敬できる人達と別れて、街から外れた道をアパートに向かってのんびりと歩いていた。
「はぁ、疲れたけど……楽しかったな」
あのわちゃわちゃとした感じ、嫌いじゃない。
ただ、自然と体に力が入っていたのか、肩が妙に痛かった。
「蕾さんと汐音さん……寝ちゃったかな?」
二人の顔が脳裏に浮かぶ。
この頭の中に残った余韻を二人に話したい気分なんだ。
帰りが遅くなるからって、汐音さんは泊まるとのことで、今ごろ蕾さんは厳しくされてるのかなと、思うとなんとなく口元が緩む。
後、五分くらい歩いたら自分の家に到着する。
街の中の喧騒はもう聞こえない。
歩く俺の足音と、息遣いだけ——
——チッ……チッ……チッ……
「え?」
かすかに聞こえた時計の針の音。
足を止めて耳を済ませてみたが。
「……気のせい、だよね?」
隔離区の中に陽性患者はいないはず。
俺が全て止めているのだから。
末期患者と言うよりは、初期の頃の時計の音のように聞こえたが、今は何も——聞こえない。




