第二十六話 書類不備と駄々っ子
「今日も、お疲れ様でした」
雅さんが書類を挟んだバインダーを手に持ちながら、穏やかな口調で俺に言葉をかけてきた。
「あ……お疲れ様です」
あまり感情に出さない彼女があの『デブさん』だとは今でも、信じられない。
ふと、声をかけられて、別の名前で思わず呼びそうになって俺はそれを飲み込んだ。
そんな俺の心の中を感じ取ったのか、すっと目を細めた雅さんは、無言で圧を与えてくる。
逃げるように目を彼女の胸元に下げると、大事そうに抱えている書類に目が行く。
「あは、は。そ、そう言えば、いつも持ってる書類にはなにが書いてあるんですか?」
話題を変えようと、雅さんにそう言葉をかける。
「デブじゃない、です……これはですね、今日検査した人のことが書いてあるんですよ」
むっ、としながら最初に変なことを呟いて、その後はいつも雅さんに戻る。
「陽性患者が何人いたか、陰性の患者が何人いたのか。それと、これまでの数が統計で書いてありますよ」
と、丁寧に説明してくれる。
今日の陽性患者は十三人。
やはり、多い。
「やっぱり……増えてるんですよね? 陽性の患者さん?」
恐る恐る、そう訪ねると雅さんは小さく頷く。
「まだ、誤差の範囲内と言えばそうなんですが、増えてるのは間違いないです」
何が原因で増えているのかは分かっていない。
誤差の範囲内と言っているが、やはり不安ではある。
「今日も——"十一人"が陽性になってます」
ペラペラと雅さんが書類をめくりながら、そう言ってくる。
十一人。そんな、ありえない。
「雅さん、数……おかしくないですか?」
最初は数え間違いかと、思った。
でも、二日続いているとなると話は別。
書類に記載ミスでもあるのかもしれないと、俺は雅さんにそう尋ねた。
「……数が、違う? 斗賀見さんは、陽性になった人の数を覚えているんですか?」
眉毛を寄せながら雅さんは俺を真っ直ぐに、見やる。
だから、毎日記憶していることを告げると、何かを考えるように顔を俯いた。
「書類の不備が……あるようですね。確認してきます。それでは、お疲れ様でした」
雅さんはそそくさと部屋を出て行ってしまう。
あまり感情を表に出さない彼女だったが、顔を一瞬しかめて慌てた様子だった。
「雅さんに言っておけば、次からは人数の間違いはないでしょ」
俺は荷物をまとめると、部屋の外に出た。
「ん? あれは……雅さんと亮さん?」
廊下の奥の方で人影が二つ見えた。
目を凝らしていると、神祭夫婦の姿が映る。
何やら神妙な面持ちで向かいあって話しをしているようで、俺は一瞬足を止めて二人を見つめていた。
「あっ……」
亮さんが俺に気づいたのか、右手を上げて挨拶をしてくる。
慌てて頭を下げると、雅さんと亮さんは奥の方へと消えて行った。
◇
「飲み? 所長と二人と?」
家に帰ってくると、当たり前のように汐音さんがやってきた。
昼食を食べ終えて談笑をしていたのだが、土曜日の件について相談をする。
所長二人に誘われたと告げると、汐音さんは少し驚いたように目を見開いた。
「そうなんですけど……やっぱり蕾さんのことが心配だから断ろうかなって思って」
お腹を擦りながら、ベッドの縁にもたれかかる蕾さんを見ながらそう言った。
「ふーん、行ってきなよ。蕾は私が見てるからさ」
コップに一口、口を付けてから汐音さんは目を上に向けて一瞬考えるそぶりを見せる。
上に泳いで行った目が戻ってくると、そう言ってきた。
「いいんですか?」
「うん。所長に誘われるとか、こんな機会中々ないし。それに、もしかしたら斗賀見くん社員になれるかもしれないんだよね?」
神矢さんと亮さんに言われたことを、俺は汐音さんに話していた。
その時は、飛び跳ねるほど喜んでいて、アパートに他の住人がいればクレームが来ていただろう。
それくらい自分のことのように喜んでくれた彼女は、この機会を逃さないようにと思ったのかもしれない。
「ついでに蕾を——調教しとくからさ」
汐音さんは、また一口コップに口をつける。
トンッと言う音と共に、ガバっと蕾さんが体を起こした。
「やだ! 斗賀くん行かないでっ!」
蕾さんが俺の腕の部分の袖を強く握り締めて見上げながら懇願するように、言ってくる。
「汐音っちと一緒とか! 厳しいからやだ! 辛いっ! 悪魔! 私が私じゃなくなるよぉ〜……ふぇ〜ん」
そのまま続けて口を開くと、机を挟んで向かい側に座っていた汐音さんが震え出す。
「蕾……覚悟してなさいよ? 斗賀見くんは、気にせず所長と楽しんできてね」
震えながら笑う汐音さんの覇気の矛先は蕾さんに向けられているはずなのに、喉元を嫌な汗が伝うほどである。
俺の腕に絡みつくようにしがみついている蕾さんは、そんなのお構い無しに汐音さんを煽り立てていた。
彼女が頭を振る度に、腰まで伸びた長い黒髪がぶんぶんと暴れている。
なんとなく、蕾さんから鳴る『チクタク』と言う音も元気がないように感じた。




