第二十五話 平和な第三検疫所
「汐音さん……昨日のSNSのデブさんってさ」
結局、蕾さんはいつも通り目を覚ますことなく、俺は第三検疫所に着いて汐音さんと少し談笑していた。
その最初の話は「デブさん」こと、神祭雅さんのこと。
最近、少し打ち解けてくれたのか話かけてくる頻度は増えたけれど、デブさんのようにとんでもキャラではない。
おしとやかで、そしてクールで、頼れるお姉さんって感じ。
が、デブさんはどうだろう。
「それ、私も凄い驚いたって言うか……今日は顔を見て挨拶できなかったよ」
でしょうね、と言いたい。
そんな中、俺は一緒に仕事をしないとなんだから、変わってくれないだろうか。
そう、目で訴えると、汐音さんが不敵に笑う。
「今日も一日頑張ってくださいね。うふっ、これ制服です」
らしからぬ話し方。
俺は白衣を乱暴に受け取って、ケタケタと笑う汐音さんを睨んで二階へと上がった。
「おーす! 斗賀見君」
そこで待っていたのは、神矢さんだった。
医者と言えば、もっと線が細い体をイメージするが、彼はそれとはかけ離れている。
俺が百七十センチくらいなのに、見上げないと目が合わない。
百九十センチ、かそれ以上はある。
身長だけじゃなくてガタイも良くて、柔道をやっていると言われても不思議じゃない。
そんな大男が、こっちに片手を上げながらずかずかと歩いてくるんだから、知らない人だったら一目散に逃げていたと思う。
「……おはようございます。今日はどうしたんですか?」
「ああ、弁当忘れてよ。茜の奴に取りに来いって言われてさ。せっかくだから、斗賀見くんに会って行こうと思ってたんだ」
あけすけない彼の態度。反対の手には巨体に似つかわしくないお弁当が入っているだろう、小さい包を持っていた。
その光景が少しシュールで、緊張するように張っていた体から力が少し抜ける。
「ところでさ、今週の土曜日は空いてるか?」
なんの脈絡もなく神矢さんが、そう言ってきた。
「えーっと……大丈夫だったと思います」
仕事と家の往復を繰り返す俺には特に、予定がない。
あるとすれば、蕾さんが家にいて一緒にだらだらとしていることくらいだ。
だから、そう答えると神矢さんがニカッと笑って、次の言葉を発した。
「なら、飲みに行くぞっ! せっかくこうして出会えたんだ、少し話をしようぜ! あと、亮も誘うつもりだからよ」
突然の誘いに、すぐに言葉は出なかった。
こうして気を使ってくれる彼に、かすかに俺の胸の奥が熱くなる。
「あ、あの……」
飲み、と言うのもお酒を飲む行為もボッチの俺には初めてのことだった。
それだけでも気後れしてしまうのだが、一番はやっぱり蕾さんが心配である。
「おっ? なんだ? あ、まさかな」
何かに勘づいたかのように、ニマニマと笑う神矢さんは俺の肩を力強く叩く。
「おし! まずは、彼女さんに許可を取ってからだ。分かったら、俺に連絡してくれ!」
元々用意していたのだろう。
神矢が白衣のポケットから紙切れを取り出すと俺に渡してくる。
「いえ……そんなんじゃ……」
神矢はまったく人の話を聞かないで、自分の世界に入り込んでいるかのように頷く。
「ちゃんと彼女さん大切にしねーと、将来、怖えーからな」
と、しみじみと神矢が言う。
「よし! 予定が分かったら教えてくれ! じゃぁな!」
そう言い残して、神矢は立ち去って行ってしまった。
紙切神矢は嵐のような人だった。
顔は怖いし、身体も大きい。でも、こうして優しくしてくれるところは、まるで茜さんのようにも見えた。
彼の姿が見えなくなるまで、診療所の奥にある廊下に向かって歩く後ろ姿を俺は見ていた。
いつか、言葉だけで元気付けられるような人間になれるだろうか。
そうすれば、夢の中で見た彼女に——あんなにも辛そうな笑顔をさせることはなかったかもしれない。
「おはよう——」
「——デブじゃ、ありません」
診察室に入るや否や、雅さんが突然そんなことを言ってきた。
奥の方では茜さんが腹を押さえて、声にならない笑いを零している。
「えっ……と」
そんな雅さんに目を向けると。
「——ひっ!」
思わず小さい悲鳴を漏らすほど、冷たい視線が送られてくる。
——能面。
その言葉が合うように、瞳の奥には感情がなく。
頬の筋繊維一つすら——動いていない。
ただ、冷たく俺を見つめるだけ。
「く、くくク、アハハハッ! やべー! めっちゃおもしれー!」
バンバンと手の平で壁を叩きながら笑う茜さんは、ホラーさながらのシリアスな雰囲気をぶち壊した。
「雅、諦めろって! ぷ、、くっ!」
そう言いながらも、堪えきれず笑う茜さんを鋭い目で睨みつけている。
「あなたが、余計なこと言うから悪いんでしょう?」
ガシッと雅さんは、金色に染まった茜さんの頭を鷲掴みにする。
「でもよぉ、トドメを刺したのは自分だぜ? 雅」
入ってきてすぐに、昨日のSNSでやり取りを見ていないと分からない単語を雅さんは口走ってしまった。
茜さんに指摘されて、雅さんの動きが止まる。
「…………」
彼女は無言だった。
「デブ……さん」
俺は思わずそう口走ってしまう。
再び茜さんが爆笑する声が、診察室の中を埋め尽くした。
今日も、第三検疫所は平和だ。




