第十四話 曇り時々、雨
「斗賀見くん、おはようございます」
時刻は朝の六時を過ぎたところ。
仕事は七時からすることになっている。
受付を担当する汐音さんはそれよりも早くから、受付で準備をしている。
そんな彼女は眠そうな顔を一つ見せず、挨拶をしてくる。
「……おはようございます」
「斗賀見くん、なんか今日は元気ないね。昨日のことまだ引きずってる?」
心配そうに身を乗り出して顔を覗き込んでくる汐音さんに、「寝不足です」、と答える。
彼女はそれを俺がまだ悩んでると勘違いしたのか、眉毛がにゅっと中心に寄った。
「あの……なにかあったら、いつでも相談してね」
見つめてくる汐音さんの瞳に俺は吸い込まれた。
昨日の雅さんの件以降、確かに心が重たくて元気がでないと言うのもあった。
汐音さんに強引に誘われた食事しかり、一番は家に突然現れた紗花蕾——こいつの影響が多い。
おかげで考える暇すらなくて、忘れていたわけじゃないが、そこまで心が疲弊することはなかった。
それが一人だったらと思うと、恐らく汐音さんの思っていた通りになっていたと思う。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
そう言うと、少し身を乗り出していた汐音さんは、椅子に再び腰を下ろした。
いつもの検診用の道具をもらって、二階へ行く。
階段を登り切ると広い空間に出た。
大勢の人が座れるように椅子が用意してあって、暇をつぶす雑誌やテレビまで置いてある。
その椅子の中心に一人の人影。
——茜さんだった。
「おはようございます。って、なにしてるですか?」
椅子の背もたれにこれでもかってくらい体を預けて、両手の肘は偉そうな人がするように隣の椅子の縁に乗せている。
「んあっ? ああ、斗賀見君か……おはよう。少し寝てたんだわ」
寝てるにしてもなんでこんなところで。
しかも、ど真ん中でさ。
茜さんが立ち上がると軋んだ椅子が元に戻る。
腰をバキバキと鳴らしてから、俺の方へとツカツカと近寄ってきた。
「いや、なに。検査室の中で寝ようとすると、雅に怒られるからよ」
乱暴な口ぶりの彼女は今日はどこか調子がいいのか、目の下の隈が薄くなっているように見える。
頭一つくらい俺より身長が高い彼女は、頭をポリポリとかいて大きな欠伸をしていた。
「雅さん……怪我は大丈夫なんですか?」
雅さんの名前を呼んだ時、初めて現実が俺に追いつく。
俺は改めて昨日のことを思い出して、心が鉛に変わった。
「大丈夫だ。早く中に入ってやれよ。雅のヤツ、斗賀見君に心配かけたって落ち込んでるからよ」
背中をポンポンと叩かれて、「モテる奴は違うな」と茜さんは茶化してくる。
「——おはようございます」
「斗賀見さん、おはようございます」
雅さんの右の頬には大き目の白いガーゼが貼られていた。
それが目に映ると、眉間に力が入る。
すると、雅さんの口元が静かに笑った。
「ふふっ。ガーゼの下は少し青いだけだから、大丈夫ですよ。これも斗賀見さんがすぐに冷やしてくれたからですね。ありがとうございます」
そう言い切って、また笑顔を向けてくる。
どことなく包容力があって、俺は彼女のその笑顔に釘付けとなっていた。
「ほらほら、入口で詰まるな」
そんなことをしていたら、後ろから茜さんに軽く肩を叩かれる。
慌てて中に入って、茜さんに謝罪すると口元がニヤニヤと笑っていた。
「雪村の次は、雅を落としたのか……お前、やるな」
茜さんの発した言葉のせいで余計に雅さんを意識してしまい、雅さんと目が合うと気恥ずかしくてまともに見れなくなった。
◇
「今日の陽性患者は十人越え、か。最近、多いな」
書類手に取って、金色の前髪を手で掻き分けなが茜さんが言う。
「多い、ですよね」
俺も、そう思った。なにかが起きているのか、それとも単に感染してない人達が減ったのか。
「まあ、まだそこまで増えてないから、偶然そうなったってレベルだけどよ」
彼女は書類を机に置く。その瞳には眠たそうな雰囲気はなく、真剣な眼差しが白い紙に向けられていた。
彼女の風貌は看護師と言うには似つかわしくない。
むしろ、そう言うお店で働いてると言っても、納得できる。
「まあ、心配いらないだろっ。たまにあるやつだ、きっと、そう」
まるで、自分に言い聞かせているように見えた。
俺は声をかけようとしたけど、茜さんは「お疲れ〜」と手を振りながら出て行ってしまう。
雅さんは、時間と共にそそくさと部屋から出て行ってしまったので、今は検査室には俺一人しかいなかった。
「はぁ〜、疲れた」
聴診器を慎重に当てる右肩が異様に重たい。
軽く肩を回してから椅子から立ち上がる。
「忘れ物、大丈夫だな」
部屋の電気を消すと、俺は一階に降りた。
◇
受付に行くと、にこにこ笑顔で俺を出迎えてくれる。
その後は少し談笑して、俺は外へと出た。
今日は曇り空。
ずっと天気良かったから、灰色の世界は少し寂しく見えてしまう。
なんだか、一人取り残されたような——そんな感じだ。
なんとなく顔を上げると、雲の後ろに薄くなった太陽が見えた。
外に出たがっているようで、必死にアピールをしているが、黒い雲がそれを覆い隠してしまう。
「神が——」
いつもの宗教の演説。毎日、ご苦労なこって——
瞬間、鼓膜が大きく揺れて、体を強い衝撃が突き抜けた。
ポタポタと雫が頬に垂れる。
上を向いていたせいで、赤い雨は俺の顔をずぶ濡れにした。
——甘くて気分の悪くなる匂い。
そして、久しぶりに嗅いだこの香り——
破裂した母。
頭だけの父。
そして——
「パパ、ママ……怖いよ……」
隣で泣いていた少女の——泣き声。
全てが始まった日を鮮明に、頭に蘇った。




