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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
8/52

第7話 みんなもそう思ってる


    * * 勝也視点 * *


 朝の教室で、翔太が問題集を開いていた。


「珍しいね。忘れてたの?」


 リュックサックを下ろしながら聞くと、翔太は首を振った。


「終わってる。勝也、最後のやつ、どうなった?」

「最後?」

「ここ。答え同じなんだけど、春樹と途中が違うんだよ」


 見せられたページには、計算が何行も並んでいた。

 俺は自分の問題集を出し、同じところを開いた。


「俺、春樹と同じだと思う」

「ほら。こっちの方が短いでしょ」


 春樹が言った。

 翔太は2冊を見比べてから、自分の鉛筆を置く。


「……そういうことか。何か、無駄に頑張ったな」

「途中で気づかなかったの?」

「ここまで書いたら、最後まで行きたいだろ」

「宿題で意地張らなくても」


 俺が笑うと、翔太も笑った。


「でも合ってるからいいだろ」

「それはね」


 春樹は頷き、自分の問題集を閉じた。

 俺も、消しゴムで直した跡が残っているページをしまった。


 答えを比べるだけのつもりが、いつの間にか、誰がどこで間違えたかという話になっていた。

 翔太が別の席へ見せに行き、俺は次の授業で使う物を机へ置いた。


 顔を上げると、優子が教室へ入ってきた。

 リュックサックを机の横へ掛けてから、少しかがんで中を確かめている。

 近くを通る生徒を待ち、俺は優子の席へ行った。


「富田、おはよう」


 優子が顔を上げた。


「おはよう、勝也くん」


 声は小さかったけれど、こちらを見てくれた。

 俺は空いている隣の椅子を少し引いて座った。


「この前の本、まだ読んでるよ」

「……どこまで進んだ?」

「昨日、帰ってから少し読んで、出かけるところまで」

「あ、じゃあ……」


 優子が、何かを言いかけて止まった。

 俺が首を傾げると、少し笑う。


「まだ、言わない方がいいところだった」

「気になるんだけど」

「読んだら分かるよ」

「じゃあ、帰ったらそこから読む」


 優子が頷いた。

 あのあと何があるのか、聞きたくなったけれど、やめておいた。

 先に知るより、読んでから同じところの話をしたかった。


「富田は、今、別の本?」

「うん。昨日、読み終わったのがあって」

「それも面白かった?」

「面白かったよ。最後まで読んでから、初めの方をもう1回見たくなるの」

「最初に、何か書いてあったの?」

「うん。でも……最初に読んだ時は気づかなくて」


 俺にも、そういうことはあった。

 後ろのページを押さえたまま前へ戻り、同じ言葉を見つけると、初めから書いてあったのかと思う。


「それ、ちょっと嬉しいよね」

「うん。分かったあとだと、同じところでも違って見えるから」


 優子の指が、机の上の筆箱へ触れた。

 少し考えてから、こちらを見る。


「あのね、その本……」

「鵜飼くん」


 教室の前から、小島が呼んだ。

 担任に頼まれたプリントを持っていた。配るのを手伝ってほしいらしい。

 俺は返事をしてから、優子へ向き直った。


「ごめん。ちょっと行ってくるね」

「うん」

「本の話、またあとで聞かせて」


 優子が頷いた。

 椅子を戻してから教卓へ行くと、小島が紙の束を半分渡してくれた。


「こっちの列からお願い」

「分かった」


 1枚ずつ配り始める。

 教室の後ろへ回った時、優子のそばに、同じクラスの女子が立っているのが見えた。

 机へ問題集を開き、何か聞いていた。


 優子も同じページを探していた。

 女子が指すところへ頷き、それから自分の問題集を少し近づける。


 何を話しているかまでは聞こえなかった。

 でも、さっき俺たちがしていたのと、似たようなやり取りに見えた。


 俺は残りのプリントを持ち直した。

 翔太の席には本人がいなかったので、問題集の横へ置いた。


    * * 優子視点 * *


「富田さん、今日使うのって、ここまでだっけ?」


 隣の列の子が、問題集を見せてくれた。

 私は自分のものを開き、昨日書いた印を確かめた。


「……うん。ここまで……だったと、思う……」

「よかった。次のページまでだったら、やってないから」


 その子は少し笑った。

 私も口元を緩め、同じところへ指を置いた。


「……私も、そこまでしか……やってないから……」

「じゃあ、大丈夫だね」


 返事を待ってもらえた。

 それだけで、少し息がしやすくなった。


 聞かれたことは分かっていたし、答えも確かめられた。

 それでも、言葉を出そうとすると、途中で小さくなってしまう。

 相手が聞き取れなかったかもしれないと思うと、次の言葉を出す前に顔を見てしまう。


 今は、何回も聞き返されなかった。

 その子は問題集を閉じず、最後の問題を見ていた。


「これ、どこから計算した?」


 私は自分の書いた式を見た。


「……ここを、先に……」

「ああ。私と同じだ」


 その子が、私の指したところへ鉛筆を置いた。

 自分の解いた順番も、短く説明してくれた。

 私は頷き、途中で消した跡を指した。


「私……最初、こっちから……やっちゃって……」

「そっちだと、長くなるよね」

「……うん」


 少しだけ笑えた。

 その子も笑い、問題集を自分の方へ戻した。


「ありがとう。先生来る前に分かってよかった」

「……ううん」


 その子が席へ戻るのを見送った。

 机の上には、勝也くんが配ってくれたプリントがあった。

 折れないように問題集の上へ重ね、筆箱の位置を直す。


 今日は、朝から2人と話した。

 勝也くんには、本の続きをあとで聞かせてと言ってもらえた。

 今の子にも、聞かれたことを答えられた。


 うまく話せない時ばかりではない。

 そう思うと、いつもより少しだけ、顔を上げて座っていられた。


     * * *


 2時間目が終わってから、手を洗いに行った。


 廊下の水道には、先に何人か来ていた。

 空くのを待って洗い、ハンカチで指の間を拭きながら教室へ戻る。

 後ろのドアが開いていた。


「だから、富田さんと話すの、ちょっと困るよねって」


 自分の名前が聞こえ、足が遅くなった。

 美咲さんの声だった。


「……うん。話しづらいなって思う時は、ある」


 私は、ドアの手前で止まった。


 答えたのは、朝、問題集を見せてくれた子だった。

 美咲さんの机のそばに立ち、問題集を胸の前へ抱えていた。

 周りには、莉奈さんと玲奈さん、奈々さんがいた。


 その前に、何を話していたのかは知らない。

 でも、今の言葉は聞こえた。


 話しづらい。


 さっきは、ちゃんと話せたと思った。

 同じところで迷ったことを話して、少し笑ってもらえた。

 ありがとう、とも言ってくれた。


 その時間も、あの子には困る時間だったのだろうか。


「あ。富田さん」


 莉奈さんが私に気づいた。

 持っていたハンカチを、しまう前に握ってしまった。


「今の、聞こえた?」


 美咲さんがこちらを見た。

 私は、どう答えればいいのか分からなかった。

 聞こえなかったことにして席へ行くには、立ち止まっている時間が長すぎた。


「……少し……」

「別に、悪口じゃないからね」


 美咲さんは、椅子に座ったまま言った。


「私たちも、どう話せばいいのかなって思ってるだけ」


 朝の子が、こちらを向いた。

 私は目を合わせようとして、途中で視線を下げた。

 さっきみたいに、問題集のどこを見ればいいのか教えてもらえる話ではなかった。


「何か聞いても、返事するまで長い時あるでしょ。その間、ずっと待ってる方も困るんだよ」


 莉奈さんが言った。


「……ごめん、なさい……」

「だから、謝ってほしいんじゃないって」


 何を言えばよかったのだろう。

 謝らなければ、困らせているのに気にしていないと思われるかもしれない。

 でも、謝ったら、違うと言われた。


「……話したくない、わけじゃ……なくて……」

「じゃあ、もうちょっと普通に話してよ」


 玲奈さんが言った。

 譜面を渡してくれた時と同じ声だった。

 私は、今度は最初から最後まで言わなければと思い、息を吸った。


「何て……答えたらいいか、考えて……」

「そんなに難しいこと、聞いてないと思うけど」


 続きを言えなくなった。

 美咲さんが、周りへ顔を向ける。


「ね。私たちだけが、変なこと言ってるわけじゃないよね」


 玲奈さんが頷いた。

 その隣に立っていた奈々さんも、口を開いた。


「返事がないと、聞こえてるのかなって思うことはあるよ」


 奈々さんの言葉に、美咲さんが、そういうこと、と答えた。

 それから、私へ目を戻した。


「ほら。みんなもそう思ってるんだよ」


 みんな。


 私は、朝の子を見た。

 その子は、問題集の端へ目を落としていた。

 違う、と言ってくれる声は聞こえなかった。


 いつも美咲さんたちと集まっている子ではなかった。

 普段、私へ嫌なことを言ってこない子だった。

 私が困っていても、からかったり、説明の途中で笑ったりしなかった。

 だから、さっき聞こえた返事を、からかわれた言葉だと思うことができなかった。


 あの子まで、そう思っていた。

 それなら、今ここにいない人たちも、同じなのかもしれない。


「そんな顔しなくても」


 莉奈さんが言った。

 私は急いで口元へ力を入れた。


「……ごめん……」

「また謝るし」


 美咲さんの、短く笑う声がした。

 私は俯いたまま、ハンカチを握り直した。


 早く席へ行きたかった。

 でも、何も言わずに歩き出したら、話を聞きたくないから逃げたと思われる。

 説明しようとしても、また途中で止まりそうだった。


「……気を、つけるね……」


 やっと言うと、美咲さんが頷いた。


「うん。普通にしてくれればいいから」


 話は、それで終わったらしかった。

 莉奈さんが玲奈さんの持っている紙へ顔を寄せ、美咲さんもそちらを向く。

 朝の子は自分の席へ戻った。


 私も、机の間を通った。

 椅子へ座ってから、まだハンカチを握っていたことに気づいた。

 濡れた指で強く押さえていたところに、細いしわができていた。


 広げて、もう1度畳んだ。

 角を合わせようとしても、うまくそろわなかった。


     * * *


 次の授業が始まった。


 先生が教科書のページを言い、私は指で探した。

 開いたところを隣の列の子と見比べようとして、やめた。

 朝に話した子の机だった。


 先生の説明を聞こうとした。

 でも、短い返事が何度も頭へ戻ってきた。


 話しづらいなって思う時は、ある。


 私は、あの子に何か嫌なことを言っただろうか。

 問題集のことを聞かれた時、答えを出すのが遅かったのかもしれない。

 自分が間違えたところまで見せたのが、余計だったのかもしれない。


 あの時は、少し話せたのが嬉しかった。

 もう少し続けばいいな、とまで思っていた。


 そう思っていたのは、私だけだったのだろうか。


 黒板を見た。

 先生は、もう別のところを説明していた。

 私は空いている行へ急いで書き足した。


 間違えないようにしようと思うほど、朝に何を言ったかを思い出してしまう。

 同じところで迷ったと言った時には、笑ってくれた。

 でも、笑ってくれたことだけで、嫌ではなかったと決めてはいけなかったのかもしれない。


 消しゴムが、足元へ転がってきた。

 斜め前の席の子が、机の横へ身をかがめていた。

 私は拾い、差し出した。


「……これ……」

「あ、ありがとう」


 その子は受け取り、すぐに前を向いた。

 いつもと変わらない声だった。


 私は手を膝へ戻した。

 今の返事まで、何か意味があるのかと考えそうになっていた。


 落ちたものを拾っただけなのに。

 お礼を言ってもらえたのだから、それでよかったはずなのに。


 小さく息を吐き、鉛筆を持ち直した。

 先生がこちらを見たわけでもないのに、ちゃんと聞いているように、顔を上げた。


     * * *


 給食を片づけたあと、図書室へ行った。


 今日は当番ではなかった。

 返す本も、リュックサックの中に入っていない。

 ただ、昼休みの間まで、あの教室に座っていたくなかった。


 何か話した方がいいのかと、ずっと考えてしまう。

 でも、近くにいる人の名前を呼ぼうとすると、その人も同じように思っているかもしれないと怖くなる。


 話しかけずにいれば、今は誰にも困ったと言われずに済む。

 そう思うことが、少し悲しかった。


 図書室のドアを開けた。

 カウンターでは、本を返しに来た生徒が話していた。

 奥の席には、並んで同じページを見ている人たちがいる。


 静かだったけれど、誰も話していないわけではなかった。

 私は小説の棚へ向かった。


 前に見かけて気になっていた本を探す。

 その途中で、勝也くんへ教えた本が置いてあったところを見た。

 今は別の本が詰められ、そこに空きはなかった。


 勝也くんは、まだ読んでくれている。

 朝、どこまで進んだのか教えてくれた。


 帰ったら、続きを読むと言っていた。

 明日になったら、あの場面の話ができるだろうか。


 少し楽しみになってから、朝に言いかけたことも思い出した。

 読み終えた別の本の話を、まだしていなかった。


 あとで聞かせて、と言ってくれた。

 だから、こちらから声をかけても大丈夫なはずだった。


 でも、何を最初に言えばいいのだろう。

 勝也くんが友達と話していたら、その途中へ入っていいのだろうか。

 待っていたら、何か用があるのかと思わせてしまうかもしれない。


 聞いてもらいたいことは、ある。

 それなのに、話し始める前のことばかり考えていた。


 探していた本を見つけた。

 背表紙へ指をかけて抜き取り、空いている席へ座る。

 今は、読んでみようと思った。


 最初のページには、まだ名前を知らない人たちの会話があった。

 誰が話しているのかを確かめ、次のページへ進む。

 短い返事のあとに、その人が本当は何を考えていたのかが書いてあった。


 私は、少し前へ戻った。

 そういう意味で答えたのかと分かると、同じ言葉を読み直したくなった。


 朝の子が何を思っていたのかも、こんなふうに分かったらいいのに。


 考えてから、怖くなった。

 読めたら、知らない方がよかったことまで分かってしまう。

 笑ってくれた時にも、私の知らない言葉があったのかもしれない。


 しばらく、同じ行を見ていた。

 その先で場面が変わっていることに気づき、もう1度読み始めた。


 主人公が、出会った人の言い方を思い違いしていた。

 私も、初めは同じように読んでいた。

 そうじゃなかったのだと分かり、次の会話を確かめたくなった。


 少しずつ、ページが進んだ。

 先ほどまでと違い、めくる前に戻る回数が減った。


 時計を見ると、教室へ戻る時刻が近づいていた。

 今いる場所を確かめるように、机の端へ手を置いた。


 続きを読みたい。

 そう思って、本を閉じた。


 カウンターへ持っていくと、当番の生徒が顔を上げた。


「……借りたい、です……」

「はい」


 手続きをしている間、黙って待った。

 何を話せばいいのか考えなくても、相手はすることを分かっていた。

 戻された本を受け取り、お礼を言った。


「……ありがとう、ございます……」


 その人は頷き、次に来た生徒へ顔を向けた。

 私は本を抱え直した。


 教室へ戻ったら、先にこの本を机の中へしまおう。

 それから、午後の授業の準備をする。

 次にすることを決めると、何も持たずに戻るよりは、少し歩きやすかった。


     * * *


 午後の国語では、書いた答えを近くの人と比べる時間があった。


 先生が、違っていたところは本文へ戻って確かめるように言った。

 椅子を動かす音が重なり、近くで名前を呼び合う声がした。


 私は自分のノートを押さえた。

 最後の答えだけ、まだ書き終わっていなかった。


「富田さん、見てもいい?」


 朝の子が、こちらを向いていた。

 椅子の向きを変え、ノートを持っている。


「……うん……」


 私は、自分のノートを少し動かした。

 その子が机へ寄せた答えを見てから、同じところへ指を置く。


「ここは同じだね。次も」

「……うん」

「最後のは?」


 書きかけの行が見えた。

 途中のまま見せたら、また待たせてしまう。


「……まだ、途中で……ごめん……」

「ううん。私も、合ってるか分かんないから」


 その子が教科書を開いた。

 自分が読んだところを指し、ここを使ったのだと説明してくれた。


 私は、その指の少し前を見た。

 自分が書こうとしていた文があった。

 そこも使った方が、理由が分かりやすくなると思った。


 でも、言ってもいいのか迷った。

 あの子はもう、答えを書いている。

 私が違うところを指したら、間違っていると言われたように思うかもしれない。


「富田さんは、どこ見てた?」


 聞かれ、私は鉛筆を動かした。


「……ここ、も……入るのかなって……」

「ここ?」

「……その前に、こう……思ってたから……」


 続きが、すぐに出てこなかった。

 待ってもらっている。

 分かりやすく言わなければ、また困らせる。


 その子の顔を見ようとして、途中で教科書へ戻した。

 今、退屈そうにされていたら、最後まで話せなくなりそうだった。


「これだけ、だと……どうして変わったのかが……分からない、気がして……」


 言い終えるまで、相手は黙っていた。

 私は、机の下で片方の手を握った。


「あ、そうか。理由も書くんだもんね」


 その子は問題を読み直し、頷いた。


「じゃあ、こっちを先に入れた方がいいかな」

「……うん。多分……」


 鉛筆が、相手のノートの上を動いた。

 私も自分の書きかけた行へ、続きの言葉を足した。


 聞いてもらえた。

 私の考えを使って、答えを書いてくれた。


 ほっとしたのに、その子が黙って待っていた時間を、うまく忘れられなかった。

 さっきも、話しづらいと思いながら待ってくれていたのだろうか。

 それとも、今は、そんなことを考えなくてもよかったのだろうか。


「これでいいと思う?」


 ノートを向けられ、読んだ。


「……うん。分かりやすいと……思う……」

「ありがとう」


 その子が、少し笑った。

 私も笑おうとしたけれど、頷くだけになった。


 朝も、ありがとうと言ってもらえた。

 そのあとに聞いた声を、まだ覚えていた。


 先生が黒板の前へ戻った。

 みんなが椅子を直し、話し声が小さくなる。

 その子も前を向いたので、私も自分のノートを真ん中へ戻した。


 説明された答えは、2人で考えたものと、ほとんど同じだった。

 先生が理由の部分へ線を引く。

 私は、自分の書いたところにも線を引いた。


 合っていた。

 隣を見たら、あの子も同じところへ印をつけていた。


 合ってたね。


 そう言いたくなった。

 今なら、言うことも短かった。


 けれど、先生が次の説明を始めた。

 その子は前を向いたまま、鉛筆を持ち直した。

 私も、口を閉じた。


 聞かれたことは、答えられた。

 それより先へ自分から続けていいのかは、まだ分からなかった。


     * * *


 掃除の時間には、同じ持ち場の人たちがそろっていた。


 今日は場所も確かめてあった。

 使うほうきを取り、壁際へ集まっていた埃を掃く。


「富田さん、こっちの端もお願いしていい?」


 近くで雑巾を持っていた子が言った。


「……うん。こっち、終わったら……行くね……」

「ありがとう」


 何をすればいいのかが分かっていた。

 先に手元のごみを集め、言われた方へ移った。

 ほうきの先を壁に沿わせ、少しずつ手前へ寄せる。


 ちり取りを持った子が来てくれた。

 床へ置いてくれたところへ、ごみを掃き入れた。


「もうちょっと、こっち」

「……ここ?」

「うん。そこ」


 残った埃を集めると、相手がちり取りを持ち上げた。

 床を見直し、ほかにないことを確かめる。


 今は、返事のあとにすることがあった。

 黙っていても、ほうきを動かしていれば、手伝うつもりだと分かってもらえる。

 何を考えているのか分からないと、聞かれずに済んだ。


 近くで、次の休みに出かける話をしている子たちがいた。

 何を買うのかという話になり、笑い声が上がった。


 ほうきを持つ手が、少し止まった。

 顔を向けかけて、やめる。


 今のは、私の話ではない。

 聞こえていたから、分かっている。


 そう考えてから、また掃き始めた。

 自分の名前が出ていなくても気になってしまうことが、嫌だった。

 誰かが笑うたびに、それが私のことではないと確かめていたら、何もできなくなってしまう。


「きれいになったね」


 先ほど声をかけてくれた子が、床を見た。


「そこまでやってくれて、助かった」

「……ううん……」


 私はほうきを持ち直した。

 助かったと言ってもらえて、嬉しかった。

 今度は、その気持ちを先に覚えておこうと思った。


 でも、その子が友達の方へ歩いていくと、何を話すのか気になった。

 私と話すのは困ると、言われるのだろうか。


 聞き耳を立てそうになり、足を止めた。

 今、そんな話をしているかは分からなかった。

 私は、ほうきを片づけるために向きを変えた。


 あの子は、お礼を言ってくれた。

 勝手に、ほかの言葉まで付け足してはいけない。


 そう思っても、背中の方で声がするたび、耳へ入ってきてしまった。


     * * *


 帰りの会が終わり、机の中から譜面のファイルを出した。


 図書室で借りた本も、手前に入っていた。

 角を引っかけないように動かしていると、勝也くんが近づいてきた。


「富田、今から部活?」

「うん。勝也くんも?」

「うん。朝の本の話、少し聞けるかなと思って」


 私は顔を上げた。

 覚えていてくれた。


「時間、大丈夫?」

「少しなら。富田も、準備あるでしょ」


 頷くと、勝也くんは空いていた椅子へ座った。

 机の上の本を見て、これ、と聞く。


「これは、今日借りた別の本。朝言ってたのは、昨日読み終わった方」

「もう次の読んでるんだ」

「気になってたのが、あったから」

「俺、まだこの前の途中なのに」


 急いで読まなくてもいいと言うと、勝也くんは笑った。


「分かってるよ。でも、続き気になるところで、寝る時間になっちゃうんだよね」

「あと少しだけって、ならない?」

「なる。そこでやめられるところが来ればいいんだけど、また次が気になるし」


 私も笑ってしまった。

 区切りのいいところまでと思っても、その区切りで、次を知りたくなることがある。


「朝の本も、そんな感じだったの」

「じゃあ、やっぱり面白そうだね」

「うん。初めの方に出てきたものが、最後にも出てきて」


 そこまで話し、どこから説明しようか考えた。

 勝也くんは、続きを待っていた。

 指を机へ置いたまま、こちらを見ている。


 急いで全部を言わなくてもいい。

 そのことを思い出すと、次の言葉が出てきた。


「最初は、ただそこに置いてあるだけだと思ったの。でも、あとで、どうして残してたのか分かって」

「なくなってなかったことに、意味があるんだ」

「そう。だから、前を読み直したくなったの」


 勝也くんが、ああ、と頷いた。


「俺、そういうの見つけると、最初から気づいてたみたいな気になる」

「あとで分かったのに?」

「うん。ちゃんと覚えてたし、って」


 思わず笑うと、勝也くんも笑った。


「気づいてはいなかったんだけどね」

「私も、読み直してから分かったところ、あったよ」


 話しながら、昨日開き直したページを思い浮かべていた。

 面白かったところを、聞いてもらえていた。

 勝也くんも、自分が読む時のことを話してくれた。


 もっと話したいと思った。

 まだ言っていない、好きだったところもあった。


「あとね、途中で……」


 言いかけた時、近くで椅子が動いた。

 美咲さんが、リュックサックを肩へかけていた。

 莉奈さんと話しながら、こちらへ顔を向ける。


 目が合った。

 私は先に、机へ視線を戻した。


 今、どれくらい話していただろう。

 勝也くんには、すぐに返事をしていた。

 何を言えばいいか迷った時も、待ってもらって、続きを話せた。


 さっき、普通に話してと言われた時には、できなかったのに。


 また、相手によって態度が違うと思われるのだろうか。

 勝也くんがいなくなったあと、今のように話せるならどうして、と聞かれるかもしれない。


「富田?」


 勝也くんの声で、顔を上げた。


「あ……ごめん。そろそろ、部活の準備しなきゃ」


 ファイルを持ち上げた。

 今日は、始まる前に練習場所を確かめておきたかった。

 早めに行きたいのも、本当だった。


「そっか。呼び止めてごめんね」

「ううん。聞いてくれて……ありがとう」

「こちらこそ。また読みたい本、増えちゃった」


 勝也くんは笑って立ち上がった。

 椅子を戻し、自分のリュックサックを肩へかける。


「じゃあ、また明日」

「うん。また明日」


 返事をすると、手を上げてくれた。

 私は、その背中を見送った。


 話せて嬉しかった。

 朝に言ったことを覚えていて、聞きに来てくれたことも、嬉しかった。


 それなのに、こちらから終わらせてしまった。

 読んだ本の続きを、勝也くんへ話したかった。

 でも、その時には、そばにいた人たちの目を先に考えていた。


 本をリュックサックへしまい、ファイルだけを持った。

 立ち上がっても、美咲さんたちの方は見られなかった。


     * * *


 廊下へ出ると、綾香さんがいた。


「富田さん、部活行くところ?」

「……うん……」

「私も。途中まで一緒に行こう」


 頷き、隣を歩いた。

 綾香さんは、次の図書当番をさっき確かめてきたのだと話した。

 私は返事をしながら、自分の手帳にも書いてあったことを思い出した。


「今日じゃなくてよかった。私、返す本、家に置いてきちゃったんだよね」

「……返す日、まだ……大丈夫……?」

「うん。明日忘れなければ大丈夫」


 綾香さんが笑った。

 私も頷いた。


 階段へ着くと、向こうから来た生徒を先に通した。

 歩き出したあと、綾香さんが私の顔を見る。


「何か、疲れてる?」


 私はファイルを持ち直した。


「……そう、見える……?」

「ちょっと。違ったらごめんね」


 責める声ではなかった。

 さっきのことを話したら、聞いてくれるかもしれない。

 教室で、何と言われたのか。朝に話せたと思った子まで、話しづらいと答えていたこと。


 どこから言おうか考えた。

 その間も、綾香さんは隣を歩いていた。


 待ってくれている。

 今も、私の返事が遅いから。


「……あの……」

「うん?」

「私と、話すの……困ること、ある……?」


 綾香さんが、少し目を丸くした。


「困ること?」

「返事……遅かったり……うまく、言えなかったり……」


 自分で言いながら、怖くなった。

 ある、と言われたら、次は何と答えればいいのだろう。


 綾香さんは少し考え、それから口を開いた。


「聞こえなかったら、もう1回聞くよ。でも、それで困ったことはないかな」

「……そう、なの……?」

「うん。富田さんも、聞き取れなかったら聞いてね」


 私は頷いた。

 胸の辺りが、少し緩んだ。


「何か、気になることあった?」


 綾香さんが聞いた。

 私は、教室で見た顔を思い出した。


 ここで話せば、誰に言われたのかも聞かれるかもしれない。

 綾香さんも同じクラスにいる。

 あの人たちへ、そんなことを言わないでと伝えてくれたら、そのあと私は、どんな顔をして席へ戻ればいいのだろう。


 助けてほしい気持ちはあった。

 でも、私が話したと知られることが怖かった。


「……私、返事……遅いから。気になって……」


 そこまでしか言えなかった。

 綾香さんは、そっか、と頷いた。


「分からなかったら聞くから、大丈夫だよ」

「……うん。ありがとう……」


 階段を上がり終え、練習する部屋へ向かう廊下で分かれた。

 綾香さんが手を振ってくれたので、私も小さく上げた。


 大丈夫だと言ってもらえた。

 それは嬉しかった。


 けれど、何を言われたのかまでは話せなかった。

 綾香さんは、私が自分の話し方を気にしていることしか知らない。

 その先を、私から言わなかった。


 練習場所の前で、ファイルを開いた。

 使う紙の端を確かめ、部屋の中へ声をかけた。


     * * *


 部活が終わり、リュックサックを取りに教室へ戻った。


 まだ何人か、帰る準備をしていた。

 友達を待っているのか、机のそばで立ったまま話している子もいる。

 私は自分の席へ行き、持ち帰る物を出した。


 今日の国語のノートを開くと、午後に書いた答えがあった。

 朝の子と確かめたところへ、線を引いている。


 あの子は、私の説明を聞いてくれた。

 書き終わっていないところも、急がせずに見せてもらえた。

 お礼も言ってくれた。


 それなら、嫌われているわけではないのだろうか。


 分からなかった。

 普通に話してくれたことと、話しづらいと答えていたことが、同じ人のことなのに、うまくつながらなかった。


 少し話しづらいと思うことがあっても、私を嫌いなわけではないのかもしれない。

 そう考えてみた。


 でも、美咲さんたちのそばで聞いた声を思い出すと、顔を上げて、その子へ話しかけるのが怖くなった。

 今度も笑ってくれるかもしれない。

 そのあとに何と言われるのかは、私には分からない。


 ノートを閉じた。

 今日借りた本を、その横へ入れる。


 持ち物は、全部あった。

 何もなくなっていないし、今日は新しく汚されたところも見つからなかった。

 掃除では、助かったと言ってもらえた。

 勝也くんとは、本の話をして笑えた。

 綾香さんも、困ったことはないと言ってくれた。


 それでも、明日もここへ来るのが怖かった。


 リュックサックの口を閉じようとして、前の黒板に書かれた持ち物が目に入った。

 いつもの教科書の下に、もう1つ書き足されている。

 右側の数字が、小さくて読み取りにくかった。


 近くの子へ聞こうとした。

 その子はまだ、帰る準備をしていた。


 明日持ってくるのは、何番のプリントだったか。

 聞くことは、それだけだった。


 私は口を開きかけ、それから閉じた。

 自分で近くへ行けば、確かめられる。


 リュックサックを背負い、黒板の前へ歩いた。

 書いてある番号を見て、連絡帳へ写す。

 これで、忘れずに持ってこられるはずだった。


 誰にも聞かずに済んだ。

 ほっとしてから、連絡帳を閉じた。


 朝は、聞かれたことに答えられたのが嬉しかった。

 今は、何も話さずに済んだことに安心していた。


 ドアのところで、朝に話した子の席が見えた。

 椅子は机の下へ入っていた。もう帰ったあとだった。


 明日、目が合ったら、挨拶してもいいだろうか。

 また問題集のことを聞かれたら、今日みたいに答えられるだろうか。


 私も、あの子と、普通に話したかった。


 ハンカチを握り直しそうになって、手をリュックサックの紐へ移した。

 教室を出る時には、誰の方も見なかった。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 優子と本の話を楽しみ、プリント配りで中断した会話の続きを放課後に聞きに来る。優子が周囲の視線を気にして話を切り上げたことには気づいていない。


・富田優子

 朝はクラスメイトと話せたことを喜ぶが、その子の「話しづらい」という言葉を聞いて傷つく。勝也や綾香との会話に安心しながらも、人に話しかけることが怖くなる。


・鶴見春樹

 翔太と数学の解き方を比べ、同じ答えでも短く計算できる手順を示す。遠回りな解き方をした翔太と、勝也を交えて冗談を交わす。


・鳥居翔太

 数学の答えは合っているものの、春樹と途中の式が違うことが気になる。勝也にも確かめ、もっと短く解けたことに気づく。


・井上綾香

 部活へ向かう途中、優子の疲れた様子を気遣う。返事が遅くて困るかと尋ねられ、困ったことはないと答えるが、教室での出来事までは知らされない。


・小島裕香

 担任に頼まれたプリントを配るため、勝也へ声をかける。紙の束を半分渡し、担当する列を分けて配る。


・戸田美咲

 周囲の言葉を「みんなもそう思ってる」とまとめ、優子の話し方を責める。悪口ではないと言いながら、優子が説明しづらくなる言葉を重ねる。


・富永莉奈

 返事を待つ側も困ると優子に伝え、謝られても受け入れない。困った表情にも言葉を向け、優子を追い詰める。


・杉浦玲奈

 美咲たちとともに、優子へ「普通に話して」と求める。答えを考えているという説明にも、難しいことは聞いていないと返す。


・大島奈々

 美咲たちのいる場で、返事がないと聞こえているのか迷うことはあると話す。その言葉を、美咲が優子を責める根拠に使う。


・問題集の話をした女子

 朝は優子と数学の解き方を確かめて笑い合うが、後に美咲へ「話しづらい」と同意する。午後の国語では優子の説明を待ち、その考えを取り入れて答えを直す。

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