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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
7/52

第6話 音楽が好き


    * * 勝也視点 * *


 5月に入ってしばらくした放課後、音楽室へ続く廊下で足が止まった。


 図書室で本を借り、茶道部へ向かう途中だった。

 リュックサックには、雨宿りの時に優子が話してくれた本が入っている。読み終わって返したと教えてもらったので、ほかの人が借りる前に行ってみたのだった。


 開いた戸の向こうから、いくつかの音が重なって聞こえた。

 途中で止まり、少し話す声がして、また同じところから始まる。


 覗くと、優子がいた。

 黒い楽器を構え、前の譜面を見ている。隣にいるのは、同じクラスの杉浦玲奈だった。優子と同じ、クラリネットの担当だ。

 奥では、別の楽器を持った先輩が紙を並べていた。


「最後まで、同じ速さでいこう。終わりだけ急がないでね」


 1年生の前に立っている先輩が言った。

 優子が頷いた。


 合図のあと、音が出た。

 俺の知っている曲ではなかった。長い曲の途中を聞いているのか、最初から短い練習なのかも分からない。

 それでも、さっき止まったところを越え、みんなの音が一緒に先へ進んだことは分かった。


 最後の音が伸びる。

 先輩の手が動くと、そこでそろって止まった。


「そう。今の、よかったね」


 優子が譜面から顔を上げた。

 先輩を見て、それから楽器へ目を戻す。口元が少し緩んでいた。


 俺も、よかったと思った。

 指の動かし方も、息の使い方も知らない。でも、みんなが同じところへ着いたような終わり方が、聞いていて気持ちよかった。


「少し休憩しようか。次に使う紙、用意してくるから」


 先輩が言うと、みんなが楽器を下ろした。

 優子はまだ、譜面の最後の辺りを見ていた。


 邪魔しないうちに行こうと思い、足を引いた。

 その時、優子がこちらを向いた。


「勝也くん?」


 名前を呼ばれて、俺も手を上げた。


「ごめん。通ったら、ちょうど聞こえてきて」

「……聞いてたの?」

「最後の方だけ。よかったよ」


 優子が、楽器を持ったまま立ち上がりかけた。

 近くにいた先輩が、知り合い、と聞く。


「……はい。同じ、クラスの……」

「今は休憩だから、少しなら話してていいよ」

「……ありがとうございます」


 優子はキャップを付けてから、入口の近くへ来た。

 そこで空いている椅子へ座り、楽器を持ち直す。俺も隣の椅子を少し引いて座った。

 さっき遠くから見ていた時より、顔がよく見えた。


「びっくりした……言ってくれたらよかったのに」

「吹いてる途中で声かけたら、止まっちゃうかなって」

「それは、止まると思う」

「でしょ。俺のせいで、もう1回になるのも困るし」


 優子が笑った。

 頬は少し赤かったけれど、嫌そうではなかった。


「さっきの、最後にみんなでぴったり止まったところ、よかった」

「最後のところ?」

「うん。途中もだけど、そこが何か、ぴったりだったから」


 優子が、少し身を寄せた。


「そこ、何回もやってたの。途中までは合っても、最後に速くなっちゃったり、音が残っちゃったりして」

「じゃあ、ちょうどできたところを聞けたんだ」

「うん。今のは、私も、合ったって思った」


 嬉しそうだった。

 ただ、褒められたから頷いているのではない。自分でもうまくできたと思ったところを、聞いてもらえたのが嬉しいのだと分かった。


「この前は、長く音を出す練習って言ってたよね」

「今もやってるよ。そのあとに、こういう短いのを合わせるの」

「できること、増えてるんだね」

「まだ、ゆっくりじゃないと指が迷うけど」


 優子は、楽器に置いた指を少し動かした。

 俺はその手元を見た。


「ここを押したら、この音って、考えながらやるの?」

「うん。でも、考えてる間に次の音になっちゃうから、覚えないと」

「それは忙しいね」

「息のこともあるし。指が合ってても、変な音が出る時があるの」


 やることが多かった。

 譜面を見て、指を動かし、息を続ける。そのうえで、隣の人たちとも合わせる。

 最初から全部を気にしていたら、俺なら何か忘れそうだった。


「富田、ピアノも弾けるから、すぐできるのかと思ってた」

「ピアノとは違うよ。分かってるのに、指が違う方へ動いちゃったりするし」

「そっか。読むところは分かっても、そのとおりに吹くのが難しいんだ」

「そう。さっきできたのにって思うと、悔しくなる」


 優子が少し眉を寄せた。

 できなかったところを思い出しているようだった。


 小さい頃、優子がピアノを弾くところを見たことがある。

 俺には、止まらずに両手が動くこと自体がすごかった。

 その前に同じところを何度も練習していたのだろうけれど、俺は、弾ける優子ばかりを覚えていた。


「ピアノの時も、そんな感じだった?」

「うん。左手だけやったり、少し前から戻ったり。できるまで、同じところを弾くよ」

「俺が見てた時には、もう練習したあとだったんだね」

「間違えてた時も、あったと思うけど」

「気づいてなかったのかも」


 優子は、そうかも、と笑った。


「でも、昨日できなかったところができると、楽しいの。もう1回やったら、今度もできるかなって」

「それで、また最初に戻るんだ」

「うん」

「この前のゲームの話と、ちょっと似てるね。あと1回って」

「勝也くんも、言ってたでしょ」

「うん。俺の方が先に言ってたと思う」


 2人で笑った。

 優子は口元へ手を当てかけ、楽器を持っていることに気づいたように、膝の上へ戻した。


「1人で練習するのと、みんなでやるのも違う?」

「うん。自分だけうまく吹けても、合わないことがあるから。でも、合うと、自分の音もその中に入ってるって分かるの」


 優子は、さっき座っていた方を見た。

 いくつも並んだ譜面台の上に、同じような紙が載っている。


「ピアノを弾いてる時とは、違う感じがする。私が止まると、そこだけ音がなくなるし」

「富田の分があるんだ」

「うん」


 その返事も、嬉しそうだった。

 教室では、隣に誰かが来ると少し身を引くことがある。声をかけようとして、途中でやめるところも見ていた。

 でも、楽器を持っている優子は、もう1度みんなと合わせたいと思っている。

 そういう時間があるのを知って、俺も嬉しかった。


 奥で椅子が動いた。

 優子もそちらを向いたので、俺は廊下の時計を見た。


「そろそろ、俺も行こうかな」

「部活?」

「うん。本を借りてから行きますって言ってきたけど、ずっと来なかったら、本棚の前で読んでると思われそう」

「読んでなかったの?」

「少しだけ。最初だけ見ようと思って」

「やっぱり」


 優子が笑った。

 俺はリュックサックの口を少し開き、借りてきた本の表紙を見せた。


「これ。教えてくれてありがとう」

「ううん。どこまで読んだか、また教えて」

「分かった。先のこと聞きそうになったら、止めてね」

「言わないよ」


 返事を聞いてから立ち上がった。

 優子も、元の場所へ戻るために腰を上げる。


「練習、頑張ってね。また聞けたら、聞きたいな」

「……うん。ありがとう」


 優子は、少し間を置いて頷いた。


「最後のところ、よかったって言ってくれて……嬉しかった」

「本当にそう思ったから。じゃあ、またね」

「またね」


 廊下へ出てから振り返ると、優子はまだこちらを見ていた。

 目が合い、小さく手を振ってくれた。俺も手を上げてから、部室へ向かった。


 帰りに見かけたら、練習の続きはどうだったか聞いてみよう。

 そんなことを考えていた。


 茶道部へ着くと、先輩から、いい本あった、と聞かれた。

 ありました、と答えてリュックサックを下ろす。


「でも、読む前に、運ぶ物あったら運びます」

「助かる。じゃあ、こっちお願い」


 渡された物を両手で持った。

 歩く間にも、最後に音がそろって止まったところが、何となく耳に残っていた。


    * * 優子視点 * *


 譜面台の前へ戻ってからも、すぐには楽器を構えなかった。


 最後のところ、よかった。

 勝也くんは、そう言ってくれた。


 どこがよかったのかまで聞けると思っていなかった。

 私も嬉しかったところを、同じように聞いてくれていた。頑張っていた時間を少し見つけてもらえた気がして、思い返すと、また顔が熱くなった。


 次は、今日より長く吹けるところを聞いてほしい。

 そんなことまで考えてしまった。


「鵜飼に褒められると、そんなに嬉しいんだ」


 鉛筆を取ろうとしていた手が止まった。

 玲奈さんが、隣から私を見ていた。


「……え……」

「ずっと笑ってるから。さっき先輩に言われた時と、顔、違うよね」


 頬へ触りたくなった。

 でも、そうしたら、言われたとおりだと認めてしまうようで、手を動かせなかった。


「あの……最後、合ってたって……言ってくれたから……」

「うん。聞こえてた」


 玲奈さんは笑った。

 近くにいた子も私の方を見たので、譜面へ目を落とした。


 勝也くんに褒めてもらえて、嬉しかった。

 それを、違うとは言えなかった。

 けれど、その気持ちを玲奈さんに確かめられるのは怖かった。


「鵜飼って、楽器できるの?」

「……クラリネットは、やったこと……ないと、思う……」

「じゃあ、細かいことまでは分かんないんじゃない?」


 私は鉛筆を握った。

 細かいことを、全部分かってほしかったわけではなかった。

 うまくできたと思ったところを、聞いてくれた。それで嬉しかった。


 そう言えたらよかった。

 でも、口を開いても、最初の言葉が出てこなかった。


「先輩に聞いた方が、練習にはなると思うけど」


 玲奈さんはそう言い、隣の子の方へ向き直った。

 私は、小さく頷いてしまった。


 笑わないように、口元に力を入れた。

 勝也くんが帰る前までと同じ顔をしていたら、また何か言われそうだった。


     * * *


 休憩の間に廊下へ出て、水を飲んだ。

 戻る時、入口の手前でひと呼吸置いた。


 玲奈さんたちは、譜面台のところに集まっていた。

 何を話していたのかは聞こえなかった。私が近づくと、玲奈さんが紙を差し出した。


「次、これ使うって」

「……ありがとう」


 受け取るために、両手を出した。

 紙には、短い練習の譜面が印刷されていた。

 前に使ったものと、初めの音の並びがよく似ている。


「……さっきのは、しまって……いいの?」

「うん。次はこっちだから」

「……うん」


 私は、今までの紙をファイルへ戻した。

 新しい紙を譜面台へ置き、上から目で追う。


 次に何を使うのか分かったことに、ほっとしていた。

 聞く前に教えてもらえた。

 さっきの話が気になっていたけれど、練習のことは、ちゃんと教えてくれたのだと思った。


 先輩が戻ってきた。

 紙が行き渡っているか確かめてから、前の椅子へ座る。


「前半は、前にやったのと同じね。今日は後ろの方を合わせるから、まず、そこを見て」


 私は言われたところへ鉛筆を置いた。

 始まる場所を見失わないよう、小さく印をつける。


 先輩が数え始めた。

 息を吸い、周りに合わせて音を出した。


 初めは、一緒だった。

 自分の音だけが大きくならないようにしながら、次へ進む。


 少し先で、周りの音が変わった。

 私だけ、同じ音を伸ばしていた。


 遅れたのだと思った。

 慌てて指を動かしたけれど、その次も、聞こえてくる音と合わなかった。

 紙を見直している間に、息まで続かなくなった。


「止めて。富田さん、今、どこを吹いてた?」


 先輩の声で、みんなが楽器を下ろした。

 私は譜面へ鉛筆を向けた。


「……ここ、です……」

「最初から見てた? 途中から、ずっとずれてたよ」

「……すみません」


 顔を上げられなかった。

 自分の音だけが残った時の感じが、まだ耳にあった。


 さっき、勝也くんに話したばかりだった。

 みんなと合うと嬉しい。自分の音も、その中に入っていると分かる。

 今は、その自分の音のせいで、みんなが止まっていた。


 紙を見た。

 伸ばすはずの音は、やっぱりそこにあった。

 どこかで数え間違えたのだろうか。指を動かすことに気を取られて、自分だけ遅れたのかもしれない。


 隣の紙を見ようとした。

 玲奈さんの腕が近くにあって、同じ場所までは見えなかった。


「あの……玲奈さん。ここ……」

「今、先輩が話してるよ」


 私は前へ向き直った。


「……ごめんなさい」


 先輩が、もう1度始めるところを指していた。

 話している間に横を向いてしまったことも、悪かった。

 けれど、何が違ったのか分からないまま、次の合図を待つのは怖かった。


「今度は、ゆっくりやるから。落ち着いてね」


 頷いた。

 音符を指でたどり、伸ばすところを確かめる。

 今度こそ、間違えないようにしようと思った。


 吹き始めた。

 先輩の数える声に合わせ、同じところまで進む。


 やはり、私の音だけが残った。


 今度は慌てて先へ行かなかった。

 紙を見たまま、周りの音を聞いた。

 私が音を伸ばす間に、ほかの人たちは次の音を吹いている。その音符が、私の紙にはなかった。


 間違えたのは、指だけではない。

 見ているものが違う。


「……あの……」


 口を離した時には、先輩の手も上がっていた。


「富田さん、どうしたの?」

「私の……譜面が、ここ……違ってる、みたいで……」


 最後まで言うのに、時間がかかった。

 待っている人たちの方は見られなかった。


 先輩が立ち上がり、私の譜面台へ来た。

 指したところを見て、それから紙の上の方へ目を移す。


「あれ。これ、前の紙だね」


 私は顔を上げた。


「今日のは、こっち。後半を変えた方だよ」


 隣の子の紙を、少しこちらへ向けてくれた。

 初めの方は同じだった。

 けれど、私が音を伸ばしていたところには、違う音符があった。


 間違えて読んでいたのではなかった。

 そう分かったのに、すぐには安心できなかった。


「……私、これ……さっき、もらって……」

「え、それだった?」


 玲奈さんが、私の紙を覗き込んだ。


「ごめん。配る方に混ざってたのかも。同じだと思った」


 玲奈さんは先輩を見て言った。

 先輩は、そうだったんだ、と頷いた。


「予備があるから、これを使って」


 別の紙を渡された。


「……ありがとうございます」


 取り替えようとすると、先輩が続けた。


「次から、違うと思ったら早めに言ってね。何度も止まると、みんなの練習時間も短くなるから」

「……はい……」


 紙を持つ指に、力が入った。


 言おうとした。

 玲奈さんへ、ここがどうなっているのか聞こうとした。


 でも、先輩へは、その時すぐに言えていなかった。

 自分が間違えたのかもしれないと思って、言う前に、もう1度吹こうとした。

 それで、また止めてしまった。


「富田さん、もう大丈夫?」


 先輩に聞かれ、頷いた。


「……はい」


 新しい紙を置いた。

 古い方をファイルへしまおうとしたけれど、透明なポケットの口が、うまく開かなかった。

 指でこすっても、薄い面がくっついたままだった。


 近くで、椅子の脚が鳴った。

 待たせている。


 私は古い紙を、新しい紙の下へ重ねた。

 片づけるのは、あとでいい。

 今は早く、楽器を構えなければいけなかった。


     * * *


 正しい譜面でも、急に全部できるようにはならなかった。


 新しく出てきた音へ指を移す時、少し迷った。

 先輩に言われたところまで戻り、ゆっくり確かめる。

 今度は、何を練習すればいいのか分かった。


 指が遅れたところを、もう1度。

 息が弱くなったところを、その手前から。


 少しずつ、つながるようになった。

 最後まで吹けた時、先輩が頷いた。


「そう。それで合ってるよ」

「……はい」


 楽器を下ろした。

 さっきできなかったところが、できた。

 いつもなら、もう1度やってみたいと思うところだった。


 でも、私は先に、隣の紙を見た。

 同じ音符が並んでいるか確かめてから、自分の譜面へ目を戻した。


 玲奈さんから受け取った時には、次に使うものを教えてもらえたと思った。

 だから、ありがとうと言った。

 その紙を置いたせいで、私だけが違う音を吹き、みんなを待たせた。


 紙が混ざっていたのなら、仕方がなかったのかもしれない。

 玲奈さんも、謝ってくれた。


 それでも、次に渡された紙を、同じように受け取れる気がしなかった。


 休憩になってから、2枚を机へ並べた。

 上の方は、本当によく似ている。

 初めだけを見てしまえば、同じだと思うかもしれなかった。


 間違えた紙に、さっき私がつけた小さな印があった。

 ここからだと教えてもらい、迷わないように書いた印だった。

 しばらく見てから、消しゴムを出した。


 消すと、そこだけ紙が少し白くなった。

 新しい譜面の同じ辺りへ、印をつけ直す。


 私が謝った時も、みんなが待っていた時も、正しい紙を見せてもらえば、違いは分かった。

 もっと早く確かめればよかったのだと考えた。

 でも、次はどこまで確かめれば、間違えずに済むのだろう。


 楽譜を読む前に、渡してくれた人の顔を思い浮かべていた。

 練習したいところを考えていたはずなのに、そこへ戻るまでに、時間がかかった。


 少し離れたところで、笑い声がした。

 顔を上げると、玲奈さんたちが同じ紙を見ていた。

 何が面白かったのかは分からない。

 それでも、自分の紙を見られたような気がして、2枚を重ねてしまった。


 今、私のことを言っていたのかは、分からない。

 そう思い直しても、もう1度そちらを見ることはできなかった。


     * * *


 片づけの時間、綾香さんが声をかけてくれた。


「富田さん、今日はどうだった?」


 手には、閉じたフルートのケースがあった。

 今日も違う場所で練習していたので、途中ではほとんど顔を合わせていなかった。


「……途中で、違う……譜面を、見ちゃって……」

「違う譜面?」

「前のと……似てて。後ろの方が、違って……」


 綾香さんが、私のファイルを見た。


「今使うのは分かった?」

「……うん。先輩が……くれたから……」

「そっか。似てると、分かりにくいよね」


 責める声ではなかった。

 綾香さんも自分のファイルを少し持ち上げ、紙が増えてきたから探すのが大変だと話した。

 私は頷いた。


 違う譜面を見た。

 それは本当だった。

 でも、誰から渡されたのかも、次はこれだと言われたことも、話していなかった。


「富田さん?」


 黙っていると、綾香さんが少し首を傾げた。

 今なら、続きを聞いてくれるかもしれない。


 さっき、渡された紙だったの。


 頭の中では、そう言えた。

 けれど、誰に、と聞かれたら、その名前を言わなければならない。

 教室でも同じ部活でも会う玲奈さんに、勝手に話したと知られたらどうなるのか、考えてしまった。


「……今は、大丈夫……」


 そう答えた。

 綾香さんは頷いた。


「分かった。私、先に先生のところへ行ってくるね」

「……うん」


 綾香さんが離れてから、ファイルを閉じた。

 別の場所にいた綾香さんが、私の言わなかったことまで分かるはずがなかった。

 でも、自分で紙を選び間違えたのだと思われたままなのは、悲しかった。


 どう話せばよかったのだろう。

 誰かを困らせずに、私が困ったことを伝える言い方が、思いつかなかった。


 楽器の手入れをし、教わったとおりにケースへ戻した。

 今朝より下手になったわけではない。吹けるところは、少し増えていた。


 それなのに、ケースを閉じた時には、ようやく終わったと思っていた。


     * * *


 その数日後の放課後、図書当番を終えて練習場所へ行くと、誰もいなかった。


 戸口から、部屋の中を見た。

 椅子も、譜面台もある。

 でも、いつも集まる場所には、楽器を出している人がいなかった。


 当番で少し遅れることは、先輩へ伝えてあった。

 終わってから来ればいい、と言ってもらっている。

 だから、部活が休みということではないはずだった。


 ケースを持ったまま、もう1度、廊下を見た。

 別の部屋から音がする。

 どこかへ移ったのだろうか。


 掃除の時間、階段の前で立っていたことを思い出した。

 あの時は、勝也くんが声をかけてくれた。

 今日は、待っていても誰も来ないかもしれない。


 今いる部屋の戸を閉め、廊下へ戻った。

 向こうから来た先輩を見つけて、足を速める。


「あの……すみません。今日、練習……どこで……」

「富田さん。図書、終わった?」

「……はい。でも、誰も……いなくて……」

「今日は隣の部屋に移ったんだよ。杉浦さんから、聞かなかった?」


 私は首を振った。

 図書室から、いつもの部屋へ来たところだった。

 玲奈さんには会っていない。


 先輩が、一緒に行こう、と言ってくれた。

 案内された部屋では、もうみんなが楽器を持っていた。


「杉浦さん、富田さんに伝わってなかったよ」


 先輩が声をかけた。

 玲奈さんが顔を上げる。


「まだ来てなかったので、あとで言おうと思ってました」

「図書のあとに来るって伝えたよね。先に移ったら、分からなくなっちゃうから」

「……すみません」


 玲奈さんが頷いた。

 先輩は、私にも椅子の場所を教えてくれた。


「ここで大丈夫。準備してね」

「……はい。すみません……」


 先輩に言ってもらえたことには、ほっとした。

 私だけが連絡を聞き逃していたのではないと、分かったからだった。

 それでも、入ってきた時にみんながこちらを見たことが気になり、座る時にも音を立てないようにした。


 ケースを開くと、玲奈さんがこちらへ顔を寄せた。


「聞いてくれればよかったのに」


 手が止まった。


「……いつもの、部屋に……誰も、いなかったから……」

「隣だよ。少し探したら分かったと思うけど」


 私は、今、探して来たのだった。

 先輩へ聞いて、ここを教えてもらった。


 そのことを言おうとした時には、玲奈さんは前を向いていた。

 私も口を閉じ、楽器の準備を続けた。


 席には着けた。

 でも、何を練習していたのかは分からなかった。

 ファイルを開き、日付を書いた紙を出してから、隣の譜面台を見た。


「あの……どこから、やってるの……?」


 玲奈さんは答えなかった。

 聞こえなかったのかもしれないと思い、少し待った。


「……玲奈さん……」

「下」


 紙へ向けて、指が動いた。

 その先を見たけれど、どの小節なのかまでは分からなかった。


 もう1度聞いたら、しつこいだろうか。

 聞かずに違うところを吹いたら、また練習を止めてしまう。


 前にいた先輩が、私の譜面を指した。


「富田さん、今日はここからね。さっきまで、ここを合わせてたの」

「……はい。ありがとう、ございます……」


 言われた場所を指で押さえた。

 使う紙も、始めるところも合っている。

 何度も確かめてから楽器を持つと、指に力が入りすぎていた。


 前より、吹けるようになっていたはずだった。

 それなのに、最初の音を出すのが怖くなっていた。


     * * *


 家へ帰ってリュックサックを下ろすと、お母さんが、今日は少し疲れたの、と聞いてくれた。


「うん。ちょっと疲れた」

「部活?」


 頷いた。

 お母さんは手を止め、私の返事を待っていた。


 練習する部屋が変わっていたことを、知らなかった。

 その前には、違う譜面を渡された。

 ちゃんと聞こうとしても、言葉が出るまでに時間がかかる。待ってもらえないと、次を言うのが怖くなる。


 話したいことは、あった。

 けれど、口に出す前に、自分でも迷った。


 紙が混ざっていたのかもしれない。

 あとで教えるつもりだったのかもしれない。

 それなのに、嫌なことをされたように話したら、玲奈さんを悪く言うことになるのだろうか。


「……同じところを、何回も練習してたから」


 答えると、お母さんが頷いた。


「難しかった?」

「うん。でも、少しできるようにはなったよ」

「そっか。頑張ったね。ご飯まで、少し休んでていいよ」


 私は、ありがとう、と小さく言った。

 お母さんがまた手を動かし始めてから、部屋へ向かった。


 心配して聞いてくれたのに、練習の話だけにしてしまった。

 そのことが、少し苦しかった。

 でも、話している途中で泣いてしまいそうだったので、今は部屋へ行けることに安心していた。


 着替えたあと、ファイルを机へ置いた。

 使う紙を間違えないよう、今日の分だけを手前へ出す。

 何も変わっていないか、印刷された音符まで確かめようとして、手を止めた。


 家へ持って帰ってから、誰も触っていない。

 確かめ直さなくても、同じ紙だった。


 それでも気になってしまうことが、嫌だった。

 前は、ファイルを開けば、次に吹きたいところを探していた。

 今は、これで合っているのかを、先に考える。


 ファイルを閉じた。

 しばらくしてから、ピアノの前へ座った。


 前から弾いていた曲の楽譜を開く。

 よく知っているページだった。

 左手が遅れやすいところには、前に自分でつけた印がある。


 今日は、そこまでゆっくり弾こうと思った。

 指を鍵盤へ置き、初めの音を出す。


 途中で、音を外した。

 その瞬間、顔を上げてしまった。


 誰も、こちらを見ていなかった。

 お母さんは台所にいる。

 練習を止めたことで、待たせている人もいなかった。


 恥ずかしくなって、鍵盤へ目を戻した。

 家で弾いているのに、誰かに注意されると思ってしまった。


 間違えたところの、少し手前へ戻った。

 ゆっくり指を動かす。

 今度は、音がつながった。


 できなかったところが、できた。

 それを確かめたくて、もう1度弾いた。

 次もできたので、そのまま先へ進んだ。


 気づくと、止まるつもりだったところを越えていた。

 続きを弾きたいと思っていた。


 音を小さくするところで、力を緩めた。

 前までの響きが残る中へ、次の音を重ねる。

 好きなところだった。


 最後まで弾いてから、手を膝へ下ろした。

 すぐに楽譜を閉じる気にはならなかった。


 やっぱり、音楽が好きだった。

 もう1度聞きたいと思う音があって、自分でも、そんなふうに弾いてみたかった。

 できないところを練習して、少しずつできるようになるのも、嫌いではなかった。


 クラリネットも同じだった。

 初めて音が出た時も、少し長く続いた時も、嬉しかった。

 先輩の合図で、みんなとそろって止まれた時には、もっと吹いてみたいと思った。


 あの中にいたい。

 自分の音も、みんなの音と一緒に聞きたい。


 その気持ちは、なくなっていなかった。

 だから、部活へ行く前に嫌だと思う自分のことが、分からなくなった。


 楽器を吹きたくないわけではない。

 部屋へ入って、誰に何を聞けばいいのか考えることが怖い。

 渡された紙を確かめるだけでも、相手の顔を気にすることが苦しかった。


 どうしたら、吹くことだけを考えられるのだろう。


 楽譜の端へ手を置いた。

 答えは分からなかった。


「ご飯、できたよ」


 お母さんに呼ばれ、顔を上げた。


「うん。今、行くね」


 立ち上がる前に、楽譜を閉じた。

 また弾こうと思った。

 そう思えることには、少しだけほっとしていた。


     * * *


 次に部活へ行く日の朝、私はファイルへ小さな紙を挟んだ。


 練習場所。

 使う譜面。

 始めるところ。


 聞いておきたいことを、短く書いた紙だった。

 順番に確かめれば、もう間違えずに済むかもしれない。


 教室で授業の準備をしていると、勝也くんが来た。


「富田、おはよう」

「おはよう」

「この前の練習、あのあとも少し進んだ?」


 私はファイルから顔を上げた。

 勝也くんは隣の席の人に断って、空いていた椅子へ少し腰を下ろした。


「うん。後ろの方も、前より吹けるようになったよ」

「じゃあ、俺が聞いたのより長い?」

「少しだけ。まだ、ゆっくりじゃないと難しいけど」

「そっか。今度聞いたら、また違いそうだね」


 勝也くんは、私の方を見て笑った。

 私も頷いた。


「聞いて……分かるかな」

「分かるといいな。この前は、ちょうどできたところだったんでしょ」

「うん。いつ来てもあんなふうにできるわけじゃないよ」

「大丈夫だよ。俺だって、いつも同じところでつまずくし」

「部活?」

「英語。先輩に教えてもらったところ、家でやったら、また分かんなくなっちゃって」


 少し笑ってしまった。

 勝也くんは、真面目に困っていたようだった。


「分かったと思ってたんだけどね」

「解いてる時は、分かる気がするんだよね」

「そう。先輩が言うと、そのとおりだなって」

「次は、自分で説明してみたら?」

「……それ、すぐ分かってないのがばれそう」


 私がまた笑うと、勝也くんも笑った。

 始業の時刻が近づき、椅子を戻して立ち上がる。


「じゃあ、またあとでね」

「うん」


 勝也くんが自分の席へ戻るのを見送った。

 話せて嬉しかった。

 次に演奏を聞いてもらえるなら、今より少しでも上手になっていたかった。


 でも、膝の上へ下ろしたファイルを開くと、朝に書いた紙が見えた。

 勝也くんには、見せなかった紙だった。


 場所も、譜面も、分からなくなったこと。

 聞き返すのが怖くて、言葉を忘れないように書いてきたこと。

 さっきの会話では、何も話していなかった。


 放課後、部活へ向かう廊下で先輩を見つけた。

 私はファイルの中の紙を、指先で確かめた。


「……すみません。今日の、練習場所……いつもの部屋で、大丈夫ですか……?」

「うん。今日はそっちだよ」

「譜面は……これで……合って、ますか……?」


 ファイルを開くと、先輩が頷いた。


「それで大丈夫。始めるところは、向こうでみんなに言うね」

「……ありがとうございます」


 これで、2つは確かめられた。

 残りも、あとで聞ける。


 練習する部屋の前まで来た。

 中から、知っている音の並びが聞こえた。

 この次で、指を動かす。

 この前は少し迷ったけれど、今日は、もう少し滑らかに吹けるかもしれない。


 早く楽器を出したいと思った。


 その時、中から笑い声がした。

 戸へ伸ばしかけた手が止まった。


 何を話しているのかは聞き取れない。

 私のことではないかもしれない。

 それでも、誰がこちらを向くかを、入る前から考えていた。


 音楽が好きだという気持ちと、この部屋へ入る怖さが、どちらも私の中にあった。

 好きな方だけを選んで持っていくことは、できなかった。


 ファイルを抱え直した。


「……失礼します」


 小さく声をかけてから、中へ入った。

 練習する場所も、使う譜面も、今日は間違っていなかった。

 それなのに、席へ着くまで、胸がどきどきしていた。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 優子の演奏を聞き、みんなの音がそろって止まったところを褒める。後日も練習の様子を尋ね、英語の宿題で困った話をして笑い合う。


・富田優子

 練習の成果を勝也に褒められて喜ぶが、違う譜面や練習場所の連絡漏れに戸惑う。音楽が好きな気持ちは変わらないまま、部活へ行くことが怖くなっていく。


・井上綾香

 練習後の優子へ声をかけ、違う譜面を見ていたことを聞く。今は正しい譜面があるか確かめるが、誰から渡されたのかまでは知らされていない。


・杉浦玲奈

 勝也に褒められて喜ぶ優子へ、楽器の細かいことは分からないのではないかと言う。古い譜面を渡し、別の日には練習場所の変更を伝えない。


・優子の母(富田美和)

 疲れて帰ってきた優子を気遣い、部活の話を聞く。少し上達したという返事に「頑張ったね」と声をかけ、夕食まで休むよう勧める。


・吹奏楽部の先輩

 優子の譜面が古いことに気づき、正しいものを渡す。別の日には変更後の練習場所へ案内し、連絡を伝えていなかった玲奈を注意する。


・茶道部の先輩

 本を借りて戻った勝也に、よい本が見つかったか尋ねる。手伝いを申し出た勝也へ、物を運ぶ仕事を頼む。

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