第6話 音楽が好き
* * 勝也視点 * *
5月に入ってしばらくした放課後、音楽室へ続く廊下で足が止まった。
図書室で本を借り、茶道部へ向かう途中だった。
リュックサックには、雨宿りの時に優子が話してくれた本が入っている。読み終わって返したと教えてもらったので、ほかの人が借りる前に行ってみたのだった。
開いた戸の向こうから、いくつかの音が重なって聞こえた。
途中で止まり、少し話す声がして、また同じところから始まる。
覗くと、優子がいた。
黒い楽器を構え、前の譜面を見ている。隣にいるのは、同じクラスの杉浦玲奈だった。優子と同じ、クラリネットの担当だ。
奥では、別の楽器を持った先輩が紙を並べていた。
「最後まで、同じ速さでいこう。終わりだけ急がないでね」
1年生の前に立っている先輩が言った。
優子が頷いた。
合図のあと、音が出た。
俺の知っている曲ではなかった。長い曲の途中を聞いているのか、最初から短い練習なのかも分からない。
それでも、さっき止まったところを越え、みんなの音が一緒に先へ進んだことは分かった。
最後の音が伸びる。
先輩の手が動くと、そこでそろって止まった。
「そう。今の、よかったね」
優子が譜面から顔を上げた。
先輩を見て、それから楽器へ目を戻す。口元が少し緩んでいた。
俺も、よかったと思った。
指の動かし方も、息の使い方も知らない。でも、みんなが同じところへ着いたような終わり方が、聞いていて気持ちよかった。
「少し休憩しようか。次に使う紙、用意してくるから」
先輩が言うと、みんなが楽器を下ろした。
優子はまだ、譜面の最後の辺りを見ていた。
邪魔しないうちに行こうと思い、足を引いた。
その時、優子がこちらを向いた。
「勝也くん?」
名前を呼ばれて、俺も手を上げた。
「ごめん。通ったら、ちょうど聞こえてきて」
「……聞いてたの?」
「最後の方だけ。よかったよ」
優子が、楽器を持ったまま立ち上がりかけた。
近くにいた先輩が、知り合い、と聞く。
「……はい。同じ、クラスの……」
「今は休憩だから、少しなら話してていいよ」
「……ありがとうございます」
優子はキャップを付けてから、入口の近くへ来た。
そこで空いている椅子へ座り、楽器を持ち直す。俺も隣の椅子を少し引いて座った。
さっき遠くから見ていた時より、顔がよく見えた。
「びっくりした……言ってくれたらよかったのに」
「吹いてる途中で声かけたら、止まっちゃうかなって」
「それは、止まると思う」
「でしょ。俺のせいで、もう1回になるのも困るし」
優子が笑った。
頬は少し赤かったけれど、嫌そうではなかった。
「さっきの、最後にみんなでぴったり止まったところ、よかった」
「最後のところ?」
「うん。途中もだけど、そこが何か、ぴったりだったから」
優子が、少し身を寄せた。
「そこ、何回もやってたの。途中までは合っても、最後に速くなっちゃったり、音が残っちゃったりして」
「じゃあ、ちょうどできたところを聞けたんだ」
「うん。今のは、私も、合ったって思った」
嬉しそうだった。
ただ、褒められたから頷いているのではない。自分でもうまくできたと思ったところを、聞いてもらえたのが嬉しいのだと分かった。
「この前は、長く音を出す練習って言ってたよね」
「今もやってるよ。そのあとに、こういう短いのを合わせるの」
「できること、増えてるんだね」
「まだ、ゆっくりじゃないと指が迷うけど」
優子は、楽器に置いた指を少し動かした。
俺はその手元を見た。
「ここを押したら、この音って、考えながらやるの?」
「うん。でも、考えてる間に次の音になっちゃうから、覚えないと」
「それは忙しいね」
「息のこともあるし。指が合ってても、変な音が出る時があるの」
やることが多かった。
譜面を見て、指を動かし、息を続ける。そのうえで、隣の人たちとも合わせる。
最初から全部を気にしていたら、俺なら何か忘れそうだった。
「富田、ピアノも弾けるから、すぐできるのかと思ってた」
「ピアノとは違うよ。分かってるのに、指が違う方へ動いちゃったりするし」
「そっか。読むところは分かっても、そのとおりに吹くのが難しいんだ」
「そう。さっきできたのにって思うと、悔しくなる」
優子が少し眉を寄せた。
できなかったところを思い出しているようだった。
小さい頃、優子がピアノを弾くところを見たことがある。
俺には、止まらずに両手が動くこと自体がすごかった。
その前に同じところを何度も練習していたのだろうけれど、俺は、弾ける優子ばかりを覚えていた。
「ピアノの時も、そんな感じだった?」
「うん。左手だけやったり、少し前から戻ったり。できるまで、同じところを弾くよ」
「俺が見てた時には、もう練習したあとだったんだね」
「間違えてた時も、あったと思うけど」
「気づいてなかったのかも」
優子は、そうかも、と笑った。
「でも、昨日できなかったところができると、楽しいの。もう1回やったら、今度もできるかなって」
「それで、また最初に戻るんだ」
「うん」
「この前のゲームの話と、ちょっと似てるね。あと1回って」
「勝也くんも、言ってたでしょ」
「うん。俺の方が先に言ってたと思う」
2人で笑った。
優子は口元へ手を当てかけ、楽器を持っていることに気づいたように、膝の上へ戻した。
「1人で練習するのと、みんなでやるのも違う?」
「うん。自分だけうまく吹けても、合わないことがあるから。でも、合うと、自分の音もその中に入ってるって分かるの」
優子は、さっき座っていた方を見た。
いくつも並んだ譜面台の上に、同じような紙が載っている。
「ピアノを弾いてる時とは、違う感じがする。私が止まると、そこだけ音がなくなるし」
「富田の分があるんだ」
「うん」
その返事も、嬉しそうだった。
教室では、隣に誰かが来ると少し身を引くことがある。声をかけようとして、途中でやめるところも見ていた。
でも、楽器を持っている優子は、もう1度みんなと合わせたいと思っている。
そういう時間があるのを知って、俺も嬉しかった。
奥で椅子が動いた。
優子もそちらを向いたので、俺は廊下の時計を見た。
「そろそろ、俺も行こうかな」
「部活?」
「うん。本を借りてから行きますって言ってきたけど、ずっと来なかったら、本棚の前で読んでると思われそう」
「読んでなかったの?」
「少しだけ。最初だけ見ようと思って」
「やっぱり」
優子が笑った。
俺はリュックサックの口を少し開き、借りてきた本の表紙を見せた。
「これ。教えてくれてありがとう」
「ううん。どこまで読んだか、また教えて」
「分かった。先のこと聞きそうになったら、止めてね」
「言わないよ」
返事を聞いてから立ち上がった。
優子も、元の場所へ戻るために腰を上げる。
「練習、頑張ってね。また聞けたら、聞きたいな」
「……うん。ありがとう」
優子は、少し間を置いて頷いた。
「最後のところ、よかったって言ってくれて……嬉しかった」
「本当にそう思ったから。じゃあ、またね」
「またね」
廊下へ出てから振り返ると、優子はまだこちらを見ていた。
目が合い、小さく手を振ってくれた。俺も手を上げてから、部室へ向かった。
帰りに見かけたら、練習の続きはどうだったか聞いてみよう。
そんなことを考えていた。
茶道部へ着くと、先輩から、いい本あった、と聞かれた。
ありました、と答えてリュックサックを下ろす。
「でも、読む前に、運ぶ物あったら運びます」
「助かる。じゃあ、こっちお願い」
渡された物を両手で持った。
歩く間にも、最後に音がそろって止まったところが、何となく耳に残っていた。
* * 優子視点 * *
譜面台の前へ戻ってからも、すぐには楽器を構えなかった。
最後のところ、よかった。
勝也くんは、そう言ってくれた。
どこがよかったのかまで聞けると思っていなかった。
私も嬉しかったところを、同じように聞いてくれていた。頑張っていた時間を少し見つけてもらえた気がして、思い返すと、また顔が熱くなった。
次は、今日より長く吹けるところを聞いてほしい。
そんなことまで考えてしまった。
「鵜飼に褒められると、そんなに嬉しいんだ」
鉛筆を取ろうとしていた手が止まった。
玲奈さんが、隣から私を見ていた。
「……え……」
「ずっと笑ってるから。さっき先輩に言われた時と、顔、違うよね」
頬へ触りたくなった。
でも、そうしたら、言われたとおりだと認めてしまうようで、手を動かせなかった。
「あの……最後、合ってたって……言ってくれたから……」
「うん。聞こえてた」
玲奈さんは笑った。
近くにいた子も私の方を見たので、譜面へ目を落とした。
勝也くんに褒めてもらえて、嬉しかった。
それを、違うとは言えなかった。
けれど、その気持ちを玲奈さんに確かめられるのは怖かった。
「鵜飼って、楽器できるの?」
「……クラリネットは、やったこと……ないと、思う……」
「じゃあ、細かいことまでは分かんないんじゃない?」
私は鉛筆を握った。
細かいことを、全部分かってほしかったわけではなかった。
うまくできたと思ったところを、聞いてくれた。それで嬉しかった。
そう言えたらよかった。
でも、口を開いても、最初の言葉が出てこなかった。
「先輩に聞いた方が、練習にはなると思うけど」
玲奈さんはそう言い、隣の子の方へ向き直った。
私は、小さく頷いてしまった。
笑わないように、口元に力を入れた。
勝也くんが帰る前までと同じ顔をしていたら、また何か言われそうだった。
* * *
休憩の間に廊下へ出て、水を飲んだ。
戻る時、入口の手前でひと呼吸置いた。
玲奈さんたちは、譜面台のところに集まっていた。
何を話していたのかは聞こえなかった。私が近づくと、玲奈さんが紙を差し出した。
「次、これ使うって」
「……ありがとう」
受け取るために、両手を出した。
紙には、短い練習の譜面が印刷されていた。
前に使ったものと、初めの音の並びがよく似ている。
「……さっきのは、しまって……いいの?」
「うん。次はこっちだから」
「……うん」
私は、今までの紙をファイルへ戻した。
新しい紙を譜面台へ置き、上から目で追う。
次に何を使うのか分かったことに、ほっとしていた。
聞く前に教えてもらえた。
さっきの話が気になっていたけれど、練習のことは、ちゃんと教えてくれたのだと思った。
先輩が戻ってきた。
紙が行き渡っているか確かめてから、前の椅子へ座る。
「前半は、前にやったのと同じね。今日は後ろの方を合わせるから、まず、そこを見て」
私は言われたところへ鉛筆を置いた。
始まる場所を見失わないよう、小さく印をつける。
先輩が数え始めた。
息を吸い、周りに合わせて音を出した。
初めは、一緒だった。
自分の音だけが大きくならないようにしながら、次へ進む。
少し先で、周りの音が変わった。
私だけ、同じ音を伸ばしていた。
遅れたのだと思った。
慌てて指を動かしたけれど、その次も、聞こえてくる音と合わなかった。
紙を見直している間に、息まで続かなくなった。
「止めて。富田さん、今、どこを吹いてた?」
先輩の声で、みんなが楽器を下ろした。
私は譜面へ鉛筆を向けた。
「……ここ、です……」
「最初から見てた? 途中から、ずっとずれてたよ」
「……すみません」
顔を上げられなかった。
自分の音だけが残った時の感じが、まだ耳にあった。
さっき、勝也くんに話したばかりだった。
みんなと合うと嬉しい。自分の音も、その中に入っていると分かる。
今は、その自分の音のせいで、みんなが止まっていた。
紙を見た。
伸ばすはずの音は、やっぱりそこにあった。
どこかで数え間違えたのだろうか。指を動かすことに気を取られて、自分だけ遅れたのかもしれない。
隣の紙を見ようとした。
玲奈さんの腕が近くにあって、同じ場所までは見えなかった。
「あの……玲奈さん。ここ……」
「今、先輩が話してるよ」
私は前へ向き直った。
「……ごめんなさい」
先輩が、もう1度始めるところを指していた。
話している間に横を向いてしまったことも、悪かった。
けれど、何が違ったのか分からないまま、次の合図を待つのは怖かった。
「今度は、ゆっくりやるから。落ち着いてね」
頷いた。
音符を指でたどり、伸ばすところを確かめる。
今度こそ、間違えないようにしようと思った。
吹き始めた。
先輩の数える声に合わせ、同じところまで進む。
やはり、私の音だけが残った。
今度は慌てて先へ行かなかった。
紙を見たまま、周りの音を聞いた。
私が音を伸ばす間に、ほかの人たちは次の音を吹いている。その音符が、私の紙にはなかった。
間違えたのは、指だけではない。
見ているものが違う。
「……あの……」
口を離した時には、先輩の手も上がっていた。
「富田さん、どうしたの?」
「私の……譜面が、ここ……違ってる、みたいで……」
最後まで言うのに、時間がかかった。
待っている人たちの方は見られなかった。
先輩が立ち上がり、私の譜面台へ来た。
指したところを見て、それから紙の上の方へ目を移す。
「あれ。これ、前の紙だね」
私は顔を上げた。
「今日のは、こっち。後半を変えた方だよ」
隣の子の紙を、少しこちらへ向けてくれた。
初めの方は同じだった。
けれど、私が音を伸ばしていたところには、違う音符があった。
間違えて読んでいたのではなかった。
そう分かったのに、すぐには安心できなかった。
「……私、これ……さっき、もらって……」
「え、それだった?」
玲奈さんが、私の紙を覗き込んだ。
「ごめん。配る方に混ざってたのかも。同じだと思った」
玲奈さんは先輩を見て言った。
先輩は、そうだったんだ、と頷いた。
「予備があるから、これを使って」
別の紙を渡された。
「……ありがとうございます」
取り替えようとすると、先輩が続けた。
「次から、違うと思ったら早めに言ってね。何度も止まると、みんなの練習時間も短くなるから」
「……はい……」
紙を持つ指に、力が入った。
言おうとした。
玲奈さんへ、ここがどうなっているのか聞こうとした。
でも、先輩へは、その時すぐに言えていなかった。
自分が間違えたのかもしれないと思って、言う前に、もう1度吹こうとした。
それで、また止めてしまった。
「富田さん、もう大丈夫?」
先輩に聞かれ、頷いた。
「……はい」
新しい紙を置いた。
古い方をファイルへしまおうとしたけれど、透明なポケットの口が、うまく開かなかった。
指でこすっても、薄い面がくっついたままだった。
近くで、椅子の脚が鳴った。
待たせている。
私は古い紙を、新しい紙の下へ重ねた。
片づけるのは、あとでいい。
今は早く、楽器を構えなければいけなかった。
* * *
正しい譜面でも、急に全部できるようにはならなかった。
新しく出てきた音へ指を移す時、少し迷った。
先輩に言われたところまで戻り、ゆっくり確かめる。
今度は、何を練習すればいいのか分かった。
指が遅れたところを、もう1度。
息が弱くなったところを、その手前から。
少しずつ、つながるようになった。
最後まで吹けた時、先輩が頷いた。
「そう。それで合ってるよ」
「……はい」
楽器を下ろした。
さっきできなかったところが、できた。
いつもなら、もう1度やってみたいと思うところだった。
でも、私は先に、隣の紙を見た。
同じ音符が並んでいるか確かめてから、自分の譜面へ目を戻した。
玲奈さんから受け取った時には、次に使うものを教えてもらえたと思った。
だから、ありがとうと言った。
その紙を置いたせいで、私だけが違う音を吹き、みんなを待たせた。
紙が混ざっていたのなら、仕方がなかったのかもしれない。
玲奈さんも、謝ってくれた。
それでも、次に渡された紙を、同じように受け取れる気がしなかった。
休憩になってから、2枚を机へ並べた。
上の方は、本当によく似ている。
初めだけを見てしまえば、同じだと思うかもしれなかった。
間違えた紙に、さっき私がつけた小さな印があった。
ここからだと教えてもらい、迷わないように書いた印だった。
しばらく見てから、消しゴムを出した。
消すと、そこだけ紙が少し白くなった。
新しい譜面の同じ辺りへ、印をつけ直す。
私が謝った時も、みんなが待っていた時も、正しい紙を見せてもらえば、違いは分かった。
もっと早く確かめればよかったのだと考えた。
でも、次はどこまで確かめれば、間違えずに済むのだろう。
楽譜を読む前に、渡してくれた人の顔を思い浮かべていた。
練習したいところを考えていたはずなのに、そこへ戻るまでに、時間がかかった。
少し離れたところで、笑い声がした。
顔を上げると、玲奈さんたちが同じ紙を見ていた。
何が面白かったのかは分からない。
それでも、自分の紙を見られたような気がして、2枚を重ねてしまった。
今、私のことを言っていたのかは、分からない。
そう思い直しても、もう1度そちらを見ることはできなかった。
* * *
片づけの時間、綾香さんが声をかけてくれた。
「富田さん、今日はどうだった?」
手には、閉じたフルートのケースがあった。
今日も違う場所で練習していたので、途中ではほとんど顔を合わせていなかった。
「……途中で、違う……譜面を、見ちゃって……」
「違う譜面?」
「前のと……似てて。後ろの方が、違って……」
綾香さんが、私のファイルを見た。
「今使うのは分かった?」
「……うん。先輩が……くれたから……」
「そっか。似てると、分かりにくいよね」
責める声ではなかった。
綾香さんも自分のファイルを少し持ち上げ、紙が増えてきたから探すのが大変だと話した。
私は頷いた。
違う譜面を見た。
それは本当だった。
でも、誰から渡されたのかも、次はこれだと言われたことも、話していなかった。
「富田さん?」
黙っていると、綾香さんが少し首を傾げた。
今なら、続きを聞いてくれるかもしれない。
さっき、渡された紙だったの。
頭の中では、そう言えた。
けれど、誰に、と聞かれたら、その名前を言わなければならない。
教室でも同じ部活でも会う玲奈さんに、勝手に話したと知られたらどうなるのか、考えてしまった。
「……今は、大丈夫……」
そう答えた。
綾香さんは頷いた。
「分かった。私、先に先生のところへ行ってくるね」
「……うん」
綾香さんが離れてから、ファイルを閉じた。
別の場所にいた綾香さんが、私の言わなかったことまで分かるはずがなかった。
でも、自分で紙を選び間違えたのだと思われたままなのは、悲しかった。
どう話せばよかったのだろう。
誰かを困らせずに、私が困ったことを伝える言い方が、思いつかなかった。
楽器の手入れをし、教わったとおりにケースへ戻した。
今朝より下手になったわけではない。吹けるところは、少し増えていた。
それなのに、ケースを閉じた時には、ようやく終わったと思っていた。
* * *
その数日後の放課後、図書当番を終えて練習場所へ行くと、誰もいなかった。
戸口から、部屋の中を見た。
椅子も、譜面台もある。
でも、いつも集まる場所には、楽器を出している人がいなかった。
当番で少し遅れることは、先輩へ伝えてあった。
終わってから来ればいい、と言ってもらっている。
だから、部活が休みということではないはずだった。
ケースを持ったまま、もう1度、廊下を見た。
別の部屋から音がする。
どこかへ移ったのだろうか。
掃除の時間、階段の前で立っていたことを思い出した。
あの時は、勝也くんが声をかけてくれた。
今日は、待っていても誰も来ないかもしれない。
今いる部屋の戸を閉め、廊下へ戻った。
向こうから来た先輩を見つけて、足を速める。
「あの……すみません。今日、練習……どこで……」
「富田さん。図書、終わった?」
「……はい。でも、誰も……いなくて……」
「今日は隣の部屋に移ったんだよ。杉浦さんから、聞かなかった?」
私は首を振った。
図書室から、いつもの部屋へ来たところだった。
玲奈さんには会っていない。
先輩が、一緒に行こう、と言ってくれた。
案内された部屋では、もうみんなが楽器を持っていた。
「杉浦さん、富田さんに伝わってなかったよ」
先輩が声をかけた。
玲奈さんが顔を上げる。
「まだ来てなかったので、あとで言おうと思ってました」
「図書のあとに来るって伝えたよね。先に移ったら、分からなくなっちゃうから」
「……すみません」
玲奈さんが頷いた。
先輩は、私にも椅子の場所を教えてくれた。
「ここで大丈夫。準備してね」
「……はい。すみません……」
先輩に言ってもらえたことには、ほっとした。
私だけが連絡を聞き逃していたのではないと、分かったからだった。
それでも、入ってきた時にみんながこちらを見たことが気になり、座る時にも音を立てないようにした。
ケースを開くと、玲奈さんがこちらへ顔を寄せた。
「聞いてくれればよかったのに」
手が止まった。
「……いつもの、部屋に……誰も、いなかったから……」
「隣だよ。少し探したら分かったと思うけど」
私は、今、探して来たのだった。
先輩へ聞いて、ここを教えてもらった。
そのことを言おうとした時には、玲奈さんは前を向いていた。
私も口を閉じ、楽器の準備を続けた。
席には着けた。
でも、何を練習していたのかは分からなかった。
ファイルを開き、日付を書いた紙を出してから、隣の譜面台を見た。
「あの……どこから、やってるの……?」
玲奈さんは答えなかった。
聞こえなかったのかもしれないと思い、少し待った。
「……玲奈さん……」
「下」
紙へ向けて、指が動いた。
その先を見たけれど、どの小節なのかまでは分からなかった。
もう1度聞いたら、しつこいだろうか。
聞かずに違うところを吹いたら、また練習を止めてしまう。
前にいた先輩が、私の譜面を指した。
「富田さん、今日はここからね。さっきまで、ここを合わせてたの」
「……はい。ありがとう、ございます……」
言われた場所を指で押さえた。
使う紙も、始めるところも合っている。
何度も確かめてから楽器を持つと、指に力が入りすぎていた。
前より、吹けるようになっていたはずだった。
それなのに、最初の音を出すのが怖くなっていた。
* * *
家へ帰ってリュックサックを下ろすと、お母さんが、今日は少し疲れたの、と聞いてくれた。
「うん。ちょっと疲れた」
「部活?」
頷いた。
お母さんは手を止め、私の返事を待っていた。
練習する部屋が変わっていたことを、知らなかった。
その前には、違う譜面を渡された。
ちゃんと聞こうとしても、言葉が出るまでに時間がかかる。待ってもらえないと、次を言うのが怖くなる。
話したいことは、あった。
けれど、口に出す前に、自分でも迷った。
紙が混ざっていたのかもしれない。
あとで教えるつもりだったのかもしれない。
それなのに、嫌なことをされたように話したら、玲奈さんを悪く言うことになるのだろうか。
「……同じところを、何回も練習してたから」
答えると、お母さんが頷いた。
「難しかった?」
「うん。でも、少しできるようにはなったよ」
「そっか。頑張ったね。ご飯まで、少し休んでていいよ」
私は、ありがとう、と小さく言った。
お母さんがまた手を動かし始めてから、部屋へ向かった。
心配して聞いてくれたのに、練習の話だけにしてしまった。
そのことが、少し苦しかった。
でも、話している途中で泣いてしまいそうだったので、今は部屋へ行けることに安心していた。
着替えたあと、ファイルを机へ置いた。
使う紙を間違えないよう、今日の分だけを手前へ出す。
何も変わっていないか、印刷された音符まで確かめようとして、手を止めた。
家へ持って帰ってから、誰も触っていない。
確かめ直さなくても、同じ紙だった。
それでも気になってしまうことが、嫌だった。
前は、ファイルを開けば、次に吹きたいところを探していた。
今は、これで合っているのかを、先に考える。
ファイルを閉じた。
しばらくしてから、ピアノの前へ座った。
前から弾いていた曲の楽譜を開く。
よく知っているページだった。
左手が遅れやすいところには、前に自分でつけた印がある。
今日は、そこまでゆっくり弾こうと思った。
指を鍵盤へ置き、初めの音を出す。
途中で、音を外した。
その瞬間、顔を上げてしまった。
誰も、こちらを見ていなかった。
お母さんは台所にいる。
練習を止めたことで、待たせている人もいなかった。
恥ずかしくなって、鍵盤へ目を戻した。
家で弾いているのに、誰かに注意されると思ってしまった。
間違えたところの、少し手前へ戻った。
ゆっくり指を動かす。
今度は、音がつながった。
できなかったところが、できた。
それを確かめたくて、もう1度弾いた。
次もできたので、そのまま先へ進んだ。
気づくと、止まるつもりだったところを越えていた。
続きを弾きたいと思っていた。
音を小さくするところで、力を緩めた。
前までの響きが残る中へ、次の音を重ねる。
好きなところだった。
最後まで弾いてから、手を膝へ下ろした。
すぐに楽譜を閉じる気にはならなかった。
やっぱり、音楽が好きだった。
もう1度聞きたいと思う音があって、自分でも、そんなふうに弾いてみたかった。
できないところを練習して、少しずつできるようになるのも、嫌いではなかった。
クラリネットも同じだった。
初めて音が出た時も、少し長く続いた時も、嬉しかった。
先輩の合図で、みんなとそろって止まれた時には、もっと吹いてみたいと思った。
あの中にいたい。
自分の音も、みんなの音と一緒に聞きたい。
その気持ちは、なくなっていなかった。
だから、部活へ行く前に嫌だと思う自分のことが、分からなくなった。
楽器を吹きたくないわけではない。
部屋へ入って、誰に何を聞けばいいのか考えることが怖い。
渡された紙を確かめるだけでも、相手の顔を気にすることが苦しかった。
どうしたら、吹くことだけを考えられるのだろう。
楽譜の端へ手を置いた。
答えは分からなかった。
「ご飯、できたよ」
お母さんに呼ばれ、顔を上げた。
「うん。今、行くね」
立ち上がる前に、楽譜を閉じた。
また弾こうと思った。
そう思えることには、少しだけほっとしていた。
* * *
次に部活へ行く日の朝、私はファイルへ小さな紙を挟んだ。
練習場所。
使う譜面。
始めるところ。
聞いておきたいことを、短く書いた紙だった。
順番に確かめれば、もう間違えずに済むかもしれない。
教室で授業の準備をしていると、勝也くんが来た。
「富田、おはよう」
「おはよう」
「この前の練習、あのあとも少し進んだ?」
私はファイルから顔を上げた。
勝也くんは隣の席の人に断って、空いていた椅子へ少し腰を下ろした。
「うん。後ろの方も、前より吹けるようになったよ」
「じゃあ、俺が聞いたのより長い?」
「少しだけ。まだ、ゆっくりじゃないと難しいけど」
「そっか。今度聞いたら、また違いそうだね」
勝也くんは、私の方を見て笑った。
私も頷いた。
「聞いて……分かるかな」
「分かるといいな。この前は、ちょうどできたところだったんでしょ」
「うん。いつ来てもあんなふうにできるわけじゃないよ」
「大丈夫だよ。俺だって、いつも同じところでつまずくし」
「部活?」
「英語。先輩に教えてもらったところ、家でやったら、また分かんなくなっちゃって」
少し笑ってしまった。
勝也くんは、真面目に困っていたようだった。
「分かったと思ってたんだけどね」
「解いてる時は、分かる気がするんだよね」
「そう。先輩が言うと、そのとおりだなって」
「次は、自分で説明してみたら?」
「……それ、すぐ分かってないのがばれそう」
私がまた笑うと、勝也くんも笑った。
始業の時刻が近づき、椅子を戻して立ち上がる。
「じゃあ、またあとでね」
「うん」
勝也くんが自分の席へ戻るのを見送った。
話せて嬉しかった。
次に演奏を聞いてもらえるなら、今より少しでも上手になっていたかった。
でも、膝の上へ下ろしたファイルを開くと、朝に書いた紙が見えた。
勝也くんには、見せなかった紙だった。
場所も、譜面も、分からなくなったこと。
聞き返すのが怖くて、言葉を忘れないように書いてきたこと。
さっきの会話では、何も話していなかった。
放課後、部活へ向かう廊下で先輩を見つけた。
私はファイルの中の紙を、指先で確かめた。
「……すみません。今日の、練習場所……いつもの部屋で、大丈夫ですか……?」
「うん。今日はそっちだよ」
「譜面は……これで……合って、ますか……?」
ファイルを開くと、先輩が頷いた。
「それで大丈夫。始めるところは、向こうでみんなに言うね」
「……ありがとうございます」
これで、2つは確かめられた。
残りも、あとで聞ける。
練習する部屋の前まで来た。
中から、知っている音の並びが聞こえた。
この次で、指を動かす。
この前は少し迷ったけれど、今日は、もう少し滑らかに吹けるかもしれない。
早く楽器を出したいと思った。
その時、中から笑い声がした。
戸へ伸ばしかけた手が止まった。
何を話しているのかは聞き取れない。
私のことではないかもしれない。
それでも、誰がこちらを向くかを、入る前から考えていた。
音楽が好きだという気持ちと、この部屋へ入る怖さが、どちらも私の中にあった。
好きな方だけを選んで持っていくことは、できなかった。
ファイルを抱え直した。
「……失礼します」
小さく声をかけてから、中へ入った。
練習する場所も、使う譜面も、今日は間違っていなかった。
それなのに、席へ着くまで、胸がどきどきしていた。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
優子の演奏を聞き、みんなの音がそろって止まったところを褒める。後日も練習の様子を尋ね、英語の宿題で困った話をして笑い合う。
・富田優子
練習の成果を勝也に褒められて喜ぶが、違う譜面や練習場所の連絡漏れに戸惑う。音楽が好きな気持ちは変わらないまま、部活へ行くことが怖くなっていく。
・井上綾香
練習後の優子へ声をかけ、違う譜面を見ていたことを聞く。今は正しい譜面があるか確かめるが、誰から渡されたのかまでは知らされていない。
・杉浦玲奈
勝也に褒められて喜ぶ優子へ、楽器の細かいことは分からないのではないかと言う。古い譜面を渡し、別の日には練習場所の変更を伝えない。
・優子の母(富田美和)
疲れて帰ってきた優子を気遣い、部活の話を聞く。少し上達したという返事に「頑張ったね」と声をかけ、夕食まで休むよう勧める。
・吹奏楽部の先輩
優子の譜面が古いことに気づき、正しいものを渡す。別の日には変更後の練習場所へ案内し、連絡を伝えていなかった玲奈を注意する。
・茶道部の先輩
本を借りて戻った勝也に、よい本が見つかったか尋ねる。手伝いを申し出た勝也へ、物を運ぶ仕事を頼む。




