第46話 林間学校2日目 夜 その2
* * 勝也視点 * *
真弓と綾香が風呂に行ってからも、翔太は時々、最後に見た着物の人の話をした。
「やっぱ、あの辺に立ってたんだって」
畳の縁を道に見立て、指でなぞっていた春樹が、その横を指した。
「もうちょっと、こっち。道の真横じゃなかった」
「そうそう。そのくらい」
俺と優子も、その指先を見た。
どう説明されても、俺たちには思い当たらなかった。
「俺らが通ったあとに来たのかな」
「じゃない? 途中から交代とか」
春樹が答えた。
翔太は、それなら分かる、と頷き、ようやく畳から手を離した。
俺は膝に掛けていた上着を、優子の方へ少し広げた。
部屋の中は外よりずっとましだったけれど、座っていると足元が冷えてきた。
「寒くない?」
「……ちょっと」
「こっちも使っていいよ」
優子が膝を寄せた。
上着の端を二人の膝へかけ直すと、優子はその上へ手を置いた。
「俺、今日、風呂で寝るかもしれん」
翔太が言った。
「ちゃんと出てきてね。次、俺たちだから」
「起こして、春樹」
「自分で起きて」
優子が小さく笑った。
翔太はあくびをしたあと、鞄の口を開けて、また閉めた。
「券、入ってた?」
春樹に聞かれ、翔太が頷いた。
「三回目だよ、それ」
「なくしたら困るだろ」
「ずっと、そこに置いてるのに」
俺も、自分の券をしまった場所を思い出した。
さっきは寒くて早く部屋へ戻りたかったけれど、温かいところへ来たら、ちゃんとプリンが楽しみになっていた。
* * *
真弓と綾香が戻ると、入れ替わりに翔太と春樹が出ていった。
真弓は持ってきた袋を壁際へ置き、濡れた髪をタオルで押さえた。
「生き返った」
「外、寒かったもんね」
「もう出たくない。今日、あと外に行く用事ないよね?」
綾香がしおりを開いた。
「ないよ。あとはプリン食べて、部屋に戻るだけ」
「よし」
真弓が頷き、ドライヤーを取り出した。
俺と優子は少し場所を空けた。
風の音がし始めると、真弓と綾香の会話は途切れがちになった。真弓が何か言い、綾香が聞き返す。そのたびにドライヤーが止まった。
「消した方が早くない?」
俺が言うと、真弓が振り返った。
「消したら乾かないじゃん」
「話す方を、ちょっと待つとか」
「今、言いたくなったの」
綾香が笑った。
優子も肩を揺らし、上着の下で足を動かした。
しばらくして、廊下から足音が戻ってきた。
「空いたぞー」
翔太が戸を開けた。
春樹はその後ろで、袋の中を確かめていた。
「忘れ物ない?」
「あるわけないだろ」
「昨日、タオル置いてきそうになってたから」
「今日は持ってる」
翔太が、首へ掛けたタオルを持ち上げた。
俺は膝の上の上着を畳み、隣を見た。
「優子、お風呂行こう」
「うん」
優子は袋を持ち、俺と一緒に立ち上がった。
俺が戸を押さえていると、優子は先に廊下へ出て、少し振り返った。
「勝也、タオル」
「あ。ありがとう」
袋とは別に置いていたタオルを取り、俺も出ようとした。
その時、真弓と目が合った。
真弓は俺を見て、それから廊下にいる優子を見た。
「……何?」
俺が聞くと、真弓は首を振った。
「いや。普通に行くんだなって」
「お風呂?」
「うん」
春樹も、戸のそばで口元を押さえていた。
「何か、あれだね。兄妹が風呂に呼ばれた時みたい」
「分かる。今、私もそれ思った」
真弓がすぐに言った。
「兄妹じゃないよ」
「知ってるよ」
春樹に返され、俺は少し笑った。
優子は袋の持ち手を握り直していた。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
綾香が手を上げた。
戸を閉めると、部屋の話し声が少し遠くなった。
優子と並び、目の前の浴室へ向かった。
昨日より、支度も足取りも早かった。
ただ、戸の前まで来てから、少しだけ互いの顔を見るのを避けた。
何もかも平気になったわけではなかった。
それでも、優子が先に手を伸ばした戸を、俺も一緒に開けた。
* * 優子視点 * *
髪を洗い終えたあと、湯船に入った。
冷えていた足が温まり、息がゆっくり出た。
「あったかい」
私が言うと、先に入っていた勝也が頷いた。
「今日、昨日より寒くない?」
「うん。建物に戻る時、手が冷たかった」
「俺も。プリンの券、ちゃんと持ってるか、何回も確かめちゃった」
「翔太くんと同じだね」
「俺、三回も見てないよ」
勝也が少し笑った。
声が浴室に響いた。
同じお風呂なのに、昨日より周りの音がよく聞こえた。
シャワーから最後の水滴が落ちる音も、遠くで戸が閉まる音も、勝也が湯船の縁へ手を置く小さな音も。
昨日は、何を言えばいいか、そればかり考えていた。
今日は先に、話したいことが浮かんだ。
「さっき、出口にカメラの人いたでしょ」
「いたね」
「勝也、写真でも、平気な顔してるのかな」
勝也がこちらを見た。
「してると思うよ」
「でも、声は」
「声は写らないから」
我慢できず、笑ってしまった。
勝也は湯船の縁に置いた指を曲げた。
「そこは助かったなって思ってる」
「皆、聞いてたよ」
「そうなんだよね」
困ったように笑う顔を見ていると、またあの声を思い出した。
怖い道を歩いていた時にはびっくりしたのに、今は思い出すだけで口元が緩んだ。
「道、聞いた人も笑ってた」
「だって、分かんなかったから」
「お化けなのに、教えてくれたね」
「優しい人だったね」
勝也が真面目に言うので、私はまた笑った。
笑っても、勝也は嫌そうな顔をしなかった。
少しだけ恥ずかしそうにして、自分も笑っていた。
「優子、今日、いっぱい笑ってたね」
急に言われ、顔を上げた。
「そうかな」
「うん。朝から」
朝、と言われて、春樹くんの顔が浮かんだ。
まだ何も知らず、いつものように話していた顔。
食堂で自分の顔に気づいた時の、止まってしまった動き。
「……また思い出した」
「俺も、言ってから思い出した」
勝也が口元を押さえた。
私も、しばらく何も言えなかった。
「春樹くん、ちゃんと落ちてよかったね」
「うん。明日まであのままだったら、先生も困ると思う」
「朝、笑っちゃいけないと思ったのに」
「あれは無理だよ」
勝也が首を振った。
「俺、優子が笑ってるの見て、余計に笑っちゃったし」
「勝也も、全然止まらなかった」
「そうなんだよね。今日、春樹に何回言われたかな」
私たちは、少しずつ今日の話をした。
お昼のカレーのこと。
カヌーから戻ってきた翔太くんと春樹くんのこと。
フォークダンスで、翔太くんが勝也を連れてきてくれたこと。
「翔太くん、急だったね」
「うん。綾香と踊るのかと思ったら、急に呼ばれて」
勝也が頷いた。
「でも、もう一回、優子と踊れたね」
「……うん」
私は湯船の中へ目を落とした。
あの時、自分がどんな顔をしていたのか、少し気になった。
勝也を見ていたことも、翔太くんには全部分かっていた。
「楽しかった?」
勝也が聞いた。
私はすぐに頷いた。
「楽しかった」
声にすると、思っていたよりはっきり響いた。
勝也が笑った。
「そっか。よかった」
その言い方を聞いて、私はもう一度、勝也を見た。
学校へ戻る前には、林間学校のことまで考えられなかった。
皆のいる教室へ入ることも、自分の席へ座ることも、怖かった。
勝也が帰る時間が近づくだけで、まだいてほしいと思っていた。
今も、一人で平気になったわけではなかった。
勝也の姿が見えなくなると、探してしまう。
今日も何度も手をつないでもらったし、そばにいてもらった。
それなのに、今日のことを思い返すと、笑っていたところが次々に浮かんだ。
井上さんに教わりながら野菜の皮を剥いた時も、加藤さんが隣で笑っていた時も。
皆がカヌーから戻ってきて、私の渡したタオルを使ってくれた時も。
「勝也」
「うん?」
いつものように、すぐ返事があった。
「一緒に来てくれて、ありがとう」
勝也が、少し目を丸くした。
私は指を軽く握り、続きを言った。
「今日だけじゃなくて。学校でも、家にいた時も、ずっと」
あの頃、言いたいことがあっても、最後には謝っていた。
何度も呼んでしまったこと。
帰ろうとする勝也を引き止めたこと。
私のせいで、したいことができなくなっているのではないかと、そればかり考えていた。
勝也の返事は、何度聞いても優しかった。
今日も、手を握り返してくれた。
足元を照らして、私が歩けるのを待ってくれた。
「そばにいてくれて、嬉しかった」
言い終えると、少し恥ずかしくなった。
でも、言えたことは嬉しかった。
勝也は、私の顔を見たまま頷いた。
「俺も、一緒に来られてよかったよ」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
「本当に?」
「うん。バスでも、今日も、いっぱい話せたし」
勝也は少し考えてから、付け足した。
「昨日のお弁当も、美味しかった」
「……それも?」
「それも。大事だよ」
笑ってしまった。
勝也も笑った。
「また、一緒にどこか行けたらいいね」
勝也は、何でもないことのように言った。
私は、その先の景色を少しだけ考えた。
今度はいつだろう。
どこへ行くのだろう。
まだ何も決まっていなくても、そこに自分がいると思ってもらえたことが嬉しかった。
「うん。行きたい」
勝也が頷いた。
私は、もう謝らなかった。
少し黙っていても、気まずくならなかった。
お湯の音を聞きながら、今日の続きを考えた。
「プリン、皆もう食べてないかな」
私が言うと、勝也が顔を上げた。
「待っててくれてると思うけど。翔太、ずっと気にしてたね」
「三回、見てたから」
「そろそろ上がろうか」
「うん」
勝也が笑った。
その顔を見て、私も笑った。
お風呂を出る時には、まだ少し照れた。
それでも、部屋へ戻ってからも勝也のそばへ座りたいと思っていた。
* * *
部屋の戸を開けると、翔太くんが顔を上げた。
「おかえり。温まった?」
「うん」
勝也が答えた。
私は袋を鞄のそばへ置き、タオルで髪を押さえた。
加藤さんが、畳の上に置いていたドライヤーを持ち上げた。
「ここ置いといたよ」
「ありがとう。借りるね」
勝也が受け取った。
私が昨日と同じところへ座ると、後ろでコンセントを差す音がした。
タオルを膝へ下ろしたところで、髪に風が当たった。
「熱くない?」
「大丈夫」
勝也の手が、髪の向きをそっと変えた。
私は少し顎を引いた。
そうした方が乾かしやすいことを、昨日覚えていた。
翔太くんと春樹くんは、まだしおりを広げていた。
加藤さんは自分の袋を片づけながら、こちらを見ていた。
「もう、場所決まってるんだね」
言われて、私は少し顔を上げた。
「……場所?」
「座るところ」
加藤さんの目が、私から勝也へ動いた。
「昨日も、そこだったじゃん」
「ここ、コード届くから」
勝也が答えた。
加藤さんは一瞬黙り、それから笑った。
「うん。そうだね」
風の音が続いた。
話さなくても、勝也は私が少し首を傾けたのに合わせ、ドライヤーの位置を変えてくれた。
後ろを気にしなくていいのが、嬉しかった。
勝也がいると分かっているから、目を閉じていても平気だった。
「眠い?」
声が近くで聞こえた。
「……少し」
「もうちょっとだからね」
私は頷いた。
勝也が髪を撫でるように整え、そのあと風が弱くなった。
もうすぐ終わると思うと、少しだけ残念だった。
乾かしてもらえたことも、後ろにいてもらえた時間も、どちらも嬉しかった。
風が止まった。
ドライヤーを置く音がした。
「はい。乾いたよ」
その声を聞いて、私は後ろへ身体を倒した。
すぐに、勝也の手が肩を支えてくれた。
「おっと」
軽く笑う声が、頭の上でした。
私は勝也へ背中を預けたまま、少し見上げた。
「……ありがとう」
「うん」
勝也は、私がずり落ちないように座り直してくれた。
そのまま、動きたくなくなった。
「やっぱりさ」
春樹くんの声がした。
目を向けると、しおりを持ったまま、こちらを見ていた。
「兄妹みたいだよね」
「分かる。お風呂行く時も思ったけど」
加藤さんが答えた。
「何で、今?」
勝也が聞いた。
「何も言わなくても、全部進むから」
春樹くんが答え、私たちを交互に見た。
「座って、乾かして、はい終わりってなったら、そのまま」
「受け止める方も普通だしね」
加藤さんが言った。
私は少し頬が熱くなった。
兄妹、というところだけ、違うと思った。
でも、勝也のそばにいることを自然に思ってもらえるのは、嫌ではなかった。
「倒れてきたら、支えるでしょ」
勝也が言った。
「うん。それは、そう」
春樹くんが頷いた。
加藤さんと一度目を合わせ、二人とも何か言いたそうに笑った。
私は勝也の服の端を軽くつまんだ。
立たなければと思うのに、手だけが先に動いた。
「……ひらめいた!」
翔太くんが、急に顔を上げた。
私たちを見ていた目が、井上さんの方へ動いた。
春樹くんが、その顔を見ただけで少し笑った。
「やめといた方がいいと思う」
「まだ何も言ってねえだろ」
翔太くんは井上さんの前へ移動した。
くるりと背を向け、畳へ座る。
「綾香、俺も」
そのまま、私の真似をするように後ろへ身体を倒した。
スパーン、と音がした。
倒れきる前に、井上さんの手が翔太くんの頭をはたいていた。
翔太くんはすぐに起き直り、頭を押さえて振り返った。
「痛っ。何で!?」
「当たり前でしょ」
井上さんは、それだけ言ってタオルを畳んだ。
春樹くんがしおりで口元を隠した。
私の後ろでも、勝也が笑っていた。
「同じことしただけじゃん!」
「うん。それで?」
翔太くんは何か言おうとして、口を閉じた。
今度は加藤さんの方を見た。
「……じゃあ、真弓」
「何?」
加藤さんは鞄の中へ顔を向けていた。
翔太くんは返事を待たず、その前へ座って後ろに倒れた。
「え、ちょっと」
加藤さんが気づいた時には、翔太くんの頭が膝の上に載っていた。
背中は畳についていて、さっきの私とは少し違う格好になっている。
「成功!」
翔太くんが、下から加藤さんを見上げた。
加藤さんは一度、自分の膝を見て、それから井上さんを見た。
にっこり笑った。
あまりに綺麗な笑顔だったので、私はかえって、少し気になった。
翔太くんも、あれ、と言った。
「真弓?」
加藤さんの両手が、翔太くんの頭の左右へ添えられた。
起き上がろうとした頭が、そのまま膝の上へ留められた。
「綾香、いい?」
「うん」
井上さんは畳んだタオルを置いた。
翔太くんの足元へ回り、足先の方を向いて、両膝をまたぐように腰を下ろした。
「ちょ、何。何するつもり?」
翔太くんが脚を動かそうとした。
でも、頭も膝も押さえられていて、うまく起き上がれなかった。
井上さんの指が、足の裏をくすぐった。
「ひゃっ! ちょ、待っ、あははははっ!」
さっきまでの得意そうな声が、急にひっくり返った。
翔太くんが畳を叩いた。
「やめっ、綾香、やめて! ははっ、無理、無理!」
「膝枕、してほしかったんでしょ?」
井上さんは少し振り返って言った。
指は止まらなかった。
「そっちは、頼んでねえ! あはははっ!」
加藤さんは笑顔のまま、翔太くんを見下ろしていた。
春樹くんが、とうとうしおりを置いた。
「もっとやれ!」
「春樹ぃ! 助けっ、はははっ!」
「朝、俺の顔に何したか思い出して!」
春樹くんは大喜びだった。
翔太くんが何か言い返そうとしても、先に笑い声が出てしまう。
加藤さんまで笑い始めた。
私は勝也へ背中を預けたまま、口元を押さえた。
受け止めてもらおうとしただけなのに、どうしてこんなことになっているのだろう。
「……あれ、俺がやられたら死ぬ」
すぐ後ろで、勝也が小さく言った。
振り向くと、笑ってはいるけれど、足を少し自分の方へ引き寄せていた。
「勝也も……弱いの?」
「うん。くすぐられるの、本当に無理」
勝也は、井上さんの手元を見てから、私の方へ目を戻した。
「見てるだけで、何か怖い」
私はまた笑ってしまった。
勝也は困ったように笑い、私がずり落ちないよう、背中を支え直してくれた。
「ごめん! もう、しない! ははっ、ほんと!」
翔太くんが言うと、井上さんは、ほんとに、と聞いた。
翔太くんは何度も、ほんと、と繰り返した。
「じゃあ、今日はここまで」
ようやく手が止まった。
井上さんが立ち、加藤さんも頭から手を離した。
翔太くんは畳の上へ転がり、仰向けのまま息をついた。
「……成功したと、思ったのに」
「膝枕は成功したじゃん」
加藤さんが言った。
春樹くんが、また笑った。
「大成功だったね」
「お前、めっちゃ嬉しそうだったな」
「うん。すごく」
春樹くんは隠そうともしなかった。
翔太くんはしばらく天井を見てから、ゆっくり起き上がった。
「優子、そのまま寝ちゃう?」
井上さんが、何事もなかったみたいにこちらへ顔を向けた。
「……まだ、寝ない」
「プリンあるもんね」
私が頷くと、翔太くんも顔を上げた。
「……そうだ。行こうぜ、プリン!」
「プリンが場所になってる」
春樹くんが言った。
勝也が笑い、その振動が背中へ少し伝わった。
「優子、行こうか」
「うん」
私はゆっくり身体を起こした。
もう少しここにいたいとは言わなかったけれど、勝也は立つ時も手を貸してくれた。
* * 勝也視点 * *
食堂へ入ると、部屋よりずっと明るく感じた。
長い机の間に生徒が座り、あちこちから話し声がしていた。
湯上がりの顔もあれば、まだ髪の先をタオルで拭いている人もいた。
入り口の近くで、先生が引換券を集めていた。
横の台に、プリンが並んでいた。
「券、ここで渡すんだって」
春樹が言った。
翔太は、もうポケットから出していた。
「お願いします」
紙を渡し、プリンとスプーンを受け取った。
そのまま少し先へ進んだあと、俺たちを振り返った。
「もらえた」
「よかったね」
真弓が答えた。
俺と優子も順番に受け取り、六人で空いている机へ向かった。
優子が隣へ座った。
椅子を引き寄せる小さな音がした。
「開く?」
俺が聞くと、優子は蓋の端を持ち上げて見せた。
「……大丈夫」
「うん」
翔太が、もうひと口食べていた。
春樹も蓋を剥がし、机の端へ折って置いた。
「うまい」
「早いよ」
「だって、ずっと楽しみにしてたんだぞ」
翔太が言い、今度は底の方までスプーンを入れた。
俺も食べた。
口の中が冷たくなって、さっきまで温まっていたのを思い出した。
「お風呂のあとに食べるの、いいね」
優子へ言うと、小さく頷いた。
「……美味しい」
綾香が、真弓の方へ少し顔を向けた。
「ちゃんと肝試し行ってよかったね」
「プリンはよかった」
「肝試しは?」
「もう一回は、いい」
真弓はすぐに答えた。
翔太が、俺も、と言った。
「最後のやつ、まだ思い出すもん」
「だから、その話はもう」
春樹が言いかけたところで、隣の机から声がした。
「最後って、着物のやつ?」
俺たちは顔を上げた。
隣に座っていた男子が、こちらを見ていた。
翔太がすぐ身体を向けた。
「そう! いたよな?」
「いたいた。券もらったあとでしょ」
翔太の手が、机へ置かれた。
「ほら!」
俺と優子を振り返った。
「いたって!」
「うん。俺たち、見てないって言ってるだけだよ」
「だから、あそこにいたの!」
翔太はもう一度、隣の男子へ向いた。
「道の横の、木のとこ?」
「そう。何も言わずに立ってた」
真弓が、スプーンを止めた。
綾香も隣の机を見た。
「顔、髪で隠れてたよね」
綾香が言うと、男子が頷いた。
「見えなかった。何か、下向いてたし」
「やっぱり、同じのだ」
翔太が言った。
春樹は、プリンの容器を机へ置いた。
「赤いの、袖の方にいっぱい付いてた?」
「付いてた。血みたいなやつ」
真弓が、やめて、と小さく言った。
でも、自分も頷いていた。
俺は優子を見た。
優子も、困ったような顔でこちらを見た。
「やっぱり、俺たちのあとに来たんだね」
「……うん」
その時は、そう思っていた。
お化け役だって、途中から持ち場につくことはあるのだろう。
隣の机の女子も、話へ入ってきた。
「私たちも見た。もう終わりだと思ってたから、びっくりした」
「分かる!」
真弓が顔を上げた。
「券もらって、あとは帰るだけだって思ってたのに」
「あれ、誰がやってたんだろうね」
「待って。俺ら、そんなの見てないよ」
同じ机の向こう側で、別の男子が顔を上げた。
さっき話しかけてきた男子を指した。
「お前らの、すぐあとだったけど」
「あの木のところだぞ?」
「そこら辺、何もなかったと思うけどな」
その隣にいた子も、見てない、と言った。
ところが、話に加わっていた女子が首を傾げた。
「その次、私たちだよね。私たちは見たよ」
向かいの子も頷いた。
翔太が、男子と女子を順に見た。
「……じゃあ、交代でもしてたんかな」
俺も、誰がどの順番で見たのか、少し分からなくなった。
その女子は、食堂の中を見回した。
知っている誰かを探すような動きだった。
俺もつられて、入り口の方を見た。
ちょうど、宣仁が入ってきたところだった。
「あ、宣仁」
声をかけると、こちらへ顔を向けた。
先生からプリンを受け取り、机の間を通って来た。
「もう食べとるやん」
「今、来たところだよ。係、お疲れさま」
「おう。なかなか帰ってこん組もおってさ」
翔太と春樹が、少し目をそらした。
宣仁は二人を見て笑い、空いていた椅子を少し引いた。
「何の話?」
「お前、最後の着物のやつ、誰がやってたか知らん?」
翔太が聞いた。
「着物?」
「血、いっぱい付いてるやつ」
宣仁は蓋にかけていた指を止めた。
少し考え、首を傾げた。
「どこ?」
「券もらったあとの、出口までの道」
宣仁は、今度はすぐに首を振った。
「そこ、お化け役おらんよ」
翔太が、は、と短く声を出した。
「おったって」
「チェックポイントのあとやろ? あそこにはおらん」
「いや、俺ら見たし。こいつらも」
翔太が隣の机を指した。
宣仁はそちらを見て、また俺たちへ目を戻した。
「俺が聞いた時は、あの先には誰も行かんことになっとったけど」
真弓のスプーンが、容器の中へ戻った。
春樹は何も言わなかった。
「誰か、場所変えたとか?」
俺が聞いた。
宣仁は、どうやろ、と言ったあと、入り口の方を振り返った。
「先生、まだおるで。聞いてみる?」
翔太は頷いた。
それまでの、ほら、と言い張る顔とは少し違っていた。
宣仁が手を上げると、近くにいた先生がこちらへ来た。
肝試しの説明をしていた先生だった。
「どうした?」
「先生。チェックポイントのあとって、お化け役、誰かおった?」
先生は一度、宣仁を見た。
「券をもらってから、出口までの間?」
「そう。着物の人がいたって」
先生の目が、俺たちの顔を順に見た。
真弓が、途中の木のそばです、と答えた。
春樹も、道の外側へ少し入ったところ、と付け足した。
「そこから出口までの間には、係は配置していないよ」
「ええっ!」
すぐ近くで、悲鳴が上がった。
隣の机の女子が、椅子から少し身体を浮かせていた。
向こうの机でも短い声がし、誰かが友達の腕をつかんだ。
「やだ、待って! いたよ!」
「じゃあ、誰なの!」
真弓が両手を口元へ持っていった。
翔太は口を開けたまま、先生を見ていた。
俺の隣で、椅子が小さく鳴った。
優子が近づき、服の袖をつかんだ。
「ちょっと待って。落ち着いて話して」
先生が手を上げた。
でも、それを聞いてすぐ静かになる人はいなかった。
「先生たちの、最後のやつじゃないんですか」
春樹が聞いた。
先生は首を振った。
「券を貰ったあとの区間は、肝試しの余韻を楽しむ区間にしてるから、生徒も先生も配置してないんだけどな」
宣仁の手元で、まだ開いていないプリンの蓋が、照明を反射した。
さっきまで聞こえていたスプーンの音が、俺たちの机から消えていた。
「着物って、どんな着物だった?」
先生の問いに、綾香が答えた。
「白っぽい色です。袖とかが、赤くなってました」
「血みたいなやつ!」
翔太が続けた。
その声で、また隣の机がざわついた。
「顔は見えた?」
「髪で隠れてて、よく見えなかったです」
春樹の返事を聞き、先生は入り口の方へ顔を向けた。
ちょうど戻ってきた別の先生を呼び、少し離れたところで話し始めた。
「配置した子ではないそうです」
「外から入った人かな。それとも、怪我をした生徒……」
そこまでは聞こえた。
もう一人の先生がすぐに首を巡らせ、食堂を見渡した。
廊下へ出て、誰かを呼ぶ声がした。
優子の指が、俺の袖を握り直した。
「勝也……」
「うん」
そちらへ身体を向けた。
優子は何か言いかけたあと、入り口を見た。
「先生が、確認してくれるって」
俺も、まだそれ以上のことは言えなかった。
見ていないから分からない。
だけど、さっきまでみたいに、あとから係の人が来たんじゃない、と言うこともできなくなっていた。
「俺、見たって言ったじゃん」
翔太が俺へ向き直った。
さっきの、ほら、と違って、嬉しそうではなかった。
「うん。疑ってるわけじゃないよ」
「マジでいたんだって」
「だから、そこはもう分かったって」
春樹が言った。
翔太は口を閉じたが、すぐに食堂の窓へ目をやった。
ガラスには、明るい食堂と俺たちが映っていた。
「……あっち見ないでよ」
真弓が言うと、翔太は慌ててこちらへ戻った。
「見たくて見たんじゃねえよ」
「じゃあ見なくていいでしょ」
いつもなら、春樹がもう一言くらい挟むところだった。
今は自分のプリンを見ているだけで、スプーンも動かしていなかった。
食堂の前の方で、先生が手を叩いた。
「一度、全員、自分の班のところへ戻ってください。先生が人数を確認します。今は廊下や外へ見に行かないこと」
椅子の引かれる音があちこちでした。
宣仁も、まだ蓋のついたプリンを持って立ち上がった。
「俺、戻るわ」
「うん」
隣の机の子も、自分の班の人を呼んでいた。
話はもう俺たちの周りだけではなく、向こう側の机まで伝わっていた。
誰かが、幽霊じゃん、と言った。
先生がすぐに、まだ分からないことを決めつけない、と返した。
花沢先生が、俺たちの机へ来た。
「鳥居くん、班のみんなは揃ってる?」
「はい」
翔太は返事をしてから、俺たちの顔を見た。
「勝也、春樹、真弓、綾香、優子。……と、俺。六人、います」
呼ばれるたびに、それぞれ返事をした。
優子も、小さく、はい、と答えた。
先生は一人ずつ顔を確かめ、手元の紙へ印をつけた。
「ありがとう。怪我をした人はいないね?」
「大丈夫です」
翔太が答えた。
花沢先生は俺たちをもう一度見てから、次の机へ向かった。
「班長してる」
春樹がぼそっと言った。
「今それ言う?」
「ごめん」
春樹は少しだけ笑った。
俺も、そこでようやく息を吐いた。
廊下を、懐中電灯を持った先生が二人、足早に通った。
一人は上着の前を閉めながら、宿舎の人と話していた。
玄関の方へ曲がる手前で、後ろにいた先生がもう一度、明かりのつくことを確かめた。
「……行くんだ」
綾香が小さく言った。
「確認しに、ってことだよね」
俺が返すと、綾香は頷いた。
真弓は、その二人が見えなくなるまで目で追っていた。
全員いるかの確認が済むまで、少し時間がかかった。
班長の返事を聞く声と、机を回る足音が続いた。
やがて前の方で、先生同士が、揃っています、と話しているのが聞こえた。
「生徒は全員、宿舎へ戻っています。係をしていた生徒も確認できました」
先生がこちらへ向き直った。
「見かけた人については、今、確認しています。見た人は、あとで先生が話を聞きに行くので、覚えていることを教えてください」
何人かが、はい、と返事をした。
すぐには席を離れず、しばらくここで待つことになった。
俺は容器に残っていたプリンをすくった。
さっきと同じものなのに、ずいぶん長いこと食べかけにしていた気がした。
「優子。残り、食べる?」
「……うん」
優子は俺の袖から指を離し、スプーンを持った。
その代わりみたいに、椅子の位置が少し近くなった。
「プリン、うまかったのにな」
翔太が言った。
「まだ、おいしいよ」
「そういうことじゃねえんだよ」
俺が答えると、翔太は自分も一口食べた。
それから、うまいけどさ、と付け足した。
優子が小さく笑い、すぐ口元を押さえた。
* * *
食べ終わった容器を重ねている頃、先生が紙とペンを持って戻ってきた。
真弓たちのそばへ椅子を寄せ、座って話を聞いてくれた。
「怖かったと思うけど、覚えている範囲でいいからね。見たのは、券を受け取ったあとで間違いない?」
綾香が、はい、と答えた。
「券をしまってから少し歩いて、曲がった先です。出口の明かりは、まだ見えてなかったと思います」
「道の右と左なら?」
綾香が片手で道の向きを示した。
先生は紙へ線を引き、綾香へ向けて、こっちから歩いてきたんだね、と確かめた。
「真弓、木のこっち側だったよね」
「うん。幹のすぐ横。……立ってた」
真弓は自分の肘を押さえていた。
先生が、無理に思い出そうとしなくてもいい、と言うと、少し頷いた。
「声はかけられた?」
「何も言わなかったです」
「近づいてきたりは?」
「それも、なかったです」
春樹と翔太にも、同じように聞いた。
翔太は最初、すげえ怖くて、と言ったあと、言葉を探した。
春樹が横から、袖のここが赤かった、と自分の腕を示した。
「髪、黒くて長かったよな」
「うん。顔の前まであった」
「血みたいなの、着物にもついてて」
先生は、そのまま紙に書いた。
赤いものを血だと決めつけることも、作り物だと言うこともしなかった。
「人の大きさは、みんなと同じくらい?」
翔太が春樹を見た。
春樹も、すぐには答えなかった。
「……そこは、よく分かんないです」
「分かった。そこは分からないで大丈夫」
先生はそう言ってから、俺たちの方を見た。
「鵜飼くんと富田さんは、先に通ったんだね」
「はい。俺たちの時には、その人は見てないです」
「道を外れたり、違うところを通ったりはしていない?」
「案内されてた道を、そのまま歩いてきました」
優子も、俺の隣で頷いた。
「……私も、見てないです」
「うん。教えてくれてありがとう」
先生は紙を持って立ち、今度は隣の班へ行った。
あちらの子が話す場所も、着物の色も、俺たちの机で聞いていたものと似ていた。
「その次に出発したのは?」
「俺たちです。でも、見てないです」
さっき、見ていないと言っていた男子が答えた。
「その木の方を見た時には、誰もいなかったということかな」
先生が尋ねると、男子は少し考えた。
「……いや、木の方までは見てなかったかも。券をもらって、もう終わりだって話してたんで」
「そうか。じゃあ、そこに誰かいたかどうかまでは分からないんだね」
「はい。俺が気づかなかっただけかもしれないです」
先生は頷き、別の子にも同じように聞いた。
道の外へは目を向けなかったという子も、怖くて前しか見ていなかったという子もいた。
その一方で、そちらを見たけれど人影には気づかなかった、と答える子もいた。
「俺らの前の組も、見たって言ってました」
少し離れた机から声がした。
先生がそちらへ向かうと、二組が続けて同じ着物姿を見た話になった。
その後に通った組からは、また、見ていないという返事があった。
別の机では、何組か続けて見ていなかったあとに、また見たという話も聞こえた。
近くに戻ってきた先生同士が、出発順を書いた紙を見比べた。
「見ていない組の方が多いですね」
「ただ、前半と後半で分かれているわけではないですね。見たという組の間にも、見ていない組が入っています」
俺は、部屋で話していたことを思い出した。
俺たちのあとから来たのだろう。それなら分かると思っていた。
でも、あとから通った人たちも、皆が見たわけではなかった。
「……ずっと、そこにいたのかな」
春樹が言った。
「分かんない。見てなかったって人もいるし」
俺が答えると、春樹は黙った。
見なかったという話だけでは、そこにいなかったのか、気づかなかったのかまでは分からなかった。
見た人たちの言う姿は似ているのに、それがいつからいつまで立っていたのかも、はっきりしなかった。
真弓がそれを聞きたくないみたいに、顔を伏せた。
「冗談だったら、今、言ってほしいんだけど」
誰にともなく、綾香が言った。
翔太は首を振った。
「俺、そういう冗談、今日はやんねえ」
「うん。分かってる」
綾香は自分の腕をさすった。
あのゲームの話をしていた時には、ずっと面白そうにしていたのに。
今は真弓の肩が触れるくらい、近くへ座っていた。
窓の方を見ないようにしていても、廊下で足音がすれば顔を上げてしまった。
戻ってきたのは、さっき玄関へ向かった先生たちだった。
手に持った懐中電灯は消えていた。
先生同士が集まって話したあと、花沢先生が俺たちのところへ来た。
「教えてくれた場所は確認してきたけど、今は誰もいなかったそうよ」
真弓が顔を上げた。
「誰だったかは……?」
「まだ、分かっていないの」
花沢先生は、俺たちを順に見た。
「先生たちと宿舎の方で確認を続けるから、みんなは部屋へ戻って、寝る準備をしてね。気になることがあったら、先生に教えて」
分かりました、と答えた。
翔太も頷いたが、納得した顔ではなかった。
俺も、何か分かったと言ってもらえるのを待っていた。
片付けをして、六人で食堂を出た。
廊下の向こうで、先生がもう一人、別の班の子へ話を聞いていた。
窓のそばに立っている先生もいた。
誰だったのかは、部屋へ戻るまでに分からなかった。
俺の左手を、優子が握っていた。
右側には、なぜか翔太が、ほとんど同じ歩幅でついてきた。
「近くない?」
「別に、近くねえし」
そう言って、半歩離れた。
すぐ先で、廊下の窓が一枚見えた。
翔太は、半歩分、戻ってきた。
春樹が後ろから、近いね、と言った。
その春樹も、俺たちの足音が途切れないくらいのところを歩いていた。
* * *
部屋の明かりをつけると、翔太が真っ先に窓のところへ行った。
カーテンを閉め、真ん中を少し重ねて、戻ってきた。
「まだ、そこ開いてる」
真弓に言われ、翔太が振り返った。
裾の方がわずかに開いていた。
「そこから何か見えねえだろ」
「じゃあ、そのままで寝られる?」
翔太は何も言わず、もう一度閉めに行った。
俺と春樹は、押し入れから布団を出した。
真弓と綾香が敷布団を広げ、優子が枕を運んだ。
翔太の分を窓際のスペースへ持っていくと、本人が止まった。
「今日も、そこ?」
「うん」
真弓が即答した。
「いや、今日は、ちょっとさ」
「昨日、どれだけうるさかったと思ってるの」
「俺、聞いてねえから分かんないんだって」
「知ってる。だから、そこ」
翔太が春樹を見た。
春樹は自分の枕を置きながら、頷いた。
「寝たら分かんないよ」
「寝るまでが問題なんだよ」
真弓は聞こえなかったように、掛け布団の向きを整えた。
俺の布団を敷くと、優子が枕を持って隣へ来た。
少しだけ俺の顔を見たので、掛け布団をめくって場所を空けた。
「こっちでいいよ」
「……うん」
優子が枕を置いた。
そこへ、真弓が自分の敷布団を引っ張ってきた。
優子側の端へぴったりつけ、隙間がないことを確かめてから座った。
「近いね」
「今日は、ここがいい」
それ以上は聞かなかった。
綾香も真弓の外側へ自分の布団を寄せた。
三枚の敷布団が、横にくっついた。
「綾香も?」
翔太が聞くと、綾香は枕を置く手を止めた。
「あれは、ちょっと嫌」
「怖くねえんじゃなかったの」
「ゲームなら、驚かされるって分かってるけど。さっきのは、誰だったか分かんないじゃん」
翔太が黙った。
「それ、言わないで」
真弓が綾香の袖を引いた。
綾香は、ごめん、と短く言い、真弓との間へできた小さな隙間も詰めた。
優子が俺の隣で、掛け布団の端を撫でていた。
その指先を見ながら、俺も布団へ腰を下ろした。
足を入れると、まだ誰も使っていない中は冷たかった。
「冷た」
「な。もう冬じゃん、ここ」
翔太が窓際から返した。
春樹は、朝も寒かった、と自分の肩へ毛布をかけた。
「勝也、朝、全然起きなかったよね」
「うん。優子と寝てたら、温かくて。全然、寒いと思わなかった」
隣の優子が、枕へ目を落とした。
俺も、今朝、なかなか起きられなかった時のことを思い出した。
「俺、顔に落書きされて、寒くて起きたんだけど」
春樹が言った。
翔太は毛布を見ていた。
「翔太」
「何」
「聞こえてるよね」
「今日は、しねえよ」
「今日も、でしょ」
真弓が、鞄へタオルをしまいながら笑った。
朝の顔を思い出してしまったのか、口元を押さえた。
春樹はそれを見て、まだ笑うの、と言った。
昼からずいぶん色々あったのに、朝の落書きも、まだ今日のことだった。
優子の肩も小さく揺れた。
春樹がこちらを見たので、優子は慌てて首を振った。
「……ごめん」
「いいよ。俺も、鏡見た時ちょっと笑ったから」
春樹が言うと、優子も笑っていいと思えたみたいに顔を上げた。
* * *
真弓たちが明日の着替えを鞄の上へ出している間に、俺も使ったものを片付けた。
鞄の中から、下の方へ落ちていた袋を引き出す。
袖が手首から上がったところで、春樹が俺の腕を指した。
「それ、ずっと付けてるね」
白いミサンガが見えていた。
「うん」
「こっちに来た時から、してなかった?」
「してたと思う。引っ越す前に作ったやつだから」
春樹の横で、鞄を閉めていた翔太ものぞき込んだ。
「それ、勝也が作ったの?」
「うん。小さい頃、公民館で。優子と一緒に」
手首を少し回した。
編み目の端は、作った時より柔らかくなっていた。
ずっと身につけているので、自分では触ってもあまり意識しなくなっていた。
「よく切れないね」
「ね。思ったより丈夫だった」
「切れたら願いが叶うやつだろ」
翔太が言った。
「何お願いした?」
「それは秘密」
「何でだよ」
「こういうの、言わない方がいいんじゃない?」
俺が言うと、翔太は少し考え、それもそうか、と納得した。
春樹は、翔太なら作ってる途中で言いそう、と言った。
「言わねえよ」
「まだ願い決める前に、何お願いしようかなって全部言いそう」
「それ、お願いする前だからいいじゃん」
二人が言い合っている間に、袖を元へ戻した。
優子はすぐ隣で、明日使うハンカチを畳んでいた。
手が止まり、少しだけこちらを見た。
俺も見返すと、口元が緩んだ。
何をお願いしたのかは、言わなかった。
優子も聞かなかった。
あの時、白い糸を選んだことを、よく覚えていた。
目の前の優子の髪へ一度だけ目をやってから、鞄の口を閉じた。
「勝也、これ、上に置いといてもいい?」
優子が畳んだハンカチを示した。
「うん。明日、忘れないところにしよう」
枕元の鞄へしまうと、優子は小さく頷いた。
俺たちの反対側では、真弓が綾香へ、タオルってあと何枚あったっけ、と聞いていた。
* * *
「俺、寝る前にトイレ行ってくるね」
立つと、優子もすぐに立ち上がった。
袖へ伸びてきた手を取って、戸の方へ向かった。
「待って。私も行く」
真弓が来た。
それを聞いた春樹が毛布を置き、翔太まで窓際から出てきた。
「俺も」
「じゃあ、俺も」
戸の前で、五人になった。
「トイレ、すぐそこだけど」
俺が言うと、真弓が頷いた。
「知ってる」
「……うん」
俺も、知っていると思った。
だけど、一人ずつ行こうと言う気にはならなかった。
「綾香は?」
「私はさっき行ったから。ここで待ってる」
綾香が布団の上へ座った。
真弓が、すぐ戻る、と言うと、綾香は少し笑った。
「うん。五人でそんなに遠くまで行かないでね」
廊下へ出た。
明かりはついていたけれど、部屋を出ただけで足元が冷えた。
トイレは本当に目の前だった。
それでも翔太は、左右を見てからこちらへついてきた。
優子と一緒に中へ入り、ドアを閉めた。
手を離すと、優子が先にすりガラスの方へ向いた。
背筋を伸ばし、足を揃えている。
「……こっち、見てるね」
「うん」
耳栓も目隠しも出さなかった。
優子はガラスの方を向いたまま、動かなかった。
外から、春樹の声がした。
「翔太、廊下の真ん中に立たないで」
「じゃあ、どこに立てばいいんだよ」
「壁の方」
「そこ、後ろが気になる」
「壁だよ」
優子の肩が、ほんの少し動いた。
笑ったのだと分かった。
次は俺がすりガラスの前へ立った。
優子と場所を交代して、背筋を伸ばした。
「俺も、こっち向いてるね」
「うん」
ガラスの向こうに、廊下の明かりがぼんやり見えた。
春樹と翔太の声は、まだ近くで続いていた。
真弓が小声で、もう静かにして、と言った。
優子に呼ばれるまで、そのまま立っていた。
手を洗って外へ出ると、真弓が俺たちを一度見てから、何も言わず中へ入った。
「二人とも、動かないんだね」
春樹が言った。
「何が?」
「ガラスのところ。さっき、ちっちゃい方から大きい方になった」
優子が俺の腕の陰へ少し寄った。
俺は、ああ、と頷いた。
「待ってる間、向こう向いてるから」
「うん。何か、すごい真っすぐだった」
翔太がガラスを見た。
春樹が、その肩をこちらへ戻した。
「見なくていい」
「いや、今どうなってんのかと」
「真弓、怒るよ」
翔太はすぐに向き直った。
順番に済ませる間、誰も先には帰らなかった。
春樹が最後に出てくると、五人で部屋の戸を開けた。
綾香は俺たちを見るなり、少し首を傾げた。
「連れて来てないよね?」
「誰を」
翔太が聞いた。
綾香は答えず、指で一人ずつ数えた。
「うん。ちゃんと五人」
「今、そういうのやめて!」
真弓の声に、綾香は口元を押さえた。
翔太は後ろを振り返りかけ、そのまま戸を閉めた。
俺と優子も、顔を見合わせた。
さっきより怖くなったのか、可笑しかったのか、自分でも少し分からなかった。
* * *
布団へ戻ると、優子も隣へ入ってきた。
二人でうつ伏せになり、肩まで掛け布団を引き上げた。
優子は枕へ頬を載せ、こちらを見た。
「……明日、帰るんだね」
「うん。もう最後の夜だね」
そう答えてから、少し不思議な気がした。
来たのは昨日だった。
学校の前でバスを待っていた時が、ずっと前みたいに思えた。
「長かったような、短かったような」
「……うん」
「明日、忘れ物しないようにしないとね」
優子が枕の先にある鞄を見た。
さっき、ハンカチをしまったところだった。
「勝也、タオル」
「うん。お風呂の時でしょ。ありがとう」
「……また、忘れそう」
「明日は優子に見てもらおうかな」
優子が笑った。
俺も笑い返して、二人の間にあった掛け布団のくぼみを少し持ち上げた。
隙間から入ってきていた空気が止まった。
真弓が隣の布団へ入った。
その向こうで綾香も、首元まで毛布を引っ張った。
「明日の朝、起きられるかな」
真弓が言った。
「寒くて起きるんじゃない?」
「それも嫌なんだけど」
綾香の返事に、真弓は顔の半分まで布団を上げた。
窓際で翔太が、俺もこっちに敷けばよかった、とこぼした。
誰も布団を動かそうとはしなかった。
戸が控えめに叩かれた。
返事をすると、花沢先生が顔を出した。
「そろそろ電気を消す時間よ。寝る準備はできた?」
それぞれ、はい、と答えた。
先生は部屋の中を見渡したあと、窓際で布団をかぶっている翔太へも目を向けた。
「今夜は、来てから一番冷え込むみたい。明日の朝にかけて、最低気温は一度の予報だから、毛布もしっかりかけてね」
「一度?」
翔太が、布団から顔だけ出した。
「まだ十月だよね」
「うん。ここは高原だからね。足りなかったら、予備の毛布も使っていいよ」
先生が押し入れを示した。
春樹が、冬じゃん、と呟いた。
俺もそう思った。さっき廊下へ出た時の冷たさを思い出して、優子の肩まで布団がかかっているか見た。
「先生」
真弓が少し起き上がった。
「さっきの人、まだ……」
花沢先生は頷いた。
「誰だったのかは、まだ分かっていないの。先生たちは近くにいるから、何かあったら呼んでね」
真弓は小さく、はい、と答えた。
先生は、明日の朝も早いから、今日はもうおしゃべりはおしまい、と言った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
明かりが落ちた。
戸の閉まる音がして、廊下を歩く足音が遠ざかった。
優子が布団の中で、俺の手を探した。
指が触れたので、そのまま握った。
「ここにいるよ」
すぐ近くで、うん、と返ってきた。
俺はうつ伏せから横向きになり、優子の方へ向いた。
優子もこちらを向く。二人の間へ冷たい空気が入ったので、背中へ腕を回してそっと引き寄せた。
「こっち、おいで」
「……うん」
優子が俺の胸元へ収まった。
背中まで掛け布団をかけ直すと、間にあった隙間がなくなった。優子の手が俺の服を軽くつかみ、足先も近くへ寄ってきた。
「これなら、寒くないね」
優子が小さく頷いた。
そのまま腕の中へ収め、俺も肩まで布団に潜った。
しばらく、布団の動く音だけがした。
目が暗さに慣れると、真弓と綾香の布団も、春樹の枕も、薄く形が分かるようになった。
その時、窓際で何かが動いた。
「……春樹」
翔太の声だった。
布団を抜け出し、畳の上をそろそろと歩いてきた。
春樹のそばへしゃがみ、掛け布団の端へ手をかけた。
「俺達も、一緒に寝るか‼︎」
小声なのに、妙に勢いがあった。
春樹の返事を待たず、翔太が布団へ入った。
「ばか! 男同士でキモい!」
春樹が身体をよじった。
翔太は、まあまあ、と言いながら腕を回したらしかった。
布団が不自然に盛り上がった。
「まあまあじゃない。離して」
「寒いだろ」
「だからって、勝手に入ってこないでよ」
真弓が枕から顔を上げた。
綾香も、その向こうでこちらを見た。
「男同士で何やってるの」
真弓の声に、もう少しで笑いが混じりそうになっていた。
春樹が、俺は何もしてない、とすぐに言った。
「昨日、勝也が優子と寝てたから、めっちゃ暖かかったって自慢するから‼︎」
翔太が俺を指した。
「自慢してないよ」
思わず笑ってしまった。
「朝、寒かったって言うから、俺は温かかったって言っただけでしょ」
「それが自慢だろ」
「そうなるの?」
腕の中の優子が、俺の胸元へ顔を伏せた。
服をつかむ指が少し動いた。
俺と同じで、笑うのをこらえているみたいだった。
「翔太、とりあえず腕、離して」
春樹にもう一度言われ、翔太はようやく布団から出た。
出た途端に、寒っ、と肩をすぼめた。
そのまま俺たちの方へ膝で近づいてきた。
「勝也。布団に入れてくれ!」
「嫌ッ」
俺が返事をするより先に、優子が言った。
小さいけれど、はっきりした声だった。
翔太が止まった。
俺も優子を見た。
優子は自分で驚いたみたいに目を丸くしてから、俺の服をつかんだまま布団へ頬を隠した。
「……そっか」
翔太が言った。
さっきより、ずいぶん静かな声だった。
「ここ、もう狭いからね」
俺が言うと、優子が小さく頷いた。
それでも、服をつかむ手は離さなかった。
翔太は真弓の方を向いた。
「じゃあ、真弓」
返事はなかった。
真弓は目を閉じていた。
ついさっきまで、起きて話していたのに。
「綾香」
綾香も返事をしなかった。
掛け布団を、少しだけ肩へ引き寄せた。
「寝るの早くない?」
誰も答えなかった。
翔太は、しばらく二人を見ていた。
膝を抱え、肩を丸めた。
自分の布団へ戻ろうとして窓の方を見たが、すぐには立たなかった。
春樹が小さく息を吐いた。
「……翔太」
翔太が振り返った。
春樹は少し身体をずらし、掛け布団の端を持ち上げた。
「ほら……」
「一緒に寝るなら、あのスペースで2人で寝て!」
真弓が即座に言った。
声は低かったが、言い方には迷いがなかった。
翔太も、春樹も止まった。
「……起きてんじゃん」
翔太が言った。
真弓はそちらへ顔を向けた。
「窓のところ。昨日の音、ここでもう一回聞きたくない」
「俺も?」
春樹が聞いた。
「一緒に寝るんでしょ?」
「そうだけど。俺、ここで……」
「じゃあ、翔太だけ戻って」
翔太が春樹を見た。
春樹は、持ち上げていた掛け布団をゆっくり下ろした。
「……分かったよ」
優子が、また俺の胸元へ顔を伏せた。
俺も枕へ頬を押しつけた。
春樹がこちらを見ているのが分かったので、なるべく声を出さないようにした。
「勝也、笑ってるよね」
「ごめん」
「俺、何も悪いことしてないんだけど」
それは本当にそうだった。
さっきまで、自分の布団で普通に寝ようとしていただけだった。
春樹は枕と毛布を抱え、翔太と窓際へ移った。
翔太の敷布団へ二人で入ると、今度は翔太が先に壁の方へ寄った。
「そっち、ずるくない?」
春樹が言った。
「狭いから、詰めたんだよ」
「窓から遠い方へでしょ」
翔太は答えなかった。
春樹が掛け布団をめくった途端、肩をすくめた。
「……待って。何これ、冷た」
「だから、寒いって言ったじゃん」
「いや、さっきまでのと違う。窓の方から、ずっと来るんだけど」
春樹が窓の下へ手を出し、すぐに引っ込めた。
カーテンの裾は閉じている。それでも、その下から足元へ冷たい空気が下りてくるらしかった。
「窓、開いてないよね?」
「閉まってる。俺、確認した」
「……一度って、こういうことか」
春樹は持ってきた毛布を広げ、二人分の足元へ巻き込んだ。
「こっちの窓ってさ」
春樹の声が少し小さくなった。
「肝試しの方、向いてるよね」
「言うなって」
翔太が即答した。
春樹は毛布を広げかけたまま、カーテンを見た。
「俺、今、気づいたんだけど」
「俺は、さっきから知ってる」
「だから戻りたくなかったの?」
「そうだよ」
二人の声が途切れた。
誰もカーテンには触れなかった。
「……もうちょっと詰めて」
春樹が言った。
「これ以上、無理」
「じゃあ、こっち向いて。そっちばっか見てないで」
「俺だって、見たくて見てねえよ」
布団がごそごそと動いた。
少しして、二人とも掛け布団の中へ収まった。
春樹が持っていった毛布も、二人の肩までかかった。
「……ほら。勝也と優子みたいにさ」
翔太が言った。
すぐに布団が動き、春樹の声がした。
「それするなら、自分の布団に戻るよ」
冗談を言っている時の声ではなかった。
伸びかけていた翔太の腕が、布団の中へ引っ込んだ。
「……分かった」
さっきまでの勢いが、すっかりなくなっていた。
翔太は大人しく枕へ頭を戻した。
「ここ、仕切り閉める?」
俺が聞くと、二人分の声がほとんど同時に返ってきた。
「開けといて」
真弓が枕を押さえた。
綾香も、そちらへ顔を向けないまま肩を揺らした。
「……寝てから閉めて」
春樹が付け足した。
俺は、分かった、と答えた。
* * 優子視点 * *
勝也が窓の方から、こちらへ顔を戻した。
背中へ回っている腕は、そのままだった。
「寒くない?」
小さな声で聞かれ、首を振った。
「……温かい」
足先まで、もう冷たくなかった。
勝也と私の間には、隙間がなかった。服をつかんでいた指を緩めても、そのままここにいられた。
「……さっき、急に言っちゃった」
「翔太に?」
頷いた。
嫌だと言うつもりで、準備していたわけではなかった。
勝也と二人でいるところへ入ってくると思った瞬間に、声が出ていた。
「今日は、ここにいたかったから」
最後の方は、ほとんど息みたいな声になった。
勝也は、うん、と言った。
「ちゃんと、優子の場所、空けてあるよ」
そう言いながら、背中の布団をかけ直してくれた。
顔を上げると、近くで目が合った。
「……ありがとう」
勝也が笑った。
暗くても、分かった。
お風呂で言えた言葉を、今度はもっと小さな声で伝えた。
言い終えてから、もう一度言わなければよかったとは思わなかった。
隣で、掛け布団を引っ張る音がした。
「……ねえ。今日、昨日よりも寒くない?」
加藤さんの声だった。
振り向くと、顔の下半分まで布団に隠れていた。
「綾香も、優子も。大丈夫?」
「今日、結構寒い」
少し向こうから、井上さんが答えた。
「布団に入れば平気かと思ったんだけど」
「だよね。私も、何か、まだ寒い。さっきの話のせいもあるかもしれないけど」
加藤さんが肩を丸めた。
食堂で先生が言ったことを思い出すと、私も戸の方が気になった。
けれど、勝也の腕が背中にあった。顔を戻せば、すぐそこに勝也がいた。
「私は……お布団の中なら、大丈夫」
「そんなに温かいの?」
加藤さんが、こちらの布団を見た。
「ちょっと、手、入れていい?」
「……うん」
加藤さんの手が、掛け布団の端から入ってきた。
私の背中に触れる手前で止まり、少しして、その指が開いた。
「……何これ。めっちゃ温かいじゃん」
声に、笑いが混じった。
勝也も、小さく笑った。
「二人だと、全然違うよ」
「ほんとだ。こっち、全然違う」
加藤さんは手を引っ込めたあと、少しだけ顔を上げた。
「優子。私、もうちょっとそっち寄ってもいい?」
「……うん。いいよ」
答えると、加藤さんが枕を引き寄せた。
自分の掛け布団も一緒にずらして、私たちの敷布団の端まで来た。私の背中へ触れそうなところで止まり、二枚の掛け布団を少し重ねた。
「邪魔だったら言ってね」
「……大丈夫」
「ありがとう。今日、ちょっと一人だと落ち着かなくて」
さっきまで私を気にかけてくれていた加藤さんが、今は、私のすぐ後ろにいた。
私も小さく頷いた。
「……私も、近い方がいい」
加藤さんが、よかった、と言った。
背中の方で布団が動いても、もう冷たい空気は入ってこなかった。
「真弓、そっち行っちゃうの」
井上さんの声がした。
加藤さんが、ごめん、ちょっとこっちが温かすぎて、と小さく笑った。
井上さんは肘をつき、こちらを見た。
それから戸の方へ一度目をやり、枕を抱えた。
「……私、そっちの空いてるところに移っていい?」
指したのは、勝也の反対側だった。
春樹くんの敷布団が、そのまま残っていた。
「うん。春樹のとこ、空いてるよ」
勝也が答えた。
井上さんは自分の掛け布団を持ち、私たちの足元を回ってきた。
「一人だと、やっぱり気になる?」
加藤さんが聞いた。
「お化けならいいけど。知らない人がいたかもしれないって方が、何か嫌」
「……分かる」
加藤さんの声が、また小さくなった。
井上さんは春樹くんの敷布団へ枕を置き、肩から掛け布団をかぶった。
「勝也。私も、いい?」
少し遠慮がちな声だった。
勝也の方へ寄ってもいいか、敷布団の境目を手で示している。
「綾香が嫌じゃなかったら、いいよ」
勝也は私を抱いたまま少しずれ、自分の背中側の掛け布団を持ち上げた。
井上さんが、その空いたところを見た。
「……そこまで、いいの?」
「うん。入るんでしょ?」
小さく笑う声がした。
「じゃあ、ちょっとお邪魔するね」
井上さんが勝也に背中を向けて横になった。
勝也の背中に触れるところまで寄り、私たちの掛け布団の端へ入る。三人では幅が足りなくて、井上さんの持ってきた掛け布団を、その上から重ねた。
外側は春樹くんの敷布団に収まっていたので、誰かが畳へはみ出すこともなかった。
「背中、くっついてても大丈夫?」
「うん。平気」
勝也が答えた。
布団の端をもう一度整えると、井上さんも動かなくなった。
窓の方から、翔太くんの声がした。
「春樹。起きてる?」
「起きてる」
「……そっか」
少し間が空いた。
「翔太は?」
「今、話したじゃん」
勝也の肩が揺れた。
私も笑いそうになって、口元を布団へ寄せた。
すぐ後ろから、もう寝なよ、と加藤さんの小さな声がした。
その声も、今日は少し優しかった。
「……すごく温かい」
井上さんが囁いた。
私と勝也にしか聞こえないくらいの声に、まだ少し笑いが残っていた。
「でしょ?」
勝也は、少し得意そうだった。
私の背中へ回していた腕を落ち着け、枕へ頬を戻した。
「おやすみ」
「……おやすみ」
返事をすると、勝也は目を閉じた。
しばらくして、ゆっくりした寝息が聞こえ始めた。
私も、勝也の服をつかんでいた手を緩めた。
加藤さんがすぐ後ろにいて、井上さんも、勝也の向こうにいる。
明日の朝、起きた時にも、みんなここにいる。
そう思いながら、勝也の胸元へ頬を寄せた。
外が一度になると聞いたことも、今は少し遠かった。
布団の中には、冷たい空気が入ってこなかった。
そのまま目を閉じると、私もいつの間にか眠っていた。
* * *
窓際から聞こえていた小声も、やがて途切れた。
時々、布団を引き上げる音がするほかは、寝息だけになった。
夜が更けるうちに、勝也は横向きから仰向けになっていた。
空いている腕と脚を伸ばし、大の字に近い格好になっても、優子を支える腕は離れなかった。
優子は寝返りにつられるように、勝也の胸元へ半ば乗り上げていた。片脚を勝也の脚に絡め、頬を服へ預けたまま、よく眠っていた。
反対側では、綾香が勝也に背を向けたまま眠っていた。
重ねた掛け布団は肩までかかり、隣の敷布団との間にも隙間はなかった。
誰も起き出すことなく、部屋には六人分の寝息が続いていた。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
優子の幼馴染。入浴後も自然に優子の髪を乾かし、二日目の夜を一緒に過ごす。幼い頃に作った白いミサンガを、今も身につけている。
・富田 優子
勝也や友達と過ごした楽しい一日を振り返り、勝也へ自分から感謝を伝える。眠る前には、勝也の隣にいたい気持ちが言葉に出る。
・鶴見 春樹
着物姿の人物を目撃した一人。風呂上がりには、翔太へのくすぐりに大喜びする。寝る時には翔太を放っておけず、窓際で一緒に寝ることになる。
・鳥居 翔太
班長。優子の真似をして綾香に頭をはたかれる。真弓の膝へ頭を載せることには成功するが、二人にくすぐられて降参する。プリンの時間の説明で怖さが増し、消灯後には春樹のもとへ逃げ出す。
・加藤 真弓
優子と勝也の気負いのないやり取りに驚く。正体不明の人物の話を聞き、二人の布団へ自分の布団を寄せる。翔太のいびきへの対策は譲らない。
・井上 綾香
怖い作品には強いが、誰か分からない人物の目撃には不安を覚える。冷え込む夜、空いた春樹の敷布団へ移り、勝也と背中を合わせて暖を取る。
・宣仁
肝試しでお化け役を担当。プリンの時間に合流し、チェックポイントの先には係がいないことを伝える。
・花沢先生と引率の先生たち
全員の所在を確認し、目撃者への聞き取りと現場の確認を行う。着物姿の人物の正体は、分からないままとなる。




