第47話 林間学校 最終日
* * 勝也視点 * *
腕を少し動かそうとして、目が覚めた。
カーテンの隙間が、薄く明るくなっていた。
窓の方から寝息が聞こえる。まだ、誰も起きていなかった。
顔を下へ向けると、白い髪が見えた。
優子が俺の胸元へ頬を載せ、よく眠っていた。寝る時には横を向いていたはずだけれど、いつの間にか俺は仰向けになっていた。
優子の脚が、俺の脚に引っかかっている。
反対側では、綾香がこちらへ背を向けていた。
昨夜持ってきた枕に頭を載せ、重ねた掛け布団へ肩まで入っている。優子の向こうには真弓もいた。
まだ起きなくていいなら、もう少し、このままでいたかった。
ただ、腕は少し動かしたい。
優子の頭を支え直そうとしたところで、胸元の白い髪が動いた。
「……勝也?」
「おはよう。起こしちゃった?」
優子がゆっくり顔を上げた。
眠そうな目で俺を見て、それから、カーテンの隙間へ目を向けた。
「……もう、朝?」
「うん。でも、まだ放送は鳴ってないよ」
優子は小さく頷いた。
頬を戻しかけたので、俺は声を落とした。
「ちょっと、腕を動かしてもいい?」
「……あ」
優子が身体を起こした。
俺の脚にかかっていた脚も、そっと離れた。
「……ごめんね。ずっと、こうなってた?」
「俺も寝てたから、分かんない。よく眠れた?」
「……うん。すごく」
「なら、よかった」
指を開いて、肩をゆっくり動かした。
優子は布団の中に座り、まだ少し眠そうにしていた。
「寒くなかった?」
「……全然。勝也は?」
「俺も。布団、出たくないね」
優子が笑った。
その声を聞いたのか、隣で綾香が小さく身じろぎした。
「……起きる時間?」
「まだ、もうちょっとあると思う」
俺が答えると、綾香は目を細めたまま頷いた。
「そっか。おはよう」
「おはよう」
「……おはよう」
優子も挨拶を返した。
綾香は自分の掛け布団を肩へ寄せ、あくびをした。
「昨日、布団重ねてよかった。よく眠れた」
「ね。今も温かい」
俺は上着を取ろうと、片腕を外へ出した。
布団の中とは全然違った。
「……外は寒いけど」
綾香が少し笑った。
手の届くところにあった上着を引き寄せ、先に優子へ渡した。俺も自分の上着へ袖を通した。
優子が布団から出ると、真弓も目を開けた。
しばらく天井を見てから、こちらへ顔を向ける。
「……おはよ」
「おはよう」
真弓は返事を聞いて、掛け布団を顎まで引き上げた。
「起きると寒いやつだ」
「うん。上着、着た方がいいよ」
「着る。その前に、ちょっとだけ」
布団の中で膝を曲げた真弓を見て、優子が笑った。
窓際でも、布団が動いた。
春樹が顔を出し、眉を寄せた。
「……寒っ」
掛け布団を引いたけれど、途中で止まった。
反対側の翔太が、端を抱えて眠っていた。
「翔太。布団、ちょっと返して」
返事はなかった。
春樹はもう一度引っ張り、ようやく肩までかけ直した。
「そこ、やっぱり寒い?」
俺が聞くと、春樹はゆっくり頷いた。
「顔に当たる空気が冷たい。あと、途中で何回か布団持っていかれた」
「それで、そっちはまだ寝てるんだ」
真弓が翔太を見た。
翔太は何も知らない顔で、枕に頬を押しつけていた。
「翔太。朝だよ」
春樹が肩を揺すった。
少し動いたけれど、目は開かなかった。
「着替えないと、朝ご飯の時間に遅れるよ」
翔太の目が開いた。
「……飯?」
「その前に、着替え」
春樹が答えた。
翔太は窓を見て、俺たちを見て、それから身体を起こした。
「もう朝か」
「さっきから言ってる」
真弓が、布団へ口元を隠した。
綾香も小さく笑っていた。
「ご飯って言ったら起きた」
俺が言うと、翔太は首をかしげた。
「普通に起きただけだろ」
「うん。今、起きたね」
春樹はそれだけ言い、自分の上着を取った。
隣で優子も笑っていた。
翔太が片足を布団から出し、すぐに戻した。
「寒っ。何これ」
「それも、さっきから言ってる」
今度は真弓も笑いながら起き上がった。
* * *
起床の放送が流れる頃には、六人とも着替えを始めていた。
布団から出た直後は寒かったけれど、動いているうちに、少しずつ身体が起きてきた。
窓の方で、翔太がカーテンの端をつまんだ。
少しだけ開け、隙間から外を見た。
「……明るい」
「朝だからね」
春樹が言った。
「いや、そうなんだけど。昨日と全然違うな」
俺も窓の方を見た。
木の幹も、その向こうの斜面も、輪郭がはっきり見えていた。夜には真っ黒に固まっていたところに、細い枝が何本もあった。
「昨日も、このくらい見えてればよかったのに」
「肝試しにならないじゃん」
綾香が答えた。
翔太は、それでいい、と言った。
「もう一回行く?」
「行かない」
綾香の問いに、翔太と春樹が同時に答えた。
真弓は荷物を畳みながら、私も行かない、と付け足した。
朝の光があっても、昨夜のことが分かったわけではなかった。
俺も、わざわざ見に戻りたいとは思わなかった。
顔を洗い、荷物を少しまとめてから、六人で食堂へ向かった。
廊下の途中で別の班と合流すると、部屋にいた時よりも声が増えた。
食堂には、温かい味噌汁の匂いがしていた。
席に着くと、翔太はおかずを確かめてから、ご飯の茶碗を見た。
「腹減った」
「朝から元気だね」
春樹が言った。
「春樹は?」
「今日は、普通にお腹空いてる」
「よかったな」
春樹の手が止まった。
翔太を、じっと見た。
「……次に何か作る時は、材料、ちゃんと見てね」
「分かってるって」
「ほんとに」
真弓も、ほんとにね、と言った。
翔太は、うん、と今度は素直に頷いた。
いただきますの声がそろった。
味噌汁を飲むと、冷えていた指先まで少し温まった気がした。
「おいしい」
優子が小さく言った。
俺も頷いた。
「朝、寒かったからね」
「……うん」
優子は茶碗を両手で少し寄せ、また箸を取った。
昨日も向かいに真弓と綾香がいて、横には俺がいた。
けれど、今日はもう、食べ終わったあとに部屋を片付ける。
「今日で帰るんだよな」
翔太が言った。
「早くない?」
「昨日、早く朝になってほしいって言ってたじゃん」
春樹が返した。
「朝には、なってほしかった。でも、帰るのは早い」
「都合いいね」
「春樹だって、そうだろ」
春樹は箸を動かしながら、少し考えた。
「……まあ、楽しかったけど」
翔太が、ほら、と言った。
「でも、もう変なお菓子は食べない」
「そこは、もう分かったって」
綾香が笑った。
真弓は春樹の茶碗を見て、今日はちゃんとみんなと食べられてよかったね、と言った。
春樹は何か言いかけたけれど、やめた。
その判断で、俺たちは少し笑った。
優子は、誰かが話すたびに顔を上げていた。
箸を止めて聞いて、笑って、それから食事へ戻る。
真弓が、優子はどれがいちばん楽しかった、と聞くと、すぐには答えずに考え込んだ。
「……いっぱい、あって」
「一個にできない?」
「……うん」
真弓が笑った。
「じゃあ、あとで全部聞く」
優子は少し困ったように笑って、頷いた。
朝食が終わる頃、花沢先生が班を回ってきた。
昨夜のことを聞いた生徒には、今のところ新しく分かったことはない、と答えていた。
俺たちのところでも、翔太が一度だけ、誰だったんですか、と聞いた。
「まだ分かっていません。先生たちと施設の方で、引き続き確認しています」
先生はそう言ってから、部屋の片付けの時間を確かめた。
翔太も、はい、と返事をした。
いなかったことには、ならなかった。
誰かの悪ふざけだったとも、先生は言わなかった。
翔太は少し黙ったあと、空になった茶碗を持ち上げた。
「……とりあえず、食べた」
「うん。片付けよう」
春樹が立った。
俺たちも食器を持って、席を離れた。
* * *
部屋へ戻ると、寝ていた時よりも布団の数が多く見えた。
実際には六人分で、昨日から増えていない。
ただ、掛け布団があちこちで重なり、枕のある位置と敷布団の位置が合っていなかった。
「これ、誰の?」
翔太が、窓際にあった枕を二つ持った。
「片方は俺」
春樹が手を伸ばした。
「どっち?」
「もう、どっちでもいいよ」
翔太は片方を渡した。
真弓がしおりを開き、返す寝具のまとめ方を読んだ。
「シーツは外す。布団はこっち。毛布は別にして」
「了解、班長」
翔太が言った。
真弓は顔を上げた。
「班長、あんた」
「知ってる」
「じゃあ、働いて」
翔太が敷布団の端をつかんだ。
持ち上げた途端、上に残っていた掛け布団まで滑ってきた。
「待って。一枚ずつ」
春樹が反対側を押さえた。
俺は間へ入って掛け布団を取った。
「昨日は翔太が載ってても運べたのに」
俺が言うと、翔太が振り向いた。
「それ、まだ言う?」
「今日は起きてるんだから、自分の分、お願いね」
「やってるだろ」
俺は翔太へ掛け布団を渡した。
「じゃあ、こっちも」
「増えたんだけど」
翔太が受け取った布団を見下ろし、春樹が少し笑った。
優子は自分の荷物をまとめてから、真弓と一緒にシーツを外していた。
綾香が枕カバーを集め、真弓がそれを同じところへ置く。
優子は空いた場所にしゃがみ、布団の下に何か残っていないかを見ていた。
「……加藤さん、これ」
指先に、小さな髪留めがあった。
「あ、それ私。ありがとう。探してた」
真弓が受け取った。
優子は頷き、また畳を見た。
「優子、こっち、持ってもらっていい?」
綾香がシーツの端を差し出した。
「……うん」
優子が立った。
二人で端を合わせて畳み、真弓がまとめていた山へ載せた。
俺は押し入れへ布団を戻しながら、その様子を見ていた。
優子がこちらを向いたので、目が合った。
俺が少し笑うと、優子も笑って、綾香へ向き直った。
俺のところまで戻ってこなくても、今は、することがあった。
次のシーツを受け取り、綾香と同じように端をつまんでいた。
寝具を片付けると、部屋の端から端まで見えるようになった。
俺と春樹で掃除をし、翔太がゴミを集めた。
優子は真弓と一緒に机を拭き、綾香が使った場所を順番に確認した。
「翔太、これも」
春樹が、机の下に落ちていた小さな紙片を拾った。
翔太が袋を広げた。
「もうない?」
「窓のところ、見た?」
「見た」
「ちゃんと?」
「ちゃんと見た。昼は行ける」
真弓が笑い、まだ朝だよ、と言った。
六人の鞄が、戸の近くへ並んだ。
来た時よりも少し膨らんでいるものと、形の変わらないものがあった。
翔太の鞄は、口がまだ閉まっていなかった。
「……減ってるはずなのに」
翔太が言った。
「何が?」
「荷物。食べた分」
春樹が、ゆっくり翔太を見た。
「その話、今する?」
「いや、容量の話」
俺は笑いながら、鞄の上へ飛び出していた服を指した。
「それ、もうちょっと畳んだら?」
「畳んであるよ」
「入れてあるだけに見える」
翔太は一枚引っ張り出し、膝の上で広げた。
真弓が、最初からそうしなよ、と言った。
俺は自分の鞄の横に、優子の手提げがあるのを確かめた。
優子はしおりの持ち物の欄を、指でたどっていた。
「忘れ物、なさそう?」
「……うん。大丈夫」
俺も頷いた。
優子はしおりをしまったあと、部屋を一度見渡した。
「……広かったね」
「ね。六人いても、余裕あった」
畳が見えていると、余計に広かった。
昨日はここへ机を置き、みんなで座っていた。
夜には布団が並び、真弓と綾香が少しずつこちらへ寄ってきた。
優子は、さっきまで寝ていた辺りへ目を向けた。
「……もう一回、寝たくなる」
小さな声だった。
俺は少し笑った。
「今から出したら、真弓に怒られるよ」
「怒るよ」
聞こえていた。
優子がぱっと振り返り、真弓が笑った。
「帰りのバスで寝な。勝也、また隣なんでしょ」
優子は頷いた。
そのあと俺を見たので、俺も、うん、と答えた。
「俺も、ちょっと眠い」
「俺も。飯食ったら眠くなってきた」
翔太が言った。
「食べる前も寝てたでしょ」
春樹が言うと、翔太は、だからバスで寝る、と答えた。
ようやく閉まった鞄を抱え、今度は大きくあくびをした。
花沢先生が部屋を確認しに来た。
押し入れと窓際、浴室やトイレの忘れ物まで確かめてから、六人を見た。
「はい。きれいになっていますね。ありがとう」
翔太が、よし、と小さく言った。
「荷物は、決めた場所まで運んでください。途中に置きっぱなしにしないでね」
「はい」
俺たちが持ち手を握った時、先生が優子へ声をかけた。
「優子さん。三日間、楽しめましたか?」
優子は顔を上げた。
俺へ目を向けてから、先生を見た。
「……はい。楽しかったです」
先生が笑った。
「よかった」
優子も少し笑った。
今度は、俺が何かを付け足さなくても、ちゃんと返事が続いた。
「……みんなと、いろいろできたので」
先生は、そうね、と頷いた。
真弓が優子の隣で、私も楽しかった、と言った。
翔太が、俺も、と続けた。
春樹は鞄を肩にかけ直し、まあ、いろいろあったけどね、と笑った。
俺たちは戸を出た。
最後にもう一度振り返ると、綾香が部屋の奥まで見てから、忘れ物なし、と言った。
戸が閉まった。
優子の手が、空いている方の俺の手へ触れた。
握ると、同じくらいの強さで返ってきた。
* * *
宿舎の外へ出ると、日向でも空気は冷たかった。
ただ、昨日の夜のように、立っているだけで肩をすぼめたくなるほどではなかった。
翔太が息を吐いた。
「帰ったら、暑く感じるかな」
「そこまではいかないんじゃない?」
春樹が言った。
「でも、布団は普通に温かいと思う」
「窓の横じゃないしな」
「俺の家の布団は、翔太に引っ張られないからね」
真弓が笑った。
翔太は、寝てたから知らない、と言った。
荷物を置いたあとも、帰るまでにはいくつかすることがあった。
使った場所を班ごとに確認し、しおりへ最後の記入をした。
昼食を済ませてから、閉校式のために集まった。
施設の人が前へ出ると、ざわざわしていた列が少しずつ静かになった。
みんなで過ごせたこと、来た時よりもきれいにして帰ること。
聞きながら、さっきの部屋を思い出した。
俺のすぐ横で、優子が顔を上げていた。
後ろから誰かが動く音がすると、少しだけ手に力が入った。
それでも、先生たちが話している方を見ていた。
ありがとうございました、と全員で頭を下げた。
顔を上げると、施設の人が笑って手を振ってくれた。
バスが並んでいた。
荷物を預けるために班ごとに並び、翔太が人数を数えた。
「一、二、三、四、五……」
俺たちを順番に指し、少し止まった。
「自分」
真弓が言った。
「分かってる。六」
翔太が自分を指した。
花沢先生へ、全員います、と言ってから、振り返った。
「ほら。ちゃんとやってるだろ」
「最後までよろしくね、班長」
綾香が言った。
翔太は頷き、バスの段差へ足をかけた。
俺は優子と並び、順番を待った。
建物の向こうへ目をやると、木々の間の道が少し見えた。
優子も見ていた。
「昨日の方?」
「……うん。たぶん」
この明るさでも、奥までは見えなかった。
俺たちは長く見ていないで、バスの方へ向き直った。
「行こう」
「……うん」
優子が一段ずつ上がった。
その後ろへ続きながら、俺はもう一度、部屋の窓があった方を見た。
すぐには、どの窓だったか分からなかった。
* * 優子視点 * *
バスの中は、外よりずっと暖かかった。
席へ座り、窓の方へ少し寄った。
勝也が隣へ来て、手元の荷物を収めた。
「ここ、邪魔じゃない?」
「うん。大丈夫」
答えてから、ベルトを留めた。
勝也も留め、背もたれへ背中を預けた。
来る時にも、この隣にいた。
あの時は、これから二晩も家へ帰らないことを、何度も考えていた。
お母さんに送ってもらい、勝也の家から学校へ来て、みんなの鞄を見た。
本当に行くのだと思うと、勝也の袖を離すのが難しかった。
今も、隣にいてほしかった。
けれど、バスが動きだすのを待ちながら考えていたのは、ここへ着いてからのことだった。
「優子」
通路の向こうから、加藤さんが呼んだ。
顔を向けると、こちらを見て笑っていた。
「朝の続き。いちばん楽しかったやつ、決まった?」
少し考えた。
すぐには、一つにできなかった。
「……カレー、作ったの」
「お、カレー?」
前の席から、翔太くんが顔を向けた。
「うん……。みんなで、作れたから」
言ってから、加藤さんと井上さんを見た。
井上さんが頷いた。
「じゃがいも、いっぱいあったもんね」
「……うん」
「優子がやってくれた分、助かったよ」
加藤さんが言った。
返事をする前に、少し頬が熱くなった。
「……ちゃんと、できてた?」
「できてたって。私、昨日も言ったじゃん」
加藤さんは笑っていた。
からかう顔ではなかった。
「また何か作る時、一緒にやろ」
私は頷いた。
昨日、手に持っていたじゃがいもを思い出した。
皮を剥いて、確かめてもらって、次の一つを受け取った。
勝也のいる方へ時々目を向けても、戻れば、まだ自分のすることがあった。
加藤さんは待ってくれた。
井上さんも、急かさずに教えてくれた。
「俺、火、よかっただろ」
翔太くんが言った。
勝也が笑った。
「頑張ってたよ」
「だろ?」
「途中、すごく顔赤かったけど」
「熱かったからな」
翔太くんが、頬の辺りを手で示した。
その動きを見ていたら、春樹くんが顔を出した。
「俺も、普通に食べたかったな」
誰かが笑いかけて、止まった。
春樹くんはそれに気づき、順番にみんなを見た。
「今、思い出したでしょ」
勝也が顔をそらした。
加藤さんは口元を押さえた。
「言わなくていいからね」
春樹くんが翔太くんを見た。
翔太くんは何も言っていなかったけれど、もう笑っていた。
私も、思い出してしまった。
昨日、春樹くんが言い間違えた時のこと。
勝也が椅子へ顔を伏せ、加藤さんが笑いすぎて、すぐには起き上がれなかったこと。
「……笑っちゃって、ごめんね」
私が言うと、春樹くんが少し目を開いた。
「あ、いや。優子はいいんだよ」
「俺は?」
「翔太は駄目」
「何で!」
「いろいろあるでしょ」
春樹くんの言い方に、また笑ってしまった。
翔太くんも、不満そうな声を出したあと、自分で笑っていた。
花沢先生が、座席を確かめながら通路を歩いてきた。
みんなが前へ向き直った。
先生は人数を確認し、前の席へ戻った。
扉が閉まった。
ゆっくり、バスが動いた。
窓の外で、施設の人が手を振っていた。
私も手を上げた。
勝也が、その向こうへ一緒に手を振った。
建物の角が見えなくなり、木が増えた。
窓へ近づけていた手を下ろすと、勝也がこちらを見た。
「楽しかったね」
私は頷いた。
「……うん」
喉の辺りが、少し詰まった。
泣きたいわけではなかった。
でも、もう帰るのだと思うと、さっきまでいた部屋へ、もう一度だけ戻りたくなった。
「帰ったら、いっぱい話せるね」
勝也が言った。
「お母さんたちに」
「……うん。何から、話そう」
「翔太の話だけでも、結構あるよ」
前の席から、聞こえてるぞ、と声がした。
勝也が笑った。
「いい方もあるって」
「いい方から話して」
翔太くんが言った。
私は小さく頷いた。
「……うん。お弁当、おいしいって言ってくれたことも」
「あれ、うまかった!」
翔太くんの声が、少し大きくなった。
春樹くんが、声、と言った。
「……あれ、うまかった」
同じことを、小さく言い直した。
加藤さんが笑った。
「聞こえてたよ、一回目で」
「大事なことだから」
私は膝の上で指を合わせた。
お母さんと一緒に作ったお弁当が、みんなの前へ並んだところを思い出した。
勝也の分は、少ないよりはいいと思って、もう一つ用意した。
開ける時には、さすがに多すぎたかもしれないと心配になった。
でも、勝也は喜んでくれた。
先に食べてほしかったものも、ちゃんと食べてくれた。
「……お母さんにも、言うね」
「言っといて。めっちゃうまかったって」
翔太くんが言った。
春樹くんも、俺からも、と続けた。
私は頷いた。
帰ったら話すことが、また一つ増えた。
* * *
山道を下りながら、話は少しずつ別のことになった。
カヌーのこと。夜のトランプのこと。
翔太くんは、勝也が大富豪で負けた時の顔を覚えていた。
「絶対勝ったって顔してたもんな」
「してたよ。あれは勝ったと思った」
勝也が素直に認めた。
「革命、一回で終わった」
「そのあとも負けたじゃん」
「八ばっかり出てきたんだもん」
加藤さんが笑った。
勝也も、今なら面白そうに話していた。
「でも、スピードは勝ったよ」
「最後、うるさかった」
井上さんが言った。
勝也は、そこはごめん、と笑った。
私は、勝也と二人だけの秘密になっているカードを思い出した。
勝也へ渡す時、弱い札と一緒に入れた一枚。
今はその話をしないで、勝也の横顔を見た。
「……また、やりたい」
言うと、加藤さんがこちらを向いた。
「トランプ?」
「……うん」
「いいよ。また持ってくる」
すぐに返事があった。
「俺、次は大富豪で勝つ」
勝也が言った。
「その顔、覚えた」
翔太くんが返した。
勝也は、それ言われたら困る、と笑った。
窓の外で、遠くの山が見えたり隠れたりした。
カーブを曲がるたびに、光の入る向きが変わった。
勝也の肩が、時々私の肩へ触れた。
来る時よりも、身体の力を抜いて座れていた。
翔太くんが大きなあくびをした。
そのあと、春樹くんもあくびをした。
「うつった」
「春樹、夜、ちゃんと寝た?」
「途中からは寝たよ」
「俺も」
「翔太は、俺より早かった」
春樹くんが言った。
「ずっと起きてるって言ってたのに」
「眠くなったんだよ」
「知ってる」
前の席が、少し静かになった。
加藤さんはしおりを鞄へしまい、井上さんと小さな声で話し始めた。
勝也が目を細めた。
「眠い?」
聞くと、勝也は頷いた。
「ちょっと。優子は?」
「私も、少し」
勝也は自分の上着の裾を直し、座り直した。
「寝てていいよ」
「勝也も?」
「うん。俺も、たぶん寝る」
笑いながら言ったあと、目を閉じた。
私も前へ向き直った。
バスの音が、さっきよりもよく聞こえた。
話し声が減って、一定の揺れだけが続いていた。
私は少しだけ、勝也の方へ寄った。
肩へ頬が触れた。
勝也が目を開けた。
顔を上げかけると、いいよ、と小さく言った。
「そのままで」
私は頷いた。
勝也の袖の、肘に近いところへ指を添えた。
「……ありがとう」
勝也は少し笑い、また目を閉じた。
昨日も、この言葉を言った。
言ったあとに勝也が困ることはなくて、笑ってくれた。
今も同じだった。
私のために、いろいろしてくれた。
怖かった時にも、待っていてくれた。
みんながいるところへ、一緒に連れていってくれた。
その一つ一つを思い出していたら、眠くなるのに、少し惜しくなった。
目を開けていれば、まだ隣にいる勝也を見ていられる。
けれど、肩が温かかった。
まぶたが重くなり、窓の外を見るのをやめた。
ほどなく、頭の上へ軽い重みが触れた。
勝也も、こちらへ少し傾いていた。
起こさないように、動かなかった。
勝也の袖へ添えていた指を緩めた。
バスが大きく揺れない道へ出た頃には、私も眠っていた。
* * *
途中の休憩が終わり、生徒が席へ戻った。
再び出発する前の車内で、カメラマンが通路から何枚か写真を撮った。
勝也と優子は、戻ってきてしばらくすると、また肩を寄せて眠っていた。
先に眠った優子へ、勝也の頭が少し傾いていた。
カメラマンが二人へレンズを向けた。
シャッターの音に、近くの席の真弓が顔を上げた。
カメラの向きを見てから、真弓も二人を見た。
声はかけなかった。
綾香と目が合うと、小さく笑い、また前へ向き直った。
バスの扉が閉まった。
二人は、そのまま眠っていた。
* * 優子視点 * *
目を開けると、見覚えのある建物が窓の外を流れていた。
山の斜面は、もう見えなかった。
顔を上げた。
隣で勝也が、少しだけ首を動かした。
「……着いた?」
「まだ。でも、もう近いと思う」
勝也も窓の外を見た。
あ、本当だ、と言って、ゆっくり座り直した。
「よく寝た」
「うん」
「優子も?」
「うん。いっぱい寝ちゃった」
勝也の袖を、もう握っていなかった。
手は膝の上にあって、そのすぐ横に勝也の手があった。
前の席から、翔太くんの声がした。
「もう学校?」
「まだ」
春樹くんが答えた。
「起きてたの?」
「今、起きた」
「そっか」
二人の短い会話に、勝也が笑った。
私も、昨日の夜に聞いた声を思い出した。
校門が見えてきた。
バスがゆっくり曲がり、止まった。
ここへ戻ってくるのは、三日ぶりだった。
窓から見える校舎は変わっていなかった。
私は一度だけ、勝也の手へ触れた。
勝也がこちらを見た。
「降りようか」
頷いた。
勝也は私が荷物を持つのを待ち、通路へ出た。
外へ降りると、風が顔に触れた。
宿舎の外で感じたものより、ずっと柔らかかった。
「……あったかい」
思わず言うと、勝也も頷いた。
「全然違うね」
翔太くんが少し向こうで、ほら、暖かいって言ったじゃん、と春樹くんに言っていた。
「暑いとは言ってないでしょ」
春樹くんが返した。
翔太くんは、そこは細かくなくていい、と言った。
荷物が下ろされた。
自分の鞄を受け取り、班のところへ並んだ。
花沢先生の話を聞いてから、最後の挨拶をした。
さようなら、と声がそろった。
そのあと、列が少しずつほどけた。
「優子」
加藤さんが、鞄を肩へかけながら呼んだ。
「また学校でね」
私は頷いた。
「……うん。ありがとう」
「こちらこそ」
加藤さんが手を振った。
井上さんも、その隣から小さく手を上げた。
「トランプ、またやろうね」
「……うん」
今度は、私も手を上げた。
翔太くんが、次は俺が勝つ、と言った。
「どれに?」
春樹くんが聞いた。
「全部」
「大きく出たね」
二人が笑った。
勝也も笑い、またね、と言った。
校門の方へ歩く途中、お母さんが見えた。
こちらへ気づき、手を上げてくれた。
「優子。勝也くん。おかえりなさい」
私は少しだけ、歩くのが速くなった。
「ただいま」
お母さんの前で止まった。
お母さんは私の顔を見て、それから勝也にも目を向けた。
「楽しかった?」
私は、すぐに頷いた。
「うん。すごく楽しかった」
言うと、お母さんが笑った。
私も笑った。
「よかった。顔を見たら、何となく分かったわ」
お母さんが鞄へ手を伸ばした。
自分で持てると言う前に、じゃあ車まで一緒に持とうか、と持ち手の片方を持ってくれた。
「勝也くんも、お家まで送るわね」
「ありがとうございます」
勝也が頭を下げた。
私たちはお母さんについて、車まで歩いた。
後部座席へ座ると、さっきのバスよりも周りが静かになった。
前を見れば、お母さんがいた。
横を見れば、まだ勝也がいた。
「何がいちばん面白かった?」
お母さんが、車を出してから聞いた。
私は勝也を見た。
勝也も、こちらを見ていた。
「今朝も、翔太くんが面白かったね」
言うと、勝也が笑った。
「朝ご飯の時?」
「うん。起きる時」
お母さんが、何があったの、と聞いた。
私は少し笑いを収めてから話した。
「翔太くん、春樹くんに起こされても、ずっと寝てたの。でも、朝ご飯の時間に遅れるよって言われたら、すぐ起きたの」
「あら。お腹が空いていたのかしら」
「起きたら、普通に起きただけだろって言うから」
私が言うと、勝也も頷いた。
「呼ばれた時のこと、全然覚えてないんだと思います」
お母さんが笑った。
私は、春樹くんは慣れてるみたいだった、と付け足した。
「前にも一緒に泊まったことあるからね」
勝也が言った。
「ご飯のあとには、また眠いって言ってたけど」
食堂でも、帰りのバスでも、翔太くんはよく話していた。
あの布団の中に戻ったら、きっとまた、すぐ眠れたのだと思う。
そう言うと、勝也も、たぶんね、と笑った。
お母さんは運転しながら、楽しそうね、と言った。
勝也の家までは、いつもの道だった。
けれど、今日は朝ではなくて、荷物がたくさんあった。
車が止まると、勝也がベルトを外した。
「送ってくださって、ありがとうございました」
「どういたしまして。荷物、忘れないでね」
勝也が頷き、外へ出た。
私もドアの方へ顔を向けた。
もう少し、一緒にいたかった。
さっきまで、ずっと一緒にいられたのに。
勝也は鞄を受け取ると、開いているドアから少し屈んだ。
「優子。楽しかったね」
「うん」
「また、遊ぼう」
私は頷いた。
返事をする前に、勝也の顔を見た。
「また、トランプしたい」
「うん。今度は、俺も勝ちたい」
勝也が笑った。
「スピードは、いっぱい勝ってたよ」
「あっちじゃなくて」
私も笑った。
勝也が手を上げたので、私も手を振った。
「またね、優子」
「うん。またね」
ドアが閉まった。
勝也はすぐには家へ入らず、車が動きだすまで見ていてくれた。
角を曲がる手前で、もう一度手を振った。
家が見えなくなってから、前へ向き直った。
「眠くない?」
お母さんが聞いた。
「バスで寝たから、大丈夫」
「そう。じゃあ、帰ったらお茶にしようか」
「うん」
私は膝の上の手を見た。
まだ、勝也の袖をつかんでいた時の感じが残っていた。
* * *
玄関を開け、鞄を足元へ下ろした。
靴を脱いでいると、お母さんが後ろから声をかけた。
「荷物を片付けたら、下りておいで。お茶、用意しておくね」
「うん」
靴をそろえ、鞄を持ち直した。
自分の部屋へ荷物を運んだ。
机も、ベッドも、出発する前と同じだった。
鞄を開けると、上の方へしまっていたしおりが見えた。
取り出して、机の上へ置いた。
初めて教室で配られた時より、角が少し丸くなっていた。
挟んでいた紙も、書き込んだところも増えていた。
着替えを分け、タオルを出した。
何をどこへしまったかは、自分で分かった。
ただ、部屋の中に話し声がないことが、少し不思議だった。
振り返っても、勝也はいなかった。
向こうから翔太くんの声がしたり、加藤さんが何かを探したりもしなかった。
洗濯するものを持って廊下へ出た。
下から、お母さんが私を呼んだ。
返事をして、階段を下りた。
お茶を飲みながら、お母さんにはいくつも話した。
お弁当を開けた時のこと。
勝也が喜んでくれたこと。
翔太くんが羨ましそうに見て、最後には、みんなでいろいろなおかずを交換したこと。
「お母さんにも、おいしかったって伝えてって。春樹くんも、翔太くんも」
言うと、お母さんが嬉しそうに笑った。
「そう。それは嬉しいわね」
「加藤さんたちも、食べてくれたよ」
「優子も、頑張って作ったものね」
私は頷いた。
でも、勝也に先に食べてほしかったものを取り分けた話になると、少しだけ言葉が小さくなった。
「……ちゃんと、勝也に食べてもらえた」
お母さんは、よかったね、と言った。
それ以上からかわなかったので、私も顔を上げて続きを話せた。
話しているうちに、さっき勝也の家の前で感じた寂しさが、少し薄れた。
話し終えたわけではなかった。
次のことを思い出すと、また話したくなった。
お父さんが帰ってきた時、私はしおりを持ってリビングにいた。
「ただいま。優子、おかえり」
私は顔を上げた。
「お父さん、おかえり」
お父さんは上着を預け、私のそばへ来た。
しおりを見てから、私を見た。
「どうだった?」
お母さんにも聞かれたことだった。
でも、もう一度、同じように頷けた。
「楽しかった。本当に、楽しかったよ」
お父さんが笑った。
私の向かいへ座り、じゃあ聞かせて、と言った。
「お母さんから、少し聞いたけど」
「何、聞いたの?」
「お弁当が人気だったって」
私は、お母さんを見た。
お母さんが笑っていた。
「優子が嬉しそうだったから、先にそれだけ」
お父さんが、ほかは、と聞いた。
私はしおりを開いた。
「最初の日は、みんなで地図を見て歩いたの。先生のところへ行って、スタンプをもらって」
道を確かめた時のことを話した。
翔太くんが先へ行こうとして、加藤さんに呼び戻されていたこと。
勝也と一緒に地図を見たこと。
みんなが、富田さんではなくて、優子と呼んでくれるようになったこと。
「名前で?」
お父さんが聞いた。
「うん。呼んでいいって、聞いてくれて」
「そうか」
お父さんは、私が指で押さえているしおりへ一度目を落とした。
それから、よかったね、と言った。
私は頷いた。
初めて呼ばれた時は、自分のことだと分かるのに、少し時間がかかった。
けれど、帰りのバスでは、呼ばれたら自然に顔を向けられた。
加藤さんの声でも、翔太くんの声でも。
「あとね。カレー作った時、私も、野菜の皮を剥いたよ」
お母さんがこちらを見た。
「みんなと一緒に?」
「うん。加藤さんと、井上さんと。分からないところは教えてもらって、私も、できる分をやった」
しおりの飯盒炊爨のところを指した。
もう終わった予定なのに、その文字を見ると、外で聞こえていた声を思い出した。
「勝也は火の方で、お米も見てて。私、時々そっち見たけど、ここにいるよって、分かったから」
お母さんが頷いた。
私は続けた。
「加藤さんが、これもお願いって、次のをくれたの。井上さんも、できたのを見てくれて。今日も、助かったって言ってくれた」
声が、少し弾んだ。
自分でも分かった。
「私の分も、ちゃんと役に立ったんだって」
お父さんが笑った。
「優子が剥いたじゃがいもも、みんなで食べたんだね」
「うん」
頷いてから、もう一度、うん、と言った。
「おいしかった」
お母さんはお茶を置き、私の隣へ座った。
「今度、家でも一緒に作ろうか」
「作りたい」
すぐに答えた。
今度は、もう少し上手にできるかもしれなかった。
「勝也くんにも食べてもらう?」
お母さんに聞かれ、少しだけ下を向いた。
「……うん」
お父さんは、いいね、と言った。
その普通の返事が嬉しくて、また顔を上げた。
夕食の間も、話は続いた。
湖では翔太くんと春樹くんが水へ落ちてしまったこと。
初めは心配したけれど、二人が戻ってきて、また言い合いを始めたこと。
私がタオルを渡すと、お礼を言ってくれたこと。
「釣りの時にも、池へ落ちたことがあるんだって。あの時は、勝也も一緒に」
話すと、お父さんが箸を止めた。
「勝也くんも?」
「うん。それは小学校の時の話で、バスで教えてくれたの。大きな魚が掛かって……」
どこから説明すればいいか考えた。
翔太くんを勝也が支えようとして、翔太くんが春樹くんのリュックをつかんで。
順番に話していたら、お父さんが、三人ともか、と笑った。
「うん。みんな、落ちたんだって」
私も笑った。
お母さんが、大変だったでしょうね、と言うと、笑いながら帰ったって、と答えた。
「勝也、昔のこと、いっぱい話してくれたよ。春樹くんたちも」
お父さんが頷いた。
「優子の知っている勝也くんの話もした?」
「うん。小さい頃、一緒に遊んでたこと」
転校する前の勝也は、私が知っていた。
転校したあとの勝也は、みんなが知っていた。
最初は知らない話が続いていたのに、聞いているうちに、私も質問したくなった。
怖いものを見て、勝也が強がっていたことも、初めて知った。
肝試しで聞いた勝也の声を思い出すと、また笑いそうになった。
「勝也、怖いの、平気だと思ってた」
私が言うと、お母さんが少し笑った。
「優子の前で、頑張っていたのかもしれないわね」
私は考えた。
肝試しの前、勝也は平気だと言っていた。
でも、暗い道で驚いた時の声は、全然平気そうではなかった。
それでも、手は離さなかった。
自分も怖かったはずなのに、私が隣にいるか、何度も見てくれた。
「……うん。そうかもしれない」
お母さんが、私の顔を見た。
私は箸を取り直し、温かいおかずを口へ運んだ。
昨夜の、正体が分からない人の話も、少しだけした。
私と勝也は見ていないこと。
見た人と見ていない人がいて、先生たちが人数を確かめ、外へ確認に行ったこと。
お父さんは、そこだけは笑わずに聞いた。
今も分からないと伝えると、そうか、と頷いた。
「先生たちが調べてくれているんだね」
「うん。今日も、そう言ってた」
私が答えると、お父さんは、それなら任せておこう、と言った。
お母さんも、話してくれてありがとう、と言った。
私は頷いた。
この家の窓の向こうを、昨日みたいに気にすることはなかった。
お父さんとお母さんが、目の前で話を聞いてくれていた。
* * *
食べ終わっても、もう少し話していたかった。
お母さんがお茶を用意してくれて、私はしおりをまた開いた。
「夜は、トランプしたんだよ」
勝也が負けてしまったことを話した。
スピードでは、とても速かったことも話した。
翔太くんが寝たあとのいびきが大きくて、みんなで布団を運んだ話をすると、お父さんもお母さんも笑った。
「起きなかったの?」
「うん。一回も」
自分で言って、また笑った。
あの時の真弓の顔まで思い出せた。
「加藤さん、最初は本当にびっくりしてた。でも、私が寒くないかも聞いてくれて」
お母さんが頷いた。
「優しいわね」
「うん。井上さんも。二人とも、いろいろ教えてくれた」
話していて、ふと思った。
帰りのバスで、またトランプをしようと言った。
学校でも会えるけれど、授業の間だけでは、あまり長く遊べない。
この家には、机もある。
みんなで座れるところもある。
私はしおりの角を、指で押さえた。
「……お母さん」
「何?」
お父さんも、こちらを見た。
私は二人を順番に見た。
「今度、みんなを、うちに呼んでもいい?」
言ってから、少しだけ息を止めた。
「勝也だけじゃなくて……春樹くんとか、翔太くんとか。井上さんも、加藤さんも」
お母さんは、すぐに頷いた。
「もちろん。いつでも連れてきていいよ」
お父さんも、いいね、と言った。
「みんなでおいで。決まったら教えてくれればいいから」
私は顔を上げたまま、二人を見た。
「本当に?」
「本当に」
お母さんが笑った。
「みんなが来てくれたら嬉しいわ。いつも優子を助けてくれているお礼も、直接言いたいし」
「……うん」
返事をすると、口元が緩んだ。
まだ、誰にも聞いていなかった。
いつにするかも、何をするかも、決めていなかった。
それでも、お母さんがいいと言ってくれたので、今度みんなに会ったら聞いてみたくなった。
「トランプ、持ってきてくれるかな」
「優子からお願いしてみたら?」
お父さんが言った。
私は頷いた。
「うん。聞いてみる」
その言葉を口にすると、本当に来てもらえるかもしれないと思った。
玄関で翔太くんが大きな声で挨拶をして、加藤さんがまた声を注意するところまで、少し想像できた。
勝也も、きっと笑う。
私はしおりを閉じた。
お母さんが、そろそろ眠くなった、と聞いた。
「少しだけ」
「今日は早めに休もうね。続きは、明日でも聞けるから」
私は頷いた。
全部話したつもりでも、まだ思い出すことがあった。
それを明日も話していいのだと思うと、無理に続きを探さなくてよかった。
「楽しかった話、いっぱいあったね」
お父さんが言った。
「うん」
私はしおりを胸の前へ持った。
みんなで笑ったことも、自分にできることがあったのも嬉しかった。
家へ来てほしいと、勝也以外の友達の顔を思い浮かべたことも。
けれど、それを話している間、何度も勝也の顔を思い出していた。
朝、目を開けた時にもいた。
ご飯を食べる時にも、外を歩く時にもいた。
みんなが話している方を見たあと、横へ向けば、いつもそこにいた。
夜になっても、帰ってしまわなかった。
おやすみと言って目を閉じたあと、朝になったら、またおはようが言えた。
「……勝也と、ずっと一緒だった」
小さな声になった。
お母さんが、うん、と頷いた。
「それも、嬉しかった?」
私はしおりへ目を落とした。
少し迷ってから、頷いた。
「……それが、いちばん」
言ってから、顔が熱くなった。
でも、お母さんもお父さんも笑ってからかったりしなかった。
「そっか」
お母さんが言った。
お父さんは、行けてよかったね、と静かに言った。
私は顔を上げた。
「うん。行ってよかった」
その返事は、迷わずにできた。
* * *
部屋へ戻り、しおりを机の上へ置いた。
ベッドに入ると、自分の枕はいつもの高さだった。
布団も柔らかくて、寒くはなかった。
それでも、隣へ手を伸ばしかけた。
そこには、もう一人分の温かさはなかった。
少しだけ寂しくなり、枕へ頬を寄せた。
勝也は今、何をしているだろう。
もう荷物を片付けて、自分の部屋にいるのかもしれなかった。
また遊ぼう、と言ってくれた。
私も、またね、と言えた。
今度は、みんなにも聞いてみよう。
お母さんが、いつでも連れてきていいと言っていたこと。
また一緒に、トランプをしたいこと。
その時も、勝也の隣に座りたい。
掛け布団を肩まで引き上げた。
目を閉じると、バスの中で聞いた笑い声を思い出した。
私の名前を呼ぶ声も、いくつもあった。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
林間学校三日目の朝、最初に目を覚まし、優子や友達と帰り支度を始める。帰りのバスでは優子と肩を寄せて眠る。
・富田 優子
友達との共同作業や会話を、楽しい思い出として家族へ話す。今度は自分の家でもみんなと遊びたいと思い、両親へ相談する。
・鶴見 春樹
窓際で翔太と一夜を過ごし、朝はなかなか起きない翔太へ声をかける。散々だった出来事も振り返りながら、班のみんなと帰り支度をする。
・鳥居 翔太
最後までにぎやかな班長。朝ご飯の時間と聞いて目を覚ます。食事やトランプなど、楽しかったことを帰りのバスでも話す。
・加藤 真弓
帰り支度を取り仕切り、優子が手伝ってくれたことにも自然に感謝する。また一緒に遊ぶ約束を交わす。
・井上 綾香
寒い夜は掛け布団を重ね、暖かく眠る。朝は友達と起き出し、帰り支度では優子と一緒にシーツを畳む。
・富田 美和、富田 泰臣
優子の両親。林間学校の話を嬉しそうに聞き、友達を家へ招きたいという優子の願いを受け入れる。
・花沢先生
三日間を終えた優子に、楽しめたかを尋ねる。帰校まで生徒たちを見守る。




