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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
52/52

第47話 林間学校 最終日

    * * 勝也視点 * *


 腕を少し動かそうとして、目が覚めた。


 カーテンの隙間が、薄く明るくなっていた。

 窓の方から寝息が聞こえる。まだ、誰も起きていなかった。


 顔を下へ向けると、白い髪が見えた。

 優子が俺の胸元へ頬を載せ、よく眠っていた。寝る時には横を向いていたはずだけれど、いつの間にか俺は仰向けになっていた。

 優子の脚が、俺の脚に引っかかっている。


 反対側では、綾香がこちらへ背を向けていた。

 昨夜持ってきた枕に頭を載せ、重ねた掛け布団へ肩まで入っている。優子の向こうには真弓もいた。


 まだ起きなくていいなら、もう少し、このままでいたかった。

 ただ、腕は少し動かしたい。

 優子の頭を支え直そうとしたところで、胸元の白い髪が動いた。


「……勝也?」

「おはよう。起こしちゃった?」


 優子がゆっくり顔を上げた。

 眠そうな目で俺を見て、それから、カーテンの隙間へ目を向けた。


「……もう、朝?」

「うん。でも、まだ放送は鳴ってないよ」


 優子は小さく頷いた。

 頬を戻しかけたので、俺は声を落とした。


「ちょっと、腕を動かしてもいい?」

「……あ」


 優子が身体を起こした。

 俺の脚にかかっていた脚も、そっと離れた。


「……ごめんね。ずっと、こうなってた?」

「俺も寝てたから、分かんない。よく眠れた?」

「……うん。すごく」

「なら、よかった」


 指を開いて、肩をゆっくり動かした。

 優子は布団の中に座り、まだ少し眠そうにしていた。


「寒くなかった?」

「……全然。勝也は?」

「俺も。布団、出たくないね」


 優子が笑った。

 その声を聞いたのか、隣で綾香が小さく身じろぎした。


「……起きる時間?」

「まだ、もうちょっとあると思う」


 俺が答えると、綾香は目を細めたまま頷いた。


「そっか。おはよう」

「おはよう」

「……おはよう」


 優子も挨拶を返した。

 綾香は自分の掛け布団を肩へ寄せ、あくびをした。


「昨日、布団重ねてよかった。よく眠れた」

「ね。今も温かい」


 俺は上着を取ろうと、片腕を外へ出した。

 布団の中とは全然違った。


「……外は寒いけど」


 綾香が少し笑った。

 手の届くところにあった上着を引き寄せ、先に優子へ渡した。俺も自分の上着へ袖を通した。


 優子が布団から出ると、真弓も目を開けた。

 しばらく天井を見てから、こちらへ顔を向ける。


「……おはよ」

「おはよう」


 真弓は返事を聞いて、掛け布団を顎まで引き上げた。


「起きると寒いやつだ」

「うん。上着、着た方がいいよ」

「着る。その前に、ちょっとだけ」


 布団の中で膝を曲げた真弓を見て、優子が笑った。


 窓際でも、布団が動いた。

 春樹が顔を出し、眉を寄せた。


「……寒っ」


 掛け布団を引いたけれど、途中で止まった。

 反対側の翔太が、端を抱えて眠っていた。


「翔太。布団、ちょっと返して」


 返事はなかった。

 春樹はもう一度引っ張り、ようやく肩までかけ直した。


「そこ、やっぱり寒い?」


 俺が聞くと、春樹はゆっくり頷いた。


「顔に当たる空気が冷たい。あと、途中で何回か布団持っていかれた」

「それで、そっちはまだ寝てるんだ」


 真弓が翔太を見た。

 翔太は何も知らない顔で、枕に頬を押しつけていた。


「翔太。朝だよ」


 春樹が肩を揺すった。

 少し動いたけれど、目は開かなかった。


「着替えないと、朝ご飯の時間に遅れるよ」


 翔太の目が開いた。


「……飯?」

「その前に、着替え」


 春樹が答えた。

 翔太は窓を見て、俺たちを見て、それから身体を起こした。


「もう朝か」

「さっきから言ってる」


 真弓が、布団へ口元を隠した。

 綾香も小さく笑っていた。


「ご飯って言ったら起きた」


 俺が言うと、翔太は首をかしげた。


「普通に起きただけだろ」

「うん。今、起きたね」


 春樹はそれだけ言い、自分の上着を取った。

 隣で優子も笑っていた。


 翔太が片足を布団から出し、すぐに戻した。


「寒っ。何これ」

「それも、さっきから言ってる」


 今度は真弓も笑いながら起き上がった。


     * * *


 起床の放送が流れる頃には、六人とも着替えを始めていた。

 布団から出た直後は寒かったけれど、動いているうちに、少しずつ身体が起きてきた。


 窓の方で、翔太がカーテンの端をつまんだ。

 少しだけ開け、隙間から外を見た。


「……明るい」

「朝だからね」


 春樹が言った。


「いや、そうなんだけど。昨日と全然違うな」


 俺も窓の方を見た。

 木の幹も、その向こうの斜面も、輪郭がはっきり見えていた。夜には真っ黒に固まっていたところに、細い枝が何本もあった。


「昨日も、このくらい見えてればよかったのに」

「肝試しにならないじゃん」


 綾香が答えた。

 翔太は、それでいい、と言った。


「もう一回行く?」

「行かない」


 綾香の問いに、翔太と春樹が同時に答えた。

 真弓は荷物を畳みながら、私も行かない、と付け足した。


 朝の光があっても、昨夜のことが分かったわけではなかった。

 俺も、わざわざ見に戻りたいとは思わなかった。


 顔を洗い、荷物を少しまとめてから、六人で食堂へ向かった。

 廊下の途中で別の班と合流すると、部屋にいた時よりも声が増えた。


 食堂には、温かい味噌汁の匂いがしていた。

 席に着くと、翔太はおかずを確かめてから、ご飯の茶碗を見た。


「腹減った」

「朝から元気だね」


 春樹が言った。


「春樹は?」

「今日は、普通にお腹空いてる」

「よかったな」


 春樹の手が止まった。

 翔太を、じっと見た。


「……次に何か作る時は、材料、ちゃんと見てね」

「分かってるって」

「ほんとに」


 真弓も、ほんとにね、と言った。

 翔太は、うん、と今度は素直に頷いた。


 いただきますの声がそろった。

 味噌汁を飲むと、冷えていた指先まで少し温まった気がした。


「おいしい」


 優子が小さく言った。

 俺も頷いた。


「朝、寒かったからね」

「……うん」


 優子は茶碗を両手で少し寄せ、また箸を取った。

 昨日も向かいに真弓と綾香がいて、横には俺がいた。

 けれど、今日はもう、食べ終わったあとに部屋を片付ける。


「今日で帰るんだよな」


 翔太が言った。


「早くない?」

「昨日、早く朝になってほしいって言ってたじゃん」


 春樹が返した。


「朝には、なってほしかった。でも、帰るのは早い」

「都合いいね」

「春樹だって、そうだろ」


 春樹は箸を動かしながら、少し考えた。


「……まあ、楽しかったけど」


 翔太が、ほら、と言った。


「でも、もう変なお菓子は食べない」

「そこは、もう分かったって」


 綾香が笑った。

 真弓は春樹の茶碗を見て、今日はちゃんとみんなと食べられてよかったね、と言った。


 春樹は何か言いかけたけれど、やめた。

 その判断で、俺たちは少し笑った。


 優子は、誰かが話すたびに顔を上げていた。

 箸を止めて聞いて、笑って、それから食事へ戻る。

 真弓が、優子はどれがいちばん楽しかった、と聞くと、すぐには答えずに考え込んだ。


「……いっぱい、あって」

「一個にできない?」

「……うん」


 真弓が笑った。


「じゃあ、あとで全部聞く」


 優子は少し困ったように笑って、頷いた。


 朝食が終わる頃、花沢先生が班を回ってきた。

 昨夜のことを聞いた生徒には、今のところ新しく分かったことはない、と答えていた。

 俺たちのところでも、翔太が一度だけ、誰だったんですか、と聞いた。


「まだ分かっていません。先生たちと施設の方で、引き続き確認しています」


 先生はそう言ってから、部屋の片付けの時間を確かめた。

 翔太も、はい、と返事をした。


 いなかったことには、ならなかった。

 誰かの悪ふざけだったとも、先生は言わなかった。


 翔太は少し黙ったあと、空になった茶碗を持ち上げた。


「……とりあえず、食べた」

「うん。片付けよう」


 春樹が立った。

 俺たちも食器を持って、席を離れた。


     * * *


 部屋へ戻ると、寝ていた時よりも布団の数が多く見えた。

 実際には六人分で、昨日から増えていない。

 ただ、掛け布団があちこちで重なり、枕のある位置と敷布団の位置が合っていなかった。


「これ、誰の?」


 翔太が、窓際にあった枕を二つ持った。


「片方は俺」


 春樹が手を伸ばした。


「どっち?」

「もう、どっちでもいいよ」


 翔太は片方を渡した。

 真弓がしおりを開き、返す寝具のまとめ方を読んだ。


「シーツは外す。布団はこっち。毛布は別にして」

「了解、班長」


 翔太が言った。

 真弓は顔を上げた。


「班長、あんた」

「知ってる」

「じゃあ、働いて」


 翔太が敷布団の端をつかんだ。

 持ち上げた途端、上に残っていた掛け布団まで滑ってきた。


「待って。一枚ずつ」


 春樹が反対側を押さえた。

 俺は間へ入って掛け布団を取った。


「昨日は翔太が載ってても運べたのに」


 俺が言うと、翔太が振り向いた。


「それ、まだ言う?」

「今日は起きてるんだから、自分の分、お願いね」

「やってるだろ」


 俺は翔太へ掛け布団を渡した。


「じゃあ、こっちも」

「増えたんだけど」


 翔太が受け取った布団を見下ろし、春樹が少し笑った。


 優子は自分の荷物をまとめてから、真弓と一緒にシーツを外していた。

 綾香が枕カバーを集め、真弓がそれを同じところへ置く。

 優子は空いた場所にしゃがみ、布団の下に何か残っていないかを見ていた。


「……加藤さん、これ」


 指先に、小さな髪留めがあった。


「あ、それ私。ありがとう。探してた」


 真弓が受け取った。

 優子は頷き、また畳を見た。


「優子、こっち、持ってもらっていい?」


 綾香がシーツの端を差し出した。


「……うん」


 優子が立った。

 二人で端を合わせて畳み、真弓がまとめていた山へ載せた。


 俺は押し入れへ布団を戻しながら、その様子を見ていた。

 優子がこちらを向いたので、目が合った。

 俺が少し笑うと、優子も笑って、綾香へ向き直った。


 俺のところまで戻ってこなくても、今は、することがあった。

 次のシーツを受け取り、綾香と同じように端をつまんでいた。


 寝具を片付けると、部屋の端から端まで見えるようになった。

 俺と春樹で掃除をし、翔太がゴミを集めた。

 優子は真弓と一緒に机を拭き、綾香が使った場所を順番に確認した。


「翔太、これも」


 春樹が、机の下に落ちていた小さな紙片を拾った。

 翔太が袋を広げた。


「もうない?」

「窓のところ、見た?」

「見た」

「ちゃんと?」

「ちゃんと見た。昼は行ける」


 真弓が笑い、まだ朝だよ、と言った。


 六人の鞄が、戸の近くへ並んだ。

 来た時よりも少し膨らんでいるものと、形の変わらないものがあった。

 翔太の鞄は、口がまだ閉まっていなかった。


「……減ってるはずなのに」


 翔太が言った。


「何が?」

「荷物。食べた分」


 春樹が、ゆっくり翔太を見た。


「その話、今する?」

「いや、容量の話」


 俺は笑いながら、鞄の上へ飛び出していた服を指した。


「それ、もうちょっと畳んだら?」

「畳んであるよ」

「入れてあるだけに見える」


 翔太は一枚引っ張り出し、膝の上で広げた。

 真弓が、最初からそうしなよ、と言った。


 俺は自分の鞄の横に、優子の手提げがあるのを確かめた。

 優子はしおりの持ち物の欄を、指でたどっていた。


「忘れ物、なさそう?」

「……うん。大丈夫」


 俺も頷いた。

 優子はしおりをしまったあと、部屋を一度見渡した。


「……広かったね」

「ね。六人いても、余裕あった」


 畳が見えていると、余計に広かった。

 昨日はここへ机を置き、みんなで座っていた。

 夜には布団が並び、真弓と綾香が少しずつこちらへ寄ってきた。


 優子は、さっきまで寝ていた辺りへ目を向けた。


「……もう一回、寝たくなる」


 小さな声だった。

 俺は少し笑った。


「今から出したら、真弓に怒られるよ」

「怒るよ」


 聞こえていた。

 優子がぱっと振り返り、真弓が笑った。


「帰りのバスで寝な。勝也、また隣なんでしょ」


 優子は頷いた。

 そのあと俺を見たので、俺も、うん、と答えた。


「俺も、ちょっと眠い」

「俺も。飯食ったら眠くなってきた」


 翔太が言った。


「食べる前も寝てたでしょ」


 春樹が言うと、翔太は、だからバスで寝る、と答えた。

 ようやく閉まった鞄を抱え、今度は大きくあくびをした。


 花沢先生が部屋を確認しに来た。

 押し入れと窓際、浴室やトイレの忘れ物まで確かめてから、六人を見た。


「はい。きれいになっていますね。ありがとう」


 翔太が、よし、と小さく言った。


「荷物は、決めた場所まで運んでください。途中に置きっぱなしにしないでね」

「はい」


 俺たちが持ち手を握った時、先生が優子へ声をかけた。


「優子さん。三日間、楽しめましたか?」


 優子は顔を上げた。

 俺へ目を向けてから、先生を見た。


「……はい。楽しかったです」


 先生が笑った。


「よかった」


 優子も少し笑った。

 今度は、俺が何かを付け足さなくても、ちゃんと返事が続いた。


「……みんなと、いろいろできたので」


 先生は、そうね、と頷いた。

 真弓が優子の隣で、私も楽しかった、と言った。


 翔太が、俺も、と続けた。

 春樹は鞄を肩にかけ直し、まあ、いろいろあったけどね、と笑った。


 俺たちは戸を出た。

 最後にもう一度振り返ると、綾香が部屋の奥まで見てから、忘れ物なし、と言った。


 戸が閉まった。

 優子の手が、空いている方の俺の手へ触れた。

 握ると、同じくらいの強さで返ってきた。


     * * *


 宿舎の外へ出ると、日向でも空気は冷たかった。

 ただ、昨日の夜のように、立っているだけで肩をすぼめたくなるほどではなかった。


 翔太が息を吐いた。


「帰ったら、暑く感じるかな」

「そこまではいかないんじゃない?」


 春樹が言った。


「でも、布団は普通に温かいと思う」

「窓の横じゃないしな」

「俺の家の布団は、翔太に引っ張られないからね」


 真弓が笑った。

 翔太は、寝てたから知らない、と言った。


 荷物を置いたあとも、帰るまでにはいくつかすることがあった。

 使った場所を班ごとに確認し、しおりへ最後の記入をした。

 昼食を済ませてから、閉校式のために集まった。


 施設の人が前へ出ると、ざわざわしていた列が少しずつ静かになった。

 みんなで過ごせたこと、来た時よりもきれいにして帰ること。

 聞きながら、さっきの部屋を思い出した。


 俺のすぐ横で、優子が顔を上げていた。

 後ろから誰かが動く音がすると、少しだけ手に力が入った。

 それでも、先生たちが話している方を見ていた。


 ありがとうございました、と全員で頭を下げた。

 顔を上げると、施設の人が笑って手を振ってくれた。


 バスが並んでいた。

 荷物を預けるために班ごとに並び、翔太が人数を数えた。


「一、二、三、四、五……」


 俺たちを順番に指し、少し止まった。


「自分」


 真弓が言った。


「分かってる。六」


 翔太が自分を指した。

 花沢先生へ、全員います、と言ってから、振り返った。


「ほら。ちゃんとやってるだろ」

「最後までよろしくね、班長」


 綾香が言った。

 翔太は頷き、バスの段差へ足をかけた。


 俺は優子と並び、順番を待った。

 建物の向こうへ目をやると、木々の間の道が少し見えた。

 優子も見ていた。


「昨日の方?」

「……うん。たぶん」


 この明るさでも、奥までは見えなかった。

 俺たちは長く見ていないで、バスの方へ向き直った。


「行こう」

「……うん」


 優子が一段ずつ上がった。

 その後ろへ続きながら、俺はもう一度、部屋の窓があった方を見た。

 すぐには、どの窓だったか分からなかった。


    * * 優子視点 * *


 バスの中は、外よりずっと暖かかった。

 席へ座り、窓の方へ少し寄った。

 勝也が隣へ来て、手元の荷物を収めた。


「ここ、邪魔じゃない?」

「うん。大丈夫」


 答えてから、ベルトを留めた。

 勝也も留め、背もたれへ背中を預けた。


 来る時にも、この隣にいた。

 あの時は、これから二晩も家へ帰らないことを、何度も考えていた。

 お母さんに送ってもらい、勝也の家から学校へ来て、みんなの鞄を見た。

 本当に行くのだと思うと、勝也の袖を離すのが難しかった。


 今も、隣にいてほしかった。

 けれど、バスが動きだすのを待ちながら考えていたのは、ここへ着いてからのことだった。


「優子」


 通路の向こうから、加藤さんが呼んだ。

 顔を向けると、こちらを見て笑っていた。


「朝の続き。いちばん楽しかったやつ、決まった?」


 少し考えた。

 すぐには、一つにできなかった。


「……カレー、作ったの」

「お、カレー?」


 前の席から、翔太くんが顔を向けた。


「うん……。みんなで、作れたから」


 言ってから、加藤さんと井上さんを見た。

 井上さんが頷いた。


「じゃがいも、いっぱいあったもんね」

「……うん」

「優子がやってくれた分、助かったよ」


 加藤さんが言った。

 返事をする前に、少し頬が熱くなった。


「……ちゃんと、できてた?」

「できてたって。私、昨日も言ったじゃん」


 加藤さんは笑っていた。

 からかう顔ではなかった。


「また何か作る時、一緒にやろ」


 私は頷いた。

 昨日、手に持っていたじゃがいもを思い出した。

 皮を剥いて、確かめてもらって、次の一つを受け取った。

 勝也のいる方へ時々目を向けても、戻れば、まだ自分のすることがあった。


 加藤さんは待ってくれた。

 井上さんも、急かさずに教えてくれた。


「俺、火、よかっただろ」


 翔太くんが言った。

 勝也が笑った。


「頑張ってたよ」

「だろ?」

「途中、すごく顔赤かったけど」

「熱かったからな」


 翔太くんが、頬の辺りを手で示した。

 その動きを見ていたら、春樹くんが顔を出した。


「俺も、普通に食べたかったな」


 誰かが笑いかけて、止まった。

 春樹くんはそれに気づき、順番にみんなを見た。


「今、思い出したでしょ」


 勝也が顔をそらした。

 加藤さんは口元を押さえた。


「言わなくていいからね」


 春樹くんが翔太くんを見た。

 翔太くんは何も言っていなかったけれど、もう笑っていた。


 私も、思い出してしまった。

 昨日、春樹くんが言い間違えた時のこと。

 勝也が椅子へ顔を伏せ、加藤さんが笑いすぎて、すぐには起き上がれなかったこと。


「……笑っちゃって、ごめんね」


 私が言うと、春樹くんが少し目を開いた。


「あ、いや。優子はいいんだよ」

「俺は?」

「翔太は駄目」

「何で!」

「いろいろあるでしょ」


 春樹くんの言い方に、また笑ってしまった。

 翔太くんも、不満そうな声を出したあと、自分で笑っていた。


 花沢先生が、座席を確かめながら通路を歩いてきた。

 みんなが前へ向き直った。

 先生は人数を確認し、前の席へ戻った。


 扉が閉まった。

 ゆっくり、バスが動いた。


 窓の外で、施設の人が手を振っていた。

 私も手を上げた。

 勝也が、その向こうへ一緒に手を振った。


 建物の角が見えなくなり、木が増えた。

 窓へ近づけていた手を下ろすと、勝也がこちらを見た。


「楽しかったね」


 私は頷いた。


「……うん」


 喉の辺りが、少し詰まった。

 泣きたいわけではなかった。

 でも、もう帰るのだと思うと、さっきまでいた部屋へ、もう一度だけ戻りたくなった。


「帰ったら、いっぱい話せるね」


 勝也が言った。


「お母さんたちに」

「……うん。何から、話そう」

「翔太の話だけでも、結構あるよ」


 前の席から、聞こえてるぞ、と声がした。

 勝也が笑った。


「いい方もあるって」

「いい方から話して」


 翔太くんが言った。

 私は小さく頷いた。


「……うん。お弁当、おいしいって言ってくれたことも」

「あれ、うまかった!」


 翔太くんの声が、少し大きくなった。

 春樹くんが、声、と言った。


「……あれ、うまかった」


 同じことを、小さく言い直した。

 加藤さんが笑った。


「聞こえてたよ、一回目で」

「大事なことだから」


 私は膝の上で指を合わせた。

 お母さんと一緒に作ったお弁当が、みんなの前へ並んだところを思い出した。

 勝也の分は、少ないよりはいいと思って、もう一つ用意した。

 開ける時には、さすがに多すぎたかもしれないと心配になった。


 でも、勝也は喜んでくれた。

 先に食べてほしかったものも、ちゃんと食べてくれた。


「……お母さんにも、言うね」

「言っといて。めっちゃうまかったって」


 翔太くんが言った。

 春樹くんも、俺からも、と続けた。


 私は頷いた。

 帰ったら話すことが、また一つ増えた。


     * * *


 山道を下りながら、話は少しずつ別のことになった。

 カヌーのこと。夜のトランプのこと。

 翔太くんは、勝也が大富豪で負けた時の顔を覚えていた。


「絶対勝ったって顔してたもんな」

「してたよ。あれは勝ったと思った」


 勝也が素直に認めた。


「革命、一回で終わった」

「そのあとも負けたじゃん」

「八ばっかり出てきたんだもん」


 加藤さんが笑った。

 勝也も、今なら面白そうに話していた。


「でも、スピードは勝ったよ」

「最後、うるさかった」


 井上さんが言った。

 勝也は、そこはごめん、と笑った。


 私は、勝也と二人だけの秘密になっているカードを思い出した。

 勝也へ渡す時、弱い札と一緒に入れた一枚。

 今はその話をしないで、勝也の横顔を見た。


「……また、やりたい」


 言うと、加藤さんがこちらを向いた。


「トランプ?」

「……うん」

「いいよ。また持ってくる」


 すぐに返事があった。


「俺、次は大富豪で勝つ」


 勝也が言った。


「その顔、覚えた」


 翔太くんが返した。

 勝也は、それ言われたら困る、と笑った。


 窓の外で、遠くの山が見えたり隠れたりした。

 カーブを曲がるたびに、光の入る向きが変わった。


 勝也の肩が、時々私の肩へ触れた。

 来る時よりも、身体の力を抜いて座れていた。


 翔太くんが大きなあくびをした。

 そのあと、春樹くんもあくびをした。


「うつった」

「春樹、夜、ちゃんと寝た?」

「途中からは寝たよ」

「俺も」

「翔太は、俺より早かった」


 春樹くんが言った。


「ずっと起きてるって言ってたのに」

「眠くなったんだよ」

「知ってる」


 前の席が、少し静かになった。

 加藤さんはしおりを鞄へしまい、井上さんと小さな声で話し始めた。


 勝也が目を細めた。


「眠い?」


 聞くと、勝也は頷いた。


「ちょっと。優子は?」

「私も、少し」


 勝也は自分の上着の裾を直し、座り直した。


「寝てていいよ」

「勝也も?」

「うん。俺も、たぶん寝る」


 笑いながら言ったあと、目を閉じた。

 私も前へ向き直った。


 バスの音が、さっきよりもよく聞こえた。

 話し声が減って、一定の揺れだけが続いていた。


 私は少しだけ、勝也の方へ寄った。

 肩へ頬が触れた。


 勝也が目を開けた。

 顔を上げかけると、いいよ、と小さく言った。


「そのままで」


 私は頷いた。

 勝也の袖の、肘に近いところへ指を添えた。


「……ありがとう」


 勝也は少し笑い、また目を閉じた。


 昨日も、この言葉を言った。

 言ったあとに勝也が困ることはなくて、笑ってくれた。

 今も同じだった。


 私のために、いろいろしてくれた。

 怖かった時にも、待っていてくれた。

 みんながいるところへ、一緒に連れていってくれた。


 その一つ一つを思い出していたら、眠くなるのに、少し惜しくなった。

 目を開けていれば、まだ隣にいる勝也を見ていられる。


 けれど、肩が温かかった。

 まぶたが重くなり、窓の外を見るのをやめた。


 ほどなく、頭の上へ軽い重みが触れた。

 勝也も、こちらへ少し傾いていた。


 起こさないように、動かなかった。

 勝也の袖へ添えていた指を緩めた。


 バスが大きく揺れない道へ出た頃には、私も眠っていた。


     * * *


 途中の休憩が終わり、生徒が席へ戻った。

 再び出発する前の車内で、カメラマンが通路から何枚か写真を撮った。


 勝也と優子は、戻ってきてしばらくすると、また肩を寄せて眠っていた。

 先に眠った優子へ、勝也の頭が少し傾いていた。


 カメラマンが二人へレンズを向けた。

 シャッターの音に、近くの席の真弓が顔を上げた。

 カメラの向きを見てから、真弓も二人を見た。


 声はかけなかった。

 綾香と目が合うと、小さく笑い、また前へ向き直った。


 バスの扉が閉まった。

 二人は、そのまま眠っていた。


    * * 優子視点 * *


 目を開けると、見覚えのある建物が窓の外を流れていた。

 山の斜面は、もう見えなかった。


 顔を上げた。

 隣で勝也が、少しだけ首を動かした。


「……着いた?」

「まだ。でも、もう近いと思う」


 勝也も窓の外を見た。

 あ、本当だ、と言って、ゆっくり座り直した。


「よく寝た」

「うん」

「優子も?」

「うん。いっぱい寝ちゃった」


 勝也の袖を、もう握っていなかった。

 手は膝の上にあって、そのすぐ横に勝也の手があった。


 前の席から、翔太くんの声がした。


「もう学校?」

「まだ」


 春樹くんが答えた。


「起きてたの?」

「今、起きた」

「そっか」


 二人の短い会話に、勝也が笑った。

 私も、昨日の夜に聞いた声を思い出した。


 校門が見えてきた。

 バスがゆっくり曲がり、止まった。


 ここへ戻ってくるのは、三日ぶりだった。

 窓から見える校舎は変わっていなかった。

 私は一度だけ、勝也の手へ触れた。


 勝也がこちらを見た。


「降りようか」


 頷いた。

 勝也は私が荷物を持つのを待ち、通路へ出た。


 外へ降りると、風が顔に触れた。

 宿舎の外で感じたものより、ずっと柔らかかった。


「……あったかい」


 思わず言うと、勝也も頷いた。


「全然違うね」


 翔太くんが少し向こうで、ほら、暖かいって言ったじゃん、と春樹くんに言っていた。


「暑いとは言ってないでしょ」


 春樹くんが返した。

 翔太くんは、そこは細かくなくていい、と言った。


 荷物が下ろされた。

 自分の鞄を受け取り、班のところへ並んだ。

 花沢先生の話を聞いてから、最後の挨拶をした。


 さようなら、と声がそろった。

 そのあと、列が少しずつほどけた。


「優子」


 加藤さんが、鞄を肩へかけながら呼んだ。


「また学校でね」


 私は頷いた。


「……うん。ありがとう」

「こちらこそ」


 加藤さんが手を振った。

 井上さんも、その隣から小さく手を上げた。


「トランプ、またやろうね」

「……うん」


 今度は、私も手を上げた。

 翔太くんが、次は俺が勝つ、と言った。


「どれに?」


 春樹くんが聞いた。


「全部」

「大きく出たね」


 二人が笑った。

 勝也も笑い、またね、と言った。


 校門の方へ歩く途中、お母さんが見えた。

 こちらへ気づき、手を上げてくれた。


「優子。勝也くん。おかえりなさい」


 私は少しだけ、歩くのが速くなった。


「ただいま」


 お母さんの前で止まった。

 お母さんは私の顔を見て、それから勝也にも目を向けた。


「楽しかった?」


 私は、すぐに頷いた。


「うん。すごく楽しかった」


 言うと、お母さんが笑った。

 私も笑った。


「よかった。顔を見たら、何となく分かったわ」


 お母さんが鞄へ手を伸ばした。

 自分で持てると言う前に、じゃあ車まで一緒に持とうか、と持ち手の片方を持ってくれた。


「勝也くんも、お家まで送るわね」

「ありがとうございます」


 勝也が頭を下げた。

 私たちはお母さんについて、車まで歩いた。


 後部座席へ座ると、さっきのバスよりも周りが静かになった。

 前を見れば、お母さんがいた。

 横を見れば、まだ勝也がいた。


「何がいちばん面白かった?」


 お母さんが、車を出してから聞いた。

 私は勝也を見た。

 勝也も、こちらを見ていた。


「今朝も、翔太くんが面白かったね」


 言うと、勝也が笑った。


「朝ご飯の時?」

「うん。起きる時」


 お母さんが、何があったの、と聞いた。

 私は少し笑いを収めてから話した。


「翔太くん、春樹くんに起こされても、ずっと寝てたの。でも、朝ご飯の時間に遅れるよって言われたら、すぐ起きたの」

「あら。お腹が空いていたのかしら」

「起きたら、普通に起きただけだろって言うから」


 私が言うと、勝也も頷いた。


「呼ばれた時のこと、全然覚えてないんだと思います」


 お母さんが笑った。

 私は、春樹くんは慣れてるみたいだった、と付け足した。


「前にも一緒に泊まったことあるからね」


 勝也が言った。


「ご飯のあとには、また眠いって言ってたけど」


 食堂でも、帰りのバスでも、翔太くんはよく話していた。

 あの布団の中に戻ったら、きっとまた、すぐ眠れたのだと思う。

 そう言うと、勝也も、たぶんね、と笑った。


 お母さんは運転しながら、楽しそうね、と言った。


 勝也の家までは、いつもの道だった。

 けれど、今日は朝ではなくて、荷物がたくさんあった。

 車が止まると、勝也がベルトを外した。


「送ってくださって、ありがとうございました」

「どういたしまして。荷物、忘れないでね」


 勝也が頷き、外へ出た。

 私もドアの方へ顔を向けた。


 もう少し、一緒にいたかった。

 さっきまで、ずっと一緒にいられたのに。


 勝也は鞄を受け取ると、開いているドアから少し屈んだ。


「優子。楽しかったね」

「うん」

「また、遊ぼう」


 私は頷いた。

 返事をする前に、勝也の顔を見た。


「また、トランプしたい」

「うん。今度は、俺も勝ちたい」


 勝也が笑った。


「スピードは、いっぱい勝ってたよ」

「あっちじゃなくて」


 私も笑った。

 勝也が手を上げたので、私も手を振った。


「またね、優子」

「うん。またね」


 ドアが閉まった。

 勝也はすぐには家へ入らず、車が動きだすまで見ていてくれた。

 角を曲がる手前で、もう一度手を振った。


 家が見えなくなってから、前へ向き直った。


「眠くない?」


 お母さんが聞いた。


「バスで寝たから、大丈夫」

「そう。じゃあ、帰ったらお茶にしようか」

「うん」


 私は膝の上の手を見た。

 まだ、勝也の袖をつかんでいた時の感じが残っていた。


     * * *


 玄関を開け、鞄を足元へ下ろした。

 靴を脱いでいると、お母さんが後ろから声をかけた。


「荷物を片付けたら、下りておいで。お茶、用意しておくね」

「うん」


 靴をそろえ、鞄を持ち直した。


 自分の部屋へ荷物を運んだ。

 机も、ベッドも、出発する前と同じだった。

 鞄を開けると、上の方へしまっていたしおりが見えた。


 取り出して、机の上へ置いた。

 初めて教室で配られた時より、角が少し丸くなっていた。

 挟んでいた紙も、書き込んだところも増えていた。


 着替えを分け、タオルを出した。

 何をどこへしまったかは、自分で分かった。

 ただ、部屋の中に話し声がないことが、少し不思議だった。


 振り返っても、勝也はいなかった。

 向こうから翔太くんの声がしたり、加藤さんが何かを探したりもしなかった。


 洗濯するものを持って廊下へ出た。

 下から、お母さんが私を呼んだ。


 返事をして、階段を下りた。


 お茶を飲みながら、お母さんにはいくつも話した。

 お弁当を開けた時のこと。

 勝也が喜んでくれたこと。

 翔太くんが羨ましそうに見て、最後には、みんなでいろいろなおかずを交換したこと。


「お母さんにも、おいしかったって伝えてって。春樹くんも、翔太くんも」


 言うと、お母さんが嬉しそうに笑った。


「そう。それは嬉しいわね」

「加藤さんたちも、食べてくれたよ」

「優子も、頑張って作ったものね」


 私は頷いた。

 でも、勝也に先に食べてほしかったものを取り分けた話になると、少しだけ言葉が小さくなった。


「……ちゃんと、勝也に食べてもらえた」


 お母さんは、よかったね、と言った。

 それ以上からかわなかったので、私も顔を上げて続きを話せた。


 話しているうちに、さっき勝也の家の前で感じた寂しさが、少し薄れた。

 話し終えたわけではなかった。

 次のことを思い出すと、また話したくなった。


 お父さんが帰ってきた時、私はしおりを持ってリビングにいた。


「ただいま。優子、おかえり」


 私は顔を上げた。


「お父さん、おかえり」


 お父さんは上着を預け、私のそばへ来た。

 しおりを見てから、私を見た。


「どうだった?」


 お母さんにも聞かれたことだった。

 でも、もう一度、同じように頷けた。


「楽しかった。本当に、楽しかったよ」


 お父さんが笑った。

 私の向かいへ座り、じゃあ聞かせて、と言った。


「お母さんから、少し聞いたけど」

「何、聞いたの?」

「お弁当が人気だったって」


 私は、お母さんを見た。

 お母さんが笑っていた。


「優子が嬉しそうだったから、先にそれだけ」


 お父さんが、ほかは、と聞いた。

 私はしおりを開いた。


「最初の日は、みんなで地図を見て歩いたの。先生のところへ行って、スタンプをもらって」


 道を確かめた時のことを話した。

 翔太くんが先へ行こうとして、加藤さんに呼び戻されていたこと。

 勝也と一緒に地図を見たこと。

 みんなが、富田さんではなくて、優子と呼んでくれるようになったこと。


「名前で?」


 お父さんが聞いた。


「うん。呼んでいいって、聞いてくれて」

「そうか」


 お父さんは、私が指で押さえているしおりへ一度目を落とした。

 それから、よかったね、と言った。


 私は頷いた。


 初めて呼ばれた時は、自分のことだと分かるのに、少し時間がかかった。

 けれど、帰りのバスでは、呼ばれたら自然に顔を向けられた。

 加藤さんの声でも、翔太くんの声でも。


「あとね。カレー作った時、私も、野菜の皮を剥いたよ」


 お母さんがこちらを見た。


「みんなと一緒に?」

「うん。加藤さんと、井上さんと。分からないところは教えてもらって、私も、できる分をやった」


 しおりの飯盒炊爨のところを指した。

 もう終わった予定なのに、その文字を見ると、外で聞こえていた声を思い出した。


「勝也は火の方で、お米も見てて。私、時々そっち見たけど、ここにいるよって、分かったから」


 お母さんが頷いた。

 私は続けた。


「加藤さんが、これもお願いって、次のをくれたの。井上さんも、できたのを見てくれて。今日も、助かったって言ってくれた」


 声が、少し弾んだ。

 自分でも分かった。


「私の分も、ちゃんと役に立ったんだって」


 お父さんが笑った。


「優子が剥いたじゃがいもも、みんなで食べたんだね」

「うん」


 頷いてから、もう一度、うん、と言った。


「おいしかった」


 お母さんはお茶を置き、私の隣へ座った。


「今度、家でも一緒に作ろうか」

「作りたい」


 すぐに答えた。

 今度は、もう少し上手にできるかもしれなかった。


「勝也くんにも食べてもらう?」


 お母さんに聞かれ、少しだけ下を向いた。


「……うん」


 お父さんは、いいね、と言った。

 その普通の返事が嬉しくて、また顔を上げた。


 夕食の間も、話は続いた。

 湖では翔太くんと春樹くんが水へ落ちてしまったこと。

 初めは心配したけれど、二人が戻ってきて、また言い合いを始めたこと。

 私がタオルを渡すと、お礼を言ってくれたこと。


「釣りの時にも、池へ落ちたことがあるんだって。あの時は、勝也も一緒に」


 話すと、お父さんが箸を止めた。


「勝也くんも?」

「うん。それは小学校の時の話で、バスで教えてくれたの。大きな魚が掛かって……」


 どこから説明すればいいか考えた。

 翔太くんを勝也が支えようとして、翔太くんが春樹くんのリュックをつかんで。

 順番に話していたら、お父さんが、三人ともか、と笑った。


「うん。みんな、落ちたんだって」


 私も笑った。

 お母さんが、大変だったでしょうね、と言うと、笑いながら帰ったって、と答えた。


「勝也、昔のこと、いっぱい話してくれたよ。春樹くんたちも」


 お父さんが頷いた。


「優子の知っている勝也くんの話もした?」

「うん。小さい頃、一緒に遊んでたこと」


 転校する前の勝也は、私が知っていた。

 転校したあとの勝也は、みんなが知っていた。

 最初は知らない話が続いていたのに、聞いているうちに、私も質問したくなった。


 怖いものを見て、勝也が強がっていたことも、初めて知った。

 肝試しで聞いた勝也の声を思い出すと、また笑いそうになった。


「勝也、怖いの、平気だと思ってた」


 私が言うと、お母さんが少し笑った。


「優子の前で、頑張っていたのかもしれないわね」


 私は考えた。

 肝試しの前、勝也は平気だと言っていた。

 でも、暗い道で驚いた時の声は、全然平気そうではなかった。


 それでも、手は離さなかった。

 自分も怖かったはずなのに、私が隣にいるか、何度も見てくれた。


「……うん。そうかもしれない」


 お母さんが、私の顔を見た。

 私は箸を取り直し、温かいおかずを口へ運んだ。


 昨夜の、正体が分からない人の話も、少しだけした。

 私と勝也は見ていないこと。

 見た人と見ていない人がいて、先生たちが人数を確かめ、外へ確認に行ったこと。


 お父さんは、そこだけは笑わずに聞いた。

 今も分からないと伝えると、そうか、と頷いた。


「先生たちが調べてくれているんだね」

「うん。今日も、そう言ってた」


 私が答えると、お父さんは、それなら任せておこう、と言った。

 お母さんも、話してくれてありがとう、と言った。


 私は頷いた。

 この家の窓の向こうを、昨日みたいに気にすることはなかった。

 お父さんとお母さんが、目の前で話を聞いてくれていた。


     * * *


 食べ終わっても、もう少し話していたかった。

 お母さんがお茶を用意してくれて、私はしおりをまた開いた。


「夜は、トランプしたんだよ」


 勝也が負けてしまったことを話した。

 スピードでは、とても速かったことも話した。

 翔太くんが寝たあとのいびきが大きくて、みんなで布団を運んだ話をすると、お父さんもお母さんも笑った。


「起きなかったの?」

「うん。一回も」


 自分で言って、また笑った。

 あの時の真弓の顔まで思い出せた。


「加藤さん、最初は本当にびっくりしてた。でも、私が寒くないかも聞いてくれて」


 お母さんが頷いた。


「優しいわね」

「うん。井上さんも。二人とも、いろいろ教えてくれた」


 話していて、ふと思った。

 帰りのバスで、またトランプをしようと言った。

 学校でも会えるけれど、授業の間だけでは、あまり長く遊べない。


 この家には、机もある。

 みんなで座れるところもある。


 私はしおりの角を、指で押さえた。


「……お母さん」

「何?」


 お父さんも、こちらを見た。

 私は二人を順番に見た。


「今度、みんなを、うちに呼んでもいい?」


 言ってから、少しだけ息を止めた。


「勝也だけじゃなくて……春樹くんとか、翔太くんとか。井上さんも、加藤さんも」


 お母さんは、すぐに頷いた。


「もちろん。いつでも連れてきていいよ」


 お父さんも、いいね、と言った。


「みんなでおいで。決まったら教えてくれればいいから」


 私は顔を上げたまま、二人を見た。


「本当に?」

「本当に」


 お母さんが笑った。


「みんなが来てくれたら嬉しいわ。いつも優子を助けてくれているお礼も、直接言いたいし」

「……うん」


 返事をすると、口元が緩んだ。

 まだ、誰にも聞いていなかった。

 いつにするかも、何をするかも、決めていなかった。


 それでも、お母さんがいいと言ってくれたので、今度みんなに会ったら聞いてみたくなった。


「トランプ、持ってきてくれるかな」

「優子からお願いしてみたら?」


 お父さんが言った。

 私は頷いた。


「うん。聞いてみる」


 その言葉を口にすると、本当に来てもらえるかもしれないと思った。

 玄関で翔太くんが大きな声で挨拶をして、加藤さんがまた声を注意するところまで、少し想像できた。


 勝也も、きっと笑う。


 私はしおりを閉じた。

 お母さんが、そろそろ眠くなった、と聞いた。


「少しだけ」

「今日は早めに休もうね。続きは、明日でも聞けるから」


 私は頷いた。

 全部話したつもりでも、まだ思い出すことがあった。

 それを明日も話していいのだと思うと、無理に続きを探さなくてよかった。


「楽しかった話、いっぱいあったね」


 お父さんが言った。


「うん」


 私はしおりを胸の前へ持った。

 みんなで笑ったことも、自分にできることがあったのも嬉しかった。

 家へ来てほしいと、勝也以外の友達の顔を思い浮かべたことも。


 けれど、それを話している間、何度も勝也の顔を思い出していた。


 朝、目を開けた時にもいた。

 ご飯を食べる時にも、外を歩く時にもいた。

 みんなが話している方を見たあと、横へ向けば、いつもそこにいた。


 夜になっても、帰ってしまわなかった。

 おやすみと言って目を閉じたあと、朝になったら、またおはようが言えた。


「……勝也と、ずっと一緒だった」


 小さな声になった。

 お母さんが、うん、と頷いた。


「それも、嬉しかった?」


 私はしおりへ目を落とした。

 少し迷ってから、頷いた。


「……それが、いちばん」


 言ってから、顔が熱くなった。

 でも、お母さんもお父さんも笑ってからかったりしなかった。


「そっか」


 お母さんが言った。

 お父さんは、行けてよかったね、と静かに言った。


 私は顔を上げた。


「うん。行ってよかった」


 その返事は、迷わずにできた。


     * * *


 部屋へ戻り、しおりを机の上へ置いた。

 ベッドに入ると、自分の枕はいつもの高さだった。

 布団も柔らかくて、寒くはなかった。


 それでも、隣へ手を伸ばしかけた。

 そこには、もう一人分の温かさはなかった。


 少しだけ寂しくなり、枕へ頬を寄せた。

 勝也は今、何をしているだろう。

 もう荷物を片付けて、自分の部屋にいるのかもしれなかった。


 また遊ぼう、と言ってくれた。

 私も、またね、と言えた。


 今度は、みんなにも聞いてみよう。

 お母さんが、いつでも連れてきていいと言っていたこと。

 また一緒に、トランプをしたいこと。


 その時も、勝也の隣に座りたい。


 掛け布団を肩まで引き上げた。

 目を閉じると、バスの中で聞いた笑い声を思い出した。


 私の名前を呼ぶ声も、いくつもあった。


今回の登場人物


・鵜飼 勝也

林間学校三日目の朝、最初に目を覚まし、優子や友達と帰り支度を始める。帰りのバスでは優子と肩を寄せて眠る。


・富田 優子

友達との共同作業や会話を、楽しい思い出として家族へ話す。今度は自分の家でもみんなと遊びたいと思い、両親へ相談する。


・鶴見 春樹

窓際で翔太と一夜を過ごし、朝はなかなか起きない翔太へ声をかける。散々だった出来事も振り返りながら、班のみんなと帰り支度をする。


・鳥居 翔太

最後までにぎやかな班長。朝ご飯の時間と聞いて目を覚ます。食事やトランプなど、楽しかったことを帰りのバスでも話す。


・加藤 真弓

帰り支度を取り仕切り、優子が手伝ってくれたことにも自然に感謝する。また一緒に遊ぶ約束を交わす。


・井上 綾香

寒い夜は掛け布団を重ね、暖かく眠る。朝は友達と起き出し、帰り支度では優子と一緒にシーツを畳む。


・富田 美和、富田 泰臣

優子の両親。林間学校の話を嬉しそうに聞き、友達を家へ招きたいという優子の願いを受け入れる。


・花沢先生

三日間を終えた優子に、楽しめたかを尋ねる。帰校まで生徒たちを見守る。

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