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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
5/52

第5話 雨の日


    * * 勝也視点 * *


 木曜日の午後、茶道部の窓から見える校庭には、大きな水たまりができていた。


 雨は、朝から降っていた。

 昼休みには少し弱くなったので、そのままやんでくれるかと思った。でも、部活が終わる時刻が近づくと、また窓を叩く音が強くなった。


「鵜飼君、そっちの戸、閉まってる?」

「はい。閉まってます」


 窓の留め具を確かめてから、部長へ返事をした。

 先輩たちは道具をしまっていた。俺も棚へ戻す物を受け取り、空いている場所へ運ぶ。

 入ったばかりの頃は、どこへ置くにも聞いていた。今は、自分で戻せる物が少しずつ増えている。


「それ、もう場所分かったんだ」

「この前も片づけたので」

「じゃあ、お願いね」


 頼まれると、少し嬉しかった。

 お茶を飲んで、お菓子を食べて、分からない宿題まで教えてもらっている。運べる物くらいは、自分で運びたかった。


 机へ戻ると、問題集の開いていたページに、小さな紙が挟まれていた。

 さっき先輩に聞いた英語のところだった。


「ここ、家でもう1回やってみて。答えを見ないでね」

「はい。ありがとうございます」

「お菓子の方は、もう見なくても場所覚えたもんね」


 別の先輩が言った。

 顔を上げると、部長も笑っていた。


「そっちも毎回同じ場所なので」

「じゃあ、英語も毎回やれば覚えられるよ」

「……そういうことになりますね」


 言い返せなかった。

 俺は問題集を閉じ、小さな紙ごとファイルへ入れた。


 片づけが終わってから、リュックサックを背負った。

 先輩たちへ挨拶をして廊下へ出ると、開いた美術室の戸から春樹が見えた。


「春樹、帰る?」

「まだ。ここだけ終わらせてから」


 手元を示され、戸口から覗いた。

 机の上には、まだ使っている道具が並んでいる。奥では真弓も、同じ部の女子と話していた。


「分かった。先に帰るね」

「うん。外、すごい雨だけど」

「部屋の中でも分かるくらい降ってるもんね」

「勝也、朝みたいに水たまり踏まないでね」

「あれ、そんなに見てた?」

「隣にいたから」


 朝は、いつもの公園から学校へ向かう途中で、靴の先を水たまりへ入れてしまった。

 翔太の話を聞いていて、下を見ていなかった。

 何でそこを踏むんだよ、と笑った翔太も、そのあと同じところを踏んだので、あまり強くは言えなくなっていた。


「今日は、下も見て帰る」

「そうして」


 春樹へ手を上げ、階段へ向かった。

 体育館の方からは、まだボールの音がしている。翔太も終わっていないらしかった。

 今日は、1人で帰るつもりだった。


     * * *


 昇降口の出口に、優子がいた。


 傘を持って、屋根の外を見ている。

 朝持っていた物と同じ傘だった。晴れた日に差している白い日傘とは違う。

 外へ出かけて、雨の強さを見て戻ったところのようだった。

 昇降口には、ほかにも帰り支度をしている生徒がいた。


「富田」


 呼ぶと、優子が振り返った。


「勝也くん……部活、終わったの?」

「うん。今、終わったところ。富田も?」

「さっき。出ようとしたら、強くなっちゃって」


 話している間にも、雨の音が大きくなった。

 出口の前へ流れてきた水が、低い方へ細く筋を作っている。


「もう少し待つ?」

「うん。急いでないから」

「じゃあ、俺も待とうかな。ちょっと靴、履き替えてくるね」


 自分の靴箱へ向かい、上履きをしまった。

 朝濡れた靴は、触るとまだ少し冷たかった。足を入れてみると、履けないほどではない。

 それでも、また水たまりへ入れるのは嫌だった。


 戻ると、優子が通り道を空けるように、壁際へ寄っていた。

 俺もそちらへ並ぶ。


「今日は、ずっとこれかな」

「天気予報では、夜には弱くなるって言ってたよ」

「夜までここにいたら、学校閉まっちゃうね」

「そこまで待つつもりだったの?」

「今、ちょっと考えた」


 優子が笑った。

 俺も、そんなに待っていたら夕飯の方が気になってくるだろうと思って、少し笑った。


「勝也くん、今日もお菓子食べた?」

「食べたよ。何で分かったの?」

「部活の日は、大体その話してるから」

「ちゃんと片づけもしてるよ。今日は道具、聞かなくても戻せたし」

「うん。分かってるよ」


 優子は、こちらを見たまま頷いた。

 からかっているのだと思っていたので、普通にそう返されると、少し照れくさくなった。


「富田は? クラリネット、どうだった?」

「今日は、昨日より少し長く音が出たの」

「へえ。息を長くする練習?」

「うん。同じ音を伸ばすんだけど、途中で揺れちゃって。でも、今日は――」


 入口で、傘を開こうとした生徒が声を上げた。

 隣の人の傘と引っかかったらしい。ごめん、と言い合い、笑いながら少し離れる。

 優子はそちらへ目を向け、そのまま続きを言わなくなった。


 俺たちの前を、何人かが通った。

 話すのを待っているうちに、優子は傘の持ち手を両手で握り直した。


「……今日は、少しできたから」

「うん。そうなんだ」


 もっと話が続きそうだった気がした。

 でも、人が通るたびに声を止めることになる。ここで聞き直したら、同じ説明を何度もさせてしまいそうだった。


 教室でも、こんなふうに話が終わる時があった。

 俺と話したくないのかと思ったこともある。でも、今日は優子の方から、部活の話を聞いてくれた。

 少なくとも、最初から話したくなかったわけではないと思った。


「富田の家の方に、屋根のあるベンチがある公園、あったよね」

「うん。学校から少し行ったところ?」

「そう。あそこまで行って、少し待たない? 今なら、歩けそうだし」


 雨は降っていたけれど、出口の向こうはさっきより見やすくなっていた。

 傘を差して出ていく人も増えた。


「勝也くんは、反対じゃない?」

「少し戻ればいいから。それに、さっきの話、もう少し聞きたいんだ」


 優子が顔を上げた。


「楽器の話?」

「うん。今日はうまくできたって言ってたでしょ」


 優子は、すぐに外を見なかった。

 俺の顔を見てから、小さく頷いた。


「私も、もう少し話したい」

「じゃあ、行こうか」


 入口の前で、傘を開いた。

 優子が隣へ来るのを待ち、2人で雨の中へ出た。


 部活でうまくできたことを聞くだけだった。

 それなのに、一緒に行くと言ってもらえると、帰るだけだったはずの時間が、少し楽しみになった。


     * * *


 公園へ向かう道では、傘の端が何度か触れた。


 少し離れたつもりでも、話を聞こうとすると、また近くなっていた。

 俺が半歩後ろへ下がると、優子も歩く速さを緩める。


「俺、少し後ろ歩くね。傘、ぶつかっちゃうから」

「あ、ごめん」

「大丈夫。俺も、すぐ近づいちゃうし」


 並び直すと、傘の端が離れた。

 優子は時々こちらを振り返りながら、続きを話してくれた。


「先輩に、今のところよかったねって言われたの」

「そうなんだ。嬉しいね」

「うん。でも、次にやったら、また途中で音が変になっちゃって」

「1回できたら、ずっとできるってわけじゃないんだ」

「そうなの。さっきはできたのにって思うと、余計に力が入っちゃう」


 優子が傘の持ち手から片手を離し、胸の前で少し指を動かした。

 楽器を持つ時のことを思い出しているのかもしれない。


「でも、今日は1回できたから。明日も、やってみようと思ってる」

「うん。またできたら、聞きたいな」


 優子が、俺を見て笑った。


「できなかった時は?」

「その時も聞くよ。俺だって、できなかった話ばっかりしてるし」

「柱があった話?」

「あれは、俺のせいだけじゃないと思うんだけど」


 火曜日の掃除のことだった。

 翔太は、そのあとも俺を最下位だと言っていた。柱のある端を拭いていたのだから、少しくらい考えてほしかった。


「鳥居君、帰りも速かったね」

「元気余ってたんじゃないかな。次は、翔太に端をやってもらう」

「また勝負するの?」

「……今、春樹と同じこと言ったね」


 優子が笑った。

 横を向いた拍子に、足元の水たまりが目に入り、俺は靴を置く場所を変えた。

 今度は踏まずに済んだ。


 公園へ着く頃、また雨が強くなった。

 いつもの朝に5人で集まる公園とは違う、小さな公園だった。

 入口から少し奥に、屋根とベンチがある。優子が指したので、俺もそちらへ向かった。


「ここなら、大丈夫そう」


 屋根の下へ入ってから、座るところへ手を当てた。

 端は少し濡れていたけれど、真ん中の方は乾いている。

 優子がリュックサックを膝へ載せて座ったので、俺も間を空けて隣へ座った。

 立ったまま話すより、顔を見て話しやすかった。


 優子は携帯を取り出し、家へ電話をかけた。

 部活は終わったこと、友達と屋根のあるところで雨宿りしていることを、短く伝えている。

 俺は雨の方を見て、通話が終わるのを待った。


 優子は何度か頷いてから、携帯を閉じた。


「お母さん、大丈夫だって。遅くならないようにって言われたけど」

「じゃあ、少しだけにしようか。雨が弱くなったら帰ろう」

「うん」


 優子は携帯をしまった。

 リュックサックも、足元の濡れていないところへ下ろす。

 さっきまで膝の上で荷物を押さえていた手が、空いた。


「この前の掃除、あとから何か言われなかった?」


 階段の話をしたので、気になっていたことを聞いた。

 教室で説明したあと、俺は自分の席へ戻った。そのあとのことまでは知らなかった。


「うん。あのあとは、大丈夫だったよ」

「そっか。よかった」

「勝也くんが言ってくれたから」

「俺がお願いしたんだから。気にしないでね」


 優子は、ありがとう、と言った。

 返事を聞いて、俺も少し安心した。


 勝手に手伝ってもらって、優子だけが怒られるのは嫌だった。

 掃除をしていなかったわけではない。壁際の埃を集めてくれて、俺も助かった。

 そこが伝わったなら、それでよかったと思っていた。


 優子が、足元のリュックサックへ目を落とした。

 ファスナーのつまみに指をかけてから、何も出さずに手を戻した。


「何か忘れた?」

「ううん。ちゃんと閉じたかなって」


 俺も自分のリュックサックを見た。

 問題集と、先輩にもらった紙は入れた。帰りに慌てて入れたけれど、ファスナーも閉じている。


「俺、たまに開けたまま背負って、翔太に言われるよ」

「この前も言われてたね」

「あれ、見てた?」

「うん。開いてるぞって、教室の反対側から聞こえたから」

「あいつ、もう少し近くで教えてくれてもいいのに」


 優子が、口元へ手を当てた。

 笑うと、さっきまで少し固かった肩が下がったように見えた。


     * * *


 雨の中では、隣で話す優子の声がよく聞こえた。


 教室より静かなわけではなかった。屋根にはずっと雨が当たり、近くの道を車が通ると、水を跳ねる音がした。

 それでも、次の授業や、誰かに呼ばれることを気にせずに話せた。


「こうして、ゆっくり話すの、久しぶりだね」


 俺が言うと、優子は頷いた。


「うん。学校だと、途中で時間になっちゃうから」

「聞きたいこと、あったのにね。会ってなかった時のこととか」

「私も……聞きたかった」


 再会してから、話していなかったわけではない。

 ゲームや宿題の話もした。でも、続きを話そうと思ったところで、授業が始まったり、別々の場所へ行く時刻になったりしていた。

 目の前にいることに慣れてきたのに、離れていた間のことは、まだほとんど知らなかった。


「転校した学校……最初はどうだった?」


 優子が聞いた。


「最初は、ちょっと困ったかな。知ってる人、いなかったから」

「勝也くんでも?」

「俺でも。誰に話しかけたらいいか、分かんなかったよ」


 優子は少し意外そうだった。

 今、翔太たちと騒いでいるところばかり見ていたら、そう思うのかもしれない。


「でも、慣れてからは、よく翔太や春樹と遊んでた。学校のあとも、休みの日も」

「ゲーム?」

「うん。それで、そろそろ帰ろうって言ってから、もう1回ってなるんだよね」

「昔も、言ってたね」

「富田も、もう1回やってくれたでしょ」

「勝也くんが、やりたそうだったから」


 そう言われると、何も言い返せなかった。

 優子は少し笑って、膝の上で手を重ねた。


「向こうでも、楽しかったんだね」

「うん。でも、引っ越したばっかりの時は、変な感じだったよ。何しようかなって考えて、富田の家に行こうとしてから、もう隣じゃないんだったって」


 優子がこちらを見た。


「そんなこと、あったの?」

「あったよ。ずっと近くにいたから」


 あの頃は、遊びたいと思えば会いに行けた。

 それができなくなったことを、引っ越したあとも、何度か忘れかけた。


「富田は、どうしてた?」

「私は……本を読む時間が、増えたかな。ゲームも、してたよ」

「そうなんだ。面白い本、増えた?」

「うん。好きな話、たくさんできた」

「じゃあ、また教えてほしいな。俺が読んだことあるのも、あるかもしれないし」


 優子は、うん、と答えた。

 すぐに本の名前を挙げるのかと思ったけれど、少し黙ってから、俺の顔を見た。


「あとね……眼鏡のことも、聞いてみたかったの」

「眼鏡?」


 フレームに指をかけると、優子が頷いた。


「いつから掛けてるのかなって。目、悪くなったの?」

「ううん。これ、伊達眼鏡だよ」

「え、そうなの?」


 優子の目が、少し大きくなった。

 こんなに驚かれると思っていなかったので、俺も眼鏡へ触れたまま止まった。


「外しても、見えるの?」

「見えるよ。度、入ってないから」

「じゃあ、どうして?」


 聞かれると、少し言いにくかった。

 今、改めて話すと、そんなことで、と思われそうだった。


「小学校の時、翔太と春樹が眼鏡を掛けててさ」

「うん」

「3人でいると、俺だけ掛けてなくて。何か、仲間外れみたいだなって思って、母さんにお願いして買ってもらったんだ」


 優子が、俺の眼鏡を見た。

 それから、ゆっくり顔へ目を戻した。


「眼鏡、掛けてないだけで?」

「……うん。今だと、俺もそう思うんだけど。その時は、俺も欲しかったんだよね」


 優子が口元を押さえた。

 肩が小さく揺れたので、俺も笑ってしまった。


「笑うと思った」

「ごめん。もっと、違う理由かと思ってたから」

「目が悪くなったとか?」

「うん。本やゲームの話、よくするから」

「そっちじゃなくて、仲間に入りたい方だった」

「もう、仲間だったでしょ?」


 そのとおりだった。

 眼鏡がなくても、一緒に遊んでいた。そんなことは、買ってもらう前から分かっていたはずだった。


「そうなんだけど。何か、同じがよかったんだと思う」


 優子は笑いを収めてから、自分の眼鏡の端へ触れた。


「私のも……伊達眼鏡なの」

「富田も?」

「うん。度は、入ってないよ」


 今度は、俺が驚く番だった。

 再会した時から掛けていたので、視力のためなのだと、勝手に思っていた。


「最初はね、前髪が邪魔で。眼鏡を掛けてると、少し押さえられるから」


 優子は、フレームの上にかかった髪をそっと直した。


「今は、この眼鏡も気に入ってるの。掛けてる方が、落ち着くから」

「そっか。似合ってるもんね」


 優子の手が止まった。

 俺の方を見てから、膝へ戻る。


「……ありがとう」


 声が少し小さくなった。

 言った俺まで照れくさくなり、屋根から落ちる雨を見た。


「勝也くんも……似合ってるよ」


 隣から言われて、顔を戻した。


「そう?」

「うん。その眼鏡、好き」


 優子はフレームの方を見ていた。

 眼鏡の話なのだと分かっていても、嬉しかった。


「じゃあ、これからも掛けとこうかな」

「私が言ったから?」

「それもあるよ。似合ってるって言ってもらえると、嬉しいし」


 優子が、少し顔を伏せた。

 俺も、触ってばかりいた眼鏡から手を離した。


 2人とも、昔は掛けていなかった。

 会わないうちに変わっていたところにも、聞いてみれば、こんな理由があった。

 ほかにも、知らないことがあるのだろう。

 昔の優子を覚えているだけでなく、今の優子のことも、もっと聞いてみたくなった。


「さっき言ってた本、今読んでるのも好きな話?」

「うん。図書室で借りたの。まだ途中だけど、面白いよ」


 優子は、どんな話なのか、少し教えてくれた。

 途中で言い直しても、今は続きを待てた。気になるところを尋ねると、そこを言ったら先が分かっちゃう、と笑われた。


「じゃあ、読んでみたいな。読み終わったら教えて」

「うん。返す時に言うね。勝也くんの感想も、聞きたい」

「食べ物の話ばっかりしてたら、ごめんね」

「どうして?」

「登場人物がおいしそうなの食べてると、そっちを覚えちゃうんだよ」

「お菓子食べてから読めば?」

「それでも、違う物が出てきたら、そっちが食べたくなる」


 優子が、また口元へ手を当てた。


「じゃあ、読む前に何食べたらいいの?」

「分からない。先に中を見たら、秘密のところまで読んじゃいそうだし」

「そんなところで困らなくてもいいのに」


 優子が声を出して笑った。

 俺も笑いながら、もう少し話していたいと思った。

 雨が弱くなったか確かめるのを、しばらく忘れていた。


    * * 優子視点 * *


 口元に当てていた手を、膝へ戻した。

 笑いすぎて、少し息が苦しかった。


 眼鏡を掛けるようになった理由まで、勝也くんらしかった。

 仲のいい人と同じにしたくて、買ってもらった眼鏡。その話を聞いたあとでは、黒いフレームを見るだけで、また笑いそうになった。


 それから、隣の家へ行こうとしてしまったという話も、嬉しかった。

 新しい友達ができても、私のことを思い出す時があった。

 会いたかったのが私だけではなかったと分かって、胸が温かくなった。


 離れていた間のことを、全部話せたわけではない。

 本を読んでいた日のことなら話せても、誰とも話せずに帰った日のことまでは、まだ言えなかった。

 でも、今は、もっと勝也くんの話を聞きたかった。私の好きになった本やゲームのことも、知ってもらいたかった。


 勝也くんは、私が読み終わったら、同じ本を借りたいと言ってくれた。

 何が面白かったかを、話してもいい。違うところを覚えていたら、そこを聞いてみたい。

 教室で途中までしか読めなかった本が、また楽しみになっていた。


 同じ本の話なのに、勝也くんには言葉が出てくる。

 聞かれる前に、これも話したいと思う。

 うまく説明できなくても、言い直す間、待っていてくれると分かっていた。


 雨が降っていなければ、そのまま別々に帰っていたかもしれない。

 そう考えると、やまない雨が少しだけ嬉しかった。


「あれ、鵜飼君?」


 公園の入口の方から、声がした。


 顔を上げると、傘を差した戸田さんと富永さんがいた。

 さっきまで笑っていた口を、閉じた。


「今、帰り?」


 勝也くんが聞いた。

 戸田さんは頷き、屋根の近くまで歩いてきた。


「うん。何してるの?」

「ちょっと雨宿り。ここまで来たら、また強くなっちゃって」


 勝也くんは普通に答えた。

 私も、頷けばよかった。

 でも、戸田さんの視線がこちらへ向くと、膝の上の手を動かせなくなった。


「富田さんもいたんだ」

「……うん」

「何の話してたの? すごく笑ってたけど」


 富永さんが聞いた。

 私は、勝也くんの方を見かけて、止めた。

 私に聞かれたのだから、自分で答えなければと思った。


「本の……話を、してて……」

「本?」

「と、お菓子の話」


 勝也くんが言った。

 富永さんは、ああ、と笑った。


「鵜飼君って、すぐ食べ物の話になるね」

「俺も、最初は本の話を聞いてたんだけどね」

「途中から、何食べようって話になったの」


 つい、言い足した。

 勝也くんがこちらを見て、うん、と笑った。


「富田に聞いても、決まらなかったけど」

「だって、読む前に何が出てくるか分からないから」

「そうなんだよね。だから、結局家にある物食べるんだと思う」


 少し笑いかけたところで、戸田さんと目が合った。


「富田さん、今みたいに話せるんだね」


 私の声が止まった。

 戸田さんは、笑ったままだった。


「私たちが話しかける時、そんな感じじゃないから」

「あ……その……」


 何と言えばいいのか分からなくなった。

 今、何を話していたのかは覚えている。

 でも、同じように話してと言われても、さっきの声には戻れなかった。


「俺が変なこと聞いたから、説明してくれたんだよ」


 勝也くんが言った。

 自分の言い方の方がおかしかったと思っているのだろうか。

 その声を聞いて、少しだけ息ができた。


「へえ。じゃあ、明日、私たちにも教えてよ。本の話」


 富永さんが言った。


「……うん」

「難しいのじゃなくて、分かりやすくね」


 頷いた。

 何をどう話すか、今から考えなければと思った。


 戸田さんは、濡れていないベンチの方へ目を向けたけれど、座らなかった。

 富永さんへ、行こう、と声をかける。


「じゃあね。あんまり遅くならないようにね」

「うん。気をつけてね」


 勝也くんが答えた。

 私も、小さく頭を下げた。


 2人の傘が、公園の入口へ戻っていく。

 富永さんが戸田さんへ顔を寄せ、何か言った。

 雨の音で、言葉までは聞こえなかった。


 それでも、私のことを言っているのではないかと思った。

 勝也くんにだけ普通に話す、と、また言われているのかもしれない。


 私は膝の上で指を重ねた。

 さっきまで笑っていたことが、悪いことだったように思えてきた。


「富田、時間大丈夫?」


 勝也くんに聞かれ、顔を上げた。


「うん。まだ、そんなにたってないから」

「そっか。急に静かになったから、気にしてるのかと思って」


 違うよと、言いかけた。

 でも、何が気になっているのかを説明しようとすると、戸田さんたちの話をしなければいけなかった。


 今度、本の話を聞かせてと言われただけだった。

 怒られたわけではない。

 掃除の時のように、間違ったことを言われたわけでもなかった。


 それなのに怖かった、と言っても、勝也くんを困らせるだけかもしれない。


「明日……うまく話せるかなって思って」

「本の話?」

「うん。さっきも、聞かれたのに、止まっちゃったから」


 勝也くんは、足元のリュックサックを見た。


「本、見せながらだったら、話しやすいかもしれないね。裏に説明、あるでしょ」

「……うん。あらすじがある」

「それ見てもらってからなら、最初から全部説明しなくてもいいと思うよ」


 私は、リュックサックを見下ろした。

 確かに、裏表紙には短い紹介が書いてあった。

 それを見せれば、どんな話なのか、少しは伝わるかもしれない。


「そうしてみる」

「うん。さっき、俺には分かったから。そんなに心配しなくてもいいと思うよ」


 私がうまく話せる方法を、考えてくれていた。

 どうしてそんなこともできないの、と言われなかった。

 それが嬉しくて、頷いた。


 でも、勝也くんに話す時と同じようにできるかは、分からなかった。

 聞いてくれる顔を見ながら話すのと、次に何を言われるか考えながら話すのは、違った。


 足元のリュックサックを、少しだけ自分の方へ寄せた。

 さっきまで気にならなかったファスナーが、また目に入った。

 本が入っていることは、分かっている。

 それでも、手を伸ばして、きちんと閉まっているか確かめた。


    * * 勝也視点 * *


 優子が携帯で時刻を確かめた頃、雨は細くなっていた。


 屋根からはまだ大きな滴が落ちていたけれど、公園の向こうの道が、さっきよりはっきり見えた。

 俺は膝へ手をつき、立ち上がった。


「そろそろ、帰ろうか」

「うん」


 優子もリュックサックを背負った。

 傘を取る前にベンチを振り返り、忘れ物がないか確かめている。

 俺も座っていたところを見た。


 戸田たちが来てから、優子は少し静かになった。

 初めから知らない相手ではない。同じ教室で、毎日顔を合わせている。

 それでも、大勢で話す時には緊張するのだろうか。


 さっきまであんなに笑っていたので、その違いが気になった。

 俺には話してくれる。それが嬉しくて、ほかの人と話している時のことを、あまり考えていなかった。


「明日、本の説明、途中で分からなくなったら、俺にも聞いてね」


 言ってから、俺はまだ読んでいないのだと気づいた。


「……って言っても、さっき聞いたところまでしか分からないけど」


 優子がこちらを見た。

 少し間を置いて、笑った。


「先のことを聞かれたら?」

「そこは富田に聞く」

「私が困ってたら、どうするの?」

「じゃあ、今から2人で読むしかないね」

「帰るんじゃなかったの?」


 そのとおりだった。

 俺が頷くと、優子は笑ったまま傘を取った。


「ありがとう。明日、見せてみる」

「うん」


 それ以上、何か言う必要はないと思った。

 優子も少し安心してくれたように見えたし、今ここで考えても、明日の会話を全部決めることはできなかった。


 傘を開き、公園の入口へ歩いた。

 俺は学校の方へ戻り、優子は家の方へ進む。

 別れるところで足を止めると、優子もこちらを向いた。


「今日、誘ってくれてありがとう」

「ううん。俺も、話したかったから」

「楽しかった」


 雨の音がしていても、はっきり聞こえた。

 優子は傘の持ち手を握ったまま、俺を見ていた。


「俺も楽しかったよ。また話そうね」

「うん。また明日」

「また明日。気をつけてね」


 優子が歩き出した。

 俺も学校の方へ向き直る。


 来る時より、靴の先が少し濡れていた。

 遠回りをした分、家へ着くのも遅くなる。

 でも、寄らなければよかったとは思わなかった。


 楽しかった、と言ってくれた声を思い出していた。

 教室でも、もう少しあんなふうに話せたらいい。

 今度は、俺も本を読み終わってから、続きを聞きたかった。

 会っていなかった間のことも、まだまだ聞きたいことがあった。


 道の端の水たまりをよけて、家へ向かった。


    * * 宣仁視点 * *


 翌日の金曜日、雨はやんでいた。


 教室の窓から見える校庭には、まだ水が残っている。

 昼には外へ出られるやろか、と近くの男子に聞かれ、自分は窓へ寄った。


「あそこ、池みたいになっとるやん」

「あっちの端なら平気じゃない?」

「ボールがあそこ入ったら、誰が取りに行くん」

「荒川」

「何で今、決まったん?」


 男子が笑った。

 自分も笑いながら、リュックサックを机の横へかけた。


 少し離れたところでは、勝也が翔太に赤ペンを貸していた。

 春樹が、帰る前に返してあげなよ、と言っている。


「忘れないって」

「翔太、その赤ペンは何でないの?」

「家に忘れたから」

「今、忘れないって言ったよね」


 勝也に言われ、翔太は少し黙った。

 春樹が笑うので、自分も笑ってしまった。


 あの3人とは、教室で時々話す。

 同じ小学校から来た仲間のようには、まだ互いのことを知らない。それでも、隣で笑っていたら、何で笑ってるんだよ、と自分にも話を振ってくれる。


 机から問題集を出していると、後ろの方で優子の声がした。


「あの……富永さん。英語、ここまで、だった……?」


 開いた問題集を、莉奈の方へ少し向けている。

 莉奈は美咲と話していた。


「それで、昨日の続きなんだけどさ」

「うん。どうなったの?」


 優子は、その横で待っていた。

 話が終わるところを待っているのだと思った。自分も、誰かが喋っている途中には入りにくい。


 やがて優子が、もう少し近くへ問題集を寄せた。


「あ、あの……宿題の、範囲……」

「莉奈、英語ってここまでだよね?」


 別の女子が、反対側から同じ問題集を見せた。


「そう。そこまで」

「よかった。次もやるのかと思った」

「そこは今日じゃない?」


 莉奈は、すぐに答えた。

 優子も返事を聞いていたはずだった。持っている問題集へ目を落とし、小さく頷いた。

 けれど、莉奈は優子を見なかった。


「富田。そこまでで合っとるで」


 自分が言うと、優子は顔を上げた。


「……うん」

「自分も今、出したとこやねん。昨日、黒板に書いてあったやつやろ?」


 同じところを開いて見せた。

 優子は自分の問題集と見比べ、それから、もう1度頷いた。


「……ありがとう」

「うん」


 優子は席へ戻った。

 莉奈に、自分も聞いたんだけど、と言うことはなかった。


 最初は、聞こえへんかっただけかもしれない。

 でも、優子は2回聞いていた。

 あとから来た女子にはすぐ答えたのに、優子には、もう分かったかと確かめることもなかった。


 問題集を机に置いた。

 たまたま返事をし損ねたのだろうか。

 それだけではない気がして、優子が座った方を、もう1度見た。


     * * *


 昼休みになっても、校庭へ出るのはやめておこうという話になった。


 窓から見えない方にも、水が残っていたらしい。

 剣道部の男子と、放課後の練習について話していた。昨日より腕が重いと言ったら、そいつも肩を回している。


「寝たら治ると思ってたのに」

「自分も。朝、リュック持つだけで分かったわ」

「今日もあるんだよな」

「あるなあ」


 2人で同じように息を吐いた。

 そいつの向こうに、教室へ戻ってきた優子が見えた。


 自分の席の前で、立ち止まっている。

 机の下へ目を向け、それから隣を見た。


 椅子がなかった。


 少し離れたところに、美咲たちが集まっていた。

 空いている椅子へ雑誌を載せ、顔を寄せ合っている。優子はそちらへ近づいた。


「あの……それ、私の……椅子……」

「借りた。ちょっと待って」


 莉奈が言った。

 優子は足を止めたまま、雑誌を見た。


「……座りたい、んだけど……」

「だから、ちょっとだって」


 美咲が答え、雑誌のページをめくった。

 優子はそれ以上言わず、自分の机へ戻った。本を出したけれど、開かないまま持っている。


 自分は、話していた男子へ断ってから、美咲たちの方へ行った。


「その椅子、富田に戻したって。もう帰ってきとるやん」

「今、見てるから」

「雑誌やったら、机に置けるやろ」


 すぐ横に机があった。

 教科書が載っていたけれど、端へ寄せれば、雑誌くらい置ける。


 莉奈がこちらを見た。


「別に、取ったわけじゃないんだけど」

「うん。せやから、返したって言うてるだけやで」

「……そんなに言わなくても」


 美咲が雑誌を持ち上げた。

 ようやく空いた椅子を、自分は持ち上げた。


 優子が近づこうとしたので、そのまま机へ運んだ。


「ここでええな」

「……うん。ごめ……」

「謝らんでええよ。ちょっと運んだだけやし」


 優子の手が、本の端を握った。

 何か言いかけたあとで、目を落とす。


「……ありがとう」

「うん」


 少し離れると、優子は椅子に座った。

 莉奈たちは、横の机に雑誌を広げ直している。

 それで普通に読めるのなら、最初からそうすればよかった。


 戻ってきたことに気づかなかったのではない。

 優子は、座りたいと言った。

 聞こえる距離まで来て、自分の椅子を返してほしいと頼んでいた。


 朝、返事をもらえずに立っていた姿を思い出した。

 自分が声をかけなかったら、今度はいつまで立っていたのだろう。


     * * *


 席へ戻る途中で、莉奈が優子を呼んだ。


「富田さん。それ、昨日の本?」


 優子が顔を上げた。

 自分も足を緩めた。


「……うん」

「どんな話? 昨日、聞けなかったじゃん」


 優子は本を閉じた。

 裏へ返し、莉奈の方へ向ける。


「こ、ここに……少し、書いて……あるから……」

「読まないと分かんないの?」


 莉奈は受け取らなかった。


「富田さんが説明してよ」

「……あの……最初に、出てくる子が……」


 優子は表紙へ目を落とした。

 続きを探すように、指が本の角へ触れた。


「知らない……人に、会って……それで……」

「誰が?」

「……主人公、の……」

「何か、よく分かんない」


 美咲が笑った。

 莉奈も、口元を押さえた。


「昨日は鵜飼君と、楽しそうに喋ってたのにね」


 優子が、急に本を引いた。

 胸の前へ戻すように抱え、口を閉じる。


 昨日、何があったのかは知らない。

 でも、今の言い方が、本の続きを知りたい人の声には聞こえなかった。


「聞いたんやったら、最後まで聞いたらええやん」


 自分が言うと、莉奈が振り返った。


「聞いてるよ。分かんないって言っただけ」

「途中で笑われたら、説明しにくいやろ」

「笑っちゃ駄目なの?」

「そういう話やないって」


 美咲が、もういいよ、と言った。

 優子へ向き直り、軽く首を傾げる。


「難しい本なんでしょ。じゃあ、いい」

「……ごめんなさい」


 優子が言った。


 何で、優子が謝るのだろう。

 聞かれたから本を見せて、説明しようとしただけだった。

 うまく言えないなら待てばいい。自分にでもできることだった。


 美咲たちは、雑誌の方へ戻っていった。

 優子は本を膝へ下ろした。


「富田。謝らんでもええと思うで」


 声をかけると、優子は少しだけ顔を上げた。


「……うん」

「説明の途中やったやん。ちゃんと聞いてへんかったし」


 優子の視線が、美咲たちへ動いた。

 自分もそちらを見た。向こうはもう、こちらへ顔を向けていなかった。


「……大丈夫、だから……」


 優子はそう言って、本を机の中へ入れた。

 読んでいたところへ戻るのだと思っていたので、手が止まるのを見てしまった。


 何かを続けて聞くのも、困らせる気がした。

 自分は、そっか、とだけ返して離れた。


 春樹が席から顔を上げた。


「荒川、何かあった?」

「……ちょっと、話してただけ」


 答えてから、違うと思った。

 ただ話していたのなら、優子だけが謝る必要はなかった。


 でも、ここで美咲たちのことを大きな声で話すのも違う。

 聞こえた優子が、また自分のせいだと思うかもしれなかった。


「あとで、先生に聞いてみるわ」


 そう言うと、春樹は少し不思議そうな顔をしたけれど、頷いた。


 そのあと、勝也と翔太が教室へ戻ってきた。

 2人とも、今のことは見ていなかった。

 勝也が優子へ何か話しかけ、優子が顔を上げた。自分のところからは、返事までは聞こえなかった。


 次の授業の用意をした。

 相談するなら、先生だと思った。

 自分が見たのは今日のことだけだ。それまでに何があったのかは、分からない。

 だから、普段の様子も見ている先生に聞いてほしかった。


     * * *


 帰りの会が終わってから、担任の先生を追いかけた。


 先生は出席簿を持って、職員室の方へ歩いていた。

 声をかけると、廊下の端へ寄ってくれた。


「荒川、どうした?」

「少し、話してもええですか」

「うん。何かあった?」


 普通に聞いてもらえそうだった。

 自分は、教室の方を確かめてから話し始めた。


「富田のことなんですけど。今日、話しかけても返事してもらえへんかったり、椅子、返してもらえへんかったりしてて」


 先生が足を止めた。


「椅子?」

「戸田さんらが、雑誌を置くのに使ってたんです。富田が戻ってきて、座りたいって言うても、そのままで」

「今もないの?」

「いえ。自分が言って、戻しました」

「そうか。それは、ありがとう」


 先生が頷いた。

 自分は、朝の問題集のことも話した。

 優子には返事がなく、あとから来た女子には答えていたこと。本を説明するように言われ、途中で笑われていたこと。


 話しているうちに、廊下を通る人が増えた。

 自分は少し声を落とした。


「富田、謝ってたんです。でも、悪いことしてへんと思うんです」

「うん。ただ、聞こえなかっただけということもあるからね」

「それは、あるかもしれんけど。椅子は、座りたいって言うてました」

「少し借りるつもりだったんじゃないかな。戻っているなら、まずはよかったよ」


 先生の声は柔らかかった。

 自分を叱っているわけではない。

 でも、話したかったところが、少しずつ外れていく気がした。


「戻ったんは、自分が言うたからです。富田が言うた時は、返してへんかったんです」

「それで、富田は何と言っていた?」


 聞かれ、少し考えた。


「……あとで声かけたら、大丈夫って。でも、本を読まんと、しまってしまって」

「そうか。本人が大丈夫と言っているなら、周りがあまり大きくしない方がいいこともあるよ」


 自分は先生を見た。


「大丈夫やから、ああなってたようには見えへんかったんです」

「心配してくれるのは分かる。けれど、それだけでいじめだと決めつけることはできないからね」


 まだ、いじめという言葉は使っていなかった。

 何があったのか、自分にも全部分かっていない。

 分からないから、先生に話していた。


「今すぐ、誰かを叱ってほしいってことやないです。富田に、何があったんか聞いてもらえませんか」


 先生は、出席簿を持ち直した。


「女子同士のことは、こちらから急に入っていくと、かえって難しくなる場合もあるんだよ」

「でも、誰も聞かへんかったら……」

「先生も、もう少し様子を見ておくから」


 優子の話を聞くとは、言ってくれなかった。


「戸田さんらにも、椅子のことだけでも……」

「今日は戻っているんだろう? また同じようなことがあったら、その時に注意しよう」


 また。

 もう1度、同じことが起きるまでなのかと思った。


 自分は廊下の床へ目を落とした。

 うまく説明できていないのだろうか。

 順番に話せば、優子が困っていたことくらいは伝わると思っていた。


「先生に話したことで、富田が責められるようには、せんといてほしいです」

「うん。そこは気をつけるよ。荒川も、あまり考えすぎないようにね」


 先生はそう言って、職員室の方へ向き直った。

 呼び止める言葉を探しているうちに、少し離れてしまった。


 話を聞いてはくれた。

 けれど、優子に何を聞いてくれるのかも、いつ確かめてくれるのかも、何も決まらなかった。


 教室へ戻ると、もうほとんどの人が部活へ行っていた。

 優子もいなかった。

 机の下には、自分が戻した椅子が入っている。


 先生からすれば、元に戻っていた。

 でも、優子が返してほしいと言っても聞いてもらえず、立って待っていた時間まで、なくなったわけではなかった。


 自分の荷物を取った。

 今日は、勝也にも翔太にも、この話をしていない。春樹にも、詳しいことは言っていなかった。

 先生に頼めば、と思っていたからだった。


 誰かに話したら、優子が嫌がるかもしれない。

 けれど、誰にも話さず、また大丈夫と言うのを聞いているだけでいいのだろうか。


 椅子を戻したあと、優子は謝りかけた。

 本を聞かれたあとも、謝っていた。


 次にそんなところを見たら、また声をかけようと思った。

 先生が様子を見ると言ったからといって、自分まで離れて見ているだけにはなりたくなかった。


 リュックサックを持ち、教室の戸を閉めた。

 雨はやんだのに、朝ここへ来た時よりも、気持ちが重かった。



今回の登場人物


・鵜飼勝也

 優子を雨宿りに誘い、転校後の暮らしや伊達眼鏡を掛け始めた理由を話す。本の説明を不安がる優子には、あらすじを見せながら話す方法を提案する。


・富田優子

 雨宿りをしながら勝也と笑い合い、離れていた間も自分を思い出してくれていたことを喜ぶ。翌日は椅子を返してもらえず、本の説明も笑われてしまう。


・鶴見春樹

 美術室で作業を続けながら、先に帰る勝也へ水たまりに気をつけるよう声をかける。翌日は荒川の様子に気づき、何かあったのかと尋ねる。


・鳥居翔太

 赤ペンを家に忘れ、勝也から借りる。返し忘れを心配されて「忘れない」と答えるが、忘れ物をしたばかりだと勝也に突っ込まれる。


・加藤真弓

 放課後の美術室に残り、同じ部の女子と話している。


・荒川宣仁

 優子の椅子を戻し、本の説明を遮って笑う美咲たちをたしなめる。見た出来事を担任へ相談するが、具体的な対応の約束は得られない。


・戸田美咲

 雨宿り中の勝也と優子を見かけ、優子の話し方が普段と違うことを指摘する。翌日は優子の椅子を使い続け、本を説明しようとする姿を笑う。


・富永莉奈

 優子には宿題の質問に答えず、あとから来た女子には返事をする。本の説明でも言葉を遮り、勝也とは楽しそうに話していたことを持ち出す。


・優子の母(富田美和)

 優子から雨宿りの電話を受け、遅くならないようにと伝える。


・茶道部の部長と先輩たち

 勝也と道具を片づけ、覚えた置き場所やお菓子の話で冗談を交わす。教えた英語の問題は、家でもう1度解いてみるよう勧める。


・1年3組の担任

 荒川の相談を聞くが、椅子が戻ったことや優子の「大丈夫」という返事を重く見る。様子を見ると答え、本人たちへの確認は約束しない。

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