第44話 林間学校2日目 夕
* * 勝也視点 * *
廊下で、夕方の集合を知らせる声がした。
翔太がしおりを閉じ、畳の上へ置きかけてから、もう1度持ち上げた。
「これ、持ってくんだっけ」
「食堂には、いらないって」
真弓が答えた。
翔太は頷き、今度は自分の鞄の上へ置いた。
春樹が首にかけていたタオルを外した。まだ湿っている場所を確かめ、濡れた服とは別のところへ掛け直す。
隣にいた優子が、その様子を見ていた。
「これ、乾かしてから返すね」
春樹が言った。
優子は小さく頷いた。
「……うん。まだ、使っててもいいよ」
「ありがとう。もう、髪も乾いたから」
春樹は自分の髪へ手を当てた。
翔太も真似をして、頭の後ろを触った。
「俺も乾いた」
「そこ、跳ねてるよ」
綾香に言われて、翔太は頭の反対側を押さえた。
「逆」
「こっち?」
「もうちょっと後ろ」
手が頭の上を行ったり来たりした。
春樹が、そこ、と指で押さえてやると、翔太はようやく場所が分かったらしかった。
「鏡ないと、分かんないって」
「あとで、洗面所で見たら?」
俺が言うと、翔太は髪を押さえたまま頷いた。
優子が俺の袖へ指を添えた。
「行こっか」
「うん」
立ち上がり、優子と手をつないだ。
出る前に、鞄の上へ置いた上着を確かめた。夜に出かける時は、忘れずに持っていこうと思った。
* * *
食堂には、もうほかの班も集まり始めていた。
昼間、外で食べた時とは違って、戸を入ると暖かかった。ご飯の匂いに混じり、食器の触れる音があちこちから聞こえた。
優子と並んで盆を持ち、空いているところへ進んだ。
席へ着くと、向かいで翔太が箸を置き直していた。春樹はその隣に座り、綾香と真弓も続けて腰を下ろした。
「腹減った」
翔太が言った。
「昼、あんなに食べてたじゃん」
「めっちゃ漕いだから」
「泳いだ分もあるでしょ」
春樹に言われて、翔太が笑った。
「そっちもあった」
「忘れないでよ。俺まで泳いだんだから」
春樹も箸へ手を伸ばしかけ、まだ挨拶をしていないことに気づいて戻した。
その動きを見た翔太が、何も言わずに笑っていた。
皆でいただきますをしてから、ご飯を食べ始めた。
優子は汁椀を両手で持ち、少しずつ飲んでいた。俺の目に気づくと、椀を下ろして笑った。
「……あったかいね」
「うん。外、少し寒くなってきたね」
廊下の窓から見えた空は、もう昼間の色ではなくなっていた。
カヌーを見ていた時にも風はあったけれど、部屋へ戻って休んでいる間に、さらに冷えてきたようだった。
花沢先生が、班の机の間を回ってきた。
春樹のそばで足を止め、食べられているかと小声で確かめた。
「はい。今は大丈夫です」
「そう。無理はしないでね」
先生は翔太にも声をかけ、2人の返事を聞いてから、隣の班へ移った。
翔太はその背中を少し見送り、春樹の方を向いた。
「本当に、大丈夫?」
「うん。今は痛くないよ」
春樹が答えた。
翔太が頷くと、春樹も普段の調子でご飯を口へ運んだ。
「あとで、踊るんだよな」
少しして、翔太が言った。
真弓が顔を上げた。
「フォークダンス?」
「そう。あれ、どっちから足出すんだっけ」
「どの踊りの話してるの」
綾香が聞いた。
翔太は箸を止めた。
「……いろいろあるの?」
「それは、あるでしょ」
綾香の返事に、真弓が笑った。
「先生が教えてくれるから、大丈夫じゃない?」
「見ればできるか」
「ちゃんと、最後まで見てね」
春樹が言った。
翔太は、見るって、と返してから、机の下で足を動かした。
「今やらないで。机、揺れてる」
綾香に言われ、すぐに止まった。
優子も、汁椀を下ろして笑っていた。
「優子、踊るの、覚えてる?」
俺が聞くと、優子は少し考えた。
「……小学校で、やったことはあるけど」
「俺も。その時だけだから、もう忘れちゃった」
「私も、ちゃんとは……」
顔を見合わせ、少し笑った。
「じゃあ、また教えてもらおう」
「うん」
優子が頷いた。
向かいで真弓が、私も忘れた、と言った。綾香も、音楽を聞いたら思い出すかも、と答えた。
それを聞いた翔太が、皆そうじゃん、と嬉しそうにした。
「だから、説明を聞こうねって話」
春樹が言った。
翔太は口を閉じ、ご飯を食べた。
* * *
夕食を終えて部屋へ戻ると、窓の向こうはずいぶん暗くなっていた。
畳の上に広げたままだった物を片づけ、上着へ袖を通した。
優子も、鞄から出しておいた上着を着ていた。
前を留めてから、袖口を指で少し引いた。
「寒くない?」
「うん。今は、大丈夫」
「外で寒かったら、言ってね」
優子が頷いた。
俺は自分の鞄を閉め、立ち上がった。
翔太は、さっき跳ねていた髪を直して戻ってきたところだった。
春樹の前へ立ち、横を向いた。
「どう?」
「直ってる」
「よし」
満足そうに言って、上着を手に取った。
真弓が、今からまた外でしょ、と笑ったけれど、翔太は気にしなかった。
「写真も撮られるし」
「そういうのは、気にするんだ」
綾香が言った。
翔太は当然だという顔をして、袖へ腕を通した。
廊下から班長を呼ぶ声がした。
翔太が先に出ていき、すぐに顔を戻した。
「行くぞー」
「今、出るよ」
春樹が返した。
俺は優子へ手を差し出した。
優子はその手を取って、隣へ来た。
* * 優子視点 * *
建物の外へ出ると、頬に冷たい風が当たった。
私は少しだけ肩をすくめた。
空には、まだ薄く明るいところが残っていた。
けれど、木の下はもう暗かった。道の脇にある灯りが、土や落ち葉を丸く照らしている。
その明るいところをたどるように、皆で歩いた。
「足元、ここ、ちょっと出てる」
勝也が言った。
下を見ると、道の端に木の根があった。
「うん」
少しよけて歩いた。
手はつないだままだった。勝也は前を向き直してからも、私と同じくらいの速さで歩いてくれた。
前では、翔太くんが加藤さんたちに何か話していた。
声が少し大きくなるたび、隣の春樹くんが顔を向けた。
言っていることが聞き取れなくても、返事の仕方で、また何か言ったのだと分かった。
広い場所へ出ると、真ん中に木が組まれていた。
周りには、まだ誰も座っていない場所がいくつもあった。先生が手を上げ、班ごとに並ぶところを教えていた。
勝也と一緒に、皆のあとについていった。
翔太くんが先頭で止まり、私たちを順番に見た。
「6人、いるな」
「さっきから、一緒に歩いてたでしょ」
春樹くんが言った。
「一応、数えとかないと」
翔太くんはそう答えて、先生へ返事をした。
私は勝也の隣に立ち、組まれた木を見た。
「……あそこに、火をつけるんだね」
「うん。近くで見ると、大きいね」
勝也も見上げていた。
焚き火よりも、ずっとたくさんの木が重なっていた。まだ火はついていないのに、周りに皆が集まっているだけで、何かが始まる感じがした。
少し離れたところに、カメラマンさんがいた。
カメラを構えたあと、また下ろし、別の班の方へ歩いていった。
もう1人は、向こう側で先生と話していた。
「翔太。髪、直したところ撮ってもらえば」
井上さんが言った。
翔太くんが、すぐにカメラマンさんを探した。
「どこ?」
「今、あっち向いた」
その間に、春樹くんが笑った。
「そうやって探してる時に、撮られてそう」
「だったら先に言ってよ」
翔太くんが姿勢を直した。
でも、カメラマンさんは別の方を向いたままだった。
加藤さんが笑い、私も勝也の手を握ったまま笑ってしまった。
花沢先生が、皆の前を通った。
「暗くなってきたから、移動する時は足元も見てね」
私たちへも声をかけてから、会場の端へ向かった。
勝也が返事をし、私も少し遅れて頷いた。
* * *
説明が終わって、木に火がついた。
最初は低いところに見えていた炎が、少しずつ上へ伸びていった。
ぱち、と音がした。
隣で加藤さんが、小さく声を上げた。
私も目を丸くしたまま、炎の動きを追った。
明るかった。
さっきまで暗く見えていた皆の顔が、赤くなったり、元に戻ったりした。
薪の間から火がのぞき、風が来ると同じ方へ傾いた。
「あったかい」
思わず言うと、勝也がこちらを向いた。
「さっきより、暖かくなったね」
「うん」
頬の前だけ、外へ出た時とは違う暖かさがあった。
背中の方へ風が当たると冷たかったけれど、勝也のそばに座っていると、あまり気にならなかった。
皆で手を叩くところでは、私も勝也から手を離した。
周りの音に合わせて叩いた。少し遅れてしまっても、隣から同じ速さの音が聞こえるので、また合わせられた。
翔太くんの手拍子が大きくなった。
向こうの班からも声が返ってきて、加藤さんが笑った。
私もつられて笑いながら、手を叩いた。
誰かが面白いことを言うと、周りで笑い声が起きた。
聞き逃してしまったところは、勝也が少し顔を寄せて教えてくれた。
「今、何て言ったの?」
「翔太の声が、1人だけよく聞こえるって」
勝也が小声で言った。
前を見ると、翔太くんが、俺そんなに大きい? と春樹くんに聞いていた。
「今のも、聞こえてるから」
春樹くんの返事で、近くの人まで笑った。
翔太くんも笑っていた。
私の声も、その中に混じっていた。
笑い終わってから勝也を見ると、勝也もこちらを見た。
「……聞こえてたね」
「うん。ここまで、ちゃんと」
目が合ったまま、また笑ってしまった。
昼間は、屋根のあるところから、皆がカヌーに乗るのを見ていた。
あの時間も楽しかった。勝也と話せて、翔太くんたちが戻ってきてからは、私にもできることがあった。
今は、皆と同じところで座っていた。
同じ声を聞いて、同じところで手を叩いていた。
次は一緒に踊るのだと思うと、少しそわそわした。
「勝也」
「ん?」
「足、間違えたら、ごめんね」
勝也は少しだけ不思議そうにしてから、笑った。
「俺も、間違えるかもしれないよ」
「……うん」
「まだ、教えてもらってないしね」
そうだった。
私は少し恥ずかしくなって、膝の上へ置いていた手を重ねた。
勝也と踊るところを、もう先に考えていた。
「分かんなくなったら、止まって確かめよっか」
「うん」
頷いた。
勝也はまた火の方を向いた。
私はその横顔を少しだけ見てから、同じ方へ顔を戻した。
炎の明るさが、勝也の眼鏡にも映っていた。
* * 勝也視点 * *
先生の声で、皆が立ち上がった。
座っていた場所から少し下がり、踊れるように間隔を空けていく。
「まずは、近くの人と2人組になってください」
優子が俺の方を見た。
俺もそちらを向き、手を差し出した。
「一緒にやろっか」
「……うん」
優子が手を重ねた。
さっきまで手拍子をしていたからか、外を歩いてきた時よりも暖かかった。
真弓は綾香と向かい合った。
残った翔太と春樹も、お互いの顔を見た。
「じゃ、よろしく」
翔太が手を出した。
春樹はその手を見てから、顔を上げた。
「踏まないでよ」
「そっちこそ」
「今、踏まないようにって話をしてるんだからね」
そう言いながら、春樹も手を出した。
翔太が大げさに腕を振りかけ、すぐに止められた。
「まだ、始まってない」
「練習」
「何の」
真弓が向こうを見て笑った。
綾香は、説明始まるよ、と2人へ声をかけた。
先生たちが、前で踊り方を見せてくれた。
最初は音楽をかけず、ゆっくりと数を数えながら動いた。
俺も足元を見て、同じように足を出した。
優子もこちらを見ながら、少しずつ動いていた。
手をつないだまま進むところで、俺だけ先へ出かけた。
「あ、ごめん。早かったね」
「ううん」
戻ると、優子も元の場所へ足をそろえた。
先生がもう1度同じ動きをしてくれたので、今度は最後まで見た。
「ここで、1回止まるんだね」
「……うん。そのあと、こっち」
優子が、小さく足を動かして教えてくれた。
俺も合わせると、今度は2人とも同じところで止まれた。
「できた」
優子が言った。
「うん。今のなら、大丈夫そう」
答えると、嬉しそうに笑った。
さっき、間違えたらごめんねと言っていたけれど、俺の方が先に間違えていた。
隣で、翔太と春樹の声がした。
「そっちじゃないって」
「春樹と逆になってんじゃん」
「向かい合ってるんだから、そうなるでしょ」
「じゃあ、どっち」
春樹が足を指した。
翔太がそちらを見たせいで、今度は先生の説明を見逃した。
「あ、待って。今、何した?」
真弓が、もう1回やってくれるよ、と教えた。
翔太と春樹は、そろって前を向いた。
「カヌーより、分かんない」
翔太が小さく言った。
春樹が頷きかけ、それから首を横に振った。
「カヌーも、最後は分かってなかったでしょ」
優子が、つないだ手を少し引いた。
顔を向けると、下を向いて笑っていた。
「……また、言ってる」
「うん。今日、しばらく言われると思う」
俺も小声で返した。
優子の肩が、もう1度揺れた。
* * *
何組かずつ輪になるように並び直した。
俺たちも班の3組で位置を確かめた。片側に真弓と綾香、反対側に翔太と春樹がいた。
優子は輪の内側に立った。
俺はその向かいへ移り、少しだけ距離を空けた。
先生が音楽に合わせて動くところを見せ、途中で相手を交代する時の移り方も教えた。
外側にいる人が1つずつ隣へ移ると、別の人と向かい合う。
翔太が、じゃあ俺が動くのね、と春樹へ確かめていた。
説明を聞きながら、優子が俺の手を握り直した。
俺はそちらを見た。
「分かった?」
「……うん」
「俺、途中で間違えたら、教えてね」
言うと、優子は少し笑って頷いた。
音楽が流れ始めた。
先生の合図を待って、最初の1歩を出した。
さっきより、速かった。
頭の中では覚えたつもりだったのに、次の動きを考えている間に、音が先へ進んだ。
優子も足元を見ていた。
「次、こっちだっけ」
「うん。たぶん……」
2人で同じ方へ動き、手が少し引っ張られた。
顔を見合わせて止まると、後ろから先生の数える声が聞こえた。
「あ、こっち」
優子が先に動いた。
俺もそちらへ足を出し、次のところから合わせ直した。
「ありがとう」
「……私も、今、分かった」
優子は笑いながら答えた。
そのあと、2人とも同じところで止まれた。
隣では、翔太たちも何とか動いていた。
翔太が一歩進むと、春樹が引かれるようについていった。
「速いって!」
「音楽、これくらいじゃん」
「手だけ先に引っ張らないで!」
春樹が言った。
翔太は一度腕の力を抜き、今度は春樹の足元を見た。
少しすると、2人の動きも合い始めた。
翔太が顔を上げ、嬉しそうにした。
「お、できた」
「そのまま。そのままでいいから」
春樹が念を押した。
俺は笑いかけて、自分の次の動きを忘れそうになった。
「勝也、こっち」
「あ、ごめん」
優子に教えてもらい、慌てて戻った。
今度は優子まで声を出して笑った。
「……見てるから」
「うん。人のこと、見てる場合じゃなかった」
俺も笑った。
優子は手を離さず、次の合図を待っていた。
最初のところへ戻ると、少しだけ余裕ができた。
さっき迷ったところも、今度は覚えていた。優子の方を見ると、同じように顔を上げた。
「今度は、合ったね」
「うん」
優子が頷いた。
踊りながら返事をして、それでも足は止まらなかった。
真弓と綾香も、2人で何か話していた。
笑いながら動いているのに、俺たちほど迷っていないように見えた。
それでも最後のところで真弓が少し行き過ぎ、綾香に手を引かれて戻ってきた。
「そっちまで行かない」
「分かった。今、分かったから」
真弓の返事で、綾香も笑った。
俺たちの輪の外で、カメラマンさんがしゃがんでいた。
踊りを止めずに見ていると、こちらへレンズを向けた。
優子は気づかず、足元を確かめていた。
少し離れたところでは、もう1人が別の輪を撮っていた。
今なら翔太の直した髪も写るだろうと思ったけれど、本人は春樹と足を合わせるので忙しそうだった。
音楽が止まった。
つないでいた手を下ろすと、優子がほっと息を吐いた。
「……できた」
「うん。最初より、できるようになったね」
答えると、優子が俺を見て笑った。
少し頬が赤かった。
「もう1回なら、間違えないかも」
「俺も。たぶんね」
そう言ったところで、先生の声がした。
「では、今度は相手を交代してみましょう」
* * 優子視点 * *
勝也の手が、ゆっくり離れた。
先生の説明を聞いていたから、交代することは分かっていた。
分かっていたけれど、指先が離れると、少し寂しかった。
「俺、こっちに動くんだよね」
勝也が言った。
私は頷いた。
「うん」
勝也が隣へ移った。
その先には井上さんがいた。2人が向かい合い、何か短く話した。
反対側から、翔太くんが来た。
「よろしくー」
「……うん。よろしく」
顔を上げて答えた。
翔太くんは、さっきまで春樹くんと立っていたところを見た。
「俺、今ので、だいぶ覚えた」
それから、自分の足元を指した。
「最初、こっちだよな」
「うん。こっちから」
私も同じところを見た。
さっき勝也と確かめた動きだった。
次は翔太くんと、それをするのだと思った。
勝也の声が、近くで聞こえた。
井上さんへ、さっきのところ合ってたよね、と聞いていた。
そちらを見た。
勝也が手を上げかけていた。井上さんもこちらを向いていたけれど、目が合う前に顔を戻してしまった。
「まだ音楽、かかんないのかな」
翔太くんが言った。
「……うん」
返事をしてから、上着の裾へ指を添えた。
ついさっきまでは、勝也の手を握っていた。
まだ、その暖かさが残っている気がした。
もう1度だけ、勝也を見た。
勝也はこちらに背を向けきっているわけではなかった。少し顔を動かせば、すぐに目が合いそうだった。
呼ぼうかと思って、やめた。
何と言えばいいのか分からなかった。
交代する時間なのに、一緒に踊りたいと言ってしまったら、翔太くんにも悪い気がした。
足元を見て、靴の向きをそろえた。
それから、また横を見てしまった。
勝也が、井上さんへ何か言って笑った。
私も、さっきまであんなふうに話していた。
あともう1回、一緒に踊れたらいいのに。
「……あー」
翔太くんの声に、顔を上げた。
翔太くんは私を見て、それから勝也の方を見た。
「勝也、ちょっと」
「え?」
勝也が顔を向けた。
返事を待たず、翔太くんが手を伸ばした。
勝也の腕をつかみ、ぐいっとこちらへ引いた。
勝也が驚いて一歩動いた。そのまま、翔太くんの隣へ来た。
「はいっ、勝也あげる」
つかんでいた勝也の腕を、私の方へ差し出した。
「え……」
声が出た。
目の前に、勝也がいた。
勝也も少し驚いた顔をして、翔太くんを見ていた。
「俺、こっち?」
「うん。じゃ、綾香、よろしく」
翔太くんはもう、井上さんの前へ移っていた。
空いたところへ入るように、何でもない顔で手を出した。
私は、差し出された勝也の手に触れた。
勝也がこちらへ顔を戻した。
「……また、一緒だね」
そう言って、笑った。
私は頷いた。
さっきより強く握りそうになり、少しだけ指の力を緩めた。
「うん」
返事が小さくなった。
でも、顔はもう、隠せなかったと思う。
勝也は私の手を握り直し、さっき立っていたところへ戻った。
靴の先がこちらを向いた。
もう、横を見なくてもよかった。
「……ありがとう」
翔太くんの方へ言った。
翔太くんは顔だけこちらへ向け、少し笑った。
「おう」
それだけ返して、井上さんへ向き直った。
先生が、始めますよ、と声をかけた。
私も前を向いた。
勝也と手をつないでいることを確かめ、音楽を待った。
近くで、井上さんの声がした。
「今の、ちょっと見直した」
「ん?」
「ちゃんと気づくんだね。そういうところ」
翔太くんが、少し顎を上げた。
つないだ井上さんの手を持ったまま、妙に落ち着いた顔をした。
「俺、デキる男だから」
声が、急に低くなった。
さっきまでの、よく通る明るい声とは全然違った。
ゆっくり言ってから、口元だけで笑っていた。
勝也の肩が揺れた。
私も笑いそうになった、その時だった。
井上さんの指に、ぎりっと力が入ったのが見えた。
翔太くんの顔が変わった。
「痛い痛い!」
いつもの声に戻った。
「せっかく、褒めたのに」
「褒めたあとに、握るのやめて!」
井上さんはもう手の力を緩めていた。
翔太くんはつないだ手を見下ろし、それから井上さんを見た。
「普通に、ありがとうって言えばいいの」
「ありがとう!」
「はい」
井上さんが短く返した。
ちょうど音楽の始まりのところが聞こえた。
「ほら、始まるよ」
「分かってるって」
翔太くんは慌てて足元を見た。
井上さんが最初の足を出すと、同じタイミングで動いた。
手も、ちゃんとつないだままだった。
私はとうとう、声を出して笑ってしまった。
勝也も笑いながら、こちらを見た。
「……すぐ、戻ったね」
「うん」
返事をすると、また笑ってしまった。
翔太くんが横を見て、何か言いかけた。
「こっち見て。足、違う」
井上さんに言われて、すぐに前を向いた。
もう、格好つけた声は出さなかった。
* * *
勝也と一緒に、最初の1歩を出した。
さっき覚えたところは、そのままできた。
手を引かれるタイミングも、次に止まるところも、もう少し分かっていた。
勝也を見上げた。
こちらを見ていたので、目が合った。
「……今度は、間違えてないね」
「うん。まだ、大丈夫」
勝也が答えた。
まだ、と付けたところが可笑しくて、少し笑った。
同じ手だった。
ここへ来る時につないでいた手も、さっき一緒に踊っていた手も。
それなのに、一度離れてから戻ってきただけで、こんなに嬉しかった。
勝也の方へ進んで、また離れる。
手が伸びても、指はつながっていた。
次の動きで近づくと、勝也が少しだけ歩幅を小さくしてくれた。
「これくらい?」
「うん。大丈夫」
私も足を出した。
ちゃんと合うと、勝也が笑った。
勝也は、私が踊れるかどうかを見てくれているのだと思った。
最初に間違えてしまったところでも、少しだけ足元を見て、私と同じところで止まってくれた。
私は、勝也の顔ばかり見たくなった。
見ていると、次の動きが遅れそうになる。
さっき勝也に、よそを見ているから、と笑ったばかりなのに、今度は私がそうなりそうだった。
「優子、次、ここだよね」
勝也が確かめた。
「……うん」
慌てて足元へ目を戻した。
勝也は気づいたのか、気づかなかったのか、いつもの顔で笑っていた。
少し向こうで、加藤さんの笑い声が聞こえた。
隣からは、井上さんに何か言われた翔太くんの返事もした。
皆が近くにいた。
私は勝也の手を握り、音楽に合わせて動いた。
火の方から暖かい空気が来た。
冷たい風も時々頬へ当たったけれど、踊っている間は、もう寒さを忘れていた。
さっき、翔太くんに何も言えなかった。
勝也と踊りたいとは、1度も言っていなかった。
それでも、ああして戻してくれた。
気づいてもらえたことが、少し恥ずかしかった。
でも、理由を聞かれずに済んだことに、ほっとしていた。
そのまま踊っていていいのだと思えた。
曲の終わりが近づいた。
先生が最後の動きを数え、皆が同じところで止まった。
私も勝也も、今度は迷わず足をそろえられた。
「できたね」
勝也が言った。
「うん……!」
顔を上げて答えた。
勝也が笑った。
私も、笑った。
周りで拍手が起きた。
勝也が手を離そうとして、私は一瞬だけ、その指を握ったままにしてしまった。
「……優子?」
名前を呼ばれ、気づいた。
「あ……ううん」
慌てて手を離し、私も拍手をした。
勝也は隣で同じように手を叩いていた。
手のひらの暖かさが、すぐには消えなかった。
* * 勝也視点 * *
踊り終わって集まると、翔太が右手を開いたり閉じたりしていた。
春樹がその手を見た。
「何してるの」
「綾香、握力すごい」
「何やったの」
「何で、俺が何かしたことになってんの」
翔太が言った。
綾香は隣で、上着の袖を直していた。
「褒めただけだよ」
「そのあと。そのあとの話」
「調子に乗るから」
綾香が言うと、春樹が、ああ、と頷いた。
「見てないのに、納得すんなよ」
翔太が言った。
真弓が笑った。
「声は聞こえたよ。痛いって」
「そこじゃなくて、その前が大事だったのに」
翔太は一度姿勢を直しかけた。
綾香がそちらを見ると、すぐに肩の力を抜いた。
「……もう、言わないけど」
「うん。その方がいい」
綾香が答えた。
優子も俺の隣で笑っていた。
俺は少しだけ翔太の近くへ寄った。
「さっき、ありがとう」
小さく言うと、翔太がこちらを見た。
優子の方へも目を向けてから、頷いた。
「おう。踊れた?」
「うん。最後は間違えなかったよ」
「俺も。綾香が、ずっと教えてくれた」
後ろから綾香が、ずっとじゃないでしょ、と言った。
「よそを見ないでって言ったの」
「それも含めて」
翔太が笑った。
綾香は少し呆れた顔をしていたけれど、それ以上は言わなかった。
真弓が優子の方へ顔を向けた。
「優子、どうだった?」
「……楽しかった」
優子が答えた。
真弓は、よかった、と笑った。
「私、最後まで、右と左が怪しかった」
「私も、最初は……」
「考えると分かんなくなるんだよね」
真弓が足元を見た。
つられて優子も下を向き、さっきの動きを少しだけ確かめた。
「ここで止まって、それから……」
小さく足を動かしていた。
真弓が同じようにして、頷いた。
「あ、そうだ。それ」
優子が顔を上げた。
真弓と目が合い、少し笑った。
「俺も、そこ、優子に教えてもらった」
俺が言うと、優子がこちらを向いた。
「……勝也が、翔太くんたちを見てたから」
「あれは、気になるでしょ」
答えると、真弓も、分かる、と頷いた。
翔太が俺たちを見た。
「俺らも、ちゃんと踊ってたじゃん」
「うん。途中からは」
春樹が言った。
「ほら」
「途中からは、ね」
春樹が言い直した。
翔太はそこだけ聞こえなかったような顔をした。
* * *
近くで、シャッターの音がした。
振り向くと、カメラマンさんがカメラを下ろしたところだった。
「皆、楽しそうだったね」
そう言って、こちらへ少し近づいてきた。
翔太が自分の頭へ手を当てた。
「今、撮りました?」
「撮ったよ。踊っているところも」
「ちゃんと踊れてるところ、ありました?」
翔太が聞いた。
カメラマンさんは笑った。
「何枚か撮っているからね。あとで見てみて」
「お願いします」
翔太が頭を下げた。
春樹が、何をお願いしてるの、と小声で言った。
カメラマンさんは、俺たち6人を見渡した。
「せっかくだから、皆そろったところも撮ろうか」
真弓が返事をした。
綾香も隣へ寄り、翔太は春樹の肩を軽く引いた。
俺も優子の近くへ戻った。
「ここで、いいかな」
聞くと、カメラマンさんが少しだけ横へ動いた。
「そう。もうちょっと、皆、寄ってくれる?」
翔太と春樹が間を詰めた。
真弓たちも近づき、優子が俺のそばへ小さく一歩動いた。
その手が、袖口へ触れた。
「優子、見える?」
「うん」
優子が答えた。
俺は少しだけ肩の向きを変え、カメラの方を見た。
撮りますよ、と声がした。
皆が前を向いた。
翔太が急に口を閉じて、真面目な顔になった。
隣の春樹がそれに気づいた。
「何で、そんな顔なの」
「普通だろ」
翔太はカメラの方を向いたまま答えた。
真弓が先に笑ってしまった。
俺もつられて笑い、優子の指が袖を少しつまんだ。
その時に、もう1度シャッターの音がした。
「うん、ありがとう」
カメラマンさんが言った。
翔太が顔を上げた。
「今の?」
「今のも、いい顔だったよ」
そう答えて、カメラマンさんは別の班の方へ向かった。
向こう側にいたもう1人も、集まった生徒たちへカメラを向けていた。
「俺、笑ってた?」
翔太が俺に聞いた。
「うん。最後は」
「じゃ、いいか」
翔太は満足したようだった。
真弓が、さっきの顔より絶対そっちがいい、と言った。
優子は、カメラマンさんが歩いていった方を見ていた。
「写真、あとで見られるんだね」
「うん。今日のも、ほかの日のも」
俺が答えると、優子は少し考えてから頷いた。
「……今の、見たい」
「皆で写れたね」
「うん」
優子が俺を見た。
まだ少し頬が赤かったけれど、楽しそうだった。
* * 優子視点 * *
元の場所へ戻ると、火はさっきより低くなっていた。
木の間に赤いところが見えて、時々そこから小さく炎が上がった。
皆で座った。
勝也も、隣へ腰を下ろした。
動いていた時は平気だったのに、座って少しすると、首の辺りへ冷たい風を感じた。
上着の前を確かめ、膝の上へ手を置いた。
「寒くなってきた?」
勝也が聞いた。
「……ちょっとだけ」
「俺も。踊ってる時は、大丈夫だったんだけど」
そう言って、袖口を直していた。
私は、勝也のそばへ少し寄った。
肩が触れると、勝也がこちらを見た。
「ここで、大丈夫?」
「うん」
答えた。
勝也はそのまま前を向いた。
近くにいる皆が、まださっきの踊りの話をしていた。
翔太くんが足の動かし方を手で説明し、春樹くんが、それじゃ分からない、と言った。
井上さんは、もう終わったのに、と笑っていた。
私は、膝の上で自分の指を軽く曲げた。
勝也と手をつないで踊った時の感じを、まだ覚えていた。
手を取ってもらうことは、珍しくなかった。
学校へ行く時も、家へ帰る時も、勝也は隣にいてくれた。
それでも、今日のことは、帰ってからも思い出すと思った。
同じところで間違えたこと。
顔を見合わせて笑ったこと。
離れたと思った手が、また戻ってきたこと。
私は少し顔を横へ向けた。
勝也は春樹くんの話を聞いて笑っていた。
その隣にいられることが、嬉しかった。
「勝也」
「ん?」
こちらを向いてくれた。
「……一緒に踊れて、嬉しかった」
小さく言った。
勝也はすぐに笑った。
「うん。楽しかったね」
頷いた。
もう少し何か言いたかったけれど、言葉が出なかった。
「教えてくれて、ありがとう」
勝也が続けた。
「……私も、教えてもらったよ」
「じゃあ、2人ともだね」
そう言われると、嬉しくて笑ってしまった。
勝也も笑った。
向こうで、加藤さんが私たちを呼んだ。
先生の話が始まるから、もう少し寄ろうと言っていた。
勝也と一緒に場所を詰めた。
井上さんが座れるところを少し空けてくれて、私は小声で礼を言った。
さっきより皆の顔がよく見えるところで、最後の話を待った。
* * *
先生の話が始まり、皆が前を向いた。
キャンプファイヤーの終わりの挨拶を聞き、私たちも一緒に拍手をした。
立ち上がると、座っていたところの冷たさが少し残っていた。
上着の裾を直してから、勝也を見た。
勝也はもう立っていて、私の方へ手を出した。
私はその手を取った。
踊る時と同じように、指が触れた。
花沢先生が、私たちのそばへ来た。
「このあとは、肝試しの説明を聞きます。班の皆と一緒に、向こうへ集まってね」
先生の指した方を見た。
建物の灯りに近いところに、ほかの先生が立っていた。
その奥には道が続いていて、木のあるところから先は暗かった。
「……肝試し」
翔太くんが、確かめるように言った。
春樹くんがそちらを見た。
「しおり、さっき読んでたでしょ」
「読んでたけど」
翔太くんは暗い方を見たままだった。
「昼間と、全然違うな」
加藤さんも同じ方を見て、少し黙った。
井上さんが、まだ説明も聞いてないよ、と言った。
勝也の手が少し動いた。
見上げると、勝也も道の先を見ていた。
「勝也……?」
「うん?」
こちらへ顔を戻した。
「……暗いね」
「うん。思ったより、暗いね」
勝也が答えた。
少しだけ、声が小さくなったような気がした。
私はつないだ手を握り直した。
さっきまで、あんなに明るいところで笑っていたのに、急に木の向こうが気になり始めた。
でも、勝也は隣にいた。
手を離さずに、私の顔を見てくれた。
「まず、説明、聞きに行こっか」
「……うん」
頷いた。
翔太くんが皆を振り返り、春樹くんたちと歩き出した。
私も勝也の隣で、同じ方へ足を向けた。
握った手は、まだ暖かかった。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
夕食やキャンプファイヤーを友人たちと楽しみ、優子とフォークダンスを踊る。動きを間違えた時には2人で確かめ直し、優子に教わる場面もある。ペア交代で綾香の相手になるが、翔太に腕を引かれて優子のもとへ戻る。優子が楽しそうに踊り、皆と笑っていることを喜ぶ。
・富田 優子
皆と同じ場所で火を囲み、手拍子やフォークダンスへ参加する。勝也と踊れることが嬉しく、ペア交代後は近くの勝也を何度も見てしまう。翔太の気遣いで再び勝也と踊り、小声で礼を言う。踊りのあとも友人たちとの会話や写真撮影を楽しみ、勝也へ一緒に踊れて嬉しかったと伝える。
・鳥居 翔太
春樹と踊り方を確かめながらフォークダンスへ参加する。交代後、優子が勝也を気にしていることに気づき、近くの勝也の腕をつかんで「はいっ、勝也あげる」と優子へ渡す。自分は綾香と自然に踊り始めるが、褒められると低い声で格好をつけ、つないだ手を強く握られていつもの調子へ戻る。
・鶴見 春樹
体調が落ち着いたことを先生へ伝え、夕食と夜の行事へ参加する。最初のフォークダンスでは翔太と組み、足の運びや力の入れ方を確かめ合う。活動後も翔太への突っ込みや写真撮影で、皆と笑い合う。
・加藤 真弓
綾香とフォークダンスを踊り、間違えながらも楽しむ。踊り終えてから優子へ感想を尋ね、覚えた動きを一緒に確かめる。翔太たちの掛け合いにも笑い、6人で写真に収まる。
・井上 綾香
最初は真弓と踊り、ペア交代では勝也の相手になる。翔太が優子へ勝也を戻したあとは、自然に翔太と踊る。気遣いを見直して褒めるが、すぐに格好をつけた翔太の手を強く握り、軽くたしなめる。
・花沢先生
夕食時に春樹たちの様子を確かめ、夜の移動では足元へ注意するよう声をかける。キャンプファイヤーの終了後、班の皆で肝試しの説明を聞く場所へ移動するよう案内する。
・学校契約のカメラマン2人
会場の別々の場所を回り、火を囲む生徒やフォークダンスの様子を撮影する。踊り終わった6人の自然な会話を撮り、続けて全員がそろった写真も残す。




