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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
48/52

第43話 林間学校2日目 昼

    * * 勝也視点 * *


 木の間を抜ける風に、さっきまでの煙とは違う匂いが混じった。

 道の先から、水の音が聞こえていた。


「見えた」


 翔太が言った。

 その肩越しに、青いような、少し緑がかったような水面が見えた。向こう岸の木が映っていて、近くを風が通ると、その形だけが細かく崩れた。


「思ったより広いな」

「端まで行くわけじゃないでしょ」


 春樹が返した。

 翔太は、分かってる、と言いながら、もう1度水の方へ顔を向けた。


 優子と手をつないだまま、少しゆっくり歩いた。

 優子も木の間から水面を見ていた。日傘の柄を持つ手が少し動き、見える方へ顔を傾けた。


「ここから、乗るのかな」

「うん。あそこに並んでるの、そうだと思う」


 指した先には、細長い艇が何艇も置かれていた。

 その奥に、道具をしまう建物がある。水に面した側には屋根の続いたテラスがあり、椅子と長椅子が並んでいた。

 先生から聞いていた見学場所は、あそこらしかった。


 真弓がしおりを開き、綾香と何か確かめていた。


「タオル、持ってきたよね」

「うん」

「濡れるって、どのくらいだろ」

「漕いだ時にはねる分じゃない?」


 綾香が答えた。

 前を歩いていた翔太が、振り返った。


「落ちなきゃ、大丈夫だろ」

「翔太、それ言わないで」


 春樹がすぐに言った。


「何で」

「何か、嫌な感じするから」

「俺、落ちないって」


 自信を持って言うので、真弓が笑った。

 優子も、俺の隣で小さく笑った。


 集合場所へ着くと、花沢先生が人数を確かめた。

 翔太が6人いると答え、俺たちも班ごとに並んだ。


「鶴見君、お腹はどう?」


 先生が春樹のそばへ来て、少し声を落とした。


「もう痛くないです。さっき食べたあとも、大丈夫でした」

「気分が悪くなったら、すぐに教えてね」

「はい」


 春樹が頷いた。

 それから翔太へ顔を向けると、翔太は何も言っていないのに、先に口を閉じた。


「まだ言ってないだろ」

「今、言おうとしたでしょ」

「してない」


 少し間があって、翔太も笑った。

 春樹が、もういいから、とその肩を押して前を向かせた。


 説明をしてくれる指導員さんが、パドルを1本持って立った。

 水の上で動いてよい範囲や、合図の意味を教えてもらう。途中で立ったり、ふざけて艇を揺らしたりしないようにという話になると、春樹が横を見た。


「俺、何もしてないじゃん」


 翔太が小声で言った。


「聞いてるかと思って」

「聞いてるって」


 後ろで真弓の肩が動いた。

 俺も下を向いて、少しだけ笑った。


 パドルの持ち方を見せてもらい、乗る人たちは救命胴衣を受け取った。

 翔太が先に腕を通し、前の留め具へ手を伸ばす。春樹は自分のものを着てから、翔太の脇へ回った。


「そこ、ねじれてる」

「どこ」

「こっち」


 直してもらう間、翔太は素直に両腕を少し上げていた。

 真弓と綾香も、お互いに背中側を確かめている。指導員さんが順番に回り、留め具と体への合い具合を確認した。

 春樹と翔太は、眼鏡を落とさないためのストラップも借りた。


「これ、何か変じゃない?」


 翔太が、眼鏡の横を指して俺に聞いた。


「別に。落とすよりいいんじゃない」

「まあ、そうだけど」

「水の中から探すの、大変そうだし」


 そう言うと、翔太はストラップをもう1度触り、それから手を下ろした。


 花沢先生が、俺たちをテラスの方へ案内してくれた。

 屋根の下は、足元まで日陰になっていた。ここからなら発着場も、その先で練習している人たちも見えた。


「2人は、ここで見ていてね。困ったことがあったら呼んでください」

「はい」


 返事をして、長椅子の端へ鞄を置いた。

 優子は屋根の下へ入ってから日傘を閉じた。水面の方を確かめ、俺の隣へ腰を下ろす。


「……よく見えるね」

「うん。あそこから出るんだって」


 翔太たちは、まだ順番を待っていた。

 パドルを手にした翔太がこちらを向き、片手を上げた。


「見とけよ!」

「うん。見てる」


 手を上げて返した。

 優子も少し迷ってから、膝の上に置いていた手を小さく上げた。

 それに気づいた翔太が、もう1度大きく振った。


「そんなに振ったら、後ろの人に当たるよ」


 春樹に腕を押さえられ、翔太が慌てて振り返った。

 少し離れたところにいた男子が、笑いながらパドルをよけていた。


 優子が、口元へ手を当てた。


「……まだ、乗ってないのに」

「乗るまでにも、いろいろあるね」


 そう返すと、優子は俺を見て笑った。

 肩から少し力が抜けたようで、背もたれへ体を預けた。


     * * *


 先に乗ったのは、真弓と綾香だった。

 岸で支えてもらっている間、真弓は足を置く場所を何度も確かめた。座ってしまうと、ふう、と大きく息を吐いたのが、ここまで見えた。


「もう怖がってるじゃん」


 翔太が言った。


「乗る時が怖いの!」


 真弓の返事が来た。

 綾香はパドルを持ち直し、先に水の方を見た。2人で何か話してから、ゆっくり岸を離れた。


 少し進んだところで、艇の向きが変わった。

 真弓が後ろを振り返り、綾香が何か言う。2人とも手を止め、もう1度合わせて動かすと、今度は水面へ長い跡が残った。


「進んだ」


 隣で、優子が言った。


「うん。あっちに行くみたい」


 2人の向こうを、指導員さんの艇がゆっくり通った。

 大きな声で合図をしている。その方へ向きを変えながら、真弓と綾香は少しずつ離れていった。


 次は春樹と翔太だった。

 翔太が前へ座り、春樹が後ろへ入る。春樹がまだ腰を下ろしている途中で、翔太が先にパドルを動かしかけた。


「待って。まだ」

「早く座れって」

「だから、動かさないで」


 指導員さんにも声をかけられ、翔太が止まった。

 春樹が座り直してから、2人で岸を離れた。

 最初の数回は、よく合っているように見えた。


「お、行けるじゃん」


 翔太の声が聞こえた。

 そのまま少し進み、急に向きがこちらへ変わった。


「そっちじゃない」

「分かってる」

「じゃあ、何でこっち来るの」


 春樹の声まで聞こえた。

 翔太が何か返し、2人ともパドルを動かした。艇は止まってから、ゆっくり別の方向へ向いた。


 優子が、今度は隠さずに笑った。


「声、ここまで聞こえるね」

「遠くにいても、分かるね」


 俺が返すと、優子は頷いた。

 水の上では、ようやく向きがそろったらしい。

 翔太がこっちを見て、わざとらしく親指を立てた。


 俺も同じように返した。

 後ろにいる春樹は、その間も休まず漕いでいた。


    * * 優子視点 * *


 日傘を畳んでいるのに、顔へ日が当たらなかった。

 屋根の向こうだけが明るくて、水面には小さな光がいくつも揺れていた。

 その中を、加藤さんと井上さんのカヌーが進んでいく。


 風が来ると、髪の先が頬へ触れた。

 耳の横へ戻してから、隣を見た。

 勝也は、翔太くんたちの方を見て笑っていた。


「……勝也」

「ん?」


 呼ぶと、すぐにこちらを向いてくれた。


「カヌー、乗りたかった?」


 聞いてから、鞄の肩紐へ指を添えた。

 さっきまでは、一緒に見ていてくれることが嬉しかった。

 でも、皆が水の上へ出ていくと、勝也もあそこへ行きたかったのかもしれないと思った。


「少し、乗ってみたかったかな」


 勝也が答えた。

 私は、そっか、と小さく返した。


「でも、ここも面白いよ」


 顔を上げると、勝也は水の方を指した。

 翔太くんたちが、今度は加藤さんたちと違う方へ向いていた。

 遠くから、そっちじゃないって、と声がした。


「あれ、2人とも同じ方に行きたいんだよね」

「……たぶん」

「何で合わないんだろうね」


 勝也が笑った。

 私も、笑ってしまった。


「私たちが乗ったら、どうなるかな」

「最初は、ああなるんじゃない?」

「勝也でも?」

「俺だって、やったことないもん」


 そう言われて、また笑った。

 何となく、勝也なら初めから上手にできる気がしていた。

 でも、勝也はパドルを持つふりをして、難しそう、と言った。


「今日は、優子とここから見てるよ」


 そう続けてから、長椅子へ座り直した。

 私の肩へ、勝也の袖が少し触れた。


「……うん」


 頷いた。

 謝ろうとしていた言葉は、口に出さないままになった。

 勝也はもう、水の方を見ていた。私も隣で同じ方を向いた。


 翔太くんたちの艇が、ようやくまっすぐ進み始めた。

 さっきまでの声が少し遠くなった。

 代わりに、足元に近いところで水の揺れる音がした。


「優子」


 今度は、勝也に呼ばれた。


「林間学校、楽しめてる?」


 私は頷いた。

 返事より先に、首が動いていた。


「……うん。楽しい」


 声にしてから、もう1度頷いた。

 勝也は、よかった、と笑った。


「お昼も、いっぱい笑ったね」

「うん」


 思い出しただけで、口元が緩んだ。

 春樹くんには忘れてほしいと言われたけれど、まだ、すぐに思い出せた。

 皆が順番に笑い始めて、最後には自分まで、どうしても止められなくなっていた。


「加藤さん、起きられなくなってたね」

「真弓も、すごかったね」

「勝也も」

「俺も?」


 少し驚いたように言われて、頷いた。


「椅子のところで、ずっと……」

「だって、顔を上げると、また笑っちゃうから」


 勝也が自分のお腹へ手を当てた。

 もう痛くないけど、と言うので、私もつられて同じところへ手を置いた。


「私も、少し痛かった」

「うん。言ってたね」


 勝也は、私の顔を見ていた。

 何か聞きたいのかと思ったけれど、そのまま少し笑っただけだった。


「……なに?」

「いや。優子が笑ってたから、俺も嬉しかったんだ」


 膝の上の指へ、少し力が入った。

 返事をしようとしたのに、すぐには声が出なかった。


 ただ面白くて、笑っていた。

 勝也に見られているかどうかも、あの時は考えていなかった。

 でも、その顔を見て嬉しかったと言ってもらえると、また別の嬉しさが胸へ広がった。


「……私も、嬉しかったよ」

「うん?」


 勝也が、少し顔を近づけた。


「皆と、あんなふうに笑えて」


 そこまで言うと、勝也が頷いた。

 私は鞄から手を離し、自分の指先を見た。


「じゃがいもも、剥けたし」

「うん。できてたね」

「最初、いっぱい残っちゃったけど」

「最後の方、きれいだったよ」


 勝也は見ていたらしかった。

 かまどの方で忙しくしていたのに、私が手を動かしているところも見ていてくれた。


「井上さんが、ここも取るんだよって教えてくれて。加藤さんも、隣でやってくれて……」


 話し始めると、朝の机の上が浮かんだ。

 私が遅くなっても、2人とも急かさなかった。次のじゃがいもを取る時には、自分から手を伸ばせた。


「また、一緒にできるといいね」


 勝也が言った。

 私は、その言葉を少し考えてから頷いた。


「……うん。また、やりたい」


 今度は、もう少し早くできるかもしれなかった。

 できなくても、聞いたら教えてくれる気がした。

 そう思えることが、昨日ここへ来る前とは少し違っていた。


 勝也の手が、長椅子の上にあった。

 私はそっと、自分の手をその隣へ置いた。

 指先が触れると、勝也がこちらを見た。それから、何も言わずに握ってくれた。


 皆と話せる時間が増えても、ここがいちばん落ち着いた。

 勝也がすぐ隣にいるから、水の向こうまで顔を上げていられる。


「……一緒に来られて、よかった」


 小さく言うと、勝也も頷いた。


「俺も。帰ったら、いろいろ話せるね」

「うん」


 お母さんにも、お父さんにも話したかった。

 昨日のお弁当だけでは、もう足りなかった。

 昨日の夜も、今日のお昼も。話している途中で、また笑ってしまうかもしれない。


 水の方から、声がした。


「勝也ー! 今、まっすぐじゃね!?」


 翔太くんだった。

 勝也が顔を上げ、空いている方の手を振った。


「うん。まっすぐ!」

「だろ!」


 返事のあとに、春樹くんの声が重なった。


「喋ってないで、漕いで!」


 勝也が笑った。

 つないだ手が少し揺れて、私も一緒に笑った。


    * * 勝也視点 * *


 しばらくすると、真弓と綾香は、あまり声を出さなくても進めるようになっていた。

 向きを変えたい時だけ話し、少し止まってから、また2人で漕ぎ始める。

 翔太たちは、その後ろへ追いつこうとしていた。


「待って、何でそっちばっか進むんだよ」


 翔太の声に、真弓が顔を向けた。


「漕いでるから!」

「こっちも漕いでる!」

「途中で止まってるじゃん!」


 真弓の声が、水の上を渡ってきた。

 春樹も何か言っていたが、今度は少し遠くて聞こえなかった。

 翔太が前を向き、またパドルを動かした。


 優子が俺の手を握ったまま、少し身を乗り出した。


「加藤さんたち、上手だね」

「うん。だんだん慣れてきたね」

「あんまり、ぐらぐらしなくなった」


 言われて、艇の動きを見た。

 最初は漕ぐたびに少し揺れていたけれど、今は水の上を滑るように進んでいた。

 真弓がまたこちらを向いた。

 優子が小さく手を振ると、真弓もパドルから片手を離して返した。


 その横で、シャッターの音がした。

 テラスの柱のそばに、カメラマンさんがいた。水の方へ向けていたカメラを、俺たちの方へ少し動かす。


「よく見える?」

「はい。声も聞こえます」


 俺が答えると、カメラマンさんは笑った。


「元気な声がしてるね」


 その言葉に重なるように、また翔太の声がした。

 優子が笑い、俺も水の方へ顔を戻した。

 そのまま、もう1度シャッターの音がした。


 もう1人のカメラマンさんは、発着場の近くにいた。

 戻ってきた別の班を撮り、次に乗る人たちへ声をかけている。ずっと同じところにいるわけではなく、気がつくと違う方へ移っていた。


「今の、撮られたね」


 小声で言うと、優子がこちらを見た。


「……私も?」

「うん。たぶん、2人とも」


 優子は、少しだけ背筋を伸ばした。

 でも、カメラマンさんはもう水面の方へレンズを向けていた。


「普通にしてていいんだって」

「……うん」


 頷いたあと、優子はまた俺の方へ少し寄った。

 握っていた手は、そのままだった。


     * * *


 少し離れたところで、悲鳴と水しぶきが上がった。

 別の班の艇が横倒しになり、水面から2人が顔を出していた。指導員さんがすぐに声をかけ、岸へ戻った2人を先生が迎えた。

 発着場の端には、タオルを頭へかぶった男子も座っていた。


「……けっこう、落ちちゃうんだね」

「うん。さっきも、向こうでひっくり返ってたね」


 乗る組が入れ替わる間にも、何度か同じような声が聞こえた。

 見ていた限りでは、10組に3組くらいは転覆していた。水に落ちずに帰ってきた人も、艇を下りる時には、ほっとした顔をしていた。

 優子は、まだ水の上にいる4人を順番に確かめた。


 そのうちに、翔太たちの進み方が変わってきた。

 さっきまでは、片方が漕いでいる時に、もう片方が手を止めていた。今は2人のパドルがほとんど同じ調子で動き、艇がまっすぐ進んでいく。


「あれ。速くなった?」


 俺が言うと、優子も身を乗り出した。


「……うん。さっきと、全然違うね」


 翔太が何か声をかけ、春樹が頷いた。

 次に漕ぎ出した時は、さらに速くなった。2人の腕が揃って動くたびに、艇の先が水を切って進んでいく。

 後ろへ残る水の跡も、長く伸びていた。


「おお、速っ!」

「今の、合ってる!」


 翔太に返す春樹の声も、弾んでいた。

 最初に岸を離れた時とは、まるで違った。ふらふらしていた艇が、俺たちの前をあっという間に通り過ぎていく。


「あの2人、こんなに速くできるんだ」


 思わず言うと、優子が笑った。


「春樹くんも、楽しそう」

「うん。2人とも、すごい漕いでるね」


 少し先でゆっくり進んでいた真弓たちを、翔太たちは間を空けて追い越した。

 真弓が顔を向け、何か声をかけた。翔太は前を向いたまま、よく通る声で返事をした。


「どうだ、速いだろ!」

「分かったから、気をつけてよ!」


 真弓が返すと、後ろに座る春樹まで笑っていた。

 さっきは追いつけなかったのに、今度は自分たちが前を走っている。それが、よほど面白いらしかった。


 向こうでいったん速度を落とし、ゆっくり向きを変える。

 こちらへ艇の先が向くと、2人はまた勢いよく漕ぎ始めた。


「勝也ー! 見てる!?」

「見てるよ。速いね!」


 手を上げると、翔太の大きな返事が来た。

 春樹もこちらを見て笑い、すぐに前へ向き直った。


「もう1回、向こうまで行けるな!」


 翔太が言った。

 2人はテラスの前を通り、その先の開けた方へ進んでいく。


「曲がるなら、ちょっと落とせって」


 春樹が言った。

 けれど、翔太はさっきまでの調子のまま、大丈夫、と返した。


「もう余裕だって!」


 艇には、まだ勢いがついていた。

 そのまま向きを変えようとして、翔太が大きくパドルを動かした。体まで横へ傾き、艇の先が急にそれた。


「待って、まだ速い――」


 春樹が言い終わる前に、2人の体がぐらりと揺れた。

 立て直す間もなく、片側の縁が水へ近づいていく。


「あ、待っ――」


 翔太の声が途中で切れた。

 艇の縁が水に触れたと思ったら、次には大きな水しぶきが上がっていた。


 優子の指が、俺の手を強く掴んだ。

 俺も思わず立ち上がった。


「翔太……!」


 声を出した時には、2人の頭が見えていた。

 救命胴衣の色が水面に浮いている。近くにいた指導員さんがすぐに声をかけ、そちらへ艇を向けた。


「冷たっ!」


 翔太の大きな声がした。

 その隣で、春樹が顔の水を払った。


「お前、何してんの!」

「俺も、びっくりした!」

「こっちの台詞だよ!」


 2人とも、岸の方を向いていた。

 指導員さんの声に返事をし、救命胴衣を着けたまま、自分たちで泳いで戻ってくる。岸で待つ先生が、こちらだよ、と手を上げていた。

 ひっくり返った艇と離れたパドルには、指導員さんが回った。


「……大丈夫そうだね」


 優子に言うと、優子も2人を見たまま頷いた。

 掴んでいた手の力が、少し緩んだ。


 翔太が浅いところへたどり着き、立ち上がった。

 服のあちこちから水が落ちた。

 少し遅れて春樹も足をつき、先生が待っている方へ歩いた。


「冷てえ……」


 翔太が言った。

 春樹は岸へ上がり、ずれた眼鏡を直した。借りたストラップのおかげで、2人とも眼鏡はなくしていないようだった。


「だから、速さ落とせって言ったじゃん!」

「あのまま曲がれると思ったんだって」

「まっすぐ進むのと、曲がるのは違うでしょ!」


 濡れた袖から水を垂らしたまま、春樹が言った。

 翔太は自分の袖をつまみ、困ったように笑った。


 先生が2人へ順番に声をかけた。

 どこかぶつけていないか聞かれ、2人とも大丈夫だと答える。春樹は、もう乗らないです、と続けた。

 翔太も、今度は異議を言わなかった。


 俺は、ようやく息を吐いた。

 優子も少し肩を下げた。


「2人とも、喋ってる」

「うん。いつもどおりだね」


 返事をしたところで、また春樹の声がした。


「余裕って言ったよね、今」

「うん」

「どこが!」


 無事だと分かったあとで聞くと、どうしてもおかしかった。

 俺が少し笑うと、優子も口元を押さえた。


 水の上から、真弓たちもこちらを見ていた。

 翔太が手を上げると、真弓は信じられないというように首を振った。綾香は、離れたところからでも分かるくらい笑っていた。


 先生に言われ、翔太たちは救命胴衣を外し始めた。

 その下の服も、すっかり濡れていた。

 翔太が腕を下ろすたびに、水が足元へ落ちる。


 隣で、優子が鞄へ手を伸ばした。

 膝の上へ乗せて、口を開く。俺がそちらを見る前に、中から畳んだタオルを2枚取り出していた。


「……これ、持っていく」


 優子が言った。

 2枚を重ねて持ち、立ち上がった。


    * * 優子視点 * *


 翔太くんの前髪から、水が落ちていた。

 春樹くんも、眼鏡を外して顔を拭こうとしていた。でも、袖まで濡れていて、途中で手を止めた。


 手に持っているのは、朝、使う分とは別に鞄へ入れておいた2枚だった。

 畳んだままなので、まだ乾いている。


 持っていったら、使ってもらえるだろうか。

 考えている間にも、2人の足元へ水が落ちていた。

 私はタオルを持ち直した。


「日傘、俺が持つよ」


 勝也が言った。

 顔を上げると、もう隣に立っていた。


「……ありがとう」


 勝也が日傘を開いた。

 その影へ入り、2人のいる方へ歩いた。鞄は、さっき座っていた長椅子の上へ置いてきた。


 近づくと、思っていたよりずっと濡れていた。

 ズボンの裾も、靴も。翔太くんが足を動かすと、水を含んだような音がした。


「うわ、靴まで」

「全部でしょ」


 春樹くんが言った。

 翔太くんは、そうだけど、と自分の足を見た。


 私は、その少し手前で止まった。

 2人ともこちらにはまだ気づいていなかった。

 タオルの端をつまみ直す。


「……翔太くん」


 呼ぶと、翔太くんが顔を上げた。


「ん?」


 私は、重ねていたタオルを少し前へ出した。


「タオル、使う?」


 言えたあとで、春樹くんもこちらを見た。

 声が小さかったかもしれないと思い、もう1枚も見えるようにずらした。


「……2枚、あるから」

「マジで? 使う! ありがとう!」


 翔太くんは、すぐに手を伸ばした。

 でも、タオルへ触れる直前で、自分の濡れた手を見た。


「これ、すげえ濡れちゃうけど、いい?」

「うん。拭くためだから……」


 そう答えると、翔太くんが笑った。


「そっか。助かった」


 1枚受け取り、すぐに顔へ当てた。

 ほっとしたように息を吐いたので、私も少しだけ安心した。


 もう1枚を、春樹くんへ差し出した。


「春樹くんも……」


 春樹くんは、持っていた眼鏡を片手へまとめてから、タオルを受け取った。


「ありがとう、優子」


 さっき翔太くんへ言い返していた時とは、違う声だった。

 急がせない、柔らかい言い方だった。

 勝也にお礼を言われた時と少し似ていて、私は小さく頷いた。


「……うん」


 春樹くんが髪を拭いた。

 翔太くんも、顔からタオルを離して、大きく息をついた。


「生き返った」

「まだ服、びしょびしょだけどね」


 勝也が言った。

 翔太くんは、自分の胸元を少し引っ張った。


「こっちは、どうにもならん」

「着替えないとね」

「うん。戻る」


 素直な返事だった。

 春樹くんがタオルを首へかけ、眼鏡を掛け直した。


「帰ったら、洗って返すね」

「……うん。でも、急がなくていいよ」

「俺も。絶対返す」


 翔太くんも言った。

 春樹くんが横を見た。


「それは、返してよ」

「分かってるって」


 2人の声を聞いて、私は笑った。

 タオルを渡す前は、何て言おうか考えていた。

 でも、渡してしまうと、昨日から聞いている2人の会話へ、そのまま戻っていた。


「優子、よく2枚あったね」


 勝也が言った。


「濡れた時に、替えがあった方がいいかなって……」

「俺らのためみたいじゃん」


 翔太くんが言ってから、春樹くんに見られた。


「勝手に落ちたんでしょ」

「春樹も落ちたじゃん」

「落とされたの!」


 また声が大きくなった。

 私はタオルを持っていた手を口元へ持っていった。

 勝也も笑いながら、そうだね、と頷いた。


 先生が、宿泊棟へ戻る準備をするように2人へ声をかけた。

 今の活動はここまでにして、着替えることになった。

 貸してもらっていた道具を返すと、先生が2人の鞄を持ってきてくれた。


「ほら、そこ。水、落ちてる」


 春樹くんが翔太くんの足元を指した。


「春樹も落ちてる」

「だから、2人とも濡れてるって言ってるでしょ」


 勝也が顔を伏せた。

 笑いをこらえているのが分かって、私もまた笑ってしまった。


 近くで、シャッターの音がした。

 カメラマンさんが、発着場の方からこちらを撮っていた。

 翔太くんが、顔に当てていたタオルを下ろした。


「え、今のも?」


 カメラマンさんが頷いた。


「お友達に、タオルを貸してもらったところね」

「俺ら、びしょびしょなんだけど」


 翔太くんはそう言いながら、少し笑っていた。

 春樹くんは、自分の袖を見た。


「朝は落書きで、今度はこれか……」


 その声で、勝也がとうとう声を出して笑った。

 私も、今朝の食堂を思い出してしまった。


「……ごめんね」


 笑いながら言うと、春樹くんは私を見て、それから自分でも少し笑った。


「今日は、普通に写らせてもらえないみたい」

「さっき、乗ってるところは普通だったよ」


 勝也が言った。

 春樹くんが、ほんと、と顔を上げた。


「うん。ちゃんと漕いでたところ、撮ってた」

「じゃあ、それでいい」


 少し安心したような返事だった。

 翔太くんが、俺もそれがいい、と続けた。


「でも、こっちの方が面白いんだろうな」


 自分でそう言って、自分の服を見下ろした。

 勝也が頷きかけると、翔太くんは、そこは否定しろよ、と笑った。


 私は、カメラマンさんの方をもう1度見た。

 タオルを渡すところまで、写っていたらしかった。

 何か特別なことをしたつもりではなかった。

 持っていたから、使ってもらいたかっただけだった。


 でも、2人とも、すぐに受け取ってくれた。

 ありがとうと、こっちを見て言ってくれた。


 手を下ろすと、隣に勝也がいた。

 日傘は、私の頭の上へ傾けられていた。


「……戻ろうか」


 勝也が、長椅子の方へ少し顔を向けた。

 私は頷いた。


 翔太くんと春樹くんは、先生と一緒に宿泊棟へ戻ることになった。

 歩き始める前に、翔太くんがもう1度こちらを向いた。


「優子、ありがとな!」


 私は、小さく手を上げた。

 春樹くんもタオルの端を持ち上げて、ありがとう、と言った。


 2人の後ろには、濡れた足跡が少しずつ残っていた。

 翔太くんがその跡を振り返り、春樹くんが何か言い返していた。

 曲がり角まで行っても、声が聞こえた。


 勝也と並んでテラスへ戻った。

 屋根の下で、日傘が閉じられる。

 鞄を足元へ下ろし、さっきと同じ場所へ座った。


 勝也は、水の上の2人を探していた。

 私も同じ方を見た。

 加藤さんがこちらに気づき、片手を上げた。私が手を振ると、隣で勝也も振った。


「……使ってもらえたね」


 誰へ言うというより、口から出ていた。

 勝也が、うん、と返した。


「助かったって、言ってたね」


 頷いた。

 あの2人と、まだ長い話ができるわけではなかった。

 声をかける前には、やっぱり少し迷った。


 それでも、返事をしてくれる顔は、さっきから何度も思い出せた。

 次に何かあった時も、今日みたいに声をかけられたらいいと思った。


    * * 勝也視点 * *


 真弓と綾香が戻ってきたのは、それから少しあとだった。

 2人とも順番に岸へ上がり、道具を返した。

 真弓は自分の袖を確かめ、ズボンの膝を軽く払った。


「ちょっとしか濡れなかった」

「これくらいで済んで、よかった」


 綾香が言った。

 真弓も頷き、それから俺たちの方へ歩いてきた。


「あの2人、先に戻った?」

「うん。先生と一緒に」

「そりゃ、あれだけ濡れたら戻るよね」


 真弓はテラスの椅子へ腰を下ろした。

 綾香も隣へ座り、水筒を取り出した。


「見えた? ひっくり返るところ」

「うん。ここから、よく見えた」

「私たち、声がして振り返った時には、もう落ちてたの」


 真弓が言った。

 綾香は水筒のふたを閉めながら、頷いた。


「さっきまで、すごく得意そうだったのに」

「こっちに、もう慣れたとか言ってたよね」

「言ってた」


 俺は、ここでも言ってたよ、と答えた。

 真弓が笑った。


「皆に言ってたんだ」

「途中、本当に速かったんだけどね」


 そう続けると、優子も小さく頷いた。


「……2人で、すごく漕いでたよね」

「うん。最後、速いまま曲がろうとしちゃって」


 真弓が、ああ、と声を出した。

 綾香は水の方を見て、春樹も大変だったね、と言った。


 優子が自分の鞄へ目を落とした。

 綾香が、その動きに気づいて顔を向けた。


「何か忘れた?」

「ううん。タオル、貸したから……」

「あの2人に?」


 優子が頷いた。


「うん。顔も、濡れてたから」

「そっか。助かっただろうね」


 真弓が言った。

 優子は少しだけ笑い、鞄の口を閉めた。


「……使ってくれた」


 その声が、さっきと同じように嬉しそうだった。

 俺は足元の日傘を取り、柄を優子の方へ向けた。


「そろそろ、俺たちも戻ろうか」

「うん」


 優子が受け取った。

 先生のところへ行き、見学していた俺たちも一緒に戻ることを伝えた。

 真弓と綾香の道具が返されていることも確認してもらい、4人でテラスを出た。


     * * *


 来た時と同じ道なのに、帰りは少し静かだった。

 翔太たちがいない分だけ、足音が聞こえた。

 真弓は歩きながら、腕を少し回していた。


「疲れた?」


 聞くと、真弓が頷いた。


「思ったより、腕使う」

「ずっと動かしてたもんね」

「でも、途中から面白かったよ」


 綾香も、うん、と頷いた。

 向きを変える時に何を言っていたのか聞くと、2人が交互に説明してくれた。


「真弓が、こっちって言うから」

「うん」

「こっちって、どっちって聞いてた」

「指したじゃん」

「後ろからじゃ、その指、見えなかったの」


 俺は笑った。

 優子も隣で笑い、あれ、そういう話だったんだ、と言った。


「見てた?」


 真弓が聞いた。


「うん。2人で、何か話してるなって」

「そう。それ」


 真弓が頷いた。

 綾香は、最後の方はちゃんと分かったけど、と付け足した。


 道が少し上りになったところで、優子が鞄の肩紐を持ち直した。

 日傘を傾け、足元を見ながら歩いていた。


「優子、少し持とうか」


 俺が聞くと、優子はこちらを見た。


「……大丈夫」

「うん。でも、ここ、ちょっと坂になってるから」


 肩紐へ手を伸ばすと、優子は少し迷ってから、片方の肩を抜いた。

 日傘を持っている腕を動かしすぎないように受け取った。


「……ありがとう」

「うん」


 真弓が振り返り、歩く速さを少し緩めた。

 綾香も横へ並び、さっき水の上から見えた建物の話をした。

 優子は足元から顔を上げ、あれかな、と道の向こうを見た。


 ずっと俺へ返事をするだけではなかった。

 真弓に聞かれたことへ答え、綾香の指した方を見る。その間にも、日傘の端から俺の方を確かめることはあった。

 目が合うと、少し笑ってくれた。


 宿泊棟の入口が見えた時には、また4人が同じくらいの速さで歩いていた。


     * * *


 部屋の前まで来ると、中から翔太の声がした。


「だから、ごめんって」

「それ、さっきも聞いた」

「何回言えばいいんだよ」


 真弓が俺を見た。

 俺も少し笑って、戸を開けた。


「戻ったよ」


 翔太も春樹も、もう着替えていた。

 濡れた服は脱いでまとめられ、入口に近いところへ置いてあった。翔太は予備の毛布を膝へかけ、春樹はタオルで髪の先を押さえていた。


「お、帰ってきた」


 翔太が言った。

 真弓は鞄を置きながら、2人を見比べた。


「何してたの、ほんと」

「落ちた」

「それは、見た」


 翔太の返事に、綾香まで笑った。

 春樹はタオルを首へ戻し、俺たちの方を向いた。


「あの速さで、急に曲がるから」

「まっすぐなら、うまくいってたじゃん」

「だから、曲がる前に落とせって言ったの」


 春樹は、まだ少し不満そうだった。

 翔太が口を開きかけ、今度は何も言わずに閉じた。


「……悪かったよ。巻き込んで」


 少し小さい声だった。

 春樹はその顔を見てから、息を吐いた。


「もう、いいけど。次は、ちゃんと聞いて」

「聞く」

「返事だけじゃなくて」

「分かってる」


 翔太が頷いた。

 春樹も、それ以上は言わず、水筒へ手を伸ばした。


 俺は優子の鞄を置き、自分の鞄も下ろした。

 優子が日傘をまとめている間に、翔太がこちらを見た。


「勝也たちは、ずっと見てたんだよな」

「うん。真弓たちが戻るまで」

「最後、どうだった?」

「ちゃんと戻ってきたよ」


 真弓が横から答えた。


「普通に、船の上に座って」

「俺も、座ってたんだけどな」

「途中までね」


 綾香が言った。

 春樹が小さく吹き出した。


「途中から、座る場所なくなったからね」


 俺も笑った。

 翔太が、不本意そうに頷いた。


「そこは、俺もびっくりした」

「一番びっくりしたの、春樹でしょ」


 真弓が返すと、春樹は大きく頷いた。

 優子も鞄の前に座り、口元を押さえて笑っていた。


「でも、速かったでしょ。途中まで」


 翔太が、俺へ聞いた。


「うん。あそこは、2人ともすごかったよ」

「ほら」

「まっすぐ進んでたところはね」


 春樹も、そこだけは頷いた。

 真弓が、私たちを追い越していったもんね、と言うと、2人とも少し嬉しそうだった。


「あと、落ちたの、俺らだけじゃなかったし」

「うん。ほかにも、けっこういたね」


 俺が答えると、春樹が翔太を見た。


「それで、あのまま曲がってよかったことにはならないからね」

「そこは、悪かったって」


 春樹が俺を見た。


「こいつ、何て言ってたと思う?」

「余裕って?」

「聞こえてた?」

「うん。テラスからでも、けっこう聞こえたよ」


 そう答えると、春樹は翔太へ顔を戻した。


「ほら。聞かれてた」

「余裕だと、思ったんだって」

「そのすぐあとで、いなくなったもんね」


 綾香が言った。

 真弓が畳へ手をついて笑った。


 翔太も、とうとう笑い始めた。


「あれ、すごい速かったな」

「感心しないでよ」


 春樹が返した。

 言いながら、自分でも笑っていた。


 優子の肩が、俺の腕へ少し触れた。

 顔を向けると、目の端を指で押さえていた。


「……また、笑っちゃう」

「うん。お昼に、あれだけ笑ったのにね」


 小さく返すと、優子が頷いた。

 翔太は俺たちの方を見て、笑いすぎだって、と言った。

 けれど、その顔も笑っていた。


    * * 優子視点 * *


 春樹くんの髪は、まだ少し湿っていた。

 けれど、服は乾いたものに替わっていて、さっきほど寒そうではなかった。

 首へかけているタオルは、私が渡したものだった。


「……もう、寒くない?」


 聞くと、春樹くんがこちらを見た。


「うん。着替えたら、だいぶ平気になった」


 その返事に、私は頷いた。

 翔太くんも毛布を少し持ち上げた。


「俺は、これであったまってる」

「髪も、ちゃんと拭きなよ」


 加藤さんが言った。

 翔太くんは素直にタオルを持ち直し、頭へかけた。


「あー、まだ濡れてる」

「さっきから顔ばっか拭いてたからでしょ」


 春樹くんが言った。

 タオルの下から、そうだったかも、と声がした。


 勝也は、私の鞄を脇へ寄せてくれた。

 皆が置いた荷物が、少しずつ壁の方へまとまっていく。

 机の上には、しおりと水筒が並んだ。


「2人とも、写真撮られてたよ」


 井上さんが言った。

 翔太くんがタオルから顔を出した。


「知ってる。びしょびしょのところだろ」

「乗ってるところも」

「それも、勝也が言ってた」


 少し嬉しそうな返事だった。

 春樹くんも、普通に写ってるのもあるらしい、と言った。


「普通じゃない方も、見たいけどね」


 加藤さんが言った。

 春樹くんは、分かってる、と諦めたように頷いた。


「朝から、そんなのばっかりだし」


 私は、顔を少し伏せた。

 思い出すだけで、また笑ってしまいそうだった。

 勝也が隣で笑ったので、我慢できなくなった。


「優子、思い出したでしょ」


 春樹くんに聞かれた。

 私は少しだけ顔を上げて、頷いた。


「……うん」


 言ってしまってから、笑いすぎたかもしれないと思った。

 でも、春樹くんは困ったように笑い、もうしばらく言われるんだろうな、と自分の頬を触った。


「今、何も描いてないよ」


 勝也が言った。


「知ってる。さっき、鏡見た」

「何回も見てたよな」


 翔太くんが言って、春樹くんに見られた。


「誰のせいだと思ってるの」


 私は、また口元へ手を当てた。


 春樹くんは首のタオルを直し、少し長く息を吐いた。


「顔に描かれるし、お腹は痛くなるし、水には落ちるし……」

「お腹、まだ痛い?」


 勝也が聞くと、春樹くんは首を横に振った。


「今は大丈夫。けど、何だったんだろうな」


 自分のお腹へ手を置いて、少し考えた。


「何か、悪いもの食べたかな?」


 独り言のようだったけれど、皆に聞こえる声だった。

 春樹くんは机の上へ目を向けたまま、続けた。


「昨日の朝ごはん……だったら、昨日の夜にはお腹壊してそうだよな。昨日は何ともなかったし」


 指を1本曲げ、少し首を傾げた。


「お昼のお弁当?」

「皆で、いろいろ分けたよね」


 加藤さんが言った。

 私も頷いた。昨日、広げたお弁当の間を、皆の箸が行き来していた。


「そう。あれだけ分け合ったのに、俺だけっていうのも変だし。勝也、平気だったでしょ?」

「うん」

「俺よりお腹弱いのに」

「まあ、そうだけど……」


 勝也が、少し困ったように笑った。


「そこは、俺で確かめるんだ……」

「いや、ほかに思いつかなくて。俺だけ何か違うもの食べたかなって」


 春樹くんは、また指先を見た。


「夜ご飯も、皆と同じだったし……。今日の朝も、同じの食べたよね」

「うん」


 今度は私が答えた。

 朝の食堂を思い出したけれど、春樹くんだけが食べたものは、私にも思いつかなかった。


「俺だけ、食べた……」


 春樹くんの指が止まった。


「……あっ」


 顔が上がった。

 その目が、まっすぐ翔太くんへ向いた。


「翔太」

「ん?」

「昨日の、あれ」

「あれ?」

「チョコラスク」


 名前を聞いて、私も思い出した。

 小さな袋に、最後の1個だけ入っていたお菓子。

 春樹くんが半分にしようとして、勝也が、春樹に作ったやつでしょ、と言った。

 あの時、私たちは誰も食べていなかった。


「あれ、何で作った?」

「パンと、チョコと、牛乳」


 翔太くんは、すぐに答えた。

 春樹くんは、その顔を見たままだった。


「パン、買ったの?」

「いや。あったやつ」

「……どこに?」

「机の中」


 加藤さんの手が止まった。

 勝也も、翔太くんを見た。


「机って、学校の?」


 春樹くんが聞いた。

 翔太くんは、うん、と頷いた。


「春樹が、片づけろって言ったじゃん。だから、持って帰って」


 春樹くんは口を開いた。

 でも、何も言わずに閉じ、もう1度、ゆっくり聞いた。


「牛乳は?」

「牛乳も」

「……同じ机の中?」

「うん。パンと一緒にあった」


 誰も、すぐには返事をしなかった。

 私は、昨夜の袋を思い出していた。

 きれいにチョコレートがかかっていて、翔太くんが自分で作ったのだと、皆で驚いていた。

 その材料が、学校の机にしまい込まれていたものだなんて、考えもしなかった。


「……お前か」


 春樹くんが言った。

 翔太くんが、少しだけ首を傾げた。


「え?」

「それじゃん。俺が腹壊したの!」

「でも、おいしかっただろ?」

「おいしかったから、全部食べたんだよ!」


 返事が、すぐに重なった。

 翔太くんがタオルを膝へ下ろした。


「だって、片づけろって教えてくれたから、お礼にと思って」

「片づけろとは言ったよ!」


 春樹くんが、自分の胸を指した。


「お前の机の中を、俺の腹に片づけるな!」


 勝也が顔を伏せた。

 加藤さんも口元を押さえた。私も、一瞬遅れて、声が漏れてしまった。


「そういう意味で作ったんじゃないって」

「どういう意味でも、使うなよ。机に放置してたやつでしょ」


 春樹くんが言うと、翔太くんは少し黙った。

 自分の膝を見てから、また顔を上げた。


「でも、俺もいっぱい食べたけど、何ともないよ?」

「お前を基準にするな!」


 今度は、井上さんまで顔を横へ向けた。

 肩が小さく揺れていた。


 勝也が、昨日のことを確かめるように聞いた。


「味見で、ほとんど食べたんだよね」

「うん」

「それで、平気なんだ……」


 翔太くんが頷いた。

 春樹くんはその隣で、納得できないという顔をしていた。


「何で、最後の1個もらった俺だけ、こんな目に遭ってんの」


 翔太くんは、今度は言い返さなかった。

 しばらくして、小さく頭を下げた。


「……ごめん。そんなので腹痛くなるって、考えてなかった」

「考えてよ、そこは」

「うん」


 春樹くんは、もう1度息を吐いた。

 それから指を折りながら、翔太くんへ向けた。


「顔の落書き。腹痛。カヌー」


 曲げた3本の指を、もう1度確かめた。


「今日、全部お前じゃん!」


 翔太くんは、困ったように笑った。


「でも、カレーの時、言い間違えたのは俺じゃないよ」

「そこだけ急に正しいこと言うな!」


 加藤さんが、とうとう声を出して笑った。

 勝也も、駄目だ、と言いながら下を向いた。

 私は口元を押さえたまま、勝也の袖をつかんでしまった。

 春樹くんには悪いと思ったけれど、今の返事だけは、どうしても我慢できなかった。


「……ごめんね」


 小さく言うと、春樹くんも少しだけ笑った。


「いや。そこは、自分でも思った」


 翔太くんが顔を上げかけた。

 春樹くんは、すぐにそちらを見た。


「お菓子の話は、別だからね」

「分かってる。もう、ああいうの使わない」

「うん。ちゃんと片づけて」


 翔太くんが頷いた。

 勝也は顔を上げ、春樹くんへ声をかけた。


「先生にも、今の話、伝えておいた方がいいよね」

「うん。来たら、言う」


 春樹くんが答えると、翔太くんも、俺も話す、と言った。


     * * *


 しばらく休んでいると、廊下からも戻ってきた人たちの声が聞こえ始めた。

 戸の外を何人かが通り、別の部屋の戸が開いた。

 皆も、午後の活動を終えたらしかった。


 花沢先生が、戸口から声をかけた。


「皆、戻っていますか」

「はい。6人います」


 翔太くんが答えた。

 タオルを頭から下ろしていたので、先生にも顔が見えた。


「鳥居君と鶴見君、着替えられたね。気分は悪くない?」

「大丈夫です」

「俺も、大丈夫です」


 2人が順番に答えた。

 続けて春樹くんが、昨夜のお菓子のことを話した。翔太くんも、机の中に残していたパンと牛乳を材料に使ったと、自分から説明した。


 先生の顔が真剣になった。

 いつ食べたのか、ほかに食べた人はいないかと確かめ、私たちにも聞いた。春樹くんと、家で味見をした翔太くんだけだと分かると、2人へもう1度体調を尋ねた。


「またお腹が痛くなったり、気分が悪くなったりしたら、すぐに教えてね。鳥居君もよ」

「はい」


 2人が頷いた。

 先生は翔太くんへ、机の中に放置した食べ物を自分で食べたり、人へ渡したりしてはいけないと伝えた。

 翔太くんも、今度は冗談を言わずに聞いていた。


 それから先生は、濡れた物をまとめた場所を確かめた。夕方の集合まで少し休んでよいことと、そのあとの予定を教えてくれた。


「夜は外へ出るから、上に着る物も用意しておいてね」


 そう言われて、勝也が自分の鞄へ目を向けた。

 翔太くんは、今度はちゃんと着る、と小声で言った。

 春樹くんが、今度は落ちないから、と返した。


 先生も少し笑い、それから私を見た。


「富田さん、午後はどうだった?」


 私は勝也の方を少し見てから、先生へ顔を戻した。


「……楽しかったです」

「そう。テラスから、よく見えた?」

「はい。皆が漕いでるところも、見えました」


 先生が頷いた。

 私は、もう少し続けようとして、少し迷った。


「翔太くんたちが戻ってきて……タオルも、使ってもらえて」


 声が小さくなった。

 先生は急かさずに聞いていた。

 翔太くんが、借りたタオルを持ち上げた。


「これ。めっちゃ助かりました」


 春樹くんも、自分の首へかかった方を少し持った。


「俺も、借りました」


 先生が、よかったね、と笑った。

 私にも、ありがとう、と言ってくれた。


 頷くと、隣で勝也が少し動いた。

 こちらを見ていた。

 目が合うと、何も言わずに笑ってくれた。


 先生は、またあとで声をかけます、と言って廊下へ戻った。

 翔太くんがしおりを開き、次の集合場所へ指を置いた。


「まだ、ちょっと時間あるな」

「今のうちに、荷物しまっときなよ」


 加藤さんが言った。

 翔太くんは頷き、膝から毛布を下ろした。


 皆も少しずつ、自分の荷物へ向かった。

 勝也は私の隣で、鞄の中から羽織る物を出していた。


「優子も、上に着るの、ここに入ってる?」

「うん。あるよ」


 私も鞄を開いた。

 タオルを2枚出したところに、少し隙間ができていた。

 そこへ手を入れて、畳んであった服を取り出した。


 朝、この鞄を持った時には、自分のために使う物ばかりだと思っていた。

 日傘も、水筒も、タオルも。

 でも、今日は2枚だけ、別のところにあった。


 向こうで翔太くんが、タオルを広げ直していた。

 春樹くんは、濡れた物と一緒に押し込まないようにしよう、と声をかけていた。


 借りている物として、ちゃんと気にしてくれていた。

 それが分かると、少し嬉しかった。


「……持ってきて、よかった」


 小さく言うと、勝也が顔を上げた。

 私の見ていた方へ目を向けてから、頷いた。


「うん。2人とも、助かったね」


 勝也はそう言い、自分の服を鞄の上へ置いた。

 私も真似をして、すぐ取れるところへ畳んで置いた。


 勝也にしか言えないことは、まだたくさんあった。

 今日も、勝也が離れてしまったら、まだ怖いと思う。

 でも、勝也の隣にいながら話せる相手は、少しずつ増えていた。


「優子」


 春樹くんに呼ばれた。

 顔を上げると、机の向こうから、こちらを見ていた。


「そこのしおり、取ってくれる?」


 私のそばに、春樹くんのしおりが置いてあった。


「うん」


 手に取って、差し出した。

 春樹くんが受け取り、ありがとう、と言った。


 今度は、返事を考える前に手が動いていた。

 私は少し笑って、勝也の隣へ座り直した。


 翔太くんが、夜のキャンプファイヤーのところを読み上げ始めた。

 加藤さんが、そこはもう聞いたよ、と笑った。


 私も、皆と同じページを開いた。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

カヌーには乗らず、屋根付きテラスで優子と一緒に見学する。林間学校を楽しめているか尋ね、皆と笑えたことや調理の経験を嬉しそうに話す優子を喜ぶ。優子が自分からタオルを届けようとすると、日傘を持って隣を歩く。帰り道では優子の荷物を受け取り、部屋でも友人たちと自然に笑い合う。


・富田 優子

勝也と並んでカヌーを見学し、皆と笑えたことや、一緒に料理できたことを自分の言葉で話す。ずぶ濡れの翔太と春樹を見て、勝也に促される前に、自分のタオルを2枚持っていく。2人に受け取ってもらえたことを喜び、部屋へ戻ってからも自分から様子を尋ねる。勝也の付き添いはまだ必要だが、友人へ働きかけられる場面が増えている。


・鳥居 翔太

春樹と2人乗りのカヌーへ挑戦する。最初は危なっかしいが、慣れると2人の息が合い、かなり速く漕げるようになる。調子に乗って速度を落とさず曲がろうとし、春樹を巻き込んで転覆する。自力で岸へ戻り、優子からタオルを借りる。宿泊棟では、春樹に問いただされ、チョコラスクの材料に机へ放置していたパンと牛乳を使ったことを明かす。自分は味見で多く食べても平気だったが、春樹へ謝り、先生にも事情を話す。


・鶴見 春樹

腹痛が落ち着いたことを先生に伝えてからカヌーへ参加する。翔太と息を合わせ、速度が上がる面白さに自分も夢中になる。曲がる前には速度を落とすよう声をかけるが、翔太の急な動きで転覆する。岸へ戻り、タオルを貸してくれた優子へ礼を言う。宿泊棟で食べた物を声に出して振り返り、チョコラスクに思い当たる。翔太を問いただして材料を知り、腹痛と結びつけて抗議する。顔の落書き、腹痛、転覆がすべて翔太へつながったことにも呆れる。


・加藤 真弓

綾香とカヌーに乗る。最初は艇の揺れに戸惑うが、徐々に息を合わせて漕げるようになる。宿泊棟へ戻る道では、優子も交えて水の上でのやり取りを話す。部屋では翔太たちの失敗に笑いながらも、髪を拭くことや荷物を片づけることを促す。


・井上 綾香

真弓と声をかけ合い、カヌーを楽しむ。真弓の曖昧な方向の伝え方を帰り道で話し、皆の笑いを誘う。翔太と春樹の転覆にも淡々とした言葉で突っ込み、部屋での会話を盛り上げる。


・花沢先生

活動前に春樹の体調を確かめ、勝也と優子を屋根付きの見学場所へ案内する。活動後は部屋で6人の様子を確認する。チョコラスクの材料について報告を受け、食べた人と体調を確かめ、翔太へ注意する。夕方からの予定と上着の準備を伝え、優子が午後の出来事を話す言葉を待つ。


・カヌーの指導員と引率の先生たち

道具や乗艇時の確認、活動中の見守りを担当する。転覆した2人へすぐに声をかけ、岸へ戻ったあとの状態を確かめる。艇などを回収し、活動を切り上げる翔太と春樹の宿泊棟への移動に対応する。


・学校契約のカメラマン2人

テラス側と発着場などに分かれ、乗艇する生徒や見学中の勝也と優子を撮影する。優子がタオルを届けたところや、その後の4人のやり取りも写真に残す。

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