第42話 林間学校2日目 朝
* * 翔太視点 * *
寒かった。
布団を引っ張って肩までかぶり、もう1度、目を閉じた。
足を縮めても、鼻の先だけは冷たい。
小さく息を吐くと、目の前で白く曇った。
部屋の中なのに、息まで白かった。
何か、おかしい。
寝返りを打つと、すぐ近くに椅子の脚が見えた。
その向こうにはカーテンがあった。隙間から、まだ薄い朝の光が入っている。
俺、こんなところで寝たっけ。
体を起こした。
掛け布団の上から、毛布がずり落ちた。
「……は?」
声は、思ったより小さく出た。
昨日、ここへ座った覚えはある。机もあったし、椅子もあった。
でも、寝たのはあっちだった。
閉まっている引き戸を見た。
枕を持ち上げ、布団の下も少し見た。間違いなく、自分が使った布団だった。
布団ごと、ここへ来ていた。
絶対に春樹と勝也だな。
寝る前、春樹は俺の隣にいた。
勝也も、すぐ近くだった。
2人が両側から持って、こっちへ運んだところを想像すると、だんだんおかしくなってきた。
何で、それで起きなかったんだろう。
いや、今はそこじゃない。
床へ足を下ろした途端、また寒くなった。
布団の中へ戻りかけてから、引き戸を少し開けた。
皆、まだ寝ていた。
俺が寝たはずのところだけ、畳が見えている。
やっぱり、やったな。
音を立てないように鞄のところまで行き、上着を羽織った。
それから、筆箱の中を探した。
水性マジックは、ちゃんと入っていた。
もともと、誰かの顔に描こうと思って持ってきた。
昨日はトランプをやっているうちに忘れて、そのまま寝てしまったけれど、今ならちょうどいい。
向こうが先にやったのだ。
キャップを外し、まず春樹の横へしゃがんだ。
春樹は、顔だけ布団から出していた。
眼鏡は枕の脇に置いてある。
しばらく顔を見たが、起きる気配はなかった。
まず、眉毛を太くした。
両方の眉尻を上へ跳ね上げ、眉間にも深いしわを描き足す。
目を閉じているだけなのに、急にものすごく怒っている顔になった。
もう、面白かった。
でも、まだ描ける。
眉間から鼻筋に沿って線を下ろし、鼻の両脇から口元へも、長いしわを足した。
そこで春樹が鼻を動かした。
俺は手を止めた。
待った。
春樹は起きなかった。
そっと息を吐き、続きを描いた。
口の周りを大きく囲むと、唇が急に分厚く見えた。鼻の下にはひげを、顎には短い線と点を足す。
額の真ん中には、大きく「命」と書いた。その横にも、漫画で怒った時についているような印を描く。
少し離れて、出来上がった顔を見た。
眉も、鼻も、口も、全部がやたらとはっきりしていた。
何も知らずに寝ている春樹の顔だけが、ものすごい迫力になっていた。
駄目だ。
ここで笑ったら、起きる。
マジックを握ったまま、反対の手で口を押さえた。
いったん畳へ目を落とす。落ち着いたと思ってもう1度見たら、また息が漏れそうになった。
これで普通に起きてきたら、どうしよう。
自分で描いたくせに、そんなことを考えながら離れた。
次は勝也だった。
布団を踏まないように回り込む。
勝也の顔へ目を向けかけて、その下にある白いものに気づいた。
枕じゃなかった。
白い髪が、布団から少しだけ出ていた。
優子だった。
隣の布団には枕だけが残っている。
優子は勝也の胸のところにすっぽり収まっていて、顔も見えなかった。
勝也の肩から続く腕が、布団の中の優子を抱えている。
いつの間に、そっちへ行ったんだ。
勝也は、よく寝ていた。
優子も、全然動かなかった。
マジックを持った手を少し上げて、それから下ろした。
ここで勝也が動いたら、優子まで起きそうだった。
……まあ、こっちはいいか。
キャップを閉めた。
勝也の分まで、春樹にはよく描けた気がする。
窓のそばへ戻り、自分の掛け布団と毛布を持ってきた。
元いた場所へ座って肩からかぶると、少し落ち着いた。
春樹の顔が見えた。
俺は、また布団へ口を押しつけた。
* * *
しおりをめくったり、窓の方を見たりしているうちに、部屋が少しずつ明るくなった。
まだ誰も起きない。
寝直そうとしても、春樹の顔を思い出すと、目が覚めてしまった。
しばらくして、ようやく春樹の布団が動いた。
「……寒」
春樹が目を開けた。
俺と目が合った。
「早いね」
「うん」
それ以上は、すぐに答えられなかった。
春樹は枕の横の眼鏡を掛け、ゆっくり起き上がった。
眼鏡の上から太い眉がはみ出し、下には鼻筋の線と大きな口が残った。
額の「命」も、隠れなかった。
眼鏡がつくと、ますます変だった。
「何?」
「いや。おはよう」
「おはよう」
春樹は上着を探し、それを着てから窓の方を見た。
俺の敷布団は、まだ向こうにあった。
「ああ。戻ってきたんだ」
「お前ら、やっただろ」
「何を?」
「俺、あそこで寝てた」
指を向けると、春樹は小さく笑った。
「うん。よく寝てたよ」
「勝手に運ぶなよ」
「全然起きないんだもん」
やっぱり、春樹だった。
何も知らない顔で、こっちへ笑っている。
いや、何も知らないのは、本当だった。
春樹が勝也の方を向いた。
白い髪に気づいたらしく、少しだけ目を止めた。
「……ああ」
それだけ言って、自分の布団を膝へ掛け直した。
「寒くないのかな」
「あれは、暖かいだろ」
「そうだね」
話していると、真弓も起きた。
肩まで布団を持ち上げたまま、顔をしかめた。
「何、この寒さ……」
「おはよう」
春樹が言った。
真弓はそちらを見た。
止まった。
目だけが、ゆっくり俺へ向いた。
俺はしおりを開き、ちゃんと読んでいるふりをした。
「……おはよう」
真弓の返事が、途中から細くなった。
そのまま布団へ顔を伏せたので、俺も下を向いた。
その声で綾香も目を開けた。
「もう起きる時間?」
「まだ、ちょっとある」
春樹が答えた。
綾香も、春樹を見た。
目が合ったまま、布団を鼻のところまで持ち上げた。
「……そっか」
肩が動いた。
春樹は気づかず、しおりをのぞき込んできた。
「朝ご飯のあと、体操だよね」
「うん」
俺の返事も、少し変になった。
真弓は上着を着ながら、勝也たちを見た。
布団から出ている白い髪へ目を止め、それから綾香へ顔を寄せた。
「あっちは、よく寝てるね」
「暖かそう」
2人とも小声だった。
起こしには行かなかった。
寒いと言いながら鞄から靴下を出し、布団の中で履いていた。
春樹は、集合に遅れなければいいよね、と言った。
俺たちが着る物を出したり、今日使う荷物をまとめたりしている間も、勝也たちは寝ていた。
何度見ても、白い髪の出ているところは同じだった。
あれ、そんなに暖かいのか。
俺は、自分の毛布をもう少し強く引っ張った。
* * 優子視点 * *
目を開けても、まだ暗かった。
顔のそばに、勝也の服があった。
頭の下には腕がある。
背中にも、腕が回っていた。
暖かい。
そう思って、もう1度、目を閉じた。
少しだけ、近くへ寄った。
布団の中には冷たいところがなくて、起き上がる理由をすぐには思いつかなかった。
勝也の寝息が近かった。
このまま、もう少しだけ寝ていたい。
頬を動かした時、口元に少し違和感があった。
指を当てた。
それから、目の前の服を見た。
胸のところが、小さく、濃い色になっていた。
……あ。
急に目が覚めた。
口元を手の甲で押さえ、もう1度、勝也の服を確かめた。
寝ている間に、よだれを垂らしてしまったらしかった。
気持ちよく眠っていたのは覚えている。
でも、ここまでぐっすり眠ってしまうなんて、思わなかった。
「……勝也」
すぐそばで、小さく呼んだ。
勝也の息が、少し変わった。
「ん……?」
顔を上げると、布団の端から明かりが入った。
勝也が眠そうにこちらを見た。
「おはよう」
「おはよう……。あの、ごめんね」
「どうしたの?」
声をもっと小さくした。
「……よだれ、ついちゃった」
服の濡れたところへ、そっと指を向けた。
勝也も自分の胸元を見た。
「ああ。いいよ、これくらい」
顔も声も、変わらなかった。
私の背中へ回していた手を少し動かし、ずれた布団を戻してくれた。
「……拭くね」
「うん。でも、そんなに気にしなくていいよ」
頭の近くに、昨日使ったティッシュの箱があった。
手を伸ばそうとすると、勝也の方が先に取ってくれた。
「はい」
「ありがとう……」
受け取って口元を拭き、服のところにも、そっと当てた。
勝也はその間も、眠そうにしていた。
「よく寝れた?」
小声で聞かれた。
頷くと、勝也が笑った。
「俺も。暖かかったね」
「……うん」
恥ずかしかった。
でも、勝也が本当に何も気にしていないことが分かると、肩から少し力が抜けた。
濡れたところをもう1度押さえ、使ったティッシュを手の中に畳んだ。
勝也の腕が、まだ背中にあった。
顔を寄せたくなって、その前に、服を汚したばかりだったと思い直した。
「まだ眠い?」
「少しだけ」
「俺も、ちょっと」
その返事が嬉しくて、また目を閉じかけた。
「2人とも、起きた?」
少し離れたところから、声がした。
顔を上げた。
勝也の肩越しに、加藤さんが見えた。
隣には井上さんがいて、向こうには翔太くんと春樹くんもいた。
全員、起きていた。
林間学校だった。
勝也の家でも、私の部屋でもなかった。
布団の中でぴたりと止まると、加藤さんが笑った。
「おはよう。あったかそうだね」
「……おはよう」
返事は出たけれど、顔をどこへ向ければいいか分からなかった。
井上さんも、にこっと笑った。
「よく寝てたよ」
私が寝ていたところを、見られていた。
それに気づいたあとで、さっきの小声まで聞こえていなかったか、急に心配になった。
でも、誰もそのことは言わなかった。
春樹くんが、こちらを見た。
「優子、よく寝れた?」
答えようとして、声が止まった。
春樹くんの顔が、黒い線だらけだった。
額に大きな文字があり、眼鏡の上では太い眉がつり上がっていた。鼻の両側には長いしわがあって、口の周りまで大きく囲まれている。
ひげも、顎の点々もあった。
それなのに、声はいつもの優しい春樹くんだった。
私の返事を待って、少し首を傾げた。
顔を伏せた。
勝也の胸へ額が触れた。
「……うん」
それだけ言うのに、変な息が混じった。
笑ってはいけないと思ったら、余計に春樹くんの顔が浮かんだ。
いつもの優しい声で、あの顔のまま話しかけてくれた。
肩が、勝手に動いた。
「そう。よかった」
また聞こえたので、もう駄目だった。
勝也の服へ口元を寄せ、小さく笑ってしまった。
さっき拭いたところとは別のところを選ぶ余裕だけはあった。
勝也も、春樹くんを見ていた。
胸のところが、少し揺れた。
「……勝也?」
「何でもないよ」
何でもない声ではなかった。
翔太くんは横を向いていて、加藤さんは鞄を開けたまま肩を震わせていた。
「何か、皆、朝から楽しそうだね」
春樹くんが言った。
私は、また顔を隠した。
勝也の腕が背中にあったので、そのまま少しだけ笑いが収まるのを待った。
* * 勝也視点 * *
春樹の顔を、まともに見られなかった。
目を合わせようとすると、額の文字か、太い眉か、大きく囲まれた口が目に入った。どこを見ても駄目だった。
翔太を見ると、しおりへ顔を伏せた。
誰がやったのかは、それだけで分かった。
優子の肩が、まだ少し動いていた。
俺も笑いをこらえながら、背中に添えていた手を緩めた。
「そろそろ、起きようか」
「……うん」
優子が少し頭を上げたので、布団の端へ手を掛けた。
ほんの少し持ち上げただけで、冷たい空気が入ってきた。
「うわ。寒い」
吐いた息が、白くなった。
もう1度、口から息を吐いてみた。やっぱり、目の前で薄く曇った。
「今さら?」
真弓が、上着の袖へ手を引っ込めながら言った。
「こんなに寒かったの?」
「ずっと、寒かったよ」
春樹が答えた。
その顔を見て、俺はまた下を向いた。
優子が小さく肩をすくめた。
上げかけていた頭が、また俺の腕へ戻ってきた。
「……寒い」
「うん。上着、取ろうか」
体を起こそうとしたところで、背中の服が引かれた。
優子の両腕が回ってきて、さっきより近くへしがみつかれた。
「……まだ、出たくない」
額が胸元へ寄った。
布団の隙間から入ってくる空気を避けるように、肩までぴったりくっついてきた。
「もうちょっとだけ……」
いつもより少しだけ甘えた声だった。
俺は布団の端を戻し、優子の肩へ掛け直した。
寝る時に着ていた服は、上下とも薄手だった。
このくらいで大丈夫だろうと思っていたけれど、朝になってここまで冷えるとは思わなかった。
布団から出した肩も腕も冷たくて、俺まで起きる気がなくなってきた。
「……俺も、もう少し入ってたいかも」
「起きるって言わなかった?」
真弓に言われた。
「言ったけど。こんなに寒いと思ってなくて」
「勝也まで戻んなよ」
翔太が笑った。
優子は俺の背中の服をつかんだまま、小さく首を振った。
「……あと、ちょっと。ここ、あったかいから」
「うん。少しだけね」
優子の背中へ、もう1度手を添えた。
また目を閉じそうになったところで、翔太がしおりと毛布を脇へ置き、こちらへ来た。
「ほら、起きろー!」
返事をするより先に、掛け布団が一気に足元へめくられた。
「うわっ、ちょっと!」
「……ひゃっ」
優子が、さらに俺へしがみついた。
俺も思わず、その背中を抱き寄せた。
薄い服だけでは冷たい空気を防げなくて、肩を縮めた。
そこで、翔太が黙った。
俺の腕を枕にした優子が、両腕を背中へ回していた。
頬は胸元へ寄せたままで、俺のもう片方の腕も、その背中を抱えていた。
どれだけくっついていたのか、皆から丸見えだった。
「……めっちゃ、くっついてんじゃん」
翔太が言った。
真弓もこちらを見て、口元を緩めた。
「それは、暖かいよねえ」
「隙間、ないね」
綾香まで言った。
その目が、優子の腕から俺の顔へ動いた。
「お母さんコアラにしがみついてる、赤ちゃんコアラみたい」
言われて、昔、動物園で見た光景を思い出した。
小さなコアラが、お母さんの体へぴったりしがみついていた。
親が動いても離れないところまで、今の優子と少し似ていた。
「……俺、お母さんなの?」
「うん。今、そんな感じ」
綾香が小さく笑い、真弓も口元を押さえた。
俺も少し笑ってしまったけれど、背中の服をつかむ優子の手が緩まないので、うまく言い返せなかった。
全員に見られていると分かって、急に顔が熱くなった。
優子が少しだけ顔を上げた。
皆と目が合うと、耳まで赤くなって、また俺の服へ顔を隠した。
「……寒いから」
胸元から、小さな声がした。
それでも腕はほどかれなかったので、俺もすぐには離れられなかった。
「翔太、布団、返して。ほんとに寒い」
「急に取ったら、寒いでしょ」
春樹も言ってくれた。
翔太は笑いながら、分かった、返すって、と布団を戻した。
優子がすぐに肩のところまで引き寄せた。
ようやく、息を吐いた。
寒かったのに、顔だけはまだ熱かった。
「……上着、着ようか。着たら、もう少し暖かいと思う」
そばで言うと、優子は少し間を置いて頷いた。
背中をつかんでいた手が、ゆっくり離れた。
頭を上げてもらって腕を抜き、今度こそ2人で起き上がった。
優子が自分の上着を取った。
俺もすぐに上着を羽織った。
隣の布団には、使われていない枕がきちんと残っていた。
「枕、あっちだったんだね」
俺が言うと、優子がこちらを見た。
「……うん。持ってくるの、忘れてた」
「そっか」
特に困った覚えはなかった。
暖かかったことだけは、よく覚えていた。
翔太が自分の毛布を肩へ掛け、俺たちのそばに座った。
「勝也、寒くて起きたりしなかった?」
「夜中にトイレには行ったけど、そのあとは、全然」
「俺、寒くて目が覚めたんだけど」
「窓のそばだもんね」
言ってから、翔太の顔を見た。
翔太も俺を見た。
「やっぱ、お前か」
「うん。でも、俺だけじゃないよ。皆で運んだんだ」
「皆?」
真弓が吹き出した。
「私と綾香も持った。4人で、布団ごと」
「え、お前らも?」
翔太が女子2人を見た。
綾香は、小さく頷いた。
「毛布は私が掛けた」
「……全員じゃん」
「優子は見てたよ」
俺が言うと、優子は少し困ったように笑った。
「……本当に、起きなかったの」
「俺、4人で持ち上げられても寝てたの?」
「うん。全然起きなかった」
春樹が答えた。
翔太は窓の方を見た。
自分の敷布団が置かれたままの場所を、もう1度、確かめるように見ていた。
「すげえな、俺」
「そこ、感心するとこ?」
真弓が言った。
俺は笑いながら、優子が上着の袖へ手を通すのを待った。
翔太が、肩に掛けていた毛布を引き寄せた。
「毛布まであって寒かったのに、2人とも、よく寝てたよな」
「うん。一緒の布団だったから、すごく暖かかったよ」
答えると、翔太の目が優子へ向いた。
「優子も?」
優子は上着の前を合わせ、小さく頷いた。
「……うん。勝也が温かくて、ぐっすり寝ちゃった」
「俺も、優子がくっついてたから、全然寒くなかった」
隣を見ると、優子の頬が少し赤くなった。
でも、目が合うと嬉しそうに笑ってくれた。
「いいなぁ! 俺だけ、寒くて起きたのに!」
「私たちも寒かったってば」
真弓がすぐに言った。
綾香も袖口から少しだけ出した指を握った。
「そこの2人だけ、別の部屋みたいだよね」
「本当に、こんなに冷えてるって気づかなかったんだよ」
言いながら、上着の前をしっかり合わせた。
優子が、さっきまで2人で入っていた布団へ少し目を向けた。
俺も戻りたくなったけれど、もう朝ご飯へ行く支度をしなくてはいけなかった。
「俺も、朝までぬくぬく寝たかったなぁ」
「運んでる間も、十分寝てたけどね」
春樹が言った。
翔太は言い返そうとして、その顔を見た途端、また毛布へ口を押しつけた。
翔太の布団を戻し、皆で端へ寄せた。
着替えは使う場所を分け、優子のそばには真弓もいてくれた。
俺は背を向けたまま待ち、終わったよ、と言われてから振り返った。
優子は鞄の中を確かめ、水筒を出した。
俺もタオルと歯ブラシを持った。
「春樹、先に行く?」
「うん。翔太、行こう」
春樹が普通に声をかけた。
翔太は、待って、と顔を背けてから立ち上がった。
歯を磨いて戻ってきた春樹の顔には、額から顎まで、落書きがそのまま残っていた。
水が冷たかったと翔太に文句を言いながら、歯ブラシを片づけている。
顔は洗わずに帰ってきたらしい。
真弓が、何か言いかけた。
でも、春樹がその顔で、忘れ物ない、と聞いたので、結局また笑ってしまった。
「ある?」
「……ない。大丈夫」
真弓は口元を押さえた。
春樹は首を傾げたけれど、それ以上は聞かなかった。
廊下へ出る前に、優子が俺のそばへ寄った。
手を差し出すと、指が重なった。
「……寒いね」
「うん。ご飯、温かいのがあるといいね」
優子が小さく頷いた。
昨日の朝とは違って、班の皆がすぐ前を歩いていた。
優子もその背中を見ながら、ときどき口元を緩めていた。
その先にいる春樹だけは、なぜ笑っているのか、まだ知らなかった。
* * *
食堂には、味噌汁の匂いがしていた。
窓の外はもう明るかったが、ガラスの近くへ行くと冷たかった。
席へ着くと、俺は温かい汁の入った椀を、少しの間、両手で持った。
「あったかい」
「それ、飲むんだよ」
向かいの春樹が言った。
「分かってる」
答えて、目をそらした。
真弓が隣で、もう無理、と口の中で言った。
「何が?」
「何でもない」
春樹は俺たちを見比べた。
翔太は、配られた朝食へ意識を向けているふりをしていた。
ただ、春樹が話すたび、箸を持つ手が止まった。
挨拶の前に、花沢先生が班を見て回ってきた。
「おはよう。皆、起きられたね」
「おはようございます」
春樹が顔を上げた。
花沢先生の目が止まった。
「……鶴見君。その顔、どうしたの?」
誰も答えなかった。
答えたら、笑ってしまいそうだった。
「顔ですか?」
春樹が頬へ手を当てた。
先生は自分の額を指し、それから眉、頬へと指を動かした。
「落書き。額にも、鼻にも……口の周りまで」
「……え?」
春樹の目が、先生の指を追った。
花沢先生も、もう1度その顔を見てから、少し口元を押さえた。
春樹の手が止まった。
翔太が、とうとう吹き出した。
それで、俺も駄目になった。
椀を置き、顔を伏せた。真弓が机へ手をついて笑い、綾香も横を向いた。
優子は両手で口元を押さえていたが、その間から笑う声が聞こえた。
春樹が、ゆっくり翔太を向いた。
「翔太てめー!」
「待って。仕返しだから!」
「何の!」
「俺、あっちに運んだだろ!」
言い返す翔太も、まともに話せていなかった。
春樹は俺たちを見た。
「だから、ずっと笑ってたの?」
頷こうとしたが、その顔のまま聞かれて、また笑ってしまった。
「言ってよ!」
「ごめん……。言おうとは、思ったんだけど」
俺が何とか答えると、真弓が、私も、と続けた。
春樹は信じていない顔をした。
本人が眉を寄せると、描かれた太い眉も動いた。額の怒った印まで、妙に合ってしまった。
真弓が机へ突っ伏し、俺もまた顔を伏せた。
「余計、笑うじゃん!」
優子が、俺の袖を小さくつかんだ。
そちらを見ると、笑いすぎて目の端を指で押さえていた。
「……ごめんね」
「優子まで」
春樹が言った。
それも怒った声ではなくて、俺たちはなかなか笑いを止められなかった。
隣の班を撮っていたカメラマンさんが、こちらへもカメラを向けた。
シャッターの音に、春樹が顔を上げた。
「……今の顔、写った?」
「たぶん、皆で」
俺が答えると、春樹は自分の頬へ手を当てた。
「普通の顔でも撮ってもらうからね」
「うん。あとで、一緒に撮ってもらおう」
そう返すと、春樹は笑いながら、まず洗ってこないと、と言った。
花沢先生が、翔太を見た。
「鳥居君が描いたの?」
「はい」
「朝ご飯の前に落としておいで。鶴見君と一緒にね」
「はい……」
翔太が立ち上がった。
春樹も立ったが、すぐに翔太の袖をつかんだ。
「逃げないでよ」
「逃げねえよ」
「笑うな」
「いや、だって」
振り返って顔を見た翔太が、また笑った。
春樹がその背中を押し、2人は手洗い場の方へ向かった。
食堂の入口から、その先の話し声が聞こえた。
「……お前、何これ」
少し、間があった。
「ちょっと待って。顔、全部じゃん!」
「似合ってるだろ」
「似合ってないよ! 何で額にまで書いてんの!」
鏡を見たらしかった。
真弓が、やめて、と笑いながら俺の腕を軽く叩いた。
「俺、何も言ってないよ」
「分かってるけど」
綾香も笑いながら、水筒を少し自分の方へ寄せた。
「あの顔で、朝ご飯の確認してたんだもん」
「真面目だったね」
「うん。すごく」
春樹のいつもの話し方だったのが、余計に面白かった。
優子が笑いを収めようと息を吐いたところで、手洗い場から、また声がした。
「そこ、まだ残ってる。鼻の横」
「どこまで描いたの」
「あと、顎も」
「お前、楽しんだだろ」
翔太の返事が、笑い声になった。
また皆で笑ってしまった。
少しして、2人が帰ってきた。
春樹の顔は元に戻っていた。
頬に水が残っていて、タオルで拭きながら席へ座った。
「朝から、顔洗わせやがって」
「ちゃんと落ちたじゃん」
「そういう問題じゃないから」
翔太は自分の席へ座り、ようやく箸を取った。
春樹も取ろうとして、もう1度、俺を見た。
「何で勝也には描いてないの?」
翔太の目が、こちらへ向いた。
そのあと、隣の優子へ少し動いた。
「……勝也は、ちょっと描きにくかった」
「俺は描きやすかったんだ」
「うん。すげえ」
春樹が目を閉じた。
綾香が、そこは正直なんだ、と笑った。
優子は何も言わなかった。
ただ、箸袋を持つ指が少し止まり、耳が赤くなっていた。
全体の挨拶が始まり、俺たちも手を合わせた。
味噌汁を飲むと、ようやく指先まで少し温かくなった気がした。
「美味しいね」
優子へ言うと、頷いた。
「……うん」
魚を食べ、ご飯を口へ運んだ。
翔太も、さっきまでのやり取りを忘れたように食べ始めた。
春樹はそんな翔太を見て、それから俺たちへ聞いた。
「ところで、皆、ちゃんと寝れた?」
真弓がすぐに答えた。
「途中からはね」
「途中?」
翔太が聞いた。
「あんたが静かになってから」
「俺、寝てただろ」
「だから、寝てからがうるさかったの」
翔太は、少し考える顔をした。
「いびき?」
「それ」
真弓と綾香が、同時に頷いた。
昨夜も同じように声が重なっていたことを思い出し、俺はまた笑った。
「それで、皆で俺をあっちに移したのか」
「うん。引き戸を閉めたら、だいぶ静かになったよ」
俺が答えると、翔太は自分の茶碗へ目を戻した。
「そんなにうるさかったのか。全然、知らんかった」
「私たちは、知ってる。すごくよく」
真弓が言った。
春樹が、だから先に言ったのに、とつぶやいた。
「春樹は、もっと早く言って」
真弓の返事で、また皆が笑った。
朝食を食べ終える頃には、食堂のあちこちから話し声が上がっていた。
春樹の顔を見て笑うことは、ようやくなくなった。
でも、翔太が、次はもうちょっと細く描くか、と小さく言ったので、春樹にすぐ、次はない、と返されていた。
* * *
外へ出ると、日が当たっているところでも、空気はまだ冷たかった。
息を吐いた翔太が、その先を見た。
「外だと、もっと白いな」
「部屋でも白かったもんね」
春樹も息を吐いた。
真弓は上着の袖へ手を引っ込めたまま、肩を縮めた。
「家の方、こんなに寒くないでしょ」
「昼と全然違うね」
俺が言うと、優子も頷いた。
昨日の午後に歩いた道も、今は別の場所みたいだった。
先生の声で、班ごとに間隔を空けた。
優子は俺の隣に立ち、日傘を閉じると、屋根の影が残っている側へ少し寄った。
俺も同じように場所をずらした。
ラジオから音楽が流れ始めた。
腕を上げると、背中の上着が少し引っ張られた。
翔太は最初の動きだけ、やけに大きかった。
「気合い入ってるね」
「動かないと寒い」
その理由は分かった。
俺も少し大きく腕を回した。
体を前へ倒すところで、隣から小さく笑う声がした。
優子だった。
「……やっぱり、硬いね」
「朝だから、って言いたいんだけどね」
俺が答えると、翔太がこちらを見た。
「昼でも同じだろ」
「うん」
否定できなかった。
春樹も笑い、優子は口元を緩めたまま、俺よりずっと先まで体を倒した。
体操が終わる頃には、来た時ほど寒さが気にならなくなっていた。
先生が、午前は飯盒炊爨だと説明した途端、翔太の顔が上がった。
「来た」
小さいけれど、はっきりした声だった。
真弓がそちらを見た。
「さっき朝ご飯、食べたよね」
「カレーは別」
「別なの?」
「別だろ」
翔太が俺へ向いた。
俺は少し考えた。
「作ってるうちに、お腹減ると思う」
「ほら」
「今の、別って話じゃないからね」
春樹が言った。
優子が日傘を開きながら、また笑った。
* * 優子視点 * *
調理場には、木の机が並んでいた。
屋根があり、机の向こうにかまど、その反対側には流し台があった。
水を出す音と、鍋を置く音が、あちこちで響いていた。
班の場所へ着くと、勝也が私の荷物を机の端へ置いてくれた。
日傘を閉じ、鞄の横へ掛けた。
先生が、道具の置き場所や、火を使う時の注意を説明した。
皆でしおりの手順を確かめ、必要な物を受け取った。
「じゃあ、火は俺が」
翔太くんが、まだ何も入っていないかまどへ向かった。
「待って。その前に野菜洗うのと、お米」
加藤さんが呼び止めた。
翔太くんは足を止めた。
「ああ、そうだった」
「学校で決めたでしょ」
「覚えてる。今、思い出した」
勝也が笑い、米の入った袋を受け取った。
「お米は、俺、やるね」
「……私も、手伝う」
言うと、勝也はこちらを見た。
「うん。一緒に洗おう」
流し台へ並んだ。
勝也が持っている入れ物へ水を入れ、私が中の米へ手を入れた。
「……冷たい」
「こっちの水、冷たいね」
勝也も指を入れ、小さく肩を動かした。
その向こうでは翔太くんがじゃがいもを洗っていて、同じように、冷てえ、と言っていた。
「落とさないでよ」
春樹くんの声がした。
「落としてねえよ」
そのすぐあとで、流し台に、ころんと音がした。
翔太くんがじゃがいもを拾い直した。
「今のは、置いただけ」
「はいはい」
私は笑いそうになり、米の方へ目を戻した。
勝也が水を捨てる時には、私もそばから手を添えた。
家でお母さんと準備する時とは、使う物の形が違った。
でも、勝也が急がずに待ってくれたので、落ち着いてできた。
「これで、いい?」
「うん。ありがとう」
最後に勝也と水の量を確かめた。
蓋をして机へ戻すと、もう、洗った野菜が並べられていた。
井上さんがまな板を置き、加藤さんが皮を剥く道具を出していた。
「じゃがいも、こっちへ置いて」
「はい」
翔太くんが大きく返事をした。
置き終わると、今度こそ、とかまどへ顔を向けた。
「今度は行っていい?」
「いいよ。薪もお願い」
加藤さんが言った。
翔太くんは嬉しそうに春樹くんを呼び、2人で薪を取りに行った。
勝也は、そのあとに続かず、私のそばにいた。
井上さんがじゃがいもを手に取り、皮を剥き始めた。
机は、勝也の家の流し台ほど高くなかった。
手元も、ちゃんと見えた。
私にも、できそうだった。
「……それ、私もやっていい?」
加藤さんへ聞くと、すぐに頷いてくれた。
「もちろん。これ、使う?」
道具を差し出してから、私と勝也を交互に見た。
「勝也のところにいたかったら、そっちでも大丈夫だからね」
かまどの方を見た。
机を挟んだ、すぐ向こうだった。
翔太くんが薪を置き、春樹くんと何か話していた。
ここからなら、勝也が火のところへ行っても見える。
私は勝也を見上げた。
「……私、ここで手伝ってても、いい?」
「うん。俺、あそこにいるね」
勝也が、かまどの手前を指した。
その場所を、もう1度、目で確かめた。
「何かあったら、呼んで」
「……うん」
勝也が向こうへ行った。
私はその後ろ姿を目で追った。
かまどの横へしゃがんだ勝也が、こちらを見て、少し手を上げた。
私も、小さく頷いた。
「ここの皮からで、大丈夫だよ」
井上さんが、自分の手元を見せてくれた。
慌ててそちらへ目を戻した。
「……うん」
じゃがいもを持った。
道具を当てると、薄い皮がくるりと落ちた。
お母さんに教えてもらった時のことを思い出した。
あの時も、最初は力の入れ方が分からなくて、少しずつ確かめた。
井上さんは、私の手が止まっても急かさなかった。
加藤さんは別のじゃがいもを持ち、隣で同じ作業を始めた。
「優子、家でも作ったことある?」
「……この前、お母さんと、ポテトサラダを作ったの」
「あ、じゃがいも使うもんね」
「うん。まだ、教えてもらいながらだけど」
話している間も、ときどき勝也の方を見た。
春樹くんが薪の向きを変え、翔太くんが何か言い、勝也が笑っていた。
見えるところに、ちゃんといた。
「昨日のお弁当も、美味しかったよ」
井上さんが言った。
手元から顔を上げた。
「……ありがとう。お母さんも、一緒に作ってくれたから」
「うん。でも、優子が作ったのも食べたでしょ。美味しかった」
加藤さんが頷いた。
嬉しかったけれど、何と返せばいいか、少し迷った。
結局もう1度、ありがとう、と小さく言った。
向こうで、翔太くんの声が上がった。
「お、ついた!」
見ると、勝也の前で小さな火が揺れていた。
翔太くんが大きめの薪を持ち上げ、春樹くんに止められていた。
「まだ、それじゃない」
「何で?」
「今それ置いたら、潰れるから」
勝也が細い方を指した。
翔太くんは持ち替えて、今度は少し慎重に置いた。
「……勝也、早いね」
思わず言うと、加藤さんもそちらを見た。
「火、もうついたんだ」
「うん」
私が返事をすると、井上さんが笑った。
「優子、よく見てるね」
手元へ目を戻した。
皮を剥いたじゃがいもが、手の中で少し滑った。
持ち直して、剥き残しがないか確かめた。
「……これで、大丈夫?」
「うん。こっちに置いて」
加藤さんの示した入れ物へ、そっと入れた。
自分が剥いた分が、皆の分と並んだ。
次のじゃがいもを取った。
今度は、さっきより少しだけ手が迷わなかった。
* * 勝也視点 * *
「だから、火の係って、全部いっぺんに入れる係じゃないよ」
春樹が言った。
翔太は薪を両手に持ったまま、火を見ていた。
「いっぱい燃やした方が、早くできるじゃん」
「燃えたらね」
「燃えるだろ」
「隙間、なくなるから」
俺はしゃがみ直し、薪の間を指した。
「ここ、少し空けておこう。空気が通るように」
「なるほど」
翔太は真剣に頷いた。
次に置く時には、さっきより少し間を空けた。
火が大きくなると、手の甲へ熱が届いた。
後ろから風が来るとまだ冷たいのに、かまどの前だけは暖かかった。
「ここ、いいな」
翔太が言った。
「あったかい?」
「うん。ずっとここにいたい」
春樹が、今朝ここで寝ればよかったのに、と言った。
「布団、燃えるわ」
「分かってるんだ」
俺は笑いながら、机の方を見た。
優子がじゃがいもを剥いていた。
真弓の手元を見て、それから自分のじゃがいもへ目を戻している。
顔を上げた時に目が合ったので、軽く頷いた。
優子も頷き、また続きを始めた。
「優子、手伝ってくれてるね」
春樹が小さく言った。
「うん。ここなら見えるって」
「そっか」
それ以上、大きな声では話さなかった。
春樹は少し薪を足し、火の向きを確かめた。
野菜の準備が進むまでに、飯盒を置く方と、鍋を置く方を整えた。
先生にも見てもらい、米の入った飯盒を運んだ。
持ち手を掛けるところを確かめると、翔太が横から手を出してきた。
「俺、蓋持つ」
「今、開けなくていいよ」
「あ、そっか」
春樹が笑った。
「何かしたくてしょうがないんだね」
「火の係だからな」
「蓋の係には、なってないよ」
俺も笑い、飯盒を置いた。
昨日、あれだけ楽しみにしていたのだから、何かするたびに手を出したくなるらしかった。
真弓がこちらを呼んだ。
まな板の上には、切った野菜がまとまっていた。
綾香が肉を準備し、使い終わった道具を分けて置いていた。
「そっち、鍋いける?」
「うん。大丈夫」
俺が答えると、翔太が立ち上がった。
「俺、炒める」
「火は?」
真弓が聞いた。
翔太は俺と春樹を見た。
「交代で」
「何でもやりたいんじゃん」
言いながらも、真弓は木べらを渡した。
綾香が、じゃあ先にこれ、と順番を伝えた。
肉が鍋に入ると、音が変わった。
翔太は急に静かになり、真面目な顔で動かし始めた。
「急に集中したね」
俺が言うと、翔太は鍋を見たまま答えた。
「これ、焦がしたら、全員の肉が減る」
理由がはっきりしていた。
春樹が、それは困る、と頷いた。
木べらを動かす翔太へ、横からカメラが向けられた。
今度の翔太は気づかずに、真剣な顔で肉を炒めていた。隣で綾香が次の野菜を持ち、真弓と優子も鍋を見ている。
カメラマンさんはその様子を何枚か撮ると、隣のかまどへ移っていった。もう1人は、水道で米を洗っている別の班を撮っていた。
手を動かしていると、カメラのことはすぐに忘れてしまった。
俺は飯盒の方へ戻った。
向こうで野菜が鍋へ入り、翔太がまた大きな声を出した。
「すげえ、いっぱいになった」
「6人分だからね」
綾香が答えた。
優子は空いた入れ物を受け取り、流し台へ運んでいた。
俺が見ていることに気づくと、少し笑った。
その時、横にいた春樹が腹へ手を当てた。
「どうしたの?」
「……ちょっと、腹が変」
春樹は腰を伸ばし、もう1度、座り直した。
さっきまでと、少し顔つきが違った。
「トイレ、行ってくる」
「うん。こっちは見てるよ」
近くの先生へ春樹が声をかけた。
腹が痛いことを伝え、場所を聞いてから歩いていった。
翔太が鍋から顔を上げた。
「春樹、どこ行った?」
「お腹痛いって。トイレ」
「まじか」
翔太は春樹が行った方を見た。
その間に木べらが止まり、真弓に、そっち見て、と声をかけられた。
「あ、悪い」
また鍋を動かし始めた。
真弓も春樹の行った方を見てから、綾香へ顔を戻した。
「あとで戻ってきたら、座っててもらおう」
「うん。こっちはできるし」
綾香が答えた。
優子が俺のそばへ来た。
「……春樹くん、大丈夫かな」
「うん。先生にも言ってたから。戻ってきたら、聞いてみよう」
優子は頷いた。
火の方へ目を向け、少し離れたところでしゃがんだ。
「……私、何かできる?」
「じゃあ、そこの細い薪、取ってもらっていい?」
指すと、優子が立って取ってくれた。
両手で運び、俺の横へ置いた。
「ありがとう」
言うと、少し顔が明るくなった。
俺はそのうちの1本を取り、火の様子を見ながら足した。
「近いと、暖かいね」
「うん。朝から、ここにいたかったね」
優子が小さく笑った。
俺の手元をしばらく見てから、机の方へ顔を向けた。
「……向こうも、片づけるの、手伝ってくるね」
「うん」
優子が立ち上がった。
真弓へ声をかけ、使った入れ物を集め始めた。
俺は見送ってから、飯盒の方へ目を戻した。
今日は、優子が何度も自分から、手伝う、と言っていた。
* * *
鍋に水が入り、しばらく待つ時間になった。
翔太は、待つのが少し苦手らしかった。
蓋の上からのぞき、横からのぞき、結局また鍋の前に戻ってきた。
「もう、カレーっぽい匂いする?」
「まだ、ルウ入れてないよ」
真弓が言った。
「でも、何かいい匂いする」
「肉と野菜の匂いはするね」
俺も頷いた。
朝食を食べた時は十分だったのに、こうして火のそばで待っていると、また腹が減ってきた。
「味見、誰がする?」
翔太が聞いた。
綾香が、翔太以外、とすぐに答えた。
「何で!」
「昨日、味見で1個になったって言ってたじゃん」
優子が笑った。
俺も、ラスクの小さな袋を思い出した。
「鍋だよ。1個にはならないだろ」
「だから、もっと困るんだよ」
真弓が言った。
翔太は、カレー全部は食わない、と言い返した。
「全部じゃなかったら、食べるの?」
「味見はする」
綾香が、やっぱり、と笑った。
春樹が戻ってきたのは、そのあとだった。
歩く速さはいつもと変わらなかったけれど、まだ腹のあたりを少し気にしていた。
「大丈夫?」
俺が聞くと、春樹は頷いた。
「ちょっと、まし。先生に、座っててって言われた」
「うん。こっち、見てるから休んでて」
真弓が椅子を指した。
春樹は、ありがとう、と言って座った。
「火、大丈夫?」
「うん」
俺は飯盒の方を見せた。
春樹は少し前へ体を傾け、火の様子を見た。
「そっち、ちょっと強くなってる」
「このくらい?」
「うん。それくらいがよさそう」
言われたところを直すと、春樹はようやく背中を起こした。
翔太が笑った。
「座ってても、火の係なんだな」
「翔太が全部入れそうだから」
「もう分かったって」
翔太は手にしていた薪を、そっと元へ戻した。
俺はそれを見てしまった。
春樹も見ていた。
「……今のは、別に入れるつもりじゃなかった」
「うん」
俺たちの返事が重なった。
真弓が、信用されてないね、と笑った。
先生が様子を見に来たので、飯盒と鍋を確かめてもらった。
そのあと、先生は春樹へも声をかけた。
春樹はさっきより落ち着いたと答えたが、無理に作業へ戻らず、しばらく座っていることになった。
優子が水筒を出し、春樹の荷物の横へ置いた。
「……ここに、置くね」
「ありがとう」
春樹が受け取った。
優子は少し頷き、それから俺のところへ戻ってきた。
鍋の蓋を取ると、白い湯気が上がった。
綾香が野菜の煮え具合を確かめ、真弓と顔を見合わせた。
「そろそろ、いいかな」
「うん。ルウ、入れよう」
翔太がすぐに立った。
「俺、混ぜる」
「じゃあ、こっち持って」
真弓から木べらを受け取ると、翔太は少し嬉しそうだった。
綾香が手順を確かめながらルウを入れた。
さっきまでの匂いが、はっきり変わった。
「あ、カレーだ」
翔太が言った。
「うん。カレー作ってるからね」
春樹が椅子から答えた。
俺も笑いながら、飯盒の方へ向かった。
火から下ろすところは、先生に見てもらいながら進めた。
置く場所を空け、まだ熱い持ち手へ気をつけて運んだ。
翔太がこちらを振り返ったので、俺は先に言った。
「今は、開けないよ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔に書いてあった」
そう答えると、春樹がこちらを見た。
「俺には、本当に書いてあったんだけど」
真弓が、また思い出しちゃうから、と笑った。
優子も顔を伏せた。
「もう消えた?」
春樹が、今さらのように自分の頬へ触った。
「消えてるよ。大丈夫」
俺が答えると、春樹は頷いた。
「今度、翔太の眼鏡に描こうかな」
「やめろよ。見えねえだろ」
「じゃあ、分かった?」
「顔は、見えるじゃん」
春樹が、そこじゃない、と言った。
俺は優子と目が合い、2人で少し笑った。
食べる場所へ皿とスプーンを運び、6人分を並べた。
優子は枚数を確かめ、空いているところへ水筒を置いた。
そのあと、飯盒の前へ戻ってきた。
「……ご飯、できたかな」
「どうだろうね」
俺も少し緊張していた。
家では炊飯器に任せている。焼く料理ならいつもやっていても、これは勝手が違った。
先生に確認してもらってから、蓋を開けた。
湯気がふわりと上がった。
中に、白いご飯が見えた。
「おお」
翔太が鍋の向こうから声を上げた。
春樹も立ち上がらないまま、少し首を伸ばした。
しゃもじを入れると、ご飯がほぐれた。
真弓が横からのぞき、できてるじゃん、と言った。
「よかった」
俺は、思っていたより大きく息を吐いた。
隣で優子も笑った。
「……美味しそう」
「うん。お米、洗ってくれたからね」
言うと、優子は首を少し振った。
「勝也も、一緒に洗ったよ」
「じゃあ、2人で洗ったから」
優子が小さく笑った。
春樹が、火も見たからね、と言ったので、俺はそちらへ頷いた。
「うん。そっちも」
「俺も、薪入れたぞ」
「知ってるよ」
翔太が満足そうに鍋へ向き直った。
真弓が、全員、何かしらやってるでしょ、と笑った。
ご飯を皿へよそった。
最後の方に、少しだけ香ばしいところもあった。
翔太が欲しいと言い、俺も少し取った。
優子は初めて見るようにのぞいたあと、ほんの少しだけ、試してみると言った。
カレーもできた。
綾香と真弓が味を確かめ、頷き合った。
翔太がすぐに、俺も、と言った。
「もう、皿によそって食べなよ」
綾香の返事に、翔太は、それもそうだな、と納得した。
その時、春樹がまた腹へ手を当てた。
「……ごめん。もう1回、行ってくる」
立ち上がった春樹を見て、俺も手を止めた。
「まだ痛い?」
「少し。先に食べてて」
「うん。分かった。先生にも言ってね」
春樹は頷き、近くの先生へ声をかけてから歩いていった。
真弓が、春樹の分の皿をいったん脇へ寄せた。
「ご飯もカレーも、ちゃんと残しておこう」
「うん」
俺が答えるより先に、翔太が頷いていた。
「春樹の肉、俺、取らないから」
「当たり前でしょ」
真弓が言った。
でも、その声は少し笑っていた。
俺たちは5人で席へ着いた。
春樹の席だけ、少し空いていた。
その前へスプーンを置き直してから、手を合わせた。
「いただきます」
カレーをひと口、食べた。
熱くて、すぐには次を入れられなかった。
少し息を吐き、飲み込んでから顔を上げた。
「美味しい」
翔太も、大きく頷いていた。
「めっちゃ、うまい」
「自分で混ぜたから?」
真弓が聞くと、翔太はそれもあると言った。
「でも、普通にうまい。ご飯も、いい感じ」
俺は少し嬉しくなった。
優子へ顔を向けると、ゆっくりスプーンを口へ運んでいた。
「辛くない?」
「……うん。大丈夫。美味しい」
そう言って、また食べた。
じゃがいもを少し崩し、ご飯と一緒にすくっていた。
「優子が剥いたの、入ってるよ」
真弓が言うと、優子は自分の皿を見た。
「……どれだろう」
「それは、分かんないけど」
真弓が笑った。
綾香も、全部に少しずつ入ってるんじゃない、と言った。
優子はしばらく皿を見て、それから小さく笑った。
「……うん」
俺も、自分の皿のじゃがいもをすくった。
「これかな」
「……そうかもしれないね」
優子がこちらを見た。
俺はそれを食べ、頷いた。
「うん。美味しい」
優子は、よかった、と小さく言った。
そのあと、自分の皿へ戻ったスプーンが、さっきより少し早く動いた。
* * *
春樹が戻ってきた時には、俺たちはほとんど食べ終わっていた。
翔太が空いた席を見て、戻ってきた、と声を上げた。
「どう?」
真弓が聞いた。
「今は、落ち着いた。先生のところで、ちょっと休んでた」
「そっか」
春樹は椅子へ座った。
俺が立とうとすると、綾香が先に皿を持っていた。
「食べられそう?」
「うん。少しずつ食べる」
春樹の返事を聞いて、綾香が頷いた。
残していたご飯とカレーをよそい、前へ置いた。
「ありがとう。ごめんね、皆」
「いいよ。まだ、片づけもこれからだし」
俺が答えると、優子も小さく頷いた。
春樹はスプーンを取り、いただきます、と言った。
ひと口食べて、少し目を上げた。
「……うまい」
「だろ」
翔太が、自分のことみたいに返した。
春樹がもうひと口食べるのを見て、俺も少し安心した。
「ご飯、ちゃんとできてたね」
「うん。春樹に火、見てもらったから」
「最後、勝也が見てくれたでしょ」
「途中まで、指示してたよ」
そう答えると、春樹が笑った。
「座ってただけだけど」
「薪、全部入れられそうになってたから」
真弓が言った。
翔太が、もうその話いいだろ、と口を挟んだ。
食べ終わった皿を少しまとめた。
すぐに全員で片づけ始めるには、春樹の食事がまだだった。
鍋のところを見て、先生の説明まで少し待つことにした。
翔太が、春樹へ顔を向けた。
「結構、長かったな」
「うん」
「そんなに、腹痛かった?」
「まあね」
春樹はスプーンを動かしていた。
翔太が、少し声を落とした。
「うんこ、そんな出たの?」
真弓が、今その話する、と言った。
春樹も、皿から顔を上げないまま返した。
「人がうんこ食べてる時に、カレーの話しないで」
スプーンが、春樹の口へ運ばれた。
俺は、手にしていた皿を置いた。
真弓が顔を上げた。
翔太だけが、動かなかった。
「……お前、まじか」
低い声だった。
春樹の皿を見て、それから春樹の顔を見た。
本当に引いていた。
俺は吹き出した。
真弓も、同時だった。
「ちょ、春樹……」
そこまでしか言えなかった。
口を押さえても笑いが漏れた。
春樹は、俺たちを見た。
「何?」
翔太が、まだ真面目な顔をしていた。
それを見たら、余計に駄目だった。
「何で笑ってるの?」
春樹が聞いた。
真弓は片手を上げたけれど、説明できなかった。
優子も口元を押さえ、肩を震わせていた。
綾香が、ゆっくり立ち上がった。
少しだけ、口の端を上げていた。
春樹の横へ歩き、皿をのぞき込むように顔を寄せた。
春樹がそちらを向いた。
「……うんこ、美味しい?」
綾香は、満面の笑みだった。
春樹の手が止まった。
翔太の口が開いた。
「あっ、そういうことか!」
翔太が笑い始めた。
春樹は皿を見て、綾香を見て、ようやく顔を赤くした。
「違う! 逆! 今の、逆だから!」
真弓が椅子からずり落ちた。
俺も、もう座っていられなかった。
皿や机にぶつからないように少し横へずれたところで、膝が地面についた。
自分の椅子の座面へ腕を重ね、その上に顔を伏せた。
腹が痛かった。
笑うたびに、腹の筋肉が引っ張られた。
「待って……。やめて……」
真弓の声が、低いところから聞こえた。
見ると、机の横の地面へ横向きに倒れ、お腹を押さえていた。
涙が出ているのに、まだ笑っていた。
「やめてって、俺、何も言ってないだろ!」
春樹が言った。
それでまた、真弓が声を上げた。
俺も椅子へ顔を戻した。
「カレー食べてる時に、うんこの話するなって言ったの!」
「言ってねえよ!」
翔太が笑いながら返した。
「お前、自分で食ってるって……!」
「だから、間違えたんだよ!」
翔太は机へ両手をついた。
さっきまで本気で引いていた顔との変わり方が、また面白かった。
綾香は春樹の隣で、まだ笑顔だった。
「ちゃんと聞いたよ。食べてる時にって」
「そこだけ、ちゃんと聞かなくていい!」
春樹が言った。
俺は首を振った。
「無理……。それは、聞こえた……」
ようやく声にできた。
真弓は返事もできず、お腹を押さえたまま笑っていた。
「痛い、腹筋……。ほんと、痛い……」
息を吸い直し、目元を拭いた。
でも、春樹を見るとまた駄目だった。
優子の笑い声も聞こえた。
小さく息を漏らすだけではなく、声を出して笑っていた。
目が合うと、私も駄目、と言うように首を振った。
俺も、もう返事ができなかった。
「お前ら、笑いすぎだろ……」
春樹の顔は、耳まで赤くなっていた。
スプーンを持ったまま、食べるのを諦めたように俺たちを見ていた。
翔太が、ちょっと待って、と手を上げた。
「俺、本当にびっくりしたんだけど」
「お前も、普通に言い間違いだと思えよ!」
春樹の返事に、綾香もとうとう口元を押さえた。
真弓が地面へ顔を向け、もう無理、と言った。
俺は、椅子に伏せたまま、しばらく起き上がれなかった。
* * 優子視点 * *
笑いすぎて、目の端が濡れていた。
指で拭こうとすると、春樹くんの、困った顔が見えた。
朝、額から顎まで落書きされた顔で、首を傾げていた姿が浮かんだ。
今は何も描かれていないのに、また、どうして皆が笑うのか分からない顔をしていた。
思い出して、もう1度、笑ってしまった。
「優子も、ずっと笑ってるね」
春樹くんが言った。
「……ごめん。だって……」
続きが言えなかった。
勝也もまだ椅子へ顔を伏せていた。
加藤さんはようやく体を起こしたけれど、井上さんと目が合うと、またお腹を押さえた。
「今、何も言ってないよ」
井上さんが言った。
「顔が……。さっきの顔、思い出す……」
加藤さんが目元を拭いた。
井上さんは春樹くんの隣から、自分の席へ戻った。
「もう、ちゃんと食べていいよ」
「最初から、そのつもりだったよ」
春樹くんが言った。
翔太くんが、また吹き出した。
食べ物の話をしていたはずだった。
でも、今は誰が何を言っても、さっきの言葉につながってしまった。
勝也が、ゆっくり顔を上げた。
目の端を拭き、お腹を片手で押さえていた。
「……こんなに笑ったの、久しぶりかも」
「俺も」
翔太くんが頷いた。
「春樹のせいで、腹痛くなった」
「俺は、その前から痛かったけどね」
春樹くんは、少し投げやりに言った。
勝也が笑いながら、ごめん、と返した。
少し向こうの通路に、カメラマンさんがいた。
レンズがこちらを向いた時も、加藤さんはまだ目の端を拭いていて、翔太くんは春樹くんへ話しかけていた。
私も勝也につられて笑ったまま、シャッターの音を聞いた。
朝から何枚、撮ってもらったんだろう。
どの写真にも、誰かの笑っている顔が写っていそうだった。
近くを通った先生が、こちらを見た。
「どうした、そんなに」
勝也が答えようとして、また言葉を止めた。
春樹くんが先に言った。
「何でもないです。ちょっと、言い間違えただけで」
それだけで、加藤さんの肩がまた動いた。
先生は私たちを見回し、それから春樹くんへ、腹の具合を尋ねた。
「今は大丈夫です。食べてます」
「無理はしないでね。食べ終わったら、また教えて」
「はい」
春樹くんが返事をした。
先生が離れると、翔太くんが何か言いかけた。
「言うなよ」
春樹くんが先に止めた。
「まだ、言ってねえじゃん」
「分かるよ」
翔太くんは、分かるか、と笑った。
今度は、それ以上言わなかった。
ようやく、春樹くんが食事を再開した。
私たちも少しずつ呼吸が落ち着いてきた。
勝也が立ち上がり、椅子へ座り直した。
「足、大丈夫?」
小さく聞くと、勝也は笑った。
「うん。お腹の方が、ちょっと痛い」
手で押さえたところを見て、私も自分のお腹へ手を当てた。
少し、同じような感じがした。
「……私も」
そう言うと、勝也がこちらを見た。
それから、また少し笑った。
「いっぱい笑ったね」
「うん」
頷いた。
自分でも、こんなに笑うとは思っていなかった。
まだ、皆へ話しかける前に言葉を探すことはある。
勝也が見えなくなったら、きっとまだ怖い。
でも、今は、春樹くんがまた何か言うかもしれないと思って、そちらを見ていた。
笑うのをこらえていたら、加藤さんと目が合った。
加藤さんも、まだ少し笑っていた。
「……面白かったね」
私から言うと、加藤さんは大きく頷いた。
「もう、しばらく忘れられない」
春樹くんに聞こえたらしく、忘れてよ、と返ってきた。
今度は、春樹くん自身も少し笑っていた。
* * *
片づけが始まると、鍋の周りには洗う物がたくさんあった。
勝也が重い鍋を運び、翔太くんが流し台の場所を空けた。
春樹くんは食事を終えたことを先生へ伝えてから戻ってきて、机の上を片づける役になった。
加藤さんが鍋の外側を見た。
「うわ。真っ黒」
「火、いっぱい使ったからな」
翔太くんが答えた。
「そこ、得意そうに言わないで」
勝也が笑い、鍋を置いた。
先生に教わったように汚れを落とし始めると、思っていたより時間がかかった。
「作る時は、すぐだったのにな」
翔太くんが言った。
「待ちきれないって、何回も言ってたじゃん」
井上さんが返した。
「食べたあとは、短く感じる」
「勝手だね」
加藤さんが笑った。
私は洗い終わった皿を受け取り、水を切って重ねた。
勝也は、手を動かすのが早かった。
でも、今日は私も、そばで見ているだけではなかった。
渡された皿を置き、次の物を受け取った。
「それ、ここでいい?」
「うん。ありがとう」
勝也が答えた。
隣で加藤さんも、こっちのもお願い、と言った。
「……うん」
手を伸ばした。
使い終わった物が、少しずつ元の形に戻っていった。
春樹くんが机を拭いていた。
翔太くんがそばを通りかけ、春樹くんに見られて口を閉じた。
「何も言ってない」
「言う前に顔に出るんだよ」
勝也がその声を聞いて、笑った。
私も、皿を落とさないように持ち直してから笑った。
道具の数を確かめ、先生に見てもらった。
借りた物を返すと、机の上には、自分たちの鞄と水筒だけが残った。
勝也が濡れた手を拭きながら、こちらへ来た。
「お疲れさま」
「……お疲れさま」
同じ言葉を返した。
勝也が、私の前の机を見た。
「優子、いっぱい手伝ってくれたね」
「そんなに、いっぱいじゃないよ」
「お米も洗って、じゃがいもも剥いて、片づけもしてくれたでしょ」
言われて、自分の手を見た。
冷たい水の感じが、まだ少し残っていた。
どれも、皆と一緒にしたことだった。
自分だけで何かを全部できたわけではなかった。
それでも、勝也の言ったことは、本当に全部、自分でやったことだった。
「……うん」
返事をすると、勝也が笑った。
「ごちそうさま。美味しかった」
昨日のお弁当とは違った。
今日は勝也も、加藤さんも、井上さんも、春樹くんも、翔太くんも、一緒に作っていた。
「勝也も、作ったよ」
「うん。じゃあ、お互いに、ごちそうさまかな」
少しおかしくて、私も笑った。
「……ごちそうさま」
勝也へ言った。
勝也は、どういたしまして、と返してくれた。
向こうで翔太くんが、自分の鞄を持ち上げた。
「次、カヌーだよな」
「まだ、説明があるでしょ」
春樹くんが答えた。
翔太くんは、分かってる、と頷いた。
勝也が私の鞄へ手を伸ばした。
私も持ち上げ、肩へ掛けた。
「……今は、持てるよ」
「うん。じゃあ、重くなったら言ってね」
頷いた。
日傘を取り、屋根の外へ出る前に開いた。
もう片方の手へ、勝也の手が重なった。
朝、布団の中で感じていたのと同じ、知っている暖かさだった。
今はその向こうに、皆の背中もあった。
加藤さんが振り返った。
「優子、行こう」
「……うん」
勝也と並んで歩き出した。
春樹くんが翔太くんへ何か言い返し、井上さんが笑った。
その続きを聞きたくて、私も顔を上げた。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
優子を腕枕にし、抱き締めたまま暖かく眠っていたため、班の中では優子と最後に目を覚ます。優子が胸元の服によだれをつけてしまったことも気にせず、よく眠れたことを喜ぶ。飯盒炊爨では米と火を担当し、女子2人と作業する優子へ、見える場所から応える。春樹の言い間違いと翔太の本気の反応に、膝をついて椅子へ顔を伏せるほど笑ってしまう。
・富田 優子
自分の枕は元の布団へ残したまま、勝也の腕枕で朝まで熟睡する。起床時、勝也の服を少し濡らしてしまったことに気づき、小声で謝る。皆が起きていることを知って照れ、春樹の落書きには勝也の胸へ顔を隠して笑う。飯盒炊爨では勝也と米を洗ったあと、彼の姿が見える中央の机で真弓・綾香と野菜の準備をする。昼食では声を上げて笑い、片づけにも自分から加わる。不安がすべて消えたわけではないが、友人たちとの時間を楽しめている。
・鳥居 翔太
寒さで最初に目覚め、広縁へ運ばれたことを春樹と勝也の仕業だと決めつける。もともと持参していた水性マジックで春樹の額から顎まで派手に落書きするが、勝也の胸元から少し出た優子の白い髪に気づき、2人を起こさないよう勝也は見逃す。皆が起きたあと、部屋で布団を運んだのは4人だったと知る。一緒の布団で暖かく眠れたという勝也と優子を、素直に羨ましがる。火の係を楽しみ、調理にも積極的に手を出す。春樹の言い間違いを最初は文字どおりに受け取り、綾香のひと言で気づいて大笑いする。
・鶴見 春樹
翔太のあと、間を空けて寒さから目覚める。自分の顔への落書きを知らずに過ごし、朝食で花沢先生に指摘されて発覚する。飯盒炊爨では火加減を気にかけるが、途中で腹痛のため作業を離れ、先生に伝えて休む。食事も1人遅れて始める。落ち着いてカレーを食べようとして言葉を取り違え、班全員の笑いを誘う。最後は赤い顔で、笑いすぎだと抗議する。
・加藤 真弓
綾香とともに、春樹に続いて寒さで目覚める。飯盒炊爨では事前に決めた役割を思い出させながら班を動かし、優子が無理なく手伝えるよう声をかける。春樹の言い間違いと綾香の追い打ちに、地面へ倒れ込んで笑い泣きする。
・井上 綾香
調理の手順を確かめ、真弓と一緒に野菜や鍋を担当する。優子の作業を急かさず、隣で手元を見せる。春樹が自分の言い間違いに気づかないでいるところへ近づき、満面の笑みで問いかけ、皆の笑いをさらに大きくする。
・花沢先生/活動を担当する先生たち
花沢先生は朝食で春樹の落書きに気づき、翔太と一緒に洗ってくるよう促す。活動を担当する先生たちは調理や火の扱いを見守り、腹痛を申し出た春樹の様子を確かめ、休む時間を設ける。
・学校契約のカメラマン2人
朝食や飯盒炊爨でも2人で分担して各班を撮影する。朝食で笑い合う勝也たち、調理に集中する姿、昼食中に皆が笑う様子など、ポーズを取っていない瞬間も写真に残す。




