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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
46/52

第41話 林間学校1日目 夜


そういえばカメラマン居たよね…


と思って40話も少し書き直しました



    * * 勝也視点 * *


 翔太の言う、火の係としての実力は、明日にならないと分からなかった。

 今のところ確かめられたのは、薪を足す動きの説明だけで、隣の春樹に肘が当たるということだった。


「だから、こうやってさ」

「うん。分かったから、そこに薪があるつもりでも俺はいるよ」


 春樹が肩を引いた。

 翔太は、悪い、と笑い、今度は誰もいない方へ腕を動かした。


「火、俺も見るからね」


 俺が言うと、翔太が大きく頷いた。


「頼む。米もあるし」

「うん。ご飯を忘れてカレーだけになるのは嫌だし」

「私たちも嫌だよ」


 真弓がしおりを閉じた。

 隣の優子は、俺たちの話を聞きながら、自分のしおりへ指を挟んでいた。


「……お米、洗うのは、私も手伝うね」

「うん。お願い」


 明日やることを話しているのに、もう少し腹が減ってきた。

 昼の弁当をあれだけ食べて、午後には皆で歩いた。畳へ座って足を休めていると、今度は夕食が気になってくる。


「今日の夕飯、何だろうね」

「それ、俺も思ってた」


 翔太が、待っていたように顔を上げた。

 真弓が俺たちを交互に見た。


「今、お昼食べたばっかりじゃん」

「今じゃないよ。結構歩いたよ」

「歩く前も食べる話してたけど」

「それは、食べる前だから」


 春樹が、どっちにしても話すんだね、と笑った。

 優子も、閉じたしおりで口元を隠した。


 窓のそばに置かれた椅子へ、翔太が移った。

 畳の端からもう少し先へ出たところに、小さな机と椅子がある。昼に部屋へ入った時にも広いと思ったけれど、座る場所が変わると、また違って見えた。

 翔太は背もたれへ体を預け、足を伸ばした。


「ここ、いいな。家にも欲しい」

「自分の部屋あるじゃん」

「部屋じゃなくて、この、窓の前のやつ」


 何と呼ぶのかは、俺にも分からなかった。

 外を見るための場所なのだろう。椅子の向こうには窓が並んでいて、木の向こうの空が少しずつ夕方の色になっていた。


「寒くない?」


 春樹が聞いた。


「今は大丈夫」


 翔太は答えたが、少しすると椅子の上で足を引っ込めた。

 隣の優子も、膝に置いていた手を袖の中へしまっていた。


「窓、閉めようか」

「……うん。さっきより、ちょっと寒い」


 立とうとすると、真弓が先に窓へ向かった。


「私、閉める。翔太、そっちも」

「おう」


 開いていた隙間がなくなると、頬に当たっていた風が止まった。

 翔太は結局、椅子から降りて畳へ戻ってきた。


「昼、歩いてた時は暑かったのにな」

「山の上だから、朝晩は冷えるって言ってたよ」


 綾香が答えた。

 翔太は自分の上着を鞄から引っ張り出した。


「冷えるって、思ってたより冷えるな」

「まだ夜じゃないけどね」

「じゃあ、夜どうなんの」


 俺も少し気になった。

 昼間に脱いだ上着を、もう1度着たくなっていた。


     * * *


 夕食までの時間に、翔太だけが班長の連絡を聞きに行った。

 扉のところで、真弓が声をかけた。


「しおりと、書く物」

「持った」

「聞いたこと、ちゃんと書いてきてね」

「分かってるって」


 言いながら、翔太がポケットへ手を入れた。

 しばらく探したあとで、鞄の前まで戻ってきた。


「……書く物、こっちだった」

「言ってよかった」


 真弓の声に、優子が小さく笑った。

 翔太は筆箱を持ち、今度こそ部屋を出ていった。


「俺も行くんだっけ」


 春樹がこちらを見る前に、俺はしおりの連絡欄を確かめた。


「班長だけ。あとで教えてもらう」

「じゃあ、ここで待ってればいいね」


 優子の指が、俺の袖から少し離れた。

 立つつもりはなかったけれど、それを確かめていたらしい。


「俺は、ここにいるよ」


 小さく伝えると、優子も小さく頷いた。


 綾香が鞄からタオルを出し、畳の上へ置いた。

 その隣へ着替えの袋を並べるのを見て、俺も自分の荷物を開けた。

 帰ってから探さなくていいように、風呂で使う物をまとめておこうと思った。


「勝也君、もうタオル出すの?」

「うん。あとで鞄ひっくり返しそうだから」

「さっき翔太君、もうひっくり返しかけてたよ」


 綾香に言われ、翔太の鞄を見た。

 上着を出したところから、靴下が片方だけのぞいていた。

 戻した方がいいのか少し迷ったが、本人がそのままにしているので触らなかった。


 優子も、自分の鞄を膝の前へ寄せた。

 ファスナーを開け、中を確かめたあと、タオルの入った袋だけを取り出した。

 真弓がそれを見て、少し近くへ座り直した。


「優子、お風呂どうする?」


 優子の手が止まった。


    * * 優子視点 * *


 加藤さんは、自分のタオルを畳んでいた。

 私の返事を待ちながら、袋の口へ指をかけている。


「綾香と先に入ろうかって話してたんだけど。優子も、一緒に入れそう?」


 その言い方は優しかった。

 一緒に来て、と決められたわけではなかった。

 それでも、袋の中のタオルを見ているうちに、別の場所の音を思い出した。


 シャワーの音が、いくつも重なっていた。

 小学校の修学旅行で入ったお風呂だった。


     * * *


「富田さんは、まだなんだね」


 隣から聞こえた声に、手が止まった。

 何のことを言われたのか、聞き返さなくても分かった。


 皆には少しずつ起きている変化が、私にはまだなかった。

 普段は服に隠れているから、並んで座っていても分からない。その時は、私にも違いが分かってしまった。

 自分で気にしていたところを、相手も見ていた。


「……うん」


 それしか言えなかった。

 その子は、驚かせるつもりで言ったようではなかった。


「私も、ちょっと前までそうだったよ」


 そう言って、自分の髪を洗い始めた。

 近くの子が1度こちらを向いたけれど、そのあと誰かが笑ったり、同じことを言い続けたりはしなかった。


 話は、もう終わっていた。

 隣の子は、泡が目へ入ったと言って、別の子へ話しかけていた。


 私だけが、さっきの言葉のところに残っていた。


 髪の色も、目の色も、肌の色も、自分で決めたものではなかった。

 どうしてそうなの、と聞かれた時に、私が答えれば済むことばかりでもなかった。

 答えても、もう1度見られたり、ほかの子を呼ばれたりしたことがあった。


 今度も、自分ではどうにもできないところだった。

 その子が嫌なことを言おうとしたのではないと分かっていても、気にしなくなることはできなかった。


 早く洗って、出たかった。

 誰かがこちらへ顔を向けるたび、次は何を言われるのだろうと思った。


     * * *


「優子」


 隣から、勝也に呼ばれた。

 顔を上げると、こちらを見ていた。


「どうしたの……?」


 タオルの袋を握った手に、力が入っていた。

 加藤さんも、私の方を見ていた。


「まだ決めてなかったら、あとででもいいよ」


 加藤さんが言った。

 頷こうとして、うまく動けなかった。

 代わりに、勝也の袖へ指を伸ばした。


「……勝也」

「うん」


 少しかがんでくれたので、顔を近づけた。

 皆へ聞かせるための声には、できなかった。


「小学校の時にね……修学旅行のお風呂で、ちょっと……嫌だったことがあって」


 勝也は、続きを急かさなかった。

 私がタオルの袋から手を離すと、空いた手を取ってくれた。


「皆と、違うって……言われて」


 そこまで言って、止まった。

 あの時と同じ言葉を、ここでもう1度口にするのは難しかった。


「その子、意地悪で言ったんじゃ、ないと思う。でも……私、気にしてたから」

「うん」

「また、言われたらって……思っちゃって」


 加藤さんも井上さんも、今日ずっと一緒にいてくれた。

 私の返事が遅くても待ってくれたし、地図やスタンプも見せてくれた。

 その2人が、わざと嫌なことを言うとは思っていなかった。


 でも、あの子も、わざとではなかった。


「加藤さんたちが、そんなこと言うって……思ってるわけじゃないの」


 勝也が頷いた。


「うん。分かるよ。嫌だったこと、思い出しちゃったんだね」


 握っていた指を、少しだけ動かした。

 勝也の手は離れなかった。


「……勝也と、一緒がいい」


 言ってから、顔が熱くなった。

 お母さんと話した時にも、そうなるかもしれないとは思っていた。

 でも、自分で頼むと、考えていた時より恥ずかしかった。


 勝也が、少し目を伏せた。

 すぐに返事がなかったので、手を握り直した。


「……駄目?」

「ううん。大丈夫だよ」


 顔を上げて、答えてくれた。


「一緒に入ろうか」


 頷いた。

 困らせたかもしれないと思ったのに、指を離したくなかった。


「……ごめんね」

「うん。恥ずかしいのは、俺もだけどね」


 少し小さな声で言われて、勝也の顔を見た。

 笑っていたけれど、いつもより視線が落ち着かなかった。


「優子が落ち着いて入れる方がいいと思う。あとで、どうするか一緒に確かめよう」


 もう1度頷くと、勝也が手の甲を軽く撫でてくれた。


    * * 勝也視点 * *


 優子のお母さんに頼まれた時には、もっと普通に返事ができていた。


『当日にならないと、分からないよね』


 お母さんは、優子へそう話していた。

 誰と入るか、今ここで決めなくてもいいという言い方だった。


『お風呂、一緒に入ることになったら、その時はお願いね』

『はい。大丈夫ですよ』


 自分でそう答えたのを、覚えていた。

 その返事を取り消したいわけではなかった。ただ、実際に頼まれると、胸の辺りが少し落ち着かなかった。


 優子も同じように、タオルの袋へ目を落としていた。

 さっき話してくれたことを思えば、ほかの方法を今からいくつも尋ねる気にはなれなかった。


 真弓へ顔を向けた。


「優子、俺と入ることにするね」


 真弓の手が止まった。

 タオルを袋へ入れかけていた綾香も、こちらを向いた。


「……一緒に?」

「うん」


 窓の方にいた春樹が、少し首を傾げた。


「同じお風呂を、順番に使うってこと?」

「あ、ううん。2人で入る」


 3人が、少し黙った。

 説明するほど、自分でも恥ずかしくなってきた。


「お母さんとも、そうなるかもしれないって話してて。先生にも、相談してあるんだ」


 そこまで言うと、真弓が優子を見た。

 優子は俺の手を握ったまま、小さく頷いた。


「……私、勝也とがいい」


 真弓は少し目を丸くしたあと、うん、と答えた。


「分かった。じゃあ、私と綾香で先に入ろうか」

「うん」


 綾香も頷いた。

 理由をもう1度聞こうとはしなかった。


「でも、勝也君たちが一緒なのは、びっくりした」


 綾香が、少し声を落として言った。

 俺も頷くしかなかった。


「俺も、普通の顔で言えてるか、あんまり自信ない」

「今、普通の顔ではなかったよ」


 春樹に言われ、優子がうつむいた。

 口元だけ、少し緩んでいた。


「あ、笑った」


 俺が小さく言うと、優子が首を振った。

 でも、さっきより手の力は弱くなっていた。


 その時、翔太が戻ってきた。

 扉を開けるなり、しおりを持ち上げた。


「聞いてきた。夕飯、少し前に廊下に集合だって。それで、食ったあと風呂」

「うん。今、その順番を決めてた」


 真弓が、しおりへ目を向けた。


「私と綾香が先。次、翔太と春樹で、最後に勝也と優子ね」

「分かった」


 翔太は頷き、しおりへ鉛筆を当てた。

 すぐに顔を上げた。


「……最後、誰と誰?」

「勝也と優子」

「え、一緒に入んの!?」


 思っていたより大きな声だった。

 優子の肩が動き、俺はつないでいた手をそっと握り直した。


「翔太、声」


 春樹が言った。

 翔太は口を閉じ、俺たちの方へ少し身を寄せた。


「……一緒に?」

「うん。先生にも、優子のお母さんにも話してあるよ」

「そうなんだ」


 翔太は俺を見たあと、優子へ目を向けた。

 優子が小さく頷くと、しおりへ戻った。


「じゃあ、俺らは2番目な」


 書き込みながら、もう1度だけ俺を見た。


「泊まってんのは知ってたけど、そこまでは知らなかった」

「今、俺たちも同じこと思ったよ」


 春樹が答えた。

 俺は、そうだろうなと思いながら、タオルを袋へ入れた。


 真弓が話を戻した。


「お風呂は目の前のところで、私たちが出たら声かければいいんだよね」

「そう。ほかの人が使う時間とは分けてあるって。分からなくなったら、先生に聞けって言ってた」


 翔太が、書いてきたところを指した。

 普通の部屋の生徒は、大浴場へ順番に行く。ただ、大勢と一緒に入るのが難しい人は、先生へ個別に相談しているらしかった。

 誰が、どういう理由で、という話はなかった。


「あと、消灯の時間になったら、ちゃんと寝ろって」

「そこ、翔太がしっかり聞いてきてくれてよかった」


 真弓が言った。


「何で俺だけ寝ない前提なんだよ」

「今からそんなに元気だから」


 翔太は、まだ夕方だろ、と言い返した。

 この時は、誰もその返事を疑わなかった。


     * * *


 食堂へ移動する前に、部屋の入口へ来た先生から呼ばれた。

 部屋の前の廊下へ、貸し出し用の上着を数枚、運んできたところだった。


「鵜飼くん、そちらの扉、少し押さえてもらえる?」


 荷物を持った先生の手がふさがっていた。

 俺は、はい、と答え、優子へ顔を向けた。


「扉、押さえてくるね。すぐそこ」


 指した先は、部屋の入口だった。

 優子が頷いたので、手を離した。


 立って、扉のところまで行った。

 先生が荷物を抱え直せるように開けて待ち、通ったあとで、壁へ寄せる場所を少し空けた。

 それだけだった。


 戻ろうとした時、俺の名前が聞こえた。


「……勝也」


 優子が立っていた。

 さっきまで座っていた場所から、ほとんど動けずにいた。片方の手で鞄の持ち手を握り、もう片方の手が胸の前に止まっていた。


 すぐ隣で、真弓が優子の顔を見ていた。


「勝也、ここにいるよ。今、戻ってくるから」


 優子は頷こうとしていた。

 でも、俺が顔を見せると、その目が急に潤んだ。


 扉が開いたことで、優子の位置からは俺の姿が隠れていたのだと、戻って初めて分かった。


「ごめん。待たせたね」


 隣まで行くと、優子の手がすぐに服を掴んだ。

 俺は鞄の持ち手をそっと外し、畳の上へ置いた。


「ここにいるよ。もう終わった」


 優子がうつむいたまま近づいたので、背中へ腕を回した。

 肩が小さく震えていた。


「ごめんね。見えなくなっちゃったんだね」

「……うん」


 布の上から背中を撫でた。

 優子は何か言いかけ、息を吸い直した。


「すぐって……分かってたのに」

「うん」

「……勝也、いるのに」

「いるよ」


 返事をすると、服を掴む指に、また力が入った。

 俺も少しだけかがんだ。


「次は、一緒に行こう。扉のところまででも」


 優子が頷いた。

 真弓は、足元の鞄を俺たちの近くへ寄せ、少し離れてくれた。


 もう終わったよ、ともう1度伝えた。

 優子がゆっくり息を吐いたので、その速さに合わせて背中を撫でた。


 午後、皆と笑っていたから。

 自分から翔太へ話しかけていたから。

 そのことと、俺の姿が見えなくなった時にどう感じるかは、同じではなかった。


 優子が少し顔を上げた。

 目の端へたまっていたものを、袖で押さえようとしたので、鞄のそばのティッシュを取って渡した。


「……ありがとう」

「うん」


 落ち着いてきても、優子は俺の服を離さなかった。

 俺も、すぐに歩き出そうとはしなかった。


    * * 真弓視点 * *


 勝也が優子の頭を撫でると、優子の肩が少し下がった。

 さっきは返事をしようとしても息が詰まっていたのに、今は勝也の言葉へ頷けている。


 大丈夫そうだと思って、私も少し息を吐いた。

 隣で、翔太が春樹へ顔を寄せた。


「俺、あれ、見たことある」


 声は小さかった。

 春樹も、勝也たちを見てから翔太へ向いた。


「何を?」

「迷子センター」


 私は翔太を見た。

 翔太は指さしたりせず、膝に置いたしおりを持ったまま続けた。


「迷子になった妹を、お兄ちゃんが迎えに来た時。迎えに来てもらった方が、もう絶対、服離さないやつ」


 昨日、学校でも兄妹の話をしていた。

 今日の勝也は、優子へ顔を近づけ、目が合うまで待っている。何か言われて頷き、もう1度頭を撫でた。


「……迎えに来た人の落ち着き方ではあるね」


 春樹が小さく答えた。

 翔太が、だろ、と頷いた。


 優子を見て笑う気にはならなかった。

 さっき不安になった時の顔を、すぐそばで見ていた。


 でも、勝也がごく自然にかがんで話しかける様子は、確かに、迎えに来た年上の人みたいだった。

 同い年なのに、優子が返事をできるまで少しも急がなかった。


「本人たちには言わないでね」


 私が言うと、翔太は、言わねえよ、とすぐに答えた。


「今、やっと落ち着いたし」


 そう言って、入口の方を確かめた。

 先生はもう別の部屋の方へ行っていて、今すぐ出発しなければならないわけではなかった。


 優子が、勝也へ何か話した。

 ここからでは聞こえなかったけれど、勝也が笑うと、優子もほんの少し笑った。

 そのまま手をつないでもらい、2人で鞄のところへ戻った。


 服を離した代わりに、手を握った。

 勝也が隣へ座ると、優子も自分から肩が触れるところへ寄った。


 怖かったことが落ち着いたあとにも、優子は勝也の顔を見ていた。

 勝也が別の方へ目を向けた時の、少し名残惜しそうな顔を見て、私は視線をしおりへ戻した。


 翔太の例えがぴったりなのは、さっきの数分だった。

 今、勝也の隣に座っている優子を、それだけで説明するのは、少し違う気がした。


    * * 勝也視点 * *


 食堂へ行く頃には、窓の外がだいぶ暗くなっていた。

 廊下へ出ると、部屋よりも空気が冷たかった。優子が俺の手を握り直し、上着の襟へもう片方の手を添えた。


「寒いね」

「……うん。さっきまで、明るかったのに」


 後ろでは翔太が、これでまだ夕方なのか、と言っていた。

 春樹が、自分の袖を引っ張りながら、明日の朝の方が寒そうだね、と返していた。


 食堂が近づくと、話し声が大きくなった。

 椅子を引く音と、食器の触れる音が重なって聞こえた。

 優子の歩幅が少し小さくなったので、俺も合わせた。


「俺たち、あっちだって」


 翔太が、先生の示した机を振り返って教えてくれた。

 真弓が先に荷物の置ける場所を確かめ、綾香が椅子を少し引いた。


「優子、ここ空いてるよ。勝也は隣」


 真弓に言われたところへ、2人で座った。

 優子が椅子の位置を直してから、俺も座り直した。


 机の上には、夕食が並んでいた。

 ご飯に、汁物に、魚と、野菜の入った小鉢があった。湯気の出ている器を前にすると、廊下の冷たさが少し遠くなった。


「おお。ちゃんと夜ご飯だ」


 俺が言うと、隣で優子が笑った。


「……夜ご飯だよ」

「うん。知ってるけど」


 翔太が、俺の前の茶碗も見た。


「ご飯、おかわりできるって」

「本当?」

「さっき先生、言ってた」


 真弓が箸を置いたまま、俺たちを見た。


「そういう連絡は、ちゃんと覚えてるね」

「大事だからな」


 翔太は迷わず答えた。

 俺も、それは大事だと思った。


 食事の挨拶をしてから、箸を取った。

 汁物をひと口飲むと、冷えていた指まで少し温かくなった気がした。


「優子、こっち熱いから気をつけてね」

「……うん」


 優子は器を持ち、ゆっくり口をつけた。

 ひと口飲んだあとで、ほっとしたように息を吐いた。


 向かいの翔太は、もう魚へ箸をつけていた。

 骨を外しているつもりらしいのに、途中で場所が分からなくなったようで、顔を近づけた。


「こっち、取ったっけ」

「今、取ったの、そっち」


 春樹が自分の皿を見ながら答えた。


「何で分かるんだよ」

「同じところ、さっきから見てるから」


 俺も自分の皿を見た。

 慌てて食べるより、少しずつ外した方が早そうだった。


「勝也君、今日はいつもよりゆっくりだね」


 綾香が言った。


「骨があるからね」

「理由、そこなんだ」


 真弓が笑った。

 優子も、箸を持ったまま俺の皿を見た。


「……給食、すぐ食べちゃうから」

「あれは、食べやすい物の日だったし」

「大体いつも早いよ」


 春樹に言われた。

 たぶん、それはそうだった。


 皆で話していると、食べ終わるまでの時間が少し長くなった。

 でも、ご飯は途中でなくなった。

 空になった茶碗を見ていると、翔太も同じ物を持ち上げた。


「行く?」

「うん」


 優子が箸を置き、膝の上で手を動かした。

 さっきのことが浮かび、俺はその顔を見た。


「一緒に行こうか」


 言うと、優子がすぐ頷いた。

 翔太は待っていてくれた。


「俺、先に盛ってるから。急がなくていいよ」


 3人で、ご飯のあるところへ行った。

 優子の茶碗はまだ空いていなかったけれど、そのことを誰かに聞かれることはなかった。

 俺が盛っている間、すぐ隣で待っていた。


「これくらいかな」


 茶碗を見せると、優子が少し目を丸くした。


「……最初より、多くない?」

「そう?」

「うん」


 翔太が、自分の茶碗と比べた。


「俺と同じくらいじゃん」

「じゃあ、大丈夫だね」

「何が大丈夫なの」


 優子が笑いながら言った。

 俺も笑って、しゃもじを戻した。

 その時、近くでカメラが下ろされた。

 食堂を回っていたカメラマンさんの1人が、俺たちを撮っていたらしかった。


「よく食べるねえ」

「おかわりも撮るんですか?」


 翔太が、自分の茶碗を少し見た。


「うん。いい食べっぷりだったから」


 言われて、翔太は照れたように笑った。

 優子も俺の茶碗へ目を戻し、また笑っていた。


 席へ戻ると、真弓が茶碗を見た。


「明日の飯盒、足りるかな」

「人数分は炊くでしょ」

「この2人も、同じ1人分で数えていいのかと思って」


 綾香が、確かに、と笑った。

 翔太は、それは俺に言われても、と自分の茶碗を置いた。


 優子は自分の席へ戻り、また箸を取った。

 俺の茶碗へ時々目を向けながら、少しずつ食べていた。


「お昼、いっぱい作ってくれた理由、分かるね」


 真弓が優子へ言った。

 優子は1度うつむいてから、こちらを見た。


「……うん。やっぱり、あれくらいでよかった」


 俺は、よかったよ、と答えた。

 優子が笑ったので、朝から楽しみにしていた弁当の味を、もう1度思い出した。


     * * *


 食器を片づけ、部屋へ戻ると、翔太が畳へ座ったまま腹をさすった。


「食ったな」

「おかわりしたからね」


 春樹が上着を脱いだ。

 俺も鞄の横へ上着を置いた。優子はその隣へ座り、風呂の袋を抱えた。


 真弓と綾香が、先に準備をした。


「じゃあ、行ってくる。出たら呼ぶから、廊下で待ってなくていいよ」

「分かった」


 春樹が答えた。

 翔太も頷き、タオルを頭へ載せた。


「まだ入らないでしょ」


 真弓に言われ、翔太はタオルを下ろした。


「準備」

「その準備、早い」


 綾香が笑った。

 2人が袋を持って入口へ向かうと、翔太がタオルを肩へかけ、少し顎を引いた。


「俺たちも一緒に入る?」


 いつもより低く、やけに落ち着いた声だった。

 急に格好をつけ始めたので、俺はそちらを見た。


「嫌。絶対嫌」


 真弓は袋を持ち直しながら、すぐに答えた。

 その隣で、綾香も普段どおりの声で続けた。


「私も、全然入りたくない」


 翔太の口元に浮かんでいた笑みが止まった。

 どちらかが笑うのを待つように2人を見たが、真弓はもう扉へ手をかけていた。


「……そこまで言わなくても」


 今度は、いつもの声だった。

 肩からタオルを下ろし、膝の上へ置いた。さっきまで伸ばしていた背中が、少し丸くなった。


「じゃあ、行ってくるね」


 綾香が言い、2人で部屋を出た。

 扉が閉まり、廊下の話し声が遠くなった。

 俺は笑いをこらえながら、隣の春樹を見た。


「俺たち、って言ってたね」

「うん。誘った覚え、ないんだけど」


 春樹の返事に、優子が小さく吹き出した。

 翔太は膝の上のタオルを見つめたまま、そこも拾わなくていいだろ、とこぼした。


 しばらくして、翔太はタオルを畳み直した。

 それからしおりを開き、明日の欄を指で追い始めた。


「飯盒のあと、カヌーか」

「うん」

「春樹、俺ら、ちゃんと進めるかな」

「2人とも同じ方を漕がなければね」

「じゃあ、俺が右」

「まだ乗ってないから、今決めなくてもいいよ」


 俺は笑いながら、そのページをのぞいた。

 優子も隣から顔を寄せた。


「……勝也と私は、見てるんだよね」

「うん。乗るところの近くで、見てよう」


 翔太がこちらを向いた。


「俺らの、見える?」

「たぶんね」

「じゃあ、手、振るから」

「漕ぐ方も、ちゃんとしてよ」


 春樹が先に言った。

 翔太は、分かってるって、と答えたが、手を振る動きはやめなかった。


 優子が、小さく笑った。

 明日の話をする時、さっきまでの緊張が少し薄くなっているように見えた。


 俺は風呂の袋の口を閉めた。

 優子がそれを見て、また自分の袋へ目を落とした。


「あとで、ゆっくり入ろうね」


 小さく言うと、優子が頷いた。


「……うん」


 翔太と春樹は、しおりを見ながら、明日の朝は誰が誰を起こすかという話を始めていた。

 翔太が、俺は起きるから、と言い、春樹が、その言葉、小学校でも聞いたよ、と返した。

 俺は、そのやり取りを聞きながら、優子の手に自分の手を重ねた。


     * * *


 真弓たちが戻ってくると、部屋にシャンプーの匂いが少し広がった。

 綾香がタオルで髪を押さえながら、春樹たちへ声をかけた。


「次、いいよ」

「おう」


 翔太が立った。

 そのまま扉へ向かい、春樹に袋を渡されて戻ってきた。


「準備、どこ行ったの」


 俺が言うと、翔太は、今、持とうと思ってた、と答えた。

 先に出しておいたタオルだけは、ちゃんと手に持っていた。


 2人が向かいの浴室へ入るのを見届けてから、真弓が扉を閉めた。


「広かったよ。シャワーも3つあるし」

「そうなんだ」


 俺が返事をすると、真弓が優子を見た。


「持っていった物、戻すところもあるからね。袋、濡れない場所へ置けるよ」

「……うん」


 優子は袋の持ち手を握り直した。

 綾香がドライヤーを出したので、俺は延長コードに足が引っかからないよう、少し位置を変えた。


 風の音が部屋に響き始めた。

 真弓が何か言ったが、途中が聞こえなかった。


「何?」


 俺が顔を寄せると、真弓はドライヤーを止めた。


「さっき、翔太がお風呂の広さでまた騒ぎそうって」


 言い終わる前に、向かいの方から声が聞こえた。

 言葉までは分からなかったが、翔太の声だということは分かった。


「……もう騒いでる」


 綾香が言った。

 真弓が笑い、優子も肩を揺らした。


 俺は優子の顔を見た。

 さっき、お風呂の話で動かなくなっていた時とは、違う顔をしていた。


「翔太、どこにいても分かるね」


 声をかけると、優子が頷いた。


「……うん。向こうでも、すぐ分かった」


 ドライヤーの音が、また始まった。

 優子の手は俺の近くにあった。今度は、離れないように強く掴んでいるのではなく、指先だけが袖に触れていた。


 真弓は片手で風を当てながら、もう片方の手で櫛を通していた。

 途中で手が止まった。引っかかったところを指でほぐし、もう1度、毛先の方からとかしている。

 少し進めると、また止まった。


「……もう。ここ、また絡んでる」


 真弓が小さくこぼした。

 綾香と交代してからも、櫛をすっと下ろせるところと、途中で止まるところがあった。綾香も無理に引っ張らず、何度か持ち直していた。

 俺は2人の手元を見ながら、長い髪を乾かすのは時間がかかるのだなと思った。


 しばらくして、翔太と春樹が戻ってきた。

 翔太は、広いぞ、と最初に言った。


「聞こえてた」


 真弓が答えた。


「何が?」

「声」

「そんなに?」


 春樹が、浴室だと響くからね、と言った。

 俺は優子と顔を見合わせて、少し笑った。


「じゃあ、俺たちも行こうか」


 優子が袋を持って立ち上がった。

 俺も隣へ立ち、2人で部屋を出た。


    * * 優子視点 * *


 廊下を渡るだけで、浴室の入口へ着いた。

 勝也が扉を開け、先に明かりのついた中を確かめた。


「ここだね」

「うん」


 持ってきた袋を置く場所を教えてもらい、私も隣へ置いた。

 部屋を出るまでは、お風呂へ行くことばかり考えていた。

 着替えの袋を開けてから、勝也も同じ場所にいることを、急にはっきり意識した。


「……勝也」

「うん。俺、向こう向いてるね」


 言い終わる前に、返事をしてくれた。

 勝也も、自分の袋を持ち直していた。


「準備できたら、言ってね」

「……うん」


 声が聞こえる距離にいると分かっているだけで、手を動かせた。

 勝也も、私も、相手に背を向けて支度を済ませた。


 浴室へ入ると、タイルの床に足音が響いた。

 加藤さんが言っていたとおり、シャワーは3つ並んでいた。

 家のお風呂とは違って、少し歩かなければ反対側へ行けないくらい広かった。


「真ん中、空けようか」


 勝也が端のシャワーを指した。


「俺、こっちにする。優子は、そっちでいい?」

「うん」


 真ん中の席を挟んで、別々に座った。

 正面には壁があった。隣を見ようとしなければ、前を向いたままでいられた。


 勝也がシャワーの温度を確かめた。

 私も自分の蛇口へ手を伸ばし、水が温かくなるのを待った。


「そっち、大丈夫?」

「うん。今、温かくなった」

「よかった」


 短い返事が、シャワーの音の向こうから聞こえた。

 さっき思い出したお風呂でも、同じように水の音が響いていた。

 でも、今は、誰かがこちらを見ているかもしれないと思って振り返る必要がなかった。


 勝也は自分の方を向いていた。

 それが分かっていても、顔は少し熱かった。


 髪を洗っていると、向こうのシャワーが1度止まった。

 私の手も止まりかけた。


「勝也?」

「うん。いるよ。シャンプー取っただけ」


 すぐに返事が来た。


「……そっか」

「そっちは、ゆっくりで大丈夫だからね」


 私は前へ向き直った。

 指を動かすと、髪の間の泡が少しずつ増えた。

 今日、木の間を歩いたことや、日傘を勝也に持ってもらったことを思い出した。


 お母さんと家にいる時には、帰ってくる勝也を待っていた。

 学校へ戻ってからは、次の授業も隣にいてくれることを、何度も確かめていた。

 今日は、お風呂を出たあとにも、同じ部屋へ戻る。


 そのことを考えながら、泡を流した。


     * * *


 洗い終わると、勝也が先に湯加減を確かめた。


「少し熱いけど、入れそうだよ」

「うん」


 私も、ゆっくり湯船へ入った。

 勝也は片方の端へ座り、私はもう片方の端へ腰を下ろした。

 2人の間には、まだ十分に空いた場所があった。


 お湯に浸かると、歩いて冷えた足が温まった。

 勝也が、ほっとしたように息を吐いた。


「あったかい」

「うん。廊下、寒かったね」

「ね。戻る時、また寒そう」


 勝也もこちらへ顔を向けたが、すぐ湯船の縁へ目を移した。

 私も、正面の壁を見た。

 話したいのに、ずっと見ているのは恥ずかしかった。


 少し黙ってから、勝也が言った。


「翔太、さっき何て騒いでたんだろうね」

「広いって、言ってたのかな」

「戻ってきてからも言ってたし、たぶんそうだね」

「春樹くんにも、聞こえてるよって言われてそう」


 勝也が笑った。


「言われてそう。すぐ隣にいるんだから、そんな大きい声じゃなくていいよって」


 春樹くんの声で想像できてしまった。

 私が笑うと、勝也も、今日ずっと一緒にいたから分かるね、と言った。


「うん」


 朝、バスへ乗る前は、何を話せばいいか分からなかった。

 翔太くんが大きな声を出すと、それだけで肩に力が入った。

 今も、急に声が聞こえると驚くことはある。

 でも、どういう顔で話しているのか、さっきより思い浮かべられた。


「春樹くん、釣りの時も、そういう感じだったの?」

「落ちる前?」

「うん。リュック、掴まれちゃった時」


 勝也が、思い出したように口を開けた。


「その時は、そんなに落ち着いてなかったよ。いきなり引っ張られたから」

「そうだよね」

「俺も、翔太を支えてるつもりだったのに、一緒に落ちるし」


 バスで聞いた話が、また浮かんだ。

 3人で出かけて、3人ともずぶ濡れになって帰ってきた。

 翔太くんは、それでも竿を離さなかったと言っていた。


「本当に、そんなに大きかったんだ」

「大きかった。俺も見たから、そこは本当」

「翔太くんだけだったら?」

「話すたび、少しずつ大きくなってるかもしれない」


 勝也が真面目な顔で言ったので、笑ってしまった。


「春樹くんも、同じこと言いそう」

「言うと思う。だから、俺らも見ててよかったんだよ」

「落ちちゃったけど」

「うん。落ちちゃったけどね」


 笑いながら返事をしてくれた。

 小学校の時には、知らなかった話だった。

 離れている間、勝也には、私がいないところでも面白いことがたくさんあった。


 前は、そのことを思うと寂しくなる方が早かった。

 今日は、その時に一緒にいた人からも、話を聞けた。


「今度、春樹くんにも聞いてみようかな」

「うん。聞いてみて。引っ張られた方の話も、たぶんいっぱいあるから」


 勝也は、少し楽しそうに言った。

 私が勝也以外の人へ聞きたいと思ったことを、喜んでくれているようだった。


 その顔を見ていると、隣へ行きたくなった。

 端と端に座った時には、話すだけで精いっぱいだった。今は、勝也が笑うと、私もそちらへ顔を寄せそうになった。


「勝也」

「うん?」

「……そっち、行ってもいい?」


 勝也が隣の空いたところを見て、頷いた。


「いいよ」


 私は少しずつ場所を移った。

 もう十分近いと思ったところから、あと少しだけ寄った。

 腰を落ち着けると、少し動けば肩が触れそうな距離になっていた。


「ここでいい?」


 勝也に聞かれ、頷いた。


「うん。ここがいい」


 勝也も、そっか、と頷いた。

 私は隣で、同じ方を向いた。

 次に何を話すか考えながら、少し口元が緩んだ。


 しばらくして、会話が途切れた。

 さっきまで気になっていた沈黙が、今は嫌ではなかった。

 勝也がそばで息を吐く音と、湯船の端から小さく水の動く音が聞こえた。


「昔も、一緒に入ってたよね」


 私が言うと、勝也が頷いた。


「うん。小さい頃ね」

「その時は、こんなに……緊張しなかった」


 最後だけ、小さくなった。

 勝也も、少し黙ってから答えた。


「俺も。お母さんたちに言われると、そうだったなって思うけど」

「うん」

「今、こうしてると、ちゃんと違うね」


 私は湯船の縁へ目を落とした。

 勝也が、昔と変わらず接してくれることが嬉しかった。

 でも、自分まであの頃と同じ気持ちでいられるわけではなかった。


「……私たち、もう中学生だもんね」

「うん」


 返事が、少しだけ照れたように聞こえた。

 それ以上は、何も言えなかった。

 それでも、元の場所へ戻ろうとは思わなかった。

 勝也の声がすぐ隣から聞こえるのが、嬉しかった。


 勝也はしばらくして、今日のお弁当の話をしてくれた。


「卵焼き、また食べたいな」


 顔を上げた。


「今日の?」

「うん。お昼に食べたやつ、おいしかった」

「お母さんが作ってくれるのと、同じ味にしたくて。教えてもらいながら作ったの」

「そうなんだ」

「巻くの、まだ難しいけど」


 端が少し太くなっていたことを思い出した。

 勝也へ渡すところは、形のそろったものを選んだ。


「でも、ちゃんと卵焼きだったよ」

「それは、そうだけど」


 思わず笑った。

 勝也も笑い、それからもう少しゆっくり言った。


「優子が作ってくれたのを、また食べたいってこと」


 返事がすぐに出なかった。

 お母さんと一緒に作ったものだった。それでも、勝也がそう言ってくれると、早起きしたことも、何度も紙を見直したことも、全部嬉しくなった。


「……うん。また、作るね」

「楽しみにしてる」


 私は頷いた。

 顔が熱いのは、お湯のせいだけではなかった。


 勝也が、そろそろ上がろうか、と言った。

 私も頷いた。

 楽しく話しているうちに、指の先まで十分に温まっていた。


「先に出て、向こう向いてるね」

「うん」


 勝也の声を聞きながら、少し待った。

 準備ができたと呼ばれてから、私も湯船を出た。

 それぞれ身支度を整え、持ってきた物を袋へ戻した。


 廊下へ出る前に、勝也がこちらへ手を伸ばした。

 私はその手を取った。


「部屋、すぐでよかったね」

「うん。寒くなる前に戻れる」


 扉を開けると、やっぱり冷たい空気が入ってきた。

 2人で少し肩を縮めながら、向かいの部屋へ戻った。


    * * 勝也視点 * *


「お帰り」


 春樹が、畳の上から顔を上げた。

 翔太はその隣でしおりを見ていたが、俺たちが戻るとすぐに口を開いた。


「広かっただろ」

「うん。広かった」

「な」


 自分で建てた部屋のように頷いた。

 真弓が、もう何回目、と笑った。


 俺は濡れた物を袋から出し、乾かせるようにまとめた。

 優子も隣で、自分のタオルを広げた。

 髪の端がまだ湿っていたので、首元へタオルを添え直していた。


 片づけを終えて座ると、優子もすぐ横へ座り直した。

 膝が触れるくらい近かった。そのまま、俺の袖を指先でちょんと引いた。


「どうしたの?」


 顔を向けると、優子は少し笑った。

 何か言いかけたけれど、すぐには続かなかった。袖を持ったまま、もう少しだけ顔を寄せてきた。


「ドライヤー、ここに置いてあるよ」


 綾香が教えてくれた。

 優子はそちらを見たあと、俺の袖をもう1度、小さく引いた。


「……勝也。髪、乾かしてもらってもいい?」

「うん。いいよ」


 答えると、優子は嬉しそうに頷いた。

 ドライヤーを受け取り、コードの届くところへ座った。

 優子は自分の袋から櫛を取り出し、俺へ渡してくれた。

 それから前へ来て、背中を向けて座り直した。さっき隣にいた時と同じように近かったので、俺は少し膝の向きを変えた。


「熱かったら、言ってね」

「うん」


 スイッチを入れ、最初は少し離したところから風を当てた。

 湿った髪のまとまりを、指でそっと分ける。

 顔へ風が当たりすぎないように向きを変えると、優子が少し首を傾けてくれた。


 茶道部へ一緒に行った時、先輩たちが優子の髪を褒めていた。

 色の話だけではなかった。

 綺麗だとか、さらさらだとか、触ってみたいとか、次々に声をかけられて、優子が困った顔をしていたのを思い出した。


 実際に乾かしてみると、先輩たちが言っていたことが分かった。

 指を通したところが、引っかからずに落ちていく。

 少し風で広がっても、向きを変えると、またすっとそろった。


「……すごいな」


 思わず言うと、優子が振り返りかけた。

 俺はスイッチを切った。


「ごめん。髪、すごくさらさらになるね」

「……そう?」

「うん。指だけでも、こんなにそろうんだね」


 優子は、自分の髪の端へ触れた。

 毎日そうしているからなのか、不思議そうな顔をした。


「……いつも、こんな感じだけど」

「それがすごいんだと思う」


 またスイッチを入れ、弱めの風を当てた。

 空いた手に櫛を持ち、毛先の方からそっと通した。

 すっと抜けた。

 もう少し上から動かしても、引っかからなかった。


 さっき、真弓は何度か手を止めていた。

 綾香も同じように、絡んだところを指でほぐしてからとかしていた。

 優子の髪では、櫛が1度も引っかからなかった。


 俺は、つい2人の方を見た。

 それから優子の髪へ目を戻し、もう1度、櫛を通した。


「……勝也」


 真弓の声に顔を上げ、ドライヤーを止めた。


「今、こっち見たよね」

「うん?」

「私の方も見たよね」


 綾香までこちらを見ていた。

 俺は櫛を持ったまま、少し止まった。


「さっき、私たちが引っかかってたの、思い出したでしょ」


 真弓に言われた。

 返事をする前に、綾香が小さく笑った。


「あ、当たった」

「……そんなに分かる?」

「分かるよ。優子の髪見て、私のこと見て、また優子の髪見たから」


 真弓の言うとおりに動いた覚えがあった。

 俺は優子の髪から櫛を離した。


「ごめん。こっちは、全然引っかからないなって思って」

「うん。だから、それを比べてたんだよね」

「……うん」


 正直に頷くと、春樹が笑った。


「声に出してないのに、全部伝わってるね」

「そんなつもりじゃなかったんだけど」


 優子が前で小さく笑った。

 真弓も笑いながら、自分の髪の端へ触れた。


「優子のがさらさらなのは、分かるけどさ」

「うん。勝也君、次から顔にも出さないようにね」


 綾香にまで言われ、俺は、気をつける、と答えた。

 翔太が、こちらへ近づいてきた。


「俺のもやってみる?」

「もう乾いてるじゃん」

「比較」

「比較しなくていいから、そこ、コード踏まないで」


 真弓に言われ、翔太が足を引いた。

 優子が笑い、俺も笑ってから、もう1度スイッチを入れた。


 乾かしている間、優子は静かに座っていた。

 時々、風に押された髪が頬へかかると、指先でよけた。

 俺が向きを変えるのに合わせて、少しずつ顔を動かしてくれた。


 襟元のところを確かめ、最後に弱い風へ変えた。

 スイッチを切ると、部屋が急に静かになった。


「たぶん、できた。ここ、まだ湿ってない?」


 優子が自分で確かめた。

 首を横へ振ると、髪も一緒に動いて、また同じところへ戻った。


「うん。大丈夫。ありがとう」

「どういたしまして」


 ドライヤーを置いた。

 優子は俺の前から隣へ移り、膝の上へタオルを畳んだ。


 俺も自分の頭を少し乾かした。

 優子の時と同じように指を入れたが、思ったようにはそろわなかった。


「ほら。違う」


 スイッチを切って言うと、春樹がこちらを見た。


「髪の長さも違うけどね」

「それはある」


 優子が、俺の頭を見て少し笑った。

 どこが変なのか聞こうとしたところで、翔太が急に自分の鞄へ向かった。


「あ。そうだ」


 膝をついて、何かを探し始めた。


「春樹に渡すやつ、忘れてた」


     * * *


 翔太が持ってきたのは、小さな袋だった。

 口を留めてあり、中にチョコレート色の物が入っていた。


「はい。これ」


 春樹の前へ置いた。

 春樹はしおりから顔を上げ、袋を手に取った。


「何?」

「この前のお礼。俺、作った」

「お礼?」

「机の中、片づけろって教えてくれたから」


 春樹が、ああ、と頷いた。

 昨日、学校でしていた話だった。

 しばらく学校へ来ないのだから、給食の残りを隠しているなら持って帰った方がいい。春樹は翔太へ、そう言っていた。


「ちゃんと片づけた?」

「持って帰った」

「じゃあ、よかった」


 春樹は袋へ目を戻した。

 俺も横からのぞいた。


「チョコラスク?」

「そう」

「おお。美味しそう」


 袋の中のラスクは、チョコレートで表面が覆われていた。

 角のところに少し厚くついていて、手で持って食べるのにちょうどよさそうだった。


 真弓も、何、と顔を寄せた。


「翔太が作ったの?」

「うん」

「普通に美味しそうじゃん」

「普通にって何だよ」


 翔太が言い返す間に、春樹が袋の口を開けた。

 中を見て、もう1度、翔太を見た。


「……1個?」

「うん」

「これで全部?」

「持ってきたのは」


 答え方が少し気になった。

 真弓も、そこを聞き返した。


「持ってきたのは、って?」

「もっと作ったんだけど、味見してたら、これしか残んなかった」


 春樹の手が止まった。

 俺は翔太を見た。


「味見で?」

「うん。チョコつける前に食って、つけたあとも食って。もう1個くらいって思ったら」

「最後の1個になったの?」

「そう」


 真弓が吹き出した。

 春樹は袋を持ったまま、しばらく翔太を見ていた。


「それ、味見じゃなくて、おやつじゃん」

「味、見てたよ」

「何個も?」

「うまかったから」


 その返事には、言い訳を考えた様子もなかった。

 優子が俺の隣で、声を漏らして笑った。


「……お礼の分、なくなっちゃうところだったんだね」

「だから、最後の1個は残した」


 翔太が少し胸を張った。

 春樹は、そこ、頑張ったところみたいに言うんだ、と笑った。


 俺はラスクを見た。

 少しだけでも食べてみたかった。


「俺も、1個もらおうと思ったのに」

「あ、私も」


 真弓が言った。

 翔太は、春樹の袋を指した。


「駄目。それ、春樹の。お礼に作ったんだから」

「作った本人が、大体食べたけどね」


 綾香が言ったので、また皆で笑った。


 春樹が、ラスクを半分にしようかと少し手を動かした。

 俺は首を振った。


「いいよ。最後の1個だし。春樹に作ったやつでしょ」

「そうそう。食べなよ」


 真弓も頷いた。

 翔太は満足そうに、ほら、と春樹へ手を向けた。


「じゃあ、もらうね」


 春樹がラスクを持ち上げた。

 口へ運ぶと、小さく音がした。


 翔太が、まっすぐその顔を見ていた。

 料理を渡した側が返事を待つ感じが、昼の優子と少し似ていた。

 ただ、渡す前にほとんど自分で食べた人ではあった。


「どう?」


 春樹が飲み込むより先に、翔太が聞いた。

 春樹は少し待って、と手を上げ、水筒へ口をつけた。


「うん。美味しいよ」


 翔太の顔が、すぐに明るくなった。


「だろ」

「これ、ちゃんと全部持ってきてくれたらよかったのに」

「それは、俺も最後に思った」

「最後まで思わなかったの?」


 真弓が笑った。

 俺も笑いながら、翔太へ言った。


「今度は、俺の分も残しておいてよ」

「分かった」

「味見する前に、分けておきなよ」


 綾香が続けた。

 翔太は、なるほど、と真剣に頷いた。


 春樹は残りのラスクも食べ、袋の中の小さな欠片を指で寄せた。


「ありがとう。ごちそうさま」

「おう」


 翔太は、やることを1つ終えたような顔で、自分の場所へ戻った。

 春樹が空の袋を畳んだ。

 俺もドライヤーのコードをまとめて、真弓へ渡した。


「優子は、昔から料理してたの?」


 袋をしまいながら、翔太が聞いた。

 優子が俺の隣で顔を上げた。


「……私?」

「うん。今日の弁当も、作ったって言ってたから」


 優子は少し首を振った。


「お母さんに、教えてもらってるところ。まだ、1人では……難しいよ」

「でも、作ろうと思うのが偉いじゃん」


 真弓が言った。

 翔太が、俺も、と自分を指した。


「翔太は、食べるところまで頑張りすぎ」


 春樹に言われ、翔太が笑った。

 優子も笑ってから、膝の上のタオルをそろえた。


「……小さい時なら、おままごとは、してたけど」

「勝也と?」


 真弓が聞いた。

 優子が頷き、俺を見た。


「うん。してたね」


 俺も答えた。

 優子の家にあった、小さな食器を思い出した。遊びに行くと、ほかのおもちゃと一緒に出てきた。


「俺、食べる方だった気がする」

「今と一緒じゃん」


 翔太が言った。

 春樹まで、うん、と頷いた。


「本当には食べてないよ」

「そこは分かるよ」


 真弓が笑った。

 優子は少し考えてから、俺の方へ向き直った。


「……でも、勝也も、作ってくれたよ」

「そうだっけ」

「お皿に、いっぱい載せてた」


 言われて、少し思い出した。

 小さな皿へ、食べ物の形をした物を順に置いていた気がした。


「ああ。あった物、全部載せようとしてたかも」

「……うん。もう載らないよって、言ったの」


 優子が笑った。

 翔太が、また俺を見た。


「やっぱ今と一緒じゃん」

「今は、ちゃんと載る分にしてるでしょ」

「今日、茶碗からすげえ盛り上がってたぞ」

「落としてないよ」


 綾香が口元を押さえた。

 優子も笑い、タオルを膝から落としかけて慌てて押さえた。


「おままごと以外だと、何してたの?」


 真弓に聞かれ、優子は俺を見た。

 俺も、一緒に思い出そうとして少し考えた。


「塗り絵とか。絵本もあったね」

「……うん。同じの、何回も見てた」

「もう次、何が出てくるか分かってるのにね」

「分かってても、見たかったの」


 優子が言った。

 俺も、そうだったね、と頷いた。

 終わりまで見たあとで、また最初のページを開いたことは覚えていた。


「小学校に入ってからは、ゲームもするようになったんだよね」


 綾香が、バスで話したことを思い出すように言った。


「うん。俺が先に買ってもらって」

「……最初は、隣で見てたの」


 優子が続けた。

 翔太が、見てるだけだったんだ、と少し顔を寄せた。


「自分でもやりたくならなかった?」

「……なったよ。それで、私も買ってもらったの」

「あ、そっか」


 翔太が頷いた。

 俺は隣の優子を見た。


「優子が買ってもらった時、嬉しかったな。これから一緒にできるって思ったから」


 優子の指が、タオルの端で止まった。


「……覚えてる?」

「うん。見ててもらうのも楽しかったけどね。今度は、優子がやってるのも見られるから」


 優子は、そうなんだ、と小さく答えた。

 目が合ったあと、少しだけうつむいた。


「勝也、教えるの好きだよな」


 翔太が言った。

 俺はそちらを向いた。


「そう?」

「俺が分かんねえって言うと、横からずっと教えてくれるじゃん」

「翔太が、聞いてから先に進めちゃうからだよ」


 春樹が言った。


「まだ説明してる途中で、勝手にやって、また分かんねえって言うから」

「やってみたら分かるかと思って」

「それで分かった時もあるけど、大体、もう1回聞くよね」


 俺が言うと、翔太は少し考えてから頷いた。


「あるな」

「あるよ」


 俺と春樹の返事が重なった。

 真弓が笑い、優子も声を漏らした。


「優子は、ちゃんと最後まで聞いてた?」


 綾香が聞いた。

 優子は頷きかけ、少し止まった。


「……聞いてたけど、すぐにできるわけじゃ、なかったよ」

「最初は、そうだよね」

「うん。でも、勝也、何回聞いても、教えてくれたから」


 そう言って、こちらを見た。

 俺は少し照れくさくなり、膝に置いた手を組み直した。


「俺も、誰かに教えてもらったことあるし」

「今も、春樹君たちに聞くもんね」


 綾香が言った。


「うん。優子に教えてもらうこともあるよ。勉強とか」


 優子が小さく笑った。

 さっき翔太が話しかけた時より、肩の力が抜けているように見えた。


 春樹がしおりを開き、明日の集合場所を翔太へ聞いた。

 俺も、班長が書いてきたところを見せてもらった。

 隣では真弓がドライヤーを片づけ、綾香が優子へタオルの置き場所を教えていた。


    * * 優子視点 * *


 加藤さんが鞄へドライヤーをしまう間、私はタオルを片づけた。

 手を伸ばすと、袖が少し上がった。


「あ、それ」


 加藤さんの声に、手を止めた。

 指していたのは、手首のミサンガだった。


「前にも、ちらっと見えたことあった。ずっと着けてるんだね」

「……うん」


 青い糸へ指を添えた。

 外さないようにしている、というより、着いていないところをあまり考えたことがなかった。


「自分で作ったの?」


 井上さんも、少し近くへ座った。

 勝也はすぐ後ろで、翔太くんと春樹くんのしおりをのぞき込んでいた。

 話している声が、そのまま聞こえた。


「……小さい時に。公民館で」

「そういう教室があったんだ」

「うん。勝也と、一緒に作ったの」


 言ってから、少し振り返った。

 勝也は翔太くんへ何か答え、笑っていた。私たちの方を見てはいなかった。


「その頃から、ずっと?」


 加藤さんに聞かれ、頷いた。

 井上さんが、へえ、と少し目を細めた。


「大事にしてるんだね」


 私はもう1度、ミサンガへ目を落とした。

 新しく作った時と全く同じではなかった。毎日見ているうちに、糸の小さな変化も覚えていた。


「……うん。大事」


 小さく答えると、2人とも笑わずに頷いてくれた。


「何かお願いして作ったの?」


 井上さんが聞いた。

 胸の中で、昔の言葉がすぐに浮かんだ。

 でも、口には出せなかった。


「……それは、秘密」


 加藤さんと目が合った。

 恥ずかしくなり、少し袖を戻した。


「そっか。じゃあ、聞かないでおく」


 加藤さんはそう言って、自分の鞄を閉じた。

 井上さんも、叶うといいね、とだけ言ってくれた。


「……うん」


 返事をしてから、勝也の方を見た。

 長い袖の先から手が出ていたけれど、手首のところまでは見えなかった。

 勝也がこちらへ気づき、少し顔を寄せた。


「どうしたの?」

「……ううん。何でもない」


 首を振った。

 勝也は、それ以上聞かず、俺たちもそっちへ戻ろうか、と春樹くんたちへ声をかけた。


 加藤さんが、今度は小さな箱を取り出した。

 箱の中から、見覚えのある模様がのぞいた。


「皆、これやろう」


 トランプだった。

 翔太くんが、すぐに顔を上げた。


「やる!」

「まだ何をやるか言ってないけど」

「何でもやる」


 春樹くんが笑い、しおりを閉じた。

 勝也も隣へ戻ってきた。

 畳へ置いた私の手に、その指が少し触れた。


「優子も、やろう」

「うん」


 私は膝の向きを変えた。

 加藤さんの広げたトランプを囲むように、皆が座り直した。


    * * 勝也視点 * *


「大富豪でいい?」


 真弓がカードを混ぜながら聞いた。

 翔太が、いい、と答えたあと、俺たちも頷いた。


「優子、やったことある?」


 聞くと、優子が頷いた。


「……うん。分かる」

「じゃあ、細かい決まりだけ、合わせようか」


 春樹が座る位置を少し直した。

 6人で輪になると、誰かが膝を動かすだけで、隣へ少し近づいた。

 優子は俺の隣に座り、配られるのを待っていた。


 ジョーカーは2枚とも入れた。

 革命と8切りを使うことにして、それ以外の細かい決まりは増やさないことにした。

 革命になっても、ジョーカーは強いまま。8を出せば、その場の札を流し、出した人から次を始める。


「交換は、1位と最下位が2枚で、2位と下から2番目が1枚ね」


 真弓が、カードを配りながら言った。


「下の人が強いのを渡して、上の人が弱いのを返すやつ?」


 翔太が確認した。


「そう。最初は交換なし」

「分かった」


 俺も頷いた。

 自分の前へ来たカードを集め、数字の順に並べた。


 最初の2枚を見たところで、少し口元が緩んだ。

 続きを開くと、もっと緩みそうになった。


 2が2枚。

 Aも2枚。

 Kも2枚あった。


 残りはQと10と9だった。

 弱い札をどうやって先に出すか、という心配が、ほとんどいらなかった。


「……これ、いいな」


 小さく言うと、春樹がこちらを見た。


「もう顔に出てるけど」

「そう?」

「うん」


 俺は口元を戻した。

 優子が横から見そうになったので、カードを少し起こした。


「まだ秘密」

「……見てないよ。顔、見ただけ」


 優子が笑った。

 真弓も、自分の手札を並べながら俺を見た。


「そんなにいいの?」

「結構。今日、勝てる気がする」

「今日、まだ初めてだけど」

「最初が大事だからね」


 翔太が、俺の方も結構いい、と言った。

 春樹は2人の顔を見てから、自分の札を見直した。


「じゃあ、始めようか」


 最初は、配っていた真弓から出すことにした。

 真弓が、手札の一部分へ指をかけた。


「じゃあ、これ」


 畳の中央へ、6が並んだ。

 1枚、2枚ではなかった。


 4枚とも、6だった。


「革命」


 真弓が言った。

 俺は、もう1度、自分の手札を見た。


 2が2枚。

 Aも2枚。

 Kも2枚。


 ついさっきまで頼もしかった並びが、急に、どうにもならない並びに見えた。


「……待って」

「待たない」


 真弓はすぐに答えた。

 翔太が俺の顔を見て、声を上げて笑った。


「お前、今、一瞬で顔変わったぞ」

「まだ1枚も出してないんだけど」

「だから?」


 真弓が楽しそうに言った。

 俺は手札を数えた。

 4枚そろっている数字は、1つもなかった。


「革命、返せない」

「うん。じゃあ、パスだね」


 春樹の声が、いつもより明るかった。

 自分の手札を見る顔が、さっきよりずっと楽しそうだった。


「春樹、今、得したでしょ」

「ちょっとね」


 ちょっとではなさそうだった。

 誰も4枚を返せず、場が流れた。

 真弓が次の札を選ぶ間、俺は自分のカードを逆の順に並べ直した。


 並べ直しただけでは、強くならなかった。


「……勝也、大丈夫?」


 優子が横から聞いた。

 俺はカードを見たまま答えた。


「大丈夫じゃないかもしれない」


 優子が、こらえきれなかったように笑った。

 顔を隠したけれど、その肩が動いていた。


「さっき、すごく嬉しそうだったから」

「嬉しかったよ。ついさっきまで」


 その返事に、綾香まで笑った。


 革命になってから、春樹の手札が減るのは早かった。

 俺が9を出しても、もっと小さな数字が重なった。2を出せる場が来たと思えば、その次の人が簡単に上から出した。

 さっきまで、どこに取っておこうか考えていた札だった。


 優子は、自分の順番が来るたびに、場と手札を見比べていた。

 少し考え、それから同じ数字をまとめて出した。


「……これでいいんだよね」

「うん。出せるよ」


 俺が言うと、優子の手札がまた減った。

 俺の札は、あまり減っていなかった。


 最初に上がったのは春樹だった。

 最後の札を置き、両手を空にして膝へ載せた。


「ごちそうさまでした」

「ラスクの続き?」


 俺が聞くと、春樹は笑った。


「いい革命だったね」

「俺には、全然よくなかったよ」


 次々に手が空いていき、最後は俺と翔太だけになった。

 翔太も途中までは困っていたはずなのに、いつの間にか俺より札が少なかった。


「よし。これ」


 翔太が出した数字を見た。

 返せる物がなかった。


「……パス」

「じゃあ、あとこれで終わり」


 最後の札が置かれた。

 俺は残ったカードを伏せた。


「大貧民、決定」


 真弓が言った。

 翔太が、俺へ顔を寄せた。


「最初が大事なんだっけ」

「それ、今言う?」


 皆が笑った。

 優子は、もう口元を隠すのを諦めたみたいに笑っていた。

 俺は残った札を集めながら、まあ、それならよかったかと少し思った。

 勝ちたかったのは、本当だった。


     * * *


 2回目の手札は、さっきほど強くも弱くもなかった。

 同じ数字が何組かあり、1枚ずつでも少しはつなげられそうだった。


 ただし、春樹へ強い札を2枚渡さなければならなかった。


「これ、今から俺の札じゃなくなるのか」


 並べてから気づき、惜しくなった。

 春樹は楽しそうに手を出した。


「ありがとう」

「まだ渡してないよ」

「待ってる」


 仕方なく、強い方から2枚を抜いた。

 代わりに来た2枚を見て、俺は春樹を見た。


「弱いね」

「そういう決まりだからね」


 分かっていても、言いたくなった。

 優子が隣で、交換の様子を見ていた。


「……次は、勝てるといいね」

「うん。今度は、せめて最後じゃなければ」


 目標が、さっきよりずいぶん低くなっていた。


 始まってみると、途中までは悪くなかった。

 小さい札を出し、残りを組み合わせていく。

 場を取れれば、同じ数字の札をまとめて出せるところまで来た。


 真弓が、8を1枚置いた。


「はい。切るね」


 場の札が端へ寄せられた。

 真弓はそのまま、次の札を出した。

 俺が出そうとしていた組み合わせでは、出せなくなった。


「それ、今じゃなくてもよかったんじゃない?」

「今がよかったの」


 真弓が答えた。

 それは、そうなのだろう。


 次にやっと出せそうになった時は、翔太が8を2枚そろえて置いた。


「これで切れるんだよな」

「うん」


 春樹が頷いた。

 翔太は嬉しそうに札を寄せ、次を出した。


 俺は、またカードを手元へ戻した。


「……俺、今、出しかけたんだけど」

「まだ出してないだろ」

「出す予定だった」

「予定は知らねえよ」


 春樹が笑った。

 優子も小さく笑いながら、自分の札を見ていた。


 そのあと、春樹が残っていた8を出した。

 俺は、畳の端に重なった札を見た。


「今日、8、多くない?」

「4枚だよ」


 綾香が答えた。


「知ってるけど、全部、俺が出したい時に出てくる」

「皆、自分が出したいから使うんだよ」


 春樹が言った。

 正しいことを言われると、言い返す言葉がなかった。


 優子の手札が、残り少なくなっていた。

 場を見て少し待ち、ほかの皆の手元も確かめた。

 自分の順番が来ると、残していた札を出した。


「……これ」


 誰も返さなかった。

 優子が最後に残った札を見て、俺へ顔を向けかけた。

 俺は、それでいいと思う、と小さく頷いた。


「これで、終わり」


 最後の札を置いた。

 手が空いたことを確かめるように、指を開いた。


「優子、1位じゃん」


 真弓が言った。

 優子が、少し目を丸くした。


「……うん」

「おめでとう」


 俺も言った。

 優子は嬉しそうに笑ったあと、俺の手元を見た。

 まだ、札が結構残っていた。


 俺はカードを持ち直した。


「俺も、今から追い上げるから」


 追い上げる前に、ほかの皆が上がった。

 最後に残った札を伏せると、翔太が机の方へ体を倒して笑った。


「またお前じゃん!」

「うん。知ってる」

「さっき、あんなに自信あったのに」

「それは、最初の札の時の話」


 真弓まで笑い始めた。

 俺も自分で少しおかしくなり、残った札を中央へ戻した。


「大富豪って、こんなに座ってるだけの時間が長かったっけ」

「勝也君、ずっと出そうとして戻してたね」


 綾香の言い方がおかしくて、優子がまた笑った。

 俺は、見てたんだ、と答えた。


「うん。何回も」


 それで、また皆が笑った。


     * * *


 3回目のカードが配られた。

 今度は、見ても顔へ出さないようにした。

 そもそも、強い札は2枚とも優子へ渡すことになる。


「はい。これ、優子の」


 自分の手札から抜き、裏を向けて渡した。

 優子が受け取り、手元のカードへ加えた。


 返す札を選ぶ時、少しだけ指が止まった。

 俺は自分の残りを並べ直していたので、何を迷ったのかは見ていなかった。


「……はい」


 2枚が差し出された。


「ありがとう」


 受け取って、表を見た。

 1枚は、小さな数字だった。

 もう1枚を見て、手が止まった。


 ジョーカーだった。


 俺は優子を見た。

 優子は、ほかの皆が次の手札を並べているのを確かめてから、少し顔を寄せた。


「秘密だよ」


 小さな声だった。

 言い終わると、すぐに自分のカードへ目を戻した。

 その口元が、少し上がっていた。


 もう1度、受け取った札を見た。

 強さを取り違えている様子ではなかった。

 さっき、皆でジョーカーの決まりを確かめていたし、優子は前のゲームでも迷わず使っていた。


 俺だけに、こっそり残してくれたらしかった。


 小さく頷いた。

 優子がこちらを見て、同じように頷いた。


「次、誰から?」


 翔太に聞かれ、俺は顔を上げた。


「あ、俺からだね」


 さっきまでのように、勝てるとは言わなかった。

 今度はちゃんと、もらった札を最後まで使いたかった。


 弱い札を先に出した。

 途中で場を取られたけれど、慌ててジョーカーを出さずに待った。

 同じ数字の札をまとめて減らせるところまで残し、次の手を考えた。


 優子も、自分の札を減らしていた。

 俺の番が来ると、時々こちらを見た。


 ようやく使う時が来た。

 ジョーカーを置くと、翔太が顔を上げた。


「持ってんじゃん」

「うん」

「いいな」


 俺は短く返事をした。

 優子は何も言わず、カードの後ろで口元を隠した。


 場を取って、残していた組を出した。

 今度は手元へ戻す必要がなかった。


 真弓が先に上がったあと、俺も最後の札を出せた。

 畳へ置き、手が空いたことを確かめた。


「……終わった」


 春樹が、よかったね、と笑った。

 俺は思っていたより強く頷いた。


「本当に、よかった」

「最下位から2位なら、結構上がったね」


 綾香が言った。

 優子を見ると、俺が勝ったことを自分のことみたいに喜んでいた。

 俺はほかの皆の番が始まってから、小さく顔を寄せた。


「ありがとう」


 優子は少しうつむいた。


「……うん」


 その返事は、カードを交換した時よりも照れていた。

 俺も少し笑って、皆の勝負へ目を戻した。


 そのあとも、何度か続けた。

 勝った人が偉そうに座り直し、次の回ではその人が最後まで札を持っていた。

 翔太は自分の番を忘れ、皆から見られてから慌てて札を出した。

 春樹は少なくなった札を見せないように持ち、真弓に、何枚、と聞かれて素直に数えた。


 優子は、初めよりも早く札を選べるようになっていた。

 でも、迷うところではちゃんと迷い、出す前に1度場を確かめていた。

 とても楽しそうだった。


     * * *


「次、スピードやらない?」


 札を集めていた時、俺が言った。

 真弓が、いいよ、と頷いた。


「勝也、そっちは自信ある?」

「少し」

「さっきも聞いた気がする」


 春樹に言われた。

 俺は、今度は少しって言った、と返した。


 ジョーカーを抜き、赤い札と黒い札を分けた。

 最初は俺と翔太で向かい合った。

 真弓が中央の場所を空け、優子と綾香も少し脇へ寄った。


 手元へ札を並べた。

 翔太が、いつでもいいぞ、と言ったので、俺も頷いた。


「せーの」


 中央へ札を出した。

 すぐに、出せる数字が見えた。


 1枚置き、空いたところへ補充する。

 翔太の手が反対側から伸びてきた。先に出された数字を見て、別の列へ手を動かした。


「ちょ、早いって」

「そういうゲームだからね」


 言いながら、また1枚置いた。

 手を止めると、次に出せる札を翔太に埋められる。

 数字を見つけたら、すぐに動かした。


 2人とも出せなくなり、手が止まった。

 顔を見合わせて、もう1度声を合わせた。


「せーの」


 新しい札が出た。

 今度は連続して出せた。


 手元の山がなくなった。

 最後の数枚へ目を動かし、中央の数字を確かめた。

 翔太の札が重なったところへ、自分の最後の1枚を置いた。


「ッシャ!」


 両手を膝へ戻した。

 翔太が、まだ札の残った自分の手元を見た。


「は? もう終わり?」

「うん」

「早くね?」


 優子が隣から、畳の上を見ていた。

 俺が顔を向けると、少し驚いた顔で笑った。


「……今の、全然、追いつかなかった」

「見てるより、やってる方が分かりやすいかも」


 翔太が、もう1回、と札を集めた。

 真弓がその手を止めた。


「交代。私もやる」

「今、何で負けたか分かってきたところなのに」

「またあとで」


 翔太が場所を空け、真弓が向かいへ座った。

 札を分け直す間、春樹が翔太へ何か言っていた。


「何で負けたか、分かったの?」

「出すのが遅かった」

「それは見てた」


 俺は笑いそうになり、札を落としかけた。

 真弓が、もう笑わせないで、と春樹へ言った。


 真弓との勝負は、さっきよりも忙しかった。

 出そうと思った数字を、先に変えられた。

 手元を見ている間に中央が動くので、顔を上げた時には出せなくなっていることもあった。


「そこ、欲しかったのに」


 俺が言うと、真弓も笑わずに返した。


「私も」


 最後は、ほとんど同時だった。

 真弓の手が別の列へ動いたところで、自分の最後の札を置けた。


「ッシャ!」


 真弓が手を止めた。

 残っていた1枚を持ち上げ、悔しそうに伏せた。


「今の、あとちょっとだった」

「うん。俺も危なかった」

「もう1回」


 翔太がすぐに口を開いた。


「交代。俺もやる」


 さっき真弓が言ったのと、同じ言い方だった。

 春樹が吹き出した。

 真弓は翔太を見てから、カードを渡した。


「じゃあ、次、優子とやって」

「俺と?」


 優子が少し顔を上げた。


「優子、スピードはやったことある?」


 聞くと、頷いた。


「……あるけど、勝也みたいに速くできないよ」

「大丈夫。翔太も、俺よりはゆっくりだから」

「おい」


 翔太に言われ、笑った。

 優子も笑い、俺のいた場所へ少し前に出た。


 札を並べ始めたところで、戸を叩く音がした。

 真弓が返事をすると、カメラマンさんの1人が顔を覗かせた。


「自由時間の写真を撮って回っているんだけど、少し、いいかな」

「はい。今、トランプやってます」


 真弓が答えた。

 カメラマンさんは畳の端へ入り、そのまま遊んでいてね、と言ってカメラを構えた。


 札を並べるところは、真弓も一緒に手伝った。

 俺は優子の隣へ座り直した。


「俺、見てるね」

「うん」


 優子は手元の札をそろえてから、翔太を見た。

 翔太が、いくぞ、と言い、2人で声を合わせた。


 最初は、少しゆっくりだった。

 出せると思って手を伸ばし、別の数字に変わると戻した。

 翔太も手元を見ているうちに、優子の札が置かれた。


「あ、それ、俺も出せた」

「……先に、出しちゃった」

「いいよ。俺も先に出すから」


 翔太が言い、次の札を出した。

 優子が笑って、補充したカードへ手を伸ばした。


 少しずつ、動きが早くなった。

 数字を確かめるために止まる時間が短くなり、2枚続けて出せるところでは、迷わず手が動いた。


「お、優子、減ってる」


 真弓が言った。

 優子は返事の代わりに、少し頷いた。

 今は手元から目を離せないらしかった。


 最後に残った数枚を、2人ともじっと見た。

 場が動き、優子の手が伸びた。

 もう1枚。

 それで、手元が空になった。


「あ」


 優子が声を出した。

 俺も、最後の札を見た。


「終わった。優子の勝ちだね」


 真弓が言うと、優子がようやく顔を上げた。

 翔太は、自分の手元を見てから天井を見た。


「俺、まだ1回も勝ってない」

「さっきの俺と一緒だね」


 そう言うと、翔太に見られた。

 俺も笑い、優子へ顔を向けた。


「勝ったね」

「……うん」


 嬉しそうに笑った。

 そのあと、自分の空いた手を見下ろして、もう1度笑った。


 シャッターの音がして、俺もカメラマンさんがいたことを思い出した。

 翔太が、まだ残っている自分の札を見せた。


「俺の負けたところ、残っちゃった」

「優子が勝ったところでしょ」


 真弓が言うと、優子は少し頬を赤くして、カードを集め始めた。


 春樹と綾香の番もあった。

 綾香は出せる札を見つけると早かったが、続けて置こうとして数字を見直すことがあった。

 春樹はその間に少しずつ出し、勝ったあとで、今のところ危なかった、と自分の札を指した。

 カメラマンさんは、皆が札を覗き込むところも撮ってから、ありがとう、と立ち上がった。

 別の部屋からも楽しそうな声がしていた。そちらへ向かう背中を見送り、俺たちは次の札を配った。


 俺も、相手を替えて何回かやった。

 勝つと、どうしても声が出た。


「ッッッシャ!!オラァ‼︎」


 3回目か4回目には、翔太がそれを待つようになっていた。


「また言った」

「だって、勝ったし」

「大富豪の時と、全然声違うじゃん」

「大富豪の時は、負けてたからね」


 真弓が笑い、優子も口元を押さえた。

 もう1度、俺と真弓で向かい合った時には、最後の札を真弓に先に置かれた。


「よし!」


 真弓が言った。

 俺は手元の残りを見て、そのまま畳へ伏せた。


「あー。負けた」

「今のは、言わないんだ」


 翔太に聞かれた。


「負けて、ッシャって言わないでしょ」


 その言い方で、優子がまた笑った。

 俺がそちらを見ると、目が合って、少し肩を寄せてきた。


「……勝也、勝つ時、いつも同じ声だった」

「聞いてた?」

「うん」


 優子が頷いた。

 真弓がカードをまとめながら、皆聞いてたよ、と言った。


 翔太は最後まで、あと1回と言っていた。

 でも、最後の勝負を終えて札を片づけると、あくびをした。

 口を手で隠してから、何でもなかったように姿勢を戻した。


「眠い?」


 春樹が聞いた。


「いや。今のは、別に」

「眠い時の返事だね」


 俺も少し眠かった。

 気づけば、窓の外は完全に暗くなっていた。


    * * 優子視点 * *


 トランプが箱へ戻っても、畳の真ん中を見てしまった。

 さっきまで、そこに皆の手が集まっていた。

 札を出せなくて困っていた勝也の顔も、勝って声を上げた時の顔も、まだすぐに思い出せた。


 勝也は隣で、自分の鞄を端へ寄せていた。


「布団、出す場所、空けようか」

「うん」


 私も鞄を持ち、勝也の荷物の隣へ置いた。

 夕方、ここへ戻ってきた時と同じ場所だった。

 今度は、帰る支度ではなく、寝る場所を作るために片づけている。


 加藤さんが押し入れを開けた。

 中には、畳まれた布団が重なっていた。


「皆で出そう。勝手に引っ張ると、上から落ちそう」

「俺、下で受け取る」


 勝也が立った。

 春樹くんも隣へ行き、翔太くんと一緒に敷布団を運び始めた。

 私は邪魔にならないように少し下がり、井上さんと枕を並べた。


「どこで寝る?」


 翔太くんが聞いた。

 加藤さんが、入口の方を指した。


「まず、通るところは空けておこう」

「そこは分かってる。場所、どこにするかなって」


 翔太くんは、窓の前の空いた場所を見た。

 少し考えてから、畳の端へ布団を置いた。


「俺、端」

「さっき、窓のところがいいって言ってなかった?」


 春樹くんが聞いた。


「座るのは。寝るのは、こっち」

「寒いから?」

「うん」


 今度は、素直に頷いた。

 勝也が笑いながら、その隣へもう1枚置いた。


「じゃあ、ここ春樹?」

「そこ、翔太の隣?」


 春樹くんが、少しだけ動きを止めた。


「嫌そうな顔すんなよ」

「いや。別に」


 春樹くんは何か考えたあと、分かった、と自分の枕を持ってきた。

 その返事の間が少し長くて、加藤さんも顔を向けていた。


 勝也が次の敷布団を運んできた。

 私は、その布団と勝也を見た。


「……勝也、そこ?」

「うん。優子、隣でいい?」


 すぐに頷いた。

 加藤さんが、私の反対側へ布団を置いてくれた。


「じゃあ、私ここ。綾香、その隣にしよう」

「うん」


 並べてみると、部屋の広さが少し変わった。

 昼は空いていた畳が、白いシーツで埋まっていった。

 翔太くん、春樹くん、勝也、私、加藤さん、井上さん。

 隣に誰が寝るのか、見ただけで分かった。


 私は勝也との間へ、少しだけ寄った。

 敷布団の端をそろえていると、勝也がこちらを見た。


「枕、こっち向きでいい?」

「うん。勝也と一緒の方」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 でも、勝也は普通に頷き、枕を並べてくれた。


 翔太くんが、自分の枕を手に取った。

 その持ち方を見た加藤さんが、先に口を開いた。


「投げないでよ」

「まだ何も言ってないだろ」

「顔に書いてある」


 翔太くんは枕を持ったまま、皆を見回した。


「枕投げしようぜ!」


 返事は、すぐには返らなかった。

 春樹くんが敷布団へ手をつき、そのまま腰を下ろした。


「今日は、寝ようよ」

「早くね?」

「朝、早かったし。午後、結構歩いたでしょ」


 加藤さんも頷いた。


「私も、もう横になりたい」

「私も」


 井上さんが続けた。

 勝也も、布団の端を直しながら言った。


「俺も、横になったら寝ちゃいそう」


 翔太くんは、私を見た。

 私は少し迷ってから、正直に答えた。


「……私も、今日は眠い」


 翔太くんが、皆の顔をもう1度見た。

 それから枕を元の場所へ置いた。


「じゃあ、寝るか」


 あっさりした返事だった。

 勝也が、うん、と笑った。

 翔太くんは掛け布団をめくり、足を入れかけてから、まだ電気がついていることに気づいたように顔を上げた。


「歯、磨いたし。もう何もないよな」

「明日の服、出しておいた?」


 加藤さんに聞かれ、翔太くんが鞄を見た。

 今度は立たずに、腕だけを伸ばした。


「届かないじゃん」


 春樹くんが笑った。

 翔太くんは結局、もう1度立った。


 私も、翌朝に使う物を確かめた。

 眼鏡を外してケースへしまい、勝也の荷物とぶつからない場所へ置いた。

 勝也も自分の眼鏡を外し、すぐに見つかるところへ置いていた。


 遠くの窓が暗くて、外の様子はもう分からなかった。

 昼間より静かになった部屋で、掛け布団をめくる音がよく聞こえた。


「朝、ここから出るの嫌になりそう」


 加藤さんが足先へ布団をかけながら言った。

 井上さんも、自分の肩へ上着を羽織った。


「今でこれだもんね」

「外で体操するんだっけ」

「うん。上着、すぐ着られるようにしとこう」


 勝也が、私の鞄のそばを見た。


「優子の上着も、ここに置いとく?」

「うん」


 渡すと、手を伸ばせば届くところへ畳んで置いてくれた。

 私も自分の布団へ座った。

 膝までかけると、もう立ちたくなくなった。


 その時、入口から声がした。


「皆、寝る準備はできましたか」


 花沢先生だった。

 扉が開くと、翔太くんが素早く布団へ潜った。


「できてます」


 布団から顔だけを出して答えた。

 さっきまで枕を持って立っていた人と、同じ人には見えなかった。


 勝也が立って、明かりのスイッチの方へ行った。

 私はその背中を見た。

 今度は扉の陰へ入らず、ずっと見えるところにいた。


「消灯の時間だから、今日はもう寝てね。明日も朝から活動があります」

「はい」


 皆が返事をした。

 先生は入口から部屋を見て、上着を手元に置いておくように、もう1度言った。


「夜も冷えるから、布団をちゃんとかけて。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 勝也が照明を落とした。

 廊下の明かりが、床へ細長く伸びた。

 先生が立ち去り、扉が閉まると、その明かりもなくなった。


 勝也が戻ってきた。

 私は布団の中から手を伸ばした。

 少しだけ指が触れた。


「ここだよ」


 小さな声がした。

 頷くと、勝也も隣の布団へ入った。


「おやすみ」

「……おやすみ」


 枕へ頭を載せた。

 同じ部屋に、皆がいた。

 隣には、勝也がいた。


 これなら眠れそうだと思った、その時だった。


    * * 勝也視点 * *


 低い音がした。

 最初は、誰かがふざけているのかと思った。

 でも、少し間を置いて、もう1度聞こえた。


 ごう、と、息を大きく吸い込む音だった。

 続いて、喉の奥で何かが鳴るような音がした。


 春樹の向こうだった。


「……え? うるさ」


 真弓の声がした。

 冗談を言っている時の声ではなかった。

 布団をかぶり直す音がしたあと、また翔太のいびきが響いた。


 さっき、枕投げをしようと言っていた。

 先生が来た時にも、ちゃんと返事をしていた。

 そこから、まだほとんど時間がたっていなかった。


「もう寝たの?」


 俺が小さく聞いた。

 春樹の方から、布団が動く音がした。


「……皆、ここは初めてか? 力抜けよ。じきに慣れる」


 妙に落ち着いた声だった。

 ここへ来る前から何日も泊まっていた人のような言い方で、思わず笑いそうになった。


 真弓は、そちらへ返事をしなかった。


「おい、翔太。起きてるんでしょ」


 少し強い声だった。

 返事の代わりに、いびきが続いた。


「……翔太」


 もう1度呼んでも、何も変わらなかった。

 春樹が笑った。


「無視しないでよ。こいつ、1回寝ると朝まで起きないよ」


 少し間があった。


「終わったわ……」

「終わったわ……」


 真弓と綾香の声が、重なった。

 普段はそこまで同じ調子で言うことがなかったので、俺は布団へ口元を押しつけた。

 隣からも、小さく笑う息が聞こえた。


 優子も起きていた。

 俺が少しそちらを向くと、暗がりの中で目が合った。


「……すごいね」


 優子がささやいた。


「うん」


 それ以外の返事が見つからなかった。

 さっきまで、大きな声を出すのは起きている時だけだと思っていた。


 春樹が、少し体を起こした。


「小学校の修学旅行の時も、これだった」

「何で、もっと早く言わなかったの」


 真弓が聞いた。


「今日もそうだとは、思ってたけど」

「思ってたなら、言って」


 俺はまた笑いそうになった。

 春樹は、さっき寝る場所を聞かれた時、少し間を置いていた。

 理由が、今になって分かった。


 真弓が自分の布団から出て、翔太のところまで行った。

 肩へ手を置き、少し揺すった。


「翔太。ちょっと」


 いびきが1度途切れた。

 全員、黙った。


 次の息で、また同じ音がした。


 真弓が、ゆっくり顔を上げた。


「……起きない」

「だから言ったのに」


 春樹が言った。

 真弓は、その返事にもすぐには反応しなかった。


 俺も体を起こした。

 優子が布団の中で動いたので、ここにいるよ、と小さく伝えた。

 暗いままでは足元が危なかったので、入口の足元が見える程度の明かりだけをつけた。


 翔太は、気持ちよさそうに眠っていた。

 頬のところまで布団をかけ、枕から頭も落ちていなかった。

 寝にくそうには、全く見えなかった。


「本人は、よく眠れてそうだね」


 俺が言うと、真弓がこちらを見た。


「本人だけね」


 綾香が布団から起き上がった。


「これ、朝まで?」

「たぶん」


 春樹が答えた。

 綾香は何か言おうとして、やめた。


 しばらく、その音を聞いた。

 慣れるかどうか試してみる気持ちも、少しだけあった。

 でも、音が小さくなったと思って気を抜くと、次の息が大きかった。

 もう少しで眠れそうになったところで、また気になりそうだった。


 春樹が窓の方を見た。


「……あそこ、使えないかな」

「どこ?」


 俺もそちらを見た。


「窓のところ。椅子置いてある、あの場所」


 畳の先にある、小さな机と椅子の場所だった。

 今は窓も閉めてあり、カーテンが引かれていた。


「あそこ、こっちと仕切れるよね」


 春樹が畳の境目を指した。

 確かに、引き戸があった。

 昼は開け放していたので、同じ部屋の続きとして見ていた。


 真弓が翔太を見た。

 春樹も翔太を見た。


「……布団ごと?」


 俺が聞くと、春樹が頷いた。


「起こすより、早いかも」


 綾香が少し口元を押さえた。

 真弓は、もう1度いびきを聞いてから、立ち上がった。


「移そう」


 返事が早かった。


     * * *


 まず、机と椅子を端へ寄せた。

 春樹と2人で持ち上げ、床を引きずらないように少しずつ動かした。

 敷布団を置ける場所ができると、真弓が窓の鍵を確かめた。


「ここ、冷えるよね」

「毛布、余分にあったよ」


 綾香が押し入れへ行った。

 出してきた毛布をいったん椅子へ置き、俺たちのところへ戻った。


 優子は自分の布団に座って、こちらを見ていた。

 翔太のいびきが続くたび、少し口元を押さえていた。


「優子、そこにいてね。俺、あっちへ運ぶだけだから」

「……うん」


 今度は、俺がどこへ行くか、ちゃんと見えるところだった。

 移動する先を指すと、優子もそちらを見て頷いた。


 俺と春樹で、敷布団の片側を持った。

 真弓と綾香が反対側へ回った。

 枕と掛け布団が落ちないように確かめ、端を少し丸めて掴んだ。


「持てそう?」


 春樹が小さく聞いた。

 真弓が頷いた。


「うん。そっち、持った?」

「持ったよ」


 俺も答えた。

 綾香が、待って、と枕を少し内側へ寄せた。


「いいよ」

「じゃあ、せーの」


 4人で持ち上げた。

 想像していたより重かった。

 布団の真ん中が少したわみ、翔太がその中へ収まった。


 いびきが、一瞬変わった。

 全員が止まった。


 翔太は目を開けず、そのまま寝息を続けた。


「……寝てる」


 真弓が言った。

 春樹が、うん、とだけ答えた。

 笑ってしまうと手の力が抜けそうで、俺は床を見た。


 少しずつ足を動かした。

 通るところは空けてあったけれど、4人の歩く速さを合わせるのは難しかった。


「ちょっと、そっち、ゆっくり」

「うん」

「ここ、端、当たる」

「少しこっち」


 小声で確認しながら、窓の前まで運んだ。

 背中をぶつけないようにかがみ、4人で同じくらいの速さで下ろした。


 敷布団が床へ着いた。

 俺は、やっと手を離した。


「重かった……」


 息を吐くと、真弓も手を開いたり閉じたりしていた。

 綾香は毛布を持ってきて、翔太の上へ広げた。


「これで、寒くないかな」

「うん。端も、こっちへ入れとこう」


 掛け布団がずれたところを直した。

 翔太は、その間にも1度も起きなかった。


 春樹が引き戸へ手をかけた。


「じゃあ」


 静かに閉めた。

 音は、完全にはなくならなかった。

 でも、ついさっきまで隣にいた時とは違った。

 遠くで、低く響いているくらいになった。


 4人とも、そのまま数秒黙った。


「……寝られる」


 真弓が言った。

 綾香が、よかった、と頷いた。

 春樹は、さっきの玄人みたいな顔ではなく、普通にほっとした顔をしていた。


「慣れるって言ってた人、いちばん助かってない?」


 俺が聞くと、春樹が小さく笑った。


「慣れなくて済むなら、その方がいいよ」


 真弓が、最初からそれを言って、と返した。

 俺は笑いながら、自分の布団へ戻った。


 優子がこちらを見上げた。


「……本当に、起きなかったね」

「うん。すごいね」

「お布団ごと、動いてたのに」


 声を抑えて言う姿がおかしくて、また笑いそうになった。

 明かりを消し、俺も布団へ入った。


 自分の寝る場所が、少し冷えていた。

 足を縮めると、優子も隣で同じように布団を引き上げた。


「寒いね」

「……うん」


 さっきまで笑っていたのに、冷たいところへ足が触れると、急に真面目になった。

 肩まで布団をかけ直した。


 少し離れたところで、真弓が言った。


「朝、絶対ここから出たくない」

「私も」


 綾香が答えた。

 春樹が、まず起きるところからだね、と返した。


 引き戸の向こうから、いびきがかすかに聞こえた。

 それを聞いても、もう起き上がろうとは思わなかった。


 優子の手が、布団の端から少し出ていた。

 俺はそこへ指を添えた。

 優子が小さく握り返した。


「おやすみ。今度こそ」


 小声で言うと、優子が笑った。


「……おやすみ」


 目を閉じた。

 腕と足の力が、少しずつ抜けていった。


     * * *


 次に目が覚めた時は、部屋がすっかり静かだった。

 どのくらい眠っていたのか、すぐには分からなかった。

 目を開けたまま少し待ち、ここが自分の家ではないことを思い出した。


 隣の布団に、優子がいた。

 向こう側には春樹がいた。

 そのさらに先にあったはずの翔太の布団は、なかった。


 そうだった、と、音を立てずに息を吐いた。

 翔太は窓のところへ運んだのだった。


 もう1度寝ようかと思ったが、トイレへ行きたかった。

 掛け布団を少し持ち上げると、すぐ冷たい空気が入ってきた。

 それだけで、行くのをやめたくなった。


 でも、やめても気になって眠れそうになかった。

 上着を手に取り、起き上がった。


「……勝也?」


 隣から声がした。

 優子が目を開けていた。


「トイレ。すぐ戻るよ」


 小さく答えた。

 優子はしばらくこちらを見て、それから布団を持ち上げた。


「私も、行く」

「うん。一緒に行こうか」


 優子の上着を渡した。

 眠そうなまま袖へ腕を通し、俺の手を取った。


 皆を踏まないように、足元を確かめて歩いた。

 入口の扉を少し開けると、廊下の明かりが差し込んだ。

 優子が目を細め、俺も1度瞬きをした。


 部屋を出た途端に、首元が冷たくなった。


「寒……」


 思わず小さく声が出た。

 優子も、俺の隣へ寄った。


「さっきより、寒いね」

「うん」


 目の前のトイレまで歩いた。

 優子は入口のそばで立ち止まり、眠そうに俺を見た。

 自分も使うのか聞くと、首を振った。


「……勝也と、来ただけ」


 俺は頷いた。

 戸のすぐ外を指し、ここで待っていてね、と伝えた。

 優子は、小さく返事をした。


 中へ入っても、優子が上着の袖を直す音が、すぐ外から聞こえた。

 俺も完全には目が覚めていなかった。

 短く用を済ませ、手を洗って出ると、優子は壁のそばで肩を縮めて待っていた。


「お待たせ」


 声をかけると、顔を上げた。

 手を伸ばしてきたので、取った。


「戻ろう」

「うん」


 部屋へ戻るまで、ほとんど話さなかった。

 寒くて、早く布団へ入りたかった。


 静かに扉を閉めた。

 暗い部屋の中で、さっき自分がめくった布団の形を探した。

 優子の手を取ったまま、そこまで歩いた。


 先に腰を下ろし、上着を脇へ置いた。

 優子も同じところへ座った。

 俺が布団を持ち上げると、そのまま隣へ入ってきた。


 冷たい空気が入らないように、端を引き寄せた。

 優子が近くへ寄ったので、少し場所を空けた。

 どちらがどの布団なのかを、改めて確かめる気にはならなかった。


「……あったかい」


 優子が小さく言った。

 俺も、うん、と返した。


 片腕を少し横へ伸ばした。

 優子が頭の位置を直し、その腕にそっと落ち着いた。

 もう片方の手で、肩のところまで布団を戻した。


 背中に残っていた冷たさが、少しずつ薄くなっていった。

 目を閉じると、すぐに眠気が戻ってきた。


 遠くで、翔太のいびきが聞こえた気がした。

 でも、さっきほどは気にならなかった。


    * * 優子視点 * *


 自分の枕は、隣の布団に置いたままだった。

 取りに戻ろうかと思ったけれど、頭の下には勝也の腕があった。

 少し顔を上げると、勝也はもう目を閉じていた。


 このままで、いいのかな。


 そっと頭を戻した。

 勝也のそばは暖かかった。腕には触れているけれど、向き合った体の間には、まだ少し隙間がある。

 もう少し近づきたくて、でも、眠るのに邪魔だったら困ると思い、そのまま服へ手を添えた。


 すると、背中へ勝也の手が回った。


「わっ」


 急に引き寄せられて、小さな声が出た。

 さっきまで空いていた隙間がなくなり、気づいた時には、勝也の胸元に収まっていた。

 頭の下の腕は、そのままだった。もう片方の腕が背中を包み、ぎゅっと抱き締めてくれる。


「……勝也?」

「ん……」


 眠そうな返事だけが、すぐ上から聞こえた。

 それきり、勝也は何も言わなかった。

 私を抱えたまま、またゆっくりと息をし始めた。


 もしかして、抱き枕のつもりなのかな。


 そう思うと少しおかしかった。

 勝也の顔を見たかったけれど、この腕の中から動くのは、もっと惜しかった。

 私は服へ添えていた手を緩め、頬を寄せた。


 抱き枕でも、いい。

 こんなふうに抱き締めてもらえるなら、ずっとこのままがよかった。


 布団を少し引き上げると、冷たい空気が入ってこなくなった。

 さっきまで廊下で縮めていた肩からも、力が抜けた。

 勝也の腕に頭を預け、もう1度、目を閉じた。


 昼のバスで、皆が勝也の話をしていた。

 私の知らないことを、いろいろ教えてくれた。

 お弁当を食べて、スタンプを集めて、夜にはカードを並べた。

 どれも今日のことなのに、朝からずっと同じ場所にいたみたいにも、たくさん遠くへ来たみたいにも思えた。


 勝也がいなくなったと思った時は、怖かった。

 まだ、お風呂のことも、皆と同じようにはできなかった。


 それでも、笑った顔の方も、すぐに思い出せた。

 札を戻しながら困っていた勝也。

 最後のラスクを見つめていた春樹くん。

 同じ声で返事をした加藤さんと井上さん。

 布団ごと動いているのに、眠ったままだった翔太くん。


 思い出すと、少し笑いそうになった。

 勝也を起こさないように、息を小さく吐いた。


 明日になっても、この部屋で朝を迎える。

 目を開けたら、皆がいる。

 勝也も、そばにいる。


 背中の腕は、離れなかった。

 枕を取りに戻ることは、もう考えなかった。


 暖かくて、嬉しくて、眠ってしまうのが少しもったいなかった。

 それでも、すぐそばの寝息を聞いているうちに、私も次第に考えられなくなった。


 目を開けた時も、このままだといいな。


 そう思いながら、勝也の腕の中で眠りに落ちた。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

初日の夕方から、優子や親友たちと同じ部屋で過ごす。短い用事で姿が見えなくなった際、優子の不安に気づいてすぐに戻り、謝りながら落ち着くまで寄り添う。入浴は当日の優子の希望を受けて一緒に入り、今日の出来事や幼い頃の話をする。部屋では優子の髪の通りのよさに驚き、真弓と綾香の髪と比べていたことを見抜かれる。その後、大富豪で2回続けて最下位になるが、優子の内緒の手助けを受けて抜け出す。スピードでは勝つたびに声が出る。夜は翔太の布団を運ぶ側に回り、夜中にトイレから戻ったあと、優子を腕枕で寝かせる。遠慮して少し隙間を空けていた優子を、寝ぼけたまま自分から抱き寄せ、そのまま眠る。


・富田 優子

親友たちと話したり笑ったりできる時間が増える一方、勝也の姿が見えなくなる不安は残っている。入浴前には、小学校の修学旅行で成長の違いを悪気なく指摘された記憶がよみがえり、勝也へ小声で打ち明ける。真弓と綾香の優しさを分かっていても不安が消えず、恥ずかしさを感じながら勝也との入浴を選ぶ。湯船では会話するうちに自分から勝也の隣へ寄り、部屋へ戻ってからもそばで甘えながら髪を乾かしてほしいと頼む。自由時間には勝也と幼い頃に遊んだ思い出を皆へ話し、女子同士ではミサンガの話になる。大富豪では連敗した勝也へこっそりジョーカーを渡し、勝也が喜ぶ姿を嬉しく思う。スピードにも参加し、翔太に勝って笑顔を見せる。夜中には自分の枕を元の布団へ残したまま勝也の腕枕に落ち着き、抱き寄せられたことに短く驚いたあと、暖かさと幸せを感じながら眠る。


・鳥居 翔太

班長として夕食や入浴、消灯の連絡を持ち帰る。春樹へのお礼に作ったチョコラスクは、家で味見を繰り返した結果、最後の1個だけになっている。皆に突っ込まれながらも、その1個を春樹へ渡す。トランプを楽しみ、枕投げを提案するが、皆が眠そうなので素直に寝る。眠り始めると大きないびきをかき、本人が気づかないまま、4人に布団ごと窓際へ運ばれる。


・鶴見 春樹

翔太から最後の1個のチョコラスクを受け取り、味見しすぎたことへ突っ込みながら食べる。材料の由来や古さは知らない。大富豪では革命を利用し、スピードにも参加する。就寝後は小学校の修学旅行での経験から翔太のいびきを知っていたことが分かり、窓際の空間へ布団ごと移す案を出す。


・加藤 真弓

入浴前に優子の希望を尋ね、優子がためらうと返事を急かさずに待つ。勝也との入浴を知って驚くが、本人の選択を受け止める。持参したトランプで皆を誘い、大富豪では革命を起こす。夜は翔太のいびきに本気で困り、布団を運ぶ際も積極的に加わる。優子の不安と勝也への好意の両方を感じ取っている。


・井上 綾香

真弓と先に個別浴室を使い、あとから使う皆へ声をかける。優子のミサンガの話を聞き、願いの内容は無理に尋ねない。トランプを楽しみ、就寝後は真弓と同時に翔太のいびきへ絶望する。布団の移動を手伝い、窓際で眠る翔太へ毛布をかける。


・花沢先生

消灯時に部屋を訪れ、翌朝の活動と冷え込みに備えるよう声をかける。明かりが消え、翔太が布団へ潜る様子を見て、全員が寝つく前に立ち去る。その後の布団移動や、夜中に勝也と優子が同じ布団で眠ることは知らない。


・施設内で声をかけた先生

夕食前、荷物を運ぶ際に勝也へ扉を押さえるよう頼む。短い用事の間に、開いた扉の陰で勝也の姿が優子から見えなくなる。


・学校契約のカメラマン2人

2人で各班や施設内を分担して回る。1人が夕食のおかわりをする勝也たちを撮影する。自由時間には1人が声をかけて部屋へ入り、トランプに夢中になる6人の表情を撮ってから、ほかの部屋へ向かう。

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