第40話 林間学校1日目 前編
* * 優子視点 * *
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
枕元の時計へ顔を寄せると、お母さんと約束した時刻まで、まだ少しあった。
今日は水曜日だった。
学校へ行って、バスに乗って、いつもと違う場所へ行く。
その前に、作りたいものがあった。
布団から出て、足を床へ下ろした。廊下を歩くと、台所の方から水の音が聞こえた。
お母さんはもう起きていて、冷蔵庫から出した物を並べていた。
「おはよう」
「おはよう。自分で起きられたんだね」
「うん。まだ鳴ってなかったけど、目が覚めちゃった」
「楽しみで?」
頷いてから、テーブルの上を見た。
昨日、献立を書いた紙の隣に、卵焼きの分量を書いた紙が重ねてあった。
「……ちゃんと作れるかなって、少し考えてた」
「順番にやれば大丈夫。まず、手を洗おうか」
お母さんの隣へ行き、袖を上げた。
水を止めて手を拭くと、使う器を近くへ寄せてもらった。
卵焼きと、鶏肉の照り焼き。
それから、たまごサンドと、ツナマヨレタスサンド。
昨日の夜、自分で書いた文字を、もう1度、上から読んだ。
「こんなに、全部できる?」
「お母さんも作るから。優子は、やってみたいところを一緒にやろう」
「卵焼きは、作りたい」
「うん。じゃあ、こっちから始めようね」
器の縁で卵を割った。
最初の1つは、殻の内側に残った白身がなかなか落ちてこなかった。しばらく待ってから置き、次を手に取った。
箸で混ぜる間、お母さんが紙へ目を向ける。
「この前と同じでいい?」
「うん。同じ味にしたい」
匙へ入れた調味料を、器へ加えた。
この前、勝也は、おいしいと言ってくれた。
たまたま上手にできただけにならないように、紙に書いたところを指で追い、入れ忘れがないか確かめた。
火の前へ移ると、お母さんが卵焼き器を置いてくれた。
持ち手を握り、卵を少し流す。広がった黄色いところへ、小さな泡が浮いた。
「もう、巻く?」
「端が固まってきたね。慌てなくていいから、そこを少し持ち上げてみて」
箸を入れた。
端は持ち上がったのに、その隣がまだくっついていた。引っ張りかけたところで、お母さんが、もう少しこっち、と教えてくれた。
持ち上がった分を手前へ折ると、思っていたより太くなった。
「あ」
「大丈夫。そのまま続けよう」
次を流す前に、巻いた卵を向こうへ寄せた。
前に教えてもらった時より、やることは分かっていた。それでも、実際に火へかけると、紙を見る余裕はなくなってしまう。
お母さんの声を聞きながら、箸の先だけを見ていた。
最後の分まで巻くと、肩へ力が入っていたことに気づいた。
「できた」
「うん。前より、巻きやすそうだったね」
火を止め、皿へ移した。
端の方が少し膨らんでいて、左右が同じ太さにはなっていなかった。
覗き込むと、お母さんが横から見て、切ったらきれいに並べられるよ、と言ってくれた。
「端っこ、私のに入れる」
「勝也くんの方にも入れていいと思うけど」
「きれいなところ、食べてほしいから」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
お母さんは笑わずに、じゃあ、あとで一緒に選ぼうね、と頷いた。
照り焼きは、お母さんと交代しながら作った。
鶏肉を返すところを教わり、昨日合わせた調味料の器を持つ。入れていいよと言われて傾けると、音が大きくなって、少しだけ手が止まった。
「はねるから、近づきすぎなくていいよ」
「うん」
器を置き、少し離れたところから見た。
お母さんがフライパンを傾けると、たれが肉の端へ集まった。さっきまで薄かった色が、少しずつ濃くなっていく。
煮詰まりすぎないように見てね、と言われ、今度はそちらから目を離さなかった。
焼けた物を別の皿へ移し、お母さんが中まで火が通っているのを確かめた。
小さく切った端を、味見用の皿へ載せてくれた。
「どう?」
口へ入れると、甘いたれの味がした。
思っていたより、ちゃんとおかずの味だった。
「ご飯、食べたくなる」
「じゃあ、よかったね」
お母さんが笑った。
勝也も、こうして食べてくれたらよかった。
次は、テーブルへ移ってサンドイッチの具を作った。
茹でた卵の殻をむき、器の中で潰す。白いところが逃げてしまうので、器を押さえ、少しずつフォークの下へ寄せた。
レタスはお母さんと洗い、水気を取って、小さく分けた。
パンを並べてみると、空いていたテーブルがすぐに狭くなった。
「多いね」
「昨日、これくらい作ろうって決めた分だよ」
「分かってたけど、並べると、いっぱい」
お母さんは、まだ具を載せていないパンを見た。
「少し減らす?」
昨日の、空の容器を思い出した。
あの時も、多すぎるかもしれないと思った。でも、勝也のお皿には焼きそばが2袋分載っていて、それを全部食べたあとも、目玉焼きを最後までおいしそうに食べていた。
「……ううん。作る」
「分かった」
お母さんが、次のパンを私の前へ置いてくれた。
たまごの具を広げると、端へ寄りすぎた分が少しはみ出した。匙で戻し、もう1枚を重ねる。
上から押さえすぎないようにと言われ、手の力を緩めた。
ツナマヨの方には、レタスも挟んだ。パンの間から緑が見えると、卵焼きや照り焼きとは違うものができたのだと、少し嬉しくなった。
切り分けるところは、お母さんにも手伝ってもらった。
具がずれないように押さえているつもりでも、包丁を動かすとパンまで動きそうになる。隣でやって見せてもらい、次の1組を自分で切ってみた。
「それ、きれいに切れたね」
切り口を覗いた。
黄色い具が、ちゃんと真ん中に入っていた。
「これ、勝也のに入れる」
「サンドイッチは、全部勝也くんの分でしょう」
お母さんに言われ、手が止まった。
そうだった。
今、並べているものは、どれも勝也に渡すために作っていた。
顔を見合わせると、お母さんが笑った。私も、少し笑ってしまった。
* * *
出来上がったものを冷ましている間に、朝ご飯を食べた。
お父さんが台所へ来ると、テーブルに並んだ皿を見て、足を止めた。
「ずいぶん作ったね」
「勝也の分もあるから」
「聞いていたけど、思ったよりたくさんだ」
お母さんが、追加のサンドイッチのことを説明した。
お父さんは、私とパンの並んだ皿を見比べた。
「優子の分は、どこ?」
「私のは、こっち。サンドイッチは勝也の」
「こっちは全部?」
「うん」
お父さんが小さく笑った。
「それなら、お昼が楽しみだね」
私は頷いた。
食べる前に、驚かれるかもしれなかった。
朝ご飯のあと、着替えを済ませて戻ると、お母さんと弁当を詰めた。
ご飯を入れるところと、おかずを入れるところを分けて、卵焼きを並べる。どの向きに置けば収まりがよいのか、容器の上で少し迷った。
「お肉は、ここ?」
「うん。そっちにすると、卵焼きもよく見えるね」
言われた場所へ、照り焼きを入れた。
卵焼きの端の小さなものは、自分の方へ置いた。勝也の方へは、太さの近いものをそろえた。
お母さんが用意してくれた付け合わせも詰めると、空だった容器が、ご飯とおかずでいっぱいになった。
その横で、サンドイッチの容器にもふたをした。
私の弁当が1つ。
勝也の弁当が1つと、サンドイッチがもう1つ。
分かっていたはずなのに、ふたをした容器が3つ並ぶと、また少し笑いたくなった。
「お母さん。本当に、これ、持っていくんだね」
「うん。作れたね」
お母さんが保冷剤を用意してくれた。
箸と、食べ終わった容器をまとめる袋を確かめ、弁当を保冷バッグへ入れた。手に提げてみると、昨日の夜に空の容器を入れた時とは、ずいぶん重さが違った。
勝也が、2人分を持つと言ってくれた。
まだ中身を知らない勝也の顔を思い浮かべ、持ち手を握り直した。
「そろそろ出ようか。勝也くんに、今から行くって伝えておいてね」
「うん」
学校へ戻ってからは、毎朝、お母さんの車で勝也の家まで送ってもらっている。そこから勝也と一緒に歩いて、学校へ行く。
今日も携帯を取り出し、今から出ることを伝えた。勝也から、分かった、と返事が来た。
玄関で靴を履いていると、お父さんが見送りに来てくれた。
「しおり、入れた?」
「うん。すぐ出せるところ」
「気をつけて。楽しんでおいで」
「行ってきます」
お父さんへ手を振り、お母さんと車に乗った。
膝に載せた保冷バッグを、両手で支えた。車が動き出してからも、中の容器が傾かないように、持ち手を握っていた。
* * 勝也視点 * *
泊まりの荷物を持って下へ降り、マンションの入口で待った。
しばらくすると、優子のお母さんの車が見えた。駐車場へ向かうと、停まった車から優子が降りてきた。
「おはよう」
「おはよう。待った?」
「ううん。俺も、さっき下りてきたところ」
「そっか。お弁当、できたよ」
そう言って笑った顔を見て、俺も嬉しくなった。
昨日は、作ってくれると聞いただけだった。今日は本当に、それを持って一緒に出かける。
運転席から降りたお母さんが、優子の泊まりの荷物を出してくれた。
「おはよう、勝也くん」
「おはようございます。お弁当、ありがとうございます。朝から、すみません」
「いいのよ。優子も頑張って作ったから、食べてね」
「はい。すごく楽しみです」
優子が、少し顔を下げた。
その手に提げられた袋へ、俺は目を向けた。
「これ、お弁当?」
「うん」
「じゃあ、持つよ」
持ち手を受け取った。
思っていたより、ずっと重かった。
落とすほどではなかったけれど、手首へかかった重さに、思わず袋を見直した。
「おお」
優子が、こちらを見た。
「……重い?」
「大丈夫。2人分だもんね」
「うん」
返事をしたあと、優子はお母さんの方を見た。
お母さんも、少し笑っていた。
「何か、今、2人で笑った?」
「お昼まで、お楽しみなんでしょう?」
お母さんに言われ、俺も頷いた。
「そうでした。まだ聞かないでおきます」
袋を持ち上げて確かめようとしかけて、やめた。
優子が、それを見てまた笑った。
優子がお母さんから受け取った鞄を、肩へ掛けた。
昨日一緒に確かめた荷物だった。歩き始める前に、ベルトがねじれていないか見た。
「歩きにくかったら、途中で替わるよ」
「うん。今は大丈夫」
優子は自分で鞄の位置を直してから、お母さんの方へ向き直った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。勝也くんも、楽しんできてね。帰ってきたら、話を聞かせて」
「はい。行ってきます」
優子は頷いて、俺の隣へ来た。
駐車場を出るところで、もう1度だけ振り返った。車のそばに立つお母さんへ小さく手を振ってから、俺と並んで公園へ向かった。
今日はいつもの道でも、手に持った物が違った。
教科書の代わりに着替えを入れた鞄と、2人分の弁当。優子は日傘を開き、俺の歩く方を確かめた。
「何時に起きたの?」
聞くと、優子は普段より早い時刻を答えた。
「眠くない?」
「今は平気。勝也は?」
「俺も。起きられなかったらどうしようと思ってたけど、目覚ましが鳴ったら、すぐ起きた」
「……昨日、楽しみにしてるって言ってたもんね」
「うん。今も楽しみ」
弁当の袋へ目を落とすと、優子が少し笑った。
「まだ、だめだよ」
「分かってるって。今、開けようとはしてないよ」
「さっきも、ちょっと見ようとしてた」
「外からでも分かるかなって、少し思っただけ」
優子は、日傘を持っていない方の手で俺の袖へ触れた。
「ちゃんと、お昼に見て」
「うん」
そう返すと、指が少し緩んだ。
そのまま隣で歩く優子は、いつもの朝よりよく笑っていた。
* * *
公園の近くまで来ると、翔太が先に俺たちを見つけた。
「おーい!」
大きく手を振り、その拍子に肩の鞄がずり落ちかけた。春樹が横で何か言い、翔太は鞄を掛け直した。
「おはよう」
「おはよう。荷物、でかいね」
春樹が俺の鞄を見た。
「そういう春樹も、結構いっぱいじゃん」
「入れたら、こうなった。帰り、同じように入るかな」
「押せば入るって」
翔太が、自分の鞄を叩いた。
「お前、それ、もう押したあと?」
「うん」
「じゃあ、帰りの余裕ないじゃん」
俺が言うと、翔太は少し考え、もう1度押す、と答えた。
優子が、俺の隣で小さく笑った。
「富田さんも、おはよう」
春樹が少し声を柔らかくした。
「……おはよう」
「荷物、大丈夫?」
「……うん」
優子が頷くと、春樹も頷き、それ以上は急がせずに前へ向いた。
翔太は、俺が持っている別の袋を見た。
「それ、何?」
「弁当。優子の分も持ってる」
「2人分?」
「うん」
翔太は、なるほど、と言った。
それから俺の方を見た。
「俺のも持つ?」
「自分で持って」
「即答かよ」
「今、両方埋まってるの、見えるでしょ」
俺が鞄と袋を少し持ち上げると、春樹が笑った。
翔太も、分かってるって、と笑い、学校の方を見た。
「あー、早く着かねえかな」
「学校には、もうすぐ着くよ」
「そっちじゃなくて」
春樹に返しながら、翔太は足を速めた。
数歩先へ出たところで振り返り、俺たちが追いつくまで、道の端で待った。
優子は、その後ろ姿を見ていた。
俺が目を向けると、小さく口元を緩めた。
「……すごく、楽しそう」
「うん。昨日から、ずっとあんな感じ」
翔太に聞こえないくらいの声で答えると、優子がもう1度笑った。
* * *
学校には、もう大きな鞄を持った人たちが集まっていた。
いつもの登校より早いのに、話し声はずっと多かった。バスの方を指している人もいれば、鞄からしおりを出して、すぐにしまい直している人もいた。
優子の指が、俺の袖を少し強く掴んだ。
日傘を畳む間、荷物を足元へ置き、俺も隣へ寄った。
「先に、先生のところ行こうか」
優子が頷いた。
花沢先生は名簿を持ち、集まってきた人へ順番に声をかけていた。俺たちに気づくと、こちらへ歩いてきた。
「おはよう。2人とも、体調はどう?」
「大丈夫です」
俺が答えてから、先生は優子を見た。
「富田さんは?」
「……大丈夫、です」
「うん。今日は早かったね。眠れた?」
優子が頷いた。
先生は名簿へ印をつけると、班で待つ場所を教えてくれた。
「鳥居くんたちは、あちらにいるね。時間になったら呼ぶから、荷物を置いて待っていてください」
振り返ると、翔太が真弓と話していた。
綾香もその隣にいて、俺たちへ手を上げた。
「おはよう」
「おはよう、勝也君。富田さんも」
「……おはよう」
優子が返事をすると、真弓が自分の鞄を少し寄せた。
「ここ、置けるよ」
空いたところへ、優子が荷物を下ろした。
俺の鞄もその隣へ置くと、優子は2つの持ち手を見てから、肩を少し下げた。
翔太は皆を見回し、指を折った。
「6人。よし」
「さっきも数えたでしょ」
「今、全員来たから。ちゃんと班長やってるんだって」
真弓に言い返し、翔太はしおりを持ち上げた。
その表紙が上下逆になっていたので、春樹が黙って指を向けた。
「……読む時に直すから」
「うん。じゃあ、読む時に教えて」
春樹の返事に、綾香が笑った。
優子も俺の袖を掴んだまま、しおりを直す翔太を見ていた。
少し離れたところから、宣仁が歩いてきた。
「おはよう。もう皆おるね」
「うん。宣仁の方は?」
「あと1人。先生に呼ばれとる」
宣仁は俺たちの荷物を見てから、自分たちの班の方へ目を戻した。
「あとでな」
「うん。また向こうで」
短く話して戻っていく。
優子はその背中へ小さく頭を下げてから、俺を見た。
「……皆、いるね」
「うん」
袖を掴んでいた手へ、少し触れた。
優子は周りの声に顔を上げながらも、その場から離れようとはしなかった。
* * *
出発前の説明で、学校と契約しているカメラマンさんが2人紹介された。
首からカメラを下げた2人が、先生の隣で会釈をした。林間学校の間、活動や自由時間の様子を撮ってくれるそうだった。
「行きはお二人とも別のクラスのバスですが、帰りは私たちのバスに乗ってくださいます」
花沢先生が、俺たちへそう教えてくれた。
話が終わって荷物を持ち直していると、さっそく近くでシャッターの音がした。
翔太が顔を上げ、慌てて片手でピースを作った時には、カメラはもう別の班へ向いていた。
「今、撮った?」
「うん。普通に鞄持ってるところ」
俺が答えると、翔太は出した手をゆっくり下ろした。
春樹が、それでいいんじゃない、と笑った。
それから、順番にバスへ乗った。
大きな荷物を預け、弁当や活動で使う物の入った鞄は手元へ残した。優子が先に段へ足をかけるのを待ち、俺も後ろから乗り込んだ。
席へ着くと、優子が窓側へ入った。
俺は弁当の袋を傾かないように置き、隣へ座った。通路を挟んだ横には真弓と綾香、俺たちの後ろには春樹と翔太が座った。
「大丈夫? 狭くない?」
「……うん」
優子が膝の鞄を抱え直した。
窓へ目を向け、それから俺の方へ少し寄った。後ろでは、翔太が早くも前の方を気にしていた。
「運転手さん、もう乗ってる?」
「乗ってなきゃ出発しないよ」
「そうじゃなくて、いつ出るかなって」
春樹に言い返したところで、先生から、座って待っていてね、と声をかけられた。翔太が素直に背中を戻すと、通路の向こうで真弓が笑った。
やがてバスが動き始め、優子の手が俺の手へ触れた。
握ると、窓の方を見たまま握り返してくれた。校舎が少しずつ後ろへ流れ、優子の肩から細く息が抜けた。
「出発したね」
「……うん」
その返事に重なるように、後ろから声がした。
「まだ着かねえな」
「今、校門出たところだけど」
春樹がすぐに返した。
握っていた手へ力が入ったので隣を見ると、優子は口元を押さえて笑っていた。
「……早いね」
「着くの待てないんだって」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ってるんだけど」
俺が少し顔を向けると、翔太も笑っていた。
しばらくは見慣れた建物が続いた。優子はお母さんと通ったことのある道を教えてくれて、俺も同じ方を見た。
「いつもは、あそこで曲がるの?」
「うん。あの先に、お母さんと買い物に行くところがあるの」
話していると、真弓がこちらを見た。
「富田さん、酔ってない?」
「……うん。大丈夫」
「よかった。さっきより顔色いいね」
優子が小さく頷いた。
綾香もこちらへ顔を向け、今通り過ぎた建物の方を見た。
「2人は、小さい頃も一緒に出かけたりしてたの?」
「してたよ。優子のお母さんと、俺の母さんと、4人で」
「家が隣だったんだよね」
「うん。優子の家の隣に、俺の家が建って。それから」
答えると、優子が俺を見た。
「……幼稚園の時」
「そうそう」
真弓が優子へ目を向けた。
「初めて話した時のこと、覚えてる?」
* * 優子視点 * *
勝也の手を握ったまま、加藤さんを見た。
通路を挟んだ向こうで、返事を待ってくれていた。すぐに答えられなくても、次の質問は飛んでこなかった。
「……勝也から、話しかけてくれたの」
言ってから隣を見ると、勝也も頷いた。
「最初は、髪が白いのが気になったんだよね。近くで見たことなかったから」
「……うん」
まだ勝也を知らなかった頃にも、髪のことを聞かれたことはあった。
近くへ来る子が皆、嫌なことを言うわけではなかった。どうして白いのか知りたくて、話しかけてくれる子もいた。
それでも、知らない子の顔が近づくと、何を言われるのか分からなくて、うまく返事ができなかった。
「私、あんまり……話せなかったから」
「富田さんが?」
井上さんに聞かれ、頷いた。
「……勝也にも、最初は」
「でも、遊んでたら、ちょっとずつ話してくれるようになったよ」
勝也が言った。
いつ仲良くなったのか、1つの日を選ぶことはできなかった。隣に家ができて、勝也が来て、また次も遊んで。そのうち、来るのを待つようになっていた。
「……気づいたら、いつも一緒だった」
口にすると、勝也が少し笑った。
「家、すぐそこだったもんね」
「うん」
後ろから、翔太くんの声がした。
「幼稚園からか。俺らより、だいぶ前だな」
「俺たちは小学校で会ったからね」
春樹くんが答えた。
2人の声を聞きながら、つないだ手へ目を落とした。
幼稚園では、私が近づくと遊ぶのをやめてしまう子もいた。気味が悪いとか、病気がうつるとか、言われたこともあった。
輪の外に立ったまま、帰る方を見ていた時、勝也が来てくれた。
「……私、入れてもらえない時もあって」
言いかけると、勝也がこちらを見た。
その目を見てから、続きを話した。
「髪のこととか……病気がうつるって、言われたりして」
加藤さんの笑顔が少し静かになった。
でも、顔を覗き込まれたり、先を急かされたりはしなかった。
「その時、勝也が……手、つないでくれたの」
勝也は、つないでいる手を見た。
「ああ。うん」
「……嫌じゃないのかなって、思った」
「優子と遊んでたし。手だって、いつもつないでたから」
あの時も、勝也は当たり前のように手を伸ばしてきた。
私が少し離れようとしても、そのまま隣にいて、遊びに誘ってくれた。
「最初は、何で入れてくれないのか、俺もよく分かってなかったんだけどね。変なこと言うなよって思うようになって」
「勝也君が、皆のところへ連れていってくれたの?」
加藤さんが聞いた。
私は頷いた。
「……うん。同じところで、遊べた時もあった」
勝也のそばにいると、そこへいてもいい気がした。
でも、自分からほかの子に何かを言うのは難しくて、遊んでいる間も勝也ばかり見ていた。勝也が少し遠くへ行くと、ついていってしまった。
「でも、俺が誘っても、あんまり楽しそうじゃない時があったんだよね」
勝也が言った。
私は、その横顔を見た。
「……分かってたの?」
「うん。俺の後ろにずっといるから。家で遊んでる時の方が、よく話してたし」
上手に遊べなかったことを、怒られた覚えはなかった。
みんなと遊ぼうと言われる代わりに、今日はうちへ来る、と聞かれることが増えた。
「それで、優子の家か、俺の家で遊ぶ方が多くなった」
「……うん」
加藤さんが、ゆっくり頷いた。
「そっか。家なら、落ち着いて遊べたんだね」
その言い方に、胸の辺りの力が少し緩んだ。
また頷くと、井上さんが聞いた。
「家では、どんなことしてたの?」
「……塗り絵とか。絵本、読んだり」
「おままごとも、やったよね」
勝也の言葉に顔を向けた。
「うん」
「勝也が、おままごと?」
翔太くんが聞き返した。
勝也は、何かおかしいかな、という顔で後ろを見た。
「やるでしょ。小さい時」
「いや、お前が何してたのかなって」
「ご飯、食べてた」
春樹くんが笑った。
「今と、あんまり変わらないね」
「本物じゃないから」
勝也も笑っていた。
私の手のひらに、笑う時の小さな動きが伝わってきた。
「……まだ作ってるのに、食べようとしたこと、あった」
思い出して口にすると、勝也がこちらを向いた。
「そうだっけ」
「うん。まだできてないよって」
「待ちきれなかったんだ」
加藤さんに言われ、勝也は、そうだったのかも、と笑った。
私も笑ってしまった。小さな皿を並べていた時のことが、皆の声を聞いているうちに、少しずつ思い出せた。
「小学校でも、そういう遊びしてたの?」
井上さんが聞いた。
「……小学校に入ってからは、ゲームも」
「俺が買ってもらって、優子が隣で見てたんだよね」
「うん。何してるのか、教えてもらって」
勝也が画面へ向かっている間、私はその隣に座っていた。
初めは見るだけでも楽しかった。分からないところを聞くと、勝也は説明してくれて、失敗すると自分で笑っていた。
「それで……私も、同じのを買ってもらったの」
「一緒にやりたくなった?」
加藤さんへ頷いた。
「……うん」
「そっか。見てるだけだったのが、一緒に遊ぶようになったんだ」
その言葉を聞き、隣の勝也を見た。
勝也も覚えているようで、嬉しそうに頷いていた。
「優子、分からないところ、ちゃんと聞いてくるからさ。俺が先へ行ってるつもりだったのに、いつの間にか同じところまで来てたりして」
「勝也が、教えてくれたからだよ」
「教えても、できないことってあるじゃん」
勝也が言うと、春樹くんが、あるね、と答えた。
なぜか翔太くんが、俺の方を見るな、と言い、後ろで2人が笑った。
それから、家の外で遊んだ時の話になった。
お母さんたちと4人で子ども向けの映画を見に行ったこと。屋内で遊べるところへ連れていってもらったこと。屋内プールで、帰ると言われてもまだ遊びたかったこと。
「……買い物の時は、コインのゲームもしたよね」
「した。お母さんたちが戻ってくるまで、2人で」
「2人とも、そういうの好きだったんだ」
井上さんに聞かれ、うん、と答えた。
勝也が、うまくいくとやめられなくなるんだよね、と言うので、お母さんにもう帰るよと言われた時のことを思い出した。
「……勝也、あと1回って」
「優子も言ってたよ」
「私も?」
「うん。俺が終わったら、今度は優子のが終わらなくて」
言われてみると、そんな日もあった気がした。
勝也だけの話にしてしまったのが可笑しくて、私も頷きながら笑った。
「……あったかもしれない」
「お母さんたち、待ってたよね」
「うん」
加藤さんも笑っていた。
「本当に、毎日みたいに一緒にいたんだね」
「……うん。でも、勝也が別の友達と遊ぶ日もあったよ」
「俺だけで行くことも、結構あったね」
勝也が答えた。
そういう時は、家で1人で過ごした。本を読んだり、ゲームの続きをしたりしながら、隣の家の音を気にしていた。
皆の前でそこまで話すのは少し恥ずかしくて、本を読んでいたことだけを伝えた。
「だから、勝也がほかの友達と何してたのかは……知らないことも、多くて」
口にすると、後ろで翔太くんが、あ、と言った。
「じゃあ、こっち来てからの話も、あんまり知らない?」
私は少し体の向きを変えた。
「……うん」
土曜日に春樹くんが勝也の家へ顔を出した時、本当にすぐそばに住んでいるのだと、改めて思った。
勝也が私の隣からいなくなったあと、どんなふうにこの人たちと仲良くなったのか、聞いてみたかった。
* * *
「俺は、勝也が初めてこっちの小学校へ行く日から知ってるよ」
春樹くんが言った。
通路側に座っている春樹くんの顔は、少し向きを変えると見えた。
「……最初の日から?」
「うん。家が隣だから。学校へ行く時に会って、話して」
「学校、どっちに行くのかも、まだよく分かってなかったしね」
勝也が続けた。
「春樹がいて、助かったんだよ」
「歩きながら、ゲームの話になったんだよね」
「そう。それ、俺もやってるって」
2人が顔を見合わせて笑った。
朝、知らない道を歩く勝也の隣に春樹くんがいた。そのことを、私は初めて知った。
「俺も、その日に仲良くなった」
翔太くんが言った。
「翔太くんも……同じ日?」
「おう。話してたら、やってるゲームが同じでさ」
「何か、もうその話ばっかりしてたよね」
勝也が言うと、春樹くんも頷いた。
「休み時間、すぐ終わった」
「まだ話してんのに、授業始まるんだもんな」
「それは、学校だから」
春樹くんが返した。
翔太くんは笑っていた。初めて会った日でも、今と同じように話していたのかもしれないと思った。
「……すぐ、仲良くなったんだね」
「うん。何話そうとか、考えてる間がなかった」
勝也が答えた。
転校した先で、こんなふうに話せる人がすぐにできていた。それを聞けたことが嬉しかった。
「ゲームばっかりじゃなくて、外でも遊んでたよ」
翔太くんが続けた。
「春樹、エアガン持ってたから。借りて、3人で」
「春樹くんの?」
「うん。俺、ああいうの好きで。皆で遊んだね」
春樹くんが言った。
落ち着いて話す春樹くんと、エアガンを持って遊ぶ姿が、すぐには重ならなかった。
「……知らなかった」
「今、学校でその話すること、あんまりないもんね」
春樹くんは、普通に答えてくれた。
私が何も知らなくても、話の途中へ戻って教えてくれた。
「釣りも行ったしな」
翔太くんの言葉に、勝也が笑った。
春樹くんも、ああ、と声を出した。
「あの池?」
「そう。ヌシの」
「ヌシ?」
思わず聞き返すと、翔太くんの顔が明るくなった。
「そう。すげえのがいたんだよ」
「先に、3人で池に落ちた話をした方がいいと思う」
春樹くんが言った。
私は、勝也へ顔を戻した。
「……落ちたの?」
「うん。3人とも」
勝也は、もう笑っていた。
通路の向こうで加藤さんもこちらへ顔を向けた。
「釣りに行って、何で全員落ちるの」
「順番に説明するから」
翔太くんが言った。
「ブラックバス釣りに行ったんだよ。そしたら俺のに、すげえのが掛かって」
「翔太、ずっと叫んでたよね」
勝也が、少し声を弾ませた。
「ヌシだ、ヌシだって」
「だって、今までと全然違ったんだって!」
「分かってるよ。俺も、これはすごいなって思って、そっち行ったんだから」
勝也の声を聞いていると、怖かったという話には聞こえなかった。
隣で笑う顔と、池に落ちたという言葉を見比べるようにして、続きを待った。
「翔太が持っていかれそうになってたから、後ろから支えようとしたんだよね。でも、足元が悪くて」
「勝也も滑ったの?」
「うん。支えたつもりが、俺まで前へ行っちゃって」
勝也が、空いている手を少し前へ動かした。
「で、俺、何か掴まないとって思ったんだよ」
翔太くんが言った。
その横で春樹くんが、自分の肩を指した。
「俺のリュック」
一瞬、誰も続けなかった。
井上さんが先に口元を押さえた。
「春樹くん、背負ってたの?」
「うん。普通に。近くにいたら、いきなり引っ張られて」
「だって、そこに持つところがあったから」
「あったけど。そこ、俺とつながってるからね」
加藤さんが笑い、私も声を漏らしてしまった。
慌てて口元へ手を持っていくと、春樹くんまで笑っていた。
「俺、助けようとする前に落ちたんだよ」
「速かったよね。3人落ちるの」
勝也が言った。
「俺が翔太支えて、翔太が春樹のリュック掴んで、そのまま」
「皆つながってたんだ」
言ってから、また笑いそうになった。
勝也は、そうなんだよ、と頷いた。
「仲いいでしょ」
「その時は、つながりたくなかったけど」
春樹くんの返事に、今度は口を押さえていても笑い声が出た。
3人の顔を順番に見ると、誰も嫌そうにしていなかった。翔太くんは、まだ大事なところがある、とでも言うように手を上げた。
「でも、俺、竿は離さなかったから」
「池に落ちても?」
「おう」
翔太くんは得意げだった。
私が勝也を見ると、本当だよ、と頷いた。
「俺と春樹が岸につかまってたら、翔太、まだ釣ってるんだもん」
「ここまで来て逃がせるかよ」
「落ちた分、取り返そうとしてたの?」
加藤さんが聞いた。
翔太くんは少し考え、いや、それより、と話を続けた。
「水の中に、魚が見えたんだよ」
そう言った時、勝也も春樹くんも頷いた。
さっきまでの言い合いが、そこで急にそろった。
「あれは、大きかった」
「うん。あれ見た時は、俺もびっくりした」
春樹くんまで真剣な声になったので、私はまた翔太くんを見た。
「3人とも、見えたの?」
「見た。でかい影が、すぐそこ通って」
翔太くんが両手を広げかけて、前の座席へ当たらないように止めた。
勝也も、あの時は釣れるかもって思った、と続けた。
「それで、釣れた?」
聞くと、春樹くんが首を振った。
「竿が折れた」
「……え?」
「そこで、終わり」
翔太くんが、手のひらを上へ向けた。
私は3人を見た。
「皆、濡れちゃって……竿も?」
「うん」
勝也が答えた。
その顔があまりにも楽しそうで、笑っていいのか迷ったまま、結局、笑ってしまった。
「帰る時も、皆びしょびしょでさ」
「でも、あれは本当にヤバかったよな」
「あれなら、ヌシって言いたくなるよ」
春樹くんが言った。
翔太くんは、だろ、と嬉しそうに頷いた。
「さっきまで文句言ってたのに、そこは認めるんだ」
加藤さんが笑った。
「魚が大きかったのと、俺が引っ張られたのは、別だから」
「春樹も、帰りは笑ってたじゃん」
「あの格好で3人並んでたら、笑うよ」
話している今も、3人は笑っていた。
ずぶ濡れで並んで歩くところを想像した。勝也は途中で何度も大きさの話をして、翔太くんが同じことを言い、春樹くんもそれには頷いていたのだろう。
「……その魚、何だったんだろう」
口にすると、翔太くんが、な、と答えた。
「俺も、そこが気になってる」
その返事が、すぐに返ってきた。
勝也を見て、代わりに答えてもらわなくても、翔太くんは私へ話してくれた。
* * *
「その2人、家でゲームしてても、結構騒ぐよ」
井上さんが言った。
勝也の笑い方が、少し変わった。
「綾香。それ、何の話しようとしてる?」
「お泊まりの時」
春樹くんも、ああ、と声を出した。
今度は、釣りの時のような嬉しそうな声ではなかった。
「それは、もういいんじゃない?」
「富田さん、知らないでしょ」
井上さんが私へ目を向けた。
私は頷きかけてから、勝也を見た。
「聞いてもいい?」
「いいけど……たぶん、綾香が楽しそうに話すと思う」
「楽しかったからね」
井上さんは笑っていた。
加藤さんも何の話か分かったらしく、翔太くんと顔を見合わせた。
「小学校の、冬休みに入る少し前。私が勝也君の家へ泊まりに行った時に、ゲームを持っていったの」
「春樹くんも、一緒に?」
「うん。3人で遊ぼうと思って。お父さんの『バイオハザード』」
名前は聞いたことがあった。
でも、自分で遊んだことはなかったので、井上さんへ聞いた。
「怖いゲームだよね?」
「うん。最初のやつ。私は、お父さんが遊んでるのを最後まで見てたから、どこで何が出るか知ってたんだけど」
井上さんは、勝也と春樹くんへ目を向けた。
「2人とも、箱を見てる時から、ちょっとおかしくて」
「おかしくはないよ。普通に見てたでしょ」
勝也がすぐに言った。
井上さんは、あの時のことを確かめるように少し首を傾げた。
「勝也君が、全然怖くなさそうじゃんって言って。春樹くんも、これなら平気って」
「言ったかもしれないけど」
「でも、なかなか始めようとしなかった」
加藤さんが笑った。
勝也は、説明を見てたんだよ、と返した。
「始まったら、今度はオープニングの途中でも、俺、全然平気って言うの」
「平気なら、黙って見てればいいのにな」
翔太くんが言った。
春樹くんが、そっちもあとで話すからね、と静かに返した。
私は勝也を見た。
勝也もこちらを見て、少し困ったように笑った。
「小学校の時の話だからね」
「……勝也、怖かったの?」
聞くと、勝也は1度、井上さんを見た。
「びっくりするところが、あるんだよ」
「びっくりしただけって、その日も言ってたね」
井上さんの返事に、加藤さんがまた笑った。
私は、つないでいる手を少し見下ろした。
勝也が怖がるところを、私は知らなかった。
昔、嫌なことを言われた時も、今、学校へ来る時も、勝也がいると大丈夫な気がしていた。
その勝也が、ゲームを始める前から怖がっていた。
「どんなところで、びっくりしたの?」
井上さんへ聞いた。
井上さんは、ゲームの中に窓の並んだ廊下があるのだと教えてくれた。
「そこを歩いてたら、窓からゾンビの犬が飛び込んでくるの」
聞いただけで、少し肩へ力が入った。
勝也の方へ寄ると、その手が握り返してくれた。
「……それは、怖そう」
「そうなんだよ。急に来るから」
勝也の声が少し強くなった。
ようやく分かってもらえた、という顔だった。
「それで、2人とも悲鳴を上げて」
「綾香、そこ、声の説明はいらないから」
「まだ、どんな声か言ってないよ」
春樹くんが、もう顔を伏せていた。
私も口元を押さえた。勝也だけでなく、普段は落ち着いている春樹くんまで一緒に悲鳴を上げたことが、意外だった。
「コントローラー持ってた勝也君が、びっくりして後ろへ引いちゃったんだよね」
「うん。体ごと」
勝也が諦めたように頷いた。
「線が引っ張られて、本体まで動いて。そのあと、画面が止まっちゃったの」
「バグったんだよ。音も変になって、動かなくて」
春樹くんが続けた。
井上さんは、そこでやめることになったのだと言った。
「直らなかったの?」
「つけ直したら戻ったよ。でも、2人とも、今日はもういいでしょって」
「機械の調子が悪かったら、無理しない方がいいじゃん」
勝也が言った。
春樹くんも頷いたので、井上さんが笑った。
「そういうことにしてたね」
私まで笑ってしまった。
勝也は、優子もそっち側なの、と言ったけれど、その声も笑っていた。
「ごめん。でも……知らなかったから」
「何を?」
「勝也も、怖いの、苦手だったんだね」
勝也は、すぐには返事をしなかった。
その間に、井上さんが続きを話した。
「寝る前も、別に怖かったわけじゃない、驚いただけだよねって、2人で確かめ合ってたよ」
「それ、誰に説明してるの」
加藤さんが言った。
勝也が、自分たちに、と答えたので、私はまた笑ってしまった。
「で、勝也君が、ちょっとトイレ行こうぜって」
「春樹くんも?」
「うん。ちょうど俺も行こうと思ってたって、すぐ立ってた」
春樹くんが顔を上げた。
「行きたかったのは、本当だから」
「2人とも?」
私が聞くと、春樹くんは少し黙ってから、うん、と頷いた。
その間が可笑しくて、もう1度笑ってしまった。
「寝るところも、変わったんだよ」
井上さんが言った。
「勝也君は自分のベッドで、私と春樹くんが床の布団のはずだったのに、寒いから俺も床で寝るって」
「冬だったからね」
勝也が答えた。
井上さんはその言葉に頷いてから、続けた。
「だから、私が代わりにベッド使ったの。勝也君と春樹くんは、布団を近くに並べて」
「床の方が寒くない?」
加藤さんの声に、翔太くんが吹き出した。
勝也と春樹くんは、顔を見合わせた。
「……あの時は、そこまで考えてなかった」
勝也が言った。
笑いながら隣を見ると、少し耳が赤くなっているように見えた。
「井上さんは、怖くなかったの?」
私が聞くと、井上さんは頷いた。
「うん。こういうの、割と平気」
「急に出てきても?」
「びっくりすることはあるけど、あとまで怖くはならないかな。怖い場面なんだっていうのは分かるんだけど」
お父さんが遊んでいるところを見ている時も、怖いところや、気持ちの悪い場面があっても、平気だったのだと言った。
だから、勝也たちが途中から怖がっていることにも気づいていた。
「でも、平気って言うから」
「綾香は、そういう時だけ、俺たちの言うこと信じるんだよね」
勝也が言った。
井上さんは笑いながら、じゃあ、怖いって言えばよかったのに、と返した。
* * *
「俺らが学校でその話聞いてさ」
翔太くんが言った。
「お前ら、そんな怖がってたのかよって」
「私も、見てみたかったんだよね。2人とも、絶対そんな大したことないって言うから」
加藤さんが続けた。
私は、勝也と春樹くんを見た。
「それで、また遊んだの?」
「冬休みに入ってから、5人でね」
井上さんが答えた。
勝也は、ため息をつくように笑った。
「俺、心の中では、もう2度とやらないって決めてたんだけど」
「俺も」
春樹くんがすぐに言った。
「そうだったの?」
「うん。でも、怖くないんだったらできるじゃんって」
勝也が翔太くんを見ると、翔太くんは楽しそうに頷いた。
「言った」
「認めるんだ」
「あの時は、見るだけなら余裕だと思ってたんだよ」
その言い方が気になり、私は聞いた。
「見るだけでも、怖かったの?」
翔太くんは、少し目をそらした。
横から春樹くんが答えた。
「怖かったみたいだね」
「お前も同じだろ」
「俺は、最初から同じだったよ。翔太は俺たちを笑いに来たんでしょ」
加藤さんが、分かる、と頷きかけてから、あ、と口を押さえた。
井上さんがそちらを見た。
「真弓もね」
「うん。私もだった」
加藤さんは、隠さずに笑った。
私はその顔を見て、つられて笑った。
「加藤さんも、怖かったの?」
「怖かった。始める前は、そんなに騒ぐほどじゃないでしょって思ってたんだけど」
「始まったら?」
「次、何か出るんじゃないかって。何もないところでも、ずっと気になっちゃって」
その説明は、聞いていて分かる気がした。
私も、何か出ると聞かされたら、そこまでの道も落ち着いて見られないと思った。
「……私も、たぶん無理」
「富田さん、勝也君に任せても、たぶん一緒に怖がるよ」
加藤さんが言った。
勝也が、今の俺を見てから言って、と返した。
「この前、肝試しは平気って言ってたよね」
私が聞くと、勝也はこちらを向いた。
「うん。今の話、昔のだから」
「そっか」
頷いたのに、つい笑ってしまった。
勝也まで苦笑いしたので、それ以上は聞かなかった。
「結局、綾香以外、皆びびってたんだよ」
春樹くんが言った。
翔太くんと加藤さんも、今度は反論しなかった。
「5人もいれば平気かと思ったのにね」
「怖い人が増えただけだった」
加藤さんの返事に、井上さんが頷いた。
「誰かが声を出すと、ほかの人もびっくりするんだもん」
「綾香だけ、普通に次のところ教えてくるんだよ」
勝也が言った。
「そこ開けてって。俺ら、開ける前から嫌なのに」
「開けないと進まないからね」
井上さんは、当然のことのように答えた。
勝也が私へ顔を向けたので、どう返したらいいのか分からず、笑ってしまった。
私が笑っている間も、話は続いていた。
誰が最初に声を上げたとか、画面を見るのをやめていたとか、皆が自分のことを言われるたびに、ほかの人の話を付け足した。
井上さんだけは、最初から最後まで、笑ってそれを聞いていたらしかった。
「帰る時間になったら、外が真っ暗だったんだよ」
翔太くんが言った。
「冬休みだったから。6時でも、もう暗くて」
「その時、俺ら、初めて家が隣でよかったって思ったよね」
「初めてではないけど、すごくよかったとは思った」
勝也に春樹くんが返した。
私は、加藤さんと翔太くんの方を見た。
「2人は、そこから帰らないといけなかったんだ」
「そう」
加藤さんが頷いた。
「家までついてきてって、頼んだ」
「私、2人とも急に帰る用意が遅くなったの、覚えてる」
井上さんが言った。
翔太くんは、暗いの見たら急に嫌になったんだよ、と答えた。
「帰り道、変なこと思い出しそうじゃん」
「誰が一緒に行ったの?」
私が聞くと、勝也が、俺と春樹、と答えた。
「2人とも?」
「うん。まず真弓の家まで、4人で行って」
「送ってもらった。あの時は、本当に助かったよ」
加藤さんが言った。
勝也は、あそこまではよかったんだよね、と春樹くんを見た。
「そのあと、翔太の家へ行く時」
春樹くんが言った途端、翔太くんが笑い始めた。
まだ何も聞いていないのに、勝也まで下を向いて笑っていた。
「何があったの?」
聞くと、翔太くんは少し息を整えた。
「途中の家でさ。外に、でっかい犬飼ってたんだよ」
その言葉だけで、何となく続きを想像してしまった。
さっき、窓から犬が入ってくる話を聞いたばかりだった。
「……吠えた?」
「吠えた」
3人の返事が重なった。
加藤さんも笑い、井上さんは口元を手で隠した。
「もともと、よく吠える犬だったんだけど。あの時は、本当に無理だった」
勝也が言った。
家の前を通った時、庭の方から急に大きな声がした。気性の荒い大型犬で、普段でもびっくりするのに、あのゲームをしたあとだった。
「俺、気づいたら走ってた」
「俺も。勝也の横にいたはずなのに、もう前へ行ってるんだもん」
春樹くんが言った。
「皆、叫んだの?」
聞くと、翔太くんが首を振った。
「いや。誰も、何も言ってない」
「……何も?」
「声、出なかったんだよ。本当に」
勝也が頷いた。
怖いとか、走れとか、そんなことも言わず、3人で一斉に走り出したのだという。
「あの時、翔太、めちゃくちゃ速くて」
「自分の家だし。そこまで行けばって思ったら、もう」
「俺たちも、同じだったよ。翔太の家しか見てなかった」
春樹くんまで真剣に頷いたので、私は、とうとう声を出して笑ってしまった。
ゲームでは悲鳴を上げていた3人が、そこでは何も言えずに走った。普段なら何か言いそうな翔太くんまで、無言だった。
「そのまま、翔太くんの家に?」
「うん。3人とも、全力で」
勝也が答えた。
私は笑いながら、後ろの2人を見た。
「そんなに、怖かったんだ」
「怖かったよ。だから、家の中入ったら、急におかしくなって」
翔太くんは、自分でも思い出したように笑った。
勝也と春樹くんも、また顔を見合わせた。
「息、切れてるのに、誰かが笑い始めるから」
「過去一速かった気がするって、翔太が言ったんだよ」
「だって、本当にそう思ったんだって」
「俺も、あれより速く走ったこと、ないかもしれない」
勝也が言った。
春樹くんは、俺も、と答えた。
「誰も何も言わなかったよなって、あとから話して」
「あんなに静かに3人で走ること、ないからさ」
「足音と息だけだったもんね」
3人の話を聞いていると、私も笑いが止まらなくなった。
隣で勝也が、息を整えながら笑っていた。春樹くんも、いつもの落ち着いた顔に戻ろうとしては、また口元を緩めていた。
「それで……勝也と春樹くんは、どうやって帰ったの?」
ようやく聞くと、2人はすぐに答えた。
「遠回り」
また同時だった。
加藤さんが声を漏らして笑い、井上さんも、そこは相談いらなかったんだ、と言った。
「あの道はやめようって言ったら、すぐ決まったよ」
「もう1回あそこ通るのは、ちょっとね」
春樹くんの返事を聞き、私は頷きながら笑った。
帰り道まで想像していたら、いつの間にか、次に何を聞こうかと考えていた。
「井上さんは、その時、もう家にいたの?」
「うん。送っていく時には、私も自分の家へ戻ったから」
「じゃあ、4人とも怖がってるの、最初から最後まで見てたんだね」
「ゲームしてる間はね。皆、平気って言うところから」
井上さんは、隣の加藤さんを見た。
加藤さんも笑っていた。
「もう、私は平気って言わない。あれで分かったから」
「勝也は、まだ言ってるね」
口にしてから、隣を見た。
勝也は少し目を丸くして、それから笑った。
「優子まで、そこ覚えちゃった」
「だって、さっきも言ってたから」
「うん。言ったね」
素直に認められて、私も笑った。
加藤さんが、昔の話だって言ってたもんね、と続けると、勝也は、そこは大事だから、と頷いた。
その返事に、皆が笑っていた。
私も同じところで笑って、顔を上げたまま、次の言葉を待っていた。
春樹くんも、翔太くんも、加藤さんも、井上さんも、私が知らなかったことをたくさん知っていた。
それを聞いても、遠くへ置いていかれた気持ちにはならなかった。分からないところを聞けば、話を戻して教えてくれた。私の知っている勝也の話も、続きを聞いてくれた。
学校では、返事をする前に勝也を見てしまうことが多かった。
今は、聞きたいことがあると、その人へ顔が向いていた。
それに気づいた時には、もう次の質問をしていた。
「春樹くん、勝也とゲームする時、今も隣に座ってるの?」
「うん。遊ぶ時は。でも、怖いやつじゃないよ」
「そこ、先に言うんだ」
私が笑うと、春樹くんも、そこは先に言っておく、と笑った。
笑いが少し落ち着いたところで、加藤さんがこちらへ顔を向けた。
「ねえ、富田さん」
「うん?」
「これから、優子って呼んでもいい?」
返事をする前に、加藤さんの顔を見た。
さっきまで一緒に笑っていた顔のまま、私を見ていた。
「私も、そう呼びたいな」
隣で、井上さんも言った。
後ろから翔太くんが顔を向けた。
「じゃあ、俺も。いい?」
「俺も、優子って呼んでいいかな」
春樹くんまで聞いてくれた。
皆の顔を順番に見た。勝也以外の人から、名前で呼びたいと言われるのは、まだ少し不思議だった。
「……うん。いいよ」
頷いてから、もう少しだけ声を出した。
「皆、そう呼んで」
「じゃあ、優子」
加藤さんが、すぐに呼んだ。
「……うん」
返事をすると、加藤さんが笑った。
私も、何だか照れくさくなって笑ってしまった。
「まだ、ちょっと慣れない?」
井上さんに聞かれ、頷いた。
「うん。でも……嬉しい」
声にしたら、余計に頬が熱くなった。
勝也の手を少し強く握ると、隣で握り返してくれた。
「優子って、呼びやすいよな」
翔太くんが言った。
春樹くんが、いつもの声で返した。
「呼びやすくても、そんなに大声で呼ばなくていいからね」
「今、そんなでかくなかっただろ」
「うん。今はね」
また2人の言い合いになって、私も笑った。
急に注目され続けることもなく、話はそのまま続いていった。
でも、皆の口から出る私の名前は、さっきまでと違っていた。
* * 勝也視点 * *
優子が後ろへ少し顔を向けたまま、春樹の話を聞いていた。
俺が口を挟まなくても、春樹へ質問して、返事を聞いて笑っていた。翔太が話し始めるとそちらを見て、真弓にも綾香にも、自分から言葉を返していた。
少し前まで、皆に声をかけられると、先に俺の方を見ていた。
今はつないだ手をそのままに、会話の方へ夢中になっている。
その顔を見ているのが、嬉しかった。
「何?」
優子が気づいて、こちらを見た。
「ううん。楽しそうだなって」
答えると、優子は少し照れたように笑った。
「うん。知らない話、いっぱい聞けたから」
「俺の、ちょっと格好悪い話ばっかりだったけどね」
「釣りは、翔太くんを助けようとしたんでしょう?」
言われて、俺は優子を見た。
優子はまだ笑っていたけれど、からかっている声ではなかった。
「うん。助けるつもりだった」
「一緒に落ちちゃったけど」
「そう。それが、問題なんだよね」
後ろで春樹が、俺もついていったしね、と言った。
優子がもう1度振り向き、今度は、ついていったんじゃなくて、引っ張られたんでしょう、と返した。
春樹も、それはそう、と笑った。
窓の外では、建物の間に緑の見えるところが増えていた。
皆が話をしているうちに、随分進んでいたらしい。
前の方から、もう少しで着くという案内が聞こえた。
優子は顔を前へ戻して、膝の鞄を持ち直した。足元の弁当の袋が少し動いたので、俺も傾きを直した。
「まだ、開けてない?」
優子が小声で聞いた。
「開けてないよ。ちゃんと我慢してる」
「お話してたから、忘れてた?」
「忘れてはないよ。ずっと楽しみにしてる」
優子が嬉しそうに笑った。
鞄へ置いた指の力が抜け、外の景色を見るために少し顔を上げた。
バスへ乗った時より、よく笑っていた。
そのことを皆の前で言うのはやめて、つないだ手を軽く握り直した。
優子もこちらを見て、握り返してくれた。
* * *
バスを降りると、学校にいた時より空気がひんやりしていた。
建物の向こうに木が続き、風が通るたびに、葉が擦れる音がした。
優子が俺の隣へ来て、辺りを見回した。
別のバスからも人が降りてきて、あちこちから声が重なった。さっきまで春樹たちと笑っていた優子の手が、俺の袖へ戻ってきた。
荷物を受け取る人たちの間で、俺は先に立ち止まり、優子が日傘を開くのを待った。
「寒くない?」
「……今は、平気」
そう答えながら、優子は上着の袖を少し引いた。
俺も自分の袖を下ろした。
翔太が俺たちの方へ戻ってきた。
「こっちだって。皆、そろってから動くって」
優子も翔太の指した方を見て、小さく、ありがとう、と返した。
その先には、春樹たちも待っていた。
6人で集まり、先生の後へ続いた。
入所式では、施設の人の話を聞いた。
挨拶をして、建物の使い方や、外で活動する時の約束を確かめる。いつもの体育館とは違う匂いがして、椅子を動かす音も、少し違って聞こえた。
優子は隣でしおりを開き、話に合わせてページを見ていた。
大勢の声が一度に重なった時には肩を寄せてきたけれど、俺の顔を見ると、また前へ向き直った。
式が終わり、部屋へ荷物を運ぶことになった。
ほかの班がそれぞれの部屋へ向かう中、花沢先生が俺たち6人を呼んだ。
「こちらの班は、先生と一緒に来てください」
優子が、すぐに俺を見た。
頷いて荷物を持つと、優子も鞄の持ち手を握った。
廊下を進む途中で、春樹が優子の歩く方へ少し寄った。
「そっち、重かったら持つよ」
優子は鞄を持ち直し、春樹へ顔を向けた。
「ありがとう。まだ持てるよ」
「うん。疲れたら言ってね」
優子が頷くと、春樹は少し先へ戻った。
俺に返事を確かめることなく、2人で話していた。優子はそのまま、自分の荷物を持って歩き出した。
ほかの生徒の声が少し遠くなったところで、先生が立ち止まった。
「この部屋です」
戸を開けると、畳の部屋が見えた。
俺たち6人が入口へ並んでも、その向こうにまだ広い空きがあった。
「広っ」
翔太が最初に声を出した。
靴を脱いで上がるなり、部屋の中を見回した。
「ここ、全部?」
「そう。6人で使います」
「すげえ。俺、ここで寝たい」
「まだ荷物置く場所も決めてないでしょ」
真弓に言われ、翔太は畳を指していた手を引っ込めた。
俺は入口から少し入ったところへ自分の鞄を置いた。
優子もその隣へ、ゆっくり荷物を下ろした。
「ここでいい?」
聞くと、優子が頷いた。
2つの鞄の間を少し詰め、持ち手を同じ方へ向けた。
花沢先生は、全員が荷物を置くのを待ってから、戸の方を示した。
「先に、向かいも確認しましょうか」
廊下へ出ると、すぐ目の前に、広いトイレと浴室の入口があった。
先生はそれぞれの戸を示し、使う時のことを短く説明してくれた。浴室の中も見せてもらうと、シャワーが3つ並び、その先に広い湯船が見えた。
「本当に、目の前なんだね」
綾香が言った。
真弓も、自分たちの部屋の戸を振り返った。
「うん。すぐ戻れるね」
優子は部屋と、向かいの入口を順番に見ていた。
俺の袖に指を添え、先生へ顔を上げた。
「……ここを、使っていいんですか」
「うん。お話ししていた場所は、ここです。分からないことは、その時に聞いてね」
優子が小さく頷いた。
先生は皆にも、利用する時間や、声をかける時のことを確かめた。
俺たちの前で優子の事情を最初から説明し直すことはなく、部屋へ戻って、これからの予定へ話を移した。
「お昼は食堂です。持ってきたお弁当を忘れないようにしてください。そのあと、午後の活動の説明があります」
翔太が、はい、と答えた。
「部屋を出る時は、6人で。鳥居くん、人数を確かめてね」
「はい」
今度は、しおりもちゃんとした向きで持っていた。
先生が出ていくと、翔太は部屋の真ん中へ座った。
「いいな、ここ」
「荷物、まだ入口にあるよ」
春樹に言われ、また立ち上がった。
その様子を見て、優子が小さく笑った。
俺は弁当の袋を、倒れないところへ置いた。
優子が隣へしゃがみ、袋の上から少し手を添えた。
「もうすぐ食べられるね」
小声で言うと、優子は、うん、と頷いた。
* * *
荷物を置き終えた頃、戸の外から声がした。
「翔太、お前ら、ここ?」
同じクラスの男子が、2人、入口へ顔を出した。
翔太が、おう、と返すと、2人とも中を見回した。
「何ここ。広くね?」
「いいだろ」
「お前の部屋じゃないでしょ」
すぐに真弓が言い、春樹が笑った。
男子の1人は、部屋の奥にいる綾香たちへ目を向けたあと、翔太へ顔を戻した。
「ほんとに女子と一緒なんだ。お前ら、変なことしてねえだろうな」
「まだ荷物置いただけだわ!」
翔太の声が大きくなった。
もう1人も笑い、戸のところへ肘を置きかけた。
「春樹も一緒なんだろ?」
「うん。翔太の荷物が入口塞いでたから、どかしてた」
「それしかしてねえの?」
「来て、まだ何分もたってないからね」
春樹が普通に答えたので、2人はまた笑った。
真弓が、入口を空けて、と手を振った。
「ご飯に行くんだから。自分たちの班は?」
「もう集まるところ」
「じゃあ、ここで引っかかってないで戻りなよ」
翔太が、あとでな、と言った。
2人は廊下へ下がり、別の班の声がする方へ戻っていった。
俺の袖を持つ指が、少し強くなっていた。
優子を見ると、入口の方へ目を向けたままだった。
「今の2人、翔太とよく話してる子だよ」
小さく言うと、優子がこちらを見た。
「……うん」
「びっくりした?」
少しだけ頷いた。
俺も、急に来たもんね、と返した。
真弓が、出ていった2人の方を見てから、翔太へ顔を向けた。
「部屋が広いからって、友達呼び込まないでね」
「呼んでねえって。向こうから来たんだよ」
「じゃあ、さっきの『いいだろ』は何だったの」
「……広いの、よかったから」
少し小さくなった返事に、綾香が笑った。
優子も、その声に顔を上げた。
「お弁当、持っていこうか」
俺が袋を取ると、優子は隣へ立った。
翔太が、また指を折り始めたので、春樹が全員ここにいるよと言い、それでも翔太は最後まで数えた。
「6人。よし。行こう」
優子は俺の袖から手を離し、その手へ指を重ねた。
握り返してから、俺たちも廊下へ出た。
* * *
食堂には、長いテーブルが並んでいた。
先生に教わった席へ6人で座ると、あちこちで弁当を出す音がし始めた。
俺は優子の隣へ座り、2人の間へ保冷バッグを置いた。
優子が持ち手に触れたので、先に開けてもらった。
「もう、いい?」
聞くと、優子が俺を見て、少し笑った。
「……うん」
最初に出てきたのは、優子の分だった。
その次に、ひと回り大きい容器が、俺の前へ置かれた。
「ありがとう」
受け取って、箸を出した。
ふたへ手をかけたところで、隣から、もう1つ容器が出てきた。
優子はそれを、俺の弁当の隣へ置いた。
「……これも」
「え?」
容器を見てから、優子を見た。
優子は少し目を伏せた。
「……勝也の」
手元へ目を戻した。
俺の前には、ふたのついた容器が2つ並んでいた。
「両方?」
「……うん」
向かいで、自分の弁当を出していた翔太の手が止まった。
「勝也、2個あんの?」
「うん。今、知った」
「今?」
翔太が、俺と優子を見比べた。
俺は最初の容器へ手を戻した。
ふたを開けると、ご飯の隣に、卵焼きと照り焼きが並んでいた。
切った卵焼きの黄色と、たれの色がついた鶏肉。隙間には、別のおかずもきれいに入っていた。
「うわ。おいしそう」
思わず言うと、優子が少し顔を上げた。
俺はもう1つの容器も開けた。
中には、サンドイッチがぎっしり詰まっていた。
黄色い具の入ったものと、レタスが見えるもの。どちらも少しずつではなく、容器の端までしっかり並んでいた。
2つの弁当を見ていると、朝、袋を持った時の重さを思い出した。
「これで、2人分って言ってたんだ」
優子が、少し困ったように笑った。
「……人数は、2人だから」
その言い方で、俺も笑ってしまった。
「うん。そうだね。間違ってない」
真弓も、こちらを見た。
「待って。そのサンドイッチ、全部、勝也の分?」
「そうみたい」
「私、そっちだけで足りるけど」
綾香が覗き込み、私も、と頷いた。
優子は自分の弁当へ目を落としかけてから、小さく言った。
「……私も、これだけなら、お腹いっぱいになると思う」
翔太が、俺の前の2つを見た。
「何で弁当に、もう1個弁当ついてんの」
「それ、俺も今、同じこと考えてた」
春樹が笑った。
優子の頬が少し赤くなったので、俺は先に顔を向けた。
「お母さんと、これも作ってくれたの?」
「……うん。1つだと、足りないかもしれないって思って」
「ありがとう。すごく嬉しい」
優子が俺を見た。
「……多すぎない?」
「食べたい。両方」
そう答えると、優子の目が少し丸くなった。
俺はサンドイッチの方を指した。
「たまごと、こっちはツナ?」
「……うん。ツナマヨと、レタス」
「好きなやつだ」
優子が、ようやく少し笑った。
翔太はまだ、2つの容器を見ていた。
「これ、優子が作ったの?」
優子は、箸の袋へ触れていた手を止めた。
「……お母さんに、教えてもらいながら」
「すげえな。俺、弁当作ったことねえ」
翔太は感心した顔で言った。自分の弁当へ目を戻しかけて、また俺の前の2つを見た。
「しかも、こんなにいっぱい。勝也、いいなあ」
「うん。いいでしょ」
俺が答えると、翔太は、否定もしねえ、と笑った。
春樹が、勝也が朝から大事そうに持ってたわけだ、と笑った。
「中身、知らなかったよ」
「知らなくても、大事そうだったよ」
そうだったかなと思ったけれど、こぼしたくなかったのは確かだった。
俺は箸を出し、優子の方も準備ができたのを見て、手を合わせた。
「いただきます」
箸を伸ばそうとすると、優子が俺の弁当の端を指した。
「……勝也。卵焼きと、お肉、先に食べてみてほしい」
「うん。ここに入ってるやつだね」
優子が頷いた。
最初に、卵焼きを取った。口へ入れると、前に優子の家で食べた時の味を思い出した。
「あ。これ、この前の」
優子が、すぐにこちらを見た。
「……同じ味?」
「うん。これ、好き」
もうひと口食べてから言うと、優子の肩が少し下がった。
俺の箸を見ていたことに、その時、気づいた。
「卵焼きも、優子が?」
「……うん。巻くの、また教えてもらった」
「おいしいよ」
優子が小さく頷いた。
自分の弁当の中へ目を落とし、ようやく箸を持ち上げる。
照り焼きは、ご飯と一緒に食べた。
たれがよく絡んでいて、ご飯をもうひと口食べたくなる味だった。弁当のご飯は普段より多かったけれど、これなら足りなくなる方を心配したくなった。
「お肉も、いいね」
「……お母さんと、一緒に焼いたの」
「うん。ご飯、進む」
優子が、少し嬉しそうに顔を上げた。
「……味見した時、私もそう思った」
隣で、同じものを食べている優子を見た。
早く起きて、これを作ってくれたのだと思うと、いつもより、次のひと口が楽しみだった。
サンドイッチにも手を伸ばした。
たまごの方を取ると、具が端まで入っていた。噛む時にはみ出さないように持ち直し、ひと口食べた。
「こっちも、おいしい」
言ってから、優子の方を見た。
また同じ言葉になってしまったけれど、ほかの言い方を考える前に出てきた。
「俺、さっきから、おいしいしか言ってないね」
優子は首を振った。
「……嬉しいよ」
小さな声だった。
俺も頷いて、残りを口へ運んだ。
* * 優子視点 * *
勝也が、もう1つサンドイッチを取った。
今度は、ツナマヨとレタスの方だった。
朝、お母さんと並べた切り口が、勝也の手の中にあった。
少し斜めになってしまったものも、そのまま食べてくれる。
「こっち、レタス入ってるのもいいね」
勝也が言った。
頷くと、またひと口食べた。
おいしいと言ってもらえた。
それだけでも嬉しかったのに、勝也は食べるたびに、何かしら話してくれた。
卵焼きがこの前と同じ味だったこと。お肉でご飯が進むこと。サンドイッチも、2種類とも好きなこと。
1つずつ聞いていると、朝、うまく巻けるか心配していたことまで、嬉しい思い出に変わっていくようだった。
「……勝也」
「うん?」
「卵焼き、この前の紙、見て作ったの」
「あの、書いてたやつ?」
「……うん。同じにしたくて」
勝也が、箸を止めて私を見た。
「覚えててくれたんだ」
頷いた。
おいしいと言ってもらったことを、忘れられるわけがなかった。
勝也は弁当へ目を戻し、少し笑った。
「今日のも、また食べたい」
返事をしようとしたのに、すぐに声が出なかった。
食堂には、ほかの班の話し声や、椅子を動かす音が響いていた。それでも、今の言葉だけは、はっきり聞こえた。
「……うん。また、作るね」
勝也が頷いた。
それを見てから、自分の卵焼きを食べた。
少し膨らんだ端のところだった。
形は揃っていなかったけれど、同じ味がした。
向かいで、翔太くんがもう1度、勝也の弁当を見た。
「やっぱ、それ、めちゃくちゃうまそう」
「翔太、さっきからずっと見てるね」
春樹くんが言うと、翔太くんは隠さず頷いた。
「だって、量もあるし。肉も、サンドイッチも。勝也、うらやましいわ」
勝也が少し嬉しそうに笑った。
私は、その横顔を見てから、翔太くんへ顔を向けた。
「……少し、食べる?」
「いいの?」
すぐに返事が来た。
頷きかけてから、勝也を見た。
「勝也も、いい? 皆に、少しずつ」
「うん。俺も、食べてみてほしい」
勝也は、卵焼きと照り焼きの入っていたところを見た。
「先にって言ってたの、ちゃんと食べたしね」
小さな声だった。
私が頷くと、勝也はサンドイッチの容器を、皆から見える方へ少し動かした。
「たまごと、ツナマヨ。どっちがいい?」
「両方」
「どっちって聞いたんだけど」
勝也が笑った。
翔太くんも笑いながら、自分の弁当をこちらへ向けた。
「じゃあ、俺のも食べて。唐揚げ、いっぱい入ってるから」
ふたを開けた時には、自分たちの弁当ばかり見ていた。
改めて見ると、翔太くんの弁当にも大きな唐揚げがいくつも入っていて、隣にはソーセージが並んでいた。
「あ、それ、おいしそう」
勝也が言った。
「だろ。交換しようぜ」
「うん」
「優子も、どれか食べる?」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
翔太くんが、私にも弁当の中を見せてくれていた。
「……じゃあ、唐揚げ、1つもらってもいい?」
「おう」
取ってもらった唐揚げを、自分の弁当の空いたところへ置いた。
代わりに、まだ手をつけていない照り焼きを1切れ渡した。勝也も自分の分からサンドイッチを取り分けた。
「うまっ」
翔太くんが、照り焼きを食べてすぐに言った。
「これ、すげえご飯に合う」
「うん。分かる」
勝也が頷いた。
同じようにご飯を食べたので、私は2人を見て笑ってしまった。
「優子、私も、その卵焼き食べてみたい」
加藤さんが言った。
「私の、肉巻きなんだけど。これと交換しない?」
見せてくれた弁当には、切り口から野菜の見える肉巻きが入っていた。
隣の井上さんの弁当には、小さなハンバーグが並んでいた。
「それも、おいしそう」
私が言うと、井上さんは箸を止めた。
「ハンバーグ? 食べる?」
「いいの?」
「うん。私も、優子のサンドイッチ食べたいから」
勝也が、どうぞ、と容器を寄せた。
加藤さんも、じゃあ私も、と言いかけてから、自分の弁当を見た。
「待って。交換したら、私のお弁当も減るんだよね」
「そりゃ、渡すからね」
春樹くんが答えた。
「うん。それなら、いろいろ食べられる」
加藤さんが真剣な顔で言ったので、勝也が笑った。
「さっき、サンドイッチだけでお腹いっぱいになるって言ってたもんね」
「そう。でも、ちょっとずつ食べてみたいじゃない」
「分かる」
春樹くんも弁当を近づけた。
「優子、俺も卵焼きもらっていい? 俺のは、こっち。いんげんの胡麻和えとか」
「うん。私、それ、好き」
「じゃあ、それにしようか」
春樹くんの弁当には、焼いた鮭も入っていた。
勝也がそちらを見ると、春樹くんはすぐに気づき、そっちも分けるよ、と笑った。
「俺、まだ何も言ってないけど」
「見てたから」
「……じゃあ、少し。ありがとう」
勝也の照り焼きと、春樹くんの鮭も交換になった。
その隣では、翔太くんが井上さんのハンバーグを見ていた。
「綾香、俺にもそれ、1個」
「じゃあ、そっちの唐揚げね」
「おう」
「真弓の肉巻きも、食べてみたいな」
「いいよ。綾香のハンバーグと交換しよ」
1つ渡すと、別のおかずが戻ってきた。
皆がそれぞれ容器を寄せ、食べていないところから取り分けてくれた。空いたところが、さっきとは違う色で埋まっていった。
私の弁当にも、唐揚げと、肉巻きと、小さなハンバーグが載った。
隙間に入れてもらった胡麻和えを食べると、甘い胡麻の味がした。
「おいしい」
顔を上げて春樹くんを見ると、春樹くんは、よかった、と笑った。
「俺も。優子の卵焼き、こういう味、好きだな」
「うん。少し甘いの、いいね」
加藤さんも頷いた。
2人の持つ箸を見て、また少し顔が熱くなった。
「……お母さんの作り方なの。私、まだ教えてもらいながらで」
「優子のお母さん、料理うまいんだな」
翔太くんが言った。
勝也は、すぐに頷いた。
「すごくおいしいよ。優子の家で食べるご飯」
「だろうな。これ、弁当だけでも分かる」
「優子が作ったのも、おいしいよ」
勝也が、私へ顔を向けた。
皆に褒めてもらって嬉しかったのに、勝也からもう1度言われると、返事が小さくなってしまった。
「……ありがとう」
井上さんが、サンドイッチをひと口食べた。
「こっちもおいしい。具、端まで入ってる」
「たまごの方も、いっぱいだぞ」
翔太くんが答えた。
結局、翔太くんは2種類とも交換していた。
加藤さんも、次はツナの方、と言って、勝也へ肉巻きを渡した。
朝、詰めた時には、勝也に足りるかばかり考えていた。
その弁当を、今は皆が覗き込んでいた。どっちにしようかと選んで、食べて、おいしいと言ってくれる。
自分も箸を持ったまま、何度も皆の顔を見てしまった。
「……いっぱい作って、よかった」
隣へ小さく言うと、勝也が笑った。
「うん。皆で食べられたね」
「勝也の分、減っちゃったけど」
「その分、こっちも増えてるよ」
勝也が自分の弁当を見せた。
照り焼きの隣に唐揚げが入り、鮭と肉巻きまで並んでいた。サンドイッチを渡したはずなのに、最初よりもおかずの種類が増えていた。
「何か、すごい弁当になった」
嬉しそうだったので、私も笑った。
勝也に最初に食べてほしかったものは、ちゃんと食べてもらえた。その感想を聞いたあとで、皆の声も聞けた。
お母さんに話したいことが、また増えていった。
周りのテーブルでは、それぞれ持ってきた弁当を食べていた。
私たちのところだけ、あれも、こっちも、と容器を見せ合っていた。加藤さんが翔太くんへ、もらってばかりじゃなくて自分の分も出してね、と言い、翔太くんは、ちゃんと出してるって、と唐揚げを指した。
「さっきまで、あんなに入ってたんだから」
「その代わり、そっちの中身、増えてるよ」
春樹くんに言われて自分の弁当を見た翔太くんが、本当だ、と笑った。
私も笑いながら、もらった肉巻きを口へ運んだ。
向かいで、翔太くんが自分の弁当を覗いた。
「勝也、まだそっちあるんだろ」
「うん」
「俺より食ってんのに、終わるの早くね?」
顔を上げた。
勝也のご飯とおかずの容器は、もう半分以上空いていた。サンドイッチの方にも、さっきまでなかった隙間ができている。
私のご飯は、まだそれほど減っていなかった。
「……もう、そんなに?」
思わず言うと、勝也が自分の弁当を見た。
「ああ。うん」
「勝也君、普段からこれくらい食べるの?」
井上さんが聞いた。
勝也は少し考えてから、首を傾げた。
「弁当2つは、いつもじゃないよ。でも、お腹空いてたから」
「朝ご飯は?」
「食べたよ」
すぐに返事をしたので、加藤さんが笑った。
「食べて、それなんだ」
「朝から、結構動いたじゃん」
「バス、座ってたけど」
春樹くんが言い、翔太くんも、そうだぞ、と頷いた。
勝也が、朝、家から来たところは、と言い返すと、皆も同じでしょ、と加藤さんが返した。
私も笑ってしまった。
昨日、容器を見ながら心配した時には、こんなに早く減っていくところまでは想像していなかった。
「……少なくしなくて、よかった」
口にすると、勝也がこちらを見た。
「減らそうとしてたの?」
「……多すぎるかなって、お母さんと話したの」
「減ってなくてよかった」
真剣な声だったので、また笑ってしまった。
勝也は、何か変なことを言ったかな、という顔をした。
私が首を振ると、またサンドイッチを手に取った。
春樹くんが、私の方へ少し顔を向けた。
「優子、ちゃんと分かってたんだね」
すぐには、何のことか分からなかった。
春樹くんが勝也の弁当を示したので、ようやく頷いた。
「土曜日、いっぱい食べてたから」
「ああ。あの日のお昼?」
「うん。焼きそば」
春樹くんは、そうだったんだ、と笑った。
勝也の家へ少しだけ顔を出した時、もう食べ終わっていたから、中身は知らなかったのだと思った。
「俺も、焼きそば食べたい」
翔太くんが言った。
春樹くんが、その手元を見た。
「今、お弁当食べてるよね」
「それは、それ」
「明日はカレーって、言ってなかった?」
「それも楽しみ」
勝也も笑った。
翔太くんは、笑われても困った様子はなく、自分のおかずを食べていた。
私は、少しだけ顔を上げたまま、そのやり取りを見ていた。
大きな声がすると、まだ肩へ力が入ることがあった。
でも、今の翔太くんの声は、バスの中で話していた時と同じで、次に何を言うのか聞いていたくなった。
その時、少し離れたところでシャッターの音がした。
顔を向けると、カメラマンさんの1人が、私たちへ小さく手を上げた。もう1人は向こうの班で、先生と生徒が話しているところを撮っていた。
「皆、楽しそうに食べてたね。そのまま続けていていいよ」
そう言って、次の班へ歩いていった。
いつからいたのか、気づかなかった。
勝也を見ると、少し笑っていた。
「お弁当、写真にも残ったね」
「……うん」
お母さんにも見せられたらいいな、と思った。
* * *
勝也が最後のサンドイッチを食べ終えた時、私はまだ、ご飯を少し残していた。
空になった2つの容器を見てから、勝也を見た。
「……全部、なくなった」
「うん。ごちそうさまでした」
勝也が手を合わせた。
それから、私へ顔を向けた。
「お母さんにも、おいしかったって伝えたいね」
「……うん」
「朝早くから、ありがとう。優子も」
私は箸を持ったまま、少し頷いた。
返事が小さくなってしまったけれど、勝也には聞こえたようだった。
空の容器を、もう1度見た。
お母さんに、何から話そうかと思った。
2つ並べた時にびっくりしたこと。卵焼きを食べて、前と同じ味だと気づいてくれたこと。また食べたいと言ってくれたこと。
皆とおかずを交換して、お母さんと作ったサンドイッチまで人気だったこと。
話したいことが、もうたくさんあった。
「優子は、ゆっくりでいいよ」
勝也が言った。
慌てて口へ運ぼうとしていた箸を、少し戻した。
「……待たせちゃう」
「まだ時間あるし。俺も、ちょっと休む」
そう言って、勝也は背中の力を抜いた。
向かいでも、春樹くんと井上さんがまだ食べていた。
「勝也の速さに合わせなくていいからね」
加藤さんが笑って言った。
私も頷き、残りを少しずつ食べた。
皆にもらったおかずを、今度はご飯と一緒に食べた。
感想を言い合うのが楽しくて、思っていたより何度も箸が止まっていたらしい。まだ残っていた肉巻きも、ゆっくり味わって食べた。
最後の卵焼きを食べて、箸を置いた。
私の容器も、空になった。
「……ごちそうさまでした」
勝也が、こっちも一緒にしまおうか、と手を差し出した。
ふたを閉め、食べ終わった容器をまとめる袋へ入れる。朝はずっしりしていた保冷バッグが、ずいぶん軽くなっていた。
「軽くなったね」
勝也も同じことを言った。
私は頷いた。
「……皆、いっぱい食べてくれたね」
「うん。俺、皆のおかずも食べちゃった」
嬉しそうに言われて、私も笑った。
また作りたいと思った。
次に作る時も、勝也の分は、少し多めにしようと思った。
* * 勝也視点 * *
部屋へ弁当の袋を置きに戻ってから、午後の活動の準備をした。
水筒としおりを確かめ、優子は日傘を持った。
翔太が、もう全部持った、と言って入口へ向かったあと、春樹が畳の上のしおりを拾った。
「これは?」
「それも持つ」
「もう全部、とは」
春樹から受け取り、翔太が鞄へ入れた。
真弓が、今度こそいいね、と確認した。
優子は、さっき置いた弁当の袋をもう1度見ていた。
「お弁当、朝、どれくらいかかった?」
聞くと、優子がこちらを向いた。
「……お母さんが、ほかのもやってくれたから。私、卵焼きの時は、そっちしか見られなくて」
「俺も、2つ同時とか、あんまりできないよ」
「……焼きそば、すごく早かったのに」
「あれ、同じこと繰り返してるだけだからね」
優子は少し考え、それでも、と笑った。
「……今日のは、練習したら、もっと早くできるかな」
「うん。俺、その練習、食べる方なら手伝いたい」
優子が声を漏らして笑った。
真弓が、その役なら失敗しないね、と言い、俺は大きく頷いた。
「そこは任せて」
「片づけもやってね」
「うん。それもやる」
話しているうちに、翔太が入口から振り返った。
「行くぞ。午後も、食う話から始めんの?」
「翔太に言われるとは思わなかった」
春樹が答え、皆で笑った。
優子も笑いながら、俺の隣へ来た。
* * *
午後の活動の説明では、班ごとに地図と、スタンプを押してもらう台紙が配られた。
翔太は班長として受け取ると、すぐに皆の見えるところへ広げた。
「よし。俺が地図見る」
「うん。今、先生が説明してるところも見て」
真弓が地図の端を指した。
翔太は、そうだった、と前へ向いた。
地図には、回る場所と、通ってよい道が描かれていた。
チェックポイントは3か所あった。それぞれに先生が待っていて、班の全員がそろったらスタンプを押してもらえる。全部回ったら、地図を見て宿舎へ戻る。
時間までに全員で帰ってくること、勝手に別の道へ入らないことを、先生がもう1度説明した。
優子は俺の隣から、翔太の持つ地図を見ていた。
皆の手が重なって見えにくくなったので、翔太が少し下へ動かした。
「優子、見える?」
「……うん」
「ここからだって」
翔太が指したところへ、優子も目を向けた。
春樹が、自分の立っている向きを確かめてから地図を見直した。
「じゃあ、最初は、こっちだね」
「おう」
翔太が元気よく頷いた。
そのまま反対側へ足を向けかけたので、春樹が袖を掴んだ。
「俺、今、こっちって言ったよ」
「分かってる。向こうから回るのかなって思っただけ」
「最初から遠回りしようとしないで」
真弓に言われ、翔太が皆の方へ戻った。
隣で、優子が肩を小さく揺らした。
「……まだ、出発してないのに」
俺にだけ聞こえるくらいの声だった。
顔を寄せて、うん、と返した。
「先が楽しみだね」
優子が頷いた。
怖いという返事だけではなかったので、俺も少し嬉しくなった。
順番が来て、6人で歩き始めた。
建物のそばから続く道へ入ると、木の影が足元へかかった。日が当たるところと、葉の影になるところが交互に続いていた。
優子は日傘を少し傾け、俺の腕にぶつからないように持ち直した。
俺も歩く位置を合わせた。
「鞄、持とうか」
聞くと、優子は肩のベルトへ触れた。
「……まだ、大丈夫」
「うん。疲れたら言ってね」
優子は頷いた。
前を歩いていた春樹が振り返り、道の端へ少し寄った。
「ここ、横に並ぶとちょっと狭いね」
翔太も後ろを見た。
その先でいったん道が広くなると、2人とも足を止め、俺たちが並ぶのを待った。
待たれていることに気づき、優子の歩幅が急に大きくなった。
「急がなくていいよ」
俺が言うと、優子がこちらを見た。
翔太も、地図を持ち上げて言った。
「ちょうど、これ見てるところ。次、どこだっけ」
「まだ最初の場所にも着いてないよ」
春樹が返した。
優子が、少し息を吐いて笑った。
道は、学校から見える景色とはずいぶん違っていた。
車の音は遠く、ほかの班の声が木の向こうから聞こえると、急に近く感じた。
優子はそのたびに顔を上げたけれど、俺たちの声がすると、また地図の方へ目を戻した。
木の間を抜けると、少し開けたところが見えた。
その端に、番号の書かれた札と、小さな机が置かれていた。
「……あそこ、先生がいる」
優子が指した。
机のそばに立っていた先生もこちらへ気づき、手を上げた。
「お。あそこか」
翔太が地図の番号を確かめてから、皆を振り返った。
「最初のところ、合ってる」
「うん。ちゃんと着いたね」
春樹が頷いた。
俺たちが近づくと、先生は6人の顔を見回した。
「全員そろっていますね。スタンプの台紙を出してください」
翔太が、手に持っていた地図を出しかけた。
隣で真弓が、その下、と指した。
「地図に押してもらうの?」
「違うって。こっち出すところだったんだよ」
重ねていた台紙を抜き、先生へ渡した。
先生が最初の枠へスタンプを押すと、丸い印の中に番号がついた。
「はい。足元に気をつけて行ってくださいね」
「ありがとうございます」
翔太が受け取り、皆へ見せた。
「1個目」
優子も、俺の隣から覗き込んだ。
翔太はその顔を見て、台紙を少し下げた。
「優子、これ持っててもらっていい? 俺、地図見るから」
優子が、差し出された紙を見た。
それから翔太へ顔を上げた。
「うん」
「じゃあ、頼む」
優子は日傘を持っていない方の手で、台紙を受け取った。
まだ空いている2つの枠を見て、最初の印へ目を戻した。
「次のところでも、これ出せばいいんだね」
「うん。3つそろったら、宿舎に戻るんだって」
綾香が答えた。
優子は頷き、折れないように鞄の外側のポケットへ入れた。
「じゃあ、地図とスタンプ、どっちもなくさないようにね」
真弓に言われ、翔太は地図を持ち上げた。
「任せろ」
「優子の方は、安心してるよ」
「俺も安心してくれていいだろ」
翔太が言い返したので、優子が笑った。
俺も笑いながら、次の道へ向き直った。
* * *
次の場所へ向かう途中で、道が分かれた。
翔太が地図を見ながら、右の方へ顔を向けた。
「こっちだな」
春樹が、その隣から地図を覗いた。
「何で?」
「こっちっぽい」
「地図持ってる意味、なくなるから」
真弓が横から言った。
翔太は、じゃあ見て、と地図を広げた。
俺たちも近づいて、道の線を確かめた。
目印として描かれたものと、実際に見えるものを見比べる。春樹が地図の向きを変えると、翔太が、あ、と声を出した。
「そう持つのか」
「さっきから、こっちから歩いてきたでしょ」
「うん」
「じゃあ、今、ここ」
春樹が指を置くと、翔太は道を見て、もう1度地図を見た。
「なるほど。俺が言った方じゃないな」
「そこまで分かればよかったよ」
春樹が笑い、俺たちも正しい方へ向き直った。
その時、優子が俺の腕へ少し触れた。
「……そっち、日傘、当たりそう」
張り出していた枝を見て、俺は一歩、脇へ寄った。
優子も道の広い方へ移り、傘を傾けた。
「持とうか。少し高いところで差せるよ」
聞くと、優子は持ち手を見てから、俺へ渡した。
「……お願い」
受け取って、優子の頭の上へ傘を戻した。
自分が持つ高さだと、優子が枝を避けて腕を上げなくても、そのまま歩けた。
「これでいい?」
「……うん。ありがとう」
優子が、空いた手を一度握って開いた。
それから、俺の袖へそっと添えた。
前にいた真弓が振り返り、傘を見た。
「勝也、鞄の方も重くない?」
「今は大丈夫。持ち替えたくなったら言う」
「うん」
そのまま歩いていくと、翔太がまた後ろを見た。
「次は、あの札じゃね?」
今度は、言った先に、番号のついた札が見えていた。
春樹が地図を見直し、頷いた。
「合ってる」
「ほら!」
「そんなに嬉しいんだ」
真弓が笑った。
翔太は胸を張ったあと、段差の前で足元を見た。
「ここ、ちょっと高い」
後ろへ知らせてから、自分もゆっくり上がった。
優子は俺の腕を少し頼りにして、同じ段を越えた。
* * *
2つ目のチェックポイントでも、先生が待っていた。
先に着いた班がスタンプを押してもらっていたので、俺たちは少し離れたところで待った。
優子が鞄から台紙を出した。
その時、向こうで笑い声が大きくなり、優子の指が俺の袖へ触れた。
隣へ少し寄ると、優子もこちらを見た。
「次、俺たちだね」
声をかけると、小さく頷いた。
真弓も台紙を覗き込み、空いている枠を指した。
「優子、次はここだね」
「うん。こっち」
優子の指も、同じ枠へ動いた。
先の班が出発し、先生がこちらを呼んだ。
「はい、次の班。6人とも来ているかな」
「います」
翔太が答え、俺たちを見回した。
優子は俺の隣を歩いて、机の前へ出た。
「……お願いします」
両手で台紙を差し出した。
先生は受け取ると、2つ目の枠へスタンプを押してくれた。
「はい、どうぞ。あと1か所ですね」
「……ありがとうございます」
優子が少し頭を下げて受け取った。
俺が覗くと、さっきとは違う色の印が並んでいた。
「増えたね」
「うん」
優子は紙の端を持ったまま、皆の方へ向けた。
「あと、ここだけ」
「よし。順調じゃん」
翔太が頷いた。
春樹が地図を見て、最後の場所を指した。
「次は、ここだね。帰り道につながってる」
「じゃあ、間違えなければ、もうそんなに遠くないね」
真弓が言うと、翔太は、間違えないから、と地図を持ち直した。
優子が台紙をしまいながら笑った。
* * *
歩いていると、上着の中が少し暖かくなってきた。
最初はひんやりしていた風も、今は気持ちよかった。
道が広くなったところで、真弓が水筒を出そうと言った。
翔太も地図を畳み、近くの邪魔にならない場所へ寄った。
俺は優子と並んで立ち止まり、日傘を持ったまま、優子が鞄を開けるのを待った。
水筒を出すと、少しずつ飲んだ。
「疲れた?」
小さく聞いた。
優子はふたを閉めてから、少し考えるように俺を見た。
「……少し。でも、まだ歩ける」
「うん。ここでちょっと休もう」
優子の鞄を受け取り、自分の足元へ置いた。
肩が軽くなったのか、優子は腕を少し動かした。
翔太が地図を見て、残りを数えていた。
「あと、これと、これか」
「そっちは、もう回ったところ」
春樹が指した。
翔太は、ああ、と頷いた。優子が鞄から台紙を出し、2つ並んだ印を見せた。
「あと1つだよ」
翔太が、そっか、と台紙から地図へ目を戻した。
「じゃあ、こっちだけ?」
「うん。今のところ、時間も大丈夫」
春樹が時計を見た。
真弓も、優子へ顔を向けた。
「もう少し休んでからでいいよ。今、急いで出なくても間に合うから」
優子が、小さく頷いた。
「……ありがとう」
真弓は、うん、と答え、水筒へ口をつけた。
優子だけが待ってもらっているようにはせず、皆もそのまま休んでいた。
俺が自分の水筒を出そうとすると、春樹が日傘の方へ手を出した。
「持ってようか」
「あ、ありがとう」
優子へ、ちょっと飲むね、と言ってから渡した。
春樹は自分の頭の上へ持っていきかけて、すぐに優子の方へ戻した。
「あ、ごめん。こっちだね」
優子が、少し笑った。
「……うん」
「勝也、これ、どのくらいの高さで持ってた?」
「もうちょっと下かな」
「この辺?」
春樹が持ち直した。
優子は、うん、と頷き、そのまま俺の隣にいた。
水を飲んでから日傘を受け取ると、翔太がそのやり取りを見ていた。
「俺も持てるぞ」
「じゃあ、地図をちゃんと持ってて」
真弓が言った。
翔太は、自分の手にある紙を見下ろした。
「それは、持ってる」
「落とさずに、正しい向きでね」
「条件増やすなよ」
優子が笑った。
今度は、口元を隠す前に、小さな声が聞こえた。
翔太がそちらを見たけれど、笑ったことを大きく取り上げることはなかった。
地図を広げ、今は合ってる、と俺たちへ見せた。
休憩を終える時、優子の鞄は俺が持った。
自分の鞄は肩へ掛け、片方の手に優子の鞄、もう片方に日傘を持つ。優子が、少ししたらまた持つね、と言ったので、その時に替わろうと返した。
歩き出すと、空いた優子の手が俺の袖へ添えられた。
* * *
休憩のあと、地図に描かれた案内板が見えてきた。
翔太が立ち止まり、道の先と地図を見比べた。
「ここを曲がって、あっちだ」
春樹も同じところを見て、頷いた。
「うん。今度は、合ってる」
「今度は、いらないだろ」
言い返しながらも、翔太は少し嬉しそうだった。
そのまま進むと、最後のチェックポイントの札が見えた。先生が机の横に立ち、こちらを見ていた。
「あった」
優子が言った。
俺も頷き、傘を傾けて先を見た。
「最後のところだね」
翔太は先生の前へ行く前に、俺たちを見回した。
「6人。全員いる」
真弓が頷いた。
俺が優子の鞄を足元へ下ろすと、優子は外側のポケットから台紙を出した。先生へ差し出す隣で、俺は日傘を少し脇へよけた。
「……お願いします」
「ここまで、全部回ってきたんだね」
先生が2つの印を確かめ、最後の枠へスタンプを押した。
「はい。あとは地図を見て、宿舎へ戻ってください」
「ありがとうございます」
皆で礼を言い、道の端へ寄った。
優子が受け取った台紙を、綾香と真弓も覗き込んだ。
「全部そろったね」
綾香が言った。
優子は3つの印を見て、頷いた。
「うん。全部、押してもらえた」
台紙を覗き込んでいるところで、またシャッターが切られた。
顔を上げると、チェックポイントの木陰にカメラマンさんがいた。
「そろったところ、もう1枚いいかな。皆でこっちを見て」
翔太が地図を少し下げ、春樹もこちらへ寄った。
優子が台紙を持ったまま顔を上げるのを待って、俺もレンズを見た。今度は翔太のピースも間に合った。
撮り終えると、皆で礼を言った。
「じゃあ、戻ろう。時間も大丈夫」
春樹が時計を確かめた。
翔太は地図を広げ、宿舎の印へ指を置いた。
「よし。こっち」
「今度も合ってるよ」
「毎回確かめなくていいって」
春樹へ言い返したあと、翔太はもう1度地図を見た。
その顔を見て、優子が笑った。
戻る道では、さっき通ったところが見えた。
優子が、ここ、最初に歩いたところだね、と言った。真弓も頷いて、あの先に建物があったよね、と返した。
やがて木の間から宿舎が見え、ほかの班の声も聞こえてきた。
花沢先生が入口の近くで待っていた。
「お帰りなさい。皆そろっていますか」
「はい。スタンプも、全部あります」
翔太が答えた。
優子が台紙を広げると、先生は3つの印を順番に見た。
「はい、確認できました。皆、お疲れさま」
翔太が、よし、と言った。
真弓も笑い、優子は台紙へもう1度目を落とした。
「ちゃんと、戻ってこられたね」
俺が言うと、優子が頷いた。
「うん。皆で」
花沢先生が優子へ目を向けた。
「富田さん、どうだった? 楽しめた?」
優子が、少し背筋を伸ばした。
手元の台紙を見てから、先生へ顔を上げた。
「……はい。楽しかったです」
答えたあと、優子の口元が少し緩んだ。
先生も、その顔を見て笑った。
「うん。よかったね」
先生は俺たち全員へ、夕食までは部屋で過ごすように伝え、次に集まる時刻を確認した。
翔太がしおりへ印をつけた。俺は荷物を足元へ下ろし、優子が開いたしおりで、同じところを確かめた。
校門で先生に声をかけられた時より、優子の返事が少し早かった。
俺の袖は、まだ掴んだままだったけれど、先生が話し終わるまで、顔を上げていられた。
* * 優子視点 * *
部屋へ戻ると、畳の上へ座った。
勝也が日傘を畳み、鞄の近くへ置いてくれた。私の荷物も、その隣に戻った。
「少し、休もうか」
勝也が隣へ座った。
頷いて膝をそろえると、歩いていた時よりも、足の疲れが分かる気がした。
翔太くんは、部屋へ入るなり畳へ両手をついた。
「あー。広いって、いいな」
「朝から、そればっかりだね」
春樹くんが笑った。
加藤さんは水筒を置き、井上さんと地図を見ていた。
「ここで、ちょっと休んだんだよね」
「うん。思ったより、ぐるっと歩いたね」
さっきまで歩いていた道のことを、もう話していた。
学校の教室で皆の会話を聞いている時と、少し違った。
私も、同じところを歩いてきた。何のことを話しているのか、思い出せた。
勝也が、私へ顔を向けた。
「足、痛くない?」
「……痛くはない。ちょっと、疲れただけ」
「うん」
勝也は頷いて、そのまま隣にいてくれた。
肩が触れるところまで、私から少し寄った。
お昼には、勝也に最初に食べてほしかったものを食べてもらえた。そのあとで、皆のお弁当も少しずつ食べた。
午後に預かった台紙には、スタンプが3つ並んでいた。全部集まったと見せると、皆もそばへ来て見てくれた。
翔太くんに、優子、それ見せて、と呼ばれた時も、もう自然に顔を上げていた。
「翔太くん、最後のところ、すぐ分かったね」
私が声をかけると、翔太くんが顔を上げた。
「だろ。ちゃんと見てたから」
「途中からはね」
勝也が少し笑った。
翔太くんは、すぐそちらへ向き直った。
「最初から見てたって」
「見てたね。持ってる向きが違っただけで」
春樹くんが言った。
翔太くんが、そこ、ずっと言うなよ、と返し、加藤さんも笑った。
私も笑ってしまった。
声が出てから、少しだけ口元を押さえた。
翔太くんが、私を見た。
「次は、最初から合ってるから」
「うん。次も、地図お願いね」
そう返すと、翔太くんは満足そうに笑った。
春樹くんが、その時も確認するねと言い、また言い合いが始まった。
窓の方から、少し冷たい空気が入ってきた。
外はまだ明るかった。
いつもなら、このあと家へ帰る。
学校であったことを話したり、宿題をしたりして、夕飯の時間になる。
今日は、私も勝也も、この部屋へ戻ってきた。
隣に置かれた2つの鞄を見た。
どちらも、帰るために持ち上げる必要はなかった。
「……夕ご飯も、皆で食べるんだよね」
勝也が頷いた。
「うん。さっきの食堂だよ」
「……そのあとも、ここに戻ってくる?」
「うん。戻ってきて、またここで過ごすよ」
分かっていたことを、もう1度聞いてしまった。
でも、勝也は困った顔をしなかった。
「……そっか」
膝の上で、手を重ねた。
昨日は、帰ろうとする勝也の袖を掴んだ。
今日は、帰る時間を気にせず、同じ部屋にいられる。
勝也が、手の甲へ少し触れた。
「眠かったら、少し目、閉じててもいいよ。時間になったら呼ぶから」
私は首を振った。
「……今は、皆の話、聞いてたい」
勝也が、少し目を丸くしてから笑った。
「うん。じゃあ、一緒に聞いてようか」
頷いて、もう少しだけ肩を寄せた。
向こうでは、翔太くんが、地図より火の係の方が得意だと話していた。
加藤さんに、明日、楽しみにしてる、と言われ、急に真剣な顔になっていた。
私は、その顔を見てまた笑った。
勝也も隣で笑っていた。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
優子と美和が用意した弁当を楽しみにして出発する。バスでは幼い頃や転校後の思い出を語り、怖がりだった話に強がりながらも、優子が皆と笑う姿を喜ぶ。昼にはご飯とおかずの弁当に加えて、たっぷりのサンドイッチがあることに驚く。優子が食べてほしい卵焼きと照り焼きを先に味わい、その後は皆と弁当を交換して楽しむ。午後も優子の歩く速さや日傘を気遣い、班の皆と活動を楽しむ。
・富田 優子
早起きして母と弁当を作る。バスでは勝也と過ごした幼い頃の話をし、転校後の思い出話を聞くうちに、自分から皆へ質問して笑えるようになる。勝也が怖がりだったことも初めて知る。4人から名前で呼んでよいか聞かれ、嬉しく受け入れる。知らない場所や大勢の声への緊張は残るが、班の皆との距離は縮まる。昼は勝也に先に食べてもらったあと、皆とも弁当を交換し、母と作った料理が喜ばれる。午後はスタンプの台紙を預かり、皆とチェックポイントを回る。
・鳥居 翔太
出発前から林間学校を楽しみにしている。バスでは勝也と初日から仲良くなった話や、3人で池に落ちた釣りの話、ホラーゲームの帰り道に全力疾走した話をする。優子の弁当を羨ましがり、自分の唐揚げなどと交換して楽しむ。午後は班長として人数を確かめ、地図を持つ。向きを間違えて皆に突っ込まれながらも、優子が追いつくのを待ち、3か所のチェックポイントを皆で回る。
・鶴見 春樹
勝也が転校して初めて学校へ行く日に仲良くなったことを語る。釣りでは翔太にリュックを掴まれて池へ落ち、ホラーゲームでは勝也と一緒に強がっていた。優子の質問にも直接答え、笑い合う。到着後は地図や時間を確認し、荷物や日傘も気遣う。
・加藤 真弓
優子の幼い頃の話を急かさずに聞く。冬休みには勝也と春樹の反応を見に行ったものの、自分もホラーゲームを怖がり、家まで送ってもらった。自分の失敗も笑いながら話し、優子との会話を楽しむ。到着後も荷物や移動の確認をし、班の活動を支える。
・井上 綾香
冬休み直前のお泊まりに父の初代『バイオハザード』を持参した時の話をする。怖いものに強く、勝也と春樹の強がりを見抜いていた。冬休みの再挑戦でも1人だけ平気だったことを、優子へ楽しそうに話す。昼は自分の弁当のハンバーグとサンドイッチなどを交換する。午後は皆と地図を見て歩き、優子が預かる台紙のスタンプも一緒に確かめる。
・荒川 宣仁
出発前、別班から勝也たちへ挨拶に来る。自分の班で林間学校へ参加する。
・花沢先生
集合時に体調を確認し、到着後は6人を特別な和室へ案内する。向かいの設備と次の予定を伝え、活動後は優子に楽しめたかを尋ねる。楽しかったと答える優子へ笑顔を返し、皆に夕食までの予定を伝える。
・優子の母(美和)
優子と一緒に早起きし、卵焼き、照り焼き、2種類のサンドイッチを作る。優子が自分でやりたいところを手伝い、勝也に食べてもらう楽しみを受け止める。普段の登校日と同じように優子を車で勝也の家まで送り、2人を見送る。
・優子の父(泰臣)
朝、用意された弁当の量に驚く。出発前に優子の忘れ物を確かめ、自宅から送り出す。
・同じクラスの男子2人
到着後、翔太たちの部屋へ顔を出す。男女同室を面白がって軽口を交わし、自分たちの班へ戻る。
・学校契約のカメラマン2人
学校と契約し、林間学校に同行する2人。行きは勝也たちとは別のクラスのバスに乗り、帰りは2人とも勝也たちのクラスのバスへ同乗する。出発前や昼食、オリエンテーリングで、生徒たちの自然な姿を撮る。現地では分担して各班を回る。




