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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
45/52

第40話 林間学校1日目 前編

    * * 優子視点 * *


 目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。

 枕元の時計へ顔を寄せると、お母さんと約束した時刻まで、まだ少しあった。


 今日は水曜日だった。

 学校へ行って、バスに乗って、いつもと違う場所へ行く。

 その前に、作りたいものがあった。


 布団から出て、足を床へ下ろした。廊下を歩くと、台所の方から水の音が聞こえた。

 お母さんはもう起きていて、冷蔵庫から出した物を並べていた。


「おはよう」

「おはよう。自分で起きられたんだね」

「うん。まだ鳴ってなかったけど、目が覚めちゃった」

「楽しみで?」


 頷いてから、テーブルの上を見た。

 昨日、献立を書いた紙の隣に、卵焼きの分量を書いた紙が重ねてあった。


「……ちゃんと作れるかなって、少し考えてた」

「順番にやれば大丈夫。まず、手を洗おうか」


 お母さんの隣へ行き、袖を上げた。

 水を止めて手を拭くと、使う器を近くへ寄せてもらった。


 卵焼きと、鶏肉の照り焼き。

 それから、たまごサンドと、ツナマヨレタスサンド。

 昨日の夜、自分で書いた文字を、もう1度、上から読んだ。


「こんなに、全部できる?」

「お母さんも作るから。優子は、やってみたいところを一緒にやろう」

「卵焼きは、作りたい」

「うん。じゃあ、こっちから始めようね」


 器の縁で卵を割った。

 最初の1つは、殻の内側に残った白身がなかなか落ちてこなかった。しばらく待ってから置き、次を手に取った。

 箸で混ぜる間、お母さんが紙へ目を向ける。


「この前と同じでいい?」

「うん。同じ味にしたい」


 匙へ入れた調味料を、器へ加えた。

 この前、勝也は、おいしいと言ってくれた。

 たまたま上手にできただけにならないように、紙に書いたところを指で追い、入れ忘れがないか確かめた。


 火の前へ移ると、お母さんが卵焼き器を置いてくれた。

 持ち手を握り、卵を少し流す。広がった黄色いところへ、小さな泡が浮いた。


「もう、巻く?」

「端が固まってきたね。慌てなくていいから、そこを少し持ち上げてみて」


 箸を入れた。

 端は持ち上がったのに、その隣がまだくっついていた。引っ張りかけたところで、お母さんが、もう少しこっち、と教えてくれた。

 持ち上がった分を手前へ折ると、思っていたより太くなった。


「あ」

「大丈夫。そのまま続けよう」


 次を流す前に、巻いた卵を向こうへ寄せた。

 前に教えてもらった時より、やることは分かっていた。それでも、実際に火へかけると、紙を見る余裕はなくなってしまう。

 お母さんの声を聞きながら、箸の先だけを見ていた。


 最後の分まで巻くと、肩へ力が入っていたことに気づいた。


「できた」

「うん。前より、巻きやすそうだったね」


 火を止め、皿へ移した。

 端の方が少し膨らんでいて、左右が同じ太さにはなっていなかった。

 覗き込むと、お母さんが横から見て、切ったらきれいに並べられるよ、と言ってくれた。


「端っこ、私のに入れる」

「勝也くんの方にも入れていいと思うけど」

「きれいなところ、食べてほしいから」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 お母さんは笑わずに、じゃあ、あとで一緒に選ぼうね、と頷いた。


 照り焼きは、お母さんと交代しながら作った。

 鶏肉を返すところを教わり、昨日合わせた調味料の器を持つ。入れていいよと言われて傾けると、音が大きくなって、少しだけ手が止まった。


「はねるから、近づきすぎなくていいよ」

「うん」


 器を置き、少し離れたところから見た。

 お母さんがフライパンを傾けると、たれが肉の端へ集まった。さっきまで薄かった色が、少しずつ濃くなっていく。

 煮詰まりすぎないように見てね、と言われ、今度はそちらから目を離さなかった。


 焼けた物を別の皿へ移し、お母さんが中まで火が通っているのを確かめた。

 小さく切った端を、味見用の皿へ載せてくれた。


「どう?」


 口へ入れると、甘いたれの味がした。

 思っていたより、ちゃんとおかずの味だった。


「ご飯、食べたくなる」

「じゃあ、よかったね」


 お母さんが笑った。

 勝也も、こうして食べてくれたらよかった。


 次は、テーブルへ移ってサンドイッチの具を作った。

 茹でた卵の殻をむき、器の中で潰す。白いところが逃げてしまうので、器を押さえ、少しずつフォークの下へ寄せた。

 レタスはお母さんと洗い、水気を取って、小さく分けた。


 パンを並べてみると、空いていたテーブルがすぐに狭くなった。


「多いね」

「昨日、これくらい作ろうって決めた分だよ」

「分かってたけど、並べると、いっぱい」


 お母さんは、まだ具を載せていないパンを見た。


「少し減らす?」


 昨日の、空の容器を思い出した。

 あの時も、多すぎるかもしれないと思った。でも、勝也のお皿には焼きそばが2袋分載っていて、それを全部食べたあとも、目玉焼きを最後までおいしそうに食べていた。


「……ううん。作る」

「分かった」


 お母さんが、次のパンを私の前へ置いてくれた。


 たまごの具を広げると、端へ寄りすぎた分が少しはみ出した。匙で戻し、もう1枚を重ねる。

 上から押さえすぎないようにと言われ、手の力を緩めた。

 ツナマヨの方には、レタスも挟んだ。パンの間から緑が見えると、卵焼きや照り焼きとは違うものができたのだと、少し嬉しくなった。


 切り分けるところは、お母さんにも手伝ってもらった。

 具がずれないように押さえているつもりでも、包丁を動かすとパンまで動きそうになる。隣でやって見せてもらい、次の1組を自分で切ってみた。


「それ、きれいに切れたね」


 切り口を覗いた。

 黄色い具が、ちゃんと真ん中に入っていた。


「これ、勝也のに入れる」

「サンドイッチは、全部勝也くんの分でしょう」


 お母さんに言われ、手が止まった。

 そうだった。

 今、並べているものは、どれも勝也に渡すために作っていた。


 顔を見合わせると、お母さんが笑った。私も、少し笑ってしまった。


     * * *


 出来上がったものを冷ましている間に、朝ご飯を食べた。

 お父さんが台所へ来ると、テーブルに並んだ皿を見て、足を止めた。


「ずいぶん作ったね」

「勝也の分もあるから」

「聞いていたけど、思ったよりたくさんだ」


 お母さんが、追加のサンドイッチのことを説明した。

 お父さんは、私とパンの並んだ皿を見比べた。


「優子の分は、どこ?」

「私のは、こっち。サンドイッチは勝也の」

「こっちは全部?」

「うん」


 お父さんが小さく笑った。


「それなら、お昼が楽しみだね」


 私は頷いた。

 食べる前に、驚かれるかもしれなかった。


 朝ご飯のあと、着替えを済ませて戻ると、お母さんと弁当を詰めた。

 ご飯を入れるところと、おかずを入れるところを分けて、卵焼きを並べる。どの向きに置けば収まりがよいのか、容器の上で少し迷った。


「お肉は、ここ?」

「うん。そっちにすると、卵焼きもよく見えるね」


 言われた場所へ、照り焼きを入れた。

 卵焼きの端の小さなものは、自分の方へ置いた。勝也の方へは、太さの近いものをそろえた。

 お母さんが用意してくれた付け合わせも詰めると、空だった容器が、ご飯とおかずでいっぱいになった。


 その横で、サンドイッチの容器にもふたをした。


 私の弁当が1つ。

 勝也の弁当が1つと、サンドイッチがもう1つ。


 分かっていたはずなのに、ふたをした容器が3つ並ぶと、また少し笑いたくなった。


「お母さん。本当に、これ、持っていくんだね」

「うん。作れたね」


 お母さんが保冷剤を用意してくれた。

 箸と、食べ終わった容器をまとめる袋を確かめ、弁当を保冷バッグへ入れた。手に提げてみると、昨日の夜に空の容器を入れた時とは、ずいぶん重さが違った。


 勝也が、2人分を持つと言ってくれた。

 まだ中身を知らない勝也の顔を思い浮かべ、持ち手を握り直した。


「そろそろ出ようか。勝也くんに、今から行くって伝えておいてね」

「うん」


 学校へ戻ってからは、毎朝、お母さんの車で勝也の家まで送ってもらっている。そこから勝也と一緒に歩いて、学校へ行く。

 今日も携帯を取り出し、今から出ることを伝えた。勝也から、分かった、と返事が来た。


 玄関で靴を履いていると、お父さんが見送りに来てくれた。


「しおり、入れた?」

「うん。すぐ出せるところ」

「気をつけて。楽しんでおいで」

「行ってきます」


 お父さんへ手を振り、お母さんと車に乗った。

 膝に載せた保冷バッグを、両手で支えた。車が動き出してからも、中の容器が傾かないように、持ち手を握っていた。


    * * 勝也視点 * *


 泊まりの荷物を持って下へ降り、マンションの入口で待った。

 しばらくすると、優子のお母さんの車が見えた。駐車場へ向かうと、停まった車から優子が降りてきた。


「おはよう」

「おはよう。待った?」

「ううん。俺も、さっき下りてきたところ」

「そっか。お弁当、できたよ」


 そう言って笑った顔を見て、俺も嬉しくなった。

 昨日は、作ってくれると聞いただけだった。今日は本当に、それを持って一緒に出かける。


 運転席から降りたお母さんが、優子の泊まりの荷物を出してくれた。


「おはよう、勝也くん」

「おはようございます。お弁当、ありがとうございます。朝から、すみません」

「いいのよ。優子も頑張って作ったから、食べてね」

「はい。すごく楽しみです」


 優子が、少し顔を下げた。

 その手に提げられた袋へ、俺は目を向けた。


「これ、お弁当?」

「うん」

「じゃあ、持つよ」


 持ち手を受け取った。

 思っていたより、ずっと重かった。


 落とすほどではなかったけれど、手首へかかった重さに、思わず袋を見直した。


「おお」


 優子が、こちらを見た。


「……重い?」

「大丈夫。2人分だもんね」

「うん」


 返事をしたあと、優子はお母さんの方を見た。

 お母さんも、少し笑っていた。


「何か、今、2人で笑った?」

「お昼まで、お楽しみなんでしょう?」


 お母さんに言われ、俺も頷いた。


「そうでした。まだ聞かないでおきます」


 袋を持ち上げて確かめようとしかけて、やめた。

 優子が、それを見てまた笑った。


 優子がお母さんから受け取った鞄を、肩へ掛けた。

 昨日一緒に確かめた荷物だった。歩き始める前に、ベルトがねじれていないか見た。


「歩きにくかったら、途中で替わるよ」

「うん。今は大丈夫」


 優子は自分で鞄の位置を直してから、お母さんの方へ向き直った。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい。勝也くんも、楽しんできてね。帰ってきたら、話を聞かせて」

「はい。行ってきます」


 優子は頷いて、俺の隣へ来た。

 駐車場を出るところで、もう1度だけ振り返った。車のそばに立つお母さんへ小さく手を振ってから、俺と並んで公園へ向かった。


 今日はいつもの道でも、手に持った物が違った。

 教科書の代わりに着替えを入れた鞄と、2人分の弁当。優子は日傘を開き、俺の歩く方を確かめた。


「何時に起きたの?」


 聞くと、優子は普段より早い時刻を答えた。


「眠くない?」

「今は平気。勝也は?」

「俺も。起きられなかったらどうしようと思ってたけど、目覚ましが鳴ったら、すぐ起きた」

「……昨日、楽しみにしてるって言ってたもんね」

「うん。今も楽しみ」


 弁当の袋へ目を落とすと、優子が少し笑った。


「まだ、だめだよ」

「分かってるって。今、開けようとはしてないよ」

「さっきも、ちょっと見ようとしてた」

「外からでも分かるかなって、少し思っただけ」


 優子は、日傘を持っていない方の手で俺の袖へ触れた。


「ちゃんと、お昼に見て」

「うん」


 そう返すと、指が少し緩んだ。

 そのまま隣で歩く優子は、いつもの朝よりよく笑っていた。


     * * *


 公園の近くまで来ると、翔太が先に俺たちを見つけた。


「おーい!」


 大きく手を振り、その拍子に肩の鞄がずり落ちかけた。春樹が横で何か言い、翔太は鞄を掛け直した。


「おはよう」

「おはよう。荷物、でかいね」


 春樹が俺の鞄を見た。


「そういう春樹も、結構いっぱいじゃん」

「入れたら、こうなった。帰り、同じように入るかな」

「押せば入るって」


 翔太が、自分の鞄を叩いた。


「お前、それ、もう押したあと?」

「うん」

「じゃあ、帰りの余裕ないじゃん」


 俺が言うと、翔太は少し考え、もう1度押す、と答えた。

 優子が、俺の隣で小さく笑った。


「富田さんも、おはよう」


 春樹が少し声を柔らかくした。


「……おはよう」

「荷物、大丈夫?」

「……うん」


 優子が頷くと、春樹も頷き、それ以上は急がせずに前へ向いた。

 翔太は、俺が持っている別の袋を見た。


「それ、何?」

「弁当。優子の分も持ってる」

「2人分?」

「うん」


 翔太は、なるほど、と言った。

 それから俺の方を見た。


「俺のも持つ?」

「自分で持って」

「即答かよ」

「今、両方埋まってるの、見えるでしょ」


 俺が鞄と袋を少し持ち上げると、春樹が笑った。

 翔太も、分かってるって、と笑い、学校の方を見た。


「あー、早く着かねえかな」

「学校には、もうすぐ着くよ」

「そっちじゃなくて」


 春樹に返しながら、翔太は足を速めた。

 数歩先へ出たところで振り返り、俺たちが追いつくまで、道の端で待った。


 優子は、その後ろ姿を見ていた。

 俺が目を向けると、小さく口元を緩めた。


「……すごく、楽しそう」

「うん。昨日から、ずっとあんな感じ」


 翔太に聞こえないくらいの声で答えると、優子がもう1度笑った。


     * * *


 学校には、もう大きな鞄を持った人たちが集まっていた。

 いつもの登校より早いのに、話し声はずっと多かった。バスの方を指している人もいれば、鞄からしおりを出して、すぐにしまい直している人もいた。


 優子の指が、俺の袖を少し強く掴んだ。

 日傘を畳む間、荷物を足元へ置き、俺も隣へ寄った。


「先に、先生のところ行こうか」


 優子が頷いた。

 花沢先生は名簿を持ち、集まってきた人へ順番に声をかけていた。俺たちに気づくと、こちらへ歩いてきた。


「おはよう。2人とも、体調はどう?」

「大丈夫です」


 俺が答えてから、先生は優子を見た。


「富田さんは?」

「……大丈夫、です」

「うん。今日は早かったね。眠れた?」


 優子が頷いた。

 先生は名簿へ印をつけると、班で待つ場所を教えてくれた。


「鳥居くんたちは、あちらにいるね。時間になったら呼ぶから、荷物を置いて待っていてください」


 振り返ると、翔太が真弓と話していた。

 綾香もその隣にいて、俺たちへ手を上げた。


「おはよう」

「おはよう、勝也君。富田さんも」

「……おはよう」


 優子が返事をすると、真弓が自分の鞄を少し寄せた。


「ここ、置けるよ」


 空いたところへ、優子が荷物を下ろした。

 俺の鞄もその隣へ置くと、優子は2つの持ち手を見てから、肩を少し下げた。


 翔太は皆を見回し、指を折った。


「6人。よし」

「さっきも数えたでしょ」

「今、全員来たから。ちゃんと班長やってるんだって」


 真弓に言い返し、翔太はしおりを持ち上げた。

 その表紙が上下逆になっていたので、春樹が黙って指を向けた。


「……読む時に直すから」

「うん。じゃあ、読む時に教えて」


 春樹の返事に、綾香が笑った。

 優子も俺の袖を掴んだまま、しおりを直す翔太を見ていた。


 少し離れたところから、宣仁が歩いてきた。


「おはよう。もう皆おるね」

「うん。宣仁の方は?」

「あと1人。先生に呼ばれとる」


 宣仁は俺たちの荷物を見てから、自分たちの班の方へ目を戻した。


「あとでな」

「うん。また向こうで」


 短く話して戻っていく。

 優子はその背中へ小さく頭を下げてから、俺を見た。


「……皆、いるね」

「うん」


 袖を掴んでいた手へ、少し触れた。

 優子は周りの声に顔を上げながらも、その場から離れようとはしなかった。


     * * *


 出発前の説明で、学校と契約しているカメラマンさんが2人紹介された。

 首からカメラを下げた2人が、先生の隣で会釈をした。林間学校の間、活動や自由時間の様子を撮ってくれるそうだった。


「行きはお二人とも別のクラスのバスですが、帰りは私たちのバスに乗ってくださいます」


 花沢先生が、俺たちへそう教えてくれた。

 話が終わって荷物を持ち直していると、さっそく近くでシャッターの音がした。

 翔太が顔を上げ、慌てて片手でピースを作った時には、カメラはもう別の班へ向いていた。


「今、撮った?」

「うん。普通に鞄持ってるところ」


 俺が答えると、翔太は出した手をゆっくり下ろした。

 春樹が、それでいいんじゃない、と笑った。


 それから、順番にバスへ乗った。

 大きな荷物を預け、弁当や活動で使う物の入った鞄は手元へ残した。優子が先に段へ足をかけるのを待ち、俺も後ろから乗り込んだ。


 席へ着くと、優子が窓側へ入った。

 俺は弁当の袋を傾かないように置き、隣へ座った。通路を挟んだ横には真弓と綾香、俺たちの後ろには春樹と翔太が座った。


「大丈夫? 狭くない?」

「……うん」


 優子が膝の鞄を抱え直した。

 窓へ目を向け、それから俺の方へ少し寄った。後ろでは、翔太が早くも前の方を気にしていた。


「運転手さん、もう乗ってる?」

「乗ってなきゃ出発しないよ」

「そうじゃなくて、いつ出るかなって」


 春樹に言い返したところで、先生から、座って待っていてね、と声をかけられた。翔太が素直に背中を戻すと、通路の向こうで真弓が笑った。


 やがてバスが動き始め、優子の手が俺の手へ触れた。

 握ると、窓の方を見たまま握り返してくれた。校舎が少しずつ後ろへ流れ、優子の肩から細く息が抜けた。


「出発したね」

「……うん」


 その返事に重なるように、後ろから声がした。


「まだ着かねえな」

「今、校門出たところだけど」


 春樹がすぐに返した。

 握っていた手へ力が入ったので隣を見ると、優子は口元を押さえて笑っていた。


「……早いね」

「着くの待てないんだって」

「聞こえてるぞ」

「聞こえるように言ってるんだけど」


 俺が少し顔を向けると、翔太も笑っていた。

 しばらくは見慣れた建物が続いた。優子はお母さんと通ったことのある道を教えてくれて、俺も同じ方を見た。


「いつもは、あそこで曲がるの?」

「うん。あの先に、お母さんと買い物に行くところがあるの」


 話していると、真弓がこちらを見た。


「富田さん、酔ってない?」

「……うん。大丈夫」

「よかった。さっきより顔色いいね」


 優子が小さく頷いた。

 綾香もこちらへ顔を向け、今通り過ぎた建物の方を見た。


「2人は、小さい頃も一緒に出かけたりしてたの?」

「してたよ。優子のお母さんと、俺の母さんと、4人で」

「家が隣だったんだよね」

「うん。優子の家の隣に、俺の家が建って。それから」


 答えると、優子が俺を見た。


「……幼稚園の時」

「そうそう」


 真弓が優子へ目を向けた。


「初めて話した時のこと、覚えてる?」


    * * 優子視点 * *


 勝也の手を握ったまま、加藤さんを見た。

 通路を挟んだ向こうで、返事を待ってくれていた。すぐに答えられなくても、次の質問は飛んでこなかった。


「……勝也から、話しかけてくれたの」


 言ってから隣を見ると、勝也も頷いた。


「最初は、髪が白いのが気になったんだよね。近くで見たことなかったから」

「……うん」


 まだ勝也を知らなかった頃にも、髪のことを聞かれたことはあった。

 近くへ来る子が皆、嫌なことを言うわけではなかった。どうして白いのか知りたくて、話しかけてくれる子もいた。

 それでも、知らない子の顔が近づくと、何を言われるのか分からなくて、うまく返事ができなかった。


「私、あんまり……話せなかったから」

「富田さんが?」


 井上さんに聞かれ、頷いた。


「……勝也にも、最初は」

「でも、遊んでたら、ちょっとずつ話してくれるようになったよ」


 勝也が言った。

 いつ仲良くなったのか、1つの日を選ぶことはできなかった。隣に家ができて、勝也が来て、また次も遊んで。そのうち、来るのを待つようになっていた。


「……気づいたら、いつも一緒だった」


 口にすると、勝也が少し笑った。


「家、すぐそこだったもんね」

「うん」


 後ろから、翔太くんの声がした。


「幼稚園からか。俺らより、だいぶ前だな」

「俺たちは小学校で会ったからね」


 春樹くんが答えた。

 2人の声を聞きながら、つないだ手へ目を落とした。


 幼稚園では、私が近づくと遊ぶのをやめてしまう子もいた。気味が悪いとか、病気がうつるとか、言われたこともあった。

 輪の外に立ったまま、帰る方を見ていた時、勝也が来てくれた。


「……私、入れてもらえない時もあって」


 言いかけると、勝也がこちらを見た。

 その目を見てから、続きを話した。


「髪のこととか……病気がうつるって、言われたりして」


 加藤さんの笑顔が少し静かになった。

 でも、顔を覗き込まれたり、先を急かされたりはしなかった。


「その時、勝也が……手、つないでくれたの」


 勝也は、つないでいる手を見た。


「ああ。うん」

「……嫌じゃないのかなって、思った」

「優子と遊んでたし。手だって、いつもつないでたから」


 あの時も、勝也は当たり前のように手を伸ばしてきた。

 私が少し離れようとしても、そのまま隣にいて、遊びに誘ってくれた。


「最初は、何で入れてくれないのか、俺もよく分かってなかったんだけどね。変なこと言うなよって思うようになって」

「勝也君が、皆のところへ連れていってくれたの?」


 加藤さんが聞いた。

 私は頷いた。


「……うん。同じところで、遊べた時もあった」


 勝也のそばにいると、そこへいてもいい気がした。

 でも、自分からほかの子に何かを言うのは難しくて、遊んでいる間も勝也ばかり見ていた。勝也が少し遠くへ行くと、ついていってしまった。


「でも、俺が誘っても、あんまり楽しそうじゃない時があったんだよね」


 勝也が言った。

 私は、その横顔を見た。


「……分かってたの?」

「うん。俺の後ろにずっといるから。家で遊んでる時の方が、よく話してたし」


 上手に遊べなかったことを、怒られた覚えはなかった。

 みんなと遊ぼうと言われる代わりに、今日はうちへ来る、と聞かれることが増えた。


「それで、優子の家か、俺の家で遊ぶ方が多くなった」

「……うん」


 加藤さんが、ゆっくり頷いた。


「そっか。家なら、落ち着いて遊べたんだね」


 その言い方に、胸の辺りの力が少し緩んだ。

 また頷くと、井上さんが聞いた。


「家では、どんなことしてたの?」

「……塗り絵とか。絵本、読んだり」

「おままごとも、やったよね」


 勝也の言葉に顔を向けた。


「うん」

「勝也が、おままごと?」


 翔太くんが聞き返した。

 勝也は、何かおかしいかな、という顔で後ろを見た。


「やるでしょ。小さい時」

「いや、お前が何してたのかなって」

「ご飯、食べてた」


 春樹くんが笑った。


「今と、あんまり変わらないね」

「本物じゃないから」


 勝也も笑っていた。

 私の手のひらに、笑う時の小さな動きが伝わってきた。


「……まだ作ってるのに、食べようとしたこと、あった」


 思い出して口にすると、勝也がこちらを向いた。


「そうだっけ」

「うん。まだできてないよって」

「待ちきれなかったんだ」


 加藤さんに言われ、勝也は、そうだったのかも、と笑った。

 私も笑ってしまった。小さな皿を並べていた時のことが、皆の声を聞いているうちに、少しずつ思い出せた。


「小学校でも、そういう遊びしてたの?」


 井上さんが聞いた。


「……小学校に入ってからは、ゲームも」

「俺が買ってもらって、優子が隣で見てたんだよね」

「うん。何してるのか、教えてもらって」


 勝也が画面へ向かっている間、私はその隣に座っていた。

 初めは見るだけでも楽しかった。分からないところを聞くと、勝也は説明してくれて、失敗すると自分で笑っていた。


「それで……私も、同じのを買ってもらったの」

「一緒にやりたくなった?」


 加藤さんへ頷いた。


「……うん」

「そっか。見てるだけだったのが、一緒に遊ぶようになったんだ」


 その言葉を聞き、隣の勝也を見た。

 勝也も覚えているようで、嬉しそうに頷いていた。


「優子、分からないところ、ちゃんと聞いてくるからさ。俺が先へ行ってるつもりだったのに、いつの間にか同じところまで来てたりして」

「勝也が、教えてくれたからだよ」

「教えても、できないことってあるじゃん」


 勝也が言うと、春樹くんが、あるね、と答えた。

 なぜか翔太くんが、俺の方を見るな、と言い、後ろで2人が笑った。


 それから、家の外で遊んだ時の話になった。

 お母さんたちと4人で子ども向けの映画を見に行ったこと。屋内で遊べるところへ連れていってもらったこと。屋内プールで、帰ると言われてもまだ遊びたかったこと。


「……買い物の時は、コインのゲームもしたよね」

「した。お母さんたちが戻ってくるまで、2人で」

「2人とも、そういうの好きだったんだ」


 井上さんに聞かれ、うん、と答えた。

 勝也が、うまくいくとやめられなくなるんだよね、と言うので、お母さんにもう帰るよと言われた時のことを思い出した。


「……勝也、あと1回って」

「優子も言ってたよ」

「私も?」

「うん。俺が終わったら、今度は優子のが終わらなくて」


 言われてみると、そんな日もあった気がした。

 勝也だけの話にしてしまったのが可笑しくて、私も頷きながら笑った。


「……あったかもしれない」

「お母さんたち、待ってたよね」

「うん」


 加藤さんも笑っていた。


「本当に、毎日みたいに一緒にいたんだね」

「……うん。でも、勝也が別の友達と遊ぶ日もあったよ」

「俺だけで行くことも、結構あったね」


 勝也が答えた。

 そういう時は、家で1人で過ごした。本を読んだり、ゲームの続きをしたりしながら、隣の家の音を気にしていた。

 皆の前でそこまで話すのは少し恥ずかしくて、本を読んでいたことだけを伝えた。


「だから、勝也がほかの友達と何してたのかは……知らないことも、多くて」


 口にすると、後ろで翔太くんが、あ、と言った。


「じゃあ、こっち来てからの話も、あんまり知らない?」


 私は少し体の向きを変えた。


「……うん」


 土曜日に春樹くんが勝也の家へ顔を出した時、本当にすぐそばに住んでいるのだと、改めて思った。

 勝也が私の隣からいなくなったあと、どんなふうにこの人たちと仲良くなったのか、聞いてみたかった。


     * * *


「俺は、勝也が初めてこっちの小学校へ行く日から知ってるよ」


 春樹くんが言った。

 通路側に座っている春樹くんの顔は、少し向きを変えると見えた。


「……最初の日から?」

「うん。家が隣だから。学校へ行く時に会って、話して」

「学校、どっちに行くのかも、まだよく分かってなかったしね」


 勝也が続けた。


「春樹がいて、助かったんだよ」

「歩きながら、ゲームの話になったんだよね」

「そう。それ、俺もやってるって」


 2人が顔を見合わせて笑った。

 朝、知らない道を歩く勝也の隣に春樹くんがいた。そのことを、私は初めて知った。


「俺も、その日に仲良くなった」


 翔太くんが言った。


「翔太くんも……同じ日?」

「おう。話してたら、やってるゲームが同じでさ」

「何か、もうその話ばっかりしてたよね」


 勝也が言うと、春樹くんも頷いた。


「休み時間、すぐ終わった」

「まだ話してんのに、授業始まるんだもんな」

「それは、学校だから」


 春樹くんが返した。

 翔太くんは笑っていた。初めて会った日でも、今と同じように話していたのかもしれないと思った。


「……すぐ、仲良くなったんだね」

「うん。何話そうとか、考えてる間がなかった」


 勝也が答えた。

 転校した先で、こんなふうに話せる人がすぐにできていた。それを聞けたことが嬉しかった。


「ゲームばっかりじゃなくて、外でも遊んでたよ」


 翔太くんが続けた。


「春樹、エアガン持ってたから。借りて、3人で」

「春樹くんの?」

「うん。俺、ああいうの好きで。皆で遊んだね」


 春樹くんが言った。

 落ち着いて話す春樹くんと、エアガンを持って遊ぶ姿が、すぐには重ならなかった。


「……知らなかった」

「今、学校でその話すること、あんまりないもんね」


 春樹くんは、普通に答えてくれた。

 私が何も知らなくても、話の途中へ戻って教えてくれた。


「釣りも行ったしな」


 翔太くんの言葉に、勝也が笑った。

 春樹くんも、ああ、と声を出した。


「あの池?」

「そう。ヌシの」

「ヌシ?」


 思わず聞き返すと、翔太くんの顔が明るくなった。


「そう。すげえのがいたんだよ」

「先に、3人で池に落ちた話をした方がいいと思う」


 春樹くんが言った。

 私は、勝也へ顔を戻した。


「……落ちたの?」

「うん。3人とも」


 勝也は、もう笑っていた。

 通路の向こうで加藤さんもこちらへ顔を向けた。


「釣りに行って、何で全員落ちるの」

「順番に説明するから」


 翔太くんが言った。


「ブラックバス釣りに行ったんだよ。そしたら俺のに、すげえのが掛かって」

「翔太、ずっと叫んでたよね」


 勝也が、少し声を弾ませた。


「ヌシだ、ヌシだって」

「だって、今までと全然違ったんだって!」

「分かってるよ。俺も、これはすごいなって思って、そっち行ったんだから」


 勝也の声を聞いていると、怖かったという話には聞こえなかった。

 隣で笑う顔と、池に落ちたという言葉を見比べるようにして、続きを待った。


「翔太が持っていかれそうになってたから、後ろから支えようとしたんだよね。でも、足元が悪くて」

「勝也も滑ったの?」

「うん。支えたつもりが、俺まで前へ行っちゃって」


 勝也が、空いている手を少し前へ動かした。


「で、俺、何か掴まないとって思ったんだよ」


 翔太くんが言った。

 その横で春樹くんが、自分の肩を指した。


「俺のリュック」


 一瞬、誰も続けなかった。

 井上さんが先に口元を押さえた。


「春樹くん、背負ってたの?」

「うん。普通に。近くにいたら、いきなり引っ張られて」

「だって、そこに持つところがあったから」

「あったけど。そこ、俺とつながってるからね」


 加藤さんが笑い、私も声を漏らしてしまった。

 慌てて口元へ手を持っていくと、春樹くんまで笑っていた。


「俺、助けようとする前に落ちたんだよ」

「速かったよね。3人落ちるの」


 勝也が言った。


「俺が翔太支えて、翔太が春樹のリュック掴んで、そのまま」

「皆つながってたんだ」


 言ってから、また笑いそうになった。

 勝也は、そうなんだよ、と頷いた。


「仲いいでしょ」

「その時は、つながりたくなかったけど」


 春樹くんの返事に、今度は口を押さえていても笑い声が出た。

 3人の顔を順番に見ると、誰も嫌そうにしていなかった。翔太くんは、まだ大事なところがある、とでも言うように手を上げた。


「でも、俺、竿は離さなかったから」

「池に落ちても?」

「おう」


 翔太くんは得意げだった。

 私が勝也を見ると、本当だよ、と頷いた。


「俺と春樹が岸につかまってたら、翔太、まだ釣ってるんだもん」

「ここまで来て逃がせるかよ」

「落ちた分、取り返そうとしてたの?」


 加藤さんが聞いた。

 翔太くんは少し考え、いや、それより、と話を続けた。


「水の中に、魚が見えたんだよ」


 そう言った時、勝也も春樹くんも頷いた。

 さっきまでの言い合いが、そこで急にそろった。


「あれは、大きかった」

「うん。あれ見た時は、俺もびっくりした」


 春樹くんまで真剣な声になったので、私はまた翔太くんを見た。


「3人とも、見えたの?」

「見た。でかい影が、すぐそこ通って」


 翔太くんが両手を広げかけて、前の座席へ当たらないように止めた。

 勝也も、あの時は釣れるかもって思った、と続けた。


「それで、釣れた?」


 聞くと、春樹くんが首を振った。


「竿が折れた」

「……え?」

「そこで、終わり」


 翔太くんが、手のひらを上へ向けた。

 私は3人を見た。


「皆、濡れちゃって……竿も?」

「うん」


 勝也が答えた。

 その顔があまりにも楽しそうで、笑っていいのか迷ったまま、結局、笑ってしまった。


「帰る時も、皆びしょびしょでさ」

「でも、あれは本当にヤバかったよな」

「あれなら、ヌシって言いたくなるよ」


 春樹くんが言った。

 翔太くんは、だろ、と嬉しそうに頷いた。


「さっきまで文句言ってたのに、そこは認めるんだ」


 加藤さんが笑った。


「魚が大きかったのと、俺が引っ張られたのは、別だから」

「春樹も、帰りは笑ってたじゃん」

「あの格好で3人並んでたら、笑うよ」


 話している今も、3人は笑っていた。

 ずぶ濡れで並んで歩くところを想像した。勝也は途中で何度も大きさの話をして、翔太くんが同じことを言い、春樹くんもそれには頷いていたのだろう。


「……その魚、何だったんだろう」


 口にすると、翔太くんが、な、と答えた。


「俺も、そこが気になってる」


 その返事が、すぐに返ってきた。

 勝也を見て、代わりに答えてもらわなくても、翔太くんは私へ話してくれた。


     * * *


「その2人、家でゲームしてても、結構騒ぐよ」


 井上さんが言った。

 勝也の笑い方が、少し変わった。


「綾香。それ、何の話しようとしてる?」

「お泊まりの時」


 春樹くんも、ああ、と声を出した。

 今度は、釣りの時のような嬉しそうな声ではなかった。


「それは、もういいんじゃない?」

「富田さん、知らないでしょ」


 井上さんが私へ目を向けた。

 私は頷きかけてから、勝也を見た。


「聞いてもいい?」

「いいけど……たぶん、綾香が楽しそうに話すと思う」

「楽しかったからね」


 井上さんは笑っていた。

 加藤さんも何の話か分かったらしく、翔太くんと顔を見合わせた。


「小学校の、冬休みに入る少し前。私が勝也君の家へ泊まりに行った時に、ゲームを持っていったの」

「春樹くんも、一緒に?」

「うん。3人で遊ぼうと思って。お父さんの『バイオハザード』」


 名前は聞いたことがあった。

 でも、自分で遊んだことはなかったので、井上さんへ聞いた。


「怖いゲームだよね?」

「うん。最初のやつ。私は、お父さんが遊んでるのを最後まで見てたから、どこで何が出るか知ってたんだけど」


 井上さんは、勝也と春樹くんへ目を向けた。


「2人とも、箱を見てる時から、ちょっとおかしくて」

「おかしくはないよ。普通に見てたでしょ」


 勝也がすぐに言った。

 井上さんは、あの時のことを確かめるように少し首を傾げた。


「勝也君が、全然怖くなさそうじゃんって言って。春樹くんも、これなら平気って」

「言ったかもしれないけど」

「でも、なかなか始めようとしなかった」


 加藤さんが笑った。

 勝也は、説明を見てたんだよ、と返した。


「始まったら、今度はオープニングの途中でも、俺、全然平気って言うの」

「平気なら、黙って見てればいいのにな」


 翔太くんが言った。

 春樹くんが、そっちもあとで話すからね、と静かに返した。


 私は勝也を見た。

 勝也もこちらを見て、少し困ったように笑った。


「小学校の時の話だからね」

「……勝也、怖かったの?」


 聞くと、勝也は1度、井上さんを見た。


「びっくりするところが、あるんだよ」

「びっくりしただけって、その日も言ってたね」


 井上さんの返事に、加藤さんがまた笑った。

 私は、つないでいる手を少し見下ろした。


 勝也が怖がるところを、私は知らなかった。

 昔、嫌なことを言われた時も、今、学校へ来る時も、勝也がいると大丈夫な気がしていた。

 その勝也が、ゲームを始める前から怖がっていた。


「どんなところで、びっくりしたの?」


 井上さんへ聞いた。

 井上さんは、ゲームの中に窓の並んだ廊下があるのだと教えてくれた。


「そこを歩いてたら、窓からゾンビの犬が飛び込んでくるの」


 聞いただけで、少し肩へ力が入った。

 勝也の方へ寄ると、その手が握り返してくれた。


「……それは、怖そう」

「そうなんだよ。急に来るから」


 勝也の声が少し強くなった。

 ようやく分かってもらえた、という顔だった。


「それで、2人とも悲鳴を上げて」

「綾香、そこ、声の説明はいらないから」

「まだ、どんな声か言ってないよ」


 春樹くんが、もう顔を伏せていた。

 私も口元を押さえた。勝也だけでなく、普段は落ち着いている春樹くんまで一緒に悲鳴を上げたことが、意外だった。


「コントローラー持ってた勝也君が、びっくりして後ろへ引いちゃったんだよね」

「うん。体ごと」


 勝也が諦めたように頷いた。


「線が引っ張られて、本体まで動いて。そのあと、画面が止まっちゃったの」

「バグったんだよ。音も変になって、動かなくて」


 春樹くんが続けた。

 井上さんは、そこでやめることになったのだと言った。


「直らなかったの?」

「つけ直したら戻ったよ。でも、2人とも、今日はもういいでしょって」

「機械の調子が悪かったら、無理しない方がいいじゃん」


 勝也が言った。

 春樹くんも頷いたので、井上さんが笑った。


「そういうことにしてたね」


 私まで笑ってしまった。

 勝也は、優子もそっち側なの、と言ったけれど、その声も笑っていた。


「ごめん。でも……知らなかったから」

「何を?」

「勝也も、怖いの、苦手だったんだね」


 勝也は、すぐには返事をしなかった。

 その間に、井上さんが続きを話した。


「寝る前も、別に怖かったわけじゃない、驚いただけだよねって、2人で確かめ合ってたよ」

「それ、誰に説明してるの」


 加藤さんが言った。

 勝也が、自分たちに、と答えたので、私はまた笑ってしまった。


「で、勝也君が、ちょっとトイレ行こうぜって」

「春樹くんも?」

「うん。ちょうど俺も行こうと思ってたって、すぐ立ってた」


 春樹くんが顔を上げた。


「行きたかったのは、本当だから」

「2人とも?」


 私が聞くと、春樹くんは少し黙ってから、うん、と頷いた。

 その間が可笑しくて、もう1度笑ってしまった。


「寝るところも、変わったんだよ」


 井上さんが言った。


「勝也君は自分のベッドで、私と春樹くんが床の布団のはずだったのに、寒いから俺も床で寝るって」

「冬だったからね」


 勝也が答えた。

 井上さんはその言葉に頷いてから、続けた。


「だから、私が代わりにベッド使ったの。勝也君と春樹くんは、布団を近くに並べて」

「床の方が寒くない?」


 加藤さんの声に、翔太くんが吹き出した。

 勝也と春樹くんは、顔を見合わせた。


「……あの時は、そこまで考えてなかった」


 勝也が言った。

 笑いながら隣を見ると、少し耳が赤くなっているように見えた。


「井上さんは、怖くなかったの?」


 私が聞くと、井上さんは頷いた。


「うん。こういうの、割と平気」

「急に出てきても?」

「びっくりすることはあるけど、あとまで怖くはならないかな。怖い場面なんだっていうのは分かるんだけど」


 お父さんが遊んでいるところを見ている時も、怖いところや、気持ちの悪い場面があっても、平気だったのだと言った。

 だから、勝也たちが途中から怖がっていることにも気づいていた。


「でも、平気って言うから」

「綾香は、そういう時だけ、俺たちの言うこと信じるんだよね」


 勝也が言った。

 井上さんは笑いながら、じゃあ、怖いって言えばよかったのに、と返した。


     * * *


「俺らが学校でその話聞いてさ」


 翔太くんが言った。


「お前ら、そんな怖がってたのかよって」

「私も、見てみたかったんだよね。2人とも、絶対そんな大したことないって言うから」


 加藤さんが続けた。

 私は、勝也と春樹くんを見た。


「それで、また遊んだの?」

「冬休みに入ってから、5人でね」


 井上さんが答えた。

 勝也は、ため息をつくように笑った。


「俺、心の中では、もう2度とやらないって決めてたんだけど」

「俺も」


 春樹くんがすぐに言った。


「そうだったの?」

「うん。でも、怖くないんだったらできるじゃんって」


 勝也が翔太くんを見ると、翔太くんは楽しそうに頷いた。


「言った」

「認めるんだ」

「あの時は、見るだけなら余裕だと思ってたんだよ」


 その言い方が気になり、私は聞いた。


「見るだけでも、怖かったの?」


 翔太くんは、少し目をそらした。

 横から春樹くんが答えた。


「怖かったみたいだね」

「お前も同じだろ」

「俺は、最初から同じだったよ。翔太は俺たちを笑いに来たんでしょ」


 加藤さんが、分かる、と頷きかけてから、あ、と口を押さえた。

 井上さんがそちらを見た。


「真弓もね」

「うん。私もだった」


 加藤さんは、隠さずに笑った。

 私はその顔を見て、つられて笑った。


「加藤さんも、怖かったの?」

「怖かった。始める前は、そんなに騒ぐほどじゃないでしょって思ってたんだけど」

「始まったら?」

「次、何か出るんじゃないかって。何もないところでも、ずっと気になっちゃって」


 その説明は、聞いていて分かる気がした。

 私も、何か出ると聞かされたら、そこまでの道も落ち着いて見られないと思った。


「……私も、たぶん無理」

「富田さん、勝也君に任せても、たぶん一緒に怖がるよ」


 加藤さんが言った。

 勝也が、今の俺を見てから言って、と返した。


「この前、肝試しは平気って言ってたよね」


 私が聞くと、勝也はこちらを向いた。


「うん。今の話、昔のだから」

「そっか」


 頷いたのに、つい笑ってしまった。

 勝也まで苦笑いしたので、それ以上は聞かなかった。


「結局、綾香以外、皆びびってたんだよ」


 春樹くんが言った。

 翔太くんと加藤さんも、今度は反論しなかった。


「5人もいれば平気かと思ったのにね」

「怖い人が増えただけだった」


 加藤さんの返事に、井上さんが頷いた。


「誰かが声を出すと、ほかの人もびっくりするんだもん」

「綾香だけ、普通に次のところ教えてくるんだよ」


 勝也が言った。


「そこ開けてって。俺ら、開ける前から嫌なのに」

「開けないと進まないからね」


 井上さんは、当然のことのように答えた。

 勝也が私へ顔を向けたので、どう返したらいいのか分からず、笑ってしまった。


 私が笑っている間も、話は続いていた。

 誰が最初に声を上げたとか、画面を見るのをやめていたとか、皆が自分のことを言われるたびに、ほかの人の話を付け足した。

 井上さんだけは、最初から最後まで、笑ってそれを聞いていたらしかった。


「帰る時間になったら、外が真っ暗だったんだよ」


 翔太くんが言った。


「冬休みだったから。6時でも、もう暗くて」

「その時、俺ら、初めて家が隣でよかったって思ったよね」

「初めてではないけど、すごくよかったとは思った」


 勝也に春樹くんが返した。

 私は、加藤さんと翔太くんの方を見た。


「2人は、そこから帰らないといけなかったんだ」

「そう」


 加藤さんが頷いた。


「家までついてきてって、頼んだ」

「私、2人とも急に帰る用意が遅くなったの、覚えてる」


 井上さんが言った。

 翔太くんは、暗いの見たら急に嫌になったんだよ、と答えた。


「帰り道、変なこと思い出しそうじゃん」

「誰が一緒に行ったの?」


 私が聞くと、勝也が、俺と春樹、と答えた。


「2人とも?」

「うん。まず真弓の家まで、4人で行って」

「送ってもらった。あの時は、本当に助かったよ」


 加藤さんが言った。

 勝也は、あそこまではよかったんだよね、と春樹くんを見た。


「そのあと、翔太の家へ行く時」


 春樹くんが言った途端、翔太くんが笑い始めた。

 まだ何も聞いていないのに、勝也まで下を向いて笑っていた。


「何があったの?」


 聞くと、翔太くんは少し息を整えた。


「途中の家でさ。外に、でっかい犬飼ってたんだよ」


 その言葉だけで、何となく続きを想像してしまった。

 さっき、窓から犬が入ってくる話を聞いたばかりだった。


「……吠えた?」

「吠えた」


 3人の返事が重なった。

 加藤さんも笑い、井上さんは口元を手で隠した。


「もともと、よく吠える犬だったんだけど。あの時は、本当に無理だった」


 勝也が言った。

 家の前を通った時、庭の方から急に大きな声がした。気性の荒い大型犬で、普段でもびっくりするのに、あのゲームをしたあとだった。


「俺、気づいたら走ってた」

「俺も。勝也の横にいたはずなのに、もう前へ行ってるんだもん」


 春樹くんが言った。


「皆、叫んだの?」


 聞くと、翔太くんが首を振った。


「いや。誰も、何も言ってない」

「……何も?」

「声、出なかったんだよ。本当に」


 勝也が頷いた。

 怖いとか、走れとか、そんなことも言わず、3人で一斉に走り出したのだという。


「あの時、翔太、めちゃくちゃ速くて」

「自分の家だし。そこまで行けばって思ったら、もう」

「俺たちも、同じだったよ。翔太の家しか見てなかった」


 春樹くんまで真剣に頷いたので、私は、とうとう声を出して笑ってしまった。

 ゲームでは悲鳴を上げていた3人が、そこでは何も言えずに走った。普段なら何か言いそうな翔太くんまで、無言だった。


「そのまま、翔太くんの家に?」

「うん。3人とも、全力で」


 勝也が答えた。

 私は笑いながら、後ろの2人を見た。


「そんなに、怖かったんだ」

「怖かったよ。だから、家の中入ったら、急におかしくなって」


 翔太くんは、自分でも思い出したように笑った。

 勝也と春樹くんも、また顔を見合わせた。


「息、切れてるのに、誰かが笑い始めるから」

「過去一速かった気がするって、翔太が言ったんだよ」

「だって、本当にそう思ったんだって」

「俺も、あれより速く走ったこと、ないかもしれない」


 勝也が言った。

 春樹くんは、俺も、と答えた。


「誰も何も言わなかったよなって、あとから話して」

「あんなに静かに3人で走ること、ないからさ」

「足音と息だけだったもんね」


 3人の話を聞いていると、私も笑いが止まらなくなった。

 隣で勝也が、息を整えながら笑っていた。春樹くんも、いつもの落ち着いた顔に戻ろうとしては、また口元を緩めていた。


「それで……勝也と春樹くんは、どうやって帰ったの?」


 ようやく聞くと、2人はすぐに答えた。


「遠回り」


 また同時だった。

 加藤さんが声を漏らして笑い、井上さんも、そこは相談いらなかったんだ、と言った。


「あの道はやめようって言ったら、すぐ決まったよ」

「もう1回あそこ通るのは、ちょっとね」


 春樹くんの返事を聞き、私は頷きながら笑った。

 帰り道まで想像していたら、いつの間にか、次に何を聞こうかと考えていた。


「井上さんは、その時、もう家にいたの?」

「うん。送っていく時には、私も自分の家へ戻ったから」

「じゃあ、4人とも怖がってるの、最初から最後まで見てたんだね」

「ゲームしてる間はね。皆、平気って言うところから」


 井上さんは、隣の加藤さんを見た。

 加藤さんも笑っていた。


「もう、私は平気って言わない。あれで分かったから」

「勝也は、まだ言ってるね」


 口にしてから、隣を見た。

 勝也は少し目を丸くして、それから笑った。


「優子まで、そこ覚えちゃった」

「だって、さっきも言ってたから」

「うん。言ったね」


 素直に認められて、私も笑った。

 加藤さんが、昔の話だって言ってたもんね、と続けると、勝也は、そこは大事だから、と頷いた。


 その返事に、皆が笑っていた。

 私も同じところで笑って、顔を上げたまま、次の言葉を待っていた。


 春樹くんも、翔太くんも、加藤さんも、井上さんも、私が知らなかったことをたくさん知っていた。

 それを聞いても、遠くへ置いていかれた気持ちにはならなかった。分からないところを聞けば、話を戻して教えてくれた。私の知っている勝也の話も、続きを聞いてくれた。


 学校では、返事をする前に勝也を見てしまうことが多かった。

 今は、聞きたいことがあると、その人へ顔が向いていた。

 それに気づいた時には、もう次の質問をしていた。


「春樹くん、勝也とゲームする時、今も隣に座ってるの?」

「うん。遊ぶ時は。でも、怖いやつじゃないよ」

「そこ、先に言うんだ」


 私が笑うと、春樹くんも、そこは先に言っておく、と笑った。


 笑いが少し落ち着いたところで、加藤さんがこちらへ顔を向けた。


「ねえ、富田さん」

「うん?」

「これから、優子って呼んでもいい?」


 返事をする前に、加藤さんの顔を見た。

 さっきまで一緒に笑っていた顔のまま、私を見ていた。


「私も、そう呼びたいな」


 隣で、井上さんも言った。

 後ろから翔太くんが顔を向けた。


「じゃあ、俺も。いい?」

「俺も、優子って呼んでいいかな」


 春樹くんまで聞いてくれた。

 皆の顔を順番に見た。勝也以外の人から、名前で呼びたいと言われるのは、まだ少し不思議だった。


「……うん。いいよ」


 頷いてから、もう少しだけ声を出した。


「皆、そう呼んで」

「じゃあ、優子」


 加藤さんが、すぐに呼んだ。


「……うん」


 返事をすると、加藤さんが笑った。

 私も、何だか照れくさくなって笑ってしまった。


「まだ、ちょっと慣れない?」


 井上さんに聞かれ、頷いた。


「うん。でも……嬉しい」


 声にしたら、余計に頬が熱くなった。

 勝也の手を少し強く握ると、隣で握り返してくれた。


「優子って、呼びやすいよな」


 翔太くんが言った。

 春樹くんが、いつもの声で返した。


「呼びやすくても、そんなに大声で呼ばなくていいからね」

「今、そんなでかくなかっただろ」

「うん。今はね」


 また2人の言い合いになって、私も笑った。

 急に注目され続けることもなく、話はそのまま続いていった。

 でも、皆の口から出る私の名前は、さっきまでと違っていた。


    * * 勝也視点 * *


 優子が後ろへ少し顔を向けたまま、春樹の話を聞いていた。

 俺が口を挟まなくても、春樹へ質問して、返事を聞いて笑っていた。翔太が話し始めるとそちらを見て、真弓にも綾香にも、自分から言葉を返していた。


 少し前まで、皆に声をかけられると、先に俺の方を見ていた。

 今はつないだ手をそのままに、会話の方へ夢中になっている。

 その顔を見ているのが、嬉しかった。


「何?」


 優子が気づいて、こちらを見た。


「ううん。楽しそうだなって」


 答えると、優子は少し照れたように笑った。


「うん。知らない話、いっぱい聞けたから」

「俺の、ちょっと格好悪い話ばっかりだったけどね」

「釣りは、翔太くんを助けようとしたんでしょう?」


 言われて、俺は優子を見た。

 優子はまだ笑っていたけれど、からかっている声ではなかった。


「うん。助けるつもりだった」

「一緒に落ちちゃったけど」

「そう。それが、問題なんだよね」


 後ろで春樹が、俺もついていったしね、と言った。

 優子がもう1度振り向き、今度は、ついていったんじゃなくて、引っ張られたんでしょう、と返した。

 春樹も、それはそう、と笑った。


 窓の外では、建物の間に緑の見えるところが増えていた。

 皆が話をしているうちに、随分進んでいたらしい。


 前の方から、もう少しで着くという案内が聞こえた。

 優子は顔を前へ戻して、膝の鞄を持ち直した。足元の弁当の袋が少し動いたので、俺も傾きを直した。


「まだ、開けてない?」


 優子が小声で聞いた。


「開けてないよ。ちゃんと我慢してる」

「お話してたから、忘れてた?」

「忘れてはないよ。ずっと楽しみにしてる」


 優子が嬉しそうに笑った。

 鞄へ置いた指の力が抜け、外の景色を見るために少し顔を上げた。


 バスへ乗った時より、よく笑っていた。

 そのことを皆の前で言うのはやめて、つないだ手を軽く握り直した。

 優子もこちらを見て、握り返してくれた。


     * * *


 バスを降りると、学校にいた時より空気がひんやりしていた。

 建物の向こうに木が続き、風が通るたびに、葉が擦れる音がした。


 優子が俺の隣へ来て、辺りを見回した。

 別のバスからも人が降りてきて、あちこちから声が重なった。さっきまで春樹たちと笑っていた優子の手が、俺の袖へ戻ってきた。

 荷物を受け取る人たちの間で、俺は先に立ち止まり、優子が日傘を開くのを待った。


「寒くない?」

「……今は、平気」


 そう答えながら、優子は上着の袖を少し引いた。

 俺も自分の袖を下ろした。


 翔太が俺たちの方へ戻ってきた。


「こっちだって。皆、そろってから動くって」


 優子も翔太の指した方を見て、小さく、ありがとう、と返した。

 その先には、春樹たちも待っていた。

 6人で集まり、先生の後へ続いた。


 入所式では、施設の人の話を聞いた。

 挨拶をして、建物の使い方や、外で活動する時の約束を確かめる。いつもの体育館とは違う匂いがして、椅子を動かす音も、少し違って聞こえた。


 優子は隣でしおりを開き、話に合わせてページを見ていた。

 大勢の声が一度に重なった時には肩を寄せてきたけれど、俺の顔を見ると、また前へ向き直った。


 式が終わり、部屋へ荷物を運ぶことになった。

 ほかの班がそれぞれの部屋へ向かう中、花沢先生が俺たち6人を呼んだ。


「こちらの班は、先生と一緒に来てください」


 優子が、すぐに俺を見た。

 頷いて荷物を持つと、優子も鞄の持ち手を握った。


 廊下を進む途中で、春樹が優子の歩く方へ少し寄った。


「そっち、重かったら持つよ」


 優子は鞄を持ち直し、春樹へ顔を向けた。


「ありがとう。まだ持てるよ」

「うん。疲れたら言ってね」


 優子が頷くと、春樹は少し先へ戻った。

 俺に返事を確かめることなく、2人で話していた。優子はそのまま、自分の荷物を持って歩き出した。


 ほかの生徒の声が少し遠くなったところで、先生が立ち止まった。


「この部屋です」


 戸を開けると、畳の部屋が見えた。

 俺たち6人が入口へ並んでも、その向こうにまだ広い空きがあった。


「広っ」


 翔太が最初に声を出した。

 靴を脱いで上がるなり、部屋の中を見回した。


「ここ、全部?」

「そう。6人で使います」

「すげえ。俺、ここで寝たい」

「まだ荷物置く場所も決めてないでしょ」


 真弓に言われ、翔太は畳を指していた手を引っ込めた。


 俺は入口から少し入ったところへ自分の鞄を置いた。

 優子もその隣へ、ゆっくり荷物を下ろした。


「ここでいい?」


 聞くと、優子が頷いた。

 2つの鞄の間を少し詰め、持ち手を同じ方へ向けた。


 花沢先生は、全員が荷物を置くのを待ってから、戸の方を示した。


「先に、向かいも確認しましょうか」


 廊下へ出ると、すぐ目の前に、広いトイレと浴室の入口があった。

 先生はそれぞれの戸を示し、使う時のことを短く説明してくれた。浴室の中も見せてもらうと、シャワーが3つ並び、その先に広い湯船が見えた。


「本当に、目の前なんだね」


 綾香が言った。

 真弓も、自分たちの部屋の戸を振り返った。


「うん。すぐ戻れるね」


 優子は部屋と、向かいの入口を順番に見ていた。

 俺の袖に指を添え、先生へ顔を上げた。


「……ここを、使っていいんですか」

「うん。お話ししていた場所は、ここです。分からないことは、その時に聞いてね」


 優子が小さく頷いた。

 先生は皆にも、利用する時間や、声をかける時のことを確かめた。

 俺たちの前で優子の事情を最初から説明し直すことはなく、部屋へ戻って、これからの予定へ話を移した。


「お昼は食堂です。持ってきたお弁当を忘れないようにしてください。そのあと、午後の活動の説明があります」


 翔太が、はい、と答えた。


「部屋を出る時は、6人で。鳥居くん、人数を確かめてね」

「はい」


 今度は、しおりもちゃんとした向きで持っていた。

 先生が出ていくと、翔太は部屋の真ん中へ座った。


「いいな、ここ」

「荷物、まだ入口にあるよ」


 春樹に言われ、また立ち上がった。

 その様子を見て、優子が小さく笑った。


 俺は弁当の袋を、倒れないところへ置いた。

 優子が隣へしゃがみ、袋の上から少し手を添えた。


「もうすぐ食べられるね」


 小声で言うと、優子は、うん、と頷いた。


     * * *


 荷物を置き終えた頃、戸の外から声がした。


「翔太、お前ら、ここ?」


 同じクラスの男子が、2人、入口へ顔を出した。

 翔太が、おう、と返すと、2人とも中を見回した。


「何ここ。広くね?」

「いいだろ」

「お前の部屋じゃないでしょ」


 すぐに真弓が言い、春樹が笑った。

 男子の1人は、部屋の奥にいる綾香たちへ目を向けたあと、翔太へ顔を戻した。


「ほんとに女子と一緒なんだ。お前ら、変なことしてねえだろうな」

「まだ荷物置いただけだわ!」


 翔太の声が大きくなった。

 もう1人も笑い、戸のところへ肘を置きかけた。


「春樹も一緒なんだろ?」

「うん。翔太の荷物が入口塞いでたから、どかしてた」

「それしかしてねえの?」

「来て、まだ何分もたってないからね」


 春樹が普通に答えたので、2人はまた笑った。

 真弓が、入口を空けて、と手を振った。


「ご飯に行くんだから。自分たちの班は?」

「もう集まるところ」

「じゃあ、ここで引っかかってないで戻りなよ」


 翔太が、あとでな、と言った。

 2人は廊下へ下がり、別の班の声がする方へ戻っていった。


 俺の袖を持つ指が、少し強くなっていた。

 優子を見ると、入口の方へ目を向けたままだった。


「今の2人、翔太とよく話してる子だよ」


 小さく言うと、優子がこちらを見た。


「……うん」

「びっくりした?」


 少しだけ頷いた。

 俺も、急に来たもんね、と返した。


 真弓が、出ていった2人の方を見てから、翔太へ顔を向けた。


「部屋が広いからって、友達呼び込まないでね」

「呼んでねえって。向こうから来たんだよ」

「じゃあ、さっきの『いいだろ』は何だったの」

「……広いの、よかったから」


 少し小さくなった返事に、綾香が笑った。

 優子も、その声に顔を上げた。


「お弁当、持っていこうか」


 俺が袋を取ると、優子は隣へ立った。

 翔太が、また指を折り始めたので、春樹が全員ここにいるよと言い、それでも翔太は最後まで数えた。


「6人。よし。行こう」


 優子は俺の袖から手を離し、その手へ指を重ねた。

 握り返してから、俺たちも廊下へ出た。


     * * *


 食堂には、長いテーブルが並んでいた。

 先生に教わった席へ6人で座ると、あちこちで弁当を出す音がし始めた。


 俺は優子の隣へ座り、2人の間へ保冷バッグを置いた。

 優子が持ち手に触れたので、先に開けてもらった。


「もう、いい?」


 聞くと、優子が俺を見て、少し笑った。


「……うん」


 最初に出てきたのは、優子の分だった。

 その次に、ひと回り大きい容器が、俺の前へ置かれた。


「ありがとう」


 受け取って、箸を出した。

 ふたへ手をかけたところで、隣から、もう1つ容器が出てきた。


 優子はそれを、俺の弁当の隣へ置いた。


「……これも」

「え?」


 容器を見てから、優子を見た。

 優子は少し目を伏せた。


「……勝也の」


 手元へ目を戻した。

 俺の前には、ふたのついた容器が2つ並んでいた。


「両方?」

「……うん」


 向かいで、自分の弁当を出していた翔太の手が止まった。


「勝也、2個あんの?」

「うん。今、知った」

「今?」


 翔太が、俺と優子を見比べた。

 俺は最初の容器へ手を戻した。


 ふたを開けると、ご飯の隣に、卵焼きと照り焼きが並んでいた。

 切った卵焼きの黄色と、たれの色がついた鶏肉。隙間には、別のおかずもきれいに入っていた。


「うわ。おいしそう」


 思わず言うと、優子が少し顔を上げた。

 俺はもう1つの容器も開けた。


 中には、サンドイッチがぎっしり詰まっていた。

 黄色い具の入ったものと、レタスが見えるもの。どちらも少しずつではなく、容器の端までしっかり並んでいた。


 2つの弁当を見ていると、朝、袋を持った時の重さを思い出した。


「これで、2人分って言ってたんだ」


 優子が、少し困ったように笑った。


「……人数は、2人だから」


 その言い方で、俺も笑ってしまった。


「うん。そうだね。間違ってない」


 真弓も、こちらを見た。


「待って。そのサンドイッチ、全部、勝也の分?」

「そうみたい」

「私、そっちだけで足りるけど」


 綾香が覗き込み、私も、と頷いた。

 優子は自分の弁当へ目を落としかけてから、小さく言った。


「……私も、これだけなら、お腹いっぱいになると思う」


 翔太が、俺の前の2つを見た。


「何で弁当に、もう1個弁当ついてんの」

「それ、俺も今、同じこと考えてた」


 春樹が笑った。

 優子の頬が少し赤くなったので、俺は先に顔を向けた。


「お母さんと、これも作ってくれたの?」

「……うん。1つだと、足りないかもしれないって思って」

「ありがとう。すごく嬉しい」


 優子が俺を見た。


「……多すぎない?」

「食べたい。両方」


 そう答えると、優子の目が少し丸くなった。

 俺はサンドイッチの方を指した。


「たまごと、こっちはツナ?」

「……うん。ツナマヨと、レタス」

「好きなやつだ」


 優子が、ようやく少し笑った。


 翔太はまだ、2つの容器を見ていた。


「これ、優子が作ったの?」


 優子は、箸の袋へ触れていた手を止めた。


「……お母さんに、教えてもらいながら」

「すげえな。俺、弁当作ったことねえ」


 翔太は感心した顔で言った。自分の弁当へ目を戻しかけて、また俺の前の2つを見た。


「しかも、こんなにいっぱい。勝也、いいなあ」

「うん。いいでしょ」


 俺が答えると、翔太は、否定もしねえ、と笑った。

 春樹が、勝也が朝から大事そうに持ってたわけだ、と笑った。


「中身、知らなかったよ」

「知らなくても、大事そうだったよ」


 そうだったかなと思ったけれど、こぼしたくなかったのは確かだった。

 俺は箸を出し、優子の方も準備ができたのを見て、手を合わせた。


「いただきます」


 箸を伸ばそうとすると、優子が俺の弁当の端を指した。


「……勝也。卵焼きと、お肉、先に食べてみてほしい」

「うん。ここに入ってるやつだね」


 優子が頷いた。

 最初に、卵焼きを取った。口へ入れると、前に優子の家で食べた時の味を思い出した。


「あ。これ、この前の」


 優子が、すぐにこちらを見た。


「……同じ味?」

「うん。これ、好き」


 もうひと口食べてから言うと、優子の肩が少し下がった。

 俺の箸を見ていたことに、その時、気づいた。


「卵焼きも、優子が?」

「……うん。巻くの、また教えてもらった」

「おいしいよ」


 優子が小さく頷いた。

 自分の弁当の中へ目を落とし、ようやく箸を持ち上げる。


 照り焼きは、ご飯と一緒に食べた。

 たれがよく絡んでいて、ご飯をもうひと口食べたくなる味だった。弁当のご飯は普段より多かったけれど、これなら足りなくなる方を心配したくなった。


「お肉も、いいね」

「……お母さんと、一緒に焼いたの」

「うん。ご飯、進む」


 優子が、少し嬉しそうに顔を上げた。


「……味見した時、私もそう思った」


 隣で、同じものを食べている優子を見た。

 早く起きて、これを作ってくれたのだと思うと、いつもより、次のひと口が楽しみだった。


 サンドイッチにも手を伸ばした。

 たまごの方を取ると、具が端まで入っていた。噛む時にはみ出さないように持ち直し、ひと口食べた。


「こっちも、おいしい」


 言ってから、優子の方を見た。

 また同じ言葉になってしまったけれど、ほかの言い方を考える前に出てきた。


「俺、さっきから、おいしいしか言ってないね」


 優子は首を振った。


「……嬉しいよ」


 小さな声だった。

 俺も頷いて、残りを口へ運んだ。


    * * 優子視点 * *


 勝也が、もう1つサンドイッチを取った。

 今度は、ツナマヨとレタスの方だった。


 朝、お母さんと並べた切り口が、勝也の手の中にあった。

 少し斜めになってしまったものも、そのまま食べてくれる。


「こっち、レタス入ってるのもいいね」


 勝也が言った。

 頷くと、またひと口食べた。


 おいしいと言ってもらえた。

 それだけでも嬉しかったのに、勝也は食べるたびに、何かしら話してくれた。

 卵焼きがこの前と同じ味だったこと。お肉でご飯が進むこと。サンドイッチも、2種類とも好きなこと。


 1つずつ聞いていると、朝、うまく巻けるか心配していたことまで、嬉しい思い出に変わっていくようだった。


「……勝也」

「うん?」

「卵焼き、この前の紙、見て作ったの」

「あの、書いてたやつ?」

「……うん。同じにしたくて」


 勝也が、箸を止めて私を見た。


「覚えててくれたんだ」


 頷いた。

 おいしいと言ってもらったことを、忘れられるわけがなかった。


 勝也は弁当へ目を戻し、少し笑った。


「今日のも、また食べたい」


 返事をしようとしたのに、すぐに声が出なかった。

 食堂には、ほかの班の話し声や、椅子を動かす音が響いていた。それでも、今の言葉だけは、はっきり聞こえた。


「……うん。また、作るね」


 勝也が頷いた。

 それを見てから、自分の卵焼きを食べた。


 少し膨らんだ端のところだった。

 形は揃っていなかったけれど、同じ味がした。


 向かいで、翔太くんがもう1度、勝也の弁当を見た。


「やっぱ、それ、めちゃくちゃうまそう」

「翔太、さっきからずっと見てるね」


 春樹くんが言うと、翔太くんは隠さず頷いた。


「だって、量もあるし。肉も、サンドイッチも。勝也、うらやましいわ」


 勝也が少し嬉しそうに笑った。

 私は、その横顔を見てから、翔太くんへ顔を向けた。


「……少し、食べる?」

「いいの?」


 すぐに返事が来た。

 頷きかけてから、勝也を見た。


「勝也も、いい? 皆に、少しずつ」

「うん。俺も、食べてみてほしい」


 勝也は、卵焼きと照り焼きの入っていたところを見た。


「先にって言ってたの、ちゃんと食べたしね」


 小さな声だった。

 私が頷くと、勝也はサンドイッチの容器を、皆から見える方へ少し動かした。


「たまごと、ツナマヨ。どっちがいい?」

「両方」

「どっちって聞いたんだけど」


 勝也が笑った。

 翔太くんも笑いながら、自分の弁当をこちらへ向けた。


「じゃあ、俺のも食べて。唐揚げ、いっぱい入ってるから」


 ふたを開けた時には、自分たちの弁当ばかり見ていた。

 改めて見ると、翔太くんの弁当にも大きな唐揚げがいくつも入っていて、隣にはソーセージが並んでいた。


「あ、それ、おいしそう」


 勝也が言った。


「だろ。交換しようぜ」

「うん」

「優子も、どれか食べる?」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。

 翔太くんが、私にも弁当の中を見せてくれていた。


「……じゃあ、唐揚げ、1つもらってもいい?」

「おう」


 取ってもらった唐揚げを、自分の弁当の空いたところへ置いた。

 代わりに、まだ手をつけていない照り焼きを1切れ渡した。勝也も自分の分からサンドイッチを取り分けた。


「うまっ」


 翔太くんが、照り焼きを食べてすぐに言った。


「これ、すげえご飯に合う」

「うん。分かる」


 勝也が頷いた。

 同じようにご飯を食べたので、私は2人を見て笑ってしまった。


「優子、私も、その卵焼き食べてみたい」


 加藤さんが言った。


「私の、肉巻きなんだけど。これと交換しない?」


 見せてくれた弁当には、切り口から野菜の見える肉巻きが入っていた。

 隣の井上さんの弁当には、小さなハンバーグが並んでいた。


「それも、おいしそう」


 私が言うと、井上さんは箸を止めた。


「ハンバーグ? 食べる?」

「いいの?」

「うん。私も、優子のサンドイッチ食べたいから」


 勝也が、どうぞ、と容器を寄せた。

 加藤さんも、じゃあ私も、と言いかけてから、自分の弁当を見た。


「待って。交換したら、私のお弁当も減るんだよね」

「そりゃ、渡すからね」


 春樹くんが答えた。


「うん。それなら、いろいろ食べられる」


 加藤さんが真剣な顔で言ったので、勝也が笑った。


「さっき、サンドイッチだけでお腹いっぱいになるって言ってたもんね」

「そう。でも、ちょっとずつ食べてみたいじゃない」

「分かる」


 春樹くんも弁当を近づけた。


「優子、俺も卵焼きもらっていい? 俺のは、こっち。いんげんの胡麻和えとか」

「うん。私、それ、好き」

「じゃあ、それにしようか」


 春樹くんの弁当には、焼いた鮭も入っていた。

 勝也がそちらを見ると、春樹くんはすぐに気づき、そっちも分けるよ、と笑った。


「俺、まだ何も言ってないけど」

「見てたから」

「……じゃあ、少し。ありがとう」


 勝也の照り焼きと、春樹くんの鮭も交換になった。

 その隣では、翔太くんが井上さんのハンバーグを見ていた。


「綾香、俺にもそれ、1個」

「じゃあ、そっちの唐揚げね」

「おう」

「真弓の肉巻きも、食べてみたいな」

「いいよ。綾香のハンバーグと交換しよ」


 1つ渡すと、別のおかずが戻ってきた。

 皆がそれぞれ容器を寄せ、食べていないところから取り分けてくれた。空いたところが、さっきとは違う色で埋まっていった。


 私の弁当にも、唐揚げと、肉巻きと、小さなハンバーグが載った。

 隙間に入れてもらった胡麻和えを食べると、甘い胡麻の味がした。


「おいしい」


 顔を上げて春樹くんを見ると、春樹くんは、よかった、と笑った。


「俺も。優子の卵焼き、こういう味、好きだな」

「うん。少し甘いの、いいね」


 加藤さんも頷いた。

 2人の持つ箸を見て、また少し顔が熱くなった。


「……お母さんの作り方なの。私、まだ教えてもらいながらで」

「優子のお母さん、料理うまいんだな」


 翔太くんが言った。

 勝也は、すぐに頷いた。


「すごくおいしいよ。優子の家で食べるご飯」

「だろうな。これ、弁当だけでも分かる」

「優子が作ったのも、おいしいよ」


 勝也が、私へ顔を向けた。

 皆に褒めてもらって嬉しかったのに、勝也からもう1度言われると、返事が小さくなってしまった。


「……ありがとう」


 井上さんが、サンドイッチをひと口食べた。


「こっちもおいしい。具、端まで入ってる」

「たまごの方も、いっぱいだぞ」


 翔太くんが答えた。

 結局、翔太くんは2種類とも交換していた。

 加藤さんも、次はツナの方、と言って、勝也へ肉巻きを渡した。


 朝、詰めた時には、勝也に足りるかばかり考えていた。

 その弁当を、今は皆が覗き込んでいた。どっちにしようかと選んで、食べて、おいしいと言ってくれる。

 自分も箸を持ったまま、何度も皆の顔を見てしまった。


「……いっぱい作って、よかった」


 隣へ小さく言うと、勝也が笑った。


「うん。皆で食べられたね」

「勝也の分、減っちゃったけど」

「その分、こっちも増えてるよ」


 勝也が自分の弁当を見せた。

 照り焼きの隣に唐揚げが入り、鮭と肉巻きまで並んでいた。サンドイッチを渡したはずなのに、最初よりもおかずの種類が増えていた。


「何か、すごい弁当になった」


 嬉しそうだったので、私も笑った。

 勝也に最初に食べてほしかったものは、ちゃんと食べてもらえた。その感想を聞いたあとで、皆の声も聞けた。

 お母さんに話したいことが、また増えていった。


 周りのテーブルでは、それぞれ持ってきた弁当を食べていた。

 私たちのところだけ、あれも、こっちも、と容器を見せ合っていた。加藤さんが翔太くんへ、もらってばかりじゃなくて自分の分も出してね、と言い、翔太くんは、ちゃんと出してるって、と唐揚げを指した。


「さっきまで、あんなに入ってたんだから」

「その代わり、そっちの中身、増えてるよ」


 春樹くんに言われて自分の弁当を見た翔太くんが、本当だ、と笑った。

 私も笑いながら、もらった肉巻きを口へ運んだ。


 向かいで、翔太くんが自分の弁当を覗いた。


「勝也、まだそっちあるんだろ」

「うん」

「俺より食ってんのに、終わるの早くね?」


 顔を上げた。

 勝也のご飯とおかずの容器は、もう半分以上空いていた。サンドイッチの方にも、さっきまでなかった隙間ができている。


 私のご飯は、まだそれほど減っていなかった。


「……もう、そんなに?」


 思わず言うと、勝也が自分の弁当を見た。


「ああ。うん」

「勝也君、普段からこれくらい食べるの?」


 井上さんが聞いた。

 勝也は少し考えてから、首を傾げた。


「弁当2つは、いつもじゃないよ。でも、お腹空いてたから」

「朝ご飯は?」

「食べたよ」


 すぐに返事をしたので、加藤さんが笑った。


「食べて、それなんだ」

「朝から、結構動いたじゃん」

「バス、座ってたけど」


 春樹くんが言い、翔太くんも、そうだぞ、と頷いた。

 勝也が、朝、家から来たところは、と言い返すと、皆も同じでしょ、と加藤さんが返した。


 私も笑ってしまった。

 昨日、容器を見ながら心配した時には、こんなに早く減っていくところまでは想像していなかった。


「……少なくしなくて、よかった」


 口にすると、勝也がこちらを見た。


「減らそうとしてたの?」

「……多すぎるかなって、お母さんと話したの」

「減ってなくてよかった」


 真剣な声だったので、また笑ってしまった。


 勝也は、何か変なことを言ったかな、という顔をした。

 私が首を振ると、またサンドイッチを手に取った。


 春樹くんが、私の方へ少し顔を向けた。


「優子、ちゃんと分かってたんだね」


 すぐには、何のことか分からなかった。

 春樹くんが勝也の弁当を示したので、ようやく頷いた。


「土曜日、いっぱい食べてたから」

「ああ。あの日のお昼?」

「うん。焼きそば」


 春樹くんは、そうだったんだ、と笑った。

 勝也の家へ少しだけ顔を出した時、もう食べ終わっていたから、中身は知らなかったのだと思った。


「俺も、焼きそば食べたい」


 翔太くんが言った。

 春樹くんが、その手元を見た。


「今、お弁当食べてるよね」

「それは、それ」

「明日はカレーって、言ってなかった?」

「それも楽しみ」


 勝也も笑った。

 翔太くんは、笑われても困った様子はなく、自分のおかずを食べていた。


 私は、少しだけ顔を上げたまま、そのやり取りを見ていた。

 大きな声がすると、まだ肩へ力が入ることがあった。

 でも、今の翔太くんの声は、バスの中で話していた時と同じで、次に何を言うのか聞いていたくなった。


 その時、少し離れたところでシャッターの音がした。

 顔を向けると、カメラマンさんの1人が、私たちへ小さく手を上げた。もう1人は向こうの班で、先生と生徒が話しているところを撮っていた。


「皆、楽しそうに食べてたね。そのまま続けていていいよ」


 そう言って、次の班へ歩いていった。

 いつからいたのか、気づかなかった。

 勝也を見ると、少し笑っていた。


「お弁当、写真にも残ったね」

「……うん」


 お母さんにも見せられたらいいな、と思った。


     * * *


 勝也が最後のサンドイッチを食べ終えた時、私はまだ、ご飯を少し残していた。

 空になった2つの容器を見てから、勝也を見た。


「……全部、なくなった」

「うん。ごちそうさまでした」


 勝也が手を合わせた。

 それから、私へ顔を向けた。


「お母さんにも、おいしかったって伝えたいね」

「……うん」

「朝早くから、ありがとう。優子も」


 私は箸を持ったまま、少し頷いた。

 返事が小さくなってしまったけれど、勝也には聞こえたようだった。


 空の容器を、もう1度見た。

 お母さんに、何から話そうかと思った。

 2つ並べた時にびっくりしたこと。卵焼きを食べて、前と同じ味だと気づいてくれたこと。また食べたいと言ってくれたこと。

 皆とおかずを交換して、お母さんと作ったサンドイッチまで人気だったこと。


 話したいことが、もうたくさんあった。


「優子は、ゆっくりでいいよ」


 勝也が言った。

 慌てて口へ運ぼうとしていた箸を、少し戻した。


「……待たせちゃう」

「まだ時間あるし。俺も、ちょっと休む」


 そう言って、勝也は背中の力を抜いた。

 向かいでも、春樹くんと井上さんがまだ食べていた。


「勝也の速さに合わせなくていいからね」


 加藤さんが笑って言った。

 私も頷き、残りを少しずつ食べた。


 皆にもらったおかずを、今度はご飯と一緒に食べた。

 感想を言い合うのが楽しくて、思っていたより何度も箸が止まっていたらしい。まだ残っていた肉巻きも、ゆっくり味わって食べた。


 最後の卵焼きを食べて、箸を置いた。

 私の容器も、空になった。


「……ごちそうさまでした」


 勝也が、こっちも一緒にしまおうか、と手を差し出した。

 ふたを閉め、食べ終わった容器をまとめる袋へ入れる。朝はずっしりしていた保冷バッグが、ずいぶん軽くなっていた。


「軽くなったね」


 勝也も同じことを言った。

 私は頷いた。


「……皆、いっぱい食べてくれたね」

「うん。俺、皆のおかずも食べちゃった」


 嬉しそうに言われて、私も笑った。

 また作りたいと思った。

 次に作る時も、勝也の分は、少し多めにしようと思った。


    * * 勝也視点 * *


 部屋へ弁当の袋を置きに戻ってから、午後の活動の準備をした。

 水筒としおりを確かめ、優子は日傘を持った。

 翔太が、もう全部持った、と言って入口へ向かったあと、春樹が畳の上のしおりを拾った。


「これは?」

「それも持つ」

「もう全部、とは」


 春樹から受け取り、翔太が鞄へ入れた。

 真弓が、今度こそいいね、と確認した。


 優子は、さっき置いた弁当の袋をもう1度見ていた。


「お弁当、朝、どれくらいかかった?」


 聞くと、優子がこちらを向いた。


「……お母さんが、ほかのもやってくれたから。私、卵焼きの時は、そっちしか見られなくて」

「俺も、2つ同時とか、あんまりできないよ」

「……焼きそば、すごく早かったのに」

「あれ、同じこと繰り返してるだけだからね」


 優子は少し考え、それでも、と笑った。


「……今日のは、練習したら、もっと早くできるかな」

「うん。俺、その練習、食べる方なら手伝いたい」


 優子が声を漏らして笑った。

 真弓が、その役なら失敗しないね、と言い、俺は大きく頷いた。


「そこは任せて」

「片づけもやってね」

「うん。それもやる」


 話しているうちに、翔太が入口から振り返った。


「行くぞ。午後も、食う話から始めんの?」

「翔太に言われるとは思わなかった」


 春樹が答え、皆で笑った。

 優子も笑いながら、俺の隣へ来た。


     * * *


 午後の活動の説明では、班ごとに地図と、スタンプを押してもらう台紙が配られた。

 翔太は班長として受け取ると、すぐに皆の見えるところへ広げた。


「よし。俺が地図見る」

「うん。今、先生が説明してるところも見て」


 真弓が地図の端を指した。

 翔太は、そうだった、と前へ向いた。


 地図には、回る場所と、通ってよい道が描かれていた。

 チェックポイントは3か所あった。それぞれに先生が待っていて、班の全員がそろったらスタンプを押してもらえる。全部回ったら、地図を見て宿舎へ戻る。

 時間までに全員で帰ってくること、勝手に別の道へ入らないことを、先生がもう1度説明した。


 優子は俺の隣から、翔太の持つ地図を見ていた。

 皆の手が重なって見えにくくなったので、翔太が少し下へ動かした。


「優子、見える?」

「……うん」

「ここからだって」


 翔太が指したところへ、優子も目を向けた。

 春樹が、自分の立っている向きを確かめてから地図を見直した。


「じゃあ、最初は、こっちだね」

「おう」


 翔太が元気よく頷いた。

 そのまま反対側へ足を向けかけたので、春樹が袖を掴んだ。


「俺、今、こっちって言ったよ」

「分かってる。向こうから回るのかなって思っただけ」

「最初から遠回りしようとしないで」


 真弓に言われ、翔太が皆の方へ戻った。

 隣で、優子が肩を小さく揺らした。


「……まだ、出発してないのに」


 俺にだけ聞こえるくらいの声だった。

 顔を寄せて、うん、と返した。


「先が楽しみだね」


 優子が頷いた。

 怖いという返事だけではなかったので、俺も少し嬉しくなった。


 順番が来て、6人で歩き始めた。

 建物のそばから続く道へ入ると、木の影が足元へかかった。日が当たるところと、葉の影になるところが交互に続いていた。


 優子は日傘を少し傾け、俺の腕にぶつからないように持ち直した。

 俺も歩く位置を合わせた。


「鞄、持とうか」


 聞くと、優子は肩のベルトへ触れた。


「……まだ、大丈夫」

「うん。疲れたら言ってね」


 優子は頷いた。

 前を歩いていた春樹が振り返り、道の端へ少し寄った。


「ここ、横に並ぶとちょっと狭いね」


 翔太も後ろを見た。

 その先でいったん道が広くなると、2人とも足を止め、俺たちが並ぶのを待った。


 待たれていることに気づき、優子の歩幅が急に大きくなった。


「急がなくていいよ」


 俺が言うと、優子がこちらを見た。

 翔太も、地図を持ち上げて言った。


「ちょうど、これ見てるところ。次、どこだっけ」

「まだ最初の場所にも着いてないよ」


 春樹が返した。

 優子が、少し息を吐いて笑った。


 道は、学校から見える景色とはずいぶん違っていた。

 車の音は遠く、ほかの班の声が木の向こうから聞こえると、急に近く感じた。

 優子はそのたびに顔を上げたけれど、俺たちの声がすると、また地図の方へ目を戻した。


 木の間を抜けると、少し開けたところが見えた。

 その端に、番号の書かれた札と、小さな机が置かれていた。


「……あそこ、先生がいる」


 優子が指した。

 机のそばに立っていた先生もこちらへ気づき、手を上げた。


「お。あそこか」


 翔太が地図の番号を確かめてから、皆を振り返った。


「最初のところ、合ってる」

「うん。ちゃんと着いたね」


 春樹が頷いた。

 俺たちが近づくと、先生は6人の顔を見回した。


「全員そろっていますね。スタンプの台紙を出してください」


 翔太が、手に持っていた地図を出しかけた。

 隣で真弓が、その下、と指した。


「地図に押してもらうの?」

「違うって。こっち出すところだったんだよ」


 重ねていた台紙を抜き、先生へ渡した。

 先生が最初の枠へスタンプを押すと、丸い印の中に番号がついた。


「はい。足元に気をつけて行ってくださいね」

「ありがとうございます」


 翔太が受け取り、皆へ見せた。


「1個目」


 優子も、俺の隣から覗き込んだ。

 翔太はその顔を見て、台紙を少し下げた。


「優子、これ持っててもらっていい? 俺、地図見るから」


 優子が、差し出された紙を見た。

 それから翔太へ顔を上げた。


「うん」

「じゃあ、頼む」


 優子は日傘を持っていない方の手で、台紙を受け取った。

 まだ空いている2つの枠を見て、最初の印へ目を戻した。


「次のところでも、これ出せばいいんだね」

「うん。3つそろったら、宿舎に戻るんだって」


 綾香が答えた。

 優子は頷き、折れないように鞄の外側のポケットへ入れた。


「じゃあ、地図とスタンプ、どっちもなくさないようにね」


 真弓に言われ、翔太は地図を持ち上げた。


「任せろ」

「優子の方は、安心してるよ」

「俺も安心してくれていいだろ」


 翔太が言い返したので、優子が笑った。

 俺も笑いながら、次の道へ向き直った。


     * * *


 次の場所へ向かう途中で、道が分かれた。

 翔太が地図を見ながら、右の方へ顔を向けた。


「こっちだな」


 春樹が、その隣から地図を覗いた。


「何で?」

「こっちっぽい」

「地図持ってる意味、なくなるから」


 真弓が横から言った。

 翔太は、じゃあ見て、と地図を広げた。


 俺たちも近づいて、道の線を確かめた。

 目印として描かれたものと、実際に見えるものを見比べる。春樹が地図の向きを変えると、翔太が、あ、と声を出した。


「そう持つのか」

「さっきから、こっちから歩いてきたでしょ」

「うん」

「じゃあ、今、ここ」


 春樹が指を置くと、翔太は道を見て、もう1度地図を見た。


「なるほど。俺が言った方じゃないな」

「そこまで分かればよかったよ」


 春樹が笑い、俺たちも正しい方へ向き直った。

 その時、優子が俺の腕へ少し触れた。


「……そっち、日傘、当たりそう」


 張り出していた枝を見て、俺は一歩、脇へ寄った。

 優子も道の広い方へ移り、傘を傾けた。


「持とうか。少し高いところで差せるよ」


 聞くと、優子は持ち手を見てから、俺へ渡した。


「……お願い」


 受け取って、優子の頭の上へ傘を戻した。

 自分が持つ高さだと、優子が枝を避けて腕を上げなくても、そのまま歩けた。


「これでいい?」

「……うん。ありがとう」


 優子が、空いた手を一度握って開いた。

 それから、俺の袖へそっと添えた。


 前にいた真弓が振り返り、傘を見た。


「勝也、鞄の方も重くない?」

「今は大丈夫。持ち替えたくなったら言う」

「うん」


 そのまま歩いていくと、翔太がまた後ろを見た。


「次は、あの札じゃね?」


 今度は、言った先に、番号のついた札が見えていた。

 春樹が地図を見直し、頷いた。


「合ってる」

「ほら!」

「そんなに嬉しいんだ」


 真弓が笑った。

 翔太は胸を張ったあと、段差の前で足元を見た。


「ここ、ちょっと高い」


 後ろへ知らせてから、自分もゆっくり上がった。

 優子は俺の腕を少し頼りにして、同じ段を越えた。


     * * *


 2つ目のチェックポイントでも、先生が待っていた。

 先に着いた班がスタンプを押してもらっていたので、俺たちは少し離れたところで待った。


 優子が鞄から台紙を出した。

 その時、向こうで笑い声が大きくなり、優子の指が俺の袖へ触れた。

 隣へ少し寄ると、優子もこちらを見た。


「次、俺たちだね」


 声をかけると、小さく頷いた。

 真弓も台紙を覗き込み、空いている枠を指した。


「優子、次はここだね」

「うん。こっち」


 優子の指も、同じ枠へ動いた。

 先の班が出発し、先生がこちらを呼んだ。


「はい、次の班。6人とも来ているかな」

「います」


 翔太が答え、俺たちを見回した。

 優子は俺の隣を歩いて、机の前へ出た。


「……お願いします」


 両手で台紙を差し出した。

 先生は受け取ると、2つ目の枠へスタンプを押してくれた。


「はい、どうぞ。あと1か所ですね」

「……ありがとうございます」


 優子が少し頭を下げて受け取った。

 俺が覗くと、さっきとは違う色の印が並んでいた。


「増えたね」

「うん」


 優子は紙の端を持ったまま、皆の方へ向けた。


「あと、ここだけ」

「よし。順調じゃん」


 翔太が頷いた。

 春樹が地図を見て、最後の場所を指した。


「次は、ここだね。帰り道につながってる」

「じゃあ、間違えなければ、もうそんなに遠くないね」


 真弓が言うと、翔太は、間違えないから、と地図を持ち直した。

 優子が台紙をしまいながら笑った。


     * * *


 歩いていると、上着の中が少し暖かくなってきた。

 最初はひんやりしていた風も、今は気持ちよかった。


 道が広くなったところで、真弓が水筒を出そうと言った。

 翔太も地図を畳み、近くの邪魔にならない場所へ寄った。


 俺は優子と並んで立ち止まり、日傘を持ったまま、優子が鞄を開けるのを待った。

 水筒を出すと、少しずつ飲んだ。


「疲れた?」


 小さく聞いた。

 優子はふたを閉めてから、少し考えるように俺を見た。


「……少し。でも、まだ歩ける」

「うん。ここでちょっと休もう」


 優子の鞄を受け取り、自分の足元へ置いた。

 肩が軽くなったのか、優子は腕を少し動かした。


 翔太が地図を見て、残りを数えていた。


「あと、これと、これか」

「そっちは、もう回ったところ」


 春樹が指した。

 翔太は、ああ、と頷いた。優子が鞄から台紙を出し、2つ並んだ印を見せた。


「あと1つだよ」


 翔太が、そっか、と台紙から地図へ目を戻した。


「じゃあ、こっちだけ?」

「うん。今のところ、時間も大丈夫」


 春樹が時計を見た。

 真弓も、優子へ顔を向けた。


「もう少し休んでからでいいよ。今、急いで出なくても間に合うから」


 優子が、小さく頷いた。


「……ありがとう」


 真弓は、うん、と答え、水筒へ口をつけた。

 優子だけが待ってもらっているようにはせず、皆もそのまま休んでいた。


 俺が自分の水筒を出そうとすると、春樹が日傘の方へ手を出した。


「持ってようか」

「あ、ありがとう」


 優子へ、ちょっと飲むね、と言ってから渡した。

 春樹は自分の頭の上へ持っていきかけて、すぐに優子の方へ戻した。


「あ、ごめん。こっちだね」


 優子が、少し笑った。


「……うん」

「勝也、これ、どのくらいの高さで持ってた?」

「もうちょっと下かな」

「この辺?」


 春樹が持ち直した。

 優子は、うん、と頷き、そのまま俺の隣にいた。


 水を飲んでから日傘を受け取ると、翔太がそのやり取りを見ていた。


「俺も持てるぞ」

「じゃあ、地図をちゃんと持ってて」


 真弓が言った。

 翔太は、自分の手にある紙を見下ろした。


「それは、持ってる」

「落とさずに、正しい向きでね」

「条件増やすなよ」


 優子が笑った。

 今度は、口元を隠す前に、小さな声が聞こえた。


 翔太がそちらを見たけれど、笑ったことを大きく取り上げることはなかった。

 地図を広げ、今は合ってる、と俺たちへ見せた。


 休憩を終える時、優子の鞄は俺が持った。

 自分の鞄は肩へ掛け、片方の手に優子の鞄、もう片方に日傘を持つ。優子が、少ししたらまた持つね、と言ったので、その時に替わろうと返した。

 歩き出すと、空いた優子の手が俺の袖へ添えられた。


     * * *


 休憩のあと、地図に描かれた案内板が見えてきた。

 翔太が立ち止まり、道の先と地図を見比べた。


「ここを曲がって、あっちだ」


 春樹も同じところを見て、頷いた。


「うん。今度は、合ってる」

「今度は、いらないだろ」


 言い返しながらも、翔太は少し嬉しそうだった。

 そのまま進むと、最後のチェックポイントの札が見えた。先生が机の横に立ち、こちらを見ていた。


「あった」


 優子が言った。

 俺も頷き、傘を傾けて先を見た。


「最後のところだね」


 翔太は先生の前へ行く前に、俺たちを見回した。


「6人。全員いる」


 真弓が頷いた。

 俺が優子の鞄を足元へ下ろすと、優子は外側のポケットから台紙を出した。先生へ差し出す隣で、俺は日傘を少し脇へよけた。


「……お願いします」

「ここまで、全部回ってきたんだね」


 先生が2つの印を確かめ、最後の枠へスタンプを押した。


「はい。あとは地図を見て、宿舎へ戻ってください」

「ありがとうございます」


 皆で礼を言い、道の端へ寄った。

 優子が受け取った台紙を、綾香と真弓も覗き込んだ。


「全部そろったね」


 綾香が言った。

 優子は3つの印を見て、頷いた。


「うん。全部、押してもらえた」


 台紙を覗き込んでいるところで、またシャッターが切られた。

 顔を上げると、チェックポイントの木陰にカメラマンさんがいた。


「そろったところ、もう1枚いいかな。皆でこっちを見て」


 翔太が地図を少し下げ、春樹もこちらへ寄った。

 優子が台紙を持ったまま顔を上げるのを待って、俺もレンズを見た。今度は翔太のピースも間に合った。

 撮り終えると、皆で礼を言った。


「じゃあ、戻ろう。時間も大丈夫」


 春樹が時計を確かめた。

 翔太は地図を広げ、宿舎の印へ指を置いた。


「よし。こっち」

「今度も合ってるよ」

「毎回確かめなくていいって」


 春樹へ言い返したあと、翔太はもう1度地図を見た。

 その顔を見て、優子が笑った。


 戻る道では、さっき通ったところが見えた。

 優子が、ここ、最初に歩いたところだね、と言った。真弓も頷いて、あの先に建物があったよね、と返した。

 やがて木の間から宿舎が見え、ほかの班の声も聞こえてきた。


 花沢先生が入口の近くで待っていた。


「お帰りなさい。皆そろっていますか」

「はい。スタンプも、全部あります」


 翔太が答えた。

 優子が台紙を広げると、先生は3つの印を順番に見た。


「はい、確認できました。皆、お疲れさま」


 翔太が、よし、と言った。

 真弓も笑い、優子は台紙へもう1度目を落とした。


「ちゃんと、戻ってこられたね」


 俺が言うと、優子が頷いた。


「うん。皆で」


 花沢先生が優子へ目を向けた。


「富田さん、どうだった? 楽しめた?」


 優子が、少し背筋を伸ばした。

 手元の台紙を見てから、先生へ顔を上げた。


「……はい。楽しかったです」


 答えたあと、優子の口元が少し緩んだ。

 先生も、その顔を見て笑った。


「うん。よかったね」


 先生は俺たち全員へ、夕食までは部屋で過ごすように伝え、次に集まる時刻を確認した。

 翔太がしおりへ印をつけた。俺は荷物を足元へ下ろし、優子が開いたしおりで、同じところを確かめた。


 校門で先生に声をかけられた時より、優子の返事が少し早かった。

 俺の袖は、まだ掴んだままだったけれど、先生が話し終わるまで、顔を上げていられた。


    * * 優子視点 * *


 部屋へ戻ると、畳の上へ座った。

 勝也が日傘を畳み、鞄の近くへ置いてくれた。私の荷物も、その隣に戻った。


「少し、休もうか」


 勝也が隣へ座った。

 頷いて膝をそろえると、歩いていた時よりも、足の疲れが分かる気がした。


 翔太くんは、部屋へ入るなり畳へ両手をついた。


「あー。広いって、いいな」

「朝から、そればっかりだね」


 春樹くんが笑った。

 加藤さんは水筒を置き、井上さんと地図を見ていた。


「ここで、ちょっと休んだんだよね」

「うん。思ったより、ぐるっと歩いたね」


 さっきまで歩いていた道のことを、もう話していた。

 学校の教室で皆の会話を聞いている時と、少し違った。

 私も、同じところを歩いてきた。何のことを話しているのか、思い出せた。


 勝也が、私へ顔を向けた。


「足、痛くない?」

「……痛くはない。ちょっと、疲れただけ」

「うん」


 勝也は頷いて、そのまま隣にいてくれた。

 肩が触れるところまで、私から少し寄った。


 お昼には、勝也に最初に食べてほしかったものを食べてもらえた。そのあとで、皆のお弁当も少しずつ食べた。

 午後に預かった台紙には、スタンプが3つ並んでいた。全部集まったと見せると、皆もそばへ来て見てくれた。

 翔太くんに、優子、それ見せて、と呼ばれた時も、もう自然に顔を上げていた。


「翔太くん、最後のところ、すぐ分かったね」


 私が声をかけると、翔太くんが顔を上げた。


「だろ。ちゃんと見てたから」

「途中からはね」


 勝也が少し笑った。

 翔太くんは、すぐそちらへ向き直った。


「最初から見てたって」

「見てたね。持ってる向きが違っただけで」


 春樹くんが言った。

 翔太くんが、そこ、ずっと言うなよ、と返し、加藤さんも笑った。


 私も笑ってしまった。

 声が出てから、少しだけ口元を押さえた。


 翔太くんが、私を見た。


「次は、最初から合ってるから」


「うん。次も、地図お願いね」


 そう返すと、翔太くんは満足そうに笑った。

 春樹くんが、その時も確認するねと言い、また言い合いが始まった。


 窓の方から、少し冷たい空気が入ってきた。

 外はまだ明るかった。


 いつもなら、このあと家へ帰る。

 学校であったことを話したり、宿題をしたりして、夕飯の時間になる。

 今日は、私も勝也も、この部屋へ戻ってきた。


 隣に置かれた2つの鞄を見た。

 どちらも、帰るために持ち上げる必要はなかった。


「……夕ご飯も、皆で食べるんだよね」


 勝也が頷いた。


「うん。さっきの食堂だよ」

「……そのあとも、ここに戻ってくる?」

「うん。戻ってきて、またここで過ごすよ」


 分かっていたことを、もう1度聞いてしまった。

 でも、勝也は困った顔をしなかった。


「……そっか」


 膝の上で、手を重ねた。

 昨日は、帰ろうとする勝也の袖を掴んだ。

 今日は、帰る時間を気にせず、同じ部屋にいられる。


 勝也が、手の甲へ少し触れた。


「眠かったら、少し目、閉じててもいいよ。時間になったら呼ぶから」


 私は首を振った。


「……今は、皆の話、聞いてたい」


 勝也が、少し目を丸くしてから笑った。


「うん。じゃあ、一緒に聞いてようか」


 頷いて、もう少しだけ肩を寄せた。

 向こうでは、翔太くんが、地図より火の係の方が得意だと話していた。

 加藤さんに、明日、楽しみにしてる、と言われ、急に真剣な顔になっていた。


 私は、その顔を見てまた笑った。

 勝也も隣で笑っていた。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

優子と美和が用意した弁当を楽しみにして出発する。バスでは幼い頃や転校後の思い出を語り、怖がりだった話に強がりながらも、優子が皆と笑う姿を喜ぶ。昼にはご飯とおかずの弁当に加えて、たっぷりのサンドイッチがあることに驚く。優子が食べてほしい卵焼きと照り焼きを先に味わい、その後は皆と弁当を交換して楽しむ。午後も優子の歩く速さや日傘を気遣い、班の皆と活動を楽しむ。


・富田 優子

早起きして母と弁当を作る。バスでは勝也と過ごした幼い頃の話をし、転校後の思い出話を聞くうちに、自分から皆へ質問して笑えるようになる。勝也が怖がりだったことも初めて知る。4人から名前で呼んでよいか聞かれ、嬉しく受け入れる。知らない場所や大勢の声への緊張は残るが、班の皆との距離は縮まる。昼は勝也に先に食べてもらったあと、皆とも弁当を交換し、母と作った料理が喜ばれる。午後はスタンプの台紙を預かり、皆とチェックポイントを回る。


・鳥居 翔太

出発前から林間学校を楽しみにしている。バスでは勝也と初日から仲良くなった話や、3人で池に落ちた釣りの話、ホラーゲームの帰り道に全力疾走した話をする。優子の弁当を羨ましがり、自分の唐揚げなどと交換して楽しむ。午後は班長として人数を確かめ、地図を持つ。向きを間違えて皆に突っ込まれながらも、優子が追いつくのを待ち、3か所のチェックポイントを皆で回る。


・鶴見 春樹

勝也が転校して初めて学校へ行く日に仲良くなったことを語る。釣りでは翔太にリュックを掴まれて池へ落ち、ホラーゲームでは勝也と一緒に強がっていた。優子の質問にも直接答え、笑い合う。到着後は地図や時間を確認し、荷物や日傘も気遣う。


・加藤 真弓

優子の幼い頃の話を急かさずに聞く。冬休みには勝也と春樹の反応を見に行ったものの、自分もホラーゲームを怖がり、家まで送ってもらった。自分の失敗も笑いながら話し、優子との会話を楽しむ。到着後も荷物や移動の確認をし、班の活動を支える。


・井上 綾香

冬休み直前のお泊まりに父の初代『バイオハザード』を持参した時の話をする。怖いものに強く、勝也と春樹の強がりを見抜いていた。冬休みの再挑戦でも1人だけ平気だったことを、優子へ楽しそうに話す。昼は自分の弁当のハンバーグとサンドイッチなどを交換する。午後は皆と地図を見て歩き、優子が預かる台紙のスタンプも一緒に確かめる。


・荒川 宣仁

出発前、別班から勝也たちへ挨拶に来る。自分の班で林間学校へ参加する。


・花沢先生

集合時に体調を確認し、到着後は6人を特別な和室へ案内する。向かいの設備と次の予定を伝え、活動後は優子に楽しめたかを尋ねる。楽しかったと答える優子へ笑顔を返し、皆に夕食までの予定を伝える。


・優子の母(美和)

優子と一緒に早起きし、卵焼き、照り焼き、2種類のサンドイッチを作る。優子が自分でやりたいところを手伝い、勝也に食べてもらう楽しみを受け止める。普段の登校日と同じように優子を車で勝也の家まで送り、2人を見送る。


・優子の父(泰臣)

朝、用意された弁当の量に驚く。出発前に優子の忘れ物を確かめ、自宅から送り出す。


・同じクラスの男子2人

到着後、翔太たちの部屋へ顔を出す。男女同室を面白がって軽口を交わし、自分たちの班へ戻る。


・学校契約のカメラマン2人

学校と契約し、林間学校に同行する2人。行きは勝也たちとは別のクラスのバスに乗り、帰りは2人とも勝也たちのクラスのバスへ同乗する。出発前や昼食、オリエンテーリングで、生徒たちの自然な姿を撮る。現地では分担して各班を回る。

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