第39話
* * 勝也視点 * *
日曜日の朝、優子からメールが来た。
昨日借りた漫画をもう少し読んだことと、アニメの続きも気になっていることが書いてあった。
『今日も来る?』
返信すると、すぐに携帯が鳴った。
『行きたい。今日もいいの?』
『うん。俺も続き、一緒に見たいし』
送ってから、居間にいた母さんへ声をかけた。今日は仕事が休みで、洗濯物を畳んでいた。
午後、優子が来てもいいか聞くと、母さんは畳みかけの服から顔を上げた。
「もちろん。昨日、楽しかったのね」
「うん。見たいところ、まだいっぱいあるんだよ」
「じゃあ、今日も片づけるところから?」
「もう綺麗だよ」
「知ってる。昨日、びっくりしたもの」
笑われたので、部屋へ戻った。
机の端は、昨日のまま空いていた。漫画を1冊だけ本棚へ戻し、DVDを出せば、もう支度は終わった。
午後に来た優子は、母さんへ挨拶をしてから、俺のあとをついて部屋へ入った。
昨日は入口でしばらく立っていたけれど、今日は鞄を外すと、机の端を見た。
「ここ、使っていい?」
「うん。空けてあるから」
小さな鞄が置かれた。
優子は借りていた漫画を取り出し、どこまで読んだか教えてくれた。俺もその巻を開きかけたけれど、話し始めると、またアニメを見る前に夕方になりそうだった。
「先に見る? 話す?」
「先に見よう。見終わったら、両方の話ができるし」
「確かに」
パソコンの画面をベッドの方へ向けた。
俺が座ると、優子も隣へ腰を下ろした。昨日、ここへ座ってほしいと言われた場所だった。
再生する前に、音を少し小さくした。
「これくらいで聞こえる?」
「うん。大丈夫」
続きを見ている間、優子は静かだった。
時々、知っている場面へ来ると、膝に置いていた手が少し動いた。言いたいことがあるのかと思ったけれど、こちらを見るだけで、また画面へ戻る。
俺も、そのまま続きを見た。
1話が終わると、優子がすぐに顔を向けた。
「さっきのところ、漫画だともっとすぐに次へ進んだ気がしてた」
「待ってる間、長く感じるところ?」
「うん。何も言ってないのに、何か考えてるんだろうなって気になる」
自分が初めて見た時、そこまで気にしていただろうか。
言われて少し戻すと、優子が画面を指した。
「ここ。返事するまで、相手の顔を見てるでしょう」
「ああ、ここか」
短いところを確かめるつもりで、またしばらく話した。
続きへ進むと、今度は俺が気に入っていたところで止めたくなった。
優子が見終わるのを待ってから話すと、同じところを覚えていてくれた。
母さんがお茶を持ってきてくれた時には、画面はまた止まっていた。
「ちゃんと見てる?」
「見てるよ。今、話してるところ」
「お話の方も忙しそうね」
優子が、少し恥ずかしそうに笑った。
母さんが出ていってから、コップを取り、2人で続きを再生した。
翌日の月曜日も、学校は休みだった。体育の日だった。
今度はゲームをしているところが見たいというので、午後、また優子が来た。
机の上に出しておいたPSPを見て、優子が顔を上げる。
「それが、春樹くんたちとも遊んでるの?」
「うん。モンハン」
ベッドへ並んで座り、優子にも見えるように画面の向きを変えた。
大きい画面ではないから、肩が触れるくらいまで近づいた。優子は少し覗き込んでから、俺の手元へ目を移した。
「押すところ、いっぱいあるね」
「やってるうちに慣れるよ。俺も、最初は全然だったし」
何をするゲームか話しながら、準備を進めた。
優子は、持っていく物や武器を選ぶところから見ていた。説明を聞くと、さっき言っていたのはこれ、と、画面の中を確かめてくる。
分かったことが増えるたび、少しずつ前へ寄ってきた。
大きな相手が画面へ入ると、優子の声が上がった。
「大きい」
「これは、結構やってるから大丈夫」
そう言ったすぐあと、余計に近づいてしまい、画面の中の俺が吹っ飛んだ。
隣で、あ、と小さな声がした。
「……大丈夫?」
「今のは、ちょっと説明しながらだったから」
「私、静かにしてるね」
「いや、話してていいよ。今のは俺が欲張った」
優子が口元へ手をやった。
笑いをこらえているのが分かり、俺も笑ってしまった。
「もう1回、同じの来るから。今度はちゃんと避ける」
「うん」
転がって離れると、優子も少し体を引いた。
画面の中で逃げたのに、隣でも同じように動いている。
それが面白かったけれど、今、そっちを見たら、また飛ばされそうだった。
「今なら、近づいてもいいの?」
「そう。今のうちに少しだけ」
答えながら攻撃して、離れた。
次に相手が動くと、今度は優子が先に、来る、と言った。
「分かってきたね」
「さっきと、動きが似てたから」
隣から教えてもらいながら、しばらく進めた。
ようやく終えると、優子が俺より大きく息を吐いた。
「疲れた?」
「勝也がやってたのに、私まで力、入っちゃった」
膝の上の手が、ぎゅっと握られていた。
見せてもらうと、優子はそれを開き、少し照れたように笑った。
休憩の間には、土曜日に話していた別の本も開いた。
ゲームへ戻るか聞くと、もう少し見たいと返ってきた。
優子の方から、今度はどんなのが出てくるの、と聞いてくれた。
土曜日に初めて来た時には、どこへ座ってもらうかも考えていた。
月曜日には、優子が席を立つと、戻ってきた時の分だけ、自然に場所を空けていた。
* * *
火曜日の朝、教室へ入ると、黒板の端に「明日から林間学校」と書かれていた。
3日休んだだけなのに、先週より、ずいぶん近くまで来た気がした。
優子も、その文字を見ていた。
机へ向かう途中で、繋いでいた手に少し力が入る。俺がそちらを見ると、優子は顔を上げた。
「……もう、明日なんだね」
「うん。鞄、用意した?」
「お母さんと、少しずつ。まだ入れてないのも、あるけど」
「俺も。今日使う物は、帰ってからだね」
席へ着き、鞄を机へ掛けた。
優子は教科書を出す前に、林間学校のしおりを取り出した。水色の表紙の端から、何枚か付箋が出ていた。
持ち物のページを開くと、鉛筆でつけた小さな印が並んでいる。
「……勝也、軍手、入れた?」
「入れたよ。翔太が何回も言ってたから」
教室へ一緒に来た翔太が、前の席から顔を向けた。
「大事だからな」
「分かったよ。もう入れたって」
「春樹は?」
「入れた。聞かれると思って、昨日、いちばん上に置いたよ」
春樹が答えると、翔太は満足そうに頷いた。
そのあとで、自分の鞄を開けて、中を少し覗いた。
「今日の鞄に入ってたら、明日の方へ移してね」
「分かってるって」
春樹に言われ、翔太が口を尖らせた。
優子はしおりの向こうで笑っていた。俺と目が合うと、もう1度、持ち物の欄へ指を戻した。
学校へ来る道では、昨日のゲームの話をした。
優子が、俺の転がる向きまで覚えていたので、翔太は、そんなところから説明したのか、と驚いていた。
実際に見ていると気になるんだと言うと、春樹が、見せる側も楽しそう、と笑った。
その続きが、教室へ入ってからも残っていた。
優子が筆箱を出しながら、俺の袖を少し引いた。
「……昨日の、最後のところ」
「うん?」
「次、私も動かしてみたい。難しくないところから」
「いいよ。帰ってきたら、やってみようか」
優子が頷いた。
声は小さかったけれど、言い終わる前に取りやめてしまうことはなかった。
隣の教室から笑い声がすると、1度だけ、そちらを見た。
俺も廊下を見てから、机へ目を戻した。優子は俺の横顔を確かめ、出していたノートを開いた。
「……こっちも、昨日の続き」
指されたのは、宿題の最後の問題だった。
答えは同じになったけれど、途中の書き方が違うと言う。
俺も自分のノートを出して、2冊を並べた。
「ああ。俺、ここを先に計算したんだ」
「……私は、こっちから」
鉛筆の先が、式の上を進んだ。
説明を聞いているうちに、自分の方では2度も同じ計算をしていることに気づいた。
「優子のやり方の方が、短いね」
「こっちだと、あとが少し楽になるかなって」
「俺、そこまで考えなかった」
もう1度、優子の式を見た。
休んでいたところで分からないことがあれば教えると話したのは、つい先週だった。
俺が見直したかったところを、今日は優子が指していた。
「もう、教えてもらっちゃった」
そう言うと、優子が少し顔を上げた。
「……勝也のも、合ってるよ」
「うん。でも、こういうのもあるんだって分かった。ありがとう」
隣で春樹が、俺たちのノートを覗いた。
「あ、それ、俺も遠回りしたところだ」
優子の指が止まった。
春樹は机へ身を乗り出しすぎず、見せてもらっていい、と聞いてから、ノートの端を見た。
「……うん」
俺が少しだけ向きを変えた。
春樹は式を追って、なるほど、と頷いた。
「こっちの方が見やすいね。ありがとう、富田さん」
優子が小さく頭を下げた。
春樹が自分の机へ戻ると、俺の袖をつまんでいた指が、ゆっくり離れた。
「分かりやすかったって」
小声で言うと、優子はノートへ目を落としたまま笑った。
「……うん」
予鈴が鳴り、俺たちは教科書を開いた。
その前に、優子の指がもう1度、俺の手へ触れた。少し握ってから離すと、優子も黒板の方を向いた。
* * 真弓視点 * *
給食の時間、勝也と富田さんは、いつものように机を並べていた。
少し離れたところで、私たちも食べていた。翔太は、今日の給食を食べながら、明後日のカレーのことを話していた。
「ご飯、いっぱい炊けるかな」
「何人分かは、もう決まってるでしょ」
「分かってるけど。いっぱいあるの見ると、嬉しいじゃん」
私が返すと、翔太はパンをちぎった。
火の係になってから、毎日、何かしらカレーかご飯の話をしている。しおりのほかのページも読んでいるのか、少し心配になった。
「ご飯を炊く前に、明日はお弁当だよ」
綾香が言うと、翔太は、そうだった、と頷いた。
「それも楽しみ」
「食べること、全部楽しみなんだね」
「楽しみじゃないの?」
「楽しみだけどさ」
春樹が笑った。
その向こうで、富田さんも何か話していた。
勝也が少し顔を寄せて聞いている。
富田さんは自分の皿を指してから、指を2本立てた。勝也が頷き、今度は自分の皿へ目を落とす。何の話かまでは聞こえなかったけれど、2人で笑っていた。
先週は、食べられているか、周りを気にしていないかと、つい見てしまっていた。
今日は、笑った顔につられて目が行った。
「……なあ」
翔太の声が小さくなった。
振り向くと、パンを持ったまま、同じ方を見ていた。
「勝也って、あんなだった?」
「どんな?」
「あんな。何か、ずっと楽しそうじゃね?」
春樹も、2人へ目を向けた。
「休みの間も、一緒に遊んでたんでしょ」
「土曜だけだと思ってたら、昨日も一昨日もって言うんだもん」
「楽しかったんだね」
綾香が言った。
翔太は頷いたけれど、まだ何か言いたそうだった。
富田さんが、牛乳のパックを開けようとしていた。
片側の折り目がうまく開かなかったらしく、両手で少しずつ引っ張っている。勝也が気づいて、手を止めた。
何か聞かれ、富田さんが頷く。
受け取った勝也は、つぶれかけたところを起こして開け、向きを直して返した。
富田さんが受け取り、少し笑った。
勝也も笑って、自分の食事へ戻った。
「……お兄ちゃんだ」
翔太が、妙に納得した声で言った。
私は口へ運びかけた箸を止めた。
「小さい妹、連れてきたみたいだね」
春樹まで、そちら側へ回った。
「そう。それ」
分かってもらえた翔太の顔が、明るくなった。
向こうでは、富田さんが牛乳を飲んでいた。パックを置く時、勝也が、自分の皿を少しだけよけた。
やめてほしかった。
1度そう言われると、たまたま目に入った動作まで、全部、その続きに見えてしまう。
「妹のお迎え頼まれて、そのまま給食まで連れてきちゃった感じ」
「頼まれただけなら、あんな嬉しそうにしないでしょ」
綾香が小声で言った。
私は、もう1度、勝也を見た。
富田さんが何か言うと、勝也は笑いながら頷いていた。
確かに、嬉しそうだった。気にかけなければならないから、ずっと隣を見ている、という顔ではなかった。
「あれは、自分から迎えに行ったお兄ちゃんだね」
春樹が言い直した。
「どっちでもお兄ちゃんなんだ」
私が言うと、翔太が肩を揺らした。
音を立てないつもりだったらしいけれど、途中で変な息が漏れた。
勝也がこちらを向いた。
「何の話?」
「給食」
翔太が即答した。
春樹は、翔太の止まった手を見た。
「その話をする前に、食べた方がいいよ」
「お前までお兄ちゃんになるなよ」
「何の話?」
勝也がもう1度聞いた。
今度は、私まで吹き出してしまった。
富田さんも、こちらを見た。
急にみんなが笑ったことに戸惑ったようだったので、私は翔太の皿を指した。
「翔太、喋ってばっかりで、全然減ってないの」
富田さんの目が、翔太の手元へ移った。
さっきちぎったパンが、まだ同じ手にある。
「翔太、時間なくなるよ」
勝也も言った。
「分かったよ。食べるよ。兄ちゃん2人もいらねえよ」
富田さんが口元へ手をやった。
さっきの警戒するような目が緩み、声を抑えて笑った。
勝也は、まだ意味が分からなさそうだった。
私はお茶を飲んで、ようやく笑いを収めた。
翔太の言いたいことは分かった。勝也が少し身を屈め、富田さんがそちらを見上げているところだけ見れば、そういう例えも出てくる。
でも、富田さんが勝也へ向ける顔を見ていると、それだけではないと思う。
体育館で勝也の隣へ座った時も、先週、料理の話をしてくれた時も、勝也に見てもらえることが嬉しそうだった。
今日も、何かしてもらったあとだけ笑っているのではなかった。勝也が自分の食事へ戻ってからも、横顔を見て、小さく笑っていた。
春樹と目が合った。
そちらも、2人を見たあとだった。
私は何も言わず、箸を持ち直した。
翔太にまで聞かれたら、今より静かになるとは思えなかった。
* * 勝也視点 * *
午後の授業が終わる頃には、教室のあちこちから、明日の話が聞こえていた。
荷物が鞄に入らないと言う人もいれば、もう全部用意したという人もいた。
翔太は、軍手の次には、懐中電灯を確かめたかと聞いて回っていた。
「翔太のは、ちゃんとつくの?」
春樹に聞かれると、大丈夫、と胸を張った。
「昨日、電気消して部屋でつけてみた」
「そこまでやったんだ」
「ちょっと楽しくなって、下から顔照らしてたら、母さんに何してんのって言われた」
真弓が笑った。
俺も、母親に見つかった時の翔太の顔を想像して、少し笑ってしまった。
「明日、部屋でもやりそう」
「やるかもしれない」
「富田さんがびっくりするから、いきなりやらないでよ」
真弓に言われ、翔太は優子を見た。
「あ、そっか。やる時は言う」
「言ってからやるんだ」
俺が返すと、翔太は、面白かったら、と答えた。
優子の口元も緩んだ。
「……先に言ってくれたら」
「分かった。ちゃんと予告する」
真剣に約束したので、今度は綾香まで笑った。
まだここにいるのに、明日の部屋での会話が、もう少し始まっているようだった。
帰りの会が始まると、花沢先生が黒板の前へ立った。
「いよいよ明日から林間学校です。しおりを出して、出発の日のページを開いてください」
紙をめくる音が重なった。
俺も優子も、鞄からしおりを出した。
先生は集合時刻と集合場所を、もう1度確かめた。
いつもの登校と同じつもりで出てこないこと。朝、体調が悪い時は家の人と相談し、学校へ連絡すること。大きな荷物だけでなく、活動の時に使う物も忘れないこと。
順番に聞きながら、持ち物の欄へ小さく印をつけた。
「それから、初日のお昼は、持ってきたお弁当を食べます。おうちの人に、使い捨ての容器へ入れてもらうように伝えてくださいね」
先生が、しおりの同じ行を指した。
「いつものお弁当箱ではありません。食べ終わった容器やごみをまとめられるように、袋も用意しておきましょう」
隣で鉛筆が止まった。
優子は、お弁当、と書かれたところを見ていた。
何か気になったのかと思って、少し顔を向けると、優子も俺を見た。
目が合うと、すぐにしおりへ戻った。
先生はそのまま、明日の持ち物を確認した。
俺は、使い捨て容器の行へ線を引いた。
普通の弁当箱を出してしまいそうだったから、帰ったら先に確かめておこうと思った。
「準備ができたら、今日は早めに休んでください。楽しみで眠れなくても、お布団には入ってね」
誰かが翔太を見た。
翔太は前を向いたまま、ちゃんと寝る、と小さく言った。
先生にも聞こえたらしく、そうしてください、と笑いながら返された。
最後に、机の中へ置いていく物についても話があった。
いらない紙やごみをそのままにしないこと。必要な教材を忘れないこと。
帰りの挨拶を終えると、みんなが一斉に机の中を確かめ始めた。
優子は教科書を1冊ずつ鞄へ入れていた。
机へ残す物がないか、奥へも手を伸ばす。俺も、入れっぱなしだったプリントを取り出し、端をそろえた。
翔太の机からは、先に丸まった紙が出てきた。
広げて、何だこれ、と言っている。
春樹が自分の荷物をしまいながら、そちらを見た。
「翔太」
「ん?」
「林間学校でしばらく学校に来ないんだから、給食の残り隠してるなら持って帰った方がいいよ」
「ああ、そっか」
翔太は素直に頷いた。
春樹は中を覗き込んだわけではなかった。翔太が紙を奥へ押し戻しかけたところで、思い出したように声をかけただけだった。
「また教室、虫だらけになったら困るし」
春樹が付け足したので、俺も思い出した。
「ああ。修学旅行のあと?」
「うん。京都と奈良から帰ってきた時」
小6の修学旅行を終えて、学校へ戻った日のことだった。
教室に入ると、窓の近くをハエが飛んでいた。1匹だと思ったら、目で追っている間に別の方からも飛んできた。
あちこちで声が上がり、誰かが窓を開けた。追い出そうとして手を振る人と、その手に驚く人がいて、朝から教室が大騒ぎになった。
置いたままになっていた給食の残りが見つかり、机の中まで全部出して確かめることになった。
寺や神社の話より先に、虫の話でその日の朝が終わったのを覚えている。
「あれ、嫌だったよな」
翔太まで頷いていた。
春樹は、だからね、と念を押した。
「あるなら、忘れないうちに」
「分かった。今、入れる」
翔太が鞄から袋を出した。
俺は、自分のプリントをファイルへ挟み直した。隣で優子がしおりをしまいかけて、もう1度開いていた。
「何か、忘れてた?」
「……ううん。ちょっと、確かめてただけ」
さっきと同じ、お弁当のところを見ていた。
優子はそこへ小さな丸をつけてから、鞄へ入れた。
翔太の方へ目を戻すと、袋の口が結ばれていた。
何が入っているかは見えなかったけれど、そのまま鞄へ押し込み、肩へ掛けた。
「よし。持った」
「うん。帰ったら、鞄からも出してね」
「そこまで忘れねえよ」
春樹が笑った。
翔太も、今度は押し戻さず、空になった机の中へ手を入れて見せた。
帰る前に、花沢先生が優子のところへ来た。
机の中を確かめている人たちから少し離れ、しゃがんで顔を向けてくれた。
「富田さん、明日は、集合したら先生にも顔を見せてね」
「……はい」
「鵜飼くんと一緒に来る?」
優子が俺を見たので、頷いた。
「はい。優子の家へ迎えに行って、一緒に来ます」
「分かりました。心配なことを思い出したら、今日でも、明日来てからでも教えてね」
優子がしおりの入った鞄へ手を添えた。
先生はすぐに返事を急がせず、少し待っていた。
「……お部屋は、班の皆と一緒なんですよね」
「うん。前にお話ししたとおり、6人で一緒のお部屋です。そこはしおりには載っていないから、着いたら先生が案内するね」
優子が俺を見た。頷くと、先生へ顔を戻した。
「……はい。皆と一緒なら……行きたいです」
先生が静かに頷いた。
「一緒に行きましょう。現地でも、分からないことはその時に聞いてね」
優子は、はい、と小さく答えた。
先生が立ち上がってから、俺の手を取った。
廊下へ出る前に、空になった机をもう1度見ていた。
* * 優子視点 * *
昇降口を出てからも、お弁当のことを考えていた。
しおりに書いてあったのは前から知っていた。でも、先生に明日の話として言われると、勝也のお弁当が気になった。
土曜日のお昼、勝也が焼きそばを3袋、順番に焼いていた。
私のお皿へ1人分を載せて、自分のお皿には2人分。目玉焼きも、勝也の方には2つあった。
たくさん食べることは知っていたつもりだったけれど、あのお皿を見てからは、少し具体的に分かるようになった。
明日は、何を持っていくのだろう。
自分で用意するのなら、朝は荷物の支度もあるから、忙しいかもしれない。
それだけではなかった。
先週、お母さんに教えてもらった卵焼きを思い出していた。
勝也に、おいしいと言ってもらえた。形が少し違っていても、ちゃんと食べてくれた。
明日も、そうしてもらえたら嬉しかった。
学校から少し離れ、周りを歩いていた人が減ったところで、顔を上げた。
「勝也」
「うん?」
「明日のお弁当、どうするの?」
勝也は、少し考えた。
「まだ、何を入れるかまで決めてないんだよね。帰ったら母さんにも言っておかないと」
「自分で作る?」
「俺ができるのなら、朝、焼けばいいかなって思ってた。ご飯は入れて。使い捨ての容器も、家にあったか確かめないとね」
焼くだけでも、手早くおいしくできることは知っていた。
勝也が作れないから、私が代わりに作るわけではなかった。
私が、食べてもらいたかった。
「あのね」
言いかけて、繋いだ手を見た。
勝也の歩く速さが、少しゆっくりになった。
「私……勝也の分も、作ってみたい」
勝也がこちらを向いた。
「お弁当?」
「うん。お母さんにも聞かないといけないし、全部、自分だけではできないけど。教えてもらいながらだったら」
続きを言おうとすると、勝也の顔が先に明るくなった。
「いいの?」
思っていたより、弾んだ声だった。
頷くと、勝也が笑った。
「嬉しい。食べたい」
用意していた言葉が、途中でなくなった。
迷惑だったら、とか、ほかに食べたい物があったら、とか。言おうと思っていたことより先に、食べたいと言ってもらえた。
「……本当に?」
「うん。優子が作ってくれるんでしょ。すごい楽しみ」
まだ何を入れるかも決めていなかった。
それなのに、勝也は、もう受け取ったみたいに笑っていた。
「お母さんがいいって言ったら、ね」
「うん。一緒に聞こう。俺もお願いする」
繋いだ手が少し揺れた。
自分が嬉しくて歩き方まで変わったのか、勝也がそうだったのか、分からなかった。
「何か、食べたいのある?」
勝也は少し考えてから、こちらを見た。
「何が入ってるか、明日まで知らないでいたいかも」
「お楽しみにするの?」
「うん。ふた開けた時に分かる方が、楽しそうじゃない?」
言われて、勝也がお弁当を開けるところを想像した。
どれから食べようか迷って、箸を伸ばしてくれる。
その時まで知らないでいてもらうのも、少し楽しそうだった。
「じゃあ、お母さんと決めるね」
「うん。お願い」
「帰ってから、やっぱり教えてって言っても、駄目だよ」
「分かった。聞きたくなっても我慢する」
勝也が笑った。
私も笑いながら、日傘を持つ手を直した。
「でも、まだ上手には作れないよ」
「うん。お母さんと一緒に作ってくれるんでしょ。それだけでも、嬉しいよ」
何を作れるか、頭の中で考え始めていた。
食べたい物を聞いて、そのとおりに作るよりも迷いそうだったけれど、選ぶところから任せてもらえたのが嬉しかった。
「……喜んでもらえるのにしたいな」
「もう、喜んでるんだけど」
顔を上げると、勝也は本当に嬉しそうだった。
その顔を見たら、お母さんにも早く相談したくなった。
勝也が、また、ありがとう、と言った。
まだ作っていないよ、と返すと、作りたいって言ってくれたのが嬉しい、と言われた。
顔が熱くなり、前を向いた。
明日、勝也と同じ場所でお弁当を開く。
その中に、自分の作った物が入っている。
怖いことや分からないことを考えていたしおりに、楽しみにしたいことが、もう1つ増えた。
* * 勝也視点 * *
優子の家へ着くと、お母さんが玄関へ出てきた。
挨拶をして上がり、俺たちは先に手を洗った。
優子は学校で使った鞄を置くと、しおりだけを持って居間へ戻ってきた。
お母さんが飲み物を出してくれるのを待ち、テーブルへ開いた。
「お母さん。明日のお弁当のこと、相談してもいい?」
「うん。どうしたの?」
優子が、少しだけ俺を見た。
俺も頷いた。
「私の分と……勝也の分も、作りたいの」
お母さんの手が止まった。
優子の顔を見てから、俺へ目を向けた。
「勝也くんのお弁当も?」
「はい。帰りに、優子が作りたいって言ってくれて。よかったら、お願いしたいです」
お母さんが微笑んだ。
「もちろん。じゃあ、明日は2人分ね」
隣で、優子が長く息を吐いた。
言う前から断られるとは思っていなかったのかもしれない。でも、ちゃんと決まったと分かった途端、肩が少し下がった。
「お母さんにも、教えてもらっていい?」
「うん。一緒に作ろう。勝也くんのお母さんにも、こちらで用意することを伝えておいてもらえる?」
「はい。今、連絡します」
携帯を出し、母さんへメールを打った。
明日の弁当は優子と優子のお母さんが用意してくれること、俺もお願いしたことを伝えた。
送り終えてから顔を上げると、優子は、お母さんとしおりの行を見ていた。
「使い捨ての容器なんだって。今日、先生がもう1度言ってた」
「分かった。入れ物はあるから、あとで用意しようね」
優子が頷いてから、俺を見た。
「それと、中身は、勝也には内緒にするの」
「内緒?」
「勝也が、明日までお楽しみにしたいって」
お母さんにも顔を向けられ、頷いた。
「開ける時まで、何が入ってるか知らない方が楽しそうだなって。よかったら、2人で決めてもらえますか」
「ふふ。じゃあ、勝也くんが帰ってから、優子と相談しようかな」
「うん」
優子は嬉しそうに返事をした。
しおりを閉じる手も、さっきより軽く動いていた。
「明日、何から食べようか迷いそう」
「まだ決めてもいないよ」
「そうだった」
言ってから笑うと、優子も笑った。
今、自分で何か作ろうと思っていた時より、ずっと楽しみになっていた。
「お弁当、明日は俺が2人分持つね」
「私の分も?」
「うん。優子は作ってくれるんだから、持っていくのは任せて」
優子は少し照れたように俯いてから、じゃあお願い、と言った。
お母さんが、運びやすい袋も出しておくね、と続けた。
少しして、母さんから返事が来た。
用意してもらえることへのお礼と、こちらからもよろしく伝えてほしいという言葉だった。
最後に、楽しみね、と書いてあった。
それをお母さんへ伝え、優子にも見せた。
「母さんも、ありがとうって」
優子が画面を読み、照れたように笑った。
まだ自分の作った物を食べてもらう前から、いろいろな人にお礼を言われて、不思議そうでもあった。
* * 翔太視点 * *
家へ帰ると、先に鞄の中の袋を出した。
春樹に言われなかったら、明日もそのまま学校の机へ置いていたかもしれない。
給食のパンが入っていた。
牛乳もあった。どっちも開けていない。
いつ入れたのか考えてみたけれど、昨日は学校が休みだったし、先週のどの日かも、すぐには思い出せなかった。
また戻すわけにもいかず、台所へ持っていった。
パンを見ているうちに、前に作った菓子を思い出した。
チョコラスクなら、両方使える。
捨てるのはもったいないし、教えてくれた春樹にお礼を渡せる。
そう思いつくと、早く作りたくなった。
林間学校の荷物はあとで確かめることにして、手を洗い、道具を出した。
焼き上がったラスクは、チョコレートの茶色になっていた。
小さなひと切れを冷ましてからかじると、さくっと音がした。
甘かった。もうひとつ食べて、うまくできた、と頷いた。
昔から、食べ物で腹を壊したことがなかった。
食べ終わっても何ともなかったので、腹のことは、それ以上考えもしなかった。
冷めたラスクを透明な袋へ入れて、口を閉じた。
春樹の分は冷蔵庫へしまい、明日の朝、忘れずに出そうと思った。
渡すのは、明日の晩飯を食べて、風呂にも入ったあとがいい。
同じ部屋だから、落ち着いてから渡せる。あいつ、何て言うかな。
あいつは、俺が忘れそうなことに、よく気がつく。
今度はこっちが、何も言われないうちに渡して驚かせたかった。
* * 勝也視点 * *
夕方、優子と明日の荷物を確かめた。
着替えの袋は、もうお母さんと用意してあった。何がどこに入っているか、優子自身で分かるように、小分けにされていた。
俺は開けて見せてもらうのではなく、しおりの持ち物を読み、優子が入れたかどうか答えた。
「タオル」
「入れた。こっちの袋」
「ハンカチ」
「明日の朝、出しておいたのを持つ」
「懐中電灯」
「それも、入れたよ。ちゃんとついた」
翔太と同じ確認をしていたことがおかしくて、俺が笑うと、優子も理由が分かったらしく笑った。
「下から顔は照らしてないよ」
「うん。それは、やらなくても大丈夫」
鞄の口を閉じ、持ち上げてみた。
優子は持ち手を両方握り、少し足を踏ん張った。
「重い?」
「持てる。でも、学校へ持っていく鞄と違うね」
「服も入ってるからね。明日は、俺も手伝うよ」
全部自分で運べるかを、今、決めなくてもよかった。
俺にも鞄はあるけれど、持ち方を替えれば、一緒に運べる。
優子は鞄を床へ戻すと、もう1度、持ち物の欄を見た。
「忘れ物、ないかな」
「今、見た分は入ってるね。朝使う物だけ、あとで入れよう」
持ち物の欄を最後まで確かめると、優子が鞄の口を閉じた。
「勝也の鞄も、お部屋へ一緒に持っていくんだよね」
「うん。同じところへ置くよ」
優子は頷き、手元のしおりへ目を落とした。
「お部屋は、着いたら花沢先生が案内してくれるんだよね」
「うん。皆で先生についていけばいいね」
「そしたら、勝也の隣に荷物置いてもいい?」
「もちろん。並べて置こう」
優子が少し笑った。
鞄の手前のポケットを開け、しおりを差し込んだ。
「これ、すぐ出せるところにしておく」
「うん。俺もそうしよう」
自分の方のしおりを閉じた時、腹が鳴った。
優子が顔を上げた。
「……もう、お弁当のこと考えてる?」
「いや。今のは、今日の夕飯」
優子が笑った。
俺も笑いながら腹を押さえた。明日の昼まで、待てそうになかった。
* * *
夕飯の時には、優子のお父さんにも弁当のことを話した。
優子が、明日は少し早く起きて、お母さんと作ると言うと、お父さんは箸を置いて聞いていた。
「そうか。自分の分も、勝也くんの分も」
「うん。何を入れるかは、あとでお母さんと決めるの」
「これから相談か」
「勝也には、明日まで内緒だから」
お父さんが俺を見た。
俺も頷くと、そういうことか、と笑った。
「それは楽しみだね」
はい、と答えると、優子もこちらを見た。
「すごく楽しみです」
優子が少し俯いた。
お父さんは、それ以上からかわず、ご飯をしっかり食べて、今日は早く寝るようにと話した。
食事の間も、明日の話をした。
俺が迎えに来て、一緒に学校へ行くことを確かめた。優子は自分でしおりの時刻を読み、何時までに家を出ればいいか相談した。
いつもより荷物が多いので、少し余裕を見て出ることになった。
「作る方も、それに間に合うように起きようね」
お母さんに言われ、優子は頷いた。
「うん。目覚まし、もう合わせた」
その返事を聞いて、また嬉しくなった。
明日の朝、ここで自分の弁当も作ってくれる。
迎えに来る理由が、いつもより1つ増えていた。
* * 優子視点 * *
夕食の片づけが終わり、勝也と居間へ戻った。
お弁当の相談は、勝也が帰ってからだった。作ってもらうのに、どうして帰るのを待たれてるんだろう、と勝也がおかしそうに言うので、私も笑ってしまった。
「勝也が、お楽しみにしたいって言ったんだよ」
「うん。そうだったね」
隣へ座ると、勝也がしおりを閉じた。
その音で、帰る時間が近づいているのだと気づいた。
いつもより少し早く帰ると、夕食の前に聞いていた。
勝也も家へ帰って、使っている物を鞄へ入れなければいけない。明日は早いから、私もいつまでも引き止めてはいけなかった。
分かっていても、もう少し隣にいたかった。
「帰ったら、ちゃんと軍手も確かめてね」
私が言うと、勝也が笑った。
「優子まで」
「翔太くんが、今日も言ってたから」
「うん。帰ったらもう1回見るよ」
そんなことを言いながら、勝也の袖へ指を添えた。
しおりを鞄へ入れる間も、勝也は隣に座ったままだった。
今日、学校でも手を繋いだ。
本を読む時には肩へ寄りかかったし、帰り道もずっと隣を歩いた。
日曜日も月曜日も一緒に遊んだ。
それでも、抱きしめてもらいたかった。
泊まってもらった夜には、目が覚めても勝也の腕がそばにあった。
怖くなった時にも、近づくと抱きしめてくれた。
胸へ顔を寄せ、背中を撫でてもらっていると、体に入っていた力が少しずつ抜けていった。
今日は、今すぐ何かが怖いわけではなかった。
勝也のお弁当を作る約束ができたことも、一緒に学校へ行って帰ってこられたことも、嬉しかった。
その嬉しい気持ちのまま、腕の中へ入りたかった。
少し前にも近くへ寄っていたのに、あの抱きしめてもらう感じが、ずいぶん久しぶりのことに思えた。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
勝也が立ち上がった。
私も立ち、その袖をそっと掴んだ。
「今日も、ごちそうさまでした。明日のお弁当も、ありがとうございます」
勝也がお母さんたちへ頭を下げた。
お母さんは、こちらこそよろしくね、と答えた。お父さんも、気をつけて帰るように声をかけた。
私は、勝也の袖を掴んだまま玄関まで歩いた。
靴を履くところまで来ても、指を離せなかった。
明日も来てくれる。今日は早く眠った方がいいことも、分かっている。
その前に、少しだけ。
勝也が靴の方へ体を向けた時、掴んでいた袖が少し張った。
それでも手を離せずにいると、勝也が動きを止めて振り返った。
袖を握る指を見てから、私の顔へ目を向けた。
何も言えないでいると、勝也は小さく笑い、鞄を脇へ置いた。
空いた手が、頭へそっと触れた。
ゆっくり髪を撫でながら、勝也が言った。
「明日のお弁当、楽しみにしてるね」
顔が熱くなった。
見上げていた目を少し伏せ、袖を掴んだまま頷いた。
「うん……」
頭を撫でていた手が、ゆっくり背中へ回った。
勝也が少し身をかがめ、もう片方の腕も添えて、私をそっと抱き寄せてくれた。
頬が胸へ触れた。
さっきまで言えずにいたことを、分かってもらえた気がした。
袖を握っていた指から、少しずつ力が抜けた。
私も勝也の腰の辺りへ腕を回すと、背中に添えられた手が、ゆっくり動いた。
息が抜けた。
顔を寄せたまま、もう少し身体を預けた。
勝也の腕は、そのまま受け止めてくれた。
「……もうちょっとだけ、いい?」
「うん」
返事のあとも、腕は離れなかった。
背中を撫でる手が、途中で少し止まり、また動いた。
怖い時には、落ち着くまでのことを考えている余裕がなかった。
今は、抱きしめてもらえて嬉しいと、ちゃんと思えた。
袖を離せずにいた私を、勝也の方から腕の中へ入れてくれた。
胸へ顔を寄せたまま、小さく笑った。
頬はまだ熱かったけれど、離れたくはなかった。
明日のお弁当、楽しみにしてるね。
頭を撫でながら言ってくれた声を、もう1度思い出した。
「いっぱい食べてね」
「うん。食べる」
返事が早かった。
土曜日の、大きなお皿を思い出した。
今度はそのお皿の代わりに、私がお母さんと用意する容器を、空にしてもらいたかった。
少しして、自分から腕を緩めた。
勝也の手もゆっくり離れ、最後に頭へ触れた。
「明日、迎えに来るから。朝、慌てないようにね」
「うん。待ってる」
勝也が靴を履き、鞄を持った。
私は玄関の内側から見送った。扉を出たところで振り向いてくれたので、小さく手を振った。
「おやすみ、優子」
「おやすみ。また明日ね」
足音が遠ざかるまで、そこにいた。
背中に触れていた手の温かさを思い出して、まだ少し頬が熱かった。
台所へ戻ると、お母さんが棚から使い捨ての容器を出していた。
そこにはお母さんだけがいて、私に気づくと手を止めた。
「帰った?」
「うん」
お母さんは私の顔を見て、少し微笑んだ。
何も聞かれなかったので、私も何も言わず、テーブルへ近づいた。
「じゃあ、どんなお弁当にしようか」
出された容器の横へ、小さな紙を置いた。
さっきまで勝也に握ってもらっていた手で、鉛筆を持った。
「卵焼き、入れたい」
「先週、作ったの?」
「うん。おいしいって言ってくれたから、もう1回作りたいの」
教えてもらった分量を書いた紙も取ってきた。
端に小さな染みがついていたけれど、字はちゃんと読めた。
「これ、まだ取っておいたんだね」
「同じ味にしたいから」
お母さんが頷いた。
新しい紙へ、卵焼き、と書いた。
また食べてほしい物が、まず1つ決まった。
「ほかは、何なら作れるかな。お肉もあった方がいいよね」
「鶏肉の照り焼きはどう? 明日の朝、お母さんと一緒に焼いてみる?」
「うん。味つけも、教えて」
「もちろん」
卵焼きの下へ書き足した。
ご飯に合う物が決まると、お母さんは付け合わせを入れる場所も指で示してくれた。
私の分と、勝也の分。
2つの容器を並べると、勝也の方がひと回り大きかった。
「勝也くんのは、こっちにしようか。ご飯もおかずも、これ1つに入るね」
お母さんが、仕切りの位置を確かめた。
ご飯を入れるところと、卵焼きやお肉を並べるところ。空の容器なのに、少しずつ中身を想像できるようになってきた。
けれど、勝也の方を見ているうちに、鉛筆が止まった。
「お母さん」
「うん?」
「これ1つだと、足りないかもしれない」
小さな容器ではなかった。
ご飯もおかずも、私の分よりたくさん入れられる。
それでも、土曜日の大きなお皿を思い出した。
「焼きそばね。勝也、2袋食べてたの。目玉焼きも2つ載せて」
「そうだったんだね」
「私、自分の1袋でも食べ切れるかなって思ったのに、勝也は全部、すぐ食べちゃった」
話していると、あの時のお皿の大きさまで思い出して、少し笑ってしまった。
ちゃんと食べていると分かって安心したけれど、自分が思っていたより、ずっとたくさんだった。
「夕飯も、よくおかわりしてくれるものね」
「うん。明日は外でも動くし、お弁当を食べたあとに、またお腹が減っちゃうかも」
給食のあと、大丈夫だと言っていたのに、午後にはお腹が鳴っていたこともあった。
足りなかったらどうしよう、と、容器をもう1度見た。
ご飯を増やすだけでは、おかずの場所がなくなってしまいそうだった。
「もう1つ、何か持っていけたらいいんだけど」
「別に入れるなら、サンドイッチにする?」
顔を上げた。
「それも、私に作れる?」
「うん。具を作るところから、一緒にやってみようか」
お母さんが、棚に残っていた別の容器を出した。
ご飯とおかずを入れる方は、そのままだった。
新しく置かれた容器を見ると、何を挟もうか、すぐに考えたくなった。
「たまごサンドがいいな。あと、ツナのも」
「ツナマヨに、レタスも挟もうか」
「うん。その2つにしたい」
紙の下へ、たまごサンド、と書いた。
その隣へ、ツナマヨレタスサンド、と続けると、さっきよりずっと長い献立になった。
「2種類とも、ちゃんと食べられるくらい入れたい」
容器の中を指で分けてみた。
こちら側にたまごサンド、反対側にツナマヨレタスサンド。切った物を並べ、空いているところにも詰めれば、両方をたっぷり入れられそうだった。
お母さんが私の指先を追い、少し笑った。
「そこまで入れたら、サンドイッチだけでも、ちゃんと1食分になるよ」
勝也の分として並べた2つの容器を見た。
片方には、ご飯も卵焼きもお肉も入る。
もう片方にも、2種類のサンドイッチが隙間なく並ぶ。
私だったら、サンドイッチの方だけでお腹いっぱいになりそうだった。
「……多すぎるかな」
「いつものお弁当に、もう1つお弁当を付けるみたいだね」
そう言われると、急に量が増えた気がした。
でも、少なくしてしまうのも、まだ心配だった。
「勝也、いっぱい食べるから」
お母さんが、ふふ、と笑った。
「分かった。じゃあ、サンドイッチもこの容器にたっぷり入るように、用意しよう」
「うん」
返事をすると、お母さんはパンや具をどれくらい使うか、私と一緒に確かめてくれた。
最初に考えていたご飯とおかずは減らさず、その分とは別にサンドイッチを作ることになった。
「これも、勝也くんには内緒?」
「うん。お楽しみだから」
答えてから、少し照れた。
勝也が想像しているお弁当より、容器が1つ増えている。
明日、2つ渡したら、どんな顔をするだろう。
驚いてから、あの嬉しそうな顔で笑ってくれたらよかった。
* * *
献立が決まると、お母さんと、朝に使う物をそろえた。
卵焼き器を確かめ、小さな器を出す。照り焼きの調味料も教えてもらいながら量り、合わせた物を冷蔵庫へしまった。
焼くのも、サンドイッチの具を作って挟むのも、明日の朝だった。
書いた紙を見直すと、今まで自分で用意したことのない量だった。
「お母さん、朝、忙しくなっちゃうね」
「大丈夫。一緒に順番を考えて作ろう。優子だけで全部やろうとしなくていいからね」
「うん。教えてね」
卵焼きの分量を書いた紙を、一番上へ重ねた。
「また、片側が太くなっちゃうかもしれないけど」
「前より、巻くところは分かってきたでしょう。朝、隣で見ているから」
お母さんに頷いて、使った匙を洗った。
その横で、袋や箸もそろえてもらった。
空の容器を重ねて入れてみると、お弁当を運ぶ袋が思っていたより大きく見えた。
勝也は、2人分を持つと言ってくれた。
その時には、こんなに増えるとは思っていなかったはずだった。
「勝也、びっくりするかな」
「するかもしれないね。楽しみだね」
私も笑った。
少し前までは、林間学校で困るかもしれないことばかり考えていた。
今は、明日のお昼、勝也がお弁当を開けるところを、何度も想像していた。
「……作りたいって言っただけで、すごく喜んでくれたの」
「うん。お母さんにも分かったよ」
「いつも、いろいろしてもらってるから。私も、勝也が嬉しいこと、できたらいいなって」
お母さんは、手を止めて聞いてくれた。
「うん。明日、一緒においしいお弁当を作ろうね」
頷いた。
空の容器を、ふたと一緒に重ね直した。
明日の朝、自分の手でここへ詰める。勝也の分は、もう1つある。
「お母さん。明日、起きたらすぐ来るね」
「うん。今日はもう休もうか」
部屋へ戻り、枕元の目覚ましを、手が届くところへ少し寄せた。
横になると、玄関で抱きしめてもらった時のことを思い出した。
いっぱい食べてね、と言ったら、勝也はすぐに頷いてくれた。
あの時の返事を思い出して、布団の中で少し笑った。
早く朝になってほしかった。
勝也が迎えに来てくれた時、今度は私から、渡したい物があった。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
日曜と祝日の月曜も優子と過ごし、アニメやゲームを一緒に楽しむ。優子のお弁当の申し出を喜び、中身は翌日までのお楽しみにする。見送りで袖を離さない優子に振り返り、頭を撫でて弁当を楽しみにしていると伝え、照れた返事を受けて自分から優しく抱きしめる。
・富田 優子
勝也の部屋で過ごすことにも少しずつ慣れ、学校でも隣で笑える時間が増える。林間学校初日のお弁当を勝也にも作りたいと申し出る。見送りでは勝也の袖を掴んで離せず、気持ちを察した勝也から抱きしめてもらう。勝也が帰ってから母と献立を相談する。食事量を思い出し、ご飯とおかずのお弁当に加えて、たまごサンドとツナマヨレタスサンドもたっぷり用意することにする。
・鳥居 翔太
勝也と優子を「妹のお迎えを頼まれたお兄ちゃんと妹」に例え、友人たちを笑わせる。春樹の助言で机に残していた給食を持ち帰り、善意のお礼としてチョコラスクを作る。林間学校初日の夕食・入浴後に渡すつもりで準備する。
・鶴見 春樹
2人を見守りながら翔太の例えに乗り、掛け合いを続ける。小学校の修学旅行後に教室で虫が発生した経験を思い出し、翔太へ片づけを勧める。机の中身や、お礼のお菓子の材料は知らない。
・加藤 真弓
翔太たちの例えに笑いつつ、優子が勝也へ向ける表情を見守る。林間学校でも優子が驚かないよう、翔太へ声をかける。
・井上 綾香
給食中の会話に加わり、勝也自身も優子との時間を楽しんでいることを指摘する。
・花沢先生
出発前日の帰りの会で、集合や持ち物、使い捨て容器のお弁当を確認する。優子にも声をかけ、翌朝の集合と、困った時に相談できることを伝える。
・優子の母(美和)
優子が勝也にもお弁当を作りたいという希望を受け止め、勝也の帰宅後に母娘だけで献立や量を決める。翌朝は卵焼きと鶏肉の照り焼きに加え、別容器いっぱいの2種類のサンドイッチも、一緒に作る予定。
・優子の父(泰臣)
夕食で翌日の準備やお弁当の話を聞き、2人が余裕を持って出発できるよう、朝の予定を一緒に確かめる。
・勝也の母(真紀)
休日の日曜、優子の訪問を迎える。火曜日には、優子と美和がお弁当を用意するという勝也の連絡に、お礼を返す。




