第38話
* * 勝也視点 * *
土曜日の朝、ベッドを少しずらして、掃除機の先を差し込んだ。
昨日の夜にもかけた。でも、あの時はここまで動かしていなかった。
優子が来る。
そう思うと、普段なら見ないことにしていたところまで、妙に気になった。
机の上に積んでいた漫画と問題集は、昨日のうちに全部、片づけた。
いらない紙も捨てた。いつか使うかもしれないと思って残していた物も、今回は、いつかが来そうにない順に処分した。
床に置いてあったゲームのケースを棚へ戻し、椅子の背へ掛けていた服をしまった。
それだけでは終わらなかった。
本棚の端を拭くと、今度はその隣の埃が見えた。本をどけて拭き、戻そうとしたところで、棚の奥も気になった。
結局、1段ずつ、本を出しては拭いていた。
(こんなにあったんだな)
途中で読み始めたら終わらないので、表紙だけを見て戻す。
背の高さが違う本を並べ直し、続き物は巻数を確かめた。
エロ本には、前から同じサイズの別の本のジャケットを付けて隠してある。
今日は、それも1冊ずつ確かめた。
ジャケットがずれていないか、端から中の表紙が見えていないか。大丈夫だと分かっても、念のため、ほかの本の後ろへ置き直した。
(よし)
少し離れて本棚を見た。
戻って、もう1度見た。
(……大丈夫)
ここだけで、思っていたより時間を使った。
机も、物をどけたところだけではなく、端まで拭いた。
パソコンの周りを整え、椅子の下へ掃除機をかけ、ベッドを元の位置へ戻した。掛け物を直すと、枕の向きまで気になった。
少し直してから、部屋の入口へ立つ。
床が、広く見えた。
机の上も、本棚の前も、どこへ目を向けても、次に片づけなければならない物がなかった。
転校してきてから、間違いなく、今がいちばん綺麗だった。
春樹や翔太が来る時には、ここまでしたことがない。
座る場所さえあれば、あとは適当だった。今の部屋を翔太に見せたら、部屋を間違えたと言い出すかもしれない。
時計を見た。
まだ、間に合う。
掃除機をしまって手を洗い、今日見るDVDだけを机へ出した。
昨夜、収録されている話を確かめ、優子が読んでいないところまで進まないように、使う巻を選んでおいた。全部並べると、次々に見たくなるのは俺の方だった。
パソコンの画面の向きを少し変え、ベッドの端へ座ってみる。
机に向かって見る時とは、角度が違う。
もう少しこっちか、と直してから、台所へ行った。
冷蔵庫には、昼に使う焼きそばの麺と肉、キャベツがある。
卵もあった。麺は、俺が2袋で、優子が1袋。いつものように、1袋ずつ焼けばいい。
母さんには優子が来ることと、昼は家で食べるつもりだと話してある。母さんは、もう仕事へ出ていた。
飲み物も確かめた。
お茶の隣に、カルピスが入っていた。水で薄めて飲む、原液の方だった。
優子と今日の約束をした日の帰りに、買っておいた。
お茶とジュース、両方あれば、好きな方を選んでもらえる。
コップを2つ出し、冷たい水もあるのを確かめてから、冷蔵庫を閉めた。
携帯が鳴った。
『今から、お母さんの車で行くね。本も持ったよ』
優子からだった。
今日は、優子のお母さんが車で送ってくれることになっている。
『うん。下で待ってるね』
返信してから、自分の服を見た。
掃除をしている間に少し汗をかいていたので、着替えた。
出る前に部屋の入口でもう1度立ち止まり、本棚と机と床を順番に見た。
もう、片づけるところはない。
そう言い聞かせて、鍵を持った。
眼鏡は、机の端へ置いたままにした。下まで迎えに行くだけなので、そのまま部屋を出た。
* * *
下へ降りて少し待っていると、見覚えのある車が来た。
窓の向こうで、優子がこちらを見つけた。
車が止まってから、小さく手を振ってくれた。
優子のお母さんが降りてきたので、頭を下げた。
「おはようございます。送ってきてくださって、ありがとうございます」
「おはよう、勝也くん。待っていてくれたのね」
優子も車から降りた。
その姿を見て、出しかけていた挨拶が止まった。
いつもの部屋着とは違う、落ち着いた色合いの可愛らしい服だった。優子の白い髪によく似合っていた。
小さな鞄を斜めに掛け、片手には漫画の入った紙袋を持っている。
優子が1歩近づくと、長いスカートの裾が揺れた。
俺の家へ遊びに来てくれた優子を前に、急に、どこへ目を向けたらいいのか分からなくなった。
「おはよう」
「あ、うん。おはよう」
返事が少し遅れた。
優子が立ち止まり、俺の顔を見た。
「どうしたの?」
「いや。その服、すごく似合ってるね」
言ってから、もう1度、顔を見た。
「可愛いなと思って」
優子の目が少し大きくなった。
それから頬が赤くなり、鞄の紐へ指が添えられた。
「……本当?」
「うん。すごく」
そう答えると、優子が目を伏せて笑った。
「ありがとう。これ、お母さんと選んだの」
優子のお母さんが、隣で頷いた。
「中学校に上がる前に、一緒に買いに行ったのよ。中学生になるんだし、少しおしゃれも楽しんでみたらって」
「そうだったんですね」
優子へ目を戻すと、まだ少し頬が赤かった。
白い袖口を直す指を見てから、昔、隣に住んでいた頃の姿を思い出した。
「前、一緒に遊んでた時は、いつもズボンだったよね」
「うん」
「小学校の間は、ずっとそうだったものね」
お母さんが、優子を見て笑った。
「最初は私が、こういうのはどうって選んでいたんだけど。着てみたら、優子も気に入ったのよね」
「うん。ほかのスカートも見たくなって、いっぱい見せてもらったの」
優子が、自分の服へ目を落とした。
「見てる時も可愛かったけど、着てみたら、もっと好きになったんだ」
「じゃあ、それから?」
「うん。今は、出かける時はスカートを選ぶことが多いよ。家では、ズボンだけど」
中学でまた会うようになってから、私服でもスカートを着ているところは見ていた。
俺が知らなかった間に、好きな服も変わっていたのだった。
「今日のも、気に入ってるの?」
「うん」
優子が頷き、こちらを見上げた。
「……似合ってるって言ってもらえて、嬉しい」
その顔を見たら、また胸の辺りが落ち着かなくなった。
似合っていると思ったから言った。それなのに、そんなふうに喜んでもらうと、俺まで照れくさくなった。
「うん。あ、その袋、持つよ」
「ありがとう」
受け取ると、4冊分の重みがあった。
優子は空いた手で、少しずれた鞄の紐を直した。
「そういえば、勝也くん。今日は眼鏡を掛けていないのね。なくても大丈夫なの?」
優子のお母さんに聞かれ、顔を上げた。
「はい。俺の、伊達眼鏡なんです。度は入ってないので」
「あら、そうだったの? 優子と同じなのね」
「うん。前に教えてもらったの。雨宿りしてた時に」
優子が答えてから、俺の顔を見た。
「でも、家ではいつも外してるの?」
「うん。自分の家だと、掛けてるのがちょっと邪魔でさ。普段から外してるよ」
「そうなんだ」
「今日は下まで迎えに来るだけだから、そのまま降りてきちゃった」
いつもの眼鏡は、今も部屋の机にある。
かけても外しても、見え方は変わらない。家で漫画を読んだり、ゲームをしたりする時も、外している方が楽だった。
「学校では掛けてるから、何か新鮮だね」
優子が、少し笑った。
「眼鏡がないと、雰囲気が変わるものね」
お母さんも俺を見て微笑んでから、話を続けた。
「お昼も、ごちそうになるのよね」
「はい。焼きそばにしようと思ってます」
「まあ、いいわね」
優子が俺を見た。
「勝也が作るの?」
「うん。焼きそば、好き?」
「好き」
「じゃあ、よかった」
優子のお母さんが、2人を見て笑った。
「優子、楽しんでおいで。帰りは、また連絡してね」
「はい。帰りは、俺が送っていきます」
「ありがとう。遅くならないようにね」
「うん。行ってきます」
優子が言うと、お母さんは、行ってらっしゃい、と返した。
車へ戻るお母さんを見送り、隣を見る。
優子が、俺の方へ手を伸ばしていた。
「こっち、持つ?」
紙袋の持ち手を片方空けかけると、首を振った。
「……手」
「ああ。うん」
袋を反対側へ持ち替え、差し出された手を取った。
優子が、少し笑った。
「本、持ってきたの。見終わったら、また開きたくなるかもしれないし」
「分かる。俺も、たぶん見ると思う」
並んで階段へ向かった。
いつもなら、ここから一緒に学校へ行く。
今日は優子も、俺と一緒に上へ行くところだった。
* * 優子視点 * *
勝也が、玄関の鍵を開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
学校へ行く朝、迎えに来たことはある。
でも、靴を脱いで上がるのは初めてだった。
勝也が先に上がり、紙袋を持ったまま、私が靴を脱ぐのを待ってくれた。
鞄をいったん外し、履いてきた靴の向きをそろえる。
その横に、今まで勝也が履いていた靴があった。
昔、一緒に遊んでいた家とは違う。
玄関も、そこから見える廊下も、見覚えはなかった。
「こっちだよ」
それでも、振り返る勝也の顔を見たら、少し息がしやすくなった。
伸ばしてくれた手を取り、あとについていく。
居間の場所を教えてもらい、廊下を進んだ。
勝也が1つの扉に手を掛けた。
「ここ」
開いた扉の向こうへ、まず本棚が見えた。
背表紙が何段も並んでいる。その隣へ目を移すと、机とパソコン、それからベッドがあった。
奥のガラス戸から入る光が、床の一部を明るくしていた。
「わあ」
立ち止まると、勝也も振り返った。
「どうしたの?」
「本、いっぱい」
「ああ。漫画が多いけどね。入っていいよ」
部屋へ足を踏み入れた。
勝也が紙袋を机の端へ置いた。
その隣には、私の鞄も余裕で置けるくらいの場所があった。
床にも、本棚の前にも、物が落ちていなかった。
「すごく綺麗だね」
「うん。片づけた」
「今日?」
「昨日から。優子が来るから、ちゃんとしておこうと思って」
勝也が、少し笑った。
私は、もう1度、部屋を見た。
初めて見る場所だから、いつもとの違いは分からない。
でも、自分が来るために時間を使ってくれたことは、分かった。
「そこ、座ってて。椅子でもいいし、ベッドでも」
言われて、ベッドを見た。
掛け物は整えてあって、枕も端へ寄せられている。
(勝也、ここで寝てるんだ)
そのことを考えてから、座るのに少し時間がかかった。
勝也が、鞄を受け取ろうと手を出したまま、首を傾げた。
「優子?」
「あ……うん。ありがとう」
鞄を渡し、ベッドの端へ浅く腰掛けた。
いつも自分が座っている場所とは、沈み方が少し違った。
膝の上へ広がった茶色の布を、そっと整えた。
さっき勝也に褒めてもらった時の声が、また耳の奥に戻ってきた。
今日、何を着ようかと考えた時、この服を見てほしいと思った。
お母さんと選んだ服の中でも、特に気に入っていた。鏡の前で合わせて、白い襟を直してから家を出た。
気づいてもらえたら嬉しいと思っていたけれど、可愛い、とまで言ってもらえるとは思わなかった。
しかも、もう1度聞いたら、すごく、と言ってくれた。
思い出すと、頬が緩んでしまった。
この服にしてよかった。
机へ鞄を置いてくれる勝也を見ながら、膝の上で指をそろえた。
「暑くない? 窓、少し開けようか」
「大丈夫」
「そっか。飲み物、何がいい? お茶と、カルピスがあるよ」
「カルピスもあるの?」
「うん。どっちでも出せるようにしておいた。俺は、お茶にしようと思ってるけど」
「じゃあ、カルピス飲みたい」
「分かった」
勝也が、机の横で立ち止まった。
「台所、行くけど。一緒に来る?」
開いた扉と、その向こうの廊下を見た。
初めて入った家だった。
どのくらい離れるのかが、まだ分からなかった。
「……行く」
「うん。こっち」
勝也は、すぐに手を差し出してくれた。
その手を取って立ち上がる。
部屋から台所まで歩きながら、途中の扉や、居間へ曲がるところを見た。
冷蔵庫を開ける勝也の横で待っていると、使うコップを見せてくれた。
「これでいい?」
「うん。私、運ぶよ」
「じゃあ、こっちお願い」
勝也は冷蔵庫からカルピスを取り出した。
そのまま飲む物ではなく、水で薄める方だった。
コップへ注ぎ、冷たい水を加えて混ぜると、白い色が均一になった。
「ちょっと飲んでみて。濃かったら、水、足すから」
受け取って、ひと口飲んだ。
冷たくて、甘かった。
「おいしい。これで大丈夫」
「よかった」
「いつも、置いてあるの?」
「ううん。優子と約束した日に買った。お茶とジュース、両方あれば、好きな方を出せると思って」
コップを持つ手へ、少し力が入った。
部屋だけではなかった。
何を飲みたいかも、来る前から考えてくれていた。
「ありがとう」
「うん。じゃあ、それ、お願いしていい?」
頷いて、両手で持った。
勝也は自分のお茶と、お菓子の袋を持った。
茶道部でもらった芋けんぴが、袋の中でかさっと鳴った。
「まだあるね」
「うん。今日はこっちもあるよ」
買っておくと言っていた、ポテトチップスだった。
「でも、最初から両方開けると、昼ご飯が入らなくなるかもしれないから。どっちかは、あとにしよう」
「勝也も?」
「俺は、たぶん入る」
思わず笑ってしまった。
勝也も笑い、先に廊下へ出た。
今度は、どの扉へ向かうのか、もう分かっていた。
* * *
部屋へ戻ると、勝也は扉を閉めてから、コップを机の端へ置いた。
私も隣へ置き、もう1度、ベッドへ座った。
「先に見る? それとも、ちょっと本棚見る?」
顔を上げた。
勝也は、私が何度もそちらへ目を向けていたことに気づいていたらしかった。
「見てもいい?」
「もちろん。この辺の本、気になるのがあったら、取っていいよ」
本棚の前へ行った。
背表紙の色も、大きさも、そろっているところと違うところがあった。
続き物の漫画が並び、その隣には文庫本が入っている。読んだことのある題名を見つけるたびに、指が止まった。
「これ、私も読んだ」
「あ、それ。優子が話してたから、買ったんだ」
勝也が、後ろから本棚を見た。
「私が?」
「うん。前に、面白いって言ってたでしょ。読んでみたら、続きが気になっちゃって」
背表紙へ伸ばしていた指を、少し曲げた。
勝也の部屋にも、自分が好きな本がある。
ただ同じ物を持っているだけのことが、嬉しかった。
「こっちは、まだ読んでない」
「それも好きだよ。最初、話がどう繋がるのか分かんないんだけど、あとから、ああ、そういうことかってなる」
「勝也、そういうの好きだね」
「そうかも。読んだあと、最初に戻りたくなるのが好き」
「分かる。最初に読んだ時は、気づかなかったところがあるの」
「あるよね」
勝也が隣へ立った。
2人で同じ段を見ながら、ここまで読んだ、これはまだ、と話した。
引き抜いた本を開く前に、勝也が裏表紙へ手を添えた。
「あ、それ、裏の説明、ちょっと先まで書いてある。何も知らずに読むなら、先に中を開いた方がいいかも」
「危なかった」
「俺、読んでから気づいたんだよね」
勝也が、悔しそうな顔をした。
今度は声を出して笑ってしまい、本を胸の前へ抱えた。
その上の段に、DVDのケースが並んでいた。
木曜日に話していた物もあった。
勝也が1つ取り、表を向けて見せてくれた。
「映画の方は、これ」
「両方入ってるの?」
「うん。前と後。こっちは、もう少し漫画を読んでからね」
「うん」
中を見せてもらい、表紙へ目を戻した。
実際の人が演じると、また違って見えるのだろうか。
聞きたいことはあったけれど、今日は、先にアニメを見る約束だった。
勝也がケースを戻す隣で、机の上へ目を向けた。
パソコンの横に、今日使うDVDが置いてあった。
「もう出してくれてたんだ」
「うん。あと、どこまでなら見ても大丈夫か、昨日、確認した」
「昨日?」
「途中で止める場所、間違えたら嫌だから。今日はそんなに先まで行かないと思うけどね」
勝也が、何でもないことのように言った。
私は昨日、鞄へ何を入れるか考えながら、知らない部屋を想像していた。
その時、勝也も、今日の支度をしてくれていた。
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、見ようか」
頷いて、ベッドの机に近い方へ戻った。
勝也が椅子へ座り、パソコンを操作した。
画面が変わるのを待つ間に、さっき返した漫画の袋へ目を向ける。
「ここに、本、置いてもいい?」
「うん。読んだところ、気になったら見よう」
1巻を取り出し、閉じたまま膝へ載せた。
勝也が少し椅子の向きを変え、私の方を見た。
「画面、見づらくない?」
「大丈夫。よく見える」
「音、大きかったら言ってね」
頷くと、勝也が再生を押した。
画面へ目を向けたまま、膝の上の本へ手を重ねた。
見たいと思った時から、今日までのことを思い出した。
勝也が話してくれなかったら、漫画を読むことも、その先を見たいと頼むことも、なかったかもしれない。
隣で、勝也も画面を見ていた。
いつもの教室でも、私の家でもない。
勝也が好きな物に囲まれた部屋で、一緒に始まりを待った。
* * *
最初に聞こえた声で、顔を少し上げた。
漫画で何度も見た顔が、画面の中で動いていた。
声がつくと、知っているはずの人が、急に近くにいるように思えた。
文字を読む時には、自分で想像していた。その想像と似ているところも、違うところもあった。
月が話す。
その声を聞いたあとで、心の中の言葉が続いた。
同じ声なのに、人へ向けている時とは、少し違って聞こえた。
勝也へ、顔を向けかけた。
でも、その間にも画面は進んでいく。
言いたいことをいったん飲み込んで、また前を見た。
漫画の時は、自分が次のコマへ目を移すまで、誰も動かなかった。
今は、少し考えている間にも、表情が変わったり、音が入ったりする。
知っている場面なのに、次に何が起きるかを待ってしまった。
音楽が変わった。
勝也が木曜日に言っていたことを思い出し、膝の本へ置いていた指を少し曲げた。
(こういうことだったんだ)
ただ読むよりも、急いで次を確かめたくなる。
その一方で、声のない間は、何も言わない顔をじっと見てしまう。
月が何を考えているのか、漫画で知っている。
それでも、画面の中の誰かと同じように、その表情を見て判断しそうになった。
隣の勝也は、黙って見ていた。
あれほどたくさん話していたのに、先の説明をしたり、私が何か思う前に感想を聞いたりはしなかった。
気になるところで私が少し身を乗り出しても、同じ方を見ていてくれた。
1話目が終わったところで、勝也がマウスへ手を伸ばした。
「どうだった?」
画面が止まった。
さっきまで続いていた音がなくなり、部屋の中が静かになった。
「面白かった」
まず、そう言った。
でも、それだけでは、全然足りなかった。
「月の声、思っていたのと、少し違った」
「どんな感じに思ってた?」
「もう少し、ずっと冷たい感じなのかなって。でも、普通に話している時は、普通の人みたいだった」
言ってから、うまく説明できなかった気がして、膝の上の本を見た。
「普通の人、なんだけど」
「うん。分かるよ。ずっと悪そうな話し方してるわけじゃないもんね」
「そう。それで、考えていることを聞くと、違うんだなって」
勝也が頷いた。
椅子を少しこちらへ向け、背もたれから体を起こした。
「漫画だと、俺がどっちも読んでるじゃん。でも、声で聞くと、ほかの人が聞いてる方と、俺らにだけ聞こえる方の違いが、分かりやすい気がする」
「うん。私もそれ、思った」
自分が言おうとしていたことが伝わって、嬉しくなった。
膝の上の1巻を開き、気になったところを探す。
「ここ、ちょっと戻ってもいい?」
「いいよ。本の方?」
「うん。さっきの顔、見たい」
ページを開いて見せると、勝也が覗き込んだ。
私は、その顔の前後にあるコマを見た。
今度は、文字を読んでいても、さっきの声を思い出した。
「読んでるのに、聞こえる」
「あるよね。それ。俺、アニメを見たあと、漫画を読み直すと、ずっとその声になる」
「勝也も?」
「うん。たまに、自分で想像してたのを忘れる」
もう1度、ページへ目を戻した。
さっきまで読んでいた時と、何かが変わっているわけではなかった。
でも、同じ文字を見ているのに、読む速さまで変わった気がした。
「声って、すごいね」
「ね。あと、音楽も」
「うん。私、あそこで、急に緊張した」
話しているうちに、言いたいことが次々に出てきた。
勝也は、ああ、あそこね、と頷いてくれた。
私が好きだと思ったところと、勝也が好きなところは、少しずつ違っていた。
「勝也は、何回も見てるの?」
「何回か。好きなところだけ、もう1回見たりもするし」
「今日は、最初からで、退屈じゃない?」
「全然。優子、今のところ、こう思ったんだって聞けるし」
勝也が、私の手元の漫画を指した。
「さっきの顔も、優子が言わなかったら、今日はそのまま次に行ってたかも。俺、話がどう進むかの方を見てたから」
紙の端へ指を添えた。
「私、いっぱい止めちゃうかも」
「止めていいよ。そのために、家で見てるんだから」
勝也が笑った。
それを見て、私も、少し笑えた。
「でも、次の途中で聞いたら、先のこと言っちゃいそうだから。話が終わってからにした方がいい?」
「俺が?」
「うん」
「それは、ちょっと自信ない」
真面目な顔で言うので、また笑ってしまった。
「じゃあ、終わってからにする」
「そうしてくれると、助かる」
勝也がお茶を飲み、私にもコップを渡してくれた。
口をつけるまで、喉が渇いていたことに気づかなかった。
「続けて、もう1話見る?」
「うん。見たい」
本を閉じ、ベッドの横へ置いた。
勝也が画面へ向き直るのを見ながら、少しだけ、机に近い方へ座り直した。
椅子に座った勝也の腕が、さっきより近くにあった。
* * *
2話目を見ている間、勝也は1度だけ、こちらを見た。
月が、テレビに向かっているところだった。
私は画面から目を離せなかった。
このあとに何が起きるかは、もう知っていた。
木曜日にも、殺さなかったらよかったのに、と話した。
それなのに、今、目の前で進んでいく場面を見ていると、さっき話したことを、もう1度言いたくなった。
指を、膝の上で握った。
画面の向こうへ声をかけても、止まらない。
私は、月の味方だと言った勝也の気持ちが、少し分かった気がした。
終わってから、勝也が再生を止めた。
「あそこで何もしなかったら」
私が言いかけると、勝也が、そうなんだよ、と顔を向けた。
「分かってても、思うでしょ」
「うん。見ていたら、黙っていてほしくなった」
「俺、最初に見た時、それ、口に出した」
「テレビに?」
「うん。返事はなかったけど」
笑いそうになってから、画面に残った顔を見た。
「でも、何もしなかったら、あのやり取り、見られなかったんだね」
「そう。それだと、俺が好きなところがなくなる」
勝也が腕を組んだ。
真剣に困っているような顔をするので、今度は笑ってしまった。
「勝也、難しいね」
「勝ってほしいけど、ずっと何も起きなかったら、それはそれで困るんだよね」
「Lには、追いついてほしいの?」
「追いついてきてほしい。でも、捕まるところは、まだ見たくない」
「両方?」
「両方」
あっさり頷く勝也を見ていると、木曜日に聞いた時より、その気持ちが分かるように思えた。
どちらが正しいかを決める話と、続きを見たくなることは、少し違っていた。
「私、今のところは、Lが出てきて、ほっとしたの」
「うん」
「でも、月が何をするかも、知りたい」
「じゃあ、両方だ」
「そうなのかな」
2人で笑った。
勝也が、机に置いた漫画を取った。
同じ場面を探して開き、こちらへ向ける。
「この辺、本だと、一気に読んだ?」
「うん。先が気になって」
「俺も。アニメだと、待ってる時間があるから、余計に、何か言いたくなるのかも」
指が止まったページへ目を落とした。
次へ進めば、答えが見える。
さっきは、その先を知っていても、画面が動くのを待つしかなかった。
「待ってる間も、話の中なんだね」
勝也が、少し考えてから頷いた。
「ああ。そうかも。俺、そこまで考えてなかった」
「変な言い方だった?」
「ううん。なるほどって思った」
その言葉が嬉しくて、すぐには次を言えなかった。
勝也の好きな物を教えてもらいに来た。
私は知らないことばかりで、ずっと説明してもらうのだと思っていた。
でも、自分が思ったことも、ちゃんと聞いてもらえた。
勝也が漫画を閉じ、時計へ目を向けた。
「あ、もうこんな時間だ」
私も、同じ方を見た。
2話しか見ていないのに、思っていたより時間が経っていた。
「私、しゃべりすぎた?」
「俺も。見てる時間と同じくらい、話してたかも」
言い終わる少し前に、低い音がした。
勝也が、自分のお腹へ手を当てた。
「ちょうどいいかも。お昼、作ろうか」
頷いてから、机の端の芋けんぴを見た。
小皿へ出した分は、いつの間にか、ほとんどなくなっていた。
「お菓子、食べたのに」
「あれは、あれ」
勝也が、もっともらしく言った。
笑いながら立ち上がると、先に持ち上げようとしていたコップを、渡してくれた。
「お昼、私も手伝っていい?」
「うん。お願い」
返事をもらって、コップを両手で持った。
今度は勝也が先に歩き出しても、すぐに手を伸ばさずにいられた。
ここから、どこへ行くのかを知っていた。
廊下の途中で待ってくれる背中も、見えていた。
* * 勝也視点 * *
冷蔵庫からキャベツを出すと、優子も台所へ近づいてきた。
「これ、使うの?」
「うん。肉と、これ。優子、洗ってもらっていい?」
「うん」
優子は袖を少しまくり、手を洗った。
俺がまな板を出している間に、キャベツから外した葉を、水へくぐらせ始めた。
横を見ると、両方のかかとが浮いていた。
流しへぴったり体を寄せて、腕も伸ばしている。真剣な顔で葉を裏返す間も、背伸びしたままだった。
その姿が少し可笑しくて、つい笑ってしまった。
優子がこちらを向いた。
「何で笑うの?」
「ごめん。すごく背伸びしてるから」
「こうしないと、届きにくいんだもん」
優子が流しの中へ目を戻した。
ボウルへ葉を入れようとすると、また肩まで上がる。それを見て、俺も少し困った。
「うん。ちょっとやりにくいよね。何か、乗れる物なかったかな」
優子に葉をボウルへ置いてもらい、台所の隅を見た。食器棚の脇にも目をやったけれど、踏み台代わりになりそうな小さな台はなかった。
いつも自分がそのまま使っているので、必要だと思ったことがなかった。
「ごめん。やっぱり、ないみたい」
流しへ戻り、優子の隣へ立った。
俺には何でもない高さだった。でも、優子の肘は台より少し上にあるだけだった。
優子、こんなに小さかったっけ。
入学した時にも、小柄だと思った。
それでも、その頃より見下ろす角度が違う気がした。毎日会っているのに、同じ場所へ並ぶと、思っていた以上に差があった。
「どうしたの?」
「いや。優子、こんなに小さかったかなって」
優子は少し目を丸くしてから、俺を見上げた。
「私、小さくなってないよ」
「うん。それは、そうだね」
「勝也が大きくなったんだよ。春より」
言われて、ああ、と声が出た。
入学した頃より、俺の背が伸びていた。
同じ台所を使っていて、前ほど台を高いと思わなくなっていたのに、並んだ優子の方ばかり見てしまった。
「そっか。俺の方か」
「うん」
優子が少し笑い、流しへ目を戻した。
「じゃあ、料理は俺に任せて。優子は、お皿と箸をお願いしてもいい?」
「うん。それならできる。どこにあるの?」
「食器棚の、下の扉。大きい平皿と、普通のを1枚ずつ出してほしい」
扉を開け、重なった皿を指した。
この高さなら、優子も背伸びをせずに取れた。
「大きい方は、これ?」
「そう。それ。箸は、そのすぐ上の引き出しにあるよ」
「分かった」
優子が皿を取り出したのを見てから、俺は流しへ戻った。
* * 優子視点 * *
教えてもらった皿を1枚ずつ食卓へ運び、引き出しから箸を2人分取った。
並べる場所を考えて顔を上げると、勝也はもうキャベツを洗っていた。
さっき、私には遠かった蛇口へ、何でもないように手を伸ばす。
葉の間を広げて水を流し、水を切って、まな板へ移した。
後ろから見ていると、肩も腕も、無理をしているようには見えなかった。
私も手伝うつもりで、台所へ来た。
それなのに、キャベツを少し洗ったところで、代わってもらってしまった。
勝也は葉を重ね、包丁で切り始めた。
まな板の上で音が続き、大きめのキャベツが増えていく。
「結構、大きく切るんだね」
「うん。俺、キャベツは大きめが好きなんだ。噛んだ時に、シャキッとするのがいいんだよね」
「柔らかくなるまで焼かないの?」
「少し歯ごたえが残るくらいが好き。麺と一緒に食べると、おいしいよ」
「そっか。楽しみ」
勝也が笑い、切った分を器へ移した。
私も笑ってから、その手を見ているうちに、同じ年なのに、と思った。
昨日、私はお母さんに教えてもらいながら、卵焼きを作った。
次にどうするのか、そのたびに確かめていた。ここには教えてくれる人はいないのに、勝也は自分で分かっていて、次々に手を動かしていた。
すごいな、と思った。
でも、そのあとで、勝也のお母さんが帰ってくる時間を思い出した。
帰りを待っていたら、夕飯はずっと遅くなる。
お腹がすいたら、自分で作って、自分で食べなければならない。今日だけ私に作ってくれているのではなく、普段から、そうやって暮らしているのだった。
学校から帰ったあとも、これをするのは大変そうだった。
慣れた背中を見ていると、すごい、という気持ちだけではなく、少しかわいそうだとも思ってしまった。
この前、一緒に帰った時の言葉が浮かんだ。
私の家で、お父さんとお母さんが話しているのを聞くと、ほっとする。
みんなで食べるのは、いいなと思う。
あの時、勝也は笑っていた。
今も、キャベツを切りながら、私に笑ってくれた。
でも、今日は私の座る椅子が、普段は空いているのだと思うと、並べた箸から、すぐには手を離せなかった。
「優子、これで足りるかな」
呼ばれて顔を上げた。
冷蔵庫から肉と麺を出してきた勝也が、麺の袋を見せていた。
3つあった。
「3袋?」
「うん。優子が1袋で、俺が2袋」
袋の中へ目を向けた。
野菜と肉もある。できあがったところを想像すると、少し多いように思えた。
「私、全部、食べられるかな」
「無理しなくていいよ。食べきれなかったら、俺がもらうから」
「うん」
勝也は、少しも困っていなかった。
むしろ、まだ食べられる、と言われている気がした。
「いつもも、2袋食べるの?」
「食べるよ。1袋だけだと、あとで腹減るから」
「じゃあ、今日は、大丈夫だね」
「たぶん。夕方には、また減ると思うけど」
勝也が真面目な顔をしていたので、笑ってしまった。
さっきまでの気持ちを、どう聞けばいいのか分からないまま、隣へ出てきた肉を見た。
勝也はまな板の上を空け、今度は肉を切り始めた。
「いつも、そうやって切ってるの?」
「肉はね。ソーセージとか、ベーコンだったら、そのまま焼くこともあるよ」
「ベーコンも?」
「うん。長くても、食べられるから」
思わず笑ってしまった。
勝也も笑い、最後の1切れを器へ移した。
使い終わった包丁を流しへ移し、手を洗う。そのあとで、用意した物をコンロの近くへ寄せた。
水を入れたカップも、そこへ置いていた。
何をいつ使うか、もう決まっているようだった。
私は食卓へ目をやり、2枚とも運んでしまった皿を見た。
「お皿、こっちに置いた方がいい?」
「あ、そうだね。焼けたらすぐ盛りたいから、そこへお願い」
勝也が示した台へ、皿を運び直した。
「ありがとう。じゃあ、焼くね」
勝也が、フライパンを火にかけた。
そこから、動きが変わった。
油を広げ、肉を入れる。
音がしたと思ったら、菜箸が動き、重なっていた肉が離れた。焼け具合を見て返しながら、空いた手は、もう次に使う物へ伸びていた。
台へ置いた皿を少し寄せている間に、勝也はもうキャベツをフライパンへ入れていた。
3人分、全部ではなかった。
器には、まだキャベツが残っている。
「少しずつ焼くの?」
「うん。1袋ずつ」
「いつも?」
「いつも。2袋一緒だと混ぜにくいし、俺は1袋ずつの方がやりやすいんだよね」
話しながらも、手が止まらなかった。
肉とキャベツを混ぜ、火が通ったところで麺を入れる。
カップの水を少し注ぐと、湯気が上がった。
固まっていた麺が、菜箸で動かすたびにほぐれていく。
箸も並べ終わって、私は食卓のそばから、そちらを見ていた。
勝也は麺を広げては返し、残った塊をほぐしていた。
昨日、私が卵焼きを作っていた時のように、次に何をするのか確かめる間がなかった。
「早い」
呟くと、勝也が少しだけこちらを見た。
「そう?」
「うん。お皿を置いてる間に、もう麺まで入ってた」
勝也が笑った。
私が台の端へ残っていた空の袋をまとめる間にも、もうソースを混ぜ始めていた。
麺の色が変わり、台所へ匂いが広がった。
勝也は底から返すように混ぜ、全体を見てから、大きい方の皿を引き寄せた。
「これ、俺の方ね」
フライパンを傾け、焼きそばを皿へ移した。
菜箸で残りの野菜まで集めると、空いたフライパンをすぐにコンロへ戻した。
「もうできたの?」
「1袋目。あと2つ」
言いながら、次の肉を焼き始めた。
私は、皿の上の焼きそばと、フライパンを見比べた。
何かを取ってあげようと思う前に、勝也が自分で取っていた。
麺もソースも、使う順に、手の届くところへ置いてある。
「私、ほかに何かする?」
「じゃあ、飲み物、出してもらっていい? ご飯の時は、お茶にする?」
「うん。お茶にする」
「俺も。コップは、お皿の上の段にあるよ」
食器棚から綺麗なコップを2つ出し、冷蔵庫のお茶を取った。
食卓へ並べ、こぼさないように注ぐ。
その間にも、後ろでは同じように、肉、野菜、麺の順に音が変わっていた。
振り向くと、勝也が水を入れたところだった。
湯気の向こうで、菜箸が迷わず動いている。
料理を作るところを見せてもらうのは、初めてだった。
焼くだけ、炒めるだけ、と聞いていたので、もっとゆっくり作るのだと思っていた。
確かに、することは難しそうに見えない。
でも、その1つずつの間に、ほとんど隙間がなかった。
2袋目も、大きい方の皿へ盛られた。
1袋目の隣へ、もう同じくらいの量が乗った。
「勝也の、すごいね」
「2袋分だからね」
「これ、全部、食べるんだ」
「食べるよ」
当たり前のように言って、3袋目の肉を入れた。
自分の分を作ってもらっているのだと分かると、余計に目が離せなくなった。
勝也が切ったキャベツが、最後の分まで入る。
肉と混ざり、麺がほぐれ、白かったところがソースの色に変わっていく。
途中で勝也が少しこちらを見た。
「そんなに、珍しい?」
「うん。私だったら、まだ1つ目かもしれない」
「何回も作ってるからだよ。俺も、卵をきれいに巻いてって言われたら、止まると思う」
「でも、こんなに早くは、できないよ」
勝也は少し笑い、麺を返した。
「お皿も出してくれてたから、すぐ盛れたし。助かったよ」
何もできずに見ているだけかと思っていた。
そう言ってもらえて、食卓の方を見た。
箸も、お茶も、もう並んでいた。
3袋目が、私の皿へ盛られた。
麺の上へ、最後に残った肉と野菜が載る。
勝也がフライパンをコンロから下ろした。
「おいしそう」
私が言うと、勝也は、ちょっと待ってね、と言った。
「まだ、あるの?」
「うん。もう1つ」
別のフライパンを出し、火にかけた。
冷蔵庫から持ってきた卵は、3つだった。
1つずつ割ると、白身が丸く広がった。
その真ん中に、黄身が並んでいる。
「目玉焼き?」
「うん。焼きそばに乗せようと思って」
「上に?」
「そう。優子のは1つで、俺は2つ」
焼きそばの皿を見た。
ここへ、今、焼いている卵が乗るらしかった。
私は、焼きそばをそうやって食べたことがなかった。
目玉焼きも焼きそばも知っているのに、一緒になるところは、うまく想像できなかった。
勝也が蓋をした。
待っている間に、使い終わった袋をまとめ、台の上を空けている。
私も空の器を流しへ持っていった。
勝也は頃合いを見て蓋を取り、白身の様子を確かめた。
火を止め、フライ返しを差し込む。
崩さずに持ち上げた目玉焼きが、まず、私の焼きそばへ載った。
次に、自分の方へ2つ。
「わあ」
近くで見ると、さっきの焼きそばとは、ずいぶん違った。
白身のふちには少し焼き色がつき、真ん中の黄身は、まだ柔らかそうだった。
勝也は冷蔵庫をもう1度開け、マヨネーズを取り出した。
それを食卓へ置く。
「できた。マヨネーズは、かけたかったら使ってね」
「これも、焼きそばに?」
「うん。俺は好きなんだけど。優子は、かけない?」
「かけたことない」
勝也が、そうなんだ、と頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけ試してみてもいいし。そのままでもおいしいよ」
「うん。食べてみたい」
2人で皿を運び、向かい合って座った。
目の前に置くと、卵まで乗った1人分の焼きそばは、やっぱり少し多く見えた。
でも、それよりも、早く食べてみたかった。
箸を取ろうとしたところで、勝也が、あ、と声を出した。
「ごめん。目玉焼き、半熟にしたけど、よかった?」
顔を上げた。
さっきまで迷わず動いていた勝也が、私の皿を見ていた。
「先に聞けばよかった。俺、いつも半熟にするから、そのまま作っちゃった。苦手だったら、どうしようって」
「大丈夫。私も半熟、好きだよ」
「本当? よかった」
勝也の肩から、少し力が抜けた。
その顔が、さっきまでと違っていて、少し可笑しかった。
「私、あんまり、好き嫌いないよ。辛い物じゃなければ、だいたい大丈夫」
「そっか。じゃあ、これは平気だね。辛いのは入れてないし」
「うん。目玉焼き、こういうのが好き」
皿の真ん中へ目を向けた。
焼いている間は、あんなに落ち着いていたのに、私が食べられるかどうかは、気にしてくれていた。
「作るの、すごく早かったから。もう何も心配してないのかと思った」
「自分の分だったら、食べたいように作ればいいからね。今日は、優子も食べるのに」
「私は、楽しみだよ」
勝也が、ようやく笑った。
「じゃあ、食べようか」
「うん」
2人で手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
最初は、目玉焼きの横から、麺とキャベツを少し取った。
息を吹きかけてから、口へ入れる。
ソースの味と、焼いた匂いがした。
大きめのキャベツを噛むと、シャキッとした歯ごたえが残っていた。麺とは違う食感がして、噛むうちに葉の甘さも広がった。
勝也が大きく切るのは、この感じが好きだからなのだと分かった。
「おいしい」
顔を上げると、勝也がこちらを見ていた。
「よかった」
言ってから、自分も食べ始めた。
私は、もうひと口食べた。
家でも、焼きそばは食べる。
でも、今日は、作っているところを最初から見ていた。
勝也が選んで入れた物が、今、自分の口の中にある。それだけでも、いつもと違う気がした。
箸を目玉焼きへ移した。
白身を少し切り、麺と一緒に持ち上げる。
香ばしいふちと、柔らかいところがあった。
「卵も、一緒に食べるんだね」
「うん。黄身、麺に絡めてもおいしいよ」
勝也が、自分の目玉焼きへ箸を入れた。
真ん中が割れ、黄身が麺へ広がった。
私も、同じようにしてみた。
少し力を入れると、柔らかい黄身が出てきた。
その下の麺を取ると、さっきとは違う色がついていた。
口へ入れて、少し目を開いた。
「おいしい」
「でしょ」
勝也が嬉しそうに笑った。
さっきより、ソースの味が柔らかく感じられた。卵が絡んだところを、もう1度食べたくなった。
「これ、好き」
「よかった。卵ある時は、結構やるんだ」
「私、初めて」
目玉焼きを少しずつ崩し、麺と一緒に食べた。
全部混ぜてしまうのはもったいない気がして、黄身をつけないところも残した。
勝也がマヨネーズを取った。
皿の上へかけるところを見ていると、使う? と、こちらへ向けてくれた。
「少し試してみたい」
「うん。こっちの端にかけてみたら?」
教えてもらったところへ、少しだけかけた。
その下の麺を取り、食べてみる。
今度は、ほんの少し酸っぱさが加わった。
でも、嫌な感じではなかった。ソースだけのところより味が濃くなって、もうひと口、確かめたくなった。
「これもおいしい」
「うん。合うよね」
「うん。知らなかった」
勝也へマヨネーズを返してから、自分の皿を見た。
そのままの麺と、卵を絡めた麺と、少しマヨネーズをつけたところがある。
次はどこを食べようかと考えると、箸を止めている間がなかった。
勝也も食べながら、どのくらいかけるのが好きかという話をした。
私は、今のくらいでも好き、と答えた。
初めてなのだから、自分で決められないと思っていたけれど、食べてみたら、ちゃんと好きな量があった。
「勝也」
「うん?」
「これ、また、作ってほしい」
勝也が箸を止めた。
それから、少し笑った。
「もちろん。また作るよ」
その返事まで嬉しくて、皿へ目を落とした。
勝也が作ってくれたから、おいしいと思う気持ちは、きっとある。
でも、それだけではなかった。
卵を崩した時も、マヨネーズを少し加えた時も、知らなかった味に驚いた。
もう少し食べたいと思って、自然に、次のひと口を取っていた。
「林間学校でも、こんなふうに、皆で食べるんだね」
私が言うと、勝也が頷いた。
「うん。あっちはカレーだけど。野菜も、もっといっぱいだと思う」
「じゃがいも、いっぱい洗うんだよね」
「あと、米。俺、火の方ばっかり見て、米を洗うの忘れないようにしないと」
「私も、覚えておく」
「お願い。翔太、火の方に全部持っていかれそうだから」
笑ってしまった。
しおりを広げて、火の係をやりたいと何度も言っていた顔が浮かんだ。
「真弓ちゃんに呼ばれると思う」
「たぶんね。班長、こっちも、って」
「うん」
笑ったあとで、さっき使っていた台所を見た。
ここには、私と勝也しかいなかった。
「でも、私、今日みたいにできるかな」
「準備?」
「うん。……人、たくさんいるから」
勝也は少し考えてから、頷いた。
「その時、できそうなことを一緒にやろう。真弓も、決まった係にしなくていいって言ってたし。お皿を並べたりするのも、助かるよ」
箸を持つ手の力を、少し緩めた。
「お米を洗う時は、手伝いたい」
「うん。お願いするね」
返事をもらって、また、焼きそばを食べた。
ふと顔を上げると、勝也の皿には、もうほとんど残っていなかった。
私の方より、麺も卵も多かったはずだった。
「もうなくなるの?」
「うん」
「2袋、あったのに」
「食べたからね」
当たり前の返事だった。
でも、私が新しい食べ方に驚いている間に、勝也の方は、いつもどおりの速さで減っていたらしかった。
「作るのも食べるのも、早いね」
勝也が笑った。
私は、ほとんど空になった大きな皿へ、もう1度目を向けた。
前に、1人の時は肉を焼くだけだったり、簡単な物を一品作って済ませたりすると聞いて、ちゃんと足りているのか、少し気になっていた。
焼いただけのおかずが、少し。その横に、ご飯。
話を聞きながら、自分の食べる量くらいを思い浮かべていたのかもしれない。
今日は、作るところも、食べるところも見た。
麺は2袋。肉も野菜も入っていて、その上に目玉焼きが2つ。
それを、私より早く、ほとんど食べ終えている。
「ちょっと安心した」
「何が?」
「勝也、前に、焼くだけって言ってたから。一品だけで、ご飯、足りてるのかなって、思ってたの」
勝也は自分の皿を見てから、こちらへ顔を戻した。
「そっか。大丈夫だよ。お腹すくから、食べたい分は作ってる」
「うん。今日、分かった」
言いながら、少し笑ってしまった。
足りないのでは、と心配していた量を、勝也はとっくに超えて食べていた。
「何?」
「私が思ってたより、ずっと、いっぱい食べてたから」
「そう? 家だと、自分の分、好きなだけ作れるしね」
何でもないことのように言うので、また笑ってしまった。
昨日まで頭に浮かべていた小さな食事が、目の前の大きな皿に置き換わった。
1人で食べる時も、こんなふうに慣れた手つきで、自分の食べたい量を作っているのだろう。
その様子を知ることができて、少しほっとした。
でも、台所で後ろ姿を見ながら気になったことが、もう1つ残っていた。
「自分で作るの、大変じゃない?」
勝也が顔を上げた。
「学校から帰ってきて、ご飯も作って。お母さん、帰ってくるの遅いでしょ」
「うん。でも、俺が食べる分だけだし、面倒な日は、すぐできる物にするから」
勝也は、皿の端へ箸を置いた。
「好きな物を、好きな量だけ作れるのは、結構いいよ。今日みたいに卵2つ乗せてもいいし」
目玉焼きが2つ並んでいたところを見て、少し笑った。
それから、今度は勝也の顔を見た。
「……1人で食べるのは、寂しくない?」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
勝也は少し考え、うん、と頷いた。
「最初はね。親が離婚したばっかりの頃は、ご飯の時も静かだなって思ってた」
コップへ手を伸ばし、続けた。
「でも、今は慣れたよ。1人なら、好きな物を見ながら食べられるし」
「好きな物?」
「アニメとか、映画とか。続きが気になってたのを見ながら食べると、結構楽しいんだよ」
顔が、さっき部屋でアニメの話をしていた時のものになった。
「漫画を読みながら食べることもあるし。ゲームしながらの時もある」
「ゲームも?」
「うん。ずっと両手を使うやつだと、箸、持てないけどね」
片手に箸を持ち、もう片方の手を動かすところを想像した。
勝也は少し笑った。
「離婚する前だったら、お行儀が悪いって怒られて、できなかったんだけど。今は、誰も見てないから」
「お母さんがお休みの日は?」
「やらないよ。今も、やったら怒られるから」
すぐに返ってきたので、思わず笑ってしまった。
「誰も見てない時だけなんだ」
「そう。友達が来てる時も、ゲームとか漫画はやらないよ。一緒にテレビを見ながら食べることはあるけど」
「今日は、つけてないね」
「優子と話してたから、忘れてた」
勝也がテレビを見てから、こちらへ顔を戻した。
「1人のご飯も、今は案外気に入ってるんだよね。食べたい物を作って、見たかった物を見られるから」
私を安心させるために言っているのだろうかと、一瞬思った。
でも、何を見ながら食べるか話す声は、楽しそうだった。大変さを隠しているようには聞こえなかった。
私が思い浮かべていたのは、誰もいない部屋で、黙って箸を動かす勝也だった。
そこへ、テレビの音や、漫画を読んで笑う声が加わった。
知らないまま、寂しい時間だけを考えていたのだと思った。
「この前、うちでみんなと食べるの、いいなって言ってたから」
「うん。それも本当だよ」
勝也は、今度は迷わず頷いた。
「優子のお父さんとお母さんが話してるの、聞いてるとほっとするし。優子も、これおいしいねって言ってくれるでしょ。そういうの、俺の家で1人で食べてる時にはないから」
さっき私が、おいしいと言った時にも、勝也は顔を上げてくれた。
思い出しながら、頷いた。
「あっちも好きだし、こうして優子と食べるのも好きだよ。だから、また来てほしい」
「うん。また来たい」
今度は、すぐに答えられた。
かわいそうだと思ったことを、そのまま口にしなくてよかった。
勝也が大変そうだからというだけでなく、私も、また向かいに座りたかった。
勝也が、まだ麺の残っている私の皿へ目を向けた。
「優子は、ゆっくりでいいよ。急がなくていいから」
「うん」
自分の皿を見た。
初めに、多いかもしれないと思った焼きそばは、私の方も、ずいぶん減っていた。
お腹は、いっぱいになってきていた。
でも、もういらないとは思わなかった。
残った麺へ卵を少し絡め、最後のキャベツも食べた。
勝也は自分の分を食べ終えて、お茶を飲んでいた。
私が箸を置くと、空になった皿へ目を向けた。
「全部、食べられたね」
「うん」
私も、皿を見た。
残したら食べてもらおうと思っていたのに、1人分、全部なくなっていた。
「苦しくない?」
「大丈夫。お腹いっぱいだけど、おいしくて全部食べちゃった」
勝也が、少し目を細めて笑った。
「よかった。作ってよかった」
その顔を見て、私も笑った。
ごちそうさま、と言って、もう1度、手を合わせた。
* * *
食べ終わったあとは、2人で食器を流しへ運んだ。
勝也は空いた皿を重ね、使ったフライパンへ水を入れた。
横へ立って手を伸ばしかけ、さっき、キャベツを洗おうとした時の高さを思い出した。
流しの底へ置かれた大きな皿は、やっぱり遠かった。
「テーブル、私が拭いてもいい?」
「うん、お願い。洗い物は俺がやるから」
「うん」
勝也が台拭きを濡らし、絞って渡してくれた。
私はマヨネーズとお茶を冷蔵庫へ戻し、食卓へ向かった。
2人の皿があったところを拭いた。
小さく残っていたソースの跡が取れ、コップの下の丸い水の跡もなくなった。
向こう側へ回って端まで拭いている間に、流しでは水の音がしていた。
勝也は2つのフライパンを洗い、皿と箸へ手を移していた。
部屋から持ってきたコップも、食事で使った物と一緒に洗っていく。
「ここ、全部拭いたよ」
「ありがとう。助かった」
「台拭き、どこに置いたらいい?」
「そこへ置いてくれたら、あとで俺がすすいでおくよ」
言われたところへ置いた。
料理も、洗い物も、勝也がしてくれた。その間に自分が片づけた食卓を見ると、そこだけでも終えられたことが嬉しかった。
「お昼、おいしかった。また、お皿の用意とか、私にさせてね」
「うん。お願いする。場所も覚えてもらったしね」
頷くと、勝也が最後のコップを水切り籠へ伏せた。
台拭きもすすいで掛け、蛇口を閉める。タオルで手を拭くのを、食卓のそばで待った。
部屋へ戻る途中で、勝也の手を取った。
勝也がこちらを見たので、少しだけ握り直した。
「手、冷たいね」
「さっきまで水、使ってたからかな」
勝也が、指を軽く握り返してくれた。
でも、冷たいことを伝えたくて手を伸ばしたのではなかった。
お昼の支度の間は、お皿やコップを持っていた。
食べ終わったあとは、台拭きを持っていた。
片づけが終わったら、また繋ぎたくなった。
怖いことは、今、何も起きていなかった。
それでも触れたくなったのだと、自分では分かっていた。
勝也の方からは、何も聞かれなかった。
部屋まで一緒に歩き、扉を開ける時だけ、少し持ち方を変えてくれた。
部屋へ入ったところで、ベランダの方から短い音が聞こえた。
何の音だろうと顔を向けるより先に、勝也がそちらを見た。
「あ、春樹だ」
勝也がガラス戸を開けると、隣の方から声がした。
「勝也、今日いるんだ」
「うん。どうしたの?」
「さっき、声が聞こえたから。最近、この時間、家にいないこと多かったでしょ。今日は珍しいなと思って」
「ああ。うん、今日は家にいるよ。ちょっと待って。玄関、開けるね」
聞き慣れた声だった。
でも、教室で聞く時とは、声のする場所が違っていた。
ガラス戸を閉めながら、勝也が私を見た。
「今の、呼ぶ時の合図なんだ。俺も春樹も綾香も、いつもああやって知らせてるの」
「そうなんだ」
勝也と一緒に玄関へ向かった。
ドアを開けて少し待つと、近づいてくる足音が聞こえた。
「何してるのかなと思って――あ」
春樹くんが、勝也の後ろにいた私を見て、少し目を丸くした。
「富田さんも来てたんだ」
「……こんにちは」
「うん、こんにちは」
小さく頭を下げると、春樹くんも笑って挨拶を返してくれた。
「今日は優子とアニメ見てたんだ。今、お昼食べ終わったところ」
「そうだったんだ」
春樹くんの目が、私と勝也の間へ、少しだけ動いた。
手をつないだままだったことに気がついて、指先へ力が入った。
「上がる?」
勝也が聞くと、春樹くんは首を振った。
「ううん。今日は挨拶だけにする。家にいるなら、ちょっと顔を見ようと思っただけだから」
「そっか」
「アニメの続き、見るんでしょ。2人でゆっくり見てなよ」
そう言って、春樹くんは玄関から少し離れた。
「じゃあ、勝也。またね」
「うん。またね」
「富田さんも、また学校で」
「……うん。またね」
勝也の横から、小さく手を振った。
春樹くんも手を上げて、そのまま帰っていった。
閉まったドアを、少しの間、見ていた。
来る時も帰る時も、何か用事を済ませに来たという感じではなかった。
家にいると分かったから、顔を見に来た。
それだけのことが、ここではいつものことなのだと思った。
「本当にお隣なんだね」
勝也が、こちらを見た。
「うん。春樹がこっちで、反対側が綾香」
隣同士だということは、前から知っていた。
でも、合図をするとすぐに返事が聞こえて、少し待つだけで玄関に来てくれる。その近さを、初めて見た。
昔は、私もそうだった。
勝也に会いたくなったら、お隣へ行けばよかった。
遊ぶ約束をしていない日でも、家にいるかな、と思ったら、顔を見に行けた。
今日、ここへ来ることを、お母さんに話した。
朝、車に乗っている間も、もうすぐ着くのだと思って、何度も外を見ていた。
勝也の部屋へ来られるのが、それだけ嬉しかった。
春樹くんには、ここはいつでも顔を出せる、お隣の家なのだ。
さっきの、何でもないやり取りが、少し羨ましかった。
勝也の手は今もつながっているのに、もうお隣同士ではないことが、急に寂しくなった。
「優子?」
顔を上げた。
勝也が、私の返事を待っていた。
「……前は、私たちも、お隣だったなって」
「うん。そうだったね」
勝也が笑った。
「よく一緒に遊んだよね」
「うん」
勝也も、同じ頃のことを思い出してくれたのだと思った。
嬉しくて頷いたら、少し寂しくなったことまでは、言えなかった。
部屋へ戻る時、勝也はさっきと同じように、私の手を引かずに歩いてくれた。
ベッドも机も、午前中に見たままだった。ここで一緒に過ごせる時間は、まだ残っていた。
手を離す前に、もう1度だけ、そっと握り直した。
「もう少し見る? それとも、休憩する?」
「あと1話、見たい」
「うん。じゃあ、そうしよう」
ベッドへ座ると、勝也が椅子を引いた。
午前中より、少し私に近いところで止まった。
再生が始まる前に、1度だけ、隣の顔を見た。
勝也は画面へ目を向け、音の大きさを直していた。
自分の部屋で、いつもしていることなのだろうと思った。
私が知っている勝也の場所が、今日、増えた。
学校でも、私の家でもない場所ができた。
画面から音が聞こえ、前へ向き直った。
* * *
次の話が終わる頃には、膝へ置いていた手の冷たさはなくなっていた。
でも、今日はここまでにしようか、と勝也が言った時には、少しだけ残念だった。
「もう1話、見たくなるね」
「うん。次、ってしてると、ずっと見ちゃう」
勝也が再生を止めた。
「続けてもいいけど、優子、ほかも見たかったでしょ。本とか、ゲームとか」
「うん」
「全部、今日じゃなくてもいいし。また来た時に、続きを見てもいいよ」
顔を上げた。
勝也は、ケースへDVDを戻していた。
「……また、来てもいいの?」
「もちろん。俺も、優子の家に、何回も遊びに行ってるし」
今日1日だけの約束だと思っていたわけではない。
でも、自分から、また行きたい、と頼むまでは、次のことを考えすぎないようにしていた。
「今日みたいに、朝からでも?」
「うん。用事がなければ。お昼も、一緒に食べればいいし」
勝也が笑った。
「次は、焼きそば以外も作れるよ。似たようなやつが多いけど」
「食べたい」
「じゃあ、決まりだね」
まだ、いつ来るかは決めていなかった。
それでも、来ていいと言ってもらえただけで、今日の終わりを急いで考えなくてよくなった。
勝也が立ち上がり、机にあった漫画を本棚へ戻した。
私が持ってきた4冊が、続きの巻の隣へ収まっていく。
その横に、まだ読んでいない5巻があった。
「それ、続きだよね」
「うん。貸そうか」
頷きかけてから、少し迷った。
「でも、今、開いたら、帰るまでに、読み終わらないかも」
「持って帰っていいよ」
「いいの?」
「もちろん。優子、ちゃんと返してくれるし」
勝也が5巻を抜き、渡してくれた。
受け取った表紙を見た。
知らない続きを、今すぐ開きたくなった。
でも、その前に、もう1つ思い出したことがあった。
「勝也」
「うん?」
「前に話してた模型、見てもいい?」
勝也が、本棚の上の方へ目を向けた。
「ああ。お城とか?」
「うん。勝也が作ったの」
「いいよ。ちょっと待ってね」
椅子を机へ戻し、上に置いてあった物の手前を空けた。
私が見上げると、両手で、台のついた模型を持ち上げた。
動かす時だけ、それまでよりゆっくりだった。
「こっちは、プラモデル。木で作った方もあるけど、先にこれ」
机へ置かれたのは、小さなお城だった。
屋根が何段も重なり、窓や壁の細かいところまで形になっていた。
しゃがんで下から見ると、さっき上から見た時とは違うところが見えた。
「これ、全部勝也が?」
「うん。部品を切って、組み立てた」
「屋根も、1つずつ?」
「そう。ここと、ここは、別の部品」
勝也が、触れないくらいのところで指を止めた。
私は、その先を覗き込んだ。
言われなければ、どこからどこまでが別なのか、分からなかった。
「色も、塗ったの?」
「塗ったところもあるよ。細かいところ、ちょっとはみ出したけど」
「どこ?」
「ここ。ほら」
言われたところを見ても、すぐには気づかなかった。
もう少し近くへ寄って、やっと、それらしいところを見つけた。
「私、言われても、よく分からない」
「作った方は、分かるんだよね」
勝也が笑った。
私も笑いかけてから、昨日の卵焼きを思い出した。
「あ、分かるかも」
「何が?」
「自分が、失敗したところ。私も、卵焼きの破れたところ、ずっと見てた」
「ああ。そういう感じ」
勝也が、模型の向きをゆっくり変えてくれた。
今度は、反対側の屋根が見えた。
「でも、見てる人は、気づかないこともあるんだね」
「あると思う。俺、昨日の卵焼き、どこが破れてたか分かんなかったし」
「切ったところの少し内側」
「じゃあ、もう食べちゃったから、分かんないね」
笑ってしまった。
勝也も笑い、模型をいったん元の場所へ戻した。
次に見せてくれたのは、木で作った5重の塔だった。
近くで見ると、木の細い筋が見えた。
屋根や柱の色も、さっきのお城とは違う。
小さな台の上で、5つの屋根が、間を空けて重なっていた。
「こっちは、木?」
「うん。本の図とか写真を見ながら、小さい木材や割り箸を切って組み立てた。建物の形まで、俺が考えたわけじゃないけど」
「でも、作るのは、勝也でしょ」
「まあ、そうだけど」
勝也が、少し照れたように笑った。
私は、棚へ戻ったお城を見てから、目の前の塔へ視線を戻した。
「お城とか塔とか、こういう建物の模型が好きなの?」
「うん。興味持ったのは、小学校の修学旅行からかな」
「修学旅行?」
「転校したあとの学校で、6年生の時に京都と奈良へ行ったんだ。そこで、古い建物をいろいろ見て」
勝也は、塔のいちばん上から、下の屋根へ目を移した。
「何百年も前に建てたのに、今も立ってるんだなって。もちろん修理はしてるんだけど、その間には地震もあったはずでしょ。どうやって作ったら、そんなに長く残るんだろうって思ったの」
「木でできてるのに?」
「そう。あんなに高かったり、屋根が大きかったりするのに。俺、その時まで、古い建物だなって見るだけだったから」
勝也が、少し顔を近づけた。
指先は模型へ触れず、屋根の下で止まった。
「特に気になったのが、この辺」
私も、同じところを覗き込んだ。
柱の上に、小さな四角い物や横に長い物が重なっている。その上へ屋根が載っていた。
「ここ、細かいね」
「本物だと、もっと複雑なんだよ。柱から外へ、こんなに屋根が出てるじゃん。何で落ちないのかなって、下からずっと見てた」
勝也が、柱のあるところと、屋根の端を順番に示した。
言われて見ると、柱が立っていないところまで、屋根が大きく伸びていた。
「この、木を組み合わせて屋根を支えてるところ、組物っていうんだって」
「くみもの?」
「うん。何でこんな形なんですかって聞いたら、名前を教えてもらって。帰ってからも、本とかパソコンで調べた」
私は、さっき見ていた小さな部品へ目を戻した。
「私、飾りなのかと思った」
「俺も、最初はそう思ってた。でも、ちゃんと屋根を支えるための物だったんだよね。段々外へせり出すように組むと、柱より外の方で屋根を受けられるんだって」
「だから、あんなに先まで屋根が出せるんだ」
「うん。組み方も1種類じゃなくて。図で見ると、見えてなかった木が奥にあったりしてさ」
説明しながら、勝也は空いている方の手を、少しずつ前へずらした。
手の動きと模型を見比べると、ただ細かく作ってあると思っていたところに、順番が見えてきた。
「それで、模型も作りたくなったの?」
「そう。見るだけより、自分でも並べたり組んだりしてみたくなった。どこがどう重なってるのか、作ってみたら分かるかなって」
勝也が、模型の向きを少し変えた。
柱の陰になっていたところが、こちらを向いた。
「本物の作りを全部同じにはできないから、形を似せてるだけのところもあるけど。それでも、ここに木が入るんだ、って分かると面白いんだよね」
「だから、屋根の下までこんなに作ってあるんだね」
「うん。完成すると、あんまり見えなくなっちゃうんだけど」
少し残念そうに言うので、私はもう少し低いところから覗いた。
上から見ていた時には、屋根の陰に隠れていた部分だった。
「ここからなら、見えるよ」
「本当だね。そこ、つけるの結構大変だった」
勝也が、嬉しそうに笑った。
「お城も、その時から?」
「うん。調べてるうちに、日本のお城の造りも気になってきて。お城はプラモデルもあったから、こっちも作ってみようって。気がついたら、こういう建物ばっかりになってた」
「まだ作りたいの、あるの?」
「あるよ。作る時間もだけど、置く場所をどうしようかなって思ってる」
棚を見上げた勝也につられて、私もそちらを見た。
さっきは、細かいところまでできていることに驚いただけだった。
今は、どれを見た時に気になって、どこを作ってみたくなったのだろうと、1つずつ聞いてみたくなった。
私の知らない小学校で、修学旅行へ行った勝也。
大きな屋根の下で立ち止まり、上を向いたまま、木の重なりを見ていた姿を想像した。
さっきから模型へ向けている目と、きっと、似ていたのだと思った。
私は机の端へ手を置き、触らないようにしながら、下の方を見た。
細い部品が、何本も並んでいた。
「これ、途中で、くっついちゃわないの?」
「変なところにつくことはあるよ。指についたり」
「指?」
「うん。そこじゃないって思う」
勝也が、自分の指先を見た。
その動きが可笑しくて、口元を押さえた。
「笑うけど、結構困るんだよ。部品は持ちたいのに、指の方へついてくるから」
「ごめん。でも、想像しちゃった」
「できたらできたで、今度は乾くまで触れないし」
「待つの?」
「うん。ここ、動かないかなって触って、まだ動くのを確かめると、やり直しになる」
勝也が、少し嫌そうな顔をした。
実際にやったことがあるのだと分かって、今度は2人で笑った。
お昼ご飯を作る時には、切らずに済む物は切らないと言っていた。
その勝也が、こんなに小さい部品を、1つずつ並べている。
並べ終わっても、すぐに持ち上げず、乾くのを待っている。
「勝也、細かいこと好きなんだね」
「好きな物ならね。何でも好きってわけじゃないよ」
「うん。ベーコン、切らないし」
「それは、食べられるからいいんだよ」
すぐに言い返されて、笑った。
勝也も、お城まで同じように適当に作ったら、屋根なくなるよ、と言った。
「屋根、なくなっちゃうの?」
「なくても立ってるから、いいか、ってなる」
「それは、つけて」
「つけるよ」
机の上を見ながら、しばらく笑っていた。
前に話を聞いた時には、作っているところを想像するしかなかった。
今は、完成した物が目の前にある。
勝也が何度も触って、向きを確かめて、時間をかけた物だった。
「見せてくれて、ありがとう」
「ううん。こんなのでよければ、いくらでも」
「こんなの、じゃないよ。すごい」
勝也が、こちらを見た。
私は、模型の小さな窓へ目を向けたまま続けた。
「私、前に聞いた時より、作ってるところ、見たくなった」
勝也は、すぐには返事をしなかった。
顔を上げると、少し笑っていた。
「じゃあ、また作る時、見に来る?」
「うん」
「ずっと同じことしてるかもしれないけど。それでもよかったら」
「見たい」
勝也が、分かった、と頷いた。
今日、続きを見る以外にも、また来たい理由ができた。
* * *
模型を片づけたあと、机のパソコンを見せてもらった。
勝也が前に、自分で組んだと話していた物だった。
「これも自分で作ったんだよね」
「うん。中の部品を選んで、組んだ。画面とか、こういう外側まで作ったわけじゃないけど」
勝也が、机の下の方を示した。
使い終わった画面は、もう暗くなっていた。
そこまで自分で用意できることが、見てもまだ、不思議だった。
「動かなかったら、どうするの?」
「何が違うのか、調べる」
「すぐ分かる?」
「分かんない時もあるよ。だから、困る」
当たり前のことのように言われた。
私は、勝也は作り方を知っているから、最初から何でもできるのだと思いかけていた。
「作る前に調べて、それでも分かんなかったら、また調べる。模型もそうだけど」
「いっぱい調べるんだ」
「うん。調べてる間に、別のが欲しくなることもある」
勝也が笑った。
その言い方で、難しそうな物が、少しだけ近くなった。
「本、探してる時みたい」
「本?」
「読みたいのを探してたら、別のも、読みたくなるの」
「ああ。あるね。1冊のつもりだったのに、何冊か買っちゃうやつ」
「うん」
今朝見た本棚へ、もう1度目を向けた。
最初は、勝也の知らないところが、たくさん並んでいるように見えた。
今は、どんなふうに選んだのかを、少し想像できた。
ゲームも、いくつか見せてもらった。
知っている名前があったので話すと、勝也は、そこから好きなところを説明し始めた。
途中で、これは言うと、あとで遊ぶ時に分かっちゃうか、と止まり、別の話へ移った。
「今日、それ何回もしてるね」
「何を?」
「言おうとして、やめるの」
「そうだね。話したいことが、だいたい、あとで知った方がいいことなんだよ」
真剣な顔で言ったので、笑ってしまった。
「じゃあ、私が分かるようになったら、聞くね」
「うん。たぶん、すごい話すと思う」
「知ってる」
勝也が、一瞬、目を丸くした。
それから、木曜日にあれだけ話したもんね、と笑った。
見せてもらった物を戻したあと、勝也が、飲み物を入れてくると言った。
私は渡された5巻を持って、ベッドへ座っていた。
「また、カルピスにする?」
「今度は、お茶にする」
「分かった」
「一緒に行く?」
聞かれて、開いた扉の向こうを見た。
台所までの道は、何度か歩いた。
勝也は、私の返事を待っていた。
「ここで本、見ててもいい?」
「うん。すぐ戻るね」
勝也が部屋を出た。
扉は、開いたままになっていた。
足音を聞きながら、漫画の表紙へ目を落とした。
すぐには開かなかった。
廊下の方を見て、台所から聞こえる、小さな音を確かめた。
知らない場所へ行ってしまったのではない。
冷蔵庫を開けて、お茶を注いで、戻ってくる。
自分も一緒に行ったから、何をしているのか分かった。
肩の力を少し抜き、表紙を開いた。
1ページ目に目を向けているうちに、足音が近づいてきた。
「お待たせ」
顔を上げると、勝也がコップを持って立っていた。
「ありがとう」
「うん。もう読んでた?」
「少しだけ」
勝也が机へコップを置いた。
そのあと、自分も本棚から漫画を取り、椅子へ座ろうとした。
私は、口を開きかけた。
言わなくても、同じ部屋にいてくれる。
椅子はすぐ近くで、離れたところへ行くわけでもなかった。
でも、さっき、手を繋ぎたくなったのと同じだった。
「勝也」
「うん?」
「……こっち、座らない?」
自分の隣へ、少し目を向けた。
勝也が、椅子へ掛けていた手を離した。
「ああ。うん」
本を持ったまま、隣へ来てくれた。
ベッドが少し沈んだ。
私は本を胸の前へ寄せ、空けていた場所を、少しだけ詰めた。
肩が触れた。
勝也は、特に何も言わずに、自分の本を開いた。
「ここでいい?」
「……うん」
頷いてから、膝の上へ目を落とした。
ページを開いているのに、しばらく、文字が頭へ入ってこなかった。
学校で、怖くなって袖を握る時とは、違っていた。
そばにいてほしいのは同じだった。
でも、今は、もう少し近くにいてほしい、と、自分で頼んだ。
勝也はそれを、いつもと同じように受け止めていた。
きっと、私が何を考えているかは、知らない。
(それでも、嬉しい)
肩へ触れる温かさを確かめるように、少しだけ体の力を抜いた。
勝也の手元で、ページがめくられた。
私も、やっと最初の行へ目を戻した。
しばらくして、隣で小さな息が漏れた。
見ると、勝也が漫画へ目を落としたまま笑っていた。
何か面白いところだったらしい。
でも、声には出さず、口元だけを緩めている。
私は自分の本へ戻りかけて、また隣を見た。
今度は、肩が少し動いた。
触れているから、その動きが分かった。
「面白い?」
聞くと、勝也が顔を上げた。
「うん。ごめん。うるさかった?」
「ううん。笑ってたから」
「ここ、何回読んでも笑っちゃうんだよね」
本を少しこちらへ向けかけてから、勝也が手を止めた。
「あ、これも、優子、まだ読んでないか」
2人で顔を見合わせた。
どちらからともなく、笑った。
「また言えないところ?」
「そう。今日、俺、こればっかりだね」
「じゃあ、それも、今度読む」
「うん。最初の巻から貸すよ」
勝也が本を膝へ戻した。
私も、開いていたページへ目を向けた。
少し読むと、次が気になった。
続きを読むうちに、隣を見ていた時間が減っていく。
それでも、勝也がページをめくる時、触れている肩が少し動いた。
話さなくても、そばにいた。
別の本を読んでいるのに、1人で読んでいる時とは違った。
目の前の続きを知りたい。
でも、このまま隣で過ごす時間も、あまり早く終わってほしくなかった。
* * *
ポテトチップスを開けたのは、それから少し経ってからだった。
勝也が、机の端に置いた袋を見て、そういえば、と言った。
「優子、お昼、まだお腹いっぱい?」
「少しなら食べられる」
「じゃあ、開けようか」
漫画を閉じ、手を拭いてから、袋の中を覗いた。
勝也が小皿へ少し出し、私にも取りやすいところへ置いてくれた。
「アニメを見てる時に、食べなかったね」
「話す方に夢中になってたね」
勝也が笑った。
私も1枚取り、端からかじった。
芋けんぴとは、音も、甘さも違った。
2人で食べながら、さっき見たところの話を少しした。
勝也は、今度は最後まで言っても大丈夫な話ばかりだ、と、ほっとしたように言った。
「我慢してた?」
「ちょっと。見てる時に言いたくなるところもあったし」
「言ってもよかったのに」
「でも、優子、初めて見るから。先に俺がしゃべったら、そっち気になるかなって」
小皿へ伸ばしかけた手を止めた。
午前中、私が画面を見ている間、黙って隣にいてくれたことを思い出した。
「ありがとう」
「うん。でも、終わったあと、いっぱい話せたから。俺も楽しかった」
勝也が、袋の上を折った。
残った分を机へ戻し、椅子に掛けてあった上着を少し端へ寄せた。
私の鞄の持ち手が、その下へ入っていた。
鞄を見て、初めて、帰る時間のことを思い出した。
時計を見ると、まだ外が暗くなる前だった。
けれど、朝からずっと、ここにいた。
「……そろそろ、帰った方がいいかな」
勝也も時計を見た。
「そうだね。お母さん、遅くならないようにって言ってたし。今から出れば、ゆっくり歩いて帰れると思う」
「うん」
返事をしてから、漫画へ目を向けた。
読んだところへ栞を挟み、閉じる。
勝也が、持ってきた時の紙袋を渡してくれた。
「これに入れる?」
「うん。ありがとう」
朝は4冊入っていた袋へ、今度は5巻を入れた。
ずいぶん軽くなった。
「続き、気になるところ?」
「うん」
「じゃあ、帰ってから読んで。分かんなかったところとかあったら、また聞いてね」
「勝也に、先を言ってもらわないように?」
「そう。どこまで読んだか、最初に言って」
笑いながら、鞄を肩へ掛けた。
ハンカチも、携帯もある。
持ってきた物を確かめてから、部屋を見回した。
本棚の中に、返した4冊があった。
机には、使い終わったDVDのケースが並んでいる。
ベッドの端は、さっきまで2人で座っていたところだけ、掛け物に少し皺が寄っていた。
何も知らなかった部屋に、今日のことが残っていた。
「忘れ物、ない?」
勝也に聞かれ、頷いた。
「うん。大丈夫」
帰りたいわけではなかった。
でも、また来ていいと言ってもらっていた。
今度来た時には、どこへ鞄を置くかも、どこへ座るかも、少し分かっている。
勝也が、机の端に置いてあった眼鏡を掛けた。
学校で見慣れた顔に戻ったのを見て、もう出かけるのだと、改めて思った。
勝也が空のコップを持った。
私も1つ持ち、台所へ運んだ。
昼に勝也が洗ってくれたお皿の前を通り、流しへそっと置く。
玄関で靴を履いていると、勝也が鍵を取った。
送ってくれることは分かっていたけれど、同じように靴を履いてくれるのを見ると、嬉しかった。
紙袋も持ってくれたので、私は日傘を手に取り、空いた手を勝也へ差し出した。
「お邪魔しました」
誰もいない廊下へ言った。
勝也が、隣で笑った。
「また来てね」
頷いた。
その言葉を、帰ってからも、何度か思い出す気がした。
* * *
帰り道には、少し傾いた日が差していた。
日傘を少し傾けると、勝也が、こちら側を歩く、と場所を替わってくれた。
「疲れてない?」
「大丈夫」
「結構、ずっと話してたね」
「うん。楽しかった」
勝也が、そうだね、と笑った。
繋いでいた手を、少し持ち直してくれた。
「アニメも、模型も、見られたし」
「ゲームは、結局、見せるだけになっちゃったけど」
「今度、遊んでるところも見たい」
「うん。一緒にできるのも探そうか」
また、今度のことを話せた。
勝也は、何をしようか、と、もう考えているようだった。
私は、少し歩いてから、隣を見た。
「勝也」
「うん?」
「今日、お昼作ってくれてありがとう」
「優子も、お皿とか用意してくれたじゃん。ありがとう」
言われて、食器棚の扉を開けた時のことを思い出した。
キャベツを洗うのも切るのも、焼くのも、勝也がしてくれた。
私はお皿と箸を出し、お茶を注いで、食べ終わったあとの食卓を拭いた。
それでも、勝也は手伝ったことを覚えていてくれた。
「また手伝いたい」
「うん。助かる。俺が火を使ってる間に、ほかのことしてもらえると、早いし」
勝也が前を見たまま言った。
「洗い物してる間に、テーブルも綺麗になってたし。あれ、よかったな。1人だと、フライパン洗う前に、ちょっと休もうかなってなるから」
「あとで洗うの?」
「うん。ちょっとだけ休もうと思って本を開くと、ちょっとじゃなくなるんだよね」
思わず笑った。
勝也も笑い、帰ってからコップは洗わないと、と付け足した。
お母さんと話した夜のことを思い出した。
いつか、勝也を支えられるようになろうね、と言ってくれた。
その時は、何ができるようになればいいのか、まだ分からなかった。
今日、私がしたことは、とても小さかった。
お皿と箸を並べ、お茶を出して、食卓を拭いた。どこに何があるのか、勝也に教えてもらいながらだった。
台所では、手伝いたかったことが、うまくできなかった。
次に来た時には、食器の場所を聞かずに準備できる。
それでも、勝也は助かったと言ってくれた。
その言葉を、今は、ちゃんと嬉しいと思っていたかった。
「……あのね」
少し迷ってから、続けた。
「私が、お料理、もう少しできるようになったら。勝也の好きなの、作ってみたい」
勝也が、こちらを見た。
「優子が?」
「うん。まだ、ちゃんと教えてもらわないと、できないけど」
「嬉しい。じゃあ、楽しみにしてる」
すぐに返事をもらって、胸の奥が温かくなった。
勝也は少し考えてから、でも、と続けた。
「優子が好きなのも、作ってみようよ。今日、俺、焼きそばに決めちゃったし」
「私も好きだよ」
「うん。じゃあ、それ以外でも。今度は何食べたいか、決めてから作ろう」
繋いだ手へ目を落とした。
勝也の好きな物を作れたら、と思っていた。
その話の中へ、自分の好きな物も入れてくれた。
「一緒に、決めるの?」
「うん。その方が楽しいでしょ」
「うん」
日傘の影から、勝也の手が少し外れていた。
持つ角度を直すと、勝也が上を見た。
「俺、大丈夫だよ。優子の方、ちゃんと入ってる?」
「入ってる。大丈夫」
2人の間へ影が戻った。
私は、そのまま歩いた。
* * *
家へ着くと、お母さんが玄関へ出てきた。
「おかえり。楽しかった?」
「うん」
靴を脱ぐ前に、返事をした。
お母さんが、私の顔を見て笑った。
「そう。よかったね」
「お邪魔します」
勝也が、紙袋を持ったまま頭を下げた。
お母さんは、送ってきてくれてありがとう、と言ってから、居間の方へ目を向けた。
「勝也くんも、上がって。今日も夕飯、一緒に食べていくでしょう?」
「いいんですか?」
「もちろん。お昼は優子がお世話になったし、お話も聞きたいから」
「ありがとうございます。母さんに、連絡しておきます」
勝也が携帯を取り出した。
私は先に上がり、鞄と借りた本を置いた。
少し前まで、勝也の部屋にいた。
今度は勝也が、私の家へ上がってくれる。
今日はもう少し、一緒にいられると分かり、靴をそろえる手が少し遅くなった。
居間で、お母さんに、お昼のことを話した。
勝也が焼きそばを1袋ずつ、手早く作っていたことを話した。
3人前ができたあとで、目玉焼きを3つも焼き始めたと言うと、お母さんが少し目を丸くした。
「焼きそばの上に、乗せてもらったの?」
「うん。半熟で、黄身を麺につけると、おいしいの。マヨネーズも、少しかけてみた」
「そう。初めての食べ方だったのね」
「うん。最初は全部食べられるかなって思ったけど、1人分、全部食べたよ」
お母さんが、嬉しそうに笑った。
「よかったね。優子も、お手伝いしたの?」
「野菜も洗おうと思ったんだけど、流しが高くて、うまく届かなかったの。だから、お皿とお箸を出して、お茶も用意したよ」
「うち、踏み台もなくて。でも、食べたあとにテーブルも拭いてくれたから、助かりました」
勝也が言った。
私は、鞄の持ち手を少し握った。
お母さんが、こちらを見た。
何か大げさなことを言うのではなく、そう、と、静かに頷いてくれた。
「一緒に食べたお昼は、おいしかった?」
「うん」
頷くと、隣でも勝也が、おいしかったです、と答えた。
そのあと、アニメや本の話をした。
途中で漫画へ戻って確かめていたら、なかなか先へ進まなかった、と勝也が言うと、お母さんは、それも楽しみ方の1つね、と笑った。
「模型も見せてもらったの」
私から言った。
「小さいところまで、ちゃんと作ってあって。木のも、お城のも」
「前に、見たいって話していた物?」
「うん。お話を聞いて想像してたより、ずっと細かくて。屋根の下にも、小さい部品がいっぱいあったの」
勝也が、隣で頷いた。
「あそこ、作るのに結構時間かかったんだよね」
「うん。あの柱、1本ずつつけるの大変そうだった」
言いたいことがいくつもあって、うまく順番にならなかった。
お母さんは急がせず、続きを聞いてくれた。
勝也の部屋で笑ったことを話すと、居間でも、また笑えた。
* * 勝也視点 * *
優子の家で夕飯をいただいてから、自宅へ戻った。
母さんは、まだ帰っていなかった。
玄関の灯りをつけ、靴を脱ぐ。
朝、優子がそろえていた場所を見た。
今は、俺の靴しかなかった。
手を洗ってから、流しへ置いていたコップを洗った。
2つとも、逆さにして並べる。
昼に洗った皿も乾いていたので、棚へ戻した。
今日、使った物は、それだけでほとんど片づいた。
部屋へ戻り、灯りをつけた。
眼鏡を外し、机の端へ置いた。
椅子は少し斜めになり、パソコンの画面も、いつもよりベッドの方を向いていた。
机の端に、DVDのケースが重なっている。
片づけながら、優子が話していたことを思い出した。
声がつくと、普通に話している時と、考えている時の違いが分かること。
次へ進むのを待っている時間も、話の中にあること。
俺が好きなところと、優子が気にしていたところは、同じではなかった。
でも、違うところを聞くのが面白かった。
木曜日に、あれだけ話したから、今日も同じことを話すかもしれないと思っていた。
実際には、まだ話していないことの方が多かった。
本棚へケースを戻した。
返してもらった4冊が、元の場所へ並んでいた。
その隣は、1冊分だけ空いている。
5巻を貸したからだった。
続きを読んだら、また聞きたいことができるのだろうか。
今度は、どこで読む手が止まるのだろうと思った。
携帯が鳴った。
優子からだった。
『今日は、ありがとう。帰ってから5巻、少し読んでるよ』
まだ、俺が家を出てから、それほど経っていなかった。
夕飯のあとも、続きが気になると言っていたから、早速、開いたらしい。
『こちらこそ、ありがとう。続きが気になると思うけど、夜更かししないでね』
打ってから、自分も人のことを言えないなと思った。
昼に読んでいた漫画が、まだ途中だった。
返信が来た。
『うん。勝也もね』
見透かされたようで、少し笑った。
『気をつける』
送って、携帯を置いた。
ベッドへ座り、栞を挟んでいたところを開く。
少し前まで、隣に優子がいた。
漫画を読みながら、たまに顔を上げて、何か言おうとしていた。
聞くと、ちゃんと話してくれた。
俺が気にしていなかったところまで、よく見ていると思った。
昼飯を作る時にも、俺が焼いている間に、皿や箸を用意してくれていた。
自分の好きなことを見せるつもりで招いたのに、俺の方も、優子のことを少し知った。
漫画へ目を戻した。
さっきと同じところで、また笑ってしまった。
隣を見かけて、顔を戻した。
もう、何が面白いの、と聞いてくれる人はいなかった。
けれど、今日読んでいた漫画も、最初から読んでみたいと言っていた。
次に来る時には、出しておこうと思った。
本棚へ立ち、1巻を取った。
優子が続きを借りる時に忘れないよう、机の端へ置いた。
その横は、まだ空いていた。
朝、物を片づけて、優子の鞄を置いたところだった。
そこへ漫画を広げかけて、やめた。
次に来る時も、そのまま使えた方がいい。
1冊だけ置き、ベッドへ戻った。
携帯には、優子からの、おやすみ、という短い言葉が届いていた。
俺も、おやすみ、と返した。
それから、読みかけの続きへ目を落とした。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
優子を迎えるため、転校後でいちばん綺麗になるまで部屋を片づけ、飲み物も用意する。出迎えた優子の綺麗な私服姿に胸が高鳴り、似合っていて可愛いと伝える。昼には野菜の下ごしらえから皿洗いまで引き受け、焼きそばを1袋ずつ手早く仕上げて半熟の目玉焼きを添える。1人の食事にも今は楽しみを見つけていることと、優子やその家族と食べる嬉しさを話す。小6の京都・奈良への修学旅行をきっかけに、古い建物や軒を支える組物に興味を持ち、模型を作るようになったことを話す。アニメや模型、本を通して、好きな物を優子に知ってもらう喜びを感じる。
・富田 優子
母と選んだお気に入りのブラウスとジャンパースカートで訪ね、勝也に褒められた喜びを噛みしめる。勝也の部屋で、彼の好きな物や暮らしを知っていく。流しの高さに苦戦し、食器の準備や食卓拭きを手伝う。勝也の手際に感心し、1人で食事を作る暮らしを心配するが、本人が楽しんでいる時間もあると知る。目玉焼きやマヨネーズを添えた焼きそばを楽しみ、1人前を完食する。午後には自分の隣へ座ってほしいと頼み、『DEATH NOTE』の5巻を借りて帰る。
・鶴見 春樹
昼過ぎ、勝也が在宅している気配に気づき、いつもの合図で呼びかける。顔を出すと優子も来ていたため、2人の時間を気遣い、挨拶だけして帰る。
・優子の母(美和)
土曜日の朝、優子を車で勝也の家へ送り、中学入学を前に一緒に服を選んだ時の話をする。眼鏡を掛けていない勝也に尋ね、彼も優子と同じく伊達眼鏡だと知る。帰宅後は勝也も交えて1日の話を聞き、初めての食べ方を楽しんだ昼食や、優子から次々に出てくる話を受け止める。




