第37話 少しずつ
* * 勝也視点 * *
木曜日の朝、優子は教科書を机へ入れてから、少しこちらを見た。
筆箱へ伸ばしかけた手を止め、話しかけるきっかけを探しているようだった。
「……4巻まで、読んだよ」
「もう? 昨日、あっちの漫画も読んでたのに」
「勝也が帰ってから、続きが気になって」
昨日渡した、『DEATH NOTE』の3巻と4巻のことだった。
声を落とした優子が、机の端へ指を添えた。
「寝るの、遅くならなかった?」
「大丈夫。ちゃんと寝たよ」
「なら、よかった。どの辺、面白かった?」
聞くと、優子は指先へ目を落とした。
口を開き、何から話そうかと考えるように、少し目を動かした。
「……いろいろ、聞きたいことがあるんだけど」
「うん」
「今、話し始めたら、授業になっちゃうかも」
前の戸の上の時計を見た。
確かに、ゆっくり話せるほどの時間は残っていなかった。
「じゃあ、放課後にしようか。俺も、結構しゃべっちゃうと思う」
「結構?」
「たぶん、かなり」
優子が笑った。
俺も笑って、今日使う教科書を机へ出した。
どこまで読んだかを聞くのと、読んだところについて話せるのは、少し違っていた。
今までは、面白かった、と言ってもらうだけで嬉しかった。今日は、その先を聞けそうだった。
「あとで、ちゃんと聞かせてね」
「……うん」
優子が自分の机へ向き直った。
その横顔は、校門の前で俺の袖を握っていた時より、少し柔らかかった。
* * *
林間学校のしおりは、薄い水色の表紙だった。
後ろへ回す束から1冊取ると、ホチキスで留められたところが、まだ少し浮いていた。
「足りない列はありませんか」
花沢先生が教室を見渡した。
優子は受け取ったしおりを机へ置き、表紙に書かれた日付へ目を向けていた。
10月10日、水曜日。
その隣に、12日、金曜日まで、と続いている。
「林間学校は、来週の水曜日からです。今日は、このしおりを使って、3日間の流れと持ち物を確認します。そのあと、飯盒炊飯の役割を班ごとに相談しましょう」
教室の少し前で、翔太がもうページをめくっていた。
先生がまだ開く場所を言っていないのに、途中でぴたりと止まる。
後ろ姿だけでも、何を見つけたのか、だいたい分かった。
「鳥居くん。今は、最初のページね」
「はい」
素直に返事をして、数枚まとめて戻した。
隣で、優子が小さく笑った。
「カレー、探してたのかな」
聞こえるくらいの声で言うと、優子がしおりの端で口元を隠した。
「……もう、見つけたみたい」
俺も笑いそうになって、表紙を開いた。
最初のページには、集合から帰校までの大きな流れが載っていた。
先生は黒板へ、水、木、金、と3つ並べた。
「水曜日は学校へ集合して、バスで向かいます。いつもの登校時間とは違うので、集合時刻には線を引いておいてください。おうちの人にも、今日、しおりを見せましょう」
教室のあちこちで筆箱が開いた。
優子が定規を出したので、俺も同じところへ線を引く。
「着いたら入所式です。そのあと、施設の食堂を借りて、持ってきたお弁当を食べます。初日のお昼は給食でも、施設の食事でもありません」
先生は、忘れないでね、と付け足した。
「午後は、班ごとのオリエンテーリングです。次のページに、活動の説明があります」
紙をめくる音が重なった。
簡単な地図の見本と、旗の描かれた枠が載っていた。
「渡された地図を見て、決められた場所を回ります。途中には、問題を解く場所や、班の皆で協力して挑戦する場所があります。走る速さだけを競うものではありません」
翔太が、今度はちゃんと先生の方を見た。
「全員そろって、というところが大事です。先に分かった人だけで次へ行かないこと。班の誰かが困っていたら、皆で相談してください」
俺は地図の見本へ目を落とした。
優子も、細い道の線を追っていた。
知らない場所を歩くのは、今の優子には怖いかもしれなかった。
でも、植物の名前や、看板に書かれていることなら、俺よりたくさん知っている。
一緒に回れたら、俺が聞くことも多そうだった。
「この問題、優子、得意そう」
見本に載った葉の絵を、鉛筆の先で示した。
「……これが出るわけじゃないよ」
「うん。でも、俺より分かりそうだなって」
優子は絵を見てから、小さく頷いた。
まだ、行けるとは言わなかった。
俺も、その先までは聞かなかった。
「夕方には全員施設へ戻ります。夕食は施設で用意していただく食事です。食堂での席や、食器を返す場所も、現地で説明があります」
先生の指が、黒板の水曜日の下へ動いた。
「夕食後は、部屋で過ごす時間と入浴があります。班長さんは、翌日の確認のために集まる時間がありますから、自分のしおりに印をつけておいてね」
翔太が大きく頷き、筆箱から鉛筆を出した。
今度は、自分の仕事だと分かっている顔だった。
「お部屋は男女別です。基本的には、班の男子4人、女子4人が、それぞれ1部屋を使います。1つのお部屋に、2段ベッドが2つあります」
上で寝たい、と前の方から声がした。
続けて、俺も、と別の声が重なった。
「どちらで寝るかは、お部屋の人たちと相談してね。大浴場は1つなので、男子の時間と女子の時間に分かれて、交代で使います。自分たちの時間を確認してから向かうようにしてください」
俺は優子の方を見た。
さっきまでしおりを追っていた指が、止まっていた。
部屋割りのページを開きかけたまま、薄い紙をつまんでいる。
「……別の、お部屋」
隣の俺にしか聞こえない声だった。
膝の上へ下りてきた手が、俺の制服を探した。
袖口をつかむ指に、強く力が入った。
まだ決めていないことがあった。
学校へ来られるようになったことと、いつもと違う場所で2晩泊まることは、同じではなかった。
先生へ相談することも、優子のお母さんたちと話すことも、残っている。
制服を握っている手に、そっと自分の手を重ねた。
「俺たちの部屋のこと、あとで先生に聞こう。一緒に聞くから」
優子は俺を見て、かすかに頷いた。
でも、指は緩まなかった。
前の席では、ベッドの上と下の話が続いていた。優子はそちらを見ず、開きかけのページを、ゆっくり戻した。
「木曜日は、朝食と体操のあと、飯盒炊飯です」
黒板の真ん中へ、先生が大きく書いた。
その下へ、カレーライス、と続いたところで、翔太の背中が伸びた。
「待ってました」
本人は小さく言ったつもりらしかった。
前の方から笑いが起きた。
「鳥居くんは、もう待っていたのね」
「はい。めっちゃ楽しみです」
「それなら、作るところも、片づけるところも、楽しみにしていてください」
先生が笑うと、翔太がもう1度、はい、と答えた。
春樹が振り返り、俺と目が合った。
何も言わなくても、同じことを考えているのが分かった。
食べるところだけは、誰より張り切る。
「お米は飯盒で炊きます。おうちの炊飯器と違って、火の加減も自分たちで見なければなりません。カレーは、野菜を洗うところから班で準備します」
ページの右側に、用具の絵が並んでいた。
飯盒。鍋。まな板。包丁。
下には、材料を受け取るところから、洗って返すところまで、順番が書かれている。
「火を扱う場所には、先生や施設の方がいます。分からないまま勝手に進めず、聞いてくださいね。包丁を持ったまま歩かないことと、火の近くでふざけないことも、忘れないように」
翔太の頭が、さっきより何度も動いた。
俺が気づいたのと同じ頃に、真弓も翔太を見ていた。
「午後は、カヌーの体験があります。水辺へ出る前に、救命胴衣の着け方や、乗り降りの仕方を教わります。説明を聞く時間も含めて活動ですから、先に舟へ行ったりしないこと」
2人乗りの絵を見て、教室が少しざわついた。
誰と乗る、と近くの席で声が上がった。
「組み合わせや、当日の参加の仕方は、こちらでも確認します。今ここで、勝手に決めてしまわないでね」
優子が絵を見ていた。
俺は、揺れるかな、と声を落とした。
「勝也、乗ったことある?」
「ないよ。だから、最初は教わらないと」
「……そっか」
「俺だけ分かってるわけじゃないから、一緒に聞こう」
優子が頷いた。
知らない、と言ったことを残念がる顔ではなかった。
「夜は、キャンプファイヤーです。皆で行うレクリエーションや、出し物、ダンスの時間があります。そのあとの夜の活動についても、現地で先生の説明を聞いてから動いてください」
しおりにある肝試しの文字を見つけて、後ろの方で、ええ、と声が上がった。
俺も、そこへ目を止めた。
昼間の地図なら、まだいい。
暗くなってから、知らない場所を歩くとなると、急に別の話だった。
優子がこちらを見た。
「勝也も、苦手?」
「全然平気」
聞かれてすぐに答えた。
少しでも迷ったら、本当は苦手だとばれそうだった。
「……本当?」
「うん。大丈夫だよ」
優子が、俺の顔を見ていた。
俺はしおりへ目を戻し、肝試しの文字から、隣の持ち物の欄へ視線を移した。
暗い山道で急に何か出てきたら、たぶん声は出る。
そこは、今は考えないことにした。
「最終日は、朝食のあとに掃除と荷物の確認をして、退所式です。使わせていただいた部屋を整えてから、バスで学校へ帰ります」
先生が、金曜日の下へ帰校、と書いた。
「楽しいことがたくさんありますが、そのためには、皆で同じ時間に動けるようにすることが必要です。しおりは鞄の底へしまい込まず、自分でも確認できるように持っていてください」
持ち物のページへ進んだ。
着替え、洗面道具、タオル、雨具。
軍手のところで、翔太がまた鉛筆を動かした。
優子は、自分のお母さんに確かめたいところへ、小さな丸をつけていた。
俺も同じページの端へ、家で確認、と書いた。
その字を見た優子が、俺の方へしおりを少し寄せた。
「……帰ったら、一緒に見てもらっていい?」
「うん。もちろん」
俺が頷くと、優子は丸の横へ、細い字で、お母さん、と書き足した。
* * *
「それでは、班ごとに集まってください。飯盒炊飯の役割を相談して、配った紙へ書きましょう」
先生の声が終わる前に、椅子が動き始めた。
俺と優子が机を寄せると、春樹が向かい側へ来た。
真弓と綾香も椅子を持ってきて、最後に翔太がしおりを抱えて座る。
優子は椅子を寄せたあとも、俺のすぐそばから動かなかった。
しおりの間から、部屋割りのページの角だけが出ていた。
俺が役割を書く紙を見せると、優子も顔を向けたけれど、片方の手は制服の袖をつまんだままだった。
「よし、話し合うぞ」
翔太が真ん中へ紙を置いた。
班長の欄には、もう自分の名前が書いてあった。
「俺、火の係やりたい!」
「まだ何も話してないんだけど」
真弓が言った。
「だから、最初に希望を言ったんだよ」
「希望は分かった。紙、こっち向けて」
翔太が、少しだけ紙を回した。
真弓はさらに半分回し、全員から見えるように置き直した。
「まず、ご飯とカレー、両方いるんだよね」
「うん。カレーだけできても困るし、ご飯だけでも困るね」
春樹が言うと、俺も頷いた。
「鍋と飯盒で、火の見方も違いそうだよ」
「じゃあ、俺、両方見る」
「翔太、さっきから全部、火の話だね」
俺が言うと、翔太は当然だろ、という顔をした。
「火、起こしてみたくない?」
「やってみたいけど」
「だろ? 薪をこう、いい感じに組んで」
両手で、机の上に何かを積む真似をした。
いちばん上へもう1本載せるところで、真弓が鉛筆を持ち上げた。
「いい感じに、は説明を聞いてからね」
「分かってるって」
「じゃあ、火の担当、男子3人でいい?」
俺と春樹が頷いた。
翔太は、自分の希望が通ったので、さっきよりさらに大きく頷いた。
「カレーの方は、私と綾香でやろうか」
「うん。切るのと、鍋で作るの、分けてもいいしね」
綾香が材料の欄を見た。
優子の指が、膝の上で少し動いた。
自分の名前が出るのを待っているようだった。
真弓は紙へ書き込む前に、優子を見た。
「富田さんは、決まった係にしなくていいと思うんだけど、どうかな」
優子が顔を上げた。
「……私、何も、しなくていいの?」
「何もしちゃ駄目って意味じゃないよ。最初からここにいなきゃいけないって決めなくていい、ってこと」
真弓が紙の上へ置いた鉛筆を、いったん離した。
「勝也と一緒にいて大丈夫だよ。野菜洗う時でも、火の方へ行く時でも。できそうなことがあったら、その時に一緒にやろう」
優子が俺を見た。
俺は、うん、と頷いた。
「俺も、その方がいいな。優子、俺と一緒にやろうよ」
「……でも」
「人数が足りなくなるとか、そういうのはないよ」
綾香が、材料の絵を指した。
「洗うところは皆でできるし。火を使う前にも、することあるもんね」
「そうそう。俺らも、最初からずっと薪を見てるわけじゃないし」
春樹が言った。
そのあとで、翔太を見た。
「見てたい人は、いるかもしれないけど」
「いや、手伝うよ。俺も洗うよ」
翔太が慌てて言った。
「じゃがいもとかだろ? 任せろって」
「じゃがいもだけじゃなくて、お米もね」
真弓が言うと、翔太は少し考えてから頷いた。
「米、洗いすぎてなくなったりしない?」
「どれくらい洗うつもりなの」
春樹が聞き返した。
俺が笑うと、優子も、口元へ手を添えた。
「……お水と一緒に、流さなければ」
優子が小さく言った。
翔太は、そうか、と真面目に頷いた。
「そこが大事だな」
「そこから確認するんだ」
真弓が笑い、俺の方を見た。
「翔太に任せたら、お米なくなりそうだから。勝也、お米を洗うの、お願いしていい?」
「まだ1粒も流してないだろ」
「今から心配してたから」
翔太が言い返すと、真弓は紙へ鉛筆の先を向けた。
俺は笑いながら頷いた。
「うん。じゃあ、お米は俺がやるよ。そのあと、火の方も見る」
「……私も」
隣から小さな声がした。
優子が俺と、真弓を順番に見た。
「勝也と一緒に、お米、洗うのを手伝ってもいい?」
「もちろん。じゃあ、そこは2人にお願いしようか」
真弓が答えると、優子が小さく頷いた。
俺も、よろしく、と言った。
真弓が役割の欄へ書き始めた。
火の担当のところに、俺たち3人の名前が並んだ。
調理の担当には、真弓と綾香。
米洗いのところには俺の名前を書き、その横へ、優子も一緒に手伝う、と添えた。
その下へ、最初の準備と片づけは全員、と書き足した。
「富田さんは、勝也と一緒に、できるところへ入る。これでどう?」
真弓が皆へ紙を向けた。
「いいと思う」
「うん」
「賛成。火も見に来いよ。ちゃんとご飯炊くからさ」
最後に翔太が言った。
優子は、すぐには返事をしなかった。
紙に並んだ名前を順番に見てから、真弓へ目を向けた。
「……ありがとう、加藤さん」
真弓は、いいよ、と普通の声で答えた。
「まだ、やってみないと分かんないもん。皆そうだし」
「私も、おうちのコンロでしか作ったことないよ」
綾香が言った。
「外で作ると、火を弱くして、って言っても、つまみがないんだよね」
「そこは俺たちが、いい感じに」
翔太が胸を張った。
真弓がすぐに、だからそれを教わるんでしょ、と返した。
俺たちは笑った。
優子も、今度は顔を伏せずに笑っていた。
「じゃあ、俺と翔太は、最初にじゃがいもとか、野菜を洗おうか」
春樹が言うと、翔太が頷いた。
「おう。それが終わったら、火の準備な」
「俺も、お米の準備ができたらそっちへ行くよ」
「材料を切ってる間に、そっちを進められるもんね。順番は現地の説明に合わせよう」
真弓が余白へ、小さく書き込んだ。
「カレーの鍋、焦がさないように混ぜるのもいるよ」
「それ、俺もできる」
翔太が手を上げた。
「火、見なくていいの?」
「……じゃあ、食べる前の最後のひと混ぜ」
「それ、仕事なの?」
綾香まで笑った。
翔太は、味見でもいい、と言った。
「そっちが本当の希望でしょ」
「火と味見。2つ希望がある」
「分かった。じゃあ、味見は6人分ちゃんと残ってるかを見てからね」
真弓が言うと、翔太は、そんなに食わないって、と笑った。
春樹が、皿を持って味見しそう、と呟いたので、俺まで想像してしまった。
「それ、もう昼ご飯だよ」
「鍋から直接食わないだけ、偉いだろ」
「偉くはないかな」
俺が答えると、優子の肩が小さく揺れた。
しおりの上へ置いていた手は、さっきより力が抜けていた。
でも、話がまとまると、優子は挟んであった部屋割りのページへ目を落とした。
口元に残っていた笑いが、少しずつ消えた。
皆とご飯を作る時間のことが決まっても、そのあとに離れるかもしれないことは、まだ何も変わっていなかった。
隣の班では、誰が包丁を使うかで、まだ相談が続いていた。
花沢先生は別の班の紙を確認し、次の机でも少し話してから、俺たちのところへ来た。
「相談は進んでる?」
「はい。これでいいですか」
真弓が紙を見せた。
翔太も、俺、火の係です、と付け足した。
「書いてあるね」
先生が笑い、役割を端から読んだ。
優子の欄へ目を止めてから、俺たちを見た。
「皆で相談したの?」
「うん。富田さんは、勝也と一緒にいた方が安心だと思って。できるところを一緒にやってもらおうって」
真弓が言った。
先生は優子を見た。
「富田さんは、これで大丈夫そう?」
優子が少し迷ってから、頷いた。
「……はい。皆が、いいって言ってくれて」
「うん。現地でも、困ったことがあったら、その時に相談しましょう」
先生は紙を机へ戻すと、俺たちの輪へ少し身を寄せた。
「役割が決まったところで、この班には、お部屋のこともお話ししておきたいの」
優子の顔が上がった。
先生は手元の施設案内を開き、俺たちから見える向きにした。
「さっき、皆には男女別のお部屋だと説明しましたが、この班は、富田さんが安心して過ごせるように、6人で同じお部屋を使う形を考えています」
袖を握る手が止まった。
優子は先生を見たまま、すぐには何も言わなかった。
「……勝也も、同じですか」
「うん。鵜飼くんも一緒よ」
先生が頷くと、優子は俺を見た。
確かめるように見上げられて、俺も頷いた。
「一緒にいられるって」
優子の唇が少し動いた。
返事になる前に、息が長く抜けた。
俺の袖をつかんでいた指が、ようやく緩んだ。
先生が施設案内の端を指した。
「こちらに、障害のある方が利用できるように用意されたお部屋があります。施設の方に相談して、そこを使わせてもらえることになりました。皆が泊まる部屋からは少し離れていますが、広めの和室なので、6人でお布団を敷いて過ごせます」
「こっちは、ベッドじゃないんですね」
春樹が図を見ながら聞いた。
「そう。畳のお部屋です。それから、お部屋の目の前に、障害者用のお手洗いと、広めのお風呂があります。この班は、そちらを使ってください」
先生の指が、向かい側の2つの場所を順番に示した。
「お風呂にはシャワーが3つあって、湯船も広いそうです。ほかの皆が使う大浴場まで行かなくても、お部屋のすぐそばで済ませられます」
優子が図へ顔を近づけた。
俺も同じところを見た。
寝る部屋と、お手洗いと、お風呂が、小さな廊下を挟んで並んでいた。
「ただ、男女が同じお部屋になるのは、この班だけです。皆の気持ちも聞いておきたいので」
先生が春樹と翔太、それから真弓と綾香を見た。
「一緒のお部屋でも、大丈夫かな」
「俺は大丈夫です」
春樹が答えた。
綾香も、その隣で頷いた。
「私も。勝也と春樹とは家が隣同士で、よく泊まりに行ってるし」
「うん。俺も、2人と泊まるのは慣れてます」
俺が言うと、翔太が顔を向けた。
「それ、ほんと羨ましいんだけど」
「翔太も、うちに来るでしょ」
「来るけどさ。隣だから、って行けるのがいいんだって」
そう言ってから、翔太は先生の方へ向き直った。
「俺も全然平気です。皆で同じ部屋の方が楽しそうだし」
「私は、夜までうるさくしなければ大丈夫です」
真弓が言った。
翔太が、俺を見ながら言うなよ、と返したので、綾香が笑った。
「まだ、誰とも言ってないでしょ」
「顔が、俺って言ってた」
「寝る時間は守ろうね、班長」
春樹が言うと、翔太は、分かってるって、と答えた。
優子の口元が、少しだけ緩んだ。
さっきと違って、しおりの部屋割りへ目を戻しても、その表情は消えなかった。
「富田さんは、皆とこのお部屋で大丈夫そう?」
先生が聞いた。
優子は俺の手元を見てから、顔を上げた。
「……はい。同じお部屋なら」
小さいけれど、はっきりした返事だった。
「分かりました。では、この班は、そのお部屋で進めますね。お風呂を使う順番や、着替える時のことは、改めて相談しましょう」
先生が案内の和室へ、小さな印をつけた。
優子はそこを見てから、皆を順番に見た。
「……ありがとう」
「うん。こっちなら、ベッドの上と下でもめなくて済むね」
綾香が言うと、翔太が、上もちょっと寝てみたかったけどな、と笑った。
真弓は図をもう1度見て、皆で使うなら広い方がいいよ、と言った。
机の下で、優子の手が俺の手へ触れた。
制服を引き止める代わりに、そっと指が重なった。
その手を握ると、優子が小さく握り返した。
「班長さん、最後の確認はお願いしますね」
「はい」
翔太が紙を手前へ引いた。
その隣から真弓が、字、読める? と聞いた。
「読めるよ。むしろ、俺が書くより読みやすい」
「それは、そうかもね」
否定してもらえず、翔太が少しだけ口を尖らせた。
春樹が笑いながら、しおりへ自分たちの担当を書き写した。
優子も、同じページを開いた。
役割の欄へ何を書くか考えたあと、細い字で、勝也と一緒に、と書いた。
俺が見ていたことに気づくと、鉛筆を止めた。
「……これで、いい?」
「うん。分かりやすいね」
俺も自分の欄へ、優子と一緒に、と書き足した。
その下に、火、お米、と続けた。
「俺、先に何するか忘れそうだから」
そう言うと、優子は俺の字を少し見てから、自分のしおりへ目を戻した。
口元が緩んでいた。
皆が席へ戻り始めた時、翔太が提出する紙を持ち上げた。
「よし。まとまったな」
「うん。真弓がまとめてくれたね」
春樹が言った。
「俺も希望を出しただろ」
「すごくはっきり出してたよ」
俺が言うと、翔太は、それも班長の仕事、と頷いた。
真弓は笑いながら、提出は頼んだよ、と言った。
* * *
授業が終わってから、花沢先生が俺たちの机へ来た。
周りの席が動き終わるのを待ち、声を落とした。
「富田さん。さっきお話ししたお部屋のこと、おうちの人にも伝えておいてね。そこでどう過ごすか、手伝いが必要なことは何か、改めて一緒に相談しましょう」
優子の指が、しおりの角へ触れた。
「……着替えとか、夜のことも」
「うん。学校で過ごす時と違うところがあるものね。心配なところを、お母さんと見ておいてもらえる?」
優子が頷いた。
俺も、自分のしおりを閉じた。
「俺も、一緒に確認します」
「ありがとう。鵜飼くんにも聞きたいことがあるから、その時はお願いね」
先生が離れると、優子が小さく息を吐いた。
表紙へ名前を書き、インクが乾くまで少し待った。
「もう、来週なんだね」
「うん。近くなったね」
「……カレーは、ちょっと、楽しみ」
俺は優子を見た。
優子は、照れたように、まだ表紙を見ていた。
「翔太が聞いたら喜ぶよ」
「翔太くん、ずっと楽しそうだったね」
「当日も、たぶんあんな感じだよ」
言いながら前を見ると、翔太はもう別の班の男子へ、自分が火の係になったことを話していた。
「……もう、報告してる」
優子が言った。
俺たちは顔を見合わせて笑った。
優子のしおりには、まだ小さな丸がいくつもあった。
その間に、俺たちと一緒にすることも、少し書き込まれていた。
* * *
帰りの会が終わると、翔太が鞄を肩へ掛けて来た。
「今日、部活行く?」
「うん。ちょっと顔出してくる」
「お菓子、いっぱい残ってんじゃね?」
顔が、昼間のカレーの話と同じになっていた。
「この前も、食べに来てって言われたよ」
「俺も行きてえ」
「バスケ部は?」
「行くよ。行くけど、茶道部に寄ってから」
「それ、前にも言ってなかった?」
俺の隣へ春樹が来た。
翔太の肩を軽く叩く。
「寄ったら帰れなくなるよ。食べ終わらないから」
「そんなにあるのか」
「翔太が、もう1個って言い続けるから」
翔太が、そこかよ、と笑った。
優子は筆箱をしまいながら、俺たちを見ていた。
「本当に、お菓子、そんなに食べるの?」
「練習のお茶を飲む時にも食べるし、余った分も食べたりするよ」
「いい部活だよなあ」
翔太が言った。
春樹は、隣から羨ましくなる時はある、と頷いた。
「でも、飲むの、続くと結構大変だよ」
俺が言っても、翔太はあまり信じていない顔だった。
優子も少し首を傾げた。
「……お茶を飲んで、お菓子を食べるんだよね?」
「うん」
「大変なの?」
春樹が笑った。
「見てみたら分かるんじゃない?」
俺は優子を見た。
今日は一緒に部室へ行くことを、朝、優子のお母さんにも話してあった。優子も、行ってみたいと言ってくれていた。
それでも、初めての場所だった。
「長くならないようにするよ。途中で帰りたくなったら、教えてね」
優子が頷いた。
「……勝也が、いつも何してるのか、見てみたい」
「たぶん、食べてるところが多いと思う」
自分で言うと、翔太が笑った。
「ほら、やっぱりいい部活じゃん」
宣仁が、廊下へ出る途中で俺たちを見つけた。
「何や、今日は皆で茶道部か?」
「俺も行きたいんだけど、春樹が駄目って」
「駄目とは言ってないよ。翔太、練習始まるんじゃない?」
春樹が時計を示した。
翔太が、やべ、と肩紐を持ち直す。
「じゃあ、余ったら俺の分も」
「明日まで残るかな」
「残せよ!」
声を上げてから、優子を見て少し声を小さくした。
「……できれば、残して」
優子が笑った。
宣仁も笑い、翔太と並んで廊下を歩き始めた。
「火の係になったんやろ。おやつばっかり食うて、米食えんようにならんときや」
「カレーは別だよ」
「昼からずっと飯の話やな」
声が遠ざかった。
俺たちは真弓と綾香にも手を振り、春樹と一緒に教室を出た。
* * 優子視点 * *
茶道部の前まで来ると、廊下を歩く人の声が少なくなった。
隣の美術室からは、水の流れる音と、椅子を引く音が聞こえていた。
「じゃあ、俺はこっち」
春樹くんが扉へ手を掛けた。
中から呼ばれると返事をして、それから、私たちへ振り返った。
「また明日。勝也、飲みすぎないようにね」
「お茶だから、大丈夫だよ」
「お茶でも、お腹はいっぱいになるでしょ」
勝也が、それはそう、と笑った。
私も小さく頭を下げた。
春樹くんが中へ入ってから、勝也は隣の扉を開けた。
「こんにちは」
勝也の声に、奥からいくつも返事があった。
まず見えたのは、靴を脱ぐための小さな場所だった。
その先の少し高くなった床と、襖の向こうに、畳が見えた。
「ここで、上履き脱ぐんだ」
勝也が教えてくれた。
私が片足を上げると、持っていた鞄を受け取ってくれた。
「ありがとう」
「うん。ここ、段差あるから」
上がったところで振り返り、上履きの向きをそろえた。
その間にも、奥の話し声が近づいてきた。
「鵜飼くーん、久しぶり!」
「勝也くん、おひさ〜」
「お茶菓子、大量にあるよ!」
襖の向こうから、先輩たちが顔を出した。
勝也が、こんにちは、ともう1度言って笑った。
「最後の、挨拶じゃないですよね」
「大事なお知らせだよ」
「来るの、待ってたんだから」
「俺がですか。お菓子食べる人がですか」
「両方」
迷わず返ってきた声に、勝也が笑った。
先輩たちも、つられたように笑った。
私は、勝也の横顔を見上げた。
部活で一緒に過ごす人たちがいることは、知っていた。
でも、こんなふうに名前を呼ばれて、来るのを待ってもらっているのだとは思っていなかった。
勝也も、返事を考えて困ったりしなかった。教室で春樹くんたちと話す時のように、すぐに言葉を返していた。
ここでも、仲のいい人がいるんだ。
知らない先輩ばかりなのに、勝也の声はいつもと同じだった。
私なら、挨拶をするだけでも、何と言おうか迷ってしまう。
すごいな、と思いながら聞いていると、先輩たちの目が、勝也からその隣へ向いた。
「あ、富田さん?」
呼ばれて、頷いた。
勝也が私の鞄を返しながら、こちらもよろしくお願いします、と言った。
「今日、一緒にいてもいいって話してた、優子です」
「うん。聞いてるよ。どうぞ、入って」
部長さんが、奥へ手を向けた。
私は鞄の持ち手を握り直した。
「……お邪魔します」
言い終わる前に、もう1人の先輩が隣から覗き込んだ。
「近くで見ると、小さいね」
「可愛い……」
「ねえ、鵜飼くんと同じクラスなんだよね?」
3つ続けて声がした。
どちらへ答えればいいのか分からなくなって、視線が動いた。
誰も、怒っている顔ではなかった。
笑ってくれているのも分かった。
それなのに、目の前と横の両方から見られると、足が止まった。
勝也の袖へ指を伸ばした。
握る前に、勝也が少しこちらを向いた。
「先輩たち、ちょっと待って。一緒に聞かれると、答えられないから」
いつもの声だった。
先輩の1人が、あ、と口元へ手を添えた。
「ごめんね。いっぺんに言っちゃった」
「こっち、空けよう」
私たちの前が少し広くなった。
勝也が歩き出すと、つかまえていた袖も、ゆっくり動いた。
私がついていける速さだった。
畳の上には、道具の並んだ場所と、鞄を置ける場所があった。
端の方には、開いた本やノートも見えた。
もっと、全員がずっと正座して、黙っている場所なのだと思っていた。
「荷物、ここでいい?」
勝也が聞いたので、頷いた。
私の鞄と、自分の鞄を、壁際へ並べてくれた。
座る時にも、少し待ってくれた。
「足、つらくなったら崩していいって」
「……まだ、大丈夫」
「うん」
勝也が隣へ座った。
私は、その膝の位置を確かめてから、鞄から手を離した。
少し離れていた先輩が、今度は正面から、ゆっくり近づいてきた。
「山崎詩織です。勝也くんとは、いつもここで一緒なの」
声と顔を、順番に見た。
勝也が、山崎先輩、と呼んだ。
「……富田優子です」
「うん。よろしくね。さっき、びっくりさせちゃったね」
首を振りかけた。
何もなかったと言うには、まだ勝也の制服をつまんでいた。
「……少しだけ」
正直に答えると、詩織先輩は、そっか、と頷いた。
それ以上、こちらへ顔を近づけなかった。
「今日は、見てるだけでも大丈夫だからね。勝也くんが飲んでるところ、ゆっくり見てて」
「俺、もう飲むの決まってるんですね」
勝也が言うと、先輩が笑った。
「待ってたもの」
ほかの先輩が、戸棚から袋を持ってきた。
私たちの前へ置かれたのは、お菓子だった。
1袋ではなかった。
同じお菓子の袋が、いくつも重なっていた。
どれも口を開けたあとがあり、折り返したところを留めてあった。中身が半分ほどになったものもあれば、まだたくさん残っているものもあった。
「……こんなに?」
勝也が言った。
私は、その顔を見た。
勝也まで驚いていた。
「いつものつもりで買って、練習の時に出してたら、食べきれない袋が増えちゃって」
「いや、俺1人でそんなに食べてました?」
「食べてたよ」
返事が、2人分重なった。
勝也が私を見た。
「……らしいです」
私は笑いをこらえられなかった。
「さっき、いっぱい残ってるかもって、翔太くんが」
「翔太、当たってたね」
勝也が袋を1つ持ち上げた。
中の芋けんぴが、かさりと動いた。
「でも、今日、全部は無理ですよ」
「分かってるよ。持って帰れる分は、持って帰って」
「あ、それなら助かります」
勝也が、すぐに安心した顔になった。
部長さんが、顧問の先生にも確認してあるから、と紙袋を出した。
今日は皆で食べる分を取り、残りは持ち帰れるよう、きれいな小分けの袋へ詰め直すらしかった。
「鵜飼くんがいない時も、ちゃんと食べてたんだけどね」
「それでも、追いつかなくて」
「どれくらい食べてたんですか、俺」
勝也が袋を並べ直した。
先輩たちは、相談するように顔を見合わせた。
「気がつくと、なくなってた」
「うん」
「俺、そんな、何も考えずに食べてるみたいじゃないですか」
「考えてた?」
詩織先輩が聞いた。
勝也は少し黙った。
「……宿題のこととか」
皆が笑った。
私も、膝の上へ置いた手を口元へ持っていった。
勝也が家で漫画を読みながら、置いてあったお菓子へ手を伸ばすところは、想像できた。
食べたことを忘れるのではなくて、食べながら別のこともできるのだと思った。
「富田さんも、よかったらどうぞ」
先輩が、小さく取り分けたお菓子を渡してくれた。
私は両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
「お茶、飲んでみる?」
聞かれて、勝也を見た。
勝也は、嫌なら無理しなくていいよ、と言った。
「少し、飲んでみたい」
「じゃあ、お願いしようか」
勝也が先輩へ顔を向けた。
私は、勝也が道具の方へ行くのかと思っていた。
でも、隣へ座ったままだった。
「勝也は、作らないの?」
「俺、飲む方だから」
ためらわずに答えた。
先輩たちが、また笑った。
「そこ、しっかりしてるよね」
「役割は分かってます」
勝也が言って、運んできてくれた茶碗を見た。
先に私の前へ置かれたものは、きれいな緑色だった。
細かい泡が、表面へ広がっていた。
持ち方が分からずに指を止めると、点ててくれた先輩が、隣へ座った。
「今日は、細かいところは気にしなくていいよ。熱くないか確かめながら、飲んでみて」
私は頷いた。
教えてもらったように片方の手で支え、もう片方を添えた。
茶碗の厚みが、指に伝わった。
ひと口飲むと、思っていたより先に、香りが来た。
そのあとで、舌の奥に少し苦さが残った。
「……おいしい」
先輩が、よかった、と笑った。
勝也も自分の茶碗を持ち上げていた。
「これ、飲みやすいですね」
「本当?」
「うん。さっき、お菓子食べたからかもしれないけど、後から残るのが、あんまり強くないです」
私の答えより、少し詳しかった。
先輩は、いつもよりお湯を少し、と言いかけ、もう1人の先輩と道具の方を見た。
勝也が、茶碗の中を見ていた。
お菓子を食べて笑っているだけではないのだと、その時に思った。
「味、分かるんだね」
小さく言うと、勝也がこちらを向いた。
「何回も飲んでるから、前と違うな、くらいは。ちゃんと説明できるわけじゃないよ」
「でも、私、飲みやすいとか、まだ分からない」
「優子は初めてだもん。おいしかったら、それでいいんじゃない?」
茶碗へ目を戻した。
さっきより、少しだけゆっくり飲んだ。
甘いお菓子のあとと、そのまま続けて飲んだ時とでは、口に残る感じが違った。
勝也へ言うと、うん、と聞いてくれた。
「俺も、お菓子がある方が好き」
「それは、いつもでしょ」
先輩が言った。
勝也が、ばれてた、と笑った。
部室の戸が開き、顧問の先生が顔を出した。
勝也が挨拶したので、私も茶碗を置いて頭を下げた。
「富田さんね。話は聞いています。ここで過ごす時に、何か困ったら言ってくださいね」
「……はい。ありがとうございます」
先生は私たちの荷物を見て、本を読んだり、宿題をしたりしていても大丈夫だと教えてくれた。
入部の手続きをするようには、言わなかった。
今日は見ているだけの私にも、ここにいていい場所があった。
先生が道具を確かめに行くと、勝也が小さく聞いた。
「足、大丈夫?」
頷こうとして、膝を少し動かした。
思っていたより、足首が固くなっていた。
「……ちょっとだけ」
「崩していいよ。俺も、ずっとは無理だから」
勝也が先に座り直した。
私も、そっと足の向きを変えた。
その膝が、勝也の膝へ軽く触れた。
離した方がいいかと思ったけれど、勝也は何も言わなかった。
茶碗を持つ私の手元を見て、置く場所を少し空けてくれた。
その時、正面の詩織先輩と目が合った。
先輩は、私たちの膝から、私の顔へ目を戻したところだった。
少しだけ笑った。
からかうような声は、出さなかった。
私は茶碗へ目を落とした。
手のひらに残った温かさが、さっきより長く続いているように感じた。
* * *
次のお茶が来た時、勝也はまだ芋けんぴを持っていた。
ひと口で食べ終え、手元を整えてから茶碗を受け取る。
「お願いします」
「こちらこそ、お願いします」
先輩が笑った。
勝也は、いつもこんなふうに頼まれているらしかった。
「これ、さっきと比べてどう?」
飲み終わる前に聞かれ、勝也は少し考えた。
すぐには返事をせず、もうひと口飲む。
「こっちの方が、少し苦い気がします。でも、お菓子と一緒なら、俺はこっちも好きです」
「そっか。薄すぎるかなと思ったんだけど」
「俺には、薄くはないですよ」
先輩が茶碗を受け取って戻った。
別の先輩が、その隣で待っていた。
「鵜飼くん、次、私のもいい?」
勝也が、はい、と言った。
私は自分の空になった茶碗を見た。
私には、次々とは勧められなかった。
お菓子をもう少し食べるか聞かれ、首を振ると、じゃあ、また欲しくなったら、と置いておいてくれた。
勝也の前には、また茶碗が置かれた。
「……何杯目?」
小さく聞くと、勝也は指を折りかけた。
「今ので3杯目かな」
「まだ、飲むの?」
「うん。もう少しなら」
そう言って、また飲んだ。
お菓子にも手を伸ばした。
先輩たちは、その間も道具の持ち方や、置く位置を確かめていた。
練習が1つ終わると、飲んでみて、と勝也が呼ばれる。
勝也が飲んでいる間に、次の人が準備をする。
お菓子の皿だけ見ていた時には、分からなかった。
勝也は、その間に何度もお辞儀をして、受け取って、飲んで、聞かれたことへ答えていた。
「ねえ、勝也」
「うん?」
「……思ってたより、忙しいんだね」
勝也が私を見た。
少し嬉しそうな顔をしたので、私まで笑いそうになった。
「分かってくれた?」
「うん。ずっと、お菓子食べながら本読んでるのかと思ってた」
「そういう時もあるよ」
「あるんだ」
詩織先輩が笑った。
「正直だね」
「そこは、隠してもしょうがないので」
勝也が、少し姿勢を変えた。
お腹へ手を当て、ゆっくり息を吐いた。
「もう……お腹たぷたぷ……」
あまりに小さく、真剣な声だったので、私は口元を押さえた。
「……大変なんだね」
「今、すごく分かってもらえた気がする」
勝也が頷いた。
近くの先輩が、今日は久しぶりなのに続けてお願いしすぎたね、と笑った。
「次は量、少しにしようか」
「あ、お願いします。それなら飲めます」
「飲まなくてもいいのよ」
顧問の先生が向こうから言った。
部室のあちこちで笑いが起きた。
勝也も笑い、じゃあ、この次で今日は終わりにします、と答えた。
「最後、こっちでお願いしてもいい? 道具の置き方も見てもらいたいの」
先輩が、少し離れたところを示した。
勝也は返事をする前に、私を見た。
「あそこへ行っても、大丈夫?」
同じ畳の部屋の中だった。
襖の向こうへ行くわけでも、扉が閉まるわけでもない。
私が顔を上げれば、座っている姿が見える場所だった。
それでも、膝が触れなくなると思うと、つまんでいた制服へ少し力が入った。
勝也は立たずに待ってくれた。
詩織先輩が、私の横へ少し移った。
「私、ここにいていい?」
頷いた。
先輩は、私と勝也の間をふさぐ場所には座らなかった。
「……見えてるから、大丈夫」
私が言うと、勝也は、うん、と返した。
「すぐ、そこにいるね」
指を離した。
勝也が数歩先へ移り、こちらから横顔が見える向きに座った。
先輩へお辞儀をしてから、もう1度だけ私を見た。
私は小さく頷いた。
勝也も頷き、目の前の道具へ向き直った。
「ちゃんと見えるね」
詩織先輩が言った。
「……はい」
自分の膝へ手を置いた。
制服の布を離した指が、少し落ち着かなかった。
けれど、呼べば聞こえる距離だった。
先輩が、お菓子の小さな皿を私たちの間へ寄せた。
食べるように勧めるのではなく、置く場所を変えただけだった。
「勝也くん、ここでもよく話すの」
先輩の声が、さっきより少し小さくなった。
「漫画のこととか。最初はお茶の感想だったのに、いつの間にか全然違う話をしてる」
「……そうなんですか」
「うん。聞いてると、楽しそうで。知らない話でも、ちょっと見てみたくなるのよね」
勝也が、目の前の先輩へ何か答えた。
笑う声が聞こえた。
「今も、何か言ってるね」
詩織先輩が笑った。
私も勝也を見た。
学校で、こういうふうに過ごしていた。
私の知らない時も、勝也の周りには、一緒に笑う人がいた。
「……楽しそう」
思ったことが、そのまま口に出た。
先輩は私の顔を少し見てから、声を落とした。
「優子ちゃん」
初めて、下の名前で呼ばれた。
顔を向けると、先輩は勝也の方を一瞬だけ確かめた。
「勝也くんのこと、好き?」
息が止まった。
反射的に勝也を見た。
勝也は茶碗を受け取っていた。
こちらへは顔を向けていなかった。
「聞こえてないよ」
先輩が、さらに小さな声で言った。
私は膝の上の指を重ねた。
違うと言おうと思えば、言えたのかもしれなかった。
でも、そう言いたくはなかった。
勝也のことを、ただ一緒にいなければ怖い相手としてだけ、話したくなかった。
「……うん」
声は、自分でも聞き取りにくいくらい小さかった。
先輩は、聞き返さなかった。
「そっか」
笑った顔が、さっきより柔らかくなった。
「助けてくれたんだもんね。あんなふうに、大事にしてくれたら……そりゃ、好きになるよね」
私は勝也を見た。
先輩が言っていることも、間違いではなかった。
勝也が来てくれた日のことを思うと、今も胸がいっぱいになった。
でも、それより前にも、好きだった。
知らなかったことにしたくないくらい、長い間。
「……小さい時から」
先輩が私を見た。
私は、膝に置いた指へ目を落とした。
「小さい時から、好きだった……んです」
少しだけ間が空いた。
「……わーお」
小さな声だったのに、驚いたのが分かった。
顔を上げると、先輩は口元へ手を添えていた。
「そんなに、前から?」
頷いた。
「幼馴染だとは聞いてたけど……そうだったんだ」
先輩が勝也を見た。
それから、もう1度私へ向き直った。
「勝也くんは、そのこと、知ってるの?」
首を振った。
振ってから、頬がもっと熱くなった。
「……言って、ないです」
「うん。そっか」
どうして言わないの、と続けて聞かれなかった。
先輩は、考えるように少し目を細めたあとで、私へ笑った。
「じゃあ、私にも秘密にしておいてほしい?」
「……勝也には」
言葉が急いでしまった。
先輩はすぐに頷いた。
「うん。勝手に言わないよ」
肩から、少し力が抜けた。
秘密を知られたことは恥ずかしかった。
それでも、困ったことにはなっていなかった。
先輩は私の手を見てから、また小さな声で言った。
「もし、勝也くんに直接聞けないことがあったら、私に言ってね」
顔を上げた。
「私から、さりげなく聞いてみるから。聞けたら、優子ちゃんに教える」
「……いいんですか」
「うん。答えてくれることならね。勝也くんが話したくないことまで、無理に聞いたりはしないけど」
先輩の声は、ひそひそしているのに、ふざけてはいなかった。
「応援したくなっちゃった」
私はまた、勝也を見た。
あちらでは、茶碗を置く位置の話をしていた。
勝也が少しずらし、先輩が、そこ、と頷いている。
私が今、何を話したのか、知らなかった。
「……ありがとうございます」
頭を下げた。
先輩が、小さく笑った。
「うん。でも、ここで急にお辞儀すると、何の話か聞かれちゃうかも」
慌てて顔を上げた。
先輩が、冗談、と目を細めた。
私も、少し笑った。
その時に、勝也がこちらを見た。
「どうしたの?」
離れたところから聞かれて、また指に力が入った。
詩織先輩が、いつもの声へ戻した。
「内緒話」
私は先輩を見た。
勝也も少し目を丸くした。
「え。俺の話ですか?」
「女の子同士の話」
「あ、そうなんですね」
それで納得した。
もっと聞いてくるかと思ったのに、勝也は目の前の先輩へ向き直った。
詩織先輩が、私だけに見えるように、少し笑った。
「大丈夫だったね」
私は頷いた。
胸の中に残った恥ずかしさは、さっきほど苦しくなかった。
* * *
勝也が隣へ戻ってきた時、私は、空けてあった場所を少し広げた。
勝也はそこへ座り、お腹へ手を当てた。
「ただいま」
「……おかえり」
家でもないのに、そう返してしまった。
勝也は気にした様子もなく、ふう、と息を吐いた。
「今日の仕事、終わりました」
「ご苦労さま」
詩織先輩が言った。
「今日はもう、お茶、いらない?」
「しばらくは大丈夫です」
勝也が真面目な顔で答えたので、また笑ってしまった。
「……お菓子も?」
私が聞くと、勝也は皿を見た。
そこへ残っていた1本を見つけた。
「これは、別かな」
取ろうとして、先輩たちに見られていることへ気づいた。
「いや、最後の1本だから。残しても、あれだし」
「うん。どうぞ」
詩織先輩が皿を寄せた。
勝也は、ありがとうございます、と受け取り、食べた。
「……やっぱり、食べるんだね」
私が言うと、勝也は少し笑った。
「芋けんぴ、好きなんだよね」
かり、と音がした。
口の中のものを飲み込んでから、今度は私へ聞いた。
「優子、ここ、どうだった?」
私は、畳の上を見回した。
お茶の道具。積まれた本。お菓子の袋。
最初に声を掛けてくれた先輩が、離れたところで小さく手を振った。
「……楽しかった」
言ってから、先輩へ小さく会釈した。
「最初、びっくりしたけど」
「うん。皆、会えるの楽しみにしてたみたいだから」
詩織先輩が、勝也の向こうで頷いた。
「次からは、ちゃんと1人ずつ話しかけるね」
その言い方が少しおかしくて、私は笑った。
「……はい」
次があることを、普通に話してくれた。
私は鞄へ手を伸ばし、持ってきたノートの端に触れた。
「ここで、宿題してても、いいんですよね」
「もちろん。勝也くんもやってるし」
「分からないところ聞くと、先輩たちが教えてくれるよ」
勝也が付け足した。
「全部は無理だからね」
「分かるところだけで、十分助かってます」
先輩たちが笑った。
私はノートを出しかけ、時計を見てから、今日はしまい直した。
帰ってから、勝也と漫画の話をする約束もあった。
片づけが始まると、勝也は立ち上がった。
大きな箱を持ち上げ、棚の近くまで運ぶ。
先輩が置く場所を示すと、ぶつけないように腰を落とした。
私が立とうとすると、詩織先輩が、鞄を見ていてくれる? と聞いた。
私は頷き、2人の荷物のそばへ座っていた。
勝也が戻ってくるまでの間に、紙袋を渡された。
中には、芋けんぴを取り分けた袋がいくつか入っていた。口をそれぞれきちんと留めてあり、翔太くんの分も、別の袋にしてくれていた。
「おうちの人にも、よかったらどうぞ。食べきれなかったら、無理しないでね」
「……ありがとうございます」
受け取ると、先輩が笑った。
今度は近くから声を掛けられても、すぐに勝也を探さずに返事ができた。
帰り際、襖のところで、詩織先輩が私へ手を振った。
「また来てね、優子ちゃん」
「……はい」
勝也の隣へ並んでから、もう1度振り返った。
先輩と目が合った。
さっきの秘密を、わざわざ言い直すことはなかった。
小さく頷いてくれたので、私も同じように頷いた。
上履きへ履き替えると、勝也が紙袋を持ってくれた。
空いた手を、私の前へ差し出す。
私はその手を取った。
部室の中から、またね、と声がした。
「……また、お邪魔します」
小さくても、今度は最後まで言えた。
* * *
校門を出ると、風が制服の袖へ入ってきた。
日傘を開き、勝也の歩く方へ少し傾けた。
勝也が持っている紙袋が、歩くたびに小さく鳴った。
「本当に、たくさんもらっちゃったね」
「うん。優子のお母さんにも食べてもらおう。俺だけだと、しばらく毎日芋けんぴになりそう」
「……明日、翔太くんにも?」
「それは、別にしておくよ。渡さなかったら、ずっと言われるから」
勝也が紙袋を見た。
私も中を覗きたくなったけれど、歩きながらだと日傘がぶつかりそうで、顔を戻した。
「部活、楽しかった?」
聞くと、勝也が頷いた。
「うん。久しぶりに、いつもの感じだった」
その返事を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
私が隣にいても、いつもの場所で、いつものことをできた。
「優子も、また来られそう?」
「……うん。先輩たち、優しかった」
「よかった」
勝也が笑った。
詩織先輩と何を話したのかは、聞かなかった。
ほっとすると同時に、さっきの声を思い出した。
応援したくなっちゃった。
その言葉を、勝也の隣で思い返すのは恥ずかしかった。
私は日傘の持ち手を直した。
「……朝の、漫画の話」
違うことを言うつもりで口を開いたのに、勝也の顔がすぐにこちらを向いた。
「うん。聞きたかった。4巻まで、どうだった?」
「続きが気になって、閉じるところが、あんまりなくて」
「そうなんだよね。ここまでにしようって思っても、そのあとが気になるんだよ」
さっきまでより、返事が速かった。
「私は、月が何を考えてるのか分かるのに、次に何をするのかは、分からない時があった」
「うんうん」
「Lも、どこまで分かってるんだろうって。分かって言ってるのか、確かめるために言ってるのか」
「そこが面白いんだよ。相手がそう考えるだろう、ってところまで考えてるから」
勝也が、空いている指を少し動かした。
頭の中で、もうページをめくっているようだった。
「勝也は、どっちを応援してるの?」
聞くと、勝也はほとんど迷わなかった。
「俺は、月かな」
顔を見た。
勝也が、少し笑った。
「意外?」
「……少し。Lかなって思ってた」
「Lも好きだよ。でも、俺が今まで読んできた漫画って、主人公が悪い奴を倒す側のことが多かったから」
信号の手前で立ち止まった。
勝也も止まり、私たちの前を車が通り過ぎるのを待った。
「この話だと、追われる方が主人公じゃん。しかも、月が何考えてるか、読んでるこっちには分かる。だから、Lが近づいてくると、見つかるぞって思っちゃうんだよね」
「月がしてること、分かってても?」
「うん。そこが、初めて読んだ時、変な感じだった。悪役の方を、逃げろって思いながら読んでるんだ、俺って」
歩行者の信号が変わった。
勝也が車の方を確かめてから、歩き始めた。
「何でも月が正しいって思ってるわけじゃないよ。でも、どうやって切り抜けるんだろうって、そっちが気になる」
私も、思い当たるところがあった。
捕まれば、名前を書かれる人はいなくなる。
それなのに、ノートを見つけられそうになると、次のページを急いでめくっていた。
「……私も、隠してあるノートが見つかるかもしれないところ、どきどきした」
「そう、それ。見つかった方がいいはずなのにね」
勝也が頷いた。
「引き出しの仕掛けも、そこまでやるんだって思った」
「あれ、俺だったら、普通に開ける時に失敗しそう」
私が言うと、勝也はすぐに続けた。
「宿題やろうとして、うっかりとか」
想像して、笑ってしまった。
「……それは、真似しないでね」
「しないよ。漫画もゲームも同じ部屋にあるんだから」
「そこなの?」
「そこも大事」
勝也が真面目に頷いた。
その顔がおかしくて、また笑った。
家までの道で、勝也は何度か、次に話したいことを思いついた顔をした。
でも、私が前の話の続きを言うと、そちらを聞いた。
私も、歩きながら全部を話し切りたいとは思わなかった。
まだ、帰ってからも一緒にいられる。
そのことが、嬉しかった。
* * *
「ただいま」
玄関を開けると、お母さんが奥から顔を出した。
勝也も隣で、お邪魔します、と頭を下げた。
「おかえり。部活、どうだった?」
靴を脱ぐ前に聞かれ、私は勝也と顔を見合わせた。
勝也が紙袋を少し持ち上げた。
「いっぱい、もらっちゃいました」
「あら」
お母さんが中を見て、笑った。
「本当に、いっぱいね」
「俺が行ってなかった間、減らなかったみたいで」
「勝也、お茶もたくさん飲んでた」
私が付け足すと、お母さんが勝也を見た。
「じゃあ、お茶をいれるのは、少しあとにしましょうか」
「……できれば、そうしてもらえると」
勝也の返事が、部室の時と同じくらい真剣だった。
お母さんも笑った。
鞄を置いて手を洗い、居間へ戻った。
お母さんへ、林間学校のしおりも渡した。
「来週の水曜日からなんだって。今日、詳しく説明があったの」
「そう。あとで一緒に見ましょうね」
お母さんは表紙の日付を確かめ、食卓の端へ置いた。
私がつけた丸のことも、あとで聞いてくれると言った。
勝也が紙袋から1袋を取り出した。
残りはお母さんへ渡し、これは翔太の分で、と1つだけ分けておいた。
「今から、また食べるの?」
聞くと、勝也は袋を見た。
「少しだけ」
さっきも聞いたような返事だった。
私は笑いながら、小さな皿を取ってきた。
居間のテーブルへ並べ、2人でソファへ座った。
私は居間の本棚へ置いていた漫画を持ってきた。
前に借りた1巻と2巻、それから昨日読み終えた3巻と4巻。勝也が受け取り、テーブルへ順番に並べてくれた。
4冊並ぶと、話したかったところを見つけやすくなった。
「どこから話す?」
勝也が聞いた。
私は1巻へ手を置いた。
「最初からでも、いい?」
「もちろん」
勝也が嬉しそうに頷いた。
「初めて名前を書くところ、月も、最初から全部信じてるわけじゃないんだね」
「そうそう。最初は疑ってるんだよ。だから、確かめようとする」
「でも、確かめられた時には、もう……」
言いかけて、ページへ目を落とした。
勝也も、うん、と頷いた。
「普通のノートだと思ってる間は、ふざけて書けちゃうもんね。でも、本物だって分かったら、書いたことも本当になっちゃう」
絵の中の月を見た。
後の方の、落ち着いた顔とは違っていた。
「最初の頃の顔、読み終わってから戻ると、違って見える」
「分かる。まだ慣れてない顔してるよね」
勝也が1巻の少し先を開いた。
「このあと、Lが出てくるでしょ。俺、あそこもすごく好きなんだよ」
指の止まった先を、私も覗き込んだ。
「テレビのところ?」
「そう。リンド・L・テイラー」
勝也がすぐに頷いた。
「俺、初めて読んだ時、ここで本当にLが出てくるんだと思った」
「私も。顔を隠してたのに、もう出るんだって」
「で、月、そこで名前書いちゃうじゃん」
勝也が、困ったように笑った。
「書かなかったらよかったのに、って毎回思うんだよね」
「……挑発に、乗らなかったら?」
「うん。少なくとも、あの時、関東にいるって絞られなかったじゃん。まだ、すごく広いところから探さなきゃいけなかったはずなのに」
私もページを見た。
世界中に流れているものだと思っていた放送が、実際には違っていた。
そこが分かった時、前のページまで見直してしまった。
「何もしなければ、分からないことがあったんだね」
「そう。黙ってテレビ消せばよかったのにって、月の方を応援してると思う」
「でも、黙っていられないって、Lが考えたんだよね」
勝也が私を見た。
「そこなんだよ。あれ、ただ運よく当たっただけじゃないんだよね。月が怒って動くような言い方してるから」
「月、すごく落ち着いて見える時があるけど、自分を否定されると、違う顔になる」
「うん。頭はいいのに、負けたくない気持ちもすごい。俺、その両方があるのが好きなんだと思う」
勝也が、ページの端を指で軽く叩いた。
「何をされても平気で、全部最初から分かってた、っていう人だったら、ここでこんなに慌てないし」
私は頷いた。
月の表情が変わったところを、もう1度見た。
「Lは、顔も本当の名前も見せてないのに、月のことを少しずつ知っていくんだね」
「そう。月はノートのことを知ってて、Lは知らない。なのに、知らない方が追いついてくるから怖い」
勝也はページを見たまま、続けた。
「アニメで見た時も、ここ、どきどきしたなあ」
「先のこと、知ってても?」
「うん。声とか音がつくと、漫画で読んでた時とは違う感じがして。次に何を言うか分かってるのに、返事を待っちゃうんだよ」
私は、開いたページを見た。
漫画なら、相手の返事はすぐ隣にあった。気になれば、先に目を移すこともできる。
「……声が聞こえるまで、待つんだね」
「そう。その間に、今、何考えてるんだろうって、顔も見ちゃうし」
勝也が笑った。
「それで、知ってるのにまた緊張してるんだから、俺、何回でも楽しめるんだと思う」
私も少し笑った。
同じ話でも、勝也には、もう1つ好きな見方があるらしかった。
勝也は私の前へ漫画を少し寄せた。
「優子、こういう駆け引きのところ、好き?」
「うん。後から意味が分かって、前のところを読み直したくなるのが、面白い」
「分かる。俺も、ここで言ってたの、それかってなるの好き」
同じところを好きだと言ってもらえて、嬉しかった。
私は2巻へ手を伸ばした。
「……それなら、この人のところも、すごかった」
南空ナオミが出てくるページを探すと、勝也がすぐに身を寄せた。
「ああ。そこは、俺もすごく好き」
声が弾んだ。
その横顔を見てから、私はページを開いた。
「私、この人、月より先にLに会えるのかなって思ってた」
言うと、勝也が頷いた。
「会えたら、すごい情報になってたよね。月からすると、そこで会っちゃったのが、ものすごく大きい」
「ナオミさんからすると……」
「うん。会う相手が、月じゃなければって思う」
勝也は、声を少し落とした。
月を応援していても、誰がいなくなっても平気、というわけではなかった。
「でも、この人、ちゃんと偽名を使ってたんだね」
「そう。月が書いても何も起こらなくて、そこで、あれってなる」
勝也が、自分の膝へ置いていた手を少し動かした。
鉛筆を持っているような指の形になっていた。
「こっちは、名前を聞いたから月が何とかするんだろうって思ってるじゃん。それで安心しかけたところで、名前が違う」
「月の方を応援してると、安心するんだ」
「うん。そこは、俺はね」
私が見ると、勝也が少し笑った。
「でも、ナオミさんのことを考えると、安心できない。読んでる時、どっちの方へ気持ちが向いてるかで、同じところでも違うんだと思う」
私はその言葉を考えながら、ページを見直した。
初めて読んだ時、偽名だと分かったところで、少しほっとしたのを覚えていた。
そのあと、月が何を言うのかが気になって、すぐ先を読んでしまったことも。
「月は、偽名だって分かってから、また聞かなきゃいけないんだよね」
「そう。それがすごいんだよ。最初から本当の名前を言わないようにしてる相手に、もう1回聞くんだから」
勝也が2巻を少し持ち上げた。
読んでほしいというより、同じところを見て話したいようだった。
「普通に、本名は何ですかって聞いたら、怪しいじゃん。しかも、急いで聞かないと、捜査の方へ行かれちゃう」
「……焦ってるのに、顔では隠してる」
「うん。それで、相手の話を聞きながら、どう言えば信じてもらえるか、その場で考えてるんだよ」
勝也の声が、また少し速くなった。
「お父さんの立場とか、自分が本当のことを知ってる部分とか、全部使ってる。全部でたらめを並べるんじゃなくて、本当にあることに嘘を混ぜてるから」
「聞いてる人には、どこから違うのか分からないね」
「そう。しかも、相手が今、何をしたいかも見てるじゃん。そこへ話を持っていくの、頭の回転、速すぎる」
私は頷いた。
読み終えたあとでも、その場で同じことを思いつけるとは思わなかった。
「私は、名前を間違えたって分かった時に、そこで止まっちゃうと思う」
「俺も。絶対、顔に出る」
勝也が、目を大きく開いた。
口を少し開けたまま、私を見る。
「……今、何も起きてないんだけど」
月なら口に出さないことを、勝也が小声で言った。
真剣な場面を思い浮かべていたのに、笑ってしまった。
「それ、言っちゃ駄目だよ」
「分かってるけど、顔はたぶん、こうなる」
「すぐ、分かっちゃう」
「うん。俺、月みたいにはできないと思う」
勝也は自分でも笑い、元の顔へ戻った。
「月って、頭の中ではめちゃくちゃ考えてるのに、相手には、ちゃんと話聞いてますって顔するんだよね」
「それが、少し怖かった」
「うん。でも、そこが読んでて面白い。自分にはできないから、どうやってしゃべるんだろうって見ちゃう」
勝也の言う、好き、が少し分かった。
同じことをしたい、という意味ではなかった。
自分と違う人の考え方を、最後まで見ていたい、という好きもあるのだと思った。
私がページを戻すと、勝也も目で追った。
「ナオミさんも、頭いいよね。最初は、月の言うこと、そのまま信じないし」
「うん。相手が何も考えずに教えちゃう人だったら、ここまでどきどきしないと思う」
「だから、本当の名前を話した時……あ、ってなった」
続きを言わずに、紙へ指を置いた。
勝也は、分かる、と頷いた。
「俺、そこ、初めて読んだ時、急いで次めくっちゃった。月が切り抜けたっていうのと、もう戻らないんだっていうのが、一緒に来るんだよね」
少しの間、2人で同じページを見た。
台所から、お母さんが水を出す音がした。
勝也は、話が暗くなったからといって、急に違うことを言わなかった。
私がもう1度ページを見てから閉じるまで、待っていてくれた。
「……レイ・ペンバーのところも、読むの、少し戻った」
私から言うと、勝也がすぐに頷いた。
「バスのところから?」
「うん。先に名前を知っておくためのことだったんだって、後から分かったから」
「あそこも、行動の順番がすごいよね。突然、都合よく知ったんじゃなくて、自分でそうなるようにしてる」
勝也は、全部を説明し直すのではなく、私が戻って読んだところを聞いた。
私も、どこで分からなくなって、どこでつながったのかを話した。
漫画を読む時に、そんなふうに話したことは、あまりなかった。
分からなかった、と言っても、勝也は、俺も最初、そこ読み直した、と笑った。
「一回で全部分かんなくても、面白いよね」
勝也が言った。
「うん。読み直すと、さっき見てなかったところも見える」
「それで、また次を読みたくなるんだよね」
昨日、一緒に読んだ別の漫画のことを思い出した。
笑う話でも、怖い話でも、勝也は、同じ本を何度も開く。
その理由を、また少し分かった気がした。
* * *
「あと、部屋に誰か入ったって分かるところ」
私が3巻へ手を伸ばすと、勝也は、ああ、と楽しそうに言った。
「ドアのやつね」
「あんなに、いろいろしてあるんだね」
紙をめくり、確かめながら話した。
目につく仕掛けが、そのまま全部ではなかった。
誰かが元へ戻したつもりでも、別のところで分かるようにしてあった。
「シャーペンの芯まで、挟んであるんだね」
「うん。あれ、最初見た時、そんなとこまで気にするのって思った」
「ドアノブも、いつもの状態と違うって分かるんだよね」
「自分の部屋なのに、入る前から見てるんだもんね。俺、帰ってきたら、普通に開けちゃうよ」
勝也が、自分の部屋のドアを開けるように、手首を動かした。
何も確かめずに入る動きだった。
「……勝也も、そういうの、してるの?」
聞いた途端に、勝也の手が止まった。
「今は、してないよ」
私は勝也を見た。
勝也も私を見た。
「……今は?」
聞き返すと、勝也が笑い始めた。
「そこ、拾うんだ」
「だって、そう言ったから」
「うん。やったことは、ある」
私は、思わず少し身を寄せた。
「本当に?」
「あるよ。俺だけじゃなくて、春樹と翔太も」
3人の顔が浮かんだ。
誰がいちばん張り切っていそうか、想像できてしまった。
「翔太くん、すごく、いろいろしそう」
「そう。しかも、やったっていうことを、先に言うんだよ」
勝也が、少し胸を張った。
声まで、翔太くんを真似た調子になった。
「俺の部屋、勝手に入ったら分かるようになってるからな」
笑ってしまった。
「……秘密に、しないんだ」
「そう。それで、自分が仕掛けたの忘れて、普通に開けて、紙落とした」
「自分で?」
「自分で。次の日、誰も入ってないのに反応したって言うから、最後に入ったの誰って聞いたら、俺って」
勝也が、短く間を置いた。
「それ、翔太を見つけてるよねって、春樹が」
私は口元へ手を当てた。
勝也も笑っていた。
「ちゃんと、分かったんだね」
「うん。自分が部屋に入ったことは、ちゃんと分かった」
翔太くんなら、できたからいいだろ、と言いそうだった。
そう言うと、勝也がすぐに頷いた。
「言ってた。まさにそれ」
私は、もっと笑ってしまった。
学校で聞く大きな声と同じ調子で、頭の中に浮かんだ。
「春樹くんは?」
「春樹は、紙だけ。置いた場所もちゃんと覚えてて、そこまではよかったんだけど」
勝也が、紙をつまむように指を動かした。
「自分で、これ、入ったことが分かっても、誰が入ったかは分かんないよねって言い出して」
「……そうだね」
「それで、誰も入る予定ないなら、今やっても意味なくないって」
私は勝也を見た。
「自分で、やめたの?」
「うん。いちばん早く飽きた」
それも、春樹くんらしい気がした。
同じものを読んで、同じことをしてみても、そのあとの話は違っていた。
「勝也は?」
聞くと、勝也は少しだけ目をそらした。
笑うのをこらえている顔だった。
「俺は、紙を挟んだの、お母さんに見つかった」
「怒られた?」
「ううん。廊下に落ちてたよって、机の上に置かれてた」
少し考えてから、意味が分かった。
「……入ってる」
「うん。めちゃくちゃ分かりやすかった」
勝也が頷いた。
「掃除するから入ったんだけど、何か大事な紙だったの、って」
「何て言ったの?」
「ただの紙だよって。そしたら、落とさないようにしなさいって」
今度は、こらえられずに声が出た。
勝也も笑いながら、自分の膝へ手を置いた。
「月みたいには、ならなかった」
「……おばさんは、隠すつもりもないもんね」
「そう。最初から普通に、入ったよって教えてくれた」
勝也のお母さんが、いつもの調子で紙を置くところを想像した。
月の部屋で起きていることとは、全然違っていた。
「芯は、やらなかったの?」
「そこまでやる前に、もういいかなって。紙だけでも、帰ってくるたびに気にするの、結構面倒で」
勝也が漫画へ目を戻した。
「だから、あれをずっとやってる月はすごい。自分がやってみたせいで、余計に思った」
私は頷いた。
「真似してみて、難しいって分かったんだ」
「うん。俺ら3人とも、Lが来る前に終わった」
その言い方に、また笑った。
笑いながら、3巻を少し先へめくった。
監視されていることを知った月が、普段の暮らしを見せようとするところだった。
「ここ、気づいてるって、気づかれちゃいけないんだよね」
「そう。変なことをしなくなるだけでも、普段と違って見えるかもしれないから」
勝也が指で、月の部屋を示した。
私は、その近くの絵を見て、少し手を止めた。
大人向けの本を読んでいる場面だった。
月がそうする理由は、読んだ時に分かった。
でも、今、隣に勝也がいると、別のことが気になった。
「……勝也」
「うん?」
私は本を指さすか迷って、結局、開いたまま膝へ下ろした。
「勝也も、こういう本……持ってるの?」
勝也の指が止まった。
それから、こちらを向いた。
「持ってないよ」
返事が、さっきまでより早かった。
「……そうなんだ」
「うん。ないない。全然、持ってない」
勝也が右の耳の後ろを、指で軽くこすった。
そのあと、目を合わせて、必要以上に大きく頷いた。
見覚えのある順番だった。
小さい頃、何かを内緒にしている時の勝也は、すぐに目をそらすわけではなかった。
大丈夫だよ、何もないよ、と先に言う。
それから、耳の後ろへ手をやって、ちゃんとこちらを見直す。
その仕草だけが、今も同じだった。
持ってるんだ……。
口には出さなかった。
漫画へ目を落とし、もう1度だけ、小さく頷いた。
「……うん」
勝也が、少し息を吐いた。
信じてもらえたと思ったらしかった。
私はページの端へ指を添えた。
勝也も、そういう本を持っている。
それを知っただけで、少し落ち着かない気持ちになった。
どこに置いているの、とも、どんな本なの、とも、聞けなかった。
聞きたいかどうかも、よく分からなかった。
ただ、昔と同じ仕草を見つけたことだけが、少しおかしかった。
「優子?」
勝也が呼んだ。
私は顔を上げ、首を振った。
「……何でもない」
勝也は、うん、と返した。
まだ、ばれていないと思っていた。
「でも、月は、その本を読んでるところまで、見せ方を考えてるんだよね」
私から漫画の話へ戻した。
勝也は、そうそう、とすぐに頷いた。
「知られたくないものが別にあるって思わせたいんだよね。ノートがあるなんて、考えさせたくないから」
「普通に暮らしてるところを、作らなきゃいけないんだね」
「うん。俺だったら、カメラがある方、絶対見ちゃう」
勝也が、部屋の隅へちらっと目をやった。
その動きがあまりに分かりやすかったので、私は笑った。
「今みたいに?」
「今みたいに。何もないふりしてるつもりで、何回も見そう」
さっきの返事を思い出した。
持ってないよ、と言った声も、普段どおりにしているつもりだったのかもしれなかった。
私は、そこは言わずに笑った。
「勝也は、月みたいに隠すの、難しいかもね」
「だよね。分かる気がする」
勝也が素直に頷いた。
その顔を見ると、からかう気にはなれなかった。
私だけが分かったことを、今はそのまま持っていようと思った。
* * *
「監視カメラのところなら、ここも好き。ポテチのところ」
勝也がページを示した。
私は、袋を持つ月の絵へ目を移した。
「ここも、アニメで見たの?」
「うん。勉強しながらお菓子を食べてるところを、こんなに大げさに見せるんだって、びっくりした」
「大げさなの?」
「俺は、そう感じた。動きとか音楽とか。月は真剣なんだけど、見てると、ちょっと笑っちゃうんだよね」
勝也は、思い出したように口元を緩めた。
私は絵を見直したけれど、まだ、うまく想像できなかった。
「……ここ、読んだ時は、見つからないのかなって思ってた」
「それもあるよ。同じことをしてるのに、見せ方でこんなに違うんだなって。漫画の方も好きだけど、アニメで見るのも楽しい」
勝也が芋けんぴの袋へ手を伸ばした。
1本取り、口へ入れる。
食べ終えるのを待ってから、私は聞いた。
「音楽も、よく覚えてるの?」
「どこで流れてたか、思い出すのはあるよ。聞くと、あの場面だってなる」
「漫画だと、音楽はないもんね」
「うん。だから、漫画では自分の速さで読み返して、アニメでは声とか音も一緒に楽しんでる感じかな」
勝也の手が、また袋へ伸びた。
袋の中身は、話し始める前より少なくなっていた。
「……勝也」
「うん?」
「さっき、少しだけって言ってたよ」
勝也が手を止めた。
袋の中を見てから、私を見る。
「話してたら、食べちゃってた」
「お腹、いっぱいだったんじゃないの?」
「そのはずなんだけど」
真面目に袋を見つめるので、笑ってしまった。
台所から、お母さんも顔を出した。
「おいしくても、晩ご飯の分は空けておいてね」
「はい。いったん、しまいます」
勝也が袋の口を折った。
今度は、手を伸ばしてもすぐには取れない場所へ置いた。
「茶道部で言われてたの、これかもしれない」
小さく言うので、また笑ってしまった。
好きなところを話していると、お菓子が減っていることにも気づかないらしかった。
私は漫画へ目を戻した。
「ここは、袋の中の小さい画面を見て、犯罪者の名前を書いてるんだよね。外からは、普通に勉強してるように見せながら」
私が聞くと、勝也も頷いた。
「うん。しかも、自分がその時には知れないはずのことを、知ってるってばれたら困る。だから、何を、いつ、どう見せるかが大事になってる」
「お父さんも見てるから、家の中でのいつもの月を知ってる人がいるんだね」
「そうなんだよ。適当に真面目なふりするだけじゃ、違うって思われるかもしれない」
勝也が閉じた袋へ目をやった。
「俺は、お菓子を食べてるだけでも、すぐ分かるけどね」
「……さっきは、何回も手が伸びてたよ」
「うん。まず、袋から離れた方がいいんだと思う」
また笑った。
勝也と話していると、漫画の中で緊張したところも、ゆっくり開いて見直せた。
アニメでは、どんなふうに見えるのだろう。
勝也が話してくれた音楽も、少し気になっていた。
* * *
「Lが、月のすぐ近くへ来るところも、びっくりした」
私が言うと、勝也は3巻を持ち上げた。
「大学のところ?」
「うん。遠くからずっと調べるのかと思ってたから」
「普通、名前を知られたら危ない相手に、自分から会いに来るって思わないよね」
勝也がページを探した。
私は、その指が止まるのを待った。
「月も、言われた瞬間、すごく考えてるね」
「あそこ、いろんな可能性が一気に来るんだよ。目の前にいるのが本当にLなのかも、名前も、そのまま信じていいわけじゃないし」
「近くに来たら、月の方が有利になるのかと思った」
「でも、逆に、簡単に動けなくなるんだよね」
勝也が、なるほどなあ、という顔をした。
もう読んで知っているはずなのに、今もその場で感心しているようだった。
「月を応援してると、嫌なことしてくるなって思う。でも、Lの方から見ると、よくそこまで考えるなってなる」
「勝也、ずっと、両方の方へ行ってるね」
「うん。結局、両方の考えてることが面白いんだよね。でも、追い詰められてる時は、月、何とかしろって思う」
勝也が笑った。
私も、少し笑った。
「……テニスしてる時まで、考えてたね」
「そう。普通にテニスしろよって思う」
勝也は、言ったそばから首を振った。
「いや、普通にやったら、それはそれでLが何か考えるから、普通にやるのも難しいのか」
「勝っても、負けても、意味を考えられちゃう」
「俺、途中で何を考えてるか忘れて、球追っちゃいそう」
昨日の体育の勝也を思い出した。
できないと言っていたことと、実際に動いた姿が、あまりに違っていた。
「勝也なら、普通に勝とうとしそう」
「うん。わざと負けるの、難しそうだし」
「それで、あとから、こういう性格だって言われるんだね」
私が言うと、勝也がこちらを見た。
少し考えてから、笑った。
「それは、嫌だなあ。負けた方がよかったの、ってなる」
私は膝の上で手を重ねた。
勝也とこんなに長く、同じ漫画の人たちの話をしていた。
どちらが正解なのかを決めるためではなく、同じ場面から違うことを考えたのを話していた。
「Lの座り方も、変わってるよね」
少し先の絵を見て言うと、勝也がすぐに膝を上げかけた。
「こういう」
そこで止めた。
私の膝にぶつかりそうだったからだった。
「……ここでは、狭いね」
「うん」
私は笑った。
勝也は足を下ろし、漫画の中のLへ目を戻した。
「声がつくと、月とはまた違う感じがするんだよ。こういうところも、見比べるの好きなんだ」
「読んでる時に、声、思い出す?」
「うん。アニメを見てから読み返すと、聞いた声で読んでる時がある」
私は、絵の中のLを見た。
自分が読んでいる時に思い浮かべた声とは、違うのだろうか。
「……勝也、楽しそう」
「楽しいよ。優子はここ、どう思ったんだろうって聞けるのも」
その言葉が、嬉しかった。
「私も。1人で読んでた時は、こんなに話すこと、あると思わなかった」
「話してるうちに、次のところも思い出すんだよね」
勝也が4巻へ目を向けた。
私も頷いて、手を伸ばした。
まだ、4巻の話もしたかった。
* * *
4巻を開くと、勝也は、どこまでなら話していいかを確かめるように、最後の方を一瞬見た。
すぐに戻したので、私もその動きを見た。
「続き、言いそうになった?」
「ちょっと。ここ、話し始めると先のことまで行きそうで」
「……言わないでね」
「うん。4巻まで」
勝也が、指を4本立てた。
私は笑って頷いた。
「第2のキラが出てきてから、月が考えなきゃいけないこと、増えたね」
「そう。Lだけ見てればいいわけじゃなくなるんだよね。味方になりそうな人が来たのに、それで全部楽になるわけじゃない」
「同じことができる人がいても、同じ考えとは限らないから?」
「うん。月が隠しておきたいことでも、相手は別にそこまで気にしてなかったりするし」
私は、初めてメッセージが出てきた時のことを話した。
月がしたことではないと分かると、それまでの読み方が少し変わった。
同じキラという呼び方でも、話している相手が違う。
「リュークが知らないことも、あるんだね」
「あるね。全部を親切に教えてくれる説明係じゃないんだよ」
勝也が、好きなところだという顔で笑った。
「リュークって、月を絶対に助けるために来てるわけじゃないじゃん。面白がってるところがあるから」
「私は、最初、もっと怖いだけの人かと思った」
「見た目、すごいもんね」
「でも、リンゴのことで、急に……」
言いかけると、勝也が笑った。
「すごく分かりやすくなる」
私は頷いた。
「月やLは、何を考えてるか分からない時があるけど、リンゴが欲しいんだなっていうのは、分かる」
「うん。そこは、翔太がお菓子見てる時くらい分かりやすい」
思わず笑った。
「……翔太くんに言ったら、怒るよ」
「たぶん、リンゴよりカレーがいいって言う」
昼間の班の話し合いを思い出した。
私は、そうかもしれない、と笑った。
勝也が、死神の目の取引の話へ移った。
何を知れるようになるのかと、その代わりに何を渡すのか。
私は読んだ時に、残りの寿命の半分、というところへ指を止めたことを話した。
「半分って、すごく大きいよね」
「うん。月が簡単に決めないのも分かる。便利だから、すぐもらおう、とは思えない」
「名前が分かれば、今まで困ってたことが、いくつもなくなるのに」
「そうなんだよね。だから、欲しい力なのは分かる。でも、代わりに払うものが重すぎる」
勝也は少し黙り、開いたページへ目を落とした。
「何でも分かるようになるわけでもないしね。相手が何考えてるかとか、どこにいるかとか、別のことは残る」
私は、そっか、と頷いた。
便利なものがあれば全部解決するわけではないから、また次のことを考えなければならなかった。
「海砂が出てきたら、それを持ってる人と、持ってない月が一緒になるんだね」
「そう。月からしたら、すごく欲しい情報を持ってる相手。でも、海砂は海砂で、自分がしたいことがある」
4巻の海砂の顔を見た。
好きだと、はっきり言う。
会いたいから、会いに行く。
していることには怖いところもあったし、同じようになりたいわけではなかった。
それでも、気持ちを隠さず伝えられるところは、目が離せなかった。
「……海砂って、まっすぐ言うね」
小さく言うと、勝也が絵を見た。
「好きってこと?」
頷いた。
「あれだけ、はっきり言われたら、分かるよね」
「うん。月も、そこは分かってると思う」
勝也が答えた。
私は、もう少し聞きたくなった。
「……勝也だったら、びっくりする?」
「あんなにはっきり言われたら? すると思う」
勝也は少し考えた。
「たぶん、返事するまで、固まる」
昨日、マットの上で動かなかった勝也を思い出した。
けれど、今は、その冗談を口にできなかった。
「嫌、ではない?」
聞いてから、指先が熱くなった。
勝也は漫画を見たまま、首を振った。
「好きって思ってくれるのは、嬉しいんじゃないかな。自分が同じように思ってるかどうかは、別にちゃんと考えるけど」
私はその返事を、ゆっくり聞いた。
「月みたいに、別の目的で付き合うっていうのは、俺にはできないと思う」
「……うん」
私は頷いた。
勝也は私の方へ、4巻を少し向けた。
「海砂の方は本気だから、そこ、同じじゃないのが分かると、読んでて複雑だよね」
「うん。月が何を考えてるか、こっちには分かるから」
勝也が頷いた。
私は絵の中の2人を見た。
勝也へ好きだと言ったら、勝也は考えてくれる。
そんなことを、今の返事から想像してしまった。
嬉しいと言ってもらえることと、同じように好きになってもらえることは、違う。
まだ、実際に聞く勇気はなかった。
詩織先輩へは、小さな声で言えた。
本人の隣では、漫画の話に隠して聞くだけで、精いっぱいだった。
「レムは、リュークとは違う感じがする」
私が別の登場人物へ話を移すと、勝也はすぐに乗ってきた。
「うん。誰のことを大事にしてるかが、すごくはっきりしてるよね。同じ死神でも、全然違う」
「月は、人だけじゃなくて、そういう違いも考えなきゃいけないんだね」
「だから、どんどん大変になってくる。俺、読んでて、もう少し簡単にならないのって思うんだけど、簡単になったら面白くないんだよね」
勝也が笑った。
私も、今度は自然に笑えた。
「勝也、月を応援してるのに、困るのも見たいんだね」
勝也は、言われて初めて気づいたように目を丸くした。
「……本当だね」
少し黙ったあとで、頷いた。
「困って、そこから何とかするのが見たいのかもしれない」
「Lが、何も気づかなかったら?」
「それは、困る。Lにはちゃんと気づいてほしい」
「でも、気づかれたら、月、逃げてって思うんでしょ?」
勝也が笑い始めた。
「俺、読んでて、すごく勝手なこと思ってるね」
私も笑った。
勝也が好きだと言っていた理由は、最初に聞いた時より、ずっと分かるようになっていた。
月の味方だから、Lを嫌いなわけではない。
どちらかだけが簡単に勝ってしまったら、続きをこんなに話したくはならない。
それを勝也へ言うと、そうそう、と何度も頷いた。
「まさに、それが言いたかった」
嬉しくて、私は4巻の表紙へ指を置いた。
読み終えた時には、まだ誰にも言葉にしていなかったことを、勝也と一緒に少しずつ言えた。
* * *
勝也が4巻を閉じた。
表紙を上にして、ほかの3冊へ重ねる。
その手を見ながら、私は口を開いた。
「……アニメも、見てみたい」
勝也がこちらを向いた。
「本当?」
頷いた。
「声とか音楽で違って見えるって、どんな感じなのかなって。月とLが話してるところも、見てみたい」
重なった4冊へ目を落とした。
どの場面のことを話しているのかは、分かっていた。
でも、勝也がアニメを思い出して楽しそうに話す時、私にはまだ想像できないところがあった。
「……見たら、また、今日みたいに話せる?」
顔を上げると、勝也が嬉しそうに頷いた。
「もちろん。優子が見てどう思うか、俺も聞きたい」
私は少し笑った。
見終わったあとで勝也と話せることまで、楽しみになった。
「DVD、家にあるから、持ってこようか?」
勝也が言った。
昨日、漫画を貸してくれた時と同じくらい、何でもないことのように。
「最初の方なら、すぐ用意できるよ。ここで一緒に見てもいいし」
「……一緒に?」
「うん。今日みたいに、ここ好きだったって話せるから」
頷きかけて、止まった。
ここへ持ってきてもらえば、お母さんもいるし、いつもの場所で見られる。
勝也は、そのつもりで言ってくれたのだと思う。
でも、さっきから、別のことも考えていた。
勝也の好きな漫画が並んだ本棚。
学校から帰って、1人でゲームをしたり、DVDを見たりする場所。
「……あのね」
「うん?」
勝也が待ってくれた。
私は膝の上で指を重ねた。
「勝也の、お部屋に……行ってみたい」
言ったあとで、顔が熱くなった。
DVDを借りたいだけなら、こんなふうに頼む必要はなかった。
それでも、言い直したくはなかった。
勝也は私を見てから、笑った。
「うん。いいよ。じゃあ、うちで見よう」
「……いいの?」
「もちろん。土曜日、来る?」
今度は頷いた。
勝也が、楽しみだね、と言った。
「お母さんは仕事で、土曜日も遅くまで帰ってこないけど。俺はいるから」
「うん」
台所へ顔を向けた。
お母さんは、私たちの話を聞きながら、洗ったものを片づけていた。
「お母さん。土曜日、勝也のおうちで、アニメ、一緒に見たい」
お母さんが振り向いた。
私と勝也を見て、柔らかく笑った。
「いいわよ。遅くならないようにね」
「……うん」
お母さんは笑ったまま、片づけの続きへ戻った。
勝也と一緒に過ごしたいと言うだけで、分かってくれていた。
私はもう1度勝也を見て、小さく笑った。
土曜日。
明後日だった。
学校へ行くために朝、勝也の家へ寄るのとは違う。
途中まで同じ道を歩くためでも、荷物を受け取るためでもない。
一緒に好きなものを見るために、遊びに行く約束だった。
「最初から見る?」
勝也が聞いた。
「うん。1話から、見たい」
「じゃあ、そうしよう。漫画と進み方が全く同じとは限らないから、先の話になる前に、ちゃんと止めるね」
「勝也、分かる?」
「たぶん。先にどこまでにするか、確認しておくよ」
勝也が少し考えた。
「1日で全部見るんじゃなくて、ゆっくり見よう。途中で休憩して、しゃべりたくなると思うし」
私は頷いた。
急いで全部見てしまわなくていいことも、嬉しかった。
「DVD、いっぱい持ってるの?」
「出てる巻は、買ってる。アニメの方は、まだ最後まで全部発売されたわけじゃないけど、最初の方は揃ってるよ」
勝也が、本棚の並びを思い出すように指を動かした。
「映画の方もある。前編と後編が入ってるセット」
「実写の?」
「うん。そっちも好きだから」
私は少し驚いた。
「漫画と、アニメと、映画も?」
「うん」
勝也が頷いた。
当然だよ、というより、好きだからそうなった、という顔だった。
「同じお話でも、違うところがあるの?」
「あるよ。見せ方も違うし、映画は映画の流れがあるから」
言いかけて、勝也が口を閉じた。
私はその顔を見た。
「……今、また、言いそうになった?」
「なった。ここから先、言わない方がいいやつ」
笑ってしまった。
勝也も笑い、危なかった、と4冊へ手を置いた。
「映画は、漫画ももう少し読んでからの方がいいと思う。まず、土曜日はアニメにしよう」
「うん」
決まったことが、1つ増えた。
私は膝の上で指を重ね、少しだけ勝也の方へ寄った。
「……本棚も、見ていい?」
昨日から思っていたことを、言ってみた。
勝也はすぐに頷いた。
「もちろん。読んでみたいのがあったら、また貸すよ」
「ゲームも、どんなのがあるか、知りたい」
「じゃあ、それも見よう。優子ができそうなの、一緒に探せるし」
明後日のことなのに、まだ先の楽しい予定みたいだった。
来週のしおりには、心配なところへ丸をつけた。
今は、聞いてみたいことが増えていた。
「お菓子、どうする?」
勝也が、テーブルの芋けんぴを見た。
私も見た。
「……これも、持っていこうか」
「うん。ポテチも買っとこうかな」
私は袋と、勝也の顔を見比べた。
「まだ、増やすの?」
「今日じゃないよ。明後日の分」
「それは、分かってるけど」
笑ってしまった。
勝也も笑い、そうだね、と頷いた。
「じゃあ、ポテチは小さい袋にしよう。飲み物も用意しておくよ」
「うん」
勝也が、少し考えてから言った。
「しゃべりすぎたら、止めてね」
私は首を振った。
「……今日、楽しかったよ」
勝也が、少しだけ黙った。
それから、嬉しそうに笑った。
「俺も。優子とこんなに話せると思ってなかった」
私は4冊の背表紙へ目を落とした。
読み終えた本が、読み終えた時より大事になっていた。
土曜日、勝也の部屋で同じ画面を見る。
勝也がいつも好きなものを見ている場所へ、私も行ける。
今日みたいに、隣で話せたらいいなと思った。
私は重ねた指をほどき、もう1度、勝也の方を見た。
明後日の約束ができていた。
* * *
4冊は、もう少し読み返したくて、そのまま借りていてもいいか聞いた。勝也は、もちろん、と頷いてくれた。
漫画を本棚へ戻して時計を見ると、思っていたより針が進んでいた。
勝也も気づき、少し驚いた顔をした。
「こんなに、しゃべってたんだ」
「……かなり、って言ってたね」
「言ったね。言ったとおりになった」
2人で笑った。
台所から、包丁がまな板へ当たる音が聞こえてきた。
お母さんが夕ご飯の支度をしていた。
勝也が今日も食べていくことは、玄関で話してあった。
もう、勝也の分があるかどうかを、毎回心配しなくてよくなっていた。
私は台所を見た。
お母さんが野菜を切り、手元の器へ移した。
コンロには鍋が載っていた。
勝也が、小さく鼻を動かした。
「いい匂いする」
何気ない声だった。
私は勝也を見た。
「……さっき、お腹いっぱいって」
「だいぶ、落ち着いてきた」
勝也が自分のお腹へ手を当てた。
「しゃべったからかな」
「お腹って、しゃべると空くの?」
「分かんない。でも、夕飯の匂いすると、食べたくなる」
笑ってから、もう1度、台所を見た。
いつか、勝也を支えてあげられるようになろうね。
お母さんが言ってくれたことを、思い出した。
昨日は、眠っている勝也の隣へ座っていた。
今日は、勝也が好きなものの話を、一緒にできた。
ほかにも、何かしてみたかった。
私が用意したものを、勝也が食べるところを想像した。
想像しただけで、胸が少し落ち着かなくなった。
「……お母さん」
声を掛けると、お母さんが振り向いた。
「何?」
「夕ご飯の支度、私も、していい?」
勝也が隣で顔を上げた。
お母さんは、手に持っていた包丁を置いた。
「もちろん。手伝ってくれるの?」
頷いた。
それだけでは足りなくて、もう少し言った。
「……できるように、なりたい。作り方も、教えてほしい」
お母さんが私を見た。
すぐには理由を聞かなかった。
「うん。じゃあ、今日は一緒にやってみようか」
私は立ち上がった。
立ってから、勝也の手が自分の隣にないことへ気づいた。
いつもなら、一緒に立ってもらうところだった。
勝也も、こちらを見ていた。
「俺、ここにいるね」
言ってくれたので、頷いた。
でも、台所へ向かって2歩歩くと、もう1度振り返ってしまった。
ソファの背の向こうでは、座った勝也の姿が、全部は見えなかった。
お母さんが、食卓の椅子へ目をやった。
「勝也くん、よかったら、こっちで宿題する? 台所からも見えるから」
「はい。そうします」
勝也が鞄から問題集を出した。
食卓へ移り、私の方が見える席へ座る。
「これなら、見える?」
私は台所の入口から確かめた。
顔も、机へ置いた手も見えた。
「……うん」
勝也が頷いて、筆箱を開いた。
私が何度か見ても、そのたびに立ち上がったりはしなかった。
そこにいると分かるように、一度だけ手を振ってくれた。
お母さんが、私のエプロンを持ってきた。
紐を結ぶ時に、髪を挟まないように手を添えてくれた。
「何から、やってみたい?」
聞かれると、急に難しくなった。
何かを作りたいと思ったのに、何をどうすればできるのかは、よく分からなかった。
「……簡単なものから」
正直に言うと、お母さんが笑った。
「じゃあ、今日のポテトサラダ、一緒に作ろうか。じゃがいもをゆでて、潰して、味もつけてみよう」
私は頷いた。
流しの前へ立ち、もう1度、石鹸で手を洗った。
水が指の間を流れた。
顔を上げると、勝也が問題集を開いていた。
少し離れていても、同じ部屋にいた。
私は手を拭き、お母さんから野菜を受け取った。
* * *
お母さんが、じゃがいもを流しの横へ並べた。
きゅうりと、にんじんもあった。
「このくらい使おうか。食べる人は、今日は4人ね」
4人。
勝也の分も、初めから入っていた。
私はじゃがいもを1つ取り、水を流しながら洗った。
丸いと思っていたのに、指でなぞると、へこんでいるところも出っ張っているところもあった。
くぼみのそばをもう1度こすり、お母さんに見せた。
「うん。きれいになったね。皮は、これを使おう」
皮むき器を渡された。
お母さんが1つ目で持ち方を見せてくれたあと、私もやってみた。
最初は、途中で引っかかった。
少し向きを変えて動かすと、薄い皮が、短くつながって落ちた。
「……できた」
「そう。その調子で、少しずつ」
お母さんは急がせなかった。
むき残したところを一緒に確かめ、芽のあるところは、取り方を横で教えてくれた。
皮のなくなったじゃがいもを、水の入ったボウルへ移した。
勝也の方を見ると、問題集を開いていた。
シャーペンを止め、消しゴムを探している。
さっきまで、次々に漫画の好きなところを話していたのに、今は問題をじっと見ている。
口元まで引き結んでいるのが、少しおかしくなった。
「どうしたの?」
「勝也、漫画の話してた時と、顔が違う」
お母さんも食卓を見た。
「さっきは、楽しそうだったものね」
「今、俺の話してました?」
勝也が顔を上げた。
「お勉強、頑張ってるねって」
お母さんが言うと、勝也は、はい、と少し背筋を伸ばした。
私は下を向いて笑った。
じゃがいもを切る時には、お母さんがまな板の位置を直してくれた。
まず半分にして、平らになった面を下へ向けた。
「同じくらいの大きさにすると、ゆで上がる時間もそろうの。今は、ゆっくりでいいからね」
頷いて、包丁を下ろした。
思っていたより、硬かった。
最初のひと切れは大きくなって、隣へ並べると違いが分かった。
「こっちは、もう半分にしたらどうかな」
言われたところを切り直した。
小さくなったものを鍋へ入れ、水を注ぐ。
お母さんに見てもらいながら火をつけると、青い炎が鍋の下へ広がった。
「これで、ゆでるの?」
「うん。沸いてきたら火を弱くしようね。その間に、ほかの野菜を切っておこうか」
私は鍋と、まだ切っていない野菜を見比べた。
ひとつのことが終わるまで待つのではなかった。
待っている間にも、次にすることがあった。
「……よく、忘れないね」
「慣れてるだけよ。今日は、お母さんも一緒に見てるから」
きゅうりを洗い、まな板へ置いた。
反対の手の指を丸めて、少しずつ切った。
最初は厚くなり、次は、薄くしようとして斜めになった。
「……そろわない」
「うん。でも、ちゃんと切れてるよ。同じくらいを目指してみようか」
お母さんが1枚だけ切って、私の切ったものの隣へ置いた。
その厚みを見てから、続きを切った。
包丁の音は、1回ごとに途切れた。
それでも、さっきまで1本だったものが、少しずつ小さくなっていった。
お母さんが、小さな器を寄せた。
切ったきゅうりを入れ、教わったとおりに塩を少し振って混ぜた。
「これは、このまま少し置いておこうね」
「先に、味をつけるんだ」
「水を出すためでもあるの。あとで、軽く絞ってから混ぜよう」
にんじんは薄いいちょう切りにした。
耐熱の器へ入れ、少し水を足して、ふんわりとラップをかけた。
お母さんと電子レンジの時間を確かめてから、ボタンを押した。
鍋の水が沸いてきた。
呼ばれて火の前へ戻り、火を弱くした。
切るだけでも時間が掛かるのに、別のところにも気を配らなければならなかった。
お母さんは、その合間に主菜の支度を進めていた。
食卓にいつも何品も並んでいることが、今は、前より不思議だった。
「お皿、出しておこうか?」
勝也の声がした。
私は包丁を置いてから振り向いた。
「ありがとう。小さいお皿を4枚、お願いしてもいい?」
お母さんが頼むと、勝也が食器棚を開けた。
台所の端へ皿を持ってきて、まな板のそばを見た。
「優子が切ったの?」
「……うん。厚さ、少し違うけど」
「俺のより、きれいだと思う」
「勝也も、切る?」
「たまに。俺が切ると、最初と最後で、別の野菜みたいな厚さになる」
指の間を広げてみせた。
私が笑うと、お母さんも笑った。
「2人とも、少しずつ覚えたらいいのよ」
勝也が頷いた。
ほかに出すものがあるか、お母さんへ聞いている。
私は鍋へ目を戻した。
今、隣にいる人が、このじゃがいもを食べる。
そう思うと、ゆで上がりを確かめる時にも、少し緊張した。
お母さんに教わって、竹串を刺した。
さっきまで硬かったところへ、先がすっと入った。
「……柔らかい」
「うん。火を止めようか」
お湯を切る時だけ、お母さんが鍋に手を添えた。
湯気が上がって、流しのそばが一瞬白くなった。
鍋を戻して残った水分を飛ばし、じゃがいもをボウルへ移した。
「温かいうちに、潰してみよう」
渡された道具を押し下げた。
じゃがいもが、簡単に崩れた。
端に残ったものへ向きを変え、もう1度押した。
「全部、同じになるまで?」
「少し形が残ってても、おいしいよ。お母さんは、少し残すのが好き」
「……私も」
言ってから、勝也の方を見た。
勝也は、並べ終わった皿の位置を直していた。
「勝也は?」
「俺? ちょっと、ごろっとしてるのも好きだよ」
私はボウルへ目を戻した。
全部を潰してしまわず、大きなところだけを、もう少し小さくした。
味付けの塩を、お母さんが手のひらへ出して見せてくれた。
その量を見てから、私も少し取り、じゃがいもへ振った。
こしょうも、ほんの少し。
「まず混ぜて、味を見てみようか」
小さなスプーンへ取って、息を吹きかけてから口へ運んだ。
まだ、いつものポテトサラダの味ではなかった。
じゃがいもの甘さがして、そのあとで、塩の味が少し分かった。
「マヨネーズは、あと?」
「うん。少し冷めてからにしよう。それまでに、きゅうりを絞ってみて」
器の底には、さっきはなかった水がたまっていた。
私は驚いて、お母さんを見た。
言われたとおりに少しずつ手へ取り、軽く絞った。
切った時より、きゅうりが柔らかくなっていた。
にんじんも冷ましておき、じゃがいもの湯気が落ち着いてから、一緒に加えた。
教わった量より少し控えめにマヨネーズを入れ、底から混ぜた。
白かったところへ、緑とオレンジが散らばった。
「どうかな」
お母さんが新しいスプーンを渡してくれた。
私は小さく取って、味を見た。
「……もう少し、入れたい」
「じゃあ、少し足してみよう」
さっきより少ない量を入れ、もう1度混ぜた。
味見をすると、今度は、よく知っている味に近づいていた。
「こっちの方が、好き」
「うん。お母さんにも、ちょっとちょうだい」
お母さんが味を見た。
返事を待つ間、私はボウルの縁を持っていた。
「おいしい。これで、でき上がりにしようか」
その言葉を聞いて、少し笑った。
味付けを決めたのは、私だった。
お母さんが横で見てくれていたけれど、最後に混ぜたのも、もう少し足したいと言ったのも、私だった。
勝也が出してくれた皿へ、4人分を分けた。
最初の皿だけ多くなって、少し戻した。
お母さんは勝手に全部直さず、ほかの皿と見比べるのを待ってくれた。
「……こんなに、時間かかっちゃった」
「初めてだもの。洗って、切って、ゆでて、味もつけたでしょう。今日は、ひと品できたね」
並んだ皿を見た。
さっき流しの横にあった、土のついたじゃがいもとは、違うものになっていた。
「……うん」
お母さんが主菜の方へ戻った。
私は使ったボウルを流しへ運び、勝也は皿を食卓へ並べた。
水を出してから、もう1度だけ顔を上げた。
3人が違うことをしているのに、同じ夕ご飯の支度だった。
* * *
お父さんが帰ってきた時、食卓には、まだ箸だけがなかった。
私は食器棚の引き出しを開け、4人分を取った。
「優子が手伝ってくれたのよ」
お母さんが言うと、お父さんがポテトサラダを見た。
「そうか。ありがとう」
私は少し照れながら、箸を置いた。
勝也の席にも、同じように並べた。
「俺も、皿は出しました」
勝也が言った。
お父さんが笑った。
「じゃあ、今日は僕が最後だったな」
「お父さんは、お仕事してきたでしょう」
お母さんが返した。
勝也が笑い、私も笑った。
いただきます、と言う声が重なった。
勝也は、焼きたての主菜へ目を向けたあと、ポテトサラダも食べた。
私は自分の箸を止め、つい、その顔を見てしまった。
「これ、味も優子がつけたの?」
「……うん。お母さんに、教えてもらって」
「おいしいよ。じゃがいも、ちょっと残ってるのもいいね。ありがとう」
勝也が笑った。
さっき、全部は潰さずにおいたところだった。
「……うん」
私は自分の皿へ目を落とした。
おいしいと言ってもらえて、嬉しかった。
まだ横にお母さんがいないと、何から始めればいいか迷うと思う。
それでも、ほかの料理も覚えて、また食べてもらいたくなった。
勝也は、お母さんがよそった汁物を飲んだ。
ひと息ついてから、ああ、おいしい、と言った。
頼まれたからでも、誰かを見てからでもなく、食べたあとに、そのまま出た声だった。
私はその顔を見た。
私の作るものも、いつか、こんなふうに食卓へ出せるだろうか。
作ったところを見てもらっていなくても、食べたら好きになってもらえる料理を、少しずつ増やしたかった。
「部活の方は、どうだった?」
お父さんが聞いた。
私は先輩たちのことを話した。
初めに何人も来て驚いたこと。勝也の飲むお茶が、次々に来たこと。
「お菓子を食べるだけじゃ、なかった」
私が言うと、勝也が大きく頷いた。
「分かってもらえて、よかったです」
「帰ってきた時、お茶はあとがいいって言ってたものね」
お母さんが笑った。
勝也も笑い、でも、おいしかったです、と付け足した。
先輩と何を話したかは、全部は話さなかった。
勝也が少し離れていても、同じ部屋で待てたことだけを、お母さんへ言った。
「……見えるところに、いてくれたから」
お母さんは、そう、と頷いた。
それなら次はもっと遠くても大丈夫だね、とは言わなかった。
食後、しおりを広げた。
勝也も隣から、自分のしおりを出した。
日付を見たお父さんが、もう来週か、と言った。
私は今日の授業で聞いたことを、順番に話した。
「2日目に、カレーを作るの。私の係は、まだ決めなくていいって、加藤さんが」
お母さんが、そのページへ目を落とした。
「勝也と一緒に、できるところをやったらいいって。皆も、それでいいって言ってくれた」
話しながら、自分の書いた字を見た。
勝也と一緒に、とあった。
「ありがたいね」
お母さんが言った。
私は頷いた。
「……うん」
勝也が、火の担当になった3人のことを話した。
翔太くんが最初からずっと希望していたと言うと、お父さんが笑った。
「炊けたご飯が待ち遠しくなりそうだね」
「たぶん、何回も、まだかって聞くと思います」
勝也が言った。
私は、蓋を開けようとしないかな、と小さく言った。
勝也が、春樹が止めるんじゃない、と答えた。
お父さんも、お母さんも笑った。
「それと、お部屋も。私たちの班は、6人で一緒のお部屋にしてくれるって」
私は、施設案内へ挟んだ付箋を開いた。
「最初、皆で説明を聞いた時は、男の子と女の子、別々だって言われて……」
あの時、勝也の袖を握っていた指を思い出した。
お母さんが、私の顔を見た。
「不安だったね」
「うん。でも、あとから先生が来て、私たちは同じでいいって。皆も、大丈夫だって言ってくれたの」
勝也が、私の指した場所を覗き込んだ。
「ほかの皆の部屋からは離れてるんですけど、広い和室を使わせてもらえるそうです。障害のある人も使えるようになってる部屋で、目の前にお手洗いと、お風呂もあって」
「そこも、皆で使えるの?」
「はい。お風呂はシャワーが3つあって、湯船も広いって。俺たちの班は、そっちを使うそうです」
お母さんは図を見て、頷いた。
お父さんも、先生と施設の方にお礼を言わないとな、と言った。
私は、部屋のところへ置いた指を少し動かした。
別々の場所で眠らなくていいと分かった時のことを、話しながら、もう1度確かめていた。
そのあとで、私は丸をつけたところを見せた。
夜の時間。入浴。着替え。荷物。
「……お部屋は同じだけど。着替える時とか、お風呂に入る時、どうしたらいいかは、まだ、分からなくて」
勝也が隣で黙って聞いていた。
お母さんも、全部すぐに大丈夫だとは言わなかった。
「うん。お部屋が分かったから、そこでどう過ごすか、先生と一緒に考えようね。優子が何を心配しているか、分かるようにしておこう」
お父さんが、丸のそばへ付箋を置いた。
「今、思いついたことを、書いておこうか。あとで思い出したら、足せばいい」
私は頷いた。
勝也が、鉛筆を取ってくれた。
「俺も、一緒に考えるよ」
その声を聞いてから、最初の1行を書いた。
行きたい気持ちと、怖い気持ちを、どちらかだけにしなくてよかった。
同じしおりに、楽しそうなところも、困りそうなところもあった。
「……皆で作ったカレーは、食べてみたい」
書き終えてから言うと、勝也が笑った。
「うん。おいしく作りたいね」
私は頷いた。
お母さんが、付箋の端を押さえてくれた。
* * *
勝也が帰る時には、もう暗くなっていた。
玄関まで一緒に行き、紙袋を渡した。
翔太くんの分だと言っていた袋も、その中に入っていた。
「今日は、いっぱいしゃべったね」
勝也が靴を履きながら言った。
「……うん」
「また、続き読んだら教えてね」
「土曜日も、聞いていい?」
「もちろん」
勝也が顔を上げた。
「DVD、用意しておくよ。どこまで一緒に見るかも、確認しておくね」
私は頷いた。
勝也が立ち上がると、少しだけ、帰ってしまうのが寂しくなった。
でも、次に一緒にすることが決まっていた。
「……また、明日」
「うん。また明日」
勝也が手を振った。
私も振り返した。
扉を閉めてから、居間へ戻った。
お母さんが、食卓を拭いていた。
「疲れた?」
聞かれて、少し考えた。
「……少し。でも、楽しかった」
お母さんが頷いた。
私は、台所の方を見た。
洗ったまな板が、立ててあった。
「お母さん」
「うん?」
「明日も、お料理、教えてくれる?」
お母さんの手が止まった。
私を見て、柔らかく笑った。
「もちろん。何か、作ってみたいものがある?」
私は少し迷った。
今日の勝也が食べていたものを、思い出した。
もっと前の食卓も、いくつか思い出した。
「……卵焼き」
言ってみると、急に、それを作る自分を想像できた。
「できるかな」
「最初は、一緒にやろう。朝、少し早く起きられたら、朝ご飯の分で練習してみる?」
私は頷いた。
明日の朝のことまで、決まった。
「卵焼きも、勝也に食べてもらえるように……なりたい」
最後は、声が小さくなった。
お母さんは、聞き返さなかった。
「うん。そう思うと、覚えるのも楽しみになるね」
私は頷いた。
助けてもらった分を、全部返せるとは思っていなかった。
それでも、今日、お母さんの料理を食べた勝也の顔を、思い出せた。
今日のポテトサラダも、おいしいと言ってくれた。
次に覚える料理でも、また、あんな顔を見たかった。
* * *
金曜日は、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。
まだ眠かったけれど、昨日の約束を思い出すと、布団から出られた。
顔を洗って台所へ行くと、お母さんが卵を出していた。
「起きられたね」
「……うん」
昨日使ったエプロンを着けた。
手を洗い、髪が前へ落ちないようにまとめる。
お母さんが、小さな器を私の前へ置いた。
「まず、ここへ1個ずつ割ってみよう。殻が入っても、取りやすいから」
私は卵を持った。
軽く当てると、細いひびが入った。
そこへ指を掛けたけれど、なかなか開かなかった。
「……もう少し、割った方がいい?」
「指で開けそう? 焦らなくて大丈夫」
少し力を入れた。
殻が開き、中身が器へ落ちた。
それと一緒に、小さな白い欠片も入った。
「入っちゃった」
「うん。取れば大丈夫よ」
お母さんが、取り除くところを見せてくれた。
1個目を大きな器へ移してから、次を渡された。
2個目は、さっきより開くのが早かった。
3個目では、落とす前に器へ近づけられた。
それだけのことなのに、少し嬉しかった。
「いつも、お母さんが作るのを見てたのと、全然違う」
菜箸を持ちながら言うと、お母さんが頷いた。
「見てると簡単そうなことも、自分でやると、手をどこへ置こうってなるでしょう」
そのとおりだった。
器を押さえる手と、混ぜる手を、どちらへ置くか考えた。
黄身を崩して混ぜると、色が少しずつ変わった。
白い筋が残っていたので、お母さんへ見せた。
「もう少しだけ、白身を切るようにしてみようか」
教わったように動かした。
最初は器のふちへ、菜箸を何度も当ててしまった。
途中から、少し静かになった。
味つけは、お母さんが計るところを見た。
いつもは目で見て入れることもあるけれど、今日は同じ味にしやすいように、量を確かめてくれた。
「お砂糖と、少しお塩。だしも入れるよ」
私は小さな紙へ書いた。
書き終えると、お母さんが一緒に確かめた。
「最初は、この分量で。あとで、もう少し甘い方が好きだなって思ったら、変えてもいいから」
私は頷いた。
自分で変えていいところがあるのも、まだ少し不思議だった。
料理には、全部、正しい答えが決まっているような気がしていた。
卵焼き器が温まるまで、コンロの前で待った。
お母さんが油を薄く広げ、最初の卵液を流した。
音がして、黄色い縁がすぐに固まり始めた。
「最初のひと巻きは、お母さんがやるね。ここを芯にして、少しずつ大きくしていくの」
私は横から見た。
お母さんが手前へ返すと、薄い卵が折れた。
同じことを何度かすると、小さな塊になった。
「……もう、そうなるんだ」
自分が卵を割るのに掛けた時間より、ずっと短く感じた。
お母さんは笑って、次は優子ね、と場所を少し空けた。
私は持ち手を握った。
もう片方の手で卵液を少し流す。
お母さんが横で、今のでいいよ、と言ったので止めた。
「さっき巻いたところの下にも、少し入るように」
教えられて、菜箸で持ち上げようとした。
持ち上げる前に、卵の端へ穴を開けてしまった。
「……あ」
お母さんが、手を伸ばしかけた私を急がせず、道具の方を示した。
「大丈夫。最初は、こっちを使ってみよう」
小さな返しを持たせてくれた。
広いところで支えると、菜箸より持ち上げやすかった。
それでも、最初の1回は途中で崩れた。
黄色いところが、思っていた向きと違う方へ寄った。
「……巻けなかった」
「まだ続きがあるから、次の卵で包んでいこうか」
お母さんの声は、変わらなかった。
私は顔を上げた。
「これ、使っていいの?」
「もちろん。形がちょっと変わっただけだから」
また油を薄く広げ、卵液を足した。
今度はお母さんが持ち手へ少し手を添えてくれた。
私が返す動きに合わせて、傾きを直してくれる。
さっき崩れたところが、中へ隠れた。
全部が元どおりになったわけではなかったけれど、ひとつにつながっていた。
「……巻けた」
言うと、お母さんが頷いた。
「うん。できたね」
次は少し焦った。
早く返そうとして、まだ柔らかいところが流れた。
お母さんが、少し待とう、と言った。
待つ時間が、長く感じた。
見ている間にも、表面が変わった。
「今くらい」
言われて、返した。
今度は、さっきよりきれいに重なった。
最後まで終えると、片側が少し太くなっていた。
お母さんが皿へ移し、少し落ち着いてから切り分けた。
断面にも、巻いたところが見えた。
途中で破いた部分は、どこだったのか、すぐには分からなかった。
「味、見てみようか」
小さく分けてもらったものを、熱すぎなくなってから食べた。
いつもの味がした。
でも、いつもの形ではなかった。
「……おいしい」
自分で言ってから、少し照れた。
お母さんが笑った。
「よかった。朝ご飯に出そうね」
私は残りを見た。
まだ、ほとんど教えてもらったとおりに動いただけだった。
それでも、私の手が入ったものだった。
「今日の夕ご飯にも、やってみたい」
言うと、お母さんは、いいよ、と頷いた。
「今度は、最初のところからやってみようか。私も隣にいるから」
私は頷いた。
書いた分量の紙を、濡れないところへ置いた。
お父さんが朝食へ来ると、お母さんが、今日の卵焼きは一緒に作ったの、と話した。
お父さんは、そうか、と箸を伸ばした。
「うん。おいしいね」
私は少し笑った。
そのあとで、片側だけ太いことを言うと、お父さんが皿を見た。
「大きい方が来たら、ちょっと得した気になるな」
お母さんが笑った。
私も笑った。
夕方、勝也にはどちらの端が行くだろう、と、もう考えていた。
* * *
学校へ着くと、加藤さんが、昨日より先に私へ挨拶してくれた。
「おはよう、富田さん」
「……おはよう」
返事をしてから、鞄を机へ掛けた。
勝也が隣で、自分の教科書を出していた。
加藤さんは、しおりを手に持っていた。
私も鞄から出しかけて、途中で手を止めた。
「……加藤さん」
呼ぶと、こちらを向いてくれた。
「何?」
「昨日の、役割のこと。お母さんにも、話した」
加藤さんの目が、私のしおりへ向いた。
付箋が、端から少し出ていた。
「そっか」
それだけ言って、続きを待ってくれた。
「……ありがとう」
昨日も言った。
それでも、もう1度言いたかった。
加藤さんは、少し笑った。
「うん。私たちも、その方がやりやすいと思うし。富田さんが離れて不安になっちゃうより、一緒にいて、できること探せる方がいいもん」
勝也が、隣で頷いた。
「俺も助かる。優子に、何かあったらすぐ言ってもらえるし」
私は2人を見た。
自分のためだけに、皆が我慢することになったのではないように、話してくれた。
「……私、昨日、ポテトサラダを作ったの」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
お母さんに教えてもらいながら、1品作っただけだった。
でも、加藤さんは、自分で、と聞いてくれた。
「お母さんに、教えてもらって。じゃがいもを洗って、切って、ゆでたり。きゅうりと、にんじんも切ったの」
「味つけも?」
「……うん。見てもらいながら」
「そうなんだ。じゃあ、当日も、最初の準備、手伝ってもらえそうだね。勝也とお米を洗う前でも、一緒にできることありそう」
私は頷いた。
加藤さんは、そのあとですぐに、でも、今、約束しちゃわなくてもいいからね、と付け足した。
「できそうだったら、一緒にやろう」
その言い方が、嬉しかった。
やると言ったから、必ずできなければいけない、とはならなかった。
「……うん」
頷くと、加藤さんがしおりを軽く持ち上げた。
「翔太は、軍手をもう用意したらしいよ」
勝也が顔を上げた。
「早いね」
「今朝、見せられた」
「学校へ持ってきたんだ」
私も顔を上げた。
勝也が笑ったので、私まで笑ってしまった。
「……まだ、今日じゃないのに」
言うと、加藤さんが頷いた。
「それ、私も言った」
3人で少し笑った。
勝也が話してくれるのを待つだけではなく、私から加藤さんへ話せた。
そのことを、席へ座ってから、ゆっくり思い返した。
* * *
金曜日の放課後にも、勝也と茶道部へ寄った。
昨日と同じところで上履きを脱ぎ、同じ段差を上がった。
襖の向こうから、こんにちは、と声がした。
私も勝也の隣で、小さく返した。
先輩たちは、今日は一斉に近づいてこなかった。
1人が、荷物、昨日と同じところでいいよ、と教えてくれた。
別の先輩が、あとでお茶どう、と聞いてくれた。
私はそれぞれへ、頷いたり、返事をしたりできた。
鞄からノートを出した。
勝也が隣へ座り、私の手元を見た。
「今日は、先に少しやる?」
「……うん」
問題を1つ解いている間に、勝也の方へお茶が来た。
昨日と同じように受け取ってから、今日はゆっくりで、とお願いしていた。
先輩が笑い、分かってるよ、と答えた。
私はノートへ目を落とした。
同じ部屋で、別のことをしていた。
勝也の声は、すぐ隣から聞こえた。
詩織先輩が、私の書いているところを覗き込みすぎない距離へ座った。
「宿題、進んでる?」
「……はい。少し」
「よかった。昨日、いっぱいしゃべって帰った?」
私は先輩を見た。
勝也が、横から答えた。
「漫画の話、かなりしました」
「やっぱり」
詩織先輩が笑った。
「楽しかった?」
今度は私へ聞いた。
私は頷いた。
「……明日、アニメも、一緒に見ることになって」
先輩の目が少し大きくなった。
それから、勝也を見た。
「へえ。いいね」
「DVDがあるので。最初から見ようと思って」
勝也が説明した。
先輩は、私の方へ目を戻した。
「楽しみだね、優子ちゃん」
私は頷いた。
昨日の内緒話を思い出して、少しだけ頬が熱くなった。
先輩は、それ以上大きな声では聞かなかった。
勝也が茶碗を返している間に、私だけへ、よかったね、と小さく言ってくれた。
「……はい」
私は鉛筆を持ち直した。
誰かが、私の楽しみを知って、一緒に喜んでくれた。
それが、思っていたより嬉しかった。
帰る時、勝也は昨日分けた芋けんぴを、翔太くんへ渡しに行った。
私も隣へついていった。
練習の合間に顔を出した翔太くんは、袋を見ると、すぐに笑った。
「おお、残してくれた!」
「ちゃんと別にしておいたよ。今、開けないでね。帰ってから」
「分かってるって。ありがとう」
袋を持った翔太くんが、私へも笑った。
「富田さん、茶道部、よかった?」
私は頷いた。
「……うん。お茶も、おいしかった」
「いいなあ。俺も今度、ちゃんと時間ある時に行こうかな」
勝也が、先輩に聞いておくよ、と答えた。
翔太くんは、頼む、と頷いてから、呼ばれた方へ戻っていった。
去り際に、来週のカレーも楽しみだな、と言った。
勝也が笑って返事をした。
私は、その隣で、小さく、うん、と答えた。
* * *
家へ帰ると、お母さんが、今日はどうする、と聞いた。
私は手を洗ってから、朝の紙を持ってきた。
「……卵焼き、作りたい」
お母さんが頷いた。
勝也は鞄を置き、私の手にある紙へ少し目を向けたけれど、何が書いてあるのかまでは覗かなかった。
「今日も、お手伝いするの?」
「うん。少しずつ、教えてもらってる」
「そっか」
勝也が笑った。
私は紙を胸の前へ寄せた。
「……勝也、昨日のところに、いてくれる?」
「うん。俺も、残ってる宿題やるよ」
勝也が食卓の椅子を引いた。
部活で終わらなかった問題集を開き、筆箱を置く。
私はその姿を確かめてから、台所へ入った。
昨日は、ここへ来てからも、何度も振り返った。
今日も、まったく気にならないわけではなかった。
でも、勝也がどこに座っているかを知っていた。
顔を上げれば見えることも、昨日、自分で確かめていた。
エプロンを着け、卵を出した。
お母さんが器を置いてくれる前に、自分で、朝使った小さな器を選んだ。
「これに、1個ずつ」
私が言うと、お母さんが頷いた。
「覚えてたね」
卵を割った。
朝よりも、殻を開く時の力が分かった。
小さな欠片が入っていないか確かめてから、大きな器へ移した。
3個目まで終えると、ほっとした。
それだけで終わった気になりかけたけれど、まだ混ぜてもいなかった。
お母さんが、分量の紙を濡れない場所へ立てた。
「今日は、計るところもやってみようか」
私は頷いた。
砂糖をすくい、紙に書いた量を見た。
盛り上がったところをどうするか迷って、お母さんへ聞いた。
「ここ、平らにするの?」
「そう。この分は、平らにして計ろう」
少し落とし、もう1度見た。
卵へ入れると、表面へ白い粒が散った。
だしと、少しの塩も加えた。
紙の上では短い言葉だったけれど、実際に手を動かすと、確かめることがいくつもあった。
お母さんは、隣で別の支度をしながら見てくれた。
私が迷った時だけ、手を止めてくれた。
「……これ、全部、覚えて作ってるんだね」
言うと、お母さんが笑った。
「同じものを何回も作ってるからね。優子も、覚えたら紙を見なくてもできるようになるよ」
私は紙を見た。
今は、1行ずつ指で確かめたかった。
いつか、見なくても作れるようになるのだろうか。
食卓の方で、勝也が消しゴムを使った。
小さく、あ、と言ったので、顔を上げた。
「どうしたの?」
「途中で、数字写し間違えた」
勝也が苦笑した。
私は卵の器を置いてから、少し見た。
「最初から?」
「ううん。ここだけ。ここ直せば、たぶん大丈夫」
自分のノートを指で示した。
私は頷き、また手元へ戻った。
朝の卵焼きも、途中で破いた。
全部やり直しにはならなかった。
失敗したところがあっても、そのあとの手を止めなくていいのだと、お母さんが教えてくれた。
今度は、最初に流すところから私がやった。
お母さんが、温まったね、と言ったので、卵液を少し入れた。
音がした。
朝よりも、驚かなかった。
「これくらい?」
「うん。広げてみよう」
持ち手を傾けると、卵が四角いところへ広がった。
端だけ、少し薄くなった。
私は直したくなって、返しを持ち上げた。
「今は、そのまま待とうか」
お母さんの声で手を止めた。
少し待つと、濡れて光っていたところが変わった。
朝見たのと、似ていた。
「……もう、いい?」
「うん。やってみて」
端を少し持ち上げた。
全部を一度に返そうとせず、まず折る。
もう1度、返す。
最初のひと巻きは、少し平たかった。
お母さんのようなきれいな形にはならなかった。
でも、ばらばらにはならなかった。
「できた……」
小さく言うと、お母さんが、うん、と返した。
大きな声で褒められるより、そのまま続きを任せてもらえたことが嬉しかった。
次の卵液を流す前に、油を薄く広げた。
卵を少し持ち上げて、下へも通した。
今度は、持ち上げすぎなかった。
お母さんが何か言う前に、自分で手を止められた。
表面を見て、もう少し待った。
「このくらいかな」
独り言のつもりだった。
お母さんが、そうね、と言った。
返した。
ひとつ前の巻きへ、薄い卵が重なった。
少しだけ、右へ寄った。
私は左の端を見た。
「……こっちが、細くなる」
「最後に少し整えよう。今は、破かずに巻けてるよ」
頷いた。
全部を同時に上手くしようとしなくてよかった。
残りを流し、また待った。
勝也の声が聞こえたけれど、今度は顔を上げなかった。
「お箸、出してもいいですか」
お母さんが、お願い、と答えた。
勝也の椅子が動いた。
姿は見ていなくても、今、何をしているか分かった。
私は卵へ目を向けたまま、最後を巻いた。
少し焼き色がついた。
お母さんの卵焼きより、片側が太い。
それでも、朝よりは、形がそろっていた。
「……できた」
今度は、顔を上げて言った。
お母さんが笑った。
「うん。今度は、ほとんど自分で巻けたね」
私は卵焼き器の中を見た。
同じ卵を使ったのに、朝とは違う形だった。
でも、知らないものができたのではなかった。
お母さんと一緒に皿へ移した。
火を止めたことも確かめた。
持ち手から手を離すと、肩に力が入っていたのが分かった。
「……緊張した」
お母さんが頷いた。
「熱いものを持ってたものね。少し休もう」
私は手を拭いた。
勝也を見ると、箸を並べ終えて、また問題集へ戻っていた。
こちらで何を作ったのか、まだ聞かなかった。
お母さんが、ほかのおかずの入った皿を持ち上げた。
私はそれを受け取り、食卓へ運んだ。
勝也が気づき、問題集を端へ寄せた。
「ここ、置けるよ」
「ありがとう」
皿を置くと、勝也が、今日もおいしそう、と言った。
まだ、卵焼きは出していなかった。
私は台所へ戻った。
お母さんが、少し落ち着いた卵焼きの前へ包丁を置いてくれた。
「切ってみる?」
頷いた。
力を入れすぎないように、最初の端を切った。
断面が見えた。
黄色い層が、重なっていた。
大きな穴は見えなかった。
「……朝より、きれいかも」
言うと、お母さんが、うん、と頷いた。
「自分でも、分かるね」
次を切った。
幅が少し違ったので、並べる時に迷った。
お母さんは、小さいのと大きいのを一緒に置けばいいよ、と教えてくれた。
私は、4人分の小皿へ順番に載せた。
勝也の皿を、特別に大きくする勇気はなかった。
でも、形のきれいなものを、つい探してしまった。
お母さんが、それを見て少し笑った。
私は頬が熱くなり、いちばん端のものを自分の皿へ置いた。
「……変じゃない?」
小さく聞くと、お母さんが皿を見た。
「おいしそうよ」
私は頷いた。
自分の作ったものを持って、食卓へ向かった。
* * *
勝也は、卵焼きが置かれた時には、問題集の最後の答えを書いていた。
私が皿を置くと、ありがとう、と言って、ノートを閉じた。
誰が作ったのかは、聞かなかった。
私も、言わなかった。
お父さんが帰ってきて、皆で席へ着いた。
お母さんが最後の皿を置いた。
私は、勝也の前にある卵焼きを、見ないようにした。
見ないようにすると、余計に気になった。
「いただきます」
声を合わせた。
勝也はまず、汁物を飲んだ。
それから、ご飯を食べた。
次に、魚へ箸を伸ばした。
私は自分の箸を持ったまま、まだ何も取っていなかった。
気づいて、慌ててご飯を食べた。
勝也が、お父さんへ学校の話をした。
翔太くんが、もう軍手を用意したと言うと、お父さんが笑った。
「火の係が、そんなに楽しみなんだね」
「はい。たぶん、しおりもそこのページをいちばん読んでます」
勝也が答えた。
私も少し笑った。
笑ったところで、勝也の箸が小皿へ伸びた。
卵焼きだった。
私は顔を上げかけて、止めた。
自分の皿を見たまま、隣の手の動きだけを見た。
勝也が、ひと切れ取った。
口へ運び、食べた。
少しだけ、動きがゆっくりになった。
「……あ、これ、おいしい」
顔を上げた。
勝也は、私を見ていなかった。
自分の皿へ目を落としてから、お母さんへ向いた。
「今日の卵焼き、すごくおいしいです」
胸の中が、急にいっぱいになった。
お母さんが私を見た。
私は、すぐに目をそらしてしまった。
勝也は気づかず、もうひと切れを箸で分けた。
「中、柔らかいですね。俺、こういう、ちょっと甘いの好きです」
言いながら、ご飯も食べた。
褒めなければいけないような顔ではなかった。
私が作ったと知らなかった。
知らないで、おいしいと言ってくれた。
箸を握った指に、少し力が入った。
何か言わなければと思ったけれど、声が出なかった。
お母さんが、静かに笑った。
「今日の卵焼きね、優子が作ったのよ」
勝也の箸が止まった。
私の方を向いた。
「優子が?」
私は頷いた。
顔を見続けられず、小皿へ目を落とした。
「……お母さんに、教えてもらって」
勝也が、もう1度、卵焼きを見た。
そのあとで、私を見た。
「そうだったんだ」
笑った。
「おいしいよ。ありがとう」
さっきと同じ声だった。
私が作ったと分かってから、急に褒め方を大きくしたわけではなかった。
それが、いちばん嬉しかった。
「……本当に?」
聞いてしまった。
勝也はすぐに頷いた。
「うん。さっきも言ったでしょ」
そうだった。
ちゃんと、聞いていた。
聞いていたのに、もう1度確かめたくなった。
「まだ、2回目で……朝は、途中、破けちゃって」
「そうなの? 俺、もっと前から作ってるのかと思った」
「……ううん。朝、初めて」
勝也が少し目を丸くした。
「じゃあ、今日、朝と夕方で2回作ったんだ」
頷いた。
お母さんが、朝は一緒に巻いたけれど、夕方はほとんど自分でできたと話した。
勝也が、私の前の皿を見た。
少し不揃いな端の部分が載っていた。
「そっちは、ちょっと大きいね」
私は皿を見た。
変な形を見つけられたと思って、少し肩に力が入った。
「……片方に、寄っちゃったから」
「いいな。俺、大きい方でもよかったのに」
顔を上げた。
勝也は本当に、そちらでもよかったという顔をしていた。
お父さんが笑った。
「僕も、朝、同じことを言ったよ」
「ですよね。いっぱい食べられるし」
勝也が頷いた。
お母さんまで笑った。
私は、自分の皿を持ち上げかけた。
「……まだ、食べてない方、いる?」
勝也が私を見た。
「優子の分、減っちゃうよ」
「少しなら、大丈夫」
お母さんが、小さな取り箸を置いてくれた。
私は、まだ手をつけていない端のひと切れを、勝也の皿へ移した。
箸で持ち上げても、崩れなかった。
そのことまで、嬉しかった。
「ありがとう。じゃあ、もらうね」
勝也が言った。
私は頷き、自分の席へ戻った。
勝也が、分けた方も食べた。
少し厚いからか、今度は箸で半分にしてから口へ運んだ。
「うん。こっちも、おいしい」
私は、ようやく自分の卵焼きを食べた。
朝と同じ分量で作ったはずだった。
でも、食べている間、味を確かめるよりも、隣の声ばかり思い出していた。
「また、作るの?」
勝也が聞いた。
「……うん。忘れないうちに、やってみたい」
「じゃあ、また食べたいな」
箸を止めた。
勝也が、少し笑った。
「俺の分もある時に」
私は何度も頷きそうになって、1度だけ、ゆっくり頷いた。
「……作る。勝也の分も」
お母さんが、私の向こうで笑った。
お父さんも、次は僕の分もよろしく、と言った。
「うん。皆の分、作る」
言うと、勝也が嬉しそうに頷いた。
食卓に、私が次に作るものの話があった。
まだ上手くできるか分からないのに、食べたいと言ってくれる人がいた。
私は、空いた勝也の小皿を見た。
さっきまで、そこに私の卵焼きがあった。
* * *
夕食が終わると、勝也も食器を運んでくれた。
私は小皿を重ね、流しの手前へ置いた。
「優子、これも、ここでいい?」
勝也が持っていた皿を受け取った。
端へ置く場所を少し空ける。
「うん。ありがとう」
昨日は、どこへ何を置くかも、お母さんへ何度も聞いた。
今日は、同じ場所なら少し分かった。
勝也が手を洗い、布巾で拭いた。
私も水を止めた。
「俺、卵焼き、自分では作れないんだよね」
勝也が言った。
私は顔を上げた。
「卵は、焼くよね?」
「うん。でも、ああいうふうに巻かない。目玉焼きとか、混ぜて焼くくらい」
私は朝の自分の卵を思い出した。
「……最初、私も、混ぜて焼いたみたいになりそうだった」
「それでも、おいしそうだけどね」
勝也が笑った。
「でも、できるようになったら、朝ご飯にもよさそう」
「お母さんが、同じものを何回も作ると覚えるって」
「そっか。俺も、今度教えてもらおうかな」
勝也が、お母さんの方を見た。
お母さんは、もちろん、と答えた。
「優子が覚えたら、優子に教わってもいいわね」
私は慌ててお母さんを見た。
「……まだ、できないよ」
「今すぐじゃなくていいのよ」
お母さんが笑った。
勝也も、そうだね、と頷いた。
「優子が慣れたら、教えて」
私は勝也を見た。
冗談だけで言っている顔ではなかった。
「……上手になったら」
「うん。楽しみにしてる」
すぐにできることではないのに、その先を待ってくれた。
昨日、勝也の好きな漫画を教えてもらった。
明日は、アニメも見せてもらう。
今度は私が、覚えたことを教える日が来るかもしれなかった。
それを考えながら、布巾を掛けた。
* * *
居間へ戻ると、勝也が明日の時間を確かめた。
「午前中からにする? 途中で休みながら見られるし」
「……うん。そうしたい」
何時頃に行くかを2人で決めて、お母さんにも伝えた。
お母さんは頷き、明日も楽しみね、と笑った。
私は勝也の隣で、手帳へ時間を書いた。
林間学校の持ち物の欄とは違うページだった。
日付の横に、勝也の家、と書いた。
「何か、持っていくものある?」
聞くと、勝也が少し考えた。
「特にはないかな。見たい漫画があったら、言ってくれれば出すし」
「……お菓子は?」
「ポテチ、用意しとくよ」
迷わず言った。
私は笑ってしまった。
「やっぱり、用意するんだ」
「うん。一緒に食べながら見ようと思って」
お母さんが、晩ご飯も食べられるくらいにね、と言った。
勝也が、食べすぎないようにします、と背筋を伸ばしたので、私は笑ってしまった。
私は手帳の小さな字を見た。
勝也の家へ遊びに行くことを、こんなに楽しみにしていていいのだと思った。
怖いことがなくなったわけではなかった。
今日も学校では、勝也が席を立つと、手が伸びた。
知らない声が近づくと、体が固くなる時があった。
それでも、帰ってきたあとに、明日したいことを話していた。
勝也が帰る支度を始めた。
問題集を鞄へ入れ、筆箱を確かめる。
私は手帳を閉じて、隣へ立った。
玄関で、勝也がもう1度こちらを見た。
「今日は、ごちそうさま」
お母さんだけでなく、私へも言った。
「……うん」
声が小さくなった。
勝也が笑った。
「卵焼き、またお願いね」
私は頷いた。
「……また、作るね」
勝也が、ありがとう、と言った。
それから、いつものように、また明日、と手を振った。
私も手を振った。
明日は、学校へ行く朝ではなかった。
* * *
勝也が帰ったあと、台所へ戻った。
朝から使っていた分量の紙が、まだ立ててあった。
端に、小さな水の跡がついていた。
私はそれを持ち上げた。
お母さんが、拭いた器を棚へ戻しながら、こちらを見た。
「取っておく?」
頷いた。
「……ちゃんと、ノートに書いておきたい」
お母さんが笑った。
私は紙を持って食卓へ戻り、小さなノートを開いた。
材料と分量を書いた。
お母さんに教わった順番も、覚えているところから書いた。
卵は、1個ずつ。
急いで返さない。
手元を見る。
途中で、お母さんへ聞いた。
お母さんは隣へ座り、私の書いたところを順番に見てくれた。
「ここは、次を流す前ね」
「……そっか」
矢印を書き足した。
きれいな説明にはならなかったけれど、自分でやった順番を思い出せた。
最後に、朝より少し上手く巻けた、と小さく書いた。
その下へ、何か書こうとして、鉛筆を止めた。
「どうしたの?」
お母さんが聞いた。
私は少し迷ってから、顔を上げた。
「……勝也、知らなかったんだよね」
「優子が作ったこと?」
頷いた。
「知らないで、おいしいって、言ってくれた」
口に出すと、また嬉しくなった。
お母さんが、うん、と頷いた。
「ちゃんと、聞いてたよ」
私は鉛筆を持ち直した。
顔が少し熱かった。
「私が作ったって分かったら、勝也、形が変でも、大丈夫だよって言ってくれると思う」
お母さんは黙って聞いていた。
「だから、知らないで言ってくれたのが……すごく、嬉しかった」
お母さんが私の背へ、そっと手を添えた。
「うん。食べたいって、また言ってくれたものね」
頷いた。
その時の勝也の顔まで、すぐに思い出せた。
「……また、作りたい」
言うと、お母さんが笑った。
「じゃあ、また一緒に作ろう。優子が1人でできるところも、少しずつ増やしていこうね」
私は頷いた。
大きなことを、急にできるようになったわけではなかった。
卵を割って、混ぜて、焼く。
途中で分からなくなれば、お母さんへ聞く。
それでも、今日は、勝也が食べるものを、自分の手で作れた。
ノートの最後へ、小さく書き足した。
勝也が、おいしいって言ってくれた。
書いてから、お母さんに見られていることを思い出した。
手を上へ置きかけると、お母さんが笑った。
「そこも、大事なことね」
私は少し俯いた。
でも、消さなかった。
* * *
寝る前に、明日の鞄を用意した。
教科書は入れなかった。
ハンカチと、財布と、手帳。
借りていた4冊の漫画は、角が折れないように紙袋へ入れた。
ほかに返すものが残っていないか、机の上も確かめた。
土曜日に勝也の家へ行く。
同じ画面を見て、同じ声を聞く。
勝也が話してくれた声や音楽を、今度は私も聞ける。
鞄の持ち手を直しながら、勝也の部屋を想像した。
まだ見たことのない本棚と、DVDの並んだ場所。
どんなものを見せてくれるのだろう。
見終わったら、また感想を話したかった。
勝也が好きだと言ったところで、私も同じように笑うのかもしれない。
違うところが気になったら、それも聞いてもらおうと思った。
机の端へ、料理のノートを置いた。
明日の鞄とは、別の場所だった。
こちらは、帰ってきてからも、また開くものだった。
今日の最後の1行を、もう1度見た。
勝也が、おいしいって言ってくれた。
そっと閉じた。
明日は、勝也が好きなものを見せてくれる。
私は、次に作る卵焼きを、今日より少し上手に巻けるようになりたかった。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
林間学校では火の管理と米洗いを引き受け、優子と一緒に準備する。『DEATH NOTE』を熱く語ったあと、DVDを持ってくる提案から、部屋を見たいという優子の希望で自宅へ招く約束をする。翌日には、優子が作ったと知らずに卵焼きを褒める。
・富田 優子
男女別の部屋という全体説明に不安になるが、自分たちの班は同室と聞いて安心する。茶道部では詩織へ幼い頃からの恋心を打ち明ける。勝也と漫画の感想を語り合い、自分から彼の部屋へ遊びに行きたいと伝える。母にポテトサラダと卵焼きを教わり、勝也に喜んでもらう。
・加藤 真弓
班長の翔太に代わって飯盒炊飯の相談をまとめ、優子には固定の役割を設けず、勝也と一緒に動ける形を提案する。翌朝も優子の話を自然に受け止め、無理のない参加の仕方を一緒に考える。
・鳥居 翔太
林間学校のカレー作りを楽しみにし、班の相談では火の係を強く希望して、野菜洗いにも加わると約束する。早々に軍手を用意し、放課後には勝也が取り分けてくれた茶道部のお菓子を受け取る。
・鶴見 春樹
飯盒炊飯では勝也、翔太と火の担当になり、初めは翔太と野菜洗いを手伝う。勝也や綾香とは互いの家によく泊まるため、同室にも自然に賛成する。翔太の勢いへ落ち着いて突っ込み、優子が皆と笑える会話を作る。
・井上 綾香
真弓とカレーの調理を受け持ち、優子が勝也と一緒に参加する案へ快く賛成する。自分も野外での調理は初めてだと話し、皆で作る準備を進める。
・荒川 宣仁
放課後、茶道部のお菓子を気にする翔太へ声を掛け、部活へ向かう道で笑い合う。
・花沢先生
林間学校のしおりを配り、来週水曜日からの2泊3日の活動や一般の宿泊設備を説明する。役割決めの終わった勝也たちの班へ、配慮した和室と目の前のトイレ・浴室を案内し、全員に同室でよいか確認する。具体的な過ごし方は保護者とも改めて相談すると伝える。
・山崎 詩織
茶道部で優子の隣へ座り、勝也への恋心に気づく。幼い頃から好きだったと聞いて驚き、本人には勝手に明かさず、直接聞けないことがあれば手助けすると約束する。
・茶道部の部長、先輩たち、顧問の先生
初めて来た優子を迎え、読書や宿題をして過ごしてもよいと伝える。勝也へ練習のお茶を頼み、余っていた芋けんぴを持ち帰れるようにする。
・優子の母(美和)
2人から学校や茶道部の話を聞き、林間学校の心配を整理する。料理を覚えたい優子へ下ごしらえから教え、勝也を喜ばせられた娘と、次も一緒に作る約束をする。
・優子の父(泰臣)
食卓で学校の話を聞き、林間学校について心配な点を書き留めることを提案する。優子が練習した卵焼きを食べ、次に作る時も楽しみにしていると伝える。




