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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
42/52

第37話 少しずつ


    * * 勝也視点 * *


 木曜日の朝、優子は教科書を机へ入れてから、少しこちらを見た。

 筆箱へ伸ばしかけた手を止め、話しかけるきっかけを探しているようだった。


「……4巻まで、読んだよ」

「もう? 昨日、あっちの漫画も読んでたのに」

「勝也が帰ってから、続きが気になって」


 昨日渡した、『DEATH NOTE』の3巻と4巻のことだった。

 声を落とした優子が、机の端へ指を添えた。


「寝るの、遅くならなかった?」

「大丈夫。ちゃんと寝たよ」

「なら、よかった。どの辺、面白かった?」


 聞くと、優子は指先へ目を落とした。

 口を開き、何から話そうかと考えるように、少し目を動かした。


「……いろいろ、聞きたいことがあるんだけど」

「うん」

「今、話し始めたら、授業になっちゃうかも」


 前の戸の上の時計を見た。

 確かに、ゆっくり話せるほどの時間は残っていなかった。


「じゃあ、放課後にしようか。俺も、結構しゃべっちゃうと思う」

「結構?」

「たぶん、かなり」


 優子が笑った。

 俺も笑って、今日使う教科書を机へ出した。


 どこまで読んだかを聞くのと、読んだところについて話せるのは、少し違っていた。

 今までは、面白かった、と言ってもらうだけで嬉しかった。今日は、その先を聞けそうだった。


「あとで、ちゃんと聞かせてね」

「……うん」


 優子が自分の机へ向き直った。

 その横顔は、校門の前で俺の袖を握っていた時より、少し柔らかかった。


     * * *


 林間学校のしおりは、薄い水色の表紙だった。

 後ろへ回す束から1冊取ると、ホチキスで留められたところが、まだ少し浮いていた。


「足りない列はありませんか」


 花沢先生が教室を見渡した。

 優子は受け取ったしおりを机へ置き、表紙に書かれた日付へ目を向けていた。


 10月10日、水曜日。

 その隣に、12日、金曜日まで、と続いている。


「林間学校は、来週の水曜日からです。今日は、このしおりを使って、3日間の流れと持ち物を確認します。そのあと、飯盒炊飯の役割を班ごとに相談しましょう」


 教室の少し前で、翔太がもうページをめくっていた。

 先生がまだ開く場所を言っていないのに、途中でぴたりと止まる。

 後ろ姿だけでも、何を見つけたのか、だいたい分かった。


「鳥居くん。今は、最初のページね」

「はい」


 素直に返事をして、数枚まとめて戻した。

 隣で、優子が小さく笑った。


「カレー、探してたのかな」


 聞こえるくらいの声で言うと、優子がしおりの端で口元を隠した。


「……もう、見つけたみたい」


 俺も笑いそうになって、表紙を開いた。


 最初のページには、集合から帰校までの大きな流れが載っていた。

 先生は黒板へ、水、木、金、と3つ並べた。


「水曜日は学校へ集合して、バスで向かいます。いつもの登校時間とは違うので、集合時刻には線を引いておいてください。おうちの人にも、今日、しおりを見せましょう」


 教室のあちこちで筆箱が開いた。

 優子が定規を出したので、俺も同じところへ線を引く。


「着いたら入所式です。そのあと、施設の食堂を借りて、持ってきたお弁当を食べます。初日のお昼は給食でも、施設の食事でもありません」


 先生は、忘れないでね、と付け足した。


「午後は、班ごとのオリエンテーリングです。次のページに、活動の説明があります」


 紙をめくる音が重なった。

 簡単な地図の見本と、旗の描かれた枠が載っていた。


「渡された地図を見て、決められた場所を回ります。途中には、問題を解く場所や、班の皆で協力して挑戦する場所があります。走る速さだけを競うものではありません」


 翔太が、今度はちゃんと先生の方を見た。


「全員そろって、というところが大事です。先に分かった人だけで次へ行かないこと。班の誰かが困っていたら、皆で相談してください」


 俺は地図の見本へ目を落とした。

 優子も、細い道の線を追っていた。


 知らない場所を歩くのは、今の優子には怖いかもしれなかった。

 でも、植物の名前や、看板に書かれていることなら、俺よりたくさん知っている。

 一緒に回れたら、俺が聞くことも多そうだった。


「この問題、優子、得意そう」


 見本に載った葉の絵を、鉛筆の先で示した。


「……これが出るわけじゃないよ」

「うん。でも、俺より分かりそうだなって」


 優子は絵を見てから、小さく頷いた。

 まだ、行けるとは言わなかった。

 俺も、その先までは聞かなかった。


「夕方には全員施設へ戻ります。夕食は施設で用意していただく食事です。食堂での席や、食器を返す場所も、現地で説明があります」


 先生の指が、黒板の水曜日の下へ動いた。


「夕食後は、部屋で過ごす時間と入浴があります。班長さんは、翌日の確認のために集まる時間がありますから、自分のしおりに印をつけておいてね」


 翔太が大きく頷き、筆箱から鉛筆を出した。

 今度は、自分の仕事だと分かっている顔だった。


「お部屋は男女別です。基本的には、班の男子4人、女子4人が、それぞれ1部屋を使います。1つのお部屋に、2段ベッドが2つあります」


 上で寝たい、と前の方から声がした。

 続けて、俺も、と別の声が重なった。


「どちらで寝るかは、お部屋の人たちと相談してね。大浴場は1つなので、男子の時間と女子の時間に分かれて、交代で使います。自分たちの時間を確認してから向かうようにしてください」


 俺は優子の方を見た。

 さっきまでしおりを追っていた指が、止まっていた。

 部屋割りのページを開きかけたまま、薄い紙をつまんでいる。


「……別の、お部屋」


 隣の俺にしか聞こえない声だった。

 膝の上へ下りてきた手が、俺の制服を探した。

 袖口をつかむ指に、強く力が入った。


 まだ決めていないことがあった。

 学校へ来られるようになったことと、いつもと違う場所で2晩泊まることは、同じではなかった。

 先生へ相談することも、優子のお母さんたちと話すことも、残っている。


 制服を握っている手に、そっと自分の手を重ねた。


「俺たちの部屋のこと、あとで先生に聞こう。一緒に聞くから」


 優子は俺を見て、かすかに頷いた。

 でも、指は緩まなかった。

 前の席では、ベッドの上と下の話が続いていた。優子はそちらを見ず、開きかけのページを、ゆっくり戻した。


「木曜日は、朝食と体操のあと、飯盒炊飯です」


 黒板の真ん中へ、先生が大きく書いた。

 その下へ、カレーライス、と続いたところで、翔太の背中が伸びた。


「待ってました」


 本人は小さく言ったつもりらしかった。

 前の方から笑いが起きた。


「鳥居くんは、もう待っていたのね」

「はい。めっちゃ楽しみです」

「それなら、作るところも、片づけるところも、楽しみにしていてください」


 先生が笑うと、翔太がもう1度、はい、と答えた。

 春樹が振り返り、俺と目が合った。

 何も言わなくても、同じことを考えているのが分かった。


 食べるところだけは、誰より張り切る。


「お米は飯盒で炊きます。おうちの炊飯器と違って、火の加減も自分たちで見なければなりません。カレーは、野菜を洗うところから班で準備します」


 ページの右側に、用具の絵が並んでいた。

 飯盒。鍋。まな板。包丁。

 下には、材料を受け取るところから、洗って返すところまで、順番が書かれている。


「火を扱う場所には、先生や施設の方がいます。分からないまま勝手に進めず、聞いてくださいね。包丁を持ったまま歩かないことと、火の近くでふざけないことも、忘れないように」


 翔太の頭が、さっきより何度も動いた。

 俺が気づいたのと同じ頃に、真弓も翔太を見ていた。


「午後は、カヌーの体験があります。水辺へ出る前に、救命胴衣の着け方や、乗り降りの仕方を教わります。説明を聞く時間も含めて活動ですから、先に舟へ行ったりしないこと」


 2人乗りの絵を見て、教室が少しざわついた。

 誰と乗る、と近くの席で声が上がった。


「組み合わせや、当日の参加の仕方は、こちらでも確認します。今ここで、勝手に決めてしまわないでね」


 優子が絵を見ていた。

 俺は、揺れるかな、と声を落とした。


「勝也、乗ったことある?」

「ないよ。だから、最初は教わらないと」

「……そっか」

「俺だけ分かってるわけじゃないから、一緒に聞こう」


 優子が頷いた。

 知らない、と言ったことを残念がる顔ではなかった。


「夜は、キャンプファイヤーです。皆で行うレクリエーションや、出し物、ダンスの時間があります。そのあとの夜の活動についても、現地で先生の説明を聞いてから動いてください」


 しおりにある肝試しの文字を見つけて、後ろの方で、ええ、と声が上がった。

 俺も、そこへ目を止めた。


 昼間の地図なら、まだいい。

 暗くなってから、知らない場所を歩くとなると、急に別の話だった。


 優子がこちらを見た。


「勝也も、苦手?」

「全然平気」


 聞かれてすぐに答えた。

 少しでも迷ったら、本当は苦手だとばれそうだった。


「……本当?」

「うん。大丈夫だよ」


 優子が、俺の顔を見ていた。

 俺はしおりへ目を戻し、肝試しの文字から、隣の持ち物の欄へ視線を移した。

 暗い山道で急に何か出てきたら、たぶん声は出る。

 そこは、今は考えないことにした。


「最終日は、朝食のあとに掃除と荷物の確認をして、退所式です。使わせていただいた部屋を整えてから、バスで学校へ帰ります」


 先生が、金曜日の下へ帰校、と書いた。


「楽しいことがたくさんありますが、そのためには、皆で同じ時間に動けるようにすることが必要です。しおりは鞄の底へしまい込まず、自分でも確認できるように持っていてください」


 持ち物のページへ進んだ。

 着替え、洗面道具、タオル、雨具。

 軍手のところで、翔太がまた鉛筆を動かした。


 優子は、自分のお母さんに確かめたいところへ、小さな丸をつけていた。

 俺も同じページの端へ、家で確認、と書いた。


 その字を見た優子が、俺の方へしおりを少し寄せた。


「……帰ったら、一緒に見てもらっていい?」

「うん。もちろん」


 俺が頷くと、優子は丸の横へ、細い字で、お母さん、と書き足した。


     * * *


「それでは、班ごとに集まってください。飯盒炊飯の役割を相談して、配った紙へ書きましょう」


 先生の声が終わる前に、椅子が動き始めた。

 俺と優子が机を寄せると、春樹が向かい側へ来た。

 真弓と綾香も椅子を持ってきて、最後に翔太がしおりを抱えて座る。


 優子は椅子を寄せたあとも、俺のすぐそばから動かなかった。

 しおりの間から、部屋割りのページの角だけが出ていた。

 俺が役割を書く紙を見せると、優子も顔を向けたけれど、片方の手は制服の袖をつまんだままだった。


「よし、話し合うぞ」


 翔太が真ん中へ紙を置いた。

 班長の欄には、もう自分の名前が書いてあった。


「俺、火の係やりたい!」

「まだ何も話してないんだけど」


 真弓が言った。


「だから、最初に希望を言ったんだよ」

「希望は分かった。紙、こっち向けて」


 翔太が、少しだけ紙を回した。

 真弓はさらに半分回し、全員から見えるように置き直した。


「まず、ご飯とカレー、両方いるんだよね」

「うん。カレーだけできても困るし、ご飯だけでも困るね」


 春樹が言うと、俺も頷いた。


「鍋と飯盒で、火の見方も違いそうだよ」

「じゃあ、俺、両方見る」

「翔太、さっきから全部、火の話だね」


 俺が言うと、翔太は当然だろ、という顔をした。


「火、起こしてみたくない?」

「やってみたいけど」

「だろ? 薪をこう、いい感じに組んで」


 両手で、机の上に何かを積む真似をした。

 いちばん上へもう1本載せるところで、真弓が鉛筆を持ち上げた。


「いい感じに、は説明を聞いてからね」

「分かってるって」

「じゃあ、火の担当、男子3人でいい?」


 俺と春樹が頷いた。

 翔太は、自分の希望が通ったので、さっきよりさらに大きく頷いた。


「カレーの方は、私と綾香でやろうか」

「うん。切るのと、鍋で作るの、分けてもいいしね」


 綾香が材料の欄を見た。

 優子の指が、膝の上で少し動いた。


 自分の名前が出るのを待っているようだった。

 真弓は紙へ書き込む前に、優子を見た。


「富田さんは、決まった係にしなくていいと思うんだけど、どうかな」


 優子が顔を上げた。


「……私、何も、しなくていいの?」

「何もしちゃ駄目って意味じゃないよ。最初からここにいなきゃいけないって決めなくていい、ってこと」


 真弓が紙の上へ置いた鉛筆を、いったん離した。


「勝也と一緒にいて大丈夫だよ。野菜洗う時でも、火の方へ行く時でも。できそうなことがあったら、その時に一緒にやろう」


 優子が俺を見た。

 俺は、うん、と頷いた。


「俺も、その方がいいな。優子、俺と一緒にやろうよ」

「……でも」

「人数が足りなくなるとか、そういうのはないよ」


 綾香が、材料の絵を指した。


「洗うところは皆でできるし。火を使う前にも、することあるもんね」

「そうそう。俺らも、最初からずっと薪を見てるわけじゃないし」


 春樹が言った。

 そのあとで、翔太を見た。


「見てたい人は、いるかもしれないけど」

「いや、手伝うよ。俺も洗うよ」


 翔太が慌てて言った。


「じゃがいもとかだろ? 任せろって」

「じゃがいもだけじゃなくて、お米もね」


 真弓が言うと、翔太は少し考えてから頷いた。


「米、洗いすぎてなくなったりしない?」

「どれくらい洗うつもりなの」


 春樹が聞き返した。

 俺が笑うと、優子も、口元へ手を添えた。


「……お水と一緒に、流さなければ」


 優子が小さく言った。

 翔太は、そうか、と真面目に頷いた。


「そこが大事だな」

「そこから確認するんだ」


 真弓が笑い、俺の方を見た。


「翔太に任せたら、お米なくなりそうだから。勝也、お米を洗うの、お願いしていい?」

「まだ1粒も流してないだろ」

「今から心配してたから」


 翔太が言い返すと、真弓は紙へ鉛筆の先を向けた。

 俺は笑いながら頷いた。


「うん。じゃあ、お米は俺がやるよ。そのあと、火の方も見る」

「……私も」


 隣から小さな声がした。

 優子が俺と、真弓を順番に見た。


「勝也と一緒に、お米、洗うのを手伝ってもいい?」

「もちろん。じゃあ、そこは2人にお願いしようか」


 真弓が答えると、優子が小さく頷いた。

 俺も、よろしく、と言った。


 真弓が役割の欄へ書き始めた。


 火の担当のところに、俺たち3人の名前が並んだ。

 調理の担当には、真弓と綾香。

 米洗いのところには俺の名前を書き、その横へ、優子も一緒に手伝う、と添えた。

 その下へ、最初の準備と片づけは全員、と書き足した。


「富田さんは、勝也と一緒に、できるところへ入る。これでどう?」


 真弓が皆へ紙を向けた。


「いいと思う」

「うん」

「賛成。火も見に来いよ。ちゃんとご飯炊くからさ」


 最後に翔太が言った。

 優子は、すぐには返事をしなかった。

 紙に並んだ名前を順番に見てから、真弓へ目を向けた。


「……ありがとう、加藤さん」


 真弓は、いいよ、と普通の声で答えた。


「まだ、やってみないと分かんないもん。皆そうだし」

「私も、おうちのコンロでしか作ったことないよ」


 綾香が言った。


「外で作ると、火を弱くして、って言っても、つまみがないんだよね」

「そこは俺たちが、いい感じに」


 翔太が胸を張った。

 真弓がすぐに、だからそれを教わるんでしょ、と返した。


 俺たちは笑った。

 優子も、今度は顔を伏せずに笑っていた。


「じゃあ、俺と翔太は、最初にじゃがいもとか、野菜を洗おうか」


 春樹が言うと、翔太が頷いた。


「おう。それが終わったら、火の準備な」

「俺も、お米の準備ができたらそっちへ行くよ」

「材料を切ってる間に、そっちを進められるもんね。順番は現地の説明に合わせよう」


 真弓が余白へ、小さく書き込んだ。


「カレーの鍋、焦がさないように混ぜるのもいるよ」

「それ、俺もできる」


 翔太が手を上げた。


「火、見なくていいの?」

「……じゃあ、食べる前の最後のひと混ぜ」

「それ、仕事なの?」


 綾香まで笑った。

 翔太は、味見でもいい、と言った。


「そっちが本当の希望でしょ」

「火と味見。2つ希望がある」

「分かった。じゃあ、味見は6人分ちゃんと残ってるかを見てからね」


 真弓が言うと、翔太は、そんなに食わないって、と笑った。

 春樹が、皿を持って味見しそう、と呟いたので、俺まで想像してしまった。


「それ、もう昼ご飯だよ」

「鍋から直接食わないだけ、偉いだろ」

「偉くはないかな」


 俺が答えると、優子の肩が小さく揺れた。


 しおりの上へ置いていた手は、さっきより力が抜けていた。

 でも、話がまとまると、優子は挟んであった部屋割りのページへ目を落とした。

 口元に残っていた笑いが、少しずつ消えた。

 皆とご飯を作る時間のことが決まっても、そのあとに離れるかもしれないことは、まだ何も変わっていなかった。


 隣の班では、誰が包丁を使うかで、まだ相談が続いていた。

 花沢先生は別の班の紙を確認し、次の机でも少し話してから、俺たちのところへ来た。


「相談は進んでる?」

「はい。これでいいですか」


 真弓が紙を見せた。

 翔太も、俺、火の係です、と付け足した。


「書いてあるね」


 先生が笑い、役割を端から読んだ。

 優子の欄へ目を止めてから、俺たちを見た。


「皆で相談したの?」

「うん。富田さんは、勝也と一緒にいた方が安心だと思って。できるところを一緒にやってもらおうって」


 真弓が言った。

 先生は優子を見た。


「富田さんは、これで大丈夫そう?」


 優子が少し迷ってから、頷いた。


「……はい。皆が、いいって言ってくれて」

「うん。現地でも、困ったことがあったら、その時に相談しましょう」


 先生は紙を机へ戻すと、俺たちの輪へ少し身を寄せた。


「役割が決まったところで、この班には、お部屋のこともお話ししておきたいの」


 優子の顔が上がった。

 先生は手元の施設案内を開き、俺たちから見える向きにした。


「さっき、皆には男女別のお部屋だと説明しましたが、この班は、富田さんが安心して過ごせるように、6人で同じお部屋を使う形を考えています」


 袖を握る手が止まった。

 優子は先生を見たまま、すぐには何も言わなかった。


「……勝也も、同じですか」

「うん。鵜飼くんも一緒よ」


 先生が頷くと、優子は俺を見た。

 確かめるように見上げられて、俺も頷いた。


「一緒にいられるって」


 優子の唇が少し動いた。

 返事になる前に、息が長く抜けた。

 俺の袖をつかんでいた指が、ようやく緩んだ。


 先生が施設案内の端を指した。


「こちらに、障害のある方が利用できるように用意されたお部屋があります。施設の方に相談して、そこを使わせてもらえることになりました。皆が泊まる部屋からは少し離れていますが、広めの和室なので、6人でお布団を敷いて過ごせます」

「こっちは、ベッドじゃないんですね」


 春樹が図を見ながら聞いた。


「そう。畳のお部屋です。それから、お部屋の目の前に、障害者用のお手洗いと、広めのお風呂があります。この班は、そちらを使ってください」


 先生の指が、向かい側の2つの場所を順番に示した。


「お風呂にはシャワーが3つあって、湯船も広いそうです。ほかの皆が使う大浴場まで行かなくても、お部屋のすぐそばで済ませられます」


 優子が図へ顔を近づけた。

 俺も同じところを見た。

 寝る部屋と、お手洗いと、お風呂が、小さな廊下を挟んで並んでいた。


「ただ、男女が同じお部屋になるのは、この班だけです。皆の気持ちも聞いておきたいので」


 先生が春樹と翔太、それから真弓と綾香を見た。


「一緒のお部屋でも、大丈夫かな」

「俺は大丈夫です」


 春樹が答えた。

 綾香も、その隣で頷いた。


「私も。勝也と春樹とは家が隣同士で、よく泊まりに行ってるし」

「うん。俺も、2人と泊まるのは慣れてます」


 俺が言うと、翔太が顔を向けた。


「それ、ほんと羨ましいんだけど」

「翔太も、うちに来るでしょ」

「来るけどさ。隣だから、って行けるのがいいんだって」


 そう言ってから、翔太は先生の方へ向き直った。


「俺も全然平気です。皆で同じ部屋の方が楽しそうだし」

「私は、夜までうるさくしなければ大丈夫です」


 真弓が言った。

 翔太が、俺を見ながら言うなよ、と返したので、綾香が笑った。


「まだ、誰とも言ってないでしょ」

「顔が、俺って言ってた」

「寝る時間は守ろうね、班長」


 春樹が言うと、翔太は、分かってるって、と答えた。

 優子の口元が、少しだけ緩んだ。

 さっきと違って、しおりの部屋割りへ目を戻しても、その表情は消えなかった。


「富田さんは、皆とこのお部屋で大丈夫そう?」


 先生が聞いた。

 優子は俺の手元を見てから、顔を上げた。


「……はい。同じお部屋なら」


 小さいけれど、はっきりした返事だった。


「分かりました。では、この班は、そのお部屋で進めますね。お風呂を使う順番や、着替える時のことは、改めて相談しましょう」


 先生が案内の和室へ、小さな印をつけた。

 優子はそこを見てから、皆を順番に見た。


「……ありがとう」

「うん。こっちなら、ベッドの上と下でもめなくて済むね」


 綾香が言うと、翔太が、上もちょっと寝てみたかったけどな、と笑った。

 真弓は図をもう1度見て、皆で使うなら広い方がいいよ、と言った。


 机の下で、優子の手が俺の手へ触れた。

 制服を引き止める代わりに、そっと指が重なった。

 その手を握ると、優子が小さく握り返した。


「班長さん、最後の確認はお願いしますね」

「はい」


 翔太が紙を手前へ引いた。

 その隣から真弓が、字、読める? と聞いた。


「読めるよ。むしろ、俺が書くより読みやすい」

「それは、そうかもね」


 否定してもらえず、翔太が少しだけ口を尖らせた。

 春樹が笑いながら、しおりへ自分たちの担当を書き写した。


 優子も、同じページを開いた。

 役割の欄へ何を書くか考えたあと、細い字で、勝也と一緒に、と書いた。


 俺が見ていたことに気づくと、鉛筆を止めた。


「……これで、いい?」

「うん。分かりやすいね」


 俺も自分の欄へ、優子と一緒に、と書き足した。

 その下に、火、お米、と続けた。


「俺、先に何するか忘れそうだから」


 そう言うと、優子は俺の字を少し見てから、自分のしおりへ目を戻した。

 口元が緩んでいた。


 皆が席へ戻り始めた時、翔太が提出する紙を持ち上げた。


「よし。まとまったな」

「うん。真弓がまとめてくれたね」


 春樹が言った。


「俺も希望を出しただろ」

「すごくはっきり出してたよ」


 俺が言うと、翔太は、それも班長の仕事、と頷いた。

 真弓は笑いながら、提出は頼んだよ、と言った。


     * * *


 授業が終わってから、花沢先生が俺たちの机へ来た。

 周りの席が動き終わるのを待ち、声を落とした。


「富田さん。さっきお話ししたお部屋のこと、おうちの人にも伝えておいてね。そこでどう過ごすか、手伝いが必要なことは何か、改めて一緒に相談しましょう」


 優子の指が、しおりの角へ触れた。


「……着替えとか、夜のことも」

「うん。学校で過ごす時と違うところがあるものね。心配なところを、お母さんと見ておいてもらえる?」


 優子が頷いた。

 俺も、自分のしおりを閉じた。


「俺も、一緒に確認します」

「ありがとう。鵜飼くんにも聞きたいことがあるから、その時はお願いね」


 先生が離れると、優子が小さく息を吐いた。

 表紙へ名前を書き、インクが乾くまで少し待った。


「もう、来週なんだね」

「うん。近くなったね」

「……カレーは、ちょっと、楽しみ」


 俺は優子を見た。

 優子は、照れたように、まだ表紙を見ていた。


「翔太が聞いたら喜ぶよ」

「翔太くん、ずっと楽しそうだったね」

「当日も、たぶんあんな感じだよ」


 言いながら前を見ると、翔太はもう別の班の男子へ、自分が火の係になったことを話していた。


「……もう、報告してる」


 優子が言った。

 俺たちは顔を見合わせて笑った。


 優子のしおりには、まだ小さな丸がいくつもあった。

 その間に、俺たちと一緒にすることも、少し書き込まれていた。


     * * *


 帰りの会が終わると、翔太が鞄を肩へ掛けて来た。


「今日、部活行く?」

「うん。ちょっと顔出してくる」

「お菓子、いっぱい残ってんじゃね?」


 顔が、昼間のカレーの話と同じになっていた。


「この前も、食べに来てって言われたよ」

「俺も行きてえ」

「バスケ部は?」

「行くよ。行くけど、茶道部に寄ってから」

「それ、前にも言ってなかった?」


 俺の隣へ春樹が来た。

 翔太の肩を軽く叩く。


「寄ったら帰れなくなるよ。食べ終わらないから」

「そんなにあるのか」

「翔太が、もう1個って言い続けるから」


 翔太が、そこかよ、と笑った。

 優子は筆箱をしまいながら、俺たちを見ていた。


「本当に、お菓子、そんなに食べるの?」

「練習のお茶を飲む時にも食べるし、余った分も食べたりするよ」

「いい部活だよなあ」


 翔太が言った。

 春樹は、隣から羨ましくなる時はある、と頷いた。


「でも、飲むの、続くと結構大変だよ」


 俺が言っても、翔太はあまり信じていない顔だった。

 優子も少し首を傾げた。


「……お茶を飲んで、お菓子を食べるんだよね?」

「うん」

「大変なの?」


 春樹が笑った。


「見てみたら分かるんじゃない?」


 俺は優子を見た。

 今日は一緒に部室へ行くことを、朝、優子のお母さんにも話してあった。優子も、行ってみたいと言ってくれていた。

 それでも、初めての場所だった。


「長くならないようにするよ。途中で帰りたくなったら、教えてね」


 優子が頷いた。


「……勝也が、いつも何してるのか、見てみたい」

「たぶん、食べてるところが多いと思う」


 自分で言うと、翔太が笑った。


「ほら、やっぱりいい部活じゃん」


 宣仁が、廊下へ出る途中で俺たちを見つけた。


「何や、今日は皆で茶道部か?」

「俺も行きたいんだけど、春樹が駄目って」

「駄目とは言ってないよ。翔太、練習始まるんじゃない?」


 春樹が時計を示した。

 翔太が、やべ、と肩紐を持ち直す。


「じゃあ、余ったら俺の分も」

「明日まで残るかな」

「残せよ!」


 声を上げてから、優子を見て少し声を小さくした。


「……できれば、残して」


 優子が笑った。

 宣仁も笑い、翔太と並んで廊下を歩き始めた。


「火の係になったんやろ。おやつばっかり食うて、米食えんようにならんときや」

「カレーは別だよ」

「昼からずっと飯の話やな」


 声が遠ざかった。

 俺たちは真弓と綾香にも手を振り、春樹と一緒に教室を出た。


    * * 優子視点 * *


 茶道部の前まで来ると、廊下を歩く人の声が少なくなった。

 隣の美術室からは、水の流れる音と、椅子を引く音が聞こえていた。


「じゃあ、俺はこっち」


 春樹くんが扉へ手を掛けた。

 中から呼ばれると返事をして、それから、私たちへ振り返った。


「また明日。勝也、飲みすぎないようにね」

「お茶だから、大丈夫だよ」

「お茶でも、お腹はいっぱいになるでしょ」


 勝也が、それはそう、と笑った。

 私も小さく頭を下げた。


 春樹くんが中へ入ってから、勝也は隣の扉を開けた。


「こんにちは」


 勝也の声に、奥からいくつも返事があった。

 まず見えたのは、靴を脱ぐための小さな場所だった。

 その先の少し高くなった床と、襖の向こうに、畳が見えた。


「ここで、上履き脱ぐんだ」


 勝也が教えてくれた。

 私が片足を上げると、持っていた鞄を受け取ってくれた。


「ありがとう」

「うん。ここ、段差あるから」


 上がったところで振り返り、上履きの向きをそろえた。

 その間にも、奥の話し声が近づいてきた。


「鵜飼くーん、久しぶり!」

「勝也くん、おひさ〜」

「お茶菓子、大量にあるよ!」


 襖の向こうから、先輩たちが顔を出した。

 勝也が、こんにちは、ともう1度言って笑った。


「最後の、挨拶じゃないですよね」

「大事なお知らせだよ」

「来るの、待ってたんだから」

「俺がですか。お菓子食べる人がですか」

「両方」


 迷わず返ってきた声に、勝也が笑った。

 先輩たちも、つられたように笑った。


 私は、勝也の横顔を見上げた。

 部活で一緒に過ごす人たちがいることは、知っていた。

 でも、こんなふうに名前を呼ばれて、来るのを待ってもらっているのだとは思っていなかった。

 勝也も、返事を考えて困ったりしなかった。教室で春樹くんたちと話す時のように、すぐに言葉を返していた。


 ここでも、仲のいい人がいるんだ。


 知らない先輩ばかりなのに、勝也の声はいつもと同じだった。

 私なら、挨拶をするだけでも、何と言おうか迷ってしまう。

 すごいな、と思いながら聞いていると、先輩たちの目が、勝也からその隣へ向いた。


「あ、富田さん?」


 呼ばれて、頷いた。

 勝也が私の鞄を返しながら、こちらもよろしくお願いします、と言った。


「今日、一緒にいてもいいって話してた、優子です」

「うん。聞いてるよ。どうぞ、入って」


 部長さんが、奥へ手を向けた。

 私は鞄の持ち手を握り直した。


「……お邪魔します」


 言い終わる前に、もう1人の先輩が隣から覗き込んだ。


「近くで見ると、小さいね」

「可愛い……」

「ねえ、鵜飼くんと同じクラスなんだよね?」


 3つ続けて声がした。

 どちらへ答えればいいのか分からなくなって、視線が動いた。


 誰も、怒っている顔ではなかった。

 笑ってくれているのも分かった。

 それなのに、目の前と横の両方から見られると、足が止まった。


 勝也の袖へ指を伸ばした。

 握る前に、勝也が少しこちらを向いた。


「先輩たち、ちょっと待って。一緒に聞かれると、答えられないから」


 いつもの声だった。

 先輩の1人が、あ、と口元へ手を添えた。


「ごめんね。いっぺんに言っちゃった」

「こっち、空けよう」


 私たちの前が少し広くなった。

 勝也が歩き出すと、つかまえていた袖も、ゆっくり動いた。

 私がついていける速さだった。


 畳の上には、道具の並んだ場所と、鞄を置ける場所があった。

 端の方には、開いた本やノートも見えた。

 もっと、全員がずっと正座して、黙っている場所なのだと思っていた。


「荷物、ここでいい?」


 勝也が聞いたので、頷いた。

 私の鞄と、自分の鞄を、壁際へ並べてくれた。

 座る時にも、少し待ってくれた。


「足、つらくなったら崩していいって」

「……まだ、大丈夫」

「うん」


 勝也が隣へ座った。

 私は、その膝の位置を確かめてから、鞄から手を離した。


 少し離れていた先輩が、今度は正面から、ゆっくり近づいてきた。


「山崎詩織です。勝也くんとは、いつもここで一緒なの」


 声と顔を、順番に見た。

 勝也が、山崎先輩、と呼んだ。


「……富田優子です」

「うん。よろしくね。さっき、びっくりさせちゃったね」


 首を振りかけた。

 何もなかったと言うには、まだ勝也の制服をつまんでいた。


「……少しだけ」


 正直に答えると、詩織先輩は、そっか、と頷いた。

 それ以上、こちらへ顔を近づけなかった。


「今日は、見てるだけでも大丈夫だからね。勝也くんが飲んでるところ、ゆっくり見てて」

「俺、もう飲むの決まってるんですね」


 勝也が言うと、先輩が笑った。


「待ってたもの」


 ほかの先輩が、戸棚から袋を持ってきた。

 私たちの前へ置かれたのは、お菓子だった。

 1袋ではなかった。


 同じお菓子の袋が、いくつも重なっていた。

 どれも口を開けたあとがあり、折り返したところを留めてあった。中身が半分ほどになったものもあれば、まだたくさん残っているものもあった。


「……こんなに?」


 勝也が言った。

 私は、その顔を見た。

 勝也まで驚いていた。


「いつものつもりで買って、練習の時に出してたら、食べきれない袋が増えちゃって」

「いや、俺1人でそんなに食べてました?」

「食べてたよ」


 返事が、2人分重なった。

 勝也が私を見た。


「……らしいです」


 私は笑いをこらえられなかった。


「さっき、いっぱい残ってるかもって、翔太くんが」

「翔太、当たってたね」


 勝也が袋を1つ持ち上げた。

 中の芋けんぴが、かさりと動いた。


「でも、今日、全部は無理ですよ」

「分かってるよ。持って帰れる分は、持って帰って」

「あ、それなら助かります」


 勝也が、すぐに安心した顔になった。

 部長さんが、顧問の先生にも確認してあるから、と紙袋を出した。

 今日は皆で食べる分を取り、残りは持ち帰れるよう、きれいな小分けの袋へ詰め直すらしかった。


「鵜飼くんがいない時も、ちゃんと食べてたんだけどね」

「それでも、追いつかなくて」

「どれくらい食べてたんですか、俺」


 勝也が袋を並べ直した。

 先輩たちは、相談するように顔を見合わせた。


「気がつくと、なくなってた」

「うん」

「俺、そんな、何も考えずに食べてるみたいじゃないですか」

「考えてた?」


 詩織先輩が聞いた。

 勝也は少し黙った。


「……宿題のこととか」


 皆が笑った。

 私も、膝の上へ置いた手を口元へ持っていった。


 勝也が家で漫画を読みながら、置いてあったお菓子へ手を伸ばすところは、想像できた。

 食べたことを忘れるのではなくて、食べながら別のこともできるのだと思った。


「富田さんも、よかったらどうぞ」


 先輩が、小さく取り分けたお菓子を渡してくれた。

 私は両手で受け取った。


「……ありがとうございます」

「お茶、飲んでみる?」


 聞かれて、勝也を見た。

 勝也は、嫌なら無理しなくていいよ、と言った。


「少し、飲んでみたい」

「じゃあ、お願いしようか」


 勝也が先輩へ顔を向けた。

 私は、勝也が道具の方へ行くのかと思っていた。

 でも、隣へ座ったままだった。


「勝也は、作らないの?」

「俺、飲む方だから」


 ためらわずに答えた。

 先輩たちが、また笑った。


「そこ、しっかりしてるよね」

「役割は分かってます」


 勝也が言って、運んできてくれた茶碗を見た。

 先に私の前へ置かれたものは、きれいな緑色だった。

 細かい泡が、表面へ広がっていた。


 持ち方が分からずに指を止めると、点ててくれた先輩が、隣へ座った。


「今日は、細かいところは気にしなくていいよ。熱くないか確かめながら、飲んでみて」


 私は頷いた。

 教えてもらったように片方の手で支え、もう片方を添えた。

 茶碗の厚みが、指に伝わった。


 ひと口飲むと、思っていたより先に、香りが来た。

 そのあとで、舌の奥に少し苦さが残った。


「……おいしい」


 先輩が、よかった、と笑った。

 勝也も自分の茶碗を持ち上げていた。


「これ、飲みやすいですね」

「本当?」

「うん。さっき、お菓子食べたからかもしれないけど、後から残るのが、あんまり強くないです」


 私の答えより、少し詳しかった。

 先輩は、いつもよりお湯を少し、と言いかけ、もう1人の先輩と道具の方を見た。


 勝也が、茶碗の中を見ていた。

 お菓子を食べて笑っているだけではないのだと、その時に思った。


「味、分かるんだね」


 小さく言うと、勝也がこちらを向いた。


「何回も飲んでるから、前と違うな、くらいは。ちゃんと説明できるわけじゃないよ」

「でも、私、飲みやすいとか、まだ分からない」

「優子は初めてだもん。おいしかったら、それでいいんじゃない?」


 茶碗へ目を戻した。

 さっきより、少しだけゆっくり飲んだ。


 甘いお菓子のあとと、そのまま続けて飲んだ時とでは、口に残る感じが違った。

 勝也へ言うと、うん、と聞いてくれた。


「俺も、お菓子がある方が好き」

「それは、いつもでしょ」


 先輩が言った。

 勝也が、ばれてた、と笑った。


 部室の戸が開き、顧問の先生が顔を出した。

 勝也が挨拶したので、私も茶碗を置いて頭を下げた。


「富田さんね。話は聞いています。ここで過ごす時に、何か困ったら言ってくださいね」

「……はい。ありがとうございます」


 先生は私たちの荷物を見て、本を読んだり、宿題をしたりしていても大丈夫だと教えてくれた。

 入部の手続きをするようには、言わなかった。


 今日は見ているだけの私にも、ここにいていい場所があった。


 先生が道具を確かめに行くと、勝也が小さく聞いた。


「足、大丈夫?」


 頷こうとして、膝を少し動かした。

 思っていたより、足首が固くなっていた。


「……ちょっとだけ」

「崩していいよ。俺も、ずっとは無理だから」


 勝也が先に座り直した。

 私も、そっと足の向きを変えた。

 その膝が、勝也の膝へ軽く触れた。


 離した方がいいかと思ったけれど、勝也は何も言わなかった。

 茶碗を持つ私の手元を見て、置く場所を少し空けてくれた。


 その時、正面の詩織先輩と目が合った。

 先輩は、私たちの膝から、私の顔へ目を戻したところだった。


 少しだけ笑った。

 からかうような声は、出さなかった。


 私は茶碗へ目を落とした。

 手のひらに残った温かさが、さっきより長く続いているように感じた。


     * * *


 次のお茶が来た時、勝也はまだ芋けんぴを持っていた。

 ひと口で食べ終え、手元を整えてから茶碗を受け取る。


「お願いします」

「こちらこそ、お願いします」


 先輩が笑った。

 勝也は、いつもこんなふうに頼まれているらしかった。


「これ、さっきと比べてどう?」


 飲み終わる前に聞かれ、勝也は少し考えた。

 すぐには返事をせず、もうひと口飲む。


「こっちの方が、少し苦い気がします。でも、お菓子と一緒なら、俺はこっちも好きです」

「そっか。薄すぎるかなと思ったんだけど」

「俺には、薄くはないですよ」


 先輩が茶碗を受け取って戻った。

 別の先輩が、その隣で待っていた。


「鵜飼くん、次、私のもいい?」


 勝也が、はい、と言った。

 私は自分の空になった茶碗を見た。


 私には、次々とは勧められなかった。

 お菓子をもう少し食べるか聞かれ、首を振ると、じゃあ、また欲しくなったら、と置いておいてくれた。


 勝也の前には、また茶碗が置かれた。


「……何杯目?」


 小さく聞くと、勝也は指を折りかけた。


「今ので3杯目かな」

「まだ、飲むの?」

「うん。もう少しなら」


 そう言って、また飲んだ。

 お菓子にも手を伸ばした。


 先輩たちは、その間も道具の持ち方や、置く位置を確かめていた。

 練習が1つ終わると、飲んでみて、と勝也が呼ばれる。

 勝也が飲んでいる間に、次の人が準備をする。


 お菓子の皿だけ見ていた時には、分からなかった。

 勝也は、その間に何度もお辞儀をして、受け取って、飲んで、聞かれたことへ答えていた。


「ねえ、勝也」

「うん?」

「……思ってたより、忙しいんだね」


 勝也が私を見た。

 少し嬉しそうな顔をしたので、私まで笑いそうになった。


「分かってくれた?」

「うん。ずっと、お菓子食べながら本読んでるのかと思ってた」

「そういう時もあるよ」

「あるんだ」


 詩織先輩が笑った。


「正直だね」

「そこは、隠してもしょうがないので」


 勝也が、少し姿勢を変えた。

 お腹へ手を当て、ゆっくり息を吐いた。


「もう……お腹たぷたぷ……」


 あまりに小さく、真剣な声だったので、私は口元を押さえた。


「……大変なんだね」

「今、すごく分かってもらえた気がする」


 勝也が頷いた。

 近くの先輩が、今日は久しぶりなのに続けてお願いしすぎたね、と笑った。


「次は量、少しにしようか」

「あ、お願いします。それなら飲めます」

「飲まなくてもいいのよ」


 顧問の先生が向こうから言った。

 部室のあちこちで笑いが起きた。


 勝也も笑い、じゃあ、この次で今日は終わりにします、と答えた。


「最後、こっちでお願いしてもいい? 道具の置き方も見てもらいたいの」


 先輩が、少し離れたところを示した。

 勝也は返事をする前に、私を見た。


「あそこへ行っても、大丈夫?」


 同じ畳の部屋の中だった。

 襖の向こうへ行くわけでも、扉が閉まるわけでもない。

 私が顔を上げれば、座っている姿が見える場所だった。


 それでも、膝が触れなくなると思うと、つまんでいた制服へ少し力が入った。


 勝也は立たずに待ってくれた。

 詩織先輩が、私の横へ少し移った。


「私、ここにいていい?」


 頷いた。

 先輩は、私と勝也の間をふさぐ場所には座らなかった。


「……見えてるから、大丈夫」


 私が言うと、勝也は、うん、と返した。


「すぐ、そこにいるね」


 指を離した。

 勝也が数歩先へ移り、こちらから横顔が見える向きに座った。

 先輩へお辞儀をしてから、もう1度だけ私を見た。


 私は小さく頷いた。

 勝也も頷き、目の前の道具へ向き直った。


「ちゃんと見えるね」


 詩織先輩が言った。


「……はい」


 自分の膝へ手を置いた。

 制服の布を離した指が、少し落ち着かなかった。

 けれど、呼べば聞こえる距離だった。


 先輩が、お菓子の小さな皿を私たちの間へ寄せた。

 食べるように勧めるのではなく、置く場所を変えただけだった。


「勝也くん、ここでもよく話すの」


 先輩の声が、さっきより少し小さくなった。


「漫画のこととか。最初はお茶の感想だったのに、いつの間にか全然違う話をしてる」

「……そうなんですか」

「うん。聞いてると、楽しそうで。知らない話でも、ちょっと見てみたくなるのよね」


 勝也が、目の前の先輩へ何か答えた。

 笑う声が聞こえた。


「今も、何か言ってるね」


 詩織先輩が笑った。

 私も勝也を見た。


 学校で、こういうふうに過ごしていた。

 私の知らない時も、勝也の周りには、一緒に笑う人がいた。


「……楽しそう」


 思ったことが、そのまま口に出た。

 先輩は私の顔を少し見てから、声を落とした。


「優子ちゃん」


 初めて、下の名前で呼ばれた。

 顔を向けると、先輩は勝也の方を一瞬だけ確かめた。


「勝也くんのこと、好き?」


 息が止まった。

 反射的に勝也を見た。


 勝也は茶碗を受け取っていた。

 こちらへは顔を向けていなかった。


「聞こえてないよ」


 先輩が、さらに小さな声で言った。

 私は膝の上の指を重ねた。


 違うと言おうと思えば、言えたのかもしれなかった。

 でも、そう言いたくはなかった。


 勝也のことを、ただ一緒にいなければ怖い相手としてだけ、話したくなかった。


「……うん」


 声は、自分でも聞き取りにくいくらい小さかった。

 先輩は、聞き返さなかった。


「そっか」


 笑った顔が、さっきより柔らかくなった。


「助けてくれたんだもんね。あんなふうに、大事にしてくれたら……そりゃ、好きになるよね」


 私は勝也を見た。

 先輩が言っていることも、間違いではなかった。

 勝也が来てくれた日のことを思うと、今も胸がいっぱいになった。


 でも、それより前にも、好きだった。

 知らなかったことにしたくないくらい、長い間。


「……小さい時から」


 先輩が私を見た。

 私は、膝に置いた指へ目を落とした。


「小さい時から、好きだった……んです」


 少しだけ間が空いた。


「……わーお」


 小さな声だったのに、驚いたのが分かった。

 顔を上げると、先輩は口元へ手を添えていた。


「そんなに、前から?」


 頷いた。


「幼馴染だとは聞いてたけど……そうだったんだ」


 先輩が勝也を見た。

 それから、もう1度私へ向き直った。


「勝也くんは、そのこと、知ってるの?」


 首を振った。

 振ってから、頬がもっと熱くなった。


「……言って、ないです」

「うん。そっか」


 どうして言わないの、と続けて聞かれなかった。

 先輩は、考えるように少し目を細めたあとで、私へ笑った。


「じゃあ、私にも秘密にしておいてほしい?」

「……勝也には」


 言葉が急いでしまった。

 先輩はすぐに頷いた。


「うん。勝手に言わないよ」


 肩から、少し力が抜けた。

 秘密を知られたことは恥ずかしかった。

 それでも、困ったことにはなっていなかった。


 先輩は私の手を見てから、また小さな声で言った。


「もし、勝也くんに直接聞けないことがあったら、私に言ってね」


 顔を上げた。


「私から、さりげなく聞いてみるから。聞けたら、優子ちゃんに教える」

「……いいんですか」

「うん。答えてくれることならね。勝也くんが話したくないことまで、無理に聞いたりはしないけど」


 先輩の声は、ひそひそしているのに、ふざけてはいなかった。


「応援したくなっちゃった」


 私はまた、勝也を見た。

 あちらでは、茶碗を置く位置の話をしていた。

 勝也が少しずらし、先輩が、そこ、と頷いている。


 私が今、何を話したのか、知らなかった。


「……ありがとうございます」


 頭を下げた。

 先輩が、小さく笑った。


「うん。でも、ここで急にお辞儀すると、何の話か聞かれちゃうかも」


 慌てて顔を上げた。

 先輩が、冗談、と目を細めた。


 私も、少し笑った。

 その時に、勝也がこちらを見た。


「どうしたの?」


 離れたところから聞かれて、また指に力が入った。

 詩織先輩が、いつもの声へ戻した。


「内緒話」


 私は先輩を見た。

 勝也も少し目を丸くした。


「え。俺の話ですか?」

「女の子同士の話」

「あ、そうなんですね」


 それで納得した。

 もっと聞いてくるかと思ったのに、勝也は目の前の先輩へ向き直った。


 詩織先輩が、私だけに見えるように、少し笑った。


「大丈夫だったね」


 私は頷いた。

 胸の中に残った恥ずかしさは、さっきほど苦しくなかった。


     * * *


 勝也が隣へ戻ってきた時、私は、空けてあった場所を少し広げた。

 勝也はそこへ座り、お腹へ手を当てた。


「ただいま」

「……おかえり」


 家でもないのに、そう返してしまった。

 勝也は気にした様子もなく、ふう、と息を吐いた。


「今日の仕事、終わりました」

「ご苦労さま」


 詩織先輩が言った。


「今日はもう、お茶、いらない?」

「しばらくは大丈夫です」


 勝也が真面目な顔で答えたので、また笑ってしまった。


「……お菓子も?」


 私が聞くと、勝也は皿を見た。

 そこへ残っていた1本を見つけた。


「これは、別かな」


 取ろうとして、先輩たちに見られていることへ気づいた。


「いや、最後の1本だから。残しても、あれだし」

「うん。どうぞ」


 詩織先輩が皿を寄せた。

 勝也は、ありがとうございます、と受け取り、食べた。


「……やっぱり、食べるんだね」


 私が言うと、勝也は少し笑った。


「芋けんぴ、好きなんだよね」


 かり、と音がした。

 口の中のものを飲み込んでから、今度は私へ聞いた。


「優子、ここ、どうだった?」


 私は、畳の上を見回した。

 お茶の道具。積まれた本。お菓子の袋。

 最初に声を掛けてくれた先輩が、離れたところで小さく手を振った。


「……楽しかった」


 言ってから、先輩へ小さく会釈した。


「最初、びっくりしたけど」

「うん。皆、会えるの楽しみにしてたみたいだから」


 詩織先輩が、勝也の向こうで頷いた。


「次からは、ちゃんと1人ずつ話しかけるね」


 その言い方が少しおかしくて、私は笑った。


「……はい」


 次があることを、普通に話してくれた。

 私は鞄へ手を伸ばし、持ってきたノートの端に触れた。


「ここで、宿題してても、いいんですよね」

「もちろん。勝也くんもやってるし」

「分からないところ聞くと、先輩たちが教えてくれるよ」


 勝也が付け足した。


「全部は無理だからね」

「分かるところだけで、十分助かってます」


 先輩たちが笑った。

 私はノートを出しかけ、時計を見てから、今日はしまい直した。

 帰ってから、勝也と漫画の話をする約束もあった。


 片づけが始まると、勝也は立ち上がった。

 大きな箱を持ち上げ、棚の近くまで運ぶ。

 先輩が置く場所を示すと、ぶつけないように腰を落とした。


 私が立とうとすると、詩織先輩が、鞄を見ていてくれる? と聞いた。

 私は頷き、2人の荷物のそばへ座っていた。


 勝也が戻ってくるまでの間に、紙袋を渡された。

 中には、芋けんぴを取り分けた袋がいくつか入っていた。口をそれぞれきちんと留めてあり、翔太くんの分も、別の袋にしてくれていた。


「おうちの人にも、よかったらどうぞ。食べきれなかったら、無理しないでね」

「……ありがとうございます」


 受け取ると、先輩が笑った。

 今度は近くから声を掛けられても、すぐに勝也を探さずに返事ができた。


 帰り際、襖のところで、詩織先輩が私へ手を振った。


「また来てね、優子ちゃん」

「……はい」


 勝也の隣へ並んでから、もう1度振り返った。

 先輩と目が合った。


 さっきの秘密を、わざわざ言い直すことはなかった。

 小さく頷いてくれたので、私も同じように頷いた。


 上履きへ履き替えると、勝也が紙袋を持ってくれた。

 空いた手を、私の前へ差し出す。


 私はその手を取った。

 部室の中から、またね、と声がした。


「……また、お邪魔します」


 小さくても、今度は最後まで言えた。


     * * *


 校門を出ると、風が制服の袖へ入ってきた。

 日傘を開き、勝也の歩く方へ少し傾けた。

 勝也が持っている紙袋が、歩くたびに小さく鳴った。


「本当に、たくさんもらっちゃったね」

「うん。優子のお母さんにも食べてもらおう。俺だけだと、しばらく毎日芋けんぴになりそう」

「……明日、翔太くんにも?」

「それは、別にしておくよ。渡さなかったら、ずっと言われるから」


 勝也が紙袋を見た。

 私も中を覗きたくなったけれど、歩きながらだと日傘がぶつかりそうで、顔を戻した。


「部活、楽しかった?」


 聞くと、勝也が頷いた。


「うん。久しぶりに、いつもの感じだった」


 その返事を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。

 私が隣にいても、いつもの場所で、いつものことをできた。


「優子も、また来られそう?」

「……うん。先輩たち、優しかった」

「よかった」


 勝也が笑った。

 詩織先輩と何を話したのかは、聞かなかった。

 ほっとすると同時に、さっきの声を思い出した。


 応援したくなっちゃった。


 その言葉を、勝也の隣で思い返すのは恥ずかしかった。

 私は日傘の持ち手を直した。


「……朝の、漫画の話」


 違うことを言うつもりで口を開いたのに、勝也の顔がすぐにこちらを向いた。


「うん。聞きたかった。4巻まで、どうだった?」

「続きが気になって、閉じるところが、あんまりなくて」

「そうなんだよね。ここまでにしようって思っても、そのあとが気になるんだよ」


 さっきまでより、返事が速かった。


「私は、月が何を考えてるのか分かるのに、次に何をするのかは、分からない時があった」

「うんうん」

「Lも、どこまで分かってるんだろうって。分かって言ってるのか、確かめるために言ってるのか」

「そこが面白いんだよ。相手がそう考えるだろう、ってところまで考えてるから」


 勝也が、空いている指を少し動かした。

 頭の中で、もうページをめくっているようだった。


「勝也は、どっちを応援してるの?」


 聞くと、勝也はほとんど迷わなかった。


「俺は、月かな」


 顔を見た。

 勝也が、少し笑った。


「意外?」

「……少し。Lかなって思ってた」

「Lも好きだよ。でも、俺が今まで読んできた漫画って、主人公が悪い奴を倒す側のことが多かったから」


 信号の手前で立ち止まった。

 勝也も止まり、私たちの前を車が通り過ぎるのを待った。


「この話だと、追われる方が主人公じゃん。しかも、月が何考えてるか、読んでるこっちには分かる。だから、Lが近づいてくると、見つかるぞって思っちゃうんだよね」

「月がしてること、分かってても?」

「うん。そこが、初めて読んだ時、変な感じだった。悪役の方を、逃げろって思いながら読んでるんだ、俺って」


 歩行者の信号が変わった。

 勝也が車の方を確かめてから、歩き始めた。


「何でも月が正しいって思ってるわけじゃないよ。でも、どうやって切り抜けるんだろうって、そっちが気になる」


 私も、思い当たるところがあった。

 捕まれば、名前を書かれる人はいなくなる。

 それなのに、ノートを見つけられそうになると、次のページを急いでめくっていた。


「……私も、隠してあるノートが見つかるかもしれないところ、どきどきした」

「そう、それ。見つかった方がいいはずなのにね」


 勝也が頷いた。


「引き出しの仕掛けも、そこまでやるんだって思った」

「あれ、俺だったら、普通に開ける時に失敗しそう」


 私が言うと、勝也はすぐに続けた。


「宿題やろうとして、うっかりとか」


 想像して、笑ってしまった。


「……それは、真似しないでね」

「しないよ。漫画もゲームも同じ部屋にあるんだから」

「そこなの?」

「そこも大事」


 勝也が真面目に頷いた。

 その顔がおかしくて、また笑った。


 家までの道で、勝也は何度か、次に話したいことを思いついた顔をした。

 でも、私が前の話の続きを言うと、そちらを聞いた。

 私も、歩きながら全部を話し切りたいとは思わなかった。


 まだ、帰ってからも一緒にいられる。

 そのことが、嬉しかった。


     * * *


「ただいま」


 玄関を開けると、お母さんが奥から顔を出した。

 勝也も隣で、お邪魔します、と頭を下げた。


「おかえり。部活、どうだった?」


 靴を脱ぐ前に聞かれ、私は勝也と顔を見合わせた。

 勝也が紙袋を少し持ち上げた。


「いっぱい、もらっちゃいました」

「あら」


 お母さんが中を見て、笑った。


「本当に、いっぱいね」

「俺が行ってなかった間、減らなかったみたいで」

「勝也、お茶もたくさん飲んでた」


 私が付け足すと、お母さんが勝也を見た。


「じゃあ、お茶をいれるのは、少しあとにしましょうか」

「……できれば、そうしてもらえると」


 勝也の返事が、部室の時と同じくらい真剣だった。

 お母さんも笑った。


 鞄を置いて手を洗い、居間へ戻った。

 お母さんへ、林間学校のしおりも渡した。


「来週の水曜日からなんだって。今日、詳しく説明があったの」

「そう。あとで一緒に見ましょうね」


 お母さんは表紙の日付を確かめ、食卓の端へ置いた。

 私がつけた丸のことも、あとで聞いてくれると言った。


 勝也が紙袋から1袋を取り出した。

 残りはお母さんへ渡し、これは翔太の分で、と1つだけ分けておいた。


「今から、また食べるの?」


 聞くと、勝也は袋を見た。


「少しだけ」


 さっきも聞いたような返事だった。

 私は笑いながら、小さな皿を取ってきた。


 居間のテーブルへ並べ、2人でソファへ座った。

 私は居間の本棚へ置いていた漫画を持ってきた。

 前に借りた1巻と2巻、それから昨日読み終えた3巻と4巻。勝也が受け取り、テーブルへ順番に並べてくれた。


 4冊並ぶと、話したかったところを見つけやすくなった。


「どこから話す?」


 勝也が聞いた。

 私は1巻へ手を置いた。


「最初からでも、いい?」

「もちろん」


 勝也が嬉しそうに頷いた。


「初めて名前を書くところ、月も、最初から全部信じてるわけじゃないんだね」

「そうそう。最初は疑ってるんだよ。だから、確かめようとする」

「でも、確かめられた時には、もう……」


 言いかけて、ページへ目を落とした。

 勝也も、うん、と頷いた。


「普通のノートだと思ってる間は、ふざけて書けちゃうもんね。でも、本物だって分かったら、書いたことも本当になっちゃう」


 絵の中の月を見た。

 後の方の、落ち着いた顔とは違っていた。


「最初の頃の顔、読み終わってから戻ると、違って見える」

「分かる。まだ慣れてない顔してるよね」


 勝也が1巻の少し先を開いた。


「このあと、Lが出てくるでしょ。俺、あそこもすごく好きなんだよ」


 指の止まった先を、私も覗き込んだ。


「テレビのところ?」

「そう。リンド・L・テイラー」


 勝也がすぐに頷いた。


「俺、初めて読んだ時、ここで本当にLが出てくるんだと思った」

「私も。顔を隠してたのに、もう出るんだって」

「で、月、そこで名前書いちゃうじゃん」


 勝也が、困ったように笑った。


「書かなかったらよかったのに、って毎回思うんだよね」

「……挑発に、乗らなかったら?」

「うん。少なくとも、あの時、関東にいるって絞られなかったじゃん。まだ、すごく広いところから探さなきゃいけなかったはずなのに」


 私もページを見た。

 世界中に流れているものだと思っていた放送が、実際には違っていた。

 そこが分かった時、前のページまで見直してしまった。


「何もしなければ、分からないことがあったんだね」

「そう。黙ってテレビ消せばよかったのにって、月の方を応援してると思う」

「でも、黙っていられないって、Lが考えたんだよね」


 勝也が私を見た。


「そこなんだよ。あれ、ただ運よく当たっただけじゃないんだよね。月が怒って動くような言い方してるから」

「月、すごく落ち着いて見える時があるけど、自分を否定されると、違う顔になる」

「うん。頭はいいのに、負けたくない気持ちもすごい。俺、その両方があるのが好きなんだと思う」


 勝也が、ページの端を指で軽く叩いた。


「何をされても平気で、全部最初から分かってた、っていう人だったら、ここでこんなに慌てないし」


 私は頷いた。

 月の表情が変わったところを、もう1度見た。


「Lは、顔も本当の名前も見せてないのに、月のことを少しずつ知っていくんだね」

「そう。月はノートのことを知ってて、Lは知らない。なのに、知らない方が追いついてくるから怖い」


 勝也はページを見たまま、続けた。


「アニメで見た時も、ここ、どきどきしたなあ」

「先のこと、知ってても?」

「うん。声とか音がつくと、漫画で読んでた時とは違う感じがして。次に何を言うか分かってるのに、返事を待っちゃうんだよ」


 私は、開いたページを見た。

 漫画なら、相手の返事はすぐ隣にあった。気になれば、先に目を移すこともできる。


「……声が聞こえるまで、待つんだね」

「そう。その間に、今、何考えてるんだろうって、顔も見ちゃうし」


 勝也が笑った。


「それで、知ってるのにまた緊張してるんだから、俺、何回でも楽しめるんだと思う」


 私も少し笑った。

 同じ話でも、勝也には、もう1つ好きな見方があるらしかった。


 勝也は私の前へ漫画を少し寄せた。


「優子、こういう駆け引きのところ、好き?」

「うん。後から意味が分かって、前のところを読み直したくなるのが、面白い」

「分かる。俺も、ここで言ってたの、それかってなるの好き」


 同じところを好きだと言ってもらえて、嬉しかった。

 私は2巻へ手を伸ばした。


「……それなら、この人のところも、すごかった」


 南空ナオミが出てくるページを探すと、勝也がすぐに身を寄せた。


「ああ。そこは、俺もすごく好き」


 声が弾んだ。

 その横顔を見てから、私はページを開いた。


「私、この人、月より先にLに会えるのかなって思ってた」


 言うと、勝也が頷いた。


「会えたら、すごい情報になってたよね。月からすると、そこで会っちゃったのが、ものすごく大きい」

「ナオミさんからすると……」

「うん。会う相手が、月じゃなければって思う」


 勝也は、声を少し落とした。

 月を応援していても、誰がいなくなっても平気、というわけではなかった。


「でも、この人、ちゃんと偽名を使ってたんだね」

「そう。月が書いても何も起こらなくて、そこで、あれってなる」


 勝也が、自分の膝へ置いていた手を少し動かした。

 鉛筆を持っているような指の形になっていた。


「こっちは、名前を聞いたから月が何とかするんだろうって思ってるじゃん。それで安心しかけたところで、名前が違う」

「月の方を応援してると、安心するんだ」

「うん。そこは、俺はね」


 私が見ると、勝也が少し笑った。


「でも、ナオミさんのことを考えると、安心できない。読んでる時、どっちの方へ気持ちが向いてるかで、同じところでも違うんだと思う」


 私はその言葉を考えながら、ページを見直した。

 初めて読んだ時、偽名だと分かったところで、少しほっとしたのを覚えていた。

 そのあと、月が何を言うのかが気になって、すぐ先を読んでしまったことも。


「月は、偽名だって分かってから、また聞かなきゃいけないんだよね」

「そう。それがすごいんだよ。最初から本当の名前を言わないようにしてる相手に、もう1回聞くんだから」


 勝也が2巻を少し持ち上げた。

 読んでほしいというより、同じところを見て話したいようだった。


「普通に、本名は何ですかって聞いたら、怪しいじゃん。しかも、急いで聞かないと、捜査の方へ行かれちゃう」

「……焦ってるのに、顔では隠してる」

「うん。それで、相手の話を聞きながら、どう言えば信じてもらえるか、その場で考えてるんだよ」


 勝也の声が、また少し速くなった。


「お父さんの立場とか、自分が本当のことを知ってる部分とか、全部使ってる。全部でたらめを並べるんじゃなくて、本当にあることに嘘を混ぜてるから」

「聞いてる人には、どこから違うのか分からないね」

「そう。しかも、相手が今、何をしたいかも見てるじゃん。そこへ話を持っていくの、頭の回転、速すぎる」


 私は頷いた。

 読み終えたあとでも、その場で同じことを思いつけるとは思わなかった。


「私は、名前を間違えたって分かった時に、そこで止まっちゃうと思う」

「俺も。絶対、顔に出る」


 勝也が、目を大きく開いた。

 口を少し開けたまま、私を見る。


「……今、何も起きてないんだけど」


 月なら口に出さないことを、勝也が小声で言った。

 真剣な場面を思い浮かべていたのに、笑ってしまった。


「それ、言っちゃ駄目だよ」

「分かってるけど、顔はたぶん、こうなる」

「すぐ、分かっちゃう」

「うん。俺、月みたいにはできないと思う」


 勝也は自分でも笑い、元の顔へ戻った。


「月って、頭の中ではめちゃくちゃ考えてるのに、相手には、ちゃんと話聞いてますって顔するんだよね」

「それが、少し怖かった」

「うん。でも、そこが読んでて面白い。自分にはできないから、どうやってしゃべるんだろうって見ちゃう」


 勝也の言う、好き、が少し分かった。

 同じことをしたい、という意味ではなかった。

 自分と違う人の考え方を、最後まで見ていたい、という好きもあるのだと思った。


 私がページを戻すと、勝也も目で追った。


「ナオミさんも、頭いいよね。最初は、月の言うこと、そのまま信じないし」

「うん。相手が何も考えずに教えちゃう人だったら、ここまでどきどきしないと思う」

「だから、本当の名前を話した時……あ、ってなった」


 続きを言わずに、紙へ指を置いた。

 勝也は、分かる、と頷いた。


「俺、そこ、初めて読んだ時、急いで次めくっちゃった。月が切り抜けたっていうのと、もう戻らないんだっていうのが、一緒に来るんだよね」


 少しの間、2人で同じページを見た。

 台所から、お母さんが水を出す音がした。


 勝也は、話が暗くなったからといって、急に違うことを言わなかった。

 私がもう1度ページを見てから閉じるまで、待っていてくれた。


「……レイ・ペンバーのところも、読むの、少し戻った」


 私から言うと、勝也がすぐに頷いた。


「バスのところから?」

「うん。先に名前を知っておくためのことだったんだって、後から分かったから」

「あそこも、行動の順番がすごいよね。突然、都合よく知ったんじゃなくて、自分でそうなるようにしてる」


 勝也は、全部を説明し直すのではなく、私が戻って読んだところを聞いた。

 私も、どこで分からなくなって、どこでつながったのかを話した。


 漫画を読む時に、そんなふうに話したことは、あまりなかった。

 分からなかった、と言っても、勝也は、俺も最初、そこ読み直した、と笑った。


「一回で全部分かんなくても、面白いよね」


 勝也が言った。


「うん。読み直すと、さっき見てなかったところも見える」

「それで、また次を読みたくなるんだよね」


 昨日、一緒に読んだ別の漫画のことを思い出した。

 笑う話でも、怖い話でも、勝也は、同じ本を何度も開く。

 その理由を、また少し分かった気がした。


     * * *


「あと、部屋に誰か入ったって分かるところ」


 私が3巻へ手を伸ばすと、勝也は、ああ、と楽しそうに言った。


「ドアのやつね」

「あんなに、いろいろしてあるんだね」


 紙をめくり、確かめながら話した。

 目につく仕掛けが、そのまま全部ではなかった。

 誰かが元へ戻したつもりでも、別のところで分かるようにしてあった。


「シャーペンの芯まで、挟んであるんだね」

「うん。あれ、最初見た時、そんなとこまで気にするのって思った」

「ドアノブも、いつもの状態と違うって分かるんだよね」

「自分の部屋なのに、入る前から見てるんだもんね。俺、帰ってきたら、普通に開けちゃうよ」


 勝也が、自分の部屋のドアを開けるように、手首を動かした。

 何も確かめずに入る動きだった。


「……勝也も、そういうの、してるの?」


 聞いた途端に、勝也の手が止まった。


「今は、してないよ」


 私は勝也を見た。

 勝也も私を見た。


「……今は?」


 聞き返すと、勝也が笑い始めた。


「そこ、拾うんだ」

「だって、そう言ったから」

「うん。やったことは、ある」


 私は、思わず少し身を寄せた。


「本当に?」

「あるよ。俺だけじゃなくて、春樹と翔太も」


 3人の顔が浮かんだ。

 誰がいちばん張り切っていそうか、想像できてしまった。


「翔太くん、すごく、いろいろしそう」

「そう。しかも、やったっていうことを、先に言うんだよ」


 勝也が、少し胸を張った。

 声まで、翔太くんを真似た調子になった。


「俺の部屋、勝手に入ったら分かるようになってるからな」


 笑ってしまった。


「……秘密に、しないんだ」

「そう。それで、自分が仕掛けたの忘れて、普通に開けて、紙落とした」

「自分で?」

「自分で。次の日、誰も入ってないのに反応したって言うから、最後に入ったの誰って聞いたら、俺って」


 勝也が、短く間を置いた。


「それ、翔太を見つけてるよねって、春樹が」


 私は口元へ手を当てた。

 勝也も笑っていた。


「ちゃんと、分かったんだね」

「うん。自分が部屋に入ったことは、ちゃんと分かった」


 翔太くんなら、できたからいいだろ、と言いそうだった。

 そう言うと、勝也がすぐに頷いた。


「言ってた。まさにそれ」


 私は、もっと笑ってしまった。

 学校で聞く大きな声と同じ調子で、頭の中に浮かんだ。


「春樹くんは?」

「春樹は、紙だけ。置いた場所もちゃんと覚えてて、そこまではよかったんだけど」


 勝也が、紙をつまむように指を動かした。


「自分で、これ、入ったことが分かっても、誰が入ったかは分かんないよねって言い出して」

「……そうだね」

「それで、誰も入る予定ないなら、今やっても意味なくないって」


 私は勝也を見た。


「自分で、やめたの?」

「うん。いちばん早く飽きた」


 それも、春樹くんらしい気がした。

 同じものを読んで、同じことをしてみても、そのあとの話は違っていた。


「勝也は?」


 聞くと、勝也は少しだけ目をそらした。

 笑うのをこらえている顔だった。


「俺は、紙を挟んだの、お母さんに見つかった」

「怒られた?」

「ううん。廊下に落ちてたよって、机の上に置かれてた」


 少し考えてから、意味が分かった。


「……入ってる」

「うん。めちゃくちゃ分かりやすかった」


 勝也が頷いた。


「掃除するから入ったんだけど、何か大事な紙だったの、って」

「何て言ったの?」

「ただの紙だよって。そしたら、落とさないようにしなさいって」


 今度は、こらえられずに声が出た。

 勝也も笑いながら、自分の膝へ手を置いた。


「月みたいには、ならなかった」

「……おばさんは、隠すつもりもないもんね」

「そう。最初から普通に、入ったよって教えてくれた」


 勝也のお母さんが、いつもの調子で紙を置くところを想像した。

 月の部屋で起きていることとは、全然違っていた。


「芯は、やらなかったの?」

「そこまでやる前に、もういいかなって。紙だけでも、帰ってくるたびに気にするの、結構面倒で」


 勝也が漫画へ目を戻した。


「だから、あれをずっとやってる月はすごい。自分がやってみたせいで、余計に思った」


 私は頷いた。


「真似してみて、難しいって分かったんだ」

「うん。俺ら3人とも、Lが来る前に終わった」


 その言い方に、また笑った。


 笑いながら、3巻を少し先へめくった。

 監視されていることを知った月が、普段の暮らしを見せようとするところだった。


「ここ、気づいてるって、気づかれちゃいけないんだよね」

「そう。変なことをしなくなるだけでも、普段と違って見えるかもしれないから」


 勝也が指で、月の部屋を示した。

 私は、その近くの絵を見て、少し手を止めた。


 大人向けの本を読んでいる場面だった。


 月がそうする理由は、読んだ時に分かった。

 でも、今、隣に勝也がいると、別のことが気になった。


「……勝也」

「うん?」


 私は本を指さすか迷って、結局、開いたまま膝へ下ろした。


「勝也も、こういう本……持ってるの?」


 勝也の指が止まった。

 それから、こちらを向いた。


「持ってないよ」


 返事が、さっきまでより早かった。


「……そうなんだ」

「うん。ないない。全然、持ってない」


 勝也が右の耳の後ろを、指で軽くこすった。

 そのあと、目を合わせて、必要以上に大きく頷いた。


 見覚えのある順番だった。


 小さい頃、何かを内緒にしている時の勝也は、すぐに目をそらすわけではなかった。

 大丈夫だよ、何もないよ、と先に言う。

 それから、耳の後ろへ手をやって、ちゃんとこちらを見直す。


 その仕草だけが、今も同じだった。


 持ってるんだ……。


 口には出さなかった。

 漫画へ目を落とし、もう1度だけ、小さく頷いた。


「……うん」


 勝也が、少し息を吐いた。

 信じてもらえたと思ったらしかった。


 私はページの端へ指を添えた。

 勝也も、そういう本を持っている。

 それを知っただけで、少し落ち着かない気持ちになった。


 どこに置いているの、とも、どんな本なの、とも、聞けなかった。

 聞きたいかどうかも、よく分からなかった。


 ただ、昔と同じ仕草を見つけたことだけが、少しおかしかった。


「優子?」


 勝也が呼んだ。

 私は顔を上げ、首を振った。


「……何でもない」


 勝也は、うん、と返した。

 まだ、ばれていないと思っていた。


「でも、月は、その本を読んでるところまで、見せ方を考えてるんだよね」


 私から漫画の話へ戻した。

 勝也は、そうそう、とすぐに頷いた。


「知られたくないものが別にあるって思わせたいんだよね。ノートがあるなんて、考えさせたくないから」

「普通に暮らしてるところを、作らなきゃいけないんだね」

「うん。俺だったら、カメラがある方、絶対見ちゃう」


 勝也が、部屋の隅へちらっと目をやった。

 その動きがあまりに分かりやすかったので、私は笑った。


「今みたいに?」

「今みたいに。何もないふりしてるつもりで、何回も見そう」


 さっきの返事を思い出した。

 持ってないよ、と言った声も、普段どおりにしているつもりだったのかもしれなかった。


 私は、そこは言わずに笑った。


「勝也は、月みたいに隠すの、難しいかもね」

「だよね。分かる気がする」


 勝也が素直に頷いた。

 その顔を見ると、からかう気にはなれなかった。


 私だけが分かったことを、今はそのまま持っていようと思った。


     * * *


「監視カメラのところなら、ここも好き。ポテチのところ」


 勝也がページを示した。

 私は、袋を持つ月の絵へ目を移した。


「ここも、アニメで見たの?」

「うん。勉強しながらお菓子を食べてるところを、こんなに大げさに見せるんだって、びっくりした」

「大げさなの?」

「俺は、そう感じた。動きとか音楽とか。月は真剣なんだけど、見てると、ちょっと笑っちゃうんだよね」


 勝也は、思い出したように口元を緩めた。

 私は絵を見直したけれど、まだ、うまく想像できなかった。


「……ここ、読んだ時は、見つからないのかなって思ってた」

「それもあるよ。同じことをしてるのに、見せ方でこんなに違うんだなって。漫画の方も好きだけど、アニメで見るのも楽しい」


 勝也が芋けんぴの袋へ手を伸ばした。

 1本取り、口へ入れる。

 食べ終えるのを待ってから、私は聞いた。


「音楽も、よく覚えてるの?」

「どこで流れてたか、思い出すのはあるよ。聞くと、あの場面だってなる」

「漫画だと、音楽はないもんね」

「うん。だから、漫画では自分の速さで読み返して、アニメでは声とか音も一緒に楽しんでる感じかな」


 勝也の手が、また袋へ伸びた。

 袋の中身は、話し始める前より少なくなっていた。


「……勝也」

「うん?」

「さっき、少しだけって言ってたよ」


 勝也が手を止めた。

 袋の中を見てから、私を見る。


「話してたら、食べちゃってた」

「お腹、いっぱいだったんじゃないの?」

「そのはずなんだけど」


 真面目に袋を見つめるので、笑ってしまった。

 台所から、お母さんも顔を出した。


「おいしくても、晩ご飯の分は空けておいてね」

「はい。いったん、しまいます」


 勝也が袋の口を折った。

 今度は、手を伸ばしてもすぐには取れない場所へ置いた。


「茶道部で言われてたの、これかもしれない」


 小さく言うので、また笑ってしまった。

 好きなところを話していると、お菓子が減っていることにも気づかないらしかった。


 私は漫画へ目を戻した。


「ここは、袋の中の小さい画面を見て、犯罪者の名前を書いてるんだよね。外からは、普通に勉強してるように見せながら」


 私が聞くと、勝也も頷いた。


「うん。しかも、自分がその時には知れないはずのことを、知ってるってばれたら困る。だから、何を、いつ、どう見せるかが大事になってる」

「お父さんも見てるから、家の中でのいつもの月を知ってる人がいるんだね」

「そうなんだよ。適当に真面目なふりするだけじゃ、違うって思われるかもしれない」


 勝也が閉じた袋へ目をやった。


「俺は、お菓子を食べてるだけでも、すぐ分かるけどね」

「……さっきは、何回も手が伸びてたよ」

「うん。まず、袋から離れた方がいいんだと思う」


 また笑った。

 勝也と話していると、漫画の中で緊張したところも、ゆっくり開いて見直せた。


 アニメでは、どんなふうに見えるのだろう。

 勝也が話してくれた音楽も、少し気になっていた。


     * * *


「Lが、月のすぐ近くへ来るところも、びっくりした」


 私が言うと、勝也は3巻を持ち上げた。


「大学のところ?」

「うん。遠くからずっと調べるのかと思ってたから」

「普通、名前を知られたら危ない相手に、自分から会いに来るって思わないよね」


 勝也がページを探した。

 私は、その指が止まるのを待った。


「月も、言われた瞬間、すごく考えてるね」

「あそこ、いろんな可能性が一気に来るんだよ。目の前にいるのが本当にLなのかも、名前も、そのまま信じていいわけじゃないし」

「近くに来たら、月の方が有利になるのかと思った」

「でも、逆に、簡単に動けなくなるんだよね」


 勝也が、なるほどなあ、という顔をした。

 もう読んで知っているはずなのに、今もその場で感心しているようだった。


「月を応援してると、嫌なことしてくるなって思う。でも、Lの方から見ると、よくそこまで考えるなってなる」

「勝也、ずっと、両方の方へ行ってるね」

「うん。結局、両方の考えてることが面白いんだよね。でも、追い詰められてる時は、月、何とかしろって思う」


 勝也が笑った。

 私も、少し笑った。


「……テニスしてる時まで、考えてたね」

「そう。普通にテニスしろよって思う」


 勝也は、言ったそばから首を振った。


「いや、普通にやったら、それはそれでLが何か考えるから、普通にやるのも難しいのか」

「勝っても、負けても、意味を考えられちゃう」

「俺、途中で何を考えてるか忘れて、球追っちゃいそう」


 昨日の体育の勝也を思い出した。

 できないと言っていたことと、実際に動いた姿が、あまりに違っていた。


「勝也なら、普通に勝とうとしそう」

「うん。わざと負けるの、難しそうだし」

「それで、あとから、こういう性格だって言われるんだね」


 私が言うと、勝也がこちらを見た。

 少し考えてから、笑った。


「それは、嫌だなあ。負けた方がよかったの、ってなる」


 私は膝の上で手を重ねた。

 勝也とこんなに長く、同じ漫画の人たちの話をしていた。

 どちらが正解なのかを決めるためではなく、同じ場面から違うことを考えたのを話していた。


「Lの座り方も、変わってるよね」


 少し先の絵を見て言うと、勝也がすぐに膝を上げかけた。


「こういう」


 そこで止めた。

 私の膝にぶつかりそうだったからだった。


「……ここでは、狭いね」

「うん」


 私は笑った。

 勝也は足を下ろし、漫画の中のLへ目を戻した。


「声がつくと、月とはまた違う感じがするんだよ。こういうところも、見比べるの好きなんだ」

「読んでる時に、声、思い出す?」

「うん。アニメを見てから読み返すと、聞いた声で読んでる時がある」


 私は、絵の中のLを見た。

 自分が読んでいる時に思い浮かべた声とは、違うのだろうか。


「……勝也、楽しそう」

「楽しいよ。優子はここ、どう思ったんだろうって聞けるのも」


 その言葉が、嬉しかった。


「私も。1人で読んでた時は、こんなに話すこと、あると思わなかった」

「話してるうちに、次のところも思い出すんだよね」


 勝也が4巻へ目を向けた。

 私も頷いて、手を伸ばした。

 まだ、4巻の話もしたかった。


     * * *


 4巻を開くと、勝也は、どこまでなら話していいかを確かめるように、最後の方を一瞬見た。

 すぐに戻したので、私もその動きを見た。


「続き、言いそうになった?」

「ちょっと。ここ、話し始めると先のことまで行きそうで」

「……言わないでね」

「うん。4巻まで」


 勝也が、指を4本立てた。

 私は笑って頷いた。


「第2のキラが出てきてから、月が考えなきゃいけないこと、増えたね」

「そう。Lだけ見てればいいわけじゃなくなるんだよね。味方になりそうな人が来たのに、それで全部楽になるわけじゃない」

「同じことができる人がいても、同じ考えとは限らないから?」

「うん。月が隠しておきたいことでも、相手は別にそこまで気にしてなかったりするし」


 私は、初めてメッセージが出てきた時のことを話した。

 月がしたことではないと分かると、それまでの読み方が少し変わった。

 同じキラという呼び方でも、話している相手が違う。


「リュークが知らないことも、あるんだね」

「あるね。全部を親切に教えてくれる説明係じゃないんだよ」


 勝也が、好きなところだという顔で笑った。


「リュークって、月を絶対に助けるために来てるわけじゃないじゃん。面白がってるところがあるから」

「私は、最初、もっと怖いだけの人かと思った」

「見た目、すごいもんね」

「でも、リンゴのことで、急に……」


 言いかけると、勝也が笑った。


「すごく分かりやすくなる」


 私は頷いた。


「月やLは、何を考えてるか分からない時があるけど、リンゴが欲しいんだなっていうのは、分かる」

「うん。そこは、翔太がお菓子見てる時くらい分かりやすい」


 思わず笑った。


「……翔太くんに言ったら、怒るよ」

「たぶん、リンゴよりカレーがいいって言う」


 昼間の班の話し合いを思い出した。

 私は、そうかもしれない、と笑った。


 勝也が、死神の目の取引の話へ移った。

 何を知れるようになるのかと、その代わりに何を渡すのか。

 私は読んだ時に、残りの寿命の半分、というところへ指を止めたことを話した。


「半分って、すごく大きいよね」

「うん。月が簡単に決めないのも分かる。便利だから、すぐもらおう、とは思えない」

「名前が分かれば、今まで困ってたことが、いくつもなくなるのに」

「そうなんだよね。だから、欲しい力なのは分かる。でも、代わりに払うものが重すぎる」


 勝也は少し黙り、開いたページへ目を落とした。


「何でも分かるようになるわけでもないしね。相手が何考えてるかとか、どこにいるかとか、別のことは残る」


 私は、そっか、と頷いた。

 便利なものがあれば全部解決するわけではないから、また次のことを考えなければならなかった。


「海砂が出てきたら、それを持ってる人と、持ってない月が一緒になるんだね」

「そう。月からしたら、すごく欲しい情報を持ってる相手。でも、海砂は海砂で、自分がしたいことがある」


 4巻の海砂の顔を見た。

 好きだと、はっきり言う。

 会いたいから、会いに行く。


 していることには怖いところもあったし、同じようになりたいわけではなかった。

 それでも、気持ちを隠さず伝えられるところは、目が離せなかった。


「……海砂って、まっすぐ言うね」


 小さく言うと、勝也が絵を見た。


「好きってこと?」


 頷いた。


「あれだけ、はっきり言われたら、分かるよね」

「うん。月も、そこは分かってると思う」


 勝也が答えた。

 私は、もう少し聞きたくなった。


「……勝也だったら、びっくりする?」

「あんなにはっきり言われたら? すると思う」


 勝也は少し考えた。


「たぶん、返事するまで、固まる」


 昨日、マットの上で動かなかった勝也を思い出した。

 けれど、今は、その冗談を口にできなかった。


「嫌、ではない?」


 聞いてから、指先が熱くなった。

 勝也は漫画を見たまま、首を振った。


「好きって思ってくれるのは、嬉しいんじゃないかな。自分が同じように思ってるかどうかは、別にちゃんと考えるけど」


 私はその返事を、ゆっくり聞いた。


「月みたいに、別の目的で付き合うっていうのは、俺にはできないと思う」


「……うん」


 私は頷いた。

 勝也は私の方へ、4巻を少し向けた。


「海砂の方は本気だから、そこ、同じじゃないのが分かると、読んでて複雑だよね」

「うん。月が何を考えてるか、こっちには分かるから」


 勝也が頷いた。

 私は絵の中の2人を見た。


 勝也へ好きだと言ったら、勝也は考えてくれる。

 そんなことを、今の返事から想像してしまった。

 嬉しいと言ってもらえることと、同じように好きになってもらえることは、違う。


 まだ、実際に聞く勇気はなかった。


 詩織先輩へは、小さな声で言えた。

 本人の隣では、漫画の話に隠して聞くだけで、精いっぱいだった。


「レムは、リュークとは違う感じがする」


 私が別の登場人物へ話を移すと、勝也はすぐに乗ってきた。


「うん。誰のことを大事にしてるかが、すごくはっきりしてるよね。同じ死神でも、全然違う」

「月は、人だけじゃなくて、そういう違いも考えなきゃいけないんだね」

「だから、どんどん大変になってくる。俺、読んでて、もう少し簡単にならないのって思うんだけど、簡単になったら面白くないんだよね」


 勝也が笑った。

 私も、今度は自然に笑えた。


「勝也、月を応援してるのに、困るのも見たいんだね」


 勝也は、言われて初めて気づいたように目を丸くした。


「……本当だね」


 少し黙ったあとで、頷いた。


「困って、そこから何とかするのが見たいのかもしれない」

「Lが、何も気づかなかったら?」

「それは、困る。Lにはちゃんと気づいてほしい」

「でも、気づかれたら、月、逃げてって思うんでしょ?」


 勝也が笑い始めた。


「俺、読んでて、すごく勝手なこと思ってるね」


 私も笑った。

 勝也が好きだと言っていた理由は、最初に聞いた時より、ずっと分かるようになっていた。


 月の味方だから、Lを嫌いなわけではない。

 どちらかだけが簡単に勝ってしまったら、続きをこんなに話したくはならない。


 それを勝也へ言うと、そうそう、と何度も頷いた。


「まさに、それが言いたかった」


 嬉しくて、私は4巻の表紙へ指を置いた。

 読み終えた時には、まだ誰にも言葉にしていなかったことを、勝也と一緒に少しずつ言えた。


     * * *


 勝也が4巻を閉じた。

 表紙を上にして、ほかの3冊へ重ねる。

 その手を見ながら、私は口を開いた。


「……アニメも、見てみたい」


 勝也がこちらを向いた。


「本当?」


 頷いた。


「声とか音楽で違って見えるって、どんな感じなのかなって。月とLが話してるところも、見てみたい」


 重なった4冊へ目を落とした。

 どの場面のことを話しているのかは、分かっていた。

 でも、勝也がアニメを思い出して楽しそうに話す時、私にはまだ想像できないところがあった。


「……見たら、また、今日みたいに話せる?」


 顔を上げると、勝也が嬉しそうに頷いた。


「もちろん。優子が見てどう思うか、俺も聞きたい」


 私は少し笑った。

 見終わったあとで勝也と話せることまで、楽しみになった。


「DVD、家にあるから、持ってこようか?」


 勝也が言った。

 昨日、漫画を貸してくれた時と同じくらい、何でもないことのように。


「最初の方なら、すぐ用意できるよ。ここで一緒に見てもいいし」

「……一緒に?」

「うん。今日みたいに、ここ好きだったって話せるから」


 頷きかけて、止まった。

 ここへ持ってきてもらえば、お母さんもいるし、いつもの場所で見られる。

 勝也は、そのつもりで言ってくれたのだと思う。


 でも、さっきから、別のことも考えていた。

 勝也の好きな漫画が並んだ本棚。

 学校から帰って、1人でゲームをしたり、DVDを見たりする場所。


「……あのね」

「うん?」


 勝也が待ってくれた。

 私は膝の上で指を重ねた。


「勝也の、お部屋に……行ってみたい」


 言ったあとで、顔が熱くなった。

 DVDを借りたいだけなら、こんなふうに頼む必要はなかった。

 それでも、言い直したくはなかった。


 勝也は私を見てから、笑った。


「うん。いいよ。じゃあ、うちで見よう」

「……いいの?」

「もちろん。土曜日、来る?」


 今度は頷いた。

 勝也が、楽しみだね、と言った。


「お母さんは仕事で、土曜日も遅くまで帰ってこないけど。俺はいるから」

「うん」


 台所へ顔を向けた。

 お母さんは、私たちの話を聞きながら、洗ったものを片づけていた。


「お母さん。土曜日、勝也のおうちで、アニメ、一緒に見たい」


 お母さんが振り向いた。

 私と勝也を見て、柔らかく笑った。


「いいわよ。遅くならないようにね」

「……うん」


 お母さんは笑ったまま、片づけの続きへ戻った。

 勝也と一緒に過ごしたいと言うだけで、分かってくれていた。

 私はもう1度勝也を見て、小さく笑った。


 土曜日。

 明後日だった。


 学校へ行くために朝、勝也の家へ寄るのとは違う。

 途中まで同じ道を歩くためでも、荷物を受け取るためでもない。

 一緒に好きなものを見るために、遊びに行く約束だった。


「最初から見る?」


 勝也が聞いた。


「うん。1話から、見たい」

「じゃあ、そうしよう。漫画と進み方が全く同じとは限らないから、先の話になる前に、ちゃんと止めるね」

「勝也、分かる?」

「たぶん。先にどこまでにするか、確認しておくよ」


 勝也が少し考えた。


「1日で全部見るんじゃなくて、ゆっくり見よう。途中で休憩して、しゃべりたくなると思うし」


 私は頷いた。

 急いで全部見てしまわなくていいことも、嬉しかった。


「DVD、いっぱい持ってるの?」

「出てる巻は、買ってる。アニメの方は、まだ最後まで全部発売されたわけじゃないけど、最初の方は揃ってるよ」


 勝也が、本棚の並びを思い出すように指を動かした。


「映画の方もある。前編と後編が入ってるセット」

「実写の?」

「うん。そっちも好きだから」


 私は少し驚いた。


「漫画と、アニメと、映画も?」

「うん」


 勝也が頷いた。

 当然だよ、というより、好きだからそうなった、という顔だった。


「同じお話でも、違うところがあるの?」

「あるよ。見せ方も違うし、映画は映画の流れがあるから」


 言いかけて、勝也が口を閉じた。

 私はその顔を見た。


「……今、また、言いそうになった?」

「なった。ここから先、言わない方がいいやつ」


 笑ってしまった。

 勝也も笑い、危なかった、と4冊へ手を置いた。


「映画は、漫画ももう少し読んでからの方がいいと思う。まず、土曜日はアニメにしよう」

「うん」


 決まったことが、1つ増えた。

 私は膝の上で指を重ね、少しだけ勝也の方へ寄った。


「……本棚も、見ていい?」


 昨日から思っていたことを、言ってみた。

 勝也はすぐに頷いた。


「もちろん。読んでみたいのがあったら、また貸すよ」

「ゲームも、どんなのがあるか、知りたい」

「じゃあ、それも見よう。優子ができそうなの、一緒に探せるし」


 明後日のことなのに、まだ先の楽しい予定みたいだった。

 来週のしおりには、心配なところへ丸をつけた。

 今は、聞いてみたいことが増えていた。


「お菓子、どうする?」


 勝也が、テーブルの芋けんぴを見た。

 私も見た。


「……これも、持っていこうか」

「うん。ポテチも買っとこうかな」


 私は袋と、勝也の顔を見比べた。


「まだ、増やすの?」

「今日じゃないよ。明後日の分」

「それは、分かってるけど」


 笑ってしまった。

 勝也も笑い、そうだね、と頷いた。


「じゃあ、ポテチは小さい袋にしよう。飲み物も用意しておくよ」

「うん」


 勝也が、少し考えてから言った。


「しゃべりすぎたら、止めてね」


 私は首を振った。


「……今日、楽しかったよ」


 勝也が、少しだけ黙った。

 それから、嬉しそうに笑った。


「俺も。優子とこんなに話せると思ってなかった」


 私は4冊の背表紙へ目を落とした。

 読み終えた本が、読み終えた時より大事になっていた。


 土曜日、勝也の部屋で同じ画面を見る。

 勝也がいつも好きなものを見ている場所へ、私も行ける。


 今日みたいに、隣で話せたらいいなと思った。

 私は重ねた指をほどき、もう1度、勝也の方を見た。


 明後日の約束ができていた。


     * * *


 4冊は、もう少し読み返したくて、そのまま借りていてもいいか聞いた。勝也は、もちろん、と頷いてくれた。

 漫画を本棚へ戻して時計を見ると、思っていたより針が進んでいた。

 勝也も気づき、少し驚いた顔をした。


「こんなに、しゃべってたんだ」

「……かなり、って言ってたね」

「言ったね。言ったとおりになった」


 2人で笑った。

 台所から、包丁がまな板へ当たる音が聞こえてきた。


 お母さんが夕ご飯の支度をしていた。

 勝也が今日も食べていくことは、玄関で話してあった。

 もう、勝也の分があるかどうかを、毎回心配しなくてよくなっていた。


 私は台所を見た。

 お母さんが野菜を切り、手元の器へ移した。

 コンロには鍋が載っていた。


 勝也が、小さく鼻を動かした。


「いい匂いする」


 何気ない声だった。

 私は勝也を見た。


「……さっき、お腹いっぱいって」

「だいぶ、落ち着いてきた」


 勝也が自分のお腹へ手を当てた。


「しゃべったからかな」

「お腹って、しゃべると空くの?」

「分かんない。でも、夕飯の匂いすると、食べたくなる」


 笑ってから、もう1度、台所を見た。


 いつか、勝也を支えてあげられるようになろうね。


 お母さんが言ってくれたことを、思い出した。

 昨日は、眠っている勝也の隣へ座っていた。

 今日は、勝也が好きなものの話を、一緒にできた。


 ほかにも、何かしてみたかった。


 私が用意したものを、勝也が食べるところを想像した。

 想像しただけで、胸が少し落ち着かなくなった。


「……お母さん」


 声を掛けると、お母さんが振り向いた。


「何?」

「夕ご飯の支度、私も、していい?」


 勝也が隣で顔を上げた。

 お母さんは、手に持っていた包丁を置いた。


「もちろん。手伝ってくれるの?」


 頷いた。

 それだけでは足りなくて、もう少し言った。


「……できるように、なりたい。作り方も、教えてほしい」


 お母さんが私を見た。

 すぐには理由を聞かなかった。


「うん。じゃあ、今日は一緒にやってみようか」


 私は立ち上がった。

 立ってから、勝也の手が自分の隣にないことへ気づいた。

 いつもなら、一緒に立ってもらうところだった。


 勝也も、こちらを見ていた。


「俺、ここにいるね」


 言ってくれたので、頷いた。

 でも、台所へ向かって2歩歩くと、もう1度振り返ってしまった。


 ソファの背の向こうでは、座った勝也の姿が、全部は見えなかった。

 お母さんが、食卓の椅子へ目をやった。


「勝也くん、よかったら、こっちで宿題する? 台所からも見えるから」

「はい。そうします」


 勝也が鞄から問題集を出した。

 食卓へ移り、私の方が見える席へ座る。


「これなら、見える?」


 私は台所の入口から確かめた。

 顔も、机へ置いた手も見えた。


「……うん」


 勝也が頷いて、筆箱を開いた。

 私が何度か見ても、そのたびに立ち上がったりはしなかった。

 そこにいると分かるように、一度だけ手を振ってくれた。


 お母さんが、私のエプロンを持ってきた。

 紐を結ぶ時に、髪を挟まないように手を添えてくれた。


「何から、やってみたい?」


 聞かれると、急に難しくなった。

 何かを作りたいと思ったのに、何をどうすればできるのかは、よく分からなかった。


「……簡単なものから」


 正直に言うと、お母さんが笑った。


「じゃあ、今日のポテトサラダ、一緒に作ろうか。じゃがいもをゆでて、潰して、味もつけてみよう」


 私は頷いた。

 流しの前へ立ち、もう1度、石鹸で手を洗った。


 水が指の間を流れた。

 顔を上げると、勝也が問題集を開いていた。


 少し離れていても、同じ部屋にいた。

 私は手を拭き、お母さんから野菜を受け取った。


     * * *


 お母さんが、じゃがいもを流しの横へ並べた。

 きゅうりと、にんじんもあった。


「このくらい使おうか。食べる人は、今日は4人ね」


 4人。

 勝也の分も、初めから入っていた。


 私はじゃがいもを1つ取り、水を流しながら洗った。

 丸いと思っていたのに、指でなぞると、へこんでいるところも出っ張っているところもあった。

 くぼみのそばをもう1度こすり、お母さんに見せた。


「うん。きれいになったね。皮は、これを使おう」


 皮むき器を渡された。

 お母さんが1つ目で持ち方を見せてくれたあと、私もやってみた。

 最初は、途中で引っかかった。

 少し向きを変えて動かすと、薄い皮が、短くつながって落ちた。


「……できた」

「そう。その調子で、少しずつ」


 お母さんは急がせなかった。

 むき残したところを一緒に確かめ、芽のあるところは、取り方を横で教えてくれた。

 皮のなくなったじゃがいもを、水の入ったボウルへ移した。


 勝也の方を見ると、問題集を開いていた。

 シャーペンを止め、消しゴムを探している。

 さっきまで、次々に漫画の好きなところを話していたのに、今は問題をじっと見ている。

 口元まで引き結んでいるのが、少しおかしくなった。


「どうしたの?」

「勝也、漫画の話してた時と、顔が違う」


 お母さんも食卓を見た。


「さっきは、楽しそうだったものね」

「今、俺の話してました?」


 勝也が顔を上げた。


「お勉強、頑張ってるねって」


 お母さんが言うと、勝也は、はい、と少し背筋を伸ばした。

 私は下を向いて笑った。


 じゃがいもを切る時には、お母さんがまな板の位置を直してくれた。

 まず半分にして、平らになった面を下へ向けた。


「同じくらいの大きさにすると、ゆで上がる時間もそろうの。今は、ゆっくりでいいからね」


 頷いて、包丁を下ろした。

 思っていたより、硬かった。

 最初のひと切れは大きくなって、隣へ並べると違いが分かった。


「こっちは、もう半分にしたらどうかな」


 言われたところを切り直した。

 小さくなったものを鍋へ入れ、水を注ぐ。

 お母さんに見てもらいながら火をつけると、青い炎が鍋の下へ広がった。


「これで、ゆでるの?」

「うん。沸いてきたら火を弱くしようね。その間に、ほかの野菜を切っておこうか」


 私は鍋と、まだ切っていない野菜を見比べた。

 ひとつのことが終わるまで待つのではなかった。

 待っている間にも、次にすることがあった。


「……よく、忘れないね」

「慣れてるだけよ。今日は、お母さんも一緒に見てるから」


 きゅうりを洗い、まな板へ置いた。

 反対の手の指を丸めて、少しずつ切った。

 最初は厚くなり、次は、薄くしようとして斜めになった。


「……そろわない」

「うん。でも、ちゃんと切れてるよ。同じくらいを目指してみようか」


 お母さんが1枚だけ切って、私の切ったものの隣へ置いた。

 その厚みを見てから、続きを切った。

 包丁の音は、1回ごとに途切れた。

 それでも、さっきまで1本だったものが、少しずつ小さくなっていった。


 お母さんが、小さな器を寄せた。

 切ったきゅうりを入れ、教わったとおりに塩を少し振って混ぜた。


「これは、このまま少し置いておこうね」

「先に、味をつけるんだ」

「水を出すためでもあるの。あとで、軽く絞ってから混ぜよう」


 にんじんは薄いいちょう切りにした。

 耐熱の器へ入れ、少し水を足して、ふんわりとラップをかけた。

 お母さんと電子レンジの時間を確かめてから、ボタンを押した。


 鍋の水が沸いてきた。

 呼ばれて火の前へ戻り、火を弱くした。


 切るだけでも時間が掛かるのに、別のところにも気を配らなければならなかった。

 お母さんは、その合間に主菜の支度を進めていた。

 食卓にいつも何品も並んでいることが、今は、前より不思議だった。


「お皿、出しておこうか?」


 勝也の声がした。

 私は包丁を置いてから振り向いた。


「ありがとう。小さいお皿を4枚、お願いしてもいい?」


 お母さんが頼むと、勝也が食器棚を開けた。

 台所の端へ皿を持ってきて、まな板のそばを見た。


「優子が切ったの?」

「……うん。厚さ、少し違うけど」

「俺のより、きれいだと思う」

「勝也も、切る?」

「たまに。俺が切ると、最初と最後で、別の野菜みたいな厚さになる」


 指の間を広げてみせた。

 私が笑うと、お母さんも笑った。


「2人とも、少しずつ覚えたらいいのよ」


 勝也が頷いた。

 ほかに出すものがあるか、お母さんへ聞いている。

 私は鍋へ目を戻した。

 今、隣にいる人が、このじゃがいもを食べる。

 そう思うと、ゆで上がりを確かめる時にも、少し緊張した。


 お母さんに教わって、竹串を刺した。

 さっきまで硬かったところへ、先がすっと入った。


「……柔らかい」

「うん。火を止めようか」


 お湯を切る時だけ、お母さんが鍋に手を添えた。

 湯気が上がって、流しのそばが一瞬白くなった。

 鍋を戻して残った水分を飛ばし、じゃがいもをボウルへ移した。


「温かいうちに、潰してみよう」


 渡された道具を押し下げた。

 じゃがいもが、簡単に崩れた。

 端に残ったものへ向きを変え、もう1度押した。


「全部、同じになるまで?」

「少し形が残ってても、おいしいよ。お母さんは、少し残すのが好き」

「……私も」


 言ってから、勝也の方を見た。

 勝也は、並べ終わった皿の位置を直していた。


「勝也は?」

「俺? ちょっと、ごろっとしてるのも好きだよ」


 私はボウルへ目を戻した。

 全部を潰してしまわず、大きなところだけを、もう少し小さくした。


 味付けの塩を、お母さんが手のひらへ出して見せてくれた。

 その量を見てから、私も少し取り、じゃがいもへ振った。

 こしょうも、ほんの少し。


「まず混ぜて、味を見てみようか」


 小さなスプーンへ取って、息を吹きかけてから口へ運んだ。

 まだ、いつものポテトサラダの味ではなかった。

 じゃがいもの甘さがして、そのあとで、塩の味が少し分かった。


「マヨネーズは、あと?」

「うん。少し冷めてからにしよう。それまでに、きゅうりを絞ってみて」


 器の底には、さっきはなかった水がたまっていた。

 私は驚いて、お母さんを見た。

 言われたとおりに少しずつ手へ取り、軽く絞った。

 切った時より、きゅうりが柔らかくなっていた。


 にんじんも冷ましておき、じゃがいもの湯気が落ち着いてから、一緒に加えた。

 教わった量より少し控えめにマヨネーズを入れ、底から混ぜた。

 白かったところへ、緑とオレンジが散らばった。


「どうかな」


 お母さんが新しいスプーンを渡してくれた。

 私は小さく取って、味を見た。


「……もう少し、入れたい」

「じゃあ、少し足してみよう」


 さっきより少ない量を入れ、もう1度混ぜた。

 味見をすると、今度は、よく知っている味に近づいていた。


「こっちの方が、好き」

「うん。お母さんにも、ちょっとちょうだい」


 お母さんが味を見た。

 返事を待つ間、私はボウルの縁を持っていた。


「おいしい。これで、でき上がりにしようか」


 その言葉を聞いて、少し笑った。

 味付けを決めたのは、私だった。

 お母さんが横で見てくれていたけれど、最後に混ぜたのも、もう少し足したいと言ったのも、私だった。


 勝也が出してくれた皿へ、4人分を分けた。

 最初の皿だけ多くなって、少し戻した。

 お母さんは勝手に全部直さず、ほかの皿と見比べるのを待ってくれた。


「……こんなに、時間かかっちゃった」

「初めてだもの。洗って、切って、ゆでて、味もつけたでしょう。今日は、ひと品できたね」


 並んだ皿を見た。

 さっき流しの横にあった、土のついたじゃがいもとは、違うものになっていた。


「……うん」


 お母さんが主菜の方へ戻った。

 私は使ったボウルを流しへ運び、勝也は皿を食卓へ並べた。

 水を出してから、もう1度だけ顔を上げた。


 3人が違うことをしているのに、同じ夕ご飯の支度だった。


     * * *


 お父さんが帰ってきた時、食卓には、まだ箸だけがなかった。

 私は食器棚の引き出しを開け、4人分を取った。


「優子が手伝ってくれたのよ」


 お母さんが言うと、お父さんがポテトサラダを見た。


「そうか。ありがとう」


 私は少し照れながら、箸を置いた。

 勝也の席にも、同じように並べた。


「俺も、皿は出しました」


 勝也が言った。

 お父さんが笑った。


「じゃあ、今日は僕が最後だったな」

「お父さんは、お仕事してきたでしょう」


 お母さんが返した。

 勝也が笑い、私も笑った。


 いただきます、と言う声が重なった。

 勝也は、焼きたての主菜へ目を向けたあと、ポテトサラダも食べた。

 私は自分の箸を止め、つい、その顔を見てしまった。


「これ、味も優子がつけたの?」

「……うん。お母さんに、教えてもらって」

「おいしいよ。じゃがいも、ちょっと残ってるのもいいね。ありがとう」


 勝也が笑った。

 さっき、全部は潰さずにおいたところだった。


「……うん」


 私は自分の皿へ目を落とした。

 おいしいと言ってもらえて、嬉しかった。

 まだ横にお母さんがいないと、何から始めればいいか迷うと思う。

 それでも、ほかの料理も覚えて、また食べてもらいたくなった。


 勝也は、お母さんがよそった汁物を飲んだ。

 ひと息ついてから、ああ、おいしい、と言った。

 頼まれたからでも、誰かを見てからでもなく、食べたあとに、そのまま出た声だった。


 私はその顔を見た。

 私の作るものも、いつか、こんなふうに食卓へ出せるだろうか。

 作ったところを見てもらっていなくても、食べたら好きになってもらえる料理を、少しずつ増やしたかった。


「部活の方は、どうだった?」


 お父さんが聞いた。

 私は先輩たちのことを話した。

 初めに何人も来て驚いたこと。勝也の飲むお茶が、次々に来たこと。


「お菓子を食べるだけじゃ、なかった」


 私が言うと、勝也が大きく頷いた。


「分かってもらえて、よかったです」

「帰ってきた時、お茶はあとがいいって言ってたものね」


 お母さんが笑った。

 勝也も笑い、でも、おいしかったです、と付け足した。


 先輩と何を話したかは、全部は話さなかった。

 勝也が少し離れていても、同じ部屋で待てたことだけを、お母さんへ言った。


「……見えるところに、いてくれたから」


 お母さんは、そう、と頷いた。

 それなら次はもっと遠くても大丈夫だね、とは言わなかった。


 食後、しおりを広げた。

 勝也も隣から、自分のしおりを出した。


 日付を見たお父さんが、もう来週か、と言った。

 私は今日の授業で聞いたことを、順番に話した。


「2日目に、カレーを作るの。私の係は、まだ決めなくていいって、加藤さんが」


 お母さんが、そのページへ目を落とした。


「勝也と一緒に、できるところをやったらいいって。皆も、それでいいって言ってくれた」


 話しながら、自分の書いた字を見た。

 勝也と一緒に、とあった。


「ありがたいね」


 お母さんが言った。

 私は頷いた。


「……うん」


 勝也が、火の担当になった3人のことを話した。

 翔太くんが最初からずっと希望していたと言うと、お父さんが笑った。


「炊けたご飯が待ち遠しくなりそうだね」

「たぶん、何回も、まだかって聞くと思います」


 勝也が言った。

 私は、蓋を開けようとしないかな、と小さく言った。

 勝也が、春樹が止めるんじゃない、と答えた。


 お父さんも、お母さんも笑った。


「それと、お部屋も。私たちの班は、6人で一緒のお部屋にしてくれるって」


 私は、施設案内へ挟んだ付箋を開いた。


「最初、皆で説明を聞いた時は、男の子と女の子、別々だって言われて……」


 あの時、勝也の袖を握っていた指を思い出した。

 お母さんが、私の顔を見た。


「不安だったね」

「うん。でも、あとから先生が来て、私たちは同じでいいって。皆も、大丈夫だって言ってくれたの」


 勝也が、私の指した場所を覗き込んだ。


「ほかの皆の部屋からは離れてるんですけど、広い和室を使わせてもらえるそうです。障害のある人も使えるようになってる部屋で、目の前にお手洗いと、お風呂もあって」

「そこも、皆で使えるの?」

「はい。お風呂はシャワーが3つあって、湯船も広いって。俺たちの班は、そっちを使うそうです」


 お母さんは図を見て、頷いた。

 お父さんも、先生と施設の方にお礼を言わないとな、と言った。


 私は、部屋のところへ置いた指を少し動かした。

 別々の場所で眠らなくていいと分かった時のことを、話しながら、もう1度確かめていた。


 そのあとで、私は丸をつけたところを見せた。

 夜の時間。入浴。着替え。荷物。


「……お部屋は同じだけど。着替える時とか、お風呂に入る時、どうしたらいいかは、まだ、分からなくて」


 勝也が隣で黙って聞いていた。

 お母さんも、全部すぐに大丈夫だとは言わなかった。


「うん。お部屋が分かったから、そこでどう過ごすか、先生と一緒に考えようね。優子が何を心配しているか、分かるようにしておこう」


 お父さんが、丸のそばへ付箋を置いた。


「今、思いついたことを、書いておこうか。あとで思い出したら、足せばいい」


 私は頷いた。

 勝也が、鉛筆を取ってくれた。


「俺も、一緒に考えるよ」


 その声を聞いてから、最初の1行を書いた。


 行きたい気持ちと、怖い気持ちを、どちらかだけにしなくてよかった。

 同じしおりに、楽しそうなところも、困りそうなところもあった。


「……皆で作ったカレーは、食べてみたい」


 書き終えてから言うと、勝也が笑った。


「うん。おいしく作りたいね」


 私は頷いた。

 お母さんが、付箋の端を押さえてくれた。


     * * *


 勝也が帰る時には、もう暗くなっていた。

 玄関まで一緒に行き、紙袋を渡した。

 翔太くんの分だと言っていた袋も、その中に入っていた。


「今日は、いっぱいしゃべったね」


 勝也が靴を履きながら言った。


「……うん」

「また、続き読んだら教えてね」

「土曜日も、聞いていい?」

「もちろん」


 勝也が顔を上げた。


「DVD、用意しておくよ。どこまで一緒に見るかも、確認しておくね」


 私は頷いた。

 勝也が立ち上がると、少しだけ、帰ってしまうのが寂しくなった。


 でも、次に一緒にすることが決まっていた。


「……また、明日」

「うん。また明日」


 勝也が手を振った。

 私も振り返した。


 扉を閉めてから、居間へ戻った。

 お母さんが、食卓を拭いていた。


「疲れた?」


 聞かれて、少し考えた。


「……少し。でも、楽しかった」


 お母さんが頷いた。

 私は、台所の方を見た。

 洗ったまな板が、立ててあった。


「お母さん」

「うん?」

「明日も、お料理、教えてくれる?」


 お母さんの手が止まった。

 私を見て、柔らかく笑った。


「もちろん。何か、作ってみたいものがある?」


 私は少し迷った。

 今日の勝也が食べていたものを、思い出した。

 もっと前の食卓も、いくつか思い出した。


「……卵焼き」


 言ってみると、急に、それを作る自分を想像できた。


「できるかな」

「最初は、一緒にやろう。朝、少し早く起きられたら、朝ご飯の分で練習してみる?」


 私は頷いた。

 明日の朝のことまで、決まった。


「卵焼きも、勝也に食べてもらえるように……なりたい」


 最後は、声が小さくなった。

 お母さんは、聞き返さなかった。


「うん。そう思うと、覚えるのも楽しみになるね」


 私は頷いた。

 助けてもらった分を、全部返せるとは思っていなかった。

 それでも、今日、お母さんの料理を食べた勝也の顔を、思い出せた。


 今日のポテトサラダも、おいしいと言ってくれた。

 次に覚える料理でも、また、あんな顔を見たかった。


     * * *


 金曜日は、目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。

 まだ眠かったけれど、昨日の約束を思い出すと、布団から出られた。


 顔を洗って台所へ行くと、お母さんが卵を出していた。


「起きられたね」

「……うん」


 昨日使ったエプロンを着けた。

 手を洗い、髪が前へ落ちないようにまとめる。

 お母さんが、小さな器を私の前へ置いた。


「まず、ここへ1個ずつ割ってみよう。殻が入っても、取りやすいから」


 私は卵を持った。

 軽く当てると、細いひびが入った。

 そこへ指を掛けたけれど、なかなか開かなかった。


「……もう少し、割った方がいい?」

「指で開けそう? 焦らなくて大丈夫」


 少し力を入れた。

 殻が開き、中身が器へ落ちた。


 それと一緒に、小さな白い欠片も入った。


「入っちゃった」

「うん。取れば大丈夫よ」


 お母さんが、取り除くところを見せてくれた。

 1個目を大きな器へ移してから、次を渡された。


 2個目は、さっきより開くのが早かった。

 3個目では、落とす前に器へ近づけられた。


 それだけのことなのに、少し嬉しかった。


「いつも、お母さんが作るのを見てたのと、全然違う」


 菜箸を持ちながら言うと、お母さんが頷いた。


「見てると簡単そうなことも、自分でやると、手をどこへ置こうってなるでしょう」


 そのとおりだった。

 器を押さえる手と、混ぜる手を、どちらへ置くか考えた。


 黄身を崩して混ぜると、色が少しずつ変わった。

 白い筋が残っていたので、お母さんへ見せた。


「もう少しだけ、白身を切るようにしてみようか」


 教わったように動かした。

 最初は器のふちへ、菜箸を何度も当ててしまった。

 途中から、少し静かになった。


 味つけは、お母さんが計るところを見た。

 いつもは目で見て入れることもあるけれど、今日は同じ味にしやすいように、量を確かめてくれた。


「お砂糖と、少しお塩。だしも入れるよ」


 私は小さな紙へ書いた。

 書き終えると、お母さんが一緒に確かめた。


「最初は、この分量で。あとで、もう少し甘い方が好きだなって思ったら、変えてもいいから」


 私は頷いた。

 自分で変えていいところがあるのも、まだ少し不思議だった。

 料理には、全部、正しい答えが決まっているような気がしていた。


 卵焼き器が温まるまで、コンロの前で待った。

 お母さんが油を薄く広げ、最初の卵液を流した。

 音がして、黄色い縁がすぐに固まり始めた。


「最初のひと巻きは、お母さんがやるね。ここを芯にして、少しずつ大きくしていくの」


 私は横から見た。

 お母さんが手前へ返すと、薄い卵が折れた。

 同じことを何度かすると、小さな塊になった。


「……もう、そうなるんだ」


 自分が卵を割るのに掛けた時間より、ずっと短く感じた。

 お母さんは笑って、次は優子ね、と場所を少し空けた。


 私は持ち手を握った。

 もう片方の手で卵液を少し流す。

 お母さんが横で、今のでいいよ、と言ったので止めた。


「さっき巻いたところの下にも、少し入るように」


 教えられて、菜箸で持ち上げようとした。

 持ち上げる前に、卵の端へ穴を開けてしまった。


「……あ」


 お母さんが、手を伸ばしかけた私を急がせず、道具の方を示した。


「大丈夫。最初は、こっちを使ってみよう」


 小さな返しを持たせてくれた。

 広いところで支えると、菜箸より持ち上げやすかった。


 それでも、最初の1回は途中で崩れた。

 黄色いところが、思っていた向きと違う方へ寄った。


「……巻けなかった」

「まだ続きがあるから、次の卵で包んでいこうか」


 お母さんの声は、変わらなかった。

 私は顔を上げた。


「これ、使っていいの?」

「もちろん。形がちょっと変わっただけだから」


 また油を薄く広げ、卵液を足した。

 今度はお母さんが持ち手へ少し手を添えてくれた。

 私が返す動きに合わせて、傾きを直してくれる。


 さっき崩れたところが、中へ隠れた。

 全部が元どおりになったわけではなかったけれど、ひとつにつながっていた。


「……巻けた」


 言うと、お母さんが頷いた。


「うん。できたね」


 次は少し焦った。

 早く返そうとして、まだ柔らかいところが流れた。

 お母さんが、少し待とう、と言った。


 待つ時間が、長く感じた。

 見ている間にも、表面が変わった。


「今くらい」


 言われて、返した。

 今度は、さっきよりきれいに重なった。


 最後まで終えると、片側が少し太くなっていた。

 お母さんが皿へ移し、少し落ち着いてから切り分けた。


 断面にも、巻いたところが見えた。

 途中で破いた部分は、どこだったのか、すぐには分からなかった。


「味、見てみようか」


 小さく分けてもらったものを、熱すぎなくなってから食べた。


 いつもの味がした。

 でも、いつもの形ではなかった。


「……おいしい」


 自分で言ってから、少し照れた。

 お母さんが笑った。


「よかった。朝ご飯に出そうね」


 私は残りを見た。

 まだ、ほとんど教えてもらったとおりに動いただけだった。

 それでも、私の手が入ったものだった。


「今日の夕ご飯にも、やってみたい」


 言うと、お母さんは、いいよ、と頷いた。


「今度は、最初のところからやってみようか。私も隣にいるから」


 私は頷いた。

 書いた分量の紙を、濡れないところへ置いた。


 お父さんが朝食へ来ると、お母さんが、今日の卵焼きは一緒に作ったの、と話した。

 お父さんは、そうか、と箸を伸ばした。


「うん。おいしいね」


 私は少し笑った。

 そのあとで、片側だけ太いことを言うと、お父さんが皿を見た。


「大きい方が来たら、ちょっと得した気になるな」


 お母さんが笑った。

 私も笑った。


 夕方、勝也にはどちらの端が行くだろう、と、もう考えていた。


     * * *


 学校へ着くと、加藤さんが、昨日より先に私へ挨拶してくれた。


「おはよう、富田さん」

「……おはよう」


 返事をしてから、鞄を机へ掛けた。

 勝也が隣で、自分の教科書を出していた。


 加藤さんは、しおりを手に持っていた。

 私も鞄から出しかけて、途中で手を止めた。


「……加藤さん」


 呼ぶと、こちらを向いてくれた。


「何?」

「昨日の、役割のこと。お母さんにも、話した」


 加藤さんの目が、私のしおりへ向いた。

 付箋が、端から少し出ていた。


「そっか」


 それだけ言って、続きを待ってくれた。


「……ありがとう」


 昨日も言った。

 それでも、もう1度言いたかった。


 加藤さんは、少し笑った。


「うん。私たちも、その方がやりやすいと思うし。富田さんが離れて不安になっちゃうより、一緒にいて、できること探せる方がいいもん」


 勝也が、隣で頷いた。


「俺も助かる。優子に、何かあったらすぐ言ってもらえるし」


 私は2人を見た。

 自分のためだけに、皆が我慢することになったのではないように、話してくれた。


「……私、昨日、ポテトサラダを作ったの」


 言ってから、急に恥ずかしくなった。

 お母さんに教えてもらいながら、1品作っただけだった。


 でも、加藤さんは、自分で、と聞いてくれた。


「お母さんに、教えてもらって。じゃがいもを洗って、切って、ゆでたり。きゅうりと、にんじんも切ったの」

「味つけも?」

「……うん。見てもらいながら」

「そうなんだ。じゃあ、当日も、最初の準備、手伝ってもらえそうだね。勝也とお米を洗う前でも、一緒にできることありそう」


 私は頷いた。

 加藤さんは、そのあとですぐに、でも、今、約束しちゃわなくてもいいからね、と付け足した。


「できそうだったら、一緒にやろう」


 その言い方が、嬉しかった。

 やると言ったから、必ずできなければいけない、とはならなかった。


「……うん」


 頷くと、加藤さんがしおりを軽く持ち上げた。


「翔太は、軍手をもう用意したらしいよ」


 勝也が顔を上げた。


「早いね」

「今朝、見せられた」

「学校へ持ってきたんだ」


 私も顔を上げた。

 勝也が笑ったので、私まで笑ってしまった。


「……まだ、今日じゃないのに」


 言うと、加藤さんが頷いた。


「それ、私も言った」


 3人で少し笑った。

 勝也が話してくれるのを待つだけではなく、私から加藤さんへ話せた。


 そのことを、席へ座ってから、ゆっくり思い返した。


     * * *


 金曜日の放課後にも、勝也と茶道部へ寄った。

 昨日と同じところで上履きを脱ぎ、同じ段差を上がった。


 襖の向こうから、こんにちは、と声がした。

 私も勝也の隣で、小さく返した。


 先輩たちは、今日は一斉に近づいてこなかった。

 1人が、荷物、昨日と同じところでいいよ、と教えてくれた。

 別の先輩が、あとでお茶どう、と聞いてくれた。


 私はそれぞれへ、頷いたり、返事をしたりできた。


 鞄からノートを出した。

 勝也が隣へ座り、私の手元を見た。


「今日は、先に少しやる?」

「……うん」


 問題を1つ解いている間に、勝也の方へお茶が来た。

 昨日と同じように受け取ってから、今日はゆっくりで、とお願いしていた。

 先輩が笑い、分かってるよ、と答えた。


 私はノートへ目を落とした。

 同じ部屋で、別のことをしていた。

 勝也の声は、すぐ隣から聞こえた。


 詩織先輩が、私の書いているところを覗き込みすぎない距離へ座った。


「宿題、進んでる?」

「……はい。少し」

「よかった。昨日、いっぱいしゃべって帰った?」


 私は先輩を見た。

 勝也が、横から答えた。


「漫画の話、かなりしました」

「やっぱり」


 詩織先輩が笑った。


「楽しかった?」


 今度は私へ聞いた。

 私は頷いた。


「……明日、アニメも、一緒に見ることになって」


 先輩の目が少し大きくなった。

 それから、勝也を見た。


「へえ。いいね」

「DVDがあるので。最初から見ようと思って」


 勝也が説明した。

 先輩は、私の方へ目を戻した。


「楽しみだね、優子ちゃん」


 私は頷いた。

 昨日の内緒話を思い出して、少しだけ頬が熱くなった。


 先輩は、それ以上大きな声では聞かなかった。

 勝也が茶碗を返している間に、私だけへ、よかったね、と小さく言ってくれた。


「……はい」


 私は鉛筆を持ち直した。

 誰かが、私の楽しみを知って、一緒に喜んでくれた。

 それが、思っていたより嬉しかった。


 帰る時、勝也は昨日分けた芋けんぴを、翔太くんへ渡しに行った。

 私も隣へついていった。

 練習の合間に顔を出した翔太くんは、袋を見ると、すぐに笑った。


「おお、残してくれた!」

「ちゃんと別にしておいたよ。今、開けないでね。帰ってから」

「分かってるって。ありがとう」


 袋を持った翔太くんが、私へも笑った。


「富田さん、茶道部、よかった?」


 私は頷いた。


「……うん。お茶も、おいしかった」

「いいなあ。俺も今度、ちゃんと時間ある時に行こうかな」


 勝也が、先輩に聞いておくよ、と答えた。

 翔太くんは、頼む、と頷いてから、呼ばれた方へ戻っていった。


 去り際に、来週のカレーも楽しみだな、と言った。

 勝也が笑って返事をした。

 私は、その隣で、小さく、うん、と答えた。


     * * *


 家へ帰ると、お母さんが、今日はどうする、と聞いた。

 私は手を洗ってから、朝の紙を持ってきた。


「……卵焼き、作りたい」


 お母さんが頷いた。

 勝也は鞄を置き、私の手にある紙へ少し目を向けたけれど、何が書いてあるのかまでは覗かなかった。


「今日も、お手伝いするの?」

「うん。少しずつ、教えてもらってる」

「そっか」


 勝也が笑った。

 私は紙を胸の前へ寄せた。


「……勝也、昨日のところに、いてくれる?」

「うん。俺も、残ってる宿題やるよ」


 勝也が食卓の椅子を引いた。

 部活で終わらなかった問題集を開き、筆箱を置く。

 私はその姿を確かめてから、台所へ入った。


 昨日は、ここへ来てからも、何度も振り返った。

 今日も、まったく気にならないわけではなかった。

 でも、勝也がどこに座っているかを知っていた。

 顔を上げれば見えることも、昨日、自分で確かめていた。


 エプロンを着け、卵を出した。

 お母さんが器を置いてくれる前に、自分で、朝使った小さな器を選んだ。


「これに、1個ずつ」


 私が言うと、お母さんが頷いた。


「覚えてたね」


 卵を割った。

 朝よりも、殻を開く時の力が分かった。

 小さな欠片が入っていないか確かめてから、大きな器へ移した。


 3個目まで終えると、ほっとした。

 それだけで終わった気になりかけたけれど、まだ混ぜてもいなかった。


 お母さんが、分量の紙を濡れない場所へ立てた。


「今日は、計るところもやってみようか」


 私は頷いた。

 砂糖をすくい、紙に書いた量を見た。

 盛り上がったところをどうするか迷って、お母さんへ聞いた。


「ここ、平らにするの?」

「そう。この分は、平らにして計ろう」


 少し落とし、もう1度見た。

 卵へ入れると、表面へ白い粒が散った。


 だしと、少しの塩も加えた。

 紙の上では短い言葉だったけれど、実際に手を動かすと、確かめることがいくつもあった。


 お母さんは、隣で別の支度をしながら見てくれた。

 私が迷った時だけ、手を止めてくれた。


「……これ、全部、覚えて作ってるんだね」


 言うと、お母さんが笑った。


「同じものを何回も作ってるからね。優子も、覚えたら紙を見なくてもできるようになるよ」


 私は紙を見た。

 今は、1行ずつ指で確かめたかった。

 いつか、見なくても作れるようになるのだろうか。


 食卓の方で、勝也が消しゴムを使った。

 小さく、あ、と言ったので、顔を上げた。


「どうしたの?」

「途中で、数字写し間違えた」


 勝也が苦笑した。

 私は卵の器を置いてから、少し見た。


「最初から?」

「ううん。ここだけ。ここ直せば、たぶん大丈夫」


 自分のノートを指で示した。

 私は頷き、また手元へ戻った。


 朝の卵焼きも、途中で破いた。

 全部やり直しにはならなかった。


 失敗したところがあっても、そのあとの手を止めなくていいのだと、お母さんが教えてくれた。


 今度は、最初に流すところから私がやった。

 お母さんが、温まったね、と言ったので、卵液を少し入れた。

 音がした。

 朝よりも、驚かなかった。


「これくらい?」

「うん。広げてみよう」


 持ち手を傾けると、卵が四角いところへ広がった。

 端だけ、少し薄くなった。

 私は直したくなって、返しを持ち上げた。


「今は、そのまま待とうか」


 お母さんの声で手を止めた。

 少し待つと、濡れて光っていたところが変わった。


 朝見たのと、似ていた。


「……もう、いい?」

「うん。やってみて」


 端を少し持ち上げた。

 全部を一度に返そうとせず、まず折る。

 もう1度、返す。


 最初のひと巻きは、少し平たかった。

 お母さんのようなきれいな形にはならなかった。

 でも、ばらばらにはならなかった。


「できた……」


 小さく言うと、お母さんが、うん、と返した。

 大きな声で褒められるより、そのまま続きを任せてもらえたことが嬉しかった。


 次の卵液を流す前に、油を薄く広げた。

 卵を少し持ち上げて、下へも通した。


 今度は、持ち上げすぎなかった。


 お母さんが何か言う前に、自分で手を止められた。

 表面を見て、もう少し待った。


「このくらいかな」


 独り言のつもりだった。

 お母さんが、そうね、と言った。


 返した。

 ひとつ前の巻きへ、薄い卵が重なった。


 少しだけ、右へ寄った。

 私は左の端を見た。


「……こっちが、細くなる」

「最後に少し整えよう。今は、破かずに巻けてるよ」


 頷いた。

 全部を同時に上手くしようとしなくてよかった。


 残りを流し、また待った。

 勝也の声が聞こえたけれど、今度は顔を上げなかった。


「お箸、出してもいいですか」


 お母さんが、お願い、と答えた。

 勝也の椅子が動いた。

 姿は見ていなくても、今、何をしているか分かった。


 私は卵へ目を向けたまま、最後を巻いた。


 少し焼き色がついた。

 お母さんの卵焼きより、片側が太い。

 それでも、朝よりは、形がそろっていた。


「……できた」


 今度は、顔を上げて言った。

 お母さんが笑った。


「うん。今度は、ほとんど自分で巻けたね」


 私は卵焼き器の中を見た。

 同じ卵を使ったのに、朝とは違う形だった。

 でも、知らないものができたのではなかった。


 お母さんと一緒に皿へ移した。

 火を止めたことも確かめた。

 持ち手から手を離すと、肩に力が入っていたのが分かった。


「……緊張した」


 お母さんが頷いた。


「熱いものを持ってたものね。少し休もう」


 私は手を拭いた。

 勝也を見ると、箸を並べ終えて、また問題集へ戻っていた。

 こちらで何を作ったのか、まだ聞かなかった。


 お母さんが、ほかのおかずの入った皿を持ち上げた。

 私はそれを受け取り、食卓へ運んだ。


 勝也が気づき、問題集を端へ寄せた。


「ここ、置けるよ」

「ありがとう」


 皿を置くと、勝也が、今日もおいしそう、と言った。

 まだ、卵焼きは出していなかった。


 私は台所へ戻った。

 お母さんが、少し落ち着いた卵焼きの前へ包丁を置いてくれた。


「切ってみる?」


 頷いた。

 力を入れすぎないように、最初の端を切った。

 断面が見えた。


 黄色い層が、重なっていた。

 大きな穴は見えなかった。


「……朝より、きれいかも」


 言うと、お母さんが、うん、と頷いた。


「自分でも、分かるね」


 次を切った。

 幅が少し違ったので、並べる時に迷った。

 お母さんは、小さいのと大きいのを一緒に置けばいいよ、と教えてくれた。


 私は、4人分の小皿へ順番に載せた。

 勝也の皿を、特別に大きくする勇気はなかった。

 でも、形のきれいなものを、つい探してしまった。


 お母さんが、それを見て少し笑った。

 私は頬が熱くなり、いちばん端のものを自分の皿へ置いた。


「……変じゃない?」


 小さく聞くと、お母さんが皿を見た。


「おいしそうよ」


 私は頷いた。

 自分の作ったものを持って、食卓へ向かった。


     * * *


 勝也は、卵焼きが置かれた時には、問題集の最後の答えを書いていた。

 私が皿を置くと、ありがとう、と言って、ノートを閉じた。


 誰が作ったのかは、聞かなかった。

 私も、言わなかった。


 お父さんが帰ってきて、皆で席へ着いた。

 お母さんが最後の皿を置いた。

 私は、勝也の前にある卵焼きを、見ないようにした。


 見ないようにすると、余計に気になった。


「いただきます」


 声を合わせた。

 勝也はまず、汁物を飲んだ。

 それから、ご飯を食べた。


 次に、魚へ箸を伸ばした。


 私は自分の箸を持ったまま、まだ何も取っていなかった。

 気づいて、慌ててご飯を食べた。


 勝也が、お父さんへ学校の話をした。

 翔太くんが、もう軍手を用意したと言うと、お父さんが笑った。


「火の係が、そんなに楽しみなんだね」

「はい。たぶん、しおりもそこのページをいちばん読んでます」


 勝也が答えた。

 私も少し笑った。


 笑ったところで、勝也の箸が小皿へ伸びた。


 卵焼きだった。


 私は顔を上げかけて、止めた。

 自分の皿を見たまま、隣の手の動きだけを見た。


 勝也が、ひと切れ取った。

 口へ運び、食べた。


 少しだけ、動きがゆっくりになった。


「……あ、これ、おいしい」


 顔を上げた。

 勝也は、私を見ていなかった。

 自分の皿へ目を落としてから、お母さんへ向いた。


「今日の卵焼き、すごくおいしいです」


 胸の中が、急にいっぱいになった。


 お母さんが私を見た。

 私は、すぐに目をそらしてしまった。

 勝也は気づかず、もうひと切れを箸で分けた。


「中、柔らかいですね。俺、こういう、ちょっと甘いの好きです」


 言いながら、ご飯も食べた。

 褒めなければいけないような顔ではなかった。


 私が作ったと知らなかった。

 知らないで、おいしいと言ってくれた。


 箸を握った指に、少し力が入った。

 何か言わなければと思ったけれど、声が出なかった。


 お母さんが、静かに笑った。


「今日の卵焼きね、優子が作ったのよ」


 勝也の箸が止まった。

 私の方を向いた。


「優子が?」


 私は頷いた。

 顔を見続けられず、小皿へ目を落とした。


「……お母さんに、教えてもらって」


 勝也が、もう1度、卵焼きを見た。

 そのあとで、私を見た。


「そうだったんだ」


 笑った。


「おいしいよ。ありがとう」


 さっきと同じ声だった。

 私が作ったと分かってから、急に褒め方を大きくしたわけではなかった。


 それが、いちばん嬉しかった。


「……本当に?」


 聞いてしまった。

 勝也はすぐに頷いた。


「うん。さっきも言ったでしょ」


 そうだった。

 ちゃんと、聞いていた。

 聞いていたのに、もう1度確かめたくなった。


「まだ、2回目で……朝は、途中、破けちゃって」

「そうなの? 俺、もっと前から作ってるのかと思った」

「……ううん。朝、初めて」


 勝也が少し目を丸くした。


「じゃあ、今日、朝と夕方で2回作ったんだ」


 頷いた。

 お母さんが、朝は一緒に巻いたけれど、夕方はほとんど自分でできたと話した。


 勝也が、私の前の皿を見た。

 少し不揃いな端の部分が載っていた。


「そっちは、ちょっと大きいね」


 私は皿を見た。

 変な形を見つけられたと思って、少し肩に力が入った。


「……片方に、寄っちゃったから」

「いいな。俺、大きい方でもよかったのに」


 顔を上げた。

 勝也は本当に、そちらでもよかったという顔をしていた。


 お父さんが笑った。


「僕も、朝、同じことを言ったよ」

「ですよね。いっぱい食べられるし」


 勝也が頷いた。

 お母さんまで笑った。


 私は、自分の皿を持ち上げかけた。


「……まだ、食べてない方、いる?」


 勝也が私を見た。


「優子の分、減っちゃうよ」

「少しなら、大丈夫」


 お母さんが、小さな取り箸を置いてくれた。

 私は、まだ手をつけていない端のひと切れを、勝也の皿へ移した。


 箸で持ち上げても、崩れなかった。

 そのことまで、嬉しかった。


「ありがとう。じゃあ、もらうね」


 勝也が言った。

 私は頷き、自分の席へ戻った。


 勝也が、分けた方も食べた。

 少し厚いからか、今度は箸で半分にしてから口へ運んだ。


「うん。こっちも、おいしい」


 私は、ようやく自分の卵焼きを食べた。

 朝と同じ分量で作ったはずだった。

 でも、食べている間、味を確かめるよりも、隣の声ばかり思い出していた。


「また、作るの?」


 勝也が聞いた。


「……うん。忘れないうちに、やってみたい」

「じゃあ、また食べたいな」


 箸を止めた。

 勝也が、少し笑った。


「俺の分もある時に」


 私は何度も頷きそうになって、1度だけ、ゆっくり頷いた。


「……作る。勝也の分も」


 お母さんが、私の向こうで笑った。

 お父さんも、次は僕の分もよろしく、と言った。


「うん。皆の分、作る」


 言うと、勝也が嬉しそうに頷いた。


 食卓に、私が次に作るものの話があった。

 まだ上手くできるか分からないのに、食べたいと言ってくれる人がいた。


 私は、空いた勝也の小皿を見た。

 さっきまで、そこに私の卵焼きがあった。


     * * *


 夕食が終わると、勝也も食器を運んでくれた。

 私は小皿を重ね、流しの手前へ置いた。


「優子、これも、ここでいい?」


 勝也が持っていた皿を受け取った。

 端へ置く場所を少し空ける。


「うん。ありがとう」


 昨日は、どこへ何を置くかも、お母さんへ何度も聞いた。

 今日は、同じ場所なら少し分かった。


 勝也が手を洗い、布巾で拭いた。

 私も水を止めた。


「俺、卵焼き、自分では作れないんだよね」


 勝也が言った。

 私は顔を上げた。


「卵は、焼くよね?」

「うん。でも、ああいうふうに巻かない。目玉焼きとか、混ぜて焼くくらい」


 私は朝の自分の卵を思い出した。


「……最初、私も、混ぜて焼いたみたいになりそうだった」

「それでも、おいしそうだけどね」


 勝也が笑った。


「でも、できるようになったら、朝ご飯にもよさそう」

「お母さんが、同じものを何回も作ると覚えるって」

「そっか。俺も、今度教えてもらおうかな」


 勝也が、お母さんの方を見た。

 お母さんは、もちろん、と答えた。


「優子が覚えたら、優子に教わってもいいわね」


 私は慌ててお母さんを見た。


「……まだ、できないよ」

「今すぐじゃなくていいのよ」


 お母さんが笑った。

 勝也も、そうだね、と頷いた。


「優子が慣れたら、教えて」


 私は勝也を見た。

 冗談だけで言っている顔ではなかった。


「……上手になったら」

「うん。楽しみにしてる」


 すぐにできることではないのに、その先を待ってくれた。


 昨日、勝也の好きな漫画を教えてもらった。

 明日は、アニメも見せてもらう。

 今度は私が、覚えたことを教える日が来るかもしれなかった。


 それを考えながら、布巾を掛けた。


     * * *


 居間へ戻ると、勝也が明日の時間を確かめた。


「午前中からにする? 途中で休みながら見られるし」

「……うん。そうしたい」


 何時頃に行くかを2人で決めて、お母さんにも伝えた。

 お母さんは頷き、明日も楽しみね、と笑った。

 私は勝也の隣で、手帳へ時間を書いた。


 林間学校の持ち物の欄とは違うページだった。

 日付の横に、勝也の家、と書いた。


「何か、持っていくものある?」


 聞くと、勝也が少し考えた。


「特にはないかな。見たい漫画があったら、言ってくれれば出すし」

「……お菓子は?」

「ポテチ、用意しとくよ」


 迷わず言った。

 私は笑ってしまった。


「やっぱり、用意するんだ」

「うん。一緒に食べながら見ようと思って」


 お母さんが、晩ご飯も食べられるくらいにね、と言った。

 勝也が、食べすぎないようにします、と背筋を伸ばしたので、私は笑ってしまった。


 私は手帳の小さな字を見た。

 勝也の家へ遊びに行くことを、こんなに楽しみにしていていいのだと思った。


 怖いことがなくなったわけではなかった。

 今日も学校では、勝也が席を立つと、手が伸びた。

 知らない声が近づくと、体が固くなる時があった。


 それでも、帰ってきたあとに、明日したいことを話していた。


 勝也が帰る支度を始めた。

 問題集を鞄へ入れ、筆箱を確かめる。

 私は手帳を閉じて、隣へ立った。


 玄関で、勝也がもう1度こちらを見た。


「今日は、ごちそうさま」


 お母さんだけでなく、私へも言った。


「……うん」


 声が小さくなった。

 勝也が笑った。


「卵焼き、またお願いね」


 私は頷いた。


「……また、作るね」


 勝也が、ありがとう、と言った。

 それから、いつものように、また明日、と手を振った。


 私も手を振った。

 明日は、学校へ行く朝ではなかった。


     * * *


 勝也が帰ったあと、台所へ戻った。

 朝から使っていた分量の紙が、まだ立ててあった。

 端に、小さな水の跡がついていた。


 私はそれを持ち上げた。

 お母さんが、拭いた器を棚へ戻しながら、こちらを見た。


「取っておく?」


 頷いた。


「……ちゃんと、ノートに書いておきたい」


 お母さんが笑った。

 私は紙を持って食卓へ戻り、小さなノートを開いた。


 材料と分量を書いた。

 お母さんに教わった順番も、覚えているところから書いた。


 卵は、1個ずつ。

 急いで返さない。

 手元を見る。


 途中で、お母さんへ聞いた。

 お母さんは隣へ座り、私の書いたところを順番に見てくれた。


「ここは、次を流す前ね」

「……そっか」


 矢印を書き足した。

 きれいな説明にはならなかったけれど、自分でやった順番を思い出せた。


 最後に、朝より少し上手く巻けた、と小さく書いた。

 その下へ、何か書こうとして、鉛筆を止めた。


「どうしたの?」


 お母さんが聞いた。

 私は少し迷ってから、顔を上げた。


「……勝也、知らなかったんだよね」

「優子が作ったこと?」


 頷いた。


「知らないで、おいしいって、言ってくれた」


 口に出すと、また嬉しくなった。

 お母さんが、うん、と頷いた。


「ちゃんと、聞いてたよ」


 私は鉛筆を持ち直した。

 顔が少し熱かった。


「私が作ったって分かったら、勝也、形が変でも、大丈夫だよって言ってくれると思う」


 お母さんは黙って聞いていた。


「だから、知らないで言ってくれたのが……すごく、嬉しかった」


 お母さんが私の背へ、そっと手を添えた。


「うん。食べたいって、また言ってくれたものね」


 頷いた。

 その時の勝也の顔まで、すぐに思い出せた。


「……また、作りたい」


 言うと、お母さんが笑った。


「じゃあ、また一緒に作ろう。優子が1人でできるところも、少しずつ増やしていこうね」


 私は頷いた。


 大きなことを、急にできるようになったわけではなかった。

 卵を割って、混ぜて、焼く。

 途中で分からなくなれば、お母さんへ聞く。


 それでも、今日は、勝也が食べるものを、自分の手で作れた。


 ノートの最後へ、小さく書き足した。


 勝也が、おいしいって言ってくれた。


 書いてから、お母さんに見られていることを思い出した。

 手を上へ置きかけると、お母さんが笑った。


「そこも、大事なことね」


 私は少し俯いた。

 でも、消さなかった。


     * * *


 寝る前に、明日の鞄を用意した。

 教科書は入れなかった。

 ハンカチと、財布と、手帳。

 借りていた4冊の漫画は、角が折れないように紙袋へ入れた。

 ほかに返すものが残っていないか、机の上も確かめた。


 土曜日に勝也の家へ行く。

 同じ画面を見て、同じ声を聞く。

 勝也が話してくれた声や音楽を、今度は私も聞ける。


 鞄の持ち手を直しながら、勝也の部屋を想像した。

 まだ見たことのない本棚と、DVDの並んだ場所。

 どんなものを見せてくれるのだろう。


 見終わったら、また感想を話したかった。

 勝也が好きだと言ったところで、私も同じように笑うのかもしれない。

 違うところが気になったら、それも聞いてもらおうと思った。


 机の端へ、料理のノートを置いた。

 明日の鞄とは、別の場所だった。

 こちらは、帰ってきてからも、また開くものだった。


 今日の最後の1行を、もう1度見た。


 勝也が、おいしいって言ってくれた。


 そっと閉じた。


 明日は、勝也が好きなものを見せてくれる。

 私は、次に作る卵焼きを、今日より少し上手に巻けるようになりたかった。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

林間学校では火の管理と米洗いを引き受け、優子と一緒に準備する。『DEATH NOTE』を熱く語ったあと、DVDを持ってくる提案から、部屋を見たいという優子の希望で自宅へ招く約束をする。翌日には、優子が作ったと知らずに卵焼きを褒める。


・富田 優子

男女別の部屋という全体説明に不安になるが、自分たちの班は同室と聞いて安心する。茶道部では詩織へ幼い頃からの恋心を打ち明ける。勝也と漫画の感想を語り合い、自分から彼の部屋へ遊びに行きたいと伝える。母にポテトサラダと卵焼きを教わり、勝也に喜んでもらう。


・加藤 真弓

班長の翔太に代わって飯盒炊飯の相談をまとめ、優子には固定の役割を設けず、勝也と一緒に動ける形を提案する。翌朝も優子の話を自然に受け止め、無理のない参加の仕方を一緒に考える。


・鳥居 翔太

林間学校のカレー作りを楽しみにし、班の相談では火の係を強く希望して、野菜洗いにも加わると約束する。早々に軍手を用意し、放課後には勝也が取り分けてくれた茶道部のお菓子を受け取る。


・鶴見 春樹

飯盒炊飯では勝也、翔太と火の担当になり、初めは翔太と野菜洗いを手伝う。勝也や綾香とは互いの家によく泊まるため、同室にも自然に賛成する。翔太の勢いへ落ち着いて突っ込み、優子が皆と笑える会話を作る。


・井上 綾香

真弓とカレーの調理を受け持ち、優子が勝也と一緒に参加する案へ快く賛成する。自分も野外での調理は初めてだと話し、皆で作る準備を進める。


・荒川 宣仁

放課後、茶道部のお菓子を気にする翔太へ声を掛け、部活へ向かう道で笑い合う。


・花沢先生

林間学校のしおりを配り、来週水曜日からの2泊3日の活動や一般の宿泊設備を説明する。役割決めの終わった勝也たちの班へ、配慮した和室と目の前のトイレ・浴室を案内し、全員に同室でよいか確認する。具体的な過ごし方は保護者とも改めて相談すると伝える。


・山崎 詩織

茶道部で優子の隣へ座り、勝也への恋心に気づく。幼い頃から好きだったと聞いて驚き、本人には勝手に明かさず、直接聞けないことがあれば手助けすると約束する。


・茶道部の部長、先輩たち、顧問の先生

初めて来た優子を迎え、読書や宿題をして過ごしてもよいと伝える。勝也へ練習のお茶を頼み、余っていた芋けんぴを持ち帰れるようにする。


・優子の母(美和)

2人から学校や茶道部の話を聞き、林間学校の心配を整理する。料理を覚えたい優子へ下ごしらえから教え、勝也を喜ばせられた娘と、次も一緒に作る約束をする。


・優子の父(泰臣)

食卓で学校の話を聞き、林間学校について心配な点を書き留めることを提案する。優子が練習した卵焼きを食べ、次に作る時も楽しみにしていると伝える。

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