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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
41/52

第36話 寄り道


    * * 勝也視点 * *


 水曜日の朝、鞄とは別に、小さな紙袋を持って家を出た。


 優子へ貸す漫画を入れてあった。昨日、続きを持ってくると約束した『デスノート』の3巻と4巻。それから、家で本棚を見ている時に思い出した、恋愛漫画の1巻も入れた。


 マンションの入口で待っていると、昨日と同じ車が来た。


 窓の向こうに優子が見えた。こちらへ気づいて手を少し上げたが、車を降りる時には、背負った鞄の肩紐を両方とも握っていた。


「おはよう、優子」

「……おはよう」


 返事をしてから、俺の手元を見た。


「それ、本?」

「うん。昨日、言ってた続き。学校に持っていかないで済むように、お母さんに預かってもらおうと思って」


 運転席の窓が下りたので、挨拶をしてから袋を差し出した。


「お手数ですけど、家に置いておいてもらってもいいですか」

「いいよ。居間へ置いておくね」

「ありがとうございます」


 優子が、受け渡される袋を目で追った。


「……帰ったら、読んでもいい?」

「もちろん。そのために持ってきたんだから」


 頷いた顔に、少し笑みが浮かんだ。


 昨夜、続きを用意しているうちに、つい漫画を読み返してしまったことも話したくなった。けれど、その前に、お母さんが優子へ声をかけた。


「タオル、入ってる?」

「うん。ここ」


 優子が鞄の外側を押さえた。


「加藤さんに返すの。昨日、洗ってもらったから」

「そっか。俺からも、お礼言わないと」


 日傘を受け取り、開いた。優子がその下へ来て、俺の空いた手へ自分から指を重ねた。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい。帰ったら、また聞かせてね」


 お母さんへ手を振って、歩き出した。


     * * *


 校門の手前では、今日も歩くのが遅くなった。


 通り過ぎていく同じ制服の背中を、優子が見ていた。俺は日傘を持つ手を少し動かし、優子の立っているところへ影を寄せた。


「少し、ここにいようか」

「……うん」


 昨日も来られたから、とは言わなかった。


 門の向こうで花沢先生が気づき、こちらへ来てくれた。


「おはよう」

「おはようございます」


 俺に続いて、優子も小さく挨拶した。


 先生は、すぐに校舎へ向かおうとはしなかった。ほかの生徒へ道を空けるように少し横へ寄り、俺たちと並んで立った。


 手のひらに、優子の指が強く当たっていた。


 しばらくして、優子が俺を見上げた。


「……行く」

「うん。一緒に行こう」


 先生も頷き、同じ速さで歩き始めた。


 昇降口では、優子が持ってきた袋から上履きを出した。昨日、家へ持ち帰ったものだった。履き替えてからも外靴を見ていたが、俺がそばで待っていると、鞄の持ち手を握り直した。


 教室まで来ると、先生は俺たちを廊下の端へ呼んだ。


「今日の体育のことも、お母さんとお話ししたよ。着替えには、昨日の部屋を使おうね」


 優子の手が少し動いた。


「……はい」

「体育の先生にも、話してあるから。着替えができても、そのあと疲れたり、困ったりしたら教えてね」


 先生が説明している間、俺も聞いた。


 昨日、机を拭いてもらった部屋のことは分かっていた。けれど、実際にそこで着替え、教室とは違う場所で授業を受けるのは、今日が初めてだった。


 優子が頷いたところで、先生は先に教室へ入った。


 窓側の席へ向かう途中、真弓と目が合った。


「おはよう」

「おはよう。昨日は、ありがとう」


 俺が言うと、真弓は優子へも挨拶した。優子は立ち止まり、鞄から畳んだ袋を出した。


「あの……タオル。洗ってもらったの」

「もう持ってきてくれたの? 急がなくてよかったのに」

「お母さんも……ありがとうって」


 真弓が受け取った。


「うん。こちらこそ、洗ってくれてありがとう」


 袋の口から見えるタオルへ目を落とすと、真弓の唇が少し動いた。


 俺がその顔を見たら、先に言われた。


「思い出してないから」

「まだ、何も聞いてないよ」


 真弓が俯いた。肩が揺れ、優子も俺の隣で、小さく息を漏らした。


 昨日ほど大きな笑い声にはならなかった。


「また何かあったら、言ってね」


 真弓が優子へ言った。優子は少し迷ってから、今日は体育の着替えがあるの、と話した。


「先生から、もう1人に外で待っててもらうって……」

「うん。一緒に行くよ。部屋の中にも私がいた方が、落ち着かない? 2人の間に立てるから」


 優子が俺を見てから、真弓へ目を戻した。


「……中にも、いてくれるの?」

「うん。勝也がこっちを向かないように、私が見てる」

「向かないよ」


 先に答えると、真弓が少し笑った。


「分かってる。念のため」


 優子の口元も少し緩んだ。


「……じゃあ、お願いしてもいい?」

「もちろん」


 俺たちは、教室にいた花沢先生にも声をかけた。廊下へ少し出て、昨日の外で待つ方法から、真弓にも中へ入ってもらう形にしたいと話した。


 先生は優子にも確かめてから頷いた。


「分かった。3人で入って、加藤さんに間へ立ってもらおうね。扉とカーテンは閉めて使ってね」


 優子が頷き、真弓へ小さく礼を言った。


 真弓が席へ戻ってから、優子は鞄の中を確かめた。タオルの袋がなくなったところへ、手を少し入れていた。


「……言えたね」


 俺が声を落とすと、優子が顔を上げた。


「うん」


 それから、自分のノートを取り出した。


     * * *


 体育の前の休み時間、俺たちは真弓と3人で小さな部屋へ行った。


 優子と真弓は、体操服を入れた袋を持っていた。俺の袋は、まだ空だった。体育のある日は、家から制服の下に体操服を着てくるようにしていた。


 真弓が扉を開けた。


 机の表面には何もなかった。昨日、拭いてもらった場所を優子が見ている間に、真弓がカーテンを閉めた。


「富田さんは、奥でいい? 鞄も、この机に置けるから」

「……うん」


 優子が鞄を下ろした。しばらく持ち手を握っていたが、机の上を確かめてから、体操服の袋をその横へ置いた。


 真弓が、俺へ顔を向けた。


「勝也は、入口の方ね。ずっと扉を向いてて」

「うん。真弓は?」

「壁」


 短い答えだった。


「壁……」

「あと、見張り」


 さっき先生へ話したとおり、俺と優子の間に立った。俺が扉の方を向けば、その背中と、奥にいる優子との間へ真弓が入る形だった。


「私がここにいるから。富田さん、準備できたら教えて」


 優子が頷いた。


 俺は扉を閉め、脱いだ制服を置く袋を自分の前へ広げた。忘れ物を取りに振り返らなくていいように、必要な物を確かめた。


「勝也、まず、向き」


 言われた方を向いた。


「そう。そのまま」


 後ろで、優子が袋を開けた。


「……もう、大丈夫」

「うん。じゃあ、着替えようね」


 真弓の返事を聞いてから、俺もシャツのボタンへ手をかけた。


 制服の上下を脱いで畳むと、下にはもう体操服を着ていた。裾を直し、制服を袋へ入れた。


「俺、終わったよ」

「早くない?」


 真弓の声がした。


「下に着てきたから。脱ぐだけなんだ」

「そういうこと。じゃあ、そのまま待ってて」


 袋の持ち手を握って、立ったまま待った。


「……手も、横?」

「好きにしていい。振り向かなければ」


 昨日のことを思い出して聞いたのが分かったのか、真弓の声に少し笑いが混じった。


 肩の力を抜いたところで、後ろから名前を呼ばれた。


「勝也」

「うん?」


 顔だけ向けかけた。


「前!」


 真弓の声に、すぐ戻した。まだ、視界には扉の端しか入っていなかった。


「呼ばれたら、つい向いちゃって」

「今日は、返事だけ」

「……はい」


 取っ手の少し上を見た。


 優子の方から、小さな声がした。


「ごめん……呼んじゃって」

「呼んでいいよ。俺が、向かなければいいんだから」


 真弓が、そうそう、と言った。


 廊下で足音がした時、後ろの音が止まった。


「……勝也、いる?」

「うん。ここにいるよ」


 扉へ顔を向けたまま答えた。


「終わるまで、ここで待ってるね」

「……うん」


 足音が遠ざかってから、袋の動く音がした。


 そのすぐあとで、真弓が息を漏らした。


「何?」

「今度は、ちゃんと返事だけできたなと思って」

「今、褒められるところだった?」


 優子の方からも、小さく笑う声が聞こえた。


 顔を見たくなったが、今度は前を向いたままでいられた。


 少し待ってから、真弓へ聞いた。


「真弓は、もう着替えた?」

「着替えられると思う?」


 返事が、少し低かった。


 壁だった。


 今、壁をやってくれていた。


「……ごめん」

「いいから、前」


 さっきから見ている扉へ、もう1度目を戻した。


 昨日、先生が場所を用意してくれた。みんなが片づけ、机を拭いてくれた。今は真弓が、自分の着替えを後にして、間に立ってくれていた。


 俺がそばにいるだけでは足りないところを、こうして助けてもらっていた。


「……終わった」


 優子の声がした。


「うん。もう、向いていい?」

「ちょっと待ってね」


 真弓が優子へ確かめる声が聞こえた。大丈夫、と返事があってから、俺へ、いいよ、と言った。


 やっと振り返った。


 真弓が両手を腰へ当てていた。その向こうで、優子が制服の入った袋を鞄へしまっていた。


 鞄を持ち上げ、俺の前へ来た。差し出された手を取ると、指がすぐに握り返された。


「……待っててくれて、ありがとう」

「うん。着替えられたね」


 真弓が扉を指した。


「じゃあ、2人とも外。ここからは、私の時間」

「うん。待ってるね」


 鞄を持って、優子と廊下へ出た。真弓が扉を閉める前に、こちらへ顔を向けた。


「呼んでも、返事だけだからね」

「分かってるよ。入らないから」


 扉が閉まった。


 俺たちは通る人の邪魔にならないよう、壁際へ寄った。優子は俺の手を握ったまま、少し肩を下ろした。


 中で袋が動く音がした。間を置かず、また別の音が続いた。


「……加藤さん、速いね」


 優子が小さく言った。


 俺が答えるより先に、中から声がした。


「速くしてるの!」

「ご、ごめん……」

「富田さんは謝らなくていいから!」


 優子が俺を見上げた。俺も少し迷ってから、声を落とした。


「……あとで、2人でありがとうって言おうね」


 優子が頷いた。


「今、聞こえてるからね!」


 また声がしたので、俺は扉へ向かって言った。


「ありがとう」

「……ありがとう」


 優子も続けた。


 少し、音が止まった。


「……どういたしまして!」


 しばらくして扉が開くと、真弓は体操服になっていた。


「お待たせ。行こう」


 優子がもう1度、ありがとう、と言った。真弓は今度は笑って頷き、俺たちと体育館へ向かった。


     * * *


 体育は、体育館でのマット運動だった。


 入口で、床を蹴る靴の音が響いた。優子が立ち止まったので、俺も止まった。先に入った真弓が振り返り、すぐそばにいた先生へ声をかけた。


 先生は入口まで来ると、ほかの生徒へ向ける時より声を落とした。


「富田さん。今日は、できそうなところだけやってみようか。鵜飼も、そばにいていいから」

「……はい」


 優子が頷いた。


 鞄を置く場所を聞くと、先生が壁際の床を示した。そこから荷物の見える位置にマットを敷けると聞き、優子がそちらを見た。


「ここなら、荷物も見えるね」

「うん……」


 持ち手を握っていた指が、ゆっくり離れた。


 集まった生徒たちに合わせて、荷物を置いた場所の近くで体をほぐした。俺が肩を回すと、優子も同じように腕を動かした。


 両腕を上げる時だけ、つないだ手が離れた。下ろすと、また指が触れた。


 春樹が、こちらへ来た。


「ここでやる?」

「うん。先生に、そばにいていいって言ってもらったから」


「分かった。じゃあ、俺らもこっちのマット使おうかな」


 少し向こうで足首を回していた翔太が、こっち、と聞いて寄ってきた。


「俺も。勝也と一緒でいい?」

「うん」


 先生の説明が終わってから、近くのマットへ座った。今はそれぞれ体をほぐし、あとで基本の技から練習することになっていた。


 俺が脚を伸ばしたところで、翔太の顔が変わった。


「あ。富田さん、知ってる?」


 急に話を向けられ、優子が顔を上げた。翔太は俺の膝の辺りを指した。


「勝也、マジで岩なんだよ」

「その説明から始めるの?」

「でも、本当だろ」


 春樹まで頷いた。


「座ったところから、ほとんど動かないんだよな」

「動こうとはしてるよ」


 優子が、俺と2人を順番に見た。


「……知ってる」

「え、知ってるの?」


 俺が聞くと、優子は少し口元を緩めた。


「入学してすぐの、体力測定のあと……みんなで話してたでしょ。勝也が、岩だって」


 あの時のことか、と分かった。


 記録用紙を見ながら教室へ戻る途中、長座体前屈だけを何度も読み上げられた。走るのも跳ぶのも、そのせいで全部、岩が何かをする話に変わった。


「聞こえてたんだ」

「うん。走れる岩って……」


 翔太が、嬉しそうに俺を見た。


「ほら。ちゃんと覚えてもらえてる」

「ほかにも、覚えてもらうことあったと思うけど」

「長座体前屈19cm」

「そこから離れてほしいんだよ」


 春樹が、膝の上へ肘を載せて笑った。


 優子は、俺の伸ばした脚を見た。


「でも、どのくらいなのかは……見てなかったから」

「じゃあ、今見てもらおうぜ」


 翔太が、どうぞ、と俺の前へ手を向けた。


「今日、測る日じゃないよ」

「測らなくても分かるから」

「分かるんだよな」


 春樹まで同じことを言った。


 俺は息を吐き、両手を前へ伸ばした。膝を曲げないようにして、上体を倒そうとした。


 太腿の裏が突っ張った。


 もう少し、と指を伸ばした。


 そこで止まった。


 優子が、俺の顔を覗いた。


「……本気でやってるの……?」


 翔太が、膝を叩いた。


「そう思うよね!」

「分かる。俺らも最初、そう思った」


 春樹は、もう笑っていた。


「本気だよ。今、結構頑張ってる」

「……これで?」

「うん。これで」


 優子はすぐに、ごめん、と言った。でも、俺の背中から目を離せないようだった。


「富田さん、ちょっと押してみ」


 翔太が言い、春樹が俺の後ろを示した。


「手、当ててみると分かるよ」


 通りかかった先生が、俺たちの方を見た。


「押すならゆっくりな。反動はつけない。痛かったら、すぐ言うんだぞ」

「はい」


 返事をしてから、優子へ顔を向けた。


「押してもらっていい?」

「……うん」


 優子が俺の後ろへ回った。背中へ、両手がそっと触れた。


「ここで、いい?」

「うん。大丈夫」


 手に力が入った。


 少し待った。


「……押してる?」

「押してるよ……」


 返事が、少し近くなった。


 前にいた翔太が、口元を押さえた。春樹は俺ではなく、その後ろを見ている。


「もう少し、本気でやってもいいよ」

「これでも、本気なの……」


 今度は翔太が、声を漏らした。


「ちょっと待って。勝也、富田さん、すごい頑張ってる」

「うん。手が押してくれてるのは、分かるよ」


 優子が、もう1度手を当て直した。


 膝立ちから体を前へ傾け、全体重をかけるように背中を押した。手のひらだけでなく、腕までぴんと伸びたのが、肩越しに分かった。


 それでも、俺の上体は前へ倒れなかった。


「……動かない」


 後ろから、途方に暮れた声がした。


「何してんの?」


 綾香の声だった。真弓と並んで来て、俺たちを見た。その少し後ろから、マットの位置を直していた宣仁も顔を出した。


 真弓は優子の顔を見てから、俺の正面を空けて座った。綾香と宣仁もその隣へ腰を下ろした。


「勝也、また固まってんのか」

「固まろうとしてるわけじゃないよ」


 優子の手から力が抜けた。


 横へ戻ってきた顔を見ると、頬が赤くなっていた。自分の手を見て、それから、同じところに座っている俺を見た。


「……本当に、岩……」


 そこで、口元が崩れた。


「ふふっ……ごめん、でも……全然、動かなくて……」


 笑いながら両手を重ねるので、俺まで笑ってしまった。


「俺も、前には行きたいんだけどね」

「勝也、今、押し返してなかった?」


 真弓が聞いた。


「押し返してないよ」

「ほんまに、あれで限界なんや」


 宣仁が、俺の横から角度を確かめるように見た。


 翔太が、勢いよく手を上げた。


「俺も! 俺もやりたい!」

「やりたいって、何を」

「岩を動かす」

「俺なんだけど」


 優子が場所を空けると、翔太が俺の後ろへ座った。さっき先生に言われたのを覚えていたらしく、いきなり押さずに両手を当てた。


「いくぞ」

「うん。急にやらないでね」


 押す力が、だんだん強くなった。


 俺は前を見たまま、両手を伸ばしていた。


「……おい」

「何?」

「お前も、前に行けよ」

「行こうとしてるって」


 翔太の息が聞こえた。


 足を踏ん張り、とうとう全力で押し始めた。それでも、俺の指先は同じところにあった。


「うそだろ……!」


 綾香が横を向き、真弓がその肩を掴んだ。春樹は、声を出して笑っていた。


「翔太の顔の方が動いてる」

「今、全身使ってるで」


 宣仁まで笑った。


 俺もおかしくなったが、太腿の裏が痛くなりかけて、片手を上げた。


「待って。そこまで」


 翔太がすぐに手を離した。


「はい、そこまで。曲げ合いは終わり」


 先生にも声をかけられ、俺たちは揃って返事をした。


 翔太だけ、後ろへ座り込んだ。


「……何で、押してる俺の方が疲れてんだよ」


 優子が、両手で口元を覆った。


「ふふ……っ」


 堪えようとするたびに、肩が揺れた。翔太の赤い顔を見て、それから俺を見ると、また笑ってしまうらしかった。


「ほら、富田さんにも笑われた」

「だって、翔太、勝也より頑張った顔してる」


 真弓が言うと、翔太はまだ息を整えながら俺を指した。


「こいつが、硬すぎるんだよ……!」


     * * *


 基本の技を確かめてから、できる技を選んで練習する時間になった。


 優子は、俺の隣で先生の見本を見ていた。人が通る時には袖を掴んだが、さっきのように、ずっと握ったままではなかった。


「勝也、やってみていいよ」

「ここで、待っていられそう?」

「うん。加藤さんたちも、いるから……」


 真弓が優子の隣へ座った。俺は、すぐ横のマットを指した。


「じゃあ、終わったら、ここへ戻るね」

「うん」


 俺の順番が来た。


 前が空いたのを確かめ、跳び前転をした。立ち上がってマットの横へ出ると、翔太が口を開けていた。


「……え?」

「何?」

「いや、今」


 次の人が入ったので、俺も列の後ろへ戻った。優子のそばに座ると、その目も丸くなっていた。


「勝也、できるんだ……」

「うん。これは」


 もう1度順番が回ってきた時には、伸膝後転をした。その次は、開脚後転。


 マットから出るたびに、みんなの顔を見た。


 同じ顔をしていた。


「ちょっと待って」


 春樹が、俺とさっき座っていた場所を交互に見た。


「お前、さっきまで前に曲がらなかっただろ」

「うん」

「今、曲がってなかった?」

「座ってる時は、あそこまでしか行かないんだよ」

「その説明で、納得できると思う?」


 優子が春樹を見て、また小さく笑った。


 離れた列では、まだ前転や後転を練習していた。先生が、ほかにできる技がある人は、こちらで見せるようにと声をかけた。


 俺は、やってみたい技を伝えた。先生がマットの並びを確かめ、そばへ来たので、合図を待って始めた。


 側方倒立回転をして、マットの端で立った。


「……それも?」


 綾香の声がした。


 次にロンダートをすると、翔太が立ち上がりかけた。


「待て待て待て」

「翔太、横から入らないで」


 真弓に引かれて、また座った。


 先生に確かめてもらいながら、前方倒立回転もした。着地して顔を上げると、今度は宣仁まで、両手を膝へついていた。


「なんでやねん……」


 まだ何か言いたそうだったが、俺の次の順番が来た。


 首はね起き。


 そのあとに、頭はね起きも見せた。


 どちらも立ち上がって戻ると、みんなが俺を見た。


「なんで!?」


 声が重なった。


 翔太だけではなかった。春樹も、真弓も、綾香も、同じ顔で口を開いていた。宣仁は、なんでや、ともう1度言った。


 その真ん中で、優子が吹き出した。


「ふふっ……みんな、同じこと……」

「だって、おかしいでしょ!」


 真弓が俺を指した。


「さっき、富田さんがあんなに押しても動かなかったんだよ?」

「俺も押した!」

「うん。翔太も押したね」


 綾香が付け足すと、春樹が両手で俺の座っていた形を作った。


「あれは、何だったんだよ」

「だから、あれも本気だよ」

「本気の岩が、回って起き上がって戻ってきたんだけど」


 優子が、また口元へ手を当てた。


 肩が揺れて、白い髪も一緒に動いた。


「……勝也、すごいね」

「ありがとう」

「でも……本当に、なんで……?」


 褒めてくれたあとで、同じことを聞かれた。


「俺にも、うまく説明できないよ」


 答えると、優子がとうとう声を出して笑った。


     * * *


 そのあと、先生に見てもらう最後の技で、三点倒立をした。


 脚を揃えると、いつものところでぴたりと止まった。


 しばらく、誰も話さなかった。


「……動かねえ」


 翔太の声がした。


「さっきとは、別の意味でな」


 春樹が答えた。


 逆さまになった体育館の壁が、視界の同じところにあった。横から数える声が聞こえたが、その間も、脚が傾く感じはなかった。


 その時、真弓が変な声を出した。


「……っ、ふ」


 すぐに、もう1度聞こえた。


「ごめん……ちょっと、待って……」


 先生の合図で脚を下ろし、座り直した。


 真弓が、膝へ顔を伏せていた。綾香がその背中へ触れている。


「どうしたの?」


 俺が聞くと、真弓は顔を上げた。目元に、また涙があった。


「だって……昨日と、同じ……」


 優子が、はっと俺を見た。


 分かったらしかった。


「……あ」

「上下、逆になっただけで……あの、ぴしっと……」


 真弓が言い切れずに、また顔を伏せた。


 昨日のトイレで、扉へ向かって立っていた俺を思い出しているのだと分かった。


「今、目隠しも耳栓もしてないよ」


 真弓と優子にだけ届くように言ったつもりだった。


 でも、言わない方がよかった。


「それ、今、言わないで……!」


 真弓が俺へ手を向け、綾香の肩へ寄りかかった。


 優子も、笑いを堪えながら自分の膝を見ていた。


「……ずっと、動かなかったから……」

「今日は、動かない方がいいやつだからね」


 俺が言うと、2人とも、ますます笑った。


 翔太が春樹へ顔を寄せた。


「何の話?」

「俺に聞くなよ」


 綾香も首を傾げていたが、真弓が笑いながらこちらを向くので、つられて口元を押さえた。


     * * *


 優子は、できそうな動きを先生に聞いてから、前転を練習することにした。


 その前に座って体を伸ばすと、俺とは違い、上体がするりと前へ倒れた。


 翔太が、何も言わずに俺を見た。


「もう分かったよ」


 先に答えると、春樹が笑った。


「富田さん、柔らかいね」


 綾香に言われ、優子は顔を上げた。


「でも……体育、あまり得意じゃなくて……」

「できるところだけでいいよ。先生も、そう言ってたし」


 真弓がマットの端へ寄った。優子がこちらを見たので、俺もすぐ横へ座った。


「ここにいるね」

「うん」


 最初は、しゃがんだところから、なかなか動き出せなかった。


 先生に見てもらい、1度回ってみると、体は小さくまとまった。けれど、最後に立とうとしたところで、横へへにゃっと傾いた。


 マットへ手をつき、そのまま座った。


「……あれ」


 本人が、いちばん不思議そうだった。


「回れたよ。最後だけ、もう1回確かめようか」


 先生の言葉に頷いて、元の場所へ戻る。真弓が隣で一緒にしゃがみ、綾香も、今のところまでできてたよ、と声をかけた。


 優子は小さく頷き、今度は立ち上がるところだけを試した。


 腕を前へ伸ばしたまま、途中で止まった。


 あと少し、というところで膝が揺れ、また、ぺたんと座った。


 俺は思わず手を出しかけたが、優子は自分で姿勢を戻した。真弓へ何か聞いてから、もう1度やろうとしている。


 隣で見ていた翔太が、声を落とした。


「……可愛いよな」

「うん」

「うん」


 春樹と俺の返事が重なった。


 優子は、真弓が立ち上がるところを真剣に見ていた。同じように腕を伸ばしてみてから、今度は自分の足元を見た。


「何か、俺も守ってあげたくなる」


 翔太が言った。


「だろ?」


 俺が答えると、春樹も目を細めた。


「小柄だから、小学生みたいだな」

「分かる」

「うん、分かる」


 翔太と一緒に頷いた。


 優子が立ち上がれた。ほっとした顔で真弓を見て、それから俺の方へ目を向けたので、頷き返した。


 嬉しそうに口元が緩んだ。


「怖い時に抱きついてくるんだけど、正直、めっちゃ可愛い」


 さっき可愛いと言った、その理由のつもりで続けた。


「はぁ!?」


 翔太が俺を向いた。


「声、大きいよ」


 春樹がすぐに言った。翔太は口を閉じ、優子の方を見た。


 優子もこちらを見ていた。俺が、大丈夫だよ、と手を上げると、首を傾げてから、先生へ顔を戻した。


 翔太が、今度は耳元へ顔を寄せた。


「……はぁ!?」


 同じ顔のまま、音だけ小さくなった。


「えっと……言ってなかった?」

「聞いてない!」

「声。それと、その話、俺も聞いてない」


 春樹が翔太を止めたあと、俺へ顔を向けた。


「手をつないでるのは見てたけど。抱きついてくるの?」

「……あれ。じゃあ、言ってなかったんだね」

「そうだよ!」

「翔太、声」


 また言われ、翔太は両手で顔を擦った。


「春樹も、もうちょっと驚けよ……」

「驚いてるよ。お前が俺の分まで声出してるだけで」


 春樹はそう答えたあと、俺をもう1度見た。


「……普通に話すから、聞き流すところだった」

「俺も、そんな大きな話にするつもりじゃなかったんだけど」


 翔太はもう1度優子を見た。優子は先生の話を聞き、真弓と場所を入れ替わったところだった。


「……ああいう顔で、来るの?」

「うん。落ち着いてから、顔を上げてくれる時とか」

「もういい。ちょっと待て」


 聞いた方が、手を上げて止めた。


「なんで、勝也はそんな普通に言うんだよ」

「可愛いって言ったの、翔太でしょ」

「そうだけど、今のは別!」

「だから、声」


 春樹に言われて、翔太がまた口を閉じた。


 俺も、声を出さないように笑った。


 優子が、もう1度前転をした。


 最後に足元が揺れたけれど、今度は手を前へ伸ばし、そのまま立てた。


 俺たち3人が、揃ってそちらを向いた。


「できたね」


 俺が言うと、優子は頷いた。


「……うん」


 翔太も、できたじゃん、と笑った。春樹は今度、大きな声だとは言わなかった。


 翔太が、隣の空いたマットを見た。


「俺も、もう1回やってくる。勝也の見てたら、できそうな気がしてきた」

「見るだけで、できるようになるのかよ」


 春樹が笑いながら立ち上がった。


「じゃあ、お前もやってみろって」

「うん。側転からな」


 2人がマットへ向かった。翔太が両腕を上げ、さっきの俺の動きを真似してみせる。春樹はその横で首を傾げ、腕の向きを確かめていた。


 俺はマットのすぐ脇、荷物を置いた壁際へ戻った。鞄を手元へ寄せ、床に体操座りをした。


 優子は、真弓と綾香へお礼を言っていた。真弓が、またやりたくなったら言ってね、と返したところへ、宣仁が来た。


「翔太、また勝也の真似しとるで」

「さっき、勝也の背中を押して疲れてたのにね」


 綾香が笑い、真弓もマットの方を向いた。3人が話し始めると、優子がこちらへ歩いてきた。


「勝也たち……何、話してたの?」

「優子、立てそうだねって」


 最後に3人で見ていたところを答えた。


 優子が、照れたように目を伏せた。体操服の裾を両手で直し、俺の真横へ腰を下ろした。


 肩が触れた。


 膝を立てると、脚の横もくっついた。優子はそのまま両腕で膝を抱え、俺と並んで体操座りになった。


 鞄は、空いている方のすぐ横へ寄せた。持ち手に触れて確かめてから、俺を見上げた。


「……見ててくれて、ありがとう」

「うん。最後、ちゃんと立てたね」


 頷いた優子の口元に、笑みが残った。


 俺もマットへ顔を向けた。隣の肩は触れたままで、優子が息をつくと、体操服の布がかすかに動いた。


「疲れた?」

「少し……でも、できた」

「うん。ここで、ちょっと休もうね」


 優子が頷いた。


 それから、俺の背中へ目を向けた。


「……勝也も、すごかった」

「ありがとう」

「回ってるところも、逆さまのところも……でも、いちばんびっくりしたの、最初かも」

「押しても、動かなかったところ?」


 聞くと、優子がまた笑った。


「……本当に、岩だった」

「今日は、そこだけ覚えて帰らないでね」


 優子は笑いながら、首を振った。


「ほかのところも、覚えてるよ」


    * * 真弓視点 * *


 宣仁が翔太の動きを真似して、綾香が笑った。


 私も笑いかけたところで、壁際へ目が向いた。


 富田さんが、勝也のすぐ横へ座っていた。


 床は、まだ空いていた。けれど、肩も脚も触れるところへ自分から座り、勝也の顔を見上げていた。


 勝也が何か言うと、富田さんが笑った。


 昨日も、ほっとした顔は見た。勝也がそばへ来てくれた時や、怖かったことが済んだあと。今も隣にいることに安心しているのは、分かった。


 でも、その顔に、もう少し違うものが混じっていた。


 勝也と目が合ったことが嬉しいみたいに、頬が緩んでいた。話が途切れ、勝也がマットの方を向いても、その横顔を少し見ていた。


 そばにいられるのが、幸せそうだった。


 ……勝也のこと、好きなのかな。


 幼馴染だから、と聞いていた時には、あまり考えなかった。小さい頃から知っていて、今も頼れる相手だから、あんなふうに近くにいるのだと思っていた。


 それもあるのだろうけれど。


 富田さんが顔を前へ戻した。勝也の肩に触れたまま、膝へ顎を近づけた。その口元には、まだ笑みが残っていた。


「真弓?」


 綾香に呼ばれ、顔を戻した。


「……うん。何?」


 聞き返すと、宣仁がもう1度翔太を指した。


 私はそちらを見た。さっき気づきかけたことは、まだ言葉にしなかった。


    * * 春樹視点 * *


「今の、どうだった?」


 マットから出てきた翔太が聞いた。


「最後、脚が曲がってた」

「勝也、簡単そうにやってたのにな」


 俺も1度やってみてから、マットの横へ出た。翔太が、もう1回、と元の場所へ戻ったので、順番を待つ間に壁際を見た。


 勝也の隣に、富田さんがいた。


 さっきまで俺が話していた相手へ、肩が触れるほど近づいて座っていた。勝也が顔を向けると、富田さんも顔を上げた。


 見慣れていない表情だった。


 怖くなって勝也を探す時とは、目元が違った。隣に座れたことが、そのまま顔に出ているようだった。


 さっき、抱きついてくると聞いた時には、怖いから頼っているのだと思った。


 それだけじゃ、ないのかもしれない。


 富田さんは、勝也が好きなのだろうか。


 昔からの友達というだけではなくて、そういう意味でも。


「春樹、見てた?」


 翔太に呼ばれ、マットへ目を戻した。


「ごめん。今の、最後しか見てなかった」

「見てろって。今の方が、絶対よかったから」


 翔太がもう1度戻っていった。


 俺は、次の順番のために場所を空けた。勝也たちへ声をかけるのは、あとでいいと思った。


    * * 勝也視点 * *


 翔太がマットから出てきて、春樹へ両手を広げていた。


 何を言っているのかまでは聞こえなかったが、春樹が笑って頷いたので、今度はうまくいったらしかった。


 優子も同じ方を見ていた。肩が触れたまま、俺の袖へ指が添えられた。


 終わりの合図が鳴ると、やはり肩が跳ねた。掴んだ袖はすぐには離れなかったが、俺が顔を向けると、小さく頷いた。


 真弓が、こちらへ来た。


「着替え、行こうか」

「……うん」


 優子は鞄を持ち、俺の手を取った。


 そのあと、また真弓と3人で小さな部屋へ戻った。


 カーテンと扉を閉め、さっきと同じように荷物を置いた。俺は入口側、優子は奥。真弓が、その間に立った。


「はい。勝也は前ね」

「うん。今度は、体操服も脱ぐから。優子も、奥を向いててね」

「……分かった」


 真弓も、間に立ったまま横を向いた。俺は扉の方へ顔を向けたまま、体操服の上下を脱いで袋へしまい、制服に着替えた。


「俺は、終わったよ」

「うん。まだ、そのまま」


 真弓がこちらを見て、俺の顔の向きを確かめた。


 優子に呼ばれた時も、今度は返事だけをした。


 少しして、優子の支度も終わった。真弓が確かめてから、いいよ、と言ってくれた。


 振り返ると、優子が制服の袖を直していた。俺へ近づく前に、真弓の方へ顔を向けた。


「……何回も、ありがとう」

「うん。じゃあ、もう1回、外で待っててね」


 俺も礼を言い、優子と廊下へ出た。


 鞄の中には、脱いだ体操服を入れた袋があった。制服の下には、もう着ていなかった。


 真弓が着替えて出てくると、今度は3人で教室へ戻った。


 机を寄せ、次の教科書を開いた。優子はノートの間に挟んであった紙を出し、どこまで書いていたのか確かめた。


 その時、春樹が問題集を持って来た。


「勝也。昨日の、この問題なんだけど」

「ああ。俺も、そこ見直したかったんだ」


 春樹が、机の空いているところへ問題集を置いた。俺は少し体の向きを変え、一緒にページをのぞき込んだ。


    * * 優子視点 * *


 隣で、勝也と春樹くんが問題の解き方を確かめていた。

 2人の声を聞きながら、私は手元の紙とノートを見比べ、書きかけだった行の続きに鉛筆を動かした。


「何、勉強してんの?」


 翔太くんの声に顔を上げると、同じクラスの男子が2人、一緒に勝也の机へ近づいてきた。翔太くんと廊下で笑い合っているところを、何度か見たことがあった。


「昨日の問題、ちょっと見直してるだけ」


 春樹くんが答えると、翔太くんが問題集をのぞき込んだ。その横で、男子の1人が袖をまくった腕を机の端に載せた。


 その子がふとこちらを向き、目が合った。私は鉛筆を止め、小さく頭を下げた。


「おう」


 その子も軽く手を上げ、笑顔で声をかけてくれた。


「富田さん、学校に戻って来られて、よかったな!」


 2人とも、こちらを見ていた。

 声の大きさに、少し肩が動いた。隣で勝也も顔を上げた。

 その子は私の様子に気づくと、机へ載せていた腕を少し引いた。


「悪い。声、でかかったな」


 さっきより小さくなった声に、首を横へ振った。

 2人とは、あまり話したことがなかった。それでも、学校へ戻ってきたことを喜んでくれていた。


「……うん。ありがとう」


 小さく答えると、その子が笑い、もう1人も頷いた。

 何を言われるのだろうと身構えていた肩から、少し力が抜けた。


 私が鉛筆を持ち直すと、その子は今度は勝也へ顔を向けた。後ろの戸を、親指で示す。


「それにしても、鵜飼。あの時、俺、すぐそこにいたんだよ」


 勝也が、その指の先へ目を向けた。


「そうだったんだ。あの時は周りを見る余裕なくて、全然気づかなかったよ」


「まじか。すげえ音がして、ドアは壊れるし、ガラスは割れるし。そのあと戸田まで殴るから、びびったよ」


 鉛筆を持つ手が止まった。

 美咲さんの名前に、背中が硬くなった。


 勝也が人を殴ったことは、家で、お母さんたちと話を聞いた時に知っていた。あの日、右手にも腕にも傷があり、制服には血がついていた。


 でも、その時の顔も、声も、私は見聞きしていなかった。

 さっきまで隣で春樹くんと問題を見ていた勝也と、誰かが驚くほど怒っていた勝也が、うまく結びつかなかった。


 勝也は否定せず、問題集の端へ置いていた手を、膝へ下ろした。

 門の前へ来てくれた時には、その手で私の背中を撫でてくれた。強く握られたり、急に引っ張られたりしたことはなかった。


「でもさ、鵜飼。あの時のお前、結構カッコよかったぞ」


 男子が続けた。


「友達のために、あそこまで本気で怒れるんだなって」


「いつも翔太とふざけてる時とは、全然違ったもんな」


 隣の男子もそう言うと、勝也が少し眉を上げた。


「いや、俺は止める方だろ」

「この前、いちばん笑ってたじゃん」


 すぐに言い返され、翔太くんまで、そうそう、と頷いた。


「うっさいわ」


 勝也が笑った。2人の男子も、つられたように笑った。

 私は、勝也の顔を見た。

 もっと遠い知り合いなのだと思っていた。勝也は春樹くんたちと話す時のように、軽く言い返していた。


 最初の男子が、笑いを収めて言った。


「まあ、見直したぜ」


 勝也は、すぐには返事をしなかった。

 私は鉛筆を置き、机の下で、その袖へ指を伸ばした。


 勝也が気づき、こちらを見た。

 私が何も言えないでいると、そっと手を取ってくれた。


「優子が、あんなことされてたから」


 男子へ顔を戻して、勝也が言った。


「何か言ってやらないと、気が済まなかったんだよね。ビンタされたあとは、完全にキレちゃって」


 そう言って、勝也は少し笑った。

 つないだ手へ、目を落とした。


 私は、勝也に嫌われたと思っていた。

 私が近づくせいで困らせているのだと、会わない方がいいのだと考えていた。

 そんなことは思っていなかったと、家の前で教えてくれた。

 その言葉を聞く少し前、ここにいた人たちは、私のために本気で怒る勝也を見ていた。


「確かに、戸田を殴った時は俺らもびびったよ。お前があんなに怒ってんの、初めて見たし」


 もう1人の男子が言った。


「俺も、女子を殴ったのなんて、生まれて初めてだったよ」

「普通、女に手なんか上げないもんな。……詳しいことは知らないけど、殴られてもおかしくないこと、してたんだよな」

「うん……」


 勝也の返事に顔を上げると、男子と一瞬、目が合った。

 その子は勝也へ視線を戻し、少し声を落とした。


「富田さんのことで、何か協力できることあったら、俺らにも言ってくれよ」


「うん。その時は、またお願いするよ。この前も助かったし」


 また、と言った。


「俺ら、知ってる奴に声かけただけだぞ」

「それが助かったんだって。翔太が、話を聞ける人、見つかったって教えてくれたから」

「こいつら、俺が知らない奴ともつながってんだよ」


 翔太くんが言った。

 勝也は頷き、2人へ、ありがとう、と言った。


 私の知らないところで、翔太くんを手伝ってくれていた。

 勝也が集めた話の中に、この人たちを通して届いたものもあった。


 私は2人を見たまま、つないだ勝也の手を少し握った。


「……あの」


 2人が、こちらを向いた。

 一瞬、声が喉に引っかかった。それでも、今度は自分から伝えたかった。


「手伝って、くれて……ありがとう」


「おう。役に立ったなら、よかった」


 その子が笑い、もう1人も頷いた。

 廊下で大きな声を出していた時より、ずっと近くで聞く返事だった。


「じゃあな、鵜飼」


「うん。またね」


 2人が机を離れた。

 勝也が手を上げて見送る隣で、私も小さく頭を下げた。


 翔太くんは机の横に残り、春樹くんの問題集を覗き込んだ。

 勝也もそちらへ顔を向けたあと、廊下の方から声がした。


「富田さん、感じいい子じゃん。いじめられてたとか、マジ可哀想だわ」


 顔を上げた。

 2人はもう戸の向こうにいて、こちらへは振り返らなかった。


 感じがいい。

 少し話しただけなのに、私のことを、そう思ってくれたのだろうか。


 慌てて勝也を見た。

 勝也は、翔太くんと春樹くんの会話に返事をしていた。今の声に気づいた様子はなく、2人も問題集を見たままだった。


 私にだけ、聞こえたらしかった。


 頬が熱くなり、ノートへ目を落とした。

 私に聞かせようとして言った声ではなかった。からかうような笑い声も続かず、足音が遠ざかっていった。


「優子、どうしたの……?」


 勝也が、声を落とした。


「……ううん」


 首を振った。

 春樹くんが問題集を閉じた。


「ここの続き、あとで見せるね」


「うん。ありがとう」


 春樹くんが席へ戻り、翔太くんも廊下側のいちばん前にある自分の席へ歩いていった。

 勝也が、私の指を包み直した。

 右手だった。


 人を殴ったことを聞いた日にも、この手を怖いとは思わなかった。

 今日、目撃した人の話を聞いても、離したいとは思わなかった。


 どんな顔で、あの戸のそばに立っていたのだろう。

 聞こうとして、唇を閉じた。

 美咲さんの名前を口にするには、まだ喉が狭かった。

 つないだ手へ、目を落とした。傷があったところは、もう、どこだったか分からないくらいきれいになっていた。


「手……もう、痛くない?」


 勝也も、自分の手を見た。


「うん。もう、すっかり治ってるよ。全然痛くない」


 つないだ指を、少し動かしてくれた。


「こうしてても、大丈夫」


「……そっか」


 つないでいない方の袖口から、白いミサンガが少し見えていた。

 私は右手の指へ目を戻し、そっと握り返した。


 あの日は、もっと痛かったはずだった。

 それでも手提げを持って歩いてきて、私が泣き止むまで背中を撫でてくれた。


 同じ教室にいた人の言葉を、まだうまく受け止められなかった。

 次の授業の先生が来るまで、私はその手を握っていた。


     * * *


 給食の時、勝也は今日も早かった。


 私がまだ半分ほど残している間に、空いたお皿を重ねた。昨日と同じだと思って見ていたら、目が合った。


「今日は、もう少し食べる」


 先に言われて、笑ってしまった。


「……今日は、大丈夫じゃないの?」

「今は大丈夫だけど、あとで減るって分かったから」


 前に座っていた班の子が、おかわりはまだあるよ、と教えてくれた。勝也がお礼を言い、空いた器を持ち上げた。


 私は箸を置いた。


「一緒に、行ってもいい?」

「うん。行こうか」


 鞄を持って立つと、勝也が椅子を少し引いてくれた。すぐ戻るつもりでも、鞄は置いていけなかった。


 給食当番の子たちも、もう自分の席で食べていた。

 配膳台のそばには、おかわりに来た子が何人かいた。少し離れて待ち、前の子がしゃもじを置いてから、勝也と一緒に近づいた。


 勝也は器を置き、しゃもじを取った。

 残っているご飯を見てから、自分でひとすくいよそった。


「……それで、足りる?」


 聞くと、勝也が器を見た。


「うん。これくらいにしておく」


 しゃもじを元へ戻し、ご飯の増えた器を持ち上げた。


 戻る時は、私の方から手を伸ばした。勝也は器を片手に持ち直し、空いた手を出してくれた。


 同じ班の席へ戻って座った。鞄を足元の見えるところへ戻し、私も箸を取った。


「……午後、眠くなっちゃうかも」

「それも、ちょっと心配」


 勝也が笑った。


 昨日は、離れられない私のせいで、おかわりを我慢しているのだと思った。今日は一緒に行けて、勝也の器には、ご飯が増えていた。


 それを見ながら、私も残っていたおかずを口へ運んだ。


     * * *


 午後の授業で、勝也の鉛筆が止まった。


 板書の途中だった。

 黒板にはまだ文字が増えているのに、勝也のノートは同じところから進まない。

 気になって横を向くと、眼鏡の奥で、瞼がゆっくり下りていた。


 眠いのだと気づいた時には、鉛筆も少し下へ動いた。

 書きかけの文字から、長い線が伸びた。


 勝也の肘へ、指先で触れた。


 肩が動き、勝也は顔を上げた。

 先生を見て、それから、自分のノートを見た。


 線の終わりを、指で押さえた。


 口元が緩みそうになって、私は前を向いた。

 休み時間には、その手が拳になるところを考えていた。

 今は、鉛筆を握ったまま眠りそうになった人が、隣で背中を伸ばしている。


 勝也が消しゴムを取った。

 私は、自分のノートを少し寄せた。


「……ここから」


「ありがとう」


 小さな声で返ってきた。

 そのあと、しばらく鉛筆は速く動いたけれど、先生が黒板を消し始める方が早かった。


 勝也が、残った空欄を見た。

 私と目が合うと、困ったように笑った。


「帰ったら、続きを見せてもらってもいい?」


 頷いた。

 ノートを少し持ち上げて、私は先の行まで書いてあるところを見せた。


     * * *


 掃除を終え、帰りの支度をした。


 勝也が机の中を確かめる隣で、私も鞄を開けた。体操服の袋が入っていることを見て、筆箱をその横へしまった。


 午前中は制服を入れ、今は体操服が入っている。同じ袋を、今日は何度も開いた。


 廊下へ出る時、加藤さんがこちらを見た。


「また明日ね」


 そう呼びかけられるより早く、私の口が少し開いていた。


「……今日は、ありがとう」


 声が重なった。


 加藤さんが笑ったので、私も少し笑い、また明日、と言い直した。


 そのあと、靴箱から出した靴を確かめ、上履きを袋へ入れた。昨日と同じように、鞄へしまった。


 学校を出てからも、勝也は1度あくびをした。


「昨日、夜更かししたの?」


 2人きりになった道で聞くと、勝也は口元から手を下ろした。


「少しだけ。優子に『デスノート』を貸したら、俺も読みたくなっちゃって」


「勝也も、読んでたんだ」


「うん。家に残ってた巻を読み返してたら、遅くなった。給食のせいだけじゃないよ」


 昨日、私が読んでいたお話の続きを、勝也も自分の部屋で開いていた。

 そう思うと、少し嬉しかった。


「前にも、読んでるのに?」


「そうなんだけどね。ここ、どうだったかなって思うと、確かめたくなって。1冊だけのつもりだったんだけど」


 勝也が笑った。

 私も笑ったけれど、すぐに、午後のノートを思い出した。


「今日は、眠くなったら寝てね」


「うん。あんな字になる前に寝るよ」


「あれ、字だったの?」


「最初はね」


 思い出すと、また笑ってしまった。

 勝也は、最後は俺にも読めなかった、と言った。


 前の道に、荷物を下ろしている車が止まっていた。

 歩くところが狭くなっているのを見て、勝也が手前の角を指した。


「こっちから行こうか。次で、いつもの道へ戻れるよ」


「うん」


 曲がると、塀の続く静かな道になった。

 日傘の向こうに、鉢植えの葉が並んでいた。その下に、白と茶色が少し見えた。


「勝也。猫、いる」


「え、どこ?」


 つないでいた指をほどき、植木鉢の横を指さした。


「ほら。あそこ」


 勝也も、私の指した方へ顔を向けた。

 葉の間から、猫がこちらを見ていた。


「あ、ほんとだ。可愛いね」


 初めて見る猫だった。

 首輪はしていなくて、片方の耳の先には、小さなV字の切れ込みがあった。


「この辺にいる子なのかな」


「どうだろう。俺も、この子は初めて見たよ」


 塀際には建物の影が落ちていて、猫のいるところまで日陰が続いていた。

 勝也が日傘を閉じたので、受け取って片手に持った。


 少しだけ、近づいてみた。


「……こんにちは」


 猫が立ち上がった。

 そのまま、私から離れる方へ歩いた。


 慌てて足を止めた。

 植木鉢1つ分ほど離れたところで、猫も止まり、こちらを見た。


「行っちゃう……」


「ちょっと、待ってみようか」


 勝也が、少しだけ前へ出た。

 それから地面に膝をつき、踵の上へ腰を下ろした。


 猫は、しばらく動かなかった。

 勝也も手を伸ばさず、そのまま待っていた。


 やがて、猫が1歩近づいた。

 途中で止まって勝也の顔を見てから、もう1歩、足を出した。


「あ」


 勝也のズボンへ、猫が頬をすりつけた。

 そのまま脇腹まで押しつけ、脚のそばをゆっくり回った。


「……来てくれた」


 勝也が、小さく笑った。

 猫がもう1度頬を寄せると、勝也が少し顔を近づけた。


「喉、鳴ってる」


「聞こえるの?」


「うん。ゴロゴロって」


 勝也が、そっと指を差し出した。

 猫は逃げなかった。指の下へ顔を入れたので、勝也が恐る恐る、その頭に触れた。


「撫でても、いいかな……」


 指先が耳の間をゆっくり通った。

 猫が目を細め、ニャー、と鳴いた。


 勝也の肩から、少し力が抜けた。

 今度はさっきより長く、頭から耳の後ろを撫でた。


 猫が顔を上げると、手も止まった。

 また額を寄せてきてから、同じ速さで動き始めた。


 私は、その手を見ていた。

 門の前で私を待ってくれた時も、勝也は、急に引っ張ったりしなかった。


 猫はもう逃げる様子もなく、勝也の脚へ体を寄せていた。


「……私も、撫でたい」


 少し近づいて、膝を曲げた。

 けれど、手を伸ばす前に、猫が顔を上げた。


 勝也の脚から離れ、また、すっと距離を取った。


 私の手が止まった。

 勝也の手も、何もないところで止まっていた。


「……まだ、何もしてないのに」


 猫を見たまま言うと、勝也が私と猫を交互に見た。


「びっくりしちゃったのかな」


 唇を少し尖らせて、出しかけていた手を戻した。

 私が勝也から2歩ほど離れると、猫はこちらを見ながら、恐る恐る足を進めた。


 戻った先は、また勝也の足元だった。

 白い頬が、さっきと同じズボンへすりついた。


「……勝也だけ、ずるいよ」


「俺も、どうしたらいいか分からないよ」


 困ったように言うのに、その手は、また猫の頭を撫でていた。


 勝也が塀際へ少し体を寄せ、今度は地面へ腰を下ろした。

 脚をゆるく組んだところで、猫が身を低くした。


 次の瞬間、勝也の膝へ飛び乗った。


「わ……」


 勝也が両手を少し浮かせた。

 猫はその間で向きを変え、何も困っていない顔で座った。


「乗っちゃった」


「うん。……そこがよかったんだね」


 勝也が笑って、背中へ手を置いた。

 ゆっくり撫でられると、猫は前足をそろえ、また目を細めた。


 勝也の膝の上なら、逃げずにいてくれるだろうか。


「……もう1回、いいかな」


「うん。ゆっくり、手を出してみる?」


 今度は、少し離れたところでしゃがんだ。

 猫を見ながら勝也の隣へ寄り、空いている手を、そっと差し出した。


 猫が目を開けた。

 顔が近づいてきて、鼻先が指へ触れた。


 そのまま、指の間を確かめるように鼻が動いた。

 さっきまで、勝也とつないでいた手だった。少し、同じ匂いがしたのだろうか。


 今度は、逃げなかった。


「……いいの?」


 指先で、額へ触れた。

 猫は顔を背けず、勝也の膝の上に座ったままだった。


 柔らかかった。

 指の下には、思っていたより小さな頭があった。


「触れた……」


「うん」


 勝也が、隣で笑った。

 私も笑い、もう1度、耳の間を撫でた。


 今度は、私にも小さな音が聞こえた。

 嬉しくなって、同じところへ指を戻した。


「ここ、気持ちいい?」


 頭を撫でて、耳の後ろへ少し指を動かした。

 猫がじっとしていてくれるのが嬉しくて、手を離すのが惜しかった。


 もう1度だけと思いながら、何度も撫でた。


 やがて、尻尾の先が大きく動いた。

 猫が少し顔をそらしたので、私の指も、その頭についていった。


 もう少しだけ。


 そう思って手を動かしたところで、猫が立ち上がった。


「あ……」


 勝也の膝から、ひょいと飛び降りた。

 私たちの方を振り向かず、塀に沿って歩き始めた。


 出したままの手を、ゆっくり戻した。


「……撫ですぎちゃった?」


「もう、十分だったのかもしれないね」


 勝也も、猫の行く方を見ていた。

 白と茶色の背中が植木鉢の向こうを通り、家と家の間へ消えた。


「やっと、触れたのに……」


 まだ指先に、柔らかさが残っていた。


「でも、触らせてくれたね」


 勝也に言われて、小さく頷いた。


「……うん」


 学校で聞いた話は、まだ胸に残っていた。

 でも、猫のいなくなった膝を見て笑う今の顔なら、じっと見ていられた。


 後ろから、自転車の音が近づいてきた。

 私は勝也の袖を掴んだ。


「こっちへ寄ろうね」


 勝也と一緒に立って、道を空けた。

 通り過ぎる人の顔は見られなかった。音が遠ざかってからも、袖の布を握っていた。


 勝也がズボンの土を払い、私から日傘を受け取った。

 建物の影を出る前に開いてくれたので、その下へ入り、もう1度、手をつないだ。


 角を曲がったあと、私はつないだ手へ目を落とした。

 指先には、まだ毛の柔らかさが残っている気がした。


「思ったより、頭が小さかった」


「見てた時より?」


「うん。毛がふわっとしてたから」


 空いている方の指を、少し丸めてみせた。

 勝也が笑った。


「俺も、膝に乗ってきた時、思ったより軽くてびっくりした」


「……私のところにも、乗ってほしかったな」


「今度は、来てくれるといいね」


 頷いた。

 また触らせてもらえたら、今度は、もう少し早く手を離そうと思った。


 いつもの道へ戻ると、家までの残りは短かった。

 門の前で日傘を閉じる勝也へ、私は聞いた。


「また、あっちの道でもいい?」


「うん。今度も、いるといいね」


 頷いたところで、玄関が開いた。お母さんが顔を出し、私たちを見て笑った。


     * * *


「お帰り。今日は、少し遅かったね」

「ただいま。帰りに、猫がいて……」


 靴を脱ぎながら言うと、勝也が隣で笑った。


「座ってたら、膝に乗ってきたんです」

「まあ。2人で遊んできたの?」

「うん。でも、最初は勝也ばっかり。私が近づくと、離れちゃうの」


 お母さんへ、自分の指を見せた。

 猫が鼻を寄せたところを、反対の手でそっと押さえた。


「最後は、匂いを嗅いでから、触らせてくれた。でも……嬉しくて、何回も撫でてたら、行っちゃった」

「もう少し、遊びたかったのね」


 頷くと、お母さんが笑った。


「また、会えるといいね」


 お母さんに言われて、頷いた。


 昨日は、家へ着くまで、早く座りたいと思っていた。今日は途中で足を止めて、もう少しそこにいたくなった。


「先に、手を洗っておいで。お茶、用意するね」


 勝也と洗面所へ行った。石鹸を流し、指の間も確かめてから、水を止めた。


     * * *


 着替えて居間へ戻ると、勝也がソファのそばに座っていた。


 朝、お母さんへ預けた袋は、テーブルの端に置いてあった。


「見てもいい?」

「うん。続きと、もう1冊あるよ」


 袋から本を出した。3と4の数字を確かめてから、違う表紙へ目を向けた。


「これは……?」

「恋愛漫画。短い話で区切られてるから、少しだけ読む時にもいいかなって。俺、これも好きなんだ」


 男の子と女の子が描かれた表紙だった。私は3冊を並べたあと、宿題のことを思い出した。


「先に、ノートだね」

「うん。お願いします」


 勝也が少しかしこまって言うので、笑ってしまった。


 お母さんがお茶を持ってきた時、体育のことを話したくなった。


「今日、少しだけ……マット、やったの」

「そうなの。どうだった?」

「最後、ちゃんと立てた。勝也たちが、見ててくれて……」


 お母さんが、よかったね、と笑った。


「あと、勝也がね……すごかった」


 隣を見ると、勝也が私を見た。


「回ったり、逆立ちしたりするの、すごく上手だったの。でも……」

「でも?」


 お母さんに聞かれ、背中へ当てた手の感触を思い出した。


「体、すごく硬くて……私が押しても、翔太くんが押しても、全然動かなくて……」


 言い終わる前に、笑ってしまった。


「……岩だったの」

「やっぱり、そこ覚えてたんだ」


 勝也の声にも笑いが混じった。


「ほかのところも、覚えてるよ」

「うん。先に、褒めてくれたもんね」


 お母さんが、私たちを見て笑った。私も頷き、まだおかしくて、コップを持つ前に口元を押さえた。


 お母さんが台所へ戻り、夕飯の支度を始めた。包丁の音を聞きながら、お茶を少し飲んだ。


「……帰り道の猫、可愛かったね」


 勝也を見ると、コップを持ったまま頷いた。


「うん。自分から膝に乗ってくるとは思わなかったよ」

「すぐ、落ち着いちゃったね」

「ね。俺の方がびっくりしてた」


 勝也が、自分の膝へ目を落として笑った。

 そこに当たり前みたいに座っていた、白と茶色の背中を思い出した。


「猫も、飼ってみたい?」


 勝也へ聞いた。


「飼えたら、楽しいだろうね。ああやって、待っててくれたら」

「帰ってきたら、玄関にいるの?」

「うん。でも、今日みたいだったら、靴を脱ぐところから進めなくなりそう」


 思い浮かべると、おかしかった。


「勝也、ずっと撫でてそう」

「優子も、まだ撫でてたかったんでしょ」

「だって……やっと触らせてくれたから」


 勝也が笑った。私も笑い、コップをテーブルへ戻した。


 飼うと決めたわけでもないのに、どこに座り、どちらが先に呼ばれるのか、少しだけ話した。


 話が途切れたところで、勝也が袋の方を見た。


「じゃあ、本を開く前に、宿題やっちゃおうか」


 私は頷き、鞄からノートを出した。


     * * *


 テーブルの真ん中へ、勝也の教科書を開いた。

 その前に、2人のノートを並べた。学校の机より広く使えるので、勝也が問題集も出した。


「先に、借りてもいい?」


 勝也が、自分のノートを開いて見せた。

 午後の授業で空いてしまったところが、そのまま残っていた。


 私も同じページを開いた。


「ここからだよ。あと、先生が口で言ってたのが、こっち」


「そこも書いたんだ」


「忘れそうだったから。ここも、テストに出るって」


 横へ小さく書いたところを指すと、勝也も顔を近づけた。

 私は少し身を引き、ノートを真ん中へ動かした。


「読みにくい?」


「ううん。読めるよ。俺のここより、ずっと」


 勝也が、消し残った長い線を指した。


「それと比べないで」


「ごめんね。あれは字じゃなかったね」


 真面目に言い直すので、またおかしくなった。

 勝也は笑いながら、消しゴムで残りを消した。


「昨日、俺が教えるって言ったばっかりなのにね」


 勝也が、ノートへ書き込みながら言った。


「もう、優子に教わってる」

「……寝てたところを、写してるだけだよ」

「それでも、助かってるよ。ここの説明、聞き逃してたし」


 鉛筆の先が、余白の小さな字を指した。


 ありがとう、と言ってから、勝也はまた自分のノートへ向かった。


 私が書いたものを見て、続きを書いている。


 学校へ戻ってから、まだ2日目だった。追いついていないところも、聞かなければ分からないところもある。それでも、今日は、私のノートを開く場所があった。


 書き足している間に、私は数学の問題集を開いた。

 計算を3行進めたところで答えが出たけれど、確かめると合わなかった。


 同じ数字へ、鉛筆の先を戻した。

 符号を1つ直すと、今度は途中の式とつながらなくなった。


「どうしたの……?」


 ノートを写し終えた勝也が聞いた。


「ここ。解けたと思ったんだけど、違うみたい」


「俺もやってみるね」


 問題集を少し寄せ、勝也は自分のノートへ式を書いた。

 私はその横で、初めから計算し直した。


 途中までは、同じになった。

 括弧を開くところで、2人の鉛筆が違う符号を書いた。


「あれ」


 勝也が自分の字を見た。

 私も消しゴムへ手を伸ばしかけた。


「ちょっと待って。俺が違うかもしれない」


 勝也は元の式から指を動かした。

 私も見比べ、同じところへ指を置いた。


「ここ、プラス6になるんじゃない?」


「あ。本当だ」


「マイナス3を、こっちにもかけるから」


「うん。俺、そっち、そのまま書いちゃってた」


 勝也が消しゴムを取った。

 直した続きを計算すると、最後まで同じ答えになった。


 確かめた。

 今度は、合っていた。


「最初は、どこが違ったんだろう」


 私が前の計算を見ると、勝也も一緒に覗いた。


「ここじゃないかな。今は引いてるけど、さっきは足してる」


 言われたところに、違う数字があった。

 さっき括弧の中ばかり見直していたので、そのあとを確かめていなかった。


「そこだったんだ」


「うん。そこだけ直したら、初めから合ってたね」


 書き直すと、勝也は、よかった、と言った。


 次の問題は、それぞれのノートで解いた。

 答えを見せ合うと、今度は2人とも直さなくてよかった。


 最後の1問を終え、消しゴムのかすを寄せた。

 勝也の方に大きな山ができたので、そちらも集めようと手を伸ばした。


「あ、俺が捨てるよ」


「いいよ。一緒に持っていくから」


「じゃあ、ありがとう」


 集めた紙を持って立つ時に、勝也が椅子を少し引いてくれた。

 ごみ箱まで歩いてから振り返ると、2人のノートが並んでいた。

 書き直した場所も、そのまま見えた。


     * * *


 筆箱をしまい、テーブルの端へ寄せていた漫画を持ち上げた。


 続きの2冊も気になったけれど、初めて見る表紙へ、もう1度目が向いた。


「先に、これ、少し読んでみるね」

「うん。好きそうだったら、続きも貸すよ」


 男の子と女の子が並んだ表紙の隅に、小さく、1と書いてあった。


 勝也が、家で何回も開いていた本だった。少し丸くなった角を指で押さえ、ページをめくった。


 男の子が1人で悩んでいた。

 考えていることが顔の横にたくさん書いてあって、私は顔と文字を交互に見た。


 勝也も鞄から、自分の読みかけの文庫本を出した。

 テーブルの上を片づけてから、2人でソファへ移り、並んで座った。


 数ページ進むと、男の子が自信たっぷりに話し始めた。

 さっきまで1人で悩んでいたことを、ようやく決めた顔だった。


 けれど、相手の女の子は、別の話をしていた。

 男の子の返事だけが大きくなり、周りにいた人まで振り向いていた。


 私は、もう1度、前のページへ戻った。


 聞き間違えていたのは、男の子の方だった。


 思わず笑うと、勝也が顔を上げた。

 開いているところを見せたら、ああ、そこ、と笑った。


「先に聞けばよかったのに」


「うん。でも、分かってるふりしちゃったからね」


「どんどん、大きな声になってる」


「小さく聞き返せばよかったのにね」


 2人で、その男の子の顔を見た。

 初めは格好よく見えた目が、今度のコマでは丸くなっていた。


 私は続きを読もうとして、すぐにはめくれなかった。

 勝也が隣で笑っているのを見ると、絵を見なくても、またおかしくなった。


「勝也、ここ好きなの?」


「うん。何回読んでも、ちゃんと聞けばいいのにって思う」


「分かってても?」


「分かってても。次で間違えるって知ってるから、前の顔からおかしくなる」


 言われて戻ると、確かに、まだ何も知らない男の子が格好をつけていた。

 私は口元を押さえた。


 今度は、勝也が私の顔を見て笑った。


 漫画を閉じずに、膝の上へ下ろした。


「じゃあ、これ、何回も読んでるんだ」


「うん。好きな巻は、結構」


「お話、全部覚えちゃわない?」


「だいたい覚えてる。でも、たまに、こんなこと言ってたんだっていうのがあるよ」


 勝也が、ページの端を指した。

 男の子が大きな声で話している隣で、もう1人が、小さく何か言っていた。


 さっきは、そこまで読んでいなかった。

 読んでから、私は勝也を見た。


「この人、もう分かってる」


「うん。言うの、遅かったね」


 もう1度同じページを見ると、違うところで笑えた。

 勝也は私が読み終えるまで待って、自分の本へ戻った。


 私はその横顔を少し見た。

 勝也の本棚には、こんな本が、何冊も並んでいるのだと思った。

 1度読んで終わりではなくて、また取り出して、同じところで笑うのだと分かった。


 部屋へ遊びに行けたら、背表紙を順番に見たい。

 どれを何回読んだのか、聞いてみたい。


 同じところで笑えたことが、嬉しかった。

 勝也が好きなものを、もっと知りたかった。


「……ほかの漫画も、また貸してくれる?」


「もちろん。これ、読み終わったら、また選ぼうか」


 頷いた。

 漫画だけでなく、勝也がいつも遊んでいるゲームも、どんなものが好きなのか知りたかった。

 今度は、一緒にやってみたいと言ってみよう。そのあとで、私にもできそうなら、ソフトを借りて、少しずつ覚えてみたかった。


 手元の1冊を持ち上げると、隅が少し白くなっているところに指が触れた。

 そこを押さえて続きを読み始めた時、隣で勝也が、あくびをこらえた。


「少し、寝る?」


「大丈夫だよ。優子が読んでるところ、気になるし」


「そんなに、面白い顔してる?」


「楽しそうだから」


 頬が熱くなった。

 それまで平気で見せていたページを、自分の方へ少し傾けてしまった。


「……顔まで、見なくていいよ」


「ごめんね」


 勝也が自分の本を開き直した。

 私は、隠しかけた漫画を元の向きへ戻した。


 見られるのは恥ずかしかった。

 でも、面白いところがあったら、また見せたかった。


     * * *


 隣から紙をめくる音がしなくなって、顔を上げた。

 勝也は目を閉じていた。

 ソファにもたれ、閉じかけた本を膝へ置いている。


「勝也?」


 小さく呼んだ。

 返事はなかった。


 今度は、起こさなかった。

 本が落ちそうだったので、膝からそっと持ち上げた。開いていたページへ栞を挟み、テーブルへ置いた。


 少し離れたところに置いてあったクッションを、そっと引き寄せた。首が窮屈そうでないか横から確かめ、傾いた頭のそばへ置いた。


 勝也が少し動いたので、手を止めた。


 目は開かなかった。クッションへ頬を預け、またゆっくり息を吐いた。


 お母さんが、台所から顔を出した。


「あら、勝也くん、寝ちゃった?」


「うん……少し、眠いって」


「ご飯まで、まだ時間があるから。そのままでいいよ」


 お母さんは声を落とし、また台所へ戻った。


 私は漫画の角へ指を挟み、隣を見た。

 勝也の手が、膝から少し下がっていた。

 血がついていた袖も、今はきれいだった。


 あの日は、この手で、泣き止まない私の背中を撫でてくれた。

 痛いはずなのに、私が離れるまで、ずっと待ってくれた。


 今日は、夕飯ができるまで寝ていてほしかった。


 学校では、目を閉じた勝也の腕へ触れた。今は、起こす理由がなかった。


 お母さんが昨日言ってくれたことを、思い出した。


 いつか、勝也を支えてあげられるようになろうね。


 何か大きなことをしなければ、と考えると、まだ何も浮かばなかった。勝也が私へしてくれたことを、同じようにできるかも分からなかった。


 でも、眠っている間、隣にいることはできた。


 目が覚めたら、夕ご飯もここにあると、一緒に食べようと言えた。


 漫画をいったん閉じ、膝へ置いた。

 下がっていた勝也の手のそばへ、自分の左手をそっと並べた。


 指を伸ばし、手の付け根の位置をそろえてみた。

 私の指先よりも先まで、勝也の指があった。手のひらの幅も、こうして見るとはっきり違っていた。


 大きいのは、知っていた。

 つないでもらうたびに、私の手がすっぽり収まるのを感じていた。

 でも、いつもはこんなふうに、ゆっくり比べられなかった。手をつないでいる勝也に、少し開いて見せて、と頼むのも恥ずかしかった。


 指先と、手の付け根とを、もう1度見比べた。


 こんなに、違うんだ。


 隣の顔へ目を向けると、勝也は変わらず眠っていた。

 私は並べていた左手を動かし、その手の上へそっと添えた。


 指が少し動いたので、じっと待った。

 勝也は目を開けず、またゆっくり息を吐いた。

 力を入れずに重ねているだけでも、触れたところは温かかった。


 起きたら、続きを見せよう。

 さっきより、もっとおかしなところがあった。


 左手を重ねたまま、右手で漫画を開いた。

 ページをめくる音は、さっきより小さくした。


 台所で、お母さんが引き出しを開けた。


「優子。あとで、お箸お願いね」


 小さな声だった。


 私は顔を上げ、頷いた。


「……うん。勝也の分も」


 お母さんが笑い、また夕飯の支度へ戻った。


 勝也の手は、まだ私の手の下にあった。


 もう少し、このままでいようと思った。


今回の登場人物


・鵜飼 勝也

復帰翌日の優子と登校し、真弓を壁役にして同室で着替える。体育前は制服を脱いで下に着ていた体操服になり、体育後は体操服を脱いで制服へ着替える。長座体前屈の硬さで皆を笑わせた直後、マットの技を次々こなして驚かせる。帰り道では猫と遊び、優子の家で宿題と読書を楽しむうちに眠ってしまう。


・富田 優子

真弓へ付き添いを頼み、マット運動にも少し参加する。春の体力測定後に聞いた「岩」の話を思い出し、勝也の背中を押して硬さを実感し、皆と笑う。練習後は床に座る勝也の真横へ自分から寄り添う。同級生から勝也が怒っていた時の様子を聞き、帰り道の穏やかな姿も見つめる。帰宅後は母へ体育の話も伝え、勝也へノートを貸し、眠る隣で静かに過ごす。


・加藤 真弓

体育の前後には2人の間へ立って壁役と見張り役を務め、2人に外で待ってもらって自分も着替える。体育では優子の練習に付き添う。勝也の静止した三点倒立を見て、前日のトイレでの直立姿を思い出して笑う。その後、勝也へ寄り添って座る優子の幸せそうな表情から、恋心に気づき始める。


・花沢先生

登校した2人を迎え、着替え用の部屋を使うことを確認する。3人からの相談を受け、真弓も室内へ入り、2人の間に立つ方法を認める。


・鶴見 春樹

勝也の硬さを翔太と話し、マットの技との違いに驚く。優子を見守りながら翔太の声量を注意するが、優子が勝也に抱きつくことは自身も初めて知る。翔太と技を練習する合間に、勝也の隣で幸せそうにする優子を見て、恋心を察し始める。体育後は勝也と問題集を見る。


・鳥居 翔太

勝也の背中を押しても動かせず、皆を笑わせる。優子を見て守ってあげたくなると話し、勝也への抱擁を知って大きな声を出す。体育後は調査に協力した友人2人と勝也の席へ来る。


・井上 綾香

勝也の硬さとマットの技の差に驚き、真弓や皆と笑う。優子の練習ではできていたところを伝え、そばで見守る。


・荒川 宣仁

マットを整えたあと、勝也たちの輪へ加わる。翔太が全力で押しても動かない勝也に笑い、次々と技をこなす姿には皆と一緒に突っ込む。


・優子の母(美和)

朝、勝也から漫画を預かり、帰宅した2人から猫やマット運動の話を聞く。居眠りした勝也を休ませながら夕食の支度を進め、優子へ箸の用意を頼む。

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