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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
40/52

第35話 隣の席へ


    * * 優子視点 * *


 制服の袖から手を出して、指を開いた。


 昨日まで着ていた服より、手首のところが少し硬かった。袖口を引き、もう1度鏡を見る。襟は曲がっていなかった。それでも、直したくなって指を添えた。


 肩へ届かない白い髪が、襟の上で揺れた。


 見慣れた制服に、まだ見慣れない髪が重なっていた。


「優子。鞄、ここに置くね」


 お母さんが、戸のそばへリュックサックを置いた。昨夜、自分で閉めたものだった。


「……ありがとう」


 持ち手が、こちらを向いている。


 昨日は、朝になったら手をかけやすいように、と思って直した。今は、その手を伸ばすまでに時間がかかった。


 お母さんは先に持ち上げなかった。私が鏡から離れ、鞄を取ると、部屋の明かりを消してくれた。


 朝ご飯は、いつもより少しだけ残した。


 食べ物を口へ運べないわけではなかった。けれど、時計を見るたび、飲み込むところで喉が狭くなる。お茶を飲み、箸を置いてから、もう少し食べようか迷った。


「もう、いい?」

「うん。ごちそうさまでした」


 お母さんが頷いた。


 携帯を開き、勝也へ、今から家を出るね、と送った。送信が終わっても、その画面をしばらく見ていた。


 すぐに返事が来た。


 うん。下で待ってるね。


 家を出る時刻は、昨日のうちに伝えてあった。勝也も、もう支度を終えている。


「……お母さん」

「うん?」

「勝也、待っててくれるって」

「じゃあ、行こうか」


 頷いて、携帯を鞄へしまった。


 玄関で靴を履く時には、何度も背中が重く感じられた。ノートと筆箱が入っている。時間割も、ハンカチも。教科書は、勝也と一緒に見る。


 全部、昨日聞いたことだった。


 お母さんが開けてくれた玄関の外へ、片足を出した。


     * * *


 車の窓から、歩いている人が見えた。


 学校の鞄を持っている人を見つけると、目がそちらへ向いた。同じ制服ではなくても、みんな、行くところが決まっているように見えた。


 膝に置いた日傘の持ち手を握り直す。


 学校へ行く。


 昨日、自分で決めたことを、車が曲がるたびに思い出した。口にした時よりも、今の方が怖かった。


 お母さんは、運転しながら学校の話を続けたりしなかった。窓の外を見ていた私が、膝へ目を落とすと、次の信号で止まった時に少しこちらを見た。


「気分、悪くない?」

「大丈夫。……ちょっと、緊張してるだけ」

「うん」


 それから、車がまた動いた。


 マンションが見えてきた時、私は背もたれから体を起こした。


 入口のそばに、勝也がいた。


 鞄を背負って、道路の方を見ていた。車に気づくと、こちらへ手を上げた。その動きを見て、ようやく、持ち手を握っていた指が少し緩んだ。


 車が止まった。シートベルトを外そうとして、1度、留め具を押し損ねた。


「慌てなくていいよ」


 お母さんに言われ、頷いた。


 ドアを開けると、外の空気が入ってきた。足を下ろして顔を上げる。勝也は車へ寄りすぎず、私が降りる場所を空けて待っていた。


「おはよう、優子」


 その声を、家の居間ではないところで聞いた。


「……おはよう。勝也」


 言えた。


 昨夜、布団へ入る前に思い浮かべた言葉だった。実際に声にすると、勝也が笑ってくれた。


「お母さんも、おはようございます」

「おはよう。勝也くん、今日はよろしくね」

「はい。一緒に行ってきます」


 勝也はそう答えてから、私へ目を戻した。


「日傘、持とうか」

「うん……お願い」


 開いた傘を渡すと、勝也が私の頭の上へ寄せた。その下へ入ってから、差し出された手を取った。


 昨日の夜と、同じ手だった。


 制服を着ていても、鞄を背負っていても、握り方は変わらなかった。


「行ってきます」


 お母さんへ言った。お母さんは、私と勝也を見て頷いた。


「行ってらっしゃい」


 車の横を離れた。数歩進んだところで振り返ると、まだ、窓の向こうから見てくれていた。


 私は、小さく手を振った。


     * * *


 勝也の歩く速さは、家の中で一緒に動く時よりも少しだけ速かった。


 私が歩幅を狭くすると、すぐに同じくらいになった。足元ばかり見ていたら、名前を呼ばれた。


「優子。昨日の本、少し読んだよ」


 顔を上げた。


「……借りてくれた方?」

「うん。最初の話、思ってたより短かったから、もう1つ読もうか迷った」

「読んだの?」

「昨日は、そこでやめた。朝、寝坊したら困るし」


 私も、寝る前に鞄を確かめていた。勝也も、今日の朝のことを考えて眠ったのだと思った。


「続き、今日読む?」

「うん。持ってきたよ」


 勝也が、背負っている鞄の肩紐を少し持ち上げた。


 放課後、家へ来てから聞く話ではなかった。今日は学校で、続きを読んだか聞ける。


 そのことを考えている間は、足を前へ出せた。


 同じ制服の人が増えてきた。


 前を歩いている人の鞄が揺れ、後ろから来た人たちが、私たちの横を通っていった。笑い声が近くなった時、勝也の手を強く握った。


 日傘の下で、少しだけ肩が触れた。


「ゆっくりでいいよ」


 私は頷いた。


 何を笑っているのかは分からなかった。こちらの話をしているとは限らない。それでも、首の後ろに力が入ったまま、うまく顔を上げられなかった。


 勝也は、行き交う人の間を急いで抜けようとはしなかった。道の端へ少し寄って、私が歩く方へ足を揃えた。


 校門が見えた。


 門の柱より先へ、目を動かせなくなった。


 知っている場所だった。何度も通ったことがあった。あの向こうへ入れば、昇降口があり、階段があり、教室がある。


 そこまで続いていることが、1度に分かってしまった。


 足が止まった。


 勝也も止まった。手は前へ引かれなかった。


「……勝也」

「うん」


 名前を呼んでから、何を言えばいいのか分からなくなった。来られたのに。ここまでは、歩けたのに。


 門のそばにいた花沢先生が、こちらへ気づいた。


 少し近づいてから、私たちが立っているところまで来すぎずに足を止めた。


「富田さん、おはよう。鵜飼くんも」

「おはようございます」


 勝也が答えた。私は、その声のあとで、小さく頭を下げた。


「ここで少し待っていてもいいからね」


 先生はそう言って、ほかの生徒が通る方へ体を少し向けた。私の返事をずっと見つめて待つことはしなかった。


 勝也の手元へ目を落とした。


 傘を持っている方とは反対の手で、私を握っていた。指のつけ根まで見えた。今、ここにいる。


「……入ったら」

「うん」

「手、離さなくても、いい?」

「いいよ。つないで行こう」


 返事が、近くで聞こえた。


 私は門の向こうをもう1度見た。


 勝也の靴と、私の靴が並んでいた。まず、この足を動かせばよかった。


「……行く」


 勝也が頷いた。


 校門の内側へ足を出した時、握っていた手を、少しだけ握り返された。


     * * *


 昇降口で傘を閉じてもらい、袋へしまった。


 靴箱の前で、家から持ってきた上履きを出した。しゃがむと、鞄が背中からずれた。直そうとして立ち上がりかけると、勝也がそばで支えてくれた。


「履いてからで大丈夫だよ」


 頷き、片足ずつ履き替えた。


 外靴を置いたあと、手をすぐには引けなかった。つま先を揃え、隣との隙間を見て、もう1度だけ位置を直す。


 勝也は、先へ行かなかった。


 振り向くと、こちらを見ていた。その手を取ってから、階段へ向かった。


 足音が、壁に響いた。


 私たちの後ろから来た人が、追い越していく。すれ違うたびに立ち止まりそうになった。花沢先生は少し先を歩き、ときどきこちらを見て待ってくれた。


 教室の札が見えた。


 1年3組。


 中から、椅子を引く音がした。


 勝也が、つないだ手を自分の体の近くへ寄せた。私は、その分だけ隣へ近づいた。


 後ろの入口から、教室が見えた。


 机が並んでいた。黒板があり、窓があり、誰かの鞄が机の横へ掛かっていた。何もかも知っているのに、自分が入る場所だけ見つけにくかった。


 近くにいた人がこちらを見た。


 その向こうでも、顔が上がった。


 息を止めた時、勝也が小さく言った。


「席、こっちだよ」


 窓側のいちばん後ろ。


 私の椅子があった。


「富田さん、おはよう」


 通路の向こうから声がした。顔を向けると、加藤さんが、自分の机のそばに立っていた。


「……おはよう、ございます」


 返事の最後が、少し変になってしまった。


 加藤さんは笑ってからかうこともせず、おはよう、ともう1度、普通の声で言った。


 席へ向かった。鞄が机へぶつからないように気をつけていると、勝也が自分の椅子を少し引き、私の通るところを空けてくれた。


 机の表面を見た。


 何も書かれていなかった。


 横も、見た。天板の端を指で触り、椅子を引いた。


 座れた。


 勝也が隣へ座った。それを見てから、私はようやく鞄を肩から下ろした。


「ここに置く?」


 机の横を示されたが、私は鞄を膝へ寄せた。


「……まだ、こっちに」

「うん」


 勝也は自分の鞄から教科書を出した。机の上へ置くと、私の方を見た。


「机、少し寄せるね」


 机の脚が床を擦る音がした。思わず肩が上がったが、動かしているのは勝也だと分かった。


 隙間が狭くなった。


 肘を動かせば、勝也の袖へ触れられそうだった。


 教科書が、2つの机の間へ置かれた。


「今日、ここからだと思う。先生が来たら、もう1回確かめよう」


 ページの端を指で示してくれた。紙には、授業で使う文字と絵だけがあった。


 私は、膝の上の鞄を開いた。


 昨日入れたノートが、そのまま入っていた。


     * * *


 朝の時間が始まると、花沢先生は、いつもの連絡を黒板へ書いた。


 私を前へ呼ぶことはなかった。


 名前を呼ばれた時だけ、返事をした。自分でも聞こえたか分からないくらいの声だったけれど、先生は顔を上げて頷き、次の名前を呼んだ。


 それで終わった。


 休んでいた間のことを、みんなへ話さなくてもよかった。


 連絡帳へ書くところを勝也が指で教えてくれた。私は、黒板を見て、紙へ目を戻した。


 10月2日。


 数字を書く時、鉛筆の先に少し力が入った。


 最初の授業が始まった。


 先生の声を聞きながら、勝也の教科書を見た。読んでいるところが少し進むと、ページをめくる手が私の方を待ってくれた。


 頷くと、次へ進んだ。


 ノートを取るのは、思っていたより遅くなった。黒板へ顔を上げ、その間に誰かが動くと、どちらを見ていたのか分からなくなる。戻した目が、さっきと違う行へ落ちた。


 書きかけの文字の横で、鉛筆を止めた。


 勝也のノートが、少しこちらへ動いた。


「ここからだよ」


 小さな声だった。


 指先の隣に、私が書きかけていた続きがあった。


 もう1度、書き始めた。


 教室の後ろから、前へ向かって先生の声が遠く聞こえることがあった。聞こうとしても、その手前に、椅子の脚や、誰かが笑った時の音が入ってきた。


 そのたびに、隣を見た。


 勝也は、黒板を見ていた。鉛筆を持つ指が動き、書き終えると教科書へ目を戻した。


 授業を受けている勝也だった。


 家へ来る前には、こうして過ごしていた。その隣に、今は私が座っていた。


 勝也がこちらを向いたので、私は慌ててノートへ目を戻した。


 最後の行を書き終えたところで、チャイムが鳴った。


 鉛筆を置くと、指のつけ根が少し痛かった。


「久しぶりの授業、どうだった?」


 勝也が、私の方へ少し顔を寄せた。


「……ちょっと疲れた。ノートを取るので、精一杯だった」

「そっか。分からなかったところ、あとで一緒に見ようか」


 勝也が、開いたままの教科書へ目を落とした。


「休んでる間にも、授業は進んじゃってるから。俺で分かるところなら、教えるよ」


 休む前に習っていたところより、何枚も先のページだった。長い休みではなかったはずなのに、知らない説明が途中に挟まっていると、その先まで分からなくなりそうだった。


「……ここより前も、聞いていい?」

「もちろん。どこから分からなくなったか、一緒に見てみよう」


 頷きかけると、勝也が少し笑った。


「でも、優子、勉強できるからなあ。すぐ追い越されて、俺が教えてもらう方になるかも」

「……まだ、分からないところ、あるのに」

「そこが分かったら、早そうじゃない?」


 冗談を言うような声だったけれど、私の顔を見ている目は、優しかった。


「その時は、俺にも教えてね」


 勝也のノートと、自分のノートを見比べた。


 今は、ページを合わせてもらうだけでも助かっている。それでも、私が勝也に教えられることも、あるのかもしれなかった。


「……うん。私で分かるところなら」

「じゃあ、お互いに聞けるね」


 勝也が笑うので、私も少しだけ笑った。


「ありがとう。あとで、一緒に見てほしい」


 そう答えると、肩の力が少し抜けた。


 まだ朝だった。帰る時間までは、ずっと先だった。


 けれど、今終わった授業の分は、ノートに残っていた。


    * * 勝也視点 * *


 休み時間になると、優子はノートを閉じる前に、書いたところをもう1度見ていた。


 俺も自分のノートへ目を落とした。最後の方で、1文字抜けていた。


「あ。俺、ここ飛ばした」


 小さく言うと、優子が顔を向けた。


「どこ?」

「ここ。優子のは、書いてあるね」


 見比べてから、空いているところへ小さく足した。優子が、少しだけ口元を緩めた。


「ほら。もう助けてもらった」

「……これは、書いてあっただけだよ」


 そう言いながらも、優子は俺が書き終えるまでノートを開いていてくれた。


 昨日まで、ここには誰も座っていなかった。


 何か書き間違えても、自分で直して終わりだった。今は、それだけのことでも話せた。


 教室の前から翔太が歩いてきた。春樹は自分の席で何か探していて、綾香は近くの女子と話していた。


 翔太は俺たちの机の少し手前で止まった。


「富田さん、おはよう。朝、言いそびれた」


 優子が顔を上げた。


「……おはよう」

「うん」


 翔太はそれだけ答えると、俺の机へ目を落とした。片づけかけていた文庫本の背表紙が見えていた。


「それ、借りたやつ?」

「うん。昨日、優子に選んでもらった」

「ああ。じゃあ、デスノートの方は?」


 俺が答えるより先に、翔太は優子を見た。


「昨日、勝也から聞いたんだ。読んでるって。今、どこまで?」


 優子の指が、閉じたノートの角へ触れた。


「……2巻まで」

「じゃあ、まだ続き気になるところだな」


 優子が小さく頷いた。


「俺、勝也から先の話しちゃ駄目って言われてるから」

「言ったの、真弓だけどね」

「お前も絶対そう言うだろ」


 否定はできなかった。


 優子が、翔太と俺を交互に見た。俺が頷くと、ほんの少し笑った。


「……まだ、言わないでほしいです」

「分かってる。言わない」


 翔太は、口の前へ指を立てた。それから、じゃあ、また、と自分の席へ戻っていった。


 優子はその背中を見送っていた。


「翔太も、続きが気になって読んでたって」


 言うと、優子がこちらを向いた。


「うん。……分かる」


 その言い方に、日曜日、2巻を渡した時の顔が重なった。


 今度会う時には続きを持っていこうと思った。学校へ漫画を持ってくるのではなく、帰ってから家へ届ければいい。その約束をすると、優子は、ありがとう、と言った。


 次の授業の準備を始めた。


 優子はまだ、自分の物を机の中へ入れようとはしなかった。必要なものだけ鞄から出し、使い終わると、戻す場所を確かめていた。


 俺が教科書を取り替える間、優子の手が袖へ触れた。


 机を離れるつもりはなかったが、先に、次の教科書を出すね、と言ってから動けばよかったと思った。


 開いたページを、2人の間へ置いた。


     * * *


 2時間目が終わると、廊下へ出ていく足音が増えた。


 俺は伸びをしかけて、隣を見た。優子が、鉛筆を筆箱へしまったあとも、蓋を閉めずにいた。


「優子?」


 呼ぶと、すぐにこちらを向いた。


 何か言おうとして、口を閉じる。もう1度、廊下の方を見た。


「どうしたの?」


 少し顔を寄せると、優子もこちらへ寄った。


「……お手洗いに、行きたい」

「うん。一緒に行こう」


 答えて、椅子を引いた。


 そこで、止まった。


 一緒に。


 教室から廊下へ出るところまでは、一緒に行ける。そのあと、俺はどこまでついていけばいいのか。


 女子トイレの入口を思い浮かべた。中へ続く通路は、外からまっすぐには見えなかった。


 俺は、引いた椅子を持ったまま優子を見た。


 優子も、俺を見ていた。


 先生と、いろいろなことを話した。教科書、委員会、給食、掃除。昨日は時間割を見ながら、移動する教室のことまで確かめた。


 なのに、これだけが、頭の中に全くなかった。


「……勝也?」

「あ、うん。行こう。行くんだけど……」


 言ってから、俺まで迷っている声を出してどうするんだと思った。


 手を差し出した。優子が取ると、握り返した。


「真弓に、一緒に来てもらえるか聞いてみるね」


 優子は少し迷ってから頷いた。


 真弓は、机へ戻ってきたところだった。声をかけると、すぐに顔を上げた。


「どうしたの?」


 優子と一緒に近づき、声を落とした。


「あの、トイレなんだけど。俺も行くから、真弓も……」

「うん?」

「いや、俺は中には行かないんだけど。優子と、行ってもらってもいい?」


 自分でも、順番がおかしかった。


 真弓は一瞬俺を見て、それから優子へ顔を向けた。


「富田さん。一緒に行こうか」


 優子が小さく頷いた。


「……お願いします」

「うん。行こう」


 真弓が席を離れた。俺も歩き出しかけ、優子の鞄がまだ机の上にあることに気づいて戻った。


「鞄、持っていくね」


 優子へ渡すと、胸元へ抱えた。片方の肩紐へ腕を通す間、俺は隣で待った。


 落ち着こうと思った。


 何も難しいことをしに行くわけではないはずだった。けれど、廊下へ出た途端、優子の指に力が入った。


     * * *


 女子トイレの入口で、足を止めた。


 優子は、俺より先には進まなかった。


「俺、ここにいるね。出てきたら、すぐ会えるところ」


 言いながら、通路を塞がない位置へ立った。


 真弓が優子の隣で待った。優子は俺の顔を見て、入口の向こうを見た。


「……ここに、いてね」

「うん」


 指が、少しずつ離れた。


 真弓と一緒に入っていく。1度、振り返ったので、手を上げた。


 角の向こうへ白い髪が消えた。


 俺は、その場へ足を揃えた。


 外で待っていればいい。


 そう考えた直後に、足音が戻ってきた。


 優子だった。


 名前を呼ぶ前に、伸びてきた手を取った。顔が白くなっていた。もともとの肌の色とは違う、口元から力が抜けたような顔だった。


「……勝也」

「うん。ここにいるよ」


 鞄が俺の腕へ当たった。優子がそのまま近づいてきたので、肩の後ろへ手を回した。


 真弓も、すぐに出てきた。


 俺と目が合うと、小さく首を振った。


「途中で、怖くなっちゃって」


 優子が、俺の制服を掴んだ。


「扉が……並んでて。勝也も、見えなくて……」

「うん。こっちにいよう」


 入口の前から少し離れた。優子は顔を上げなかったが、俺が動くと一緒に足を動かした。


 ここで落ち着くまで待てばいい、と思いかけた。


 でも、まだ、用事は済んでいなかった。


 どうしよう。


 先生を呼ぶ。呼んで、それからどうする。


 保健室へ行く。そこへ行っても、結局、またトイレへ行かなければならない。


 家へ――いや、今から家へ帰るまで待ってもらうのも違う。


「勝也」


 真弓に呼ばれて、顔を上げた。


「うん。先生に……いや、でも、優子をここに置いていけないし、3人で職員室へ行って、それから……」

「ちょっと待って」


 止められて、口を閉じた。


 優子が顔を上げた。俺の方が落ち着いていないことに、気づかれてしまった気がした。


「ごめん。俺、考えてなかった」


 小さく言うと、優子は首を振った。


「私も……昨日、分からなかった」


 今、ここへ来るまで、優子も考えていなかった。


 俺は背中へ添えた手を動かした。細かく震えていた肩が、少しだけ下がった。


「一緒にはいるからね。どうするか、考えるから」


 そう言ったところで、真弓が廊下の先を見た。


「階段の下の、広い方。あそこはどうかな」

「広い方?」

「車椅子の印があるところ。あそこなら、入口からすぐ中でしょ」


 扉を思い出した。


 何度も前を通っていた。それなのに、今言われるまで浮かばなかった。


「ああ……ある。うん、あるね」


 真弓が頷き、優子を見た。


「そっち、見てみようか。少し歩ける?」


 優子は俺の手を握り直して、頷いた。


 俺もすぐに動こうとして、先へ出すぎた。優子の歩幅に合わせて戻すと、真弓が俺をちらっと見た。


「急がせないでね」

「うん。ごめん」


 俺が慌てたところで、近くなるわけではなかった。


 階段を1段ずつ下りた。優子が手すりへ触れられる方を空け、俺は隣を歩いた。


     * * *


 扉の表示は、空いていた。


 真弓が開けて中を確かめると、優子へ顔を向けた。


「ここは、どう?」


 優子は入口から中を見た。


 さっきのように、奥へいくつも個室が続いている場所ではなかった。廊下から入れば、その部屋だけだった。


 けれど、握っている指は離れなかった。


「……やっぱり、1人じゃ怖い……」


 優子が、中から目をそらした。


 俺が返事を探していると、真弓が隣へ寄った。


「私も、一緒に入ってようか」


 優子が、ゆっくり顔を上げた。


「扉のところで、後ろ向いてるから」


 真弓は、返事を待った。優子はもう1度中を見てから、小さく頷いた。


「……うん。お願い、します」

「うん」


 俺も、握っている手を少し緩めた。


「俺は、すぐ外にいるね」

「……待っててね」

「うん。ここにいるよ」


 指が、ゆっくり離れた。


 真弓と並んで入っていく優子を見送り、俺は扉のそばで廊下の方へ体を向けた。


    * * 優子視点 * *


 加藤さんが扉を閉め、鍵をかけた。


 小さな金属の音に、肩が跳ねた。


「ここにいるね。何かあったら、言って」


 加藤さんは扉のそばに立ち、私に背を向けてくれた。


「……ありがとう」


 鞄を、手の届くところへ掛けた。


 1人じゃない。


 加藤さんが、一緒にいてくれる。


 そう思いながら、便座へ座ろうと体の向きを変えた。


 白い便器が、目に入った。


 その途端、息が止まった。


 ここにはないはずの声が、耳の奥で重なった。見下ろしてくる顔。逃げようとしても、動かなかった体。床へ落ちていく白い髪。


 違う。


 今は、違う。


 そう思うのに、膝が震えた。


 加藤さんの背中を見た。


 さっきも、今も、優しくしてくれている。頼めば、きっと振り向いてくれる。


 けれど、まだ、2人きりになると何を話せばいいのか迷ってしまう。こんなふうに怖くなった時、どうしてほしいと頼めばいいのか、分からなかった。


 声をかけようとして、唇を開いた。


 何も、出てこなかった。


 顔を上げると、扉の上のすりガラスに、ぼんやりした人影が映っていた。


 勝也だ。


 外で待っていてくれると、さっきも言ってくれた。


 けれど、顔は見えなかった。白く曇った輪郭を見つめているうちに、胸の奥が冷たくなった。


 外で、待っている。


 私が、出てくるのを。


 その影に、美咲さんたちの姿が少しずつ重なった。扉の向こうで、私を待ち構えているように見えてきた。


 違う。勝也だ。


 分かっているのに、出ていったらまた捕まる気がして、足が動かなかった。


「……勝也……」


 名前が、こぼれた。


 加藤さんが、顔をこちらへ向けた。


「富田さん?」


 返事をしようとしたけれど、息がうまく吸えなかった。


「……ごめん、なさい……」

「大丈夫。いったん出ようか」


 加藤さんが、鍵へ手を伸ばした。


「優子?」


 外から、勝也の声がした。


 目の前が滲んだ。顔を見たかった。そこにいるのが勝也だと、ちゃんと確かめたかった。


 頷くと、加藤さんが鍵を開け、扉を引いてくれた。


 勝也が、振り向いた。


 見慣れた顔を確かめた途端、足が動いた。


「……っ、勝也……」


 制服へしがみついた。勝也の腕が、すぐに背中へ回った。


「どうしたの? 怖くなった?」


 頷くと、こらえていた涙が落ちた。


 ここにいる。


 顔を押しつけた制服も、背中へ触れている手も、今はちゃんと分かった。


「……勝也も、中に……来てほしい」


    * * 勝也視点 * *


「中に?」


 聞き返すと、優子が俺の制服を掴んだまま頷いた。


「加藤さんと、いても……さっきのこと、浮かんできて……」


 優子は制服へ顔を寄せたまま、途切れ途切れに言った。


 真弓も外へ出て、扉を開けたまま待っていた。


 俺は背中へ添えた手を、ゆっくり動かした。


 場所が変わって、真弓もそばにいれば、少しは落ち着けるかと思っていた。それでも怖かったのだと、腕の中の震えで分かった。


「……一緒にいて、ほしい」


 優子が、もう1度言った。


「うん。離れないよ。ただ、中は……」


 開いた扉へ目を向けた。


 広い。俺が立っていても、邪魔にならない場所はある。


 そういう問題ではなかった。


 小さい頃には、一緒にお風呂へ入ったこともある。でも、今は中学生だった。しかも、お風呂の話ではない。


 優子が困っているのは分かっている。


 俺だって、何とかしたい。


 それでも、ここで、うん分かった、とすぐには頷けなかった。


「でも……こっち、見ないでほしい」


 腕の中から、小さな声がした。


「それは、見ないよ。絶対、そっち向かない」

「……音も、聞かないで」

「音も……うん」


 答えてから、どうすればいいのか考えた。


 後ろを向くことはできる。耳も、手で塞げばいいのかもしれない。


「あと……息も、止めててほしい」


 今度は、返事が止まった。


 優子が顔を上げた。目が濡れたままだった。


「……匂いも、嫌だから……」


 声が、最後には消えそうになった。


 怖い。それでも、俺に知られたくないことはある。


 その両方を、必死に伝えようとしているのだと思った。


「分かった。でも、息は……ずっとは止められないと思う」


 優子の眉が、困ったように下がった。


 どうしよう。


 何か、ほかに方法はないだろうか。


 真弓へ顔を向けかけた時、制服を掴む指が強くなった。


「勝也……」

「うん?」

「……もう、我慢できない……」


 半分泣いたままの声だった。


 俺は、考えかけていたことを全部止めた。


「分かった。入る。中にいるから」


 頷くと、真弓が動いた。


「勝也、これ」


 差し出されたのは、畳んだタオルとポケットティッシュだった。


「目はこれ。耳は、こっちで塞いで」

「あ……うん」

「息は口で。富田さん、それならどう?」


 優子が涙を拭いながら、頷いた。


「……うん」

「じゃあ、ほら。早く」


 真弓の手が、俺の背中を押した。


 優子と一緒に中へ入り、まず鞄の場所を確かめた。優子が奥へ進めるように横へよけてから、俺は扉の前へ寄った。


「ここに立ってるね。後ろ向いてるから」


 扉のすりガラスへ顔を向けた。


 タオルを目へ当てたところで、真弓が端を受け取った。後ろで結ばれると、廊下の明るさも見えなくなった。


「見える?」

「見えない」

「うん。じゃあ、耳も」


 俺はティッシュを急いで丸め、耳を塞いだ。


 左右が同じ形になったかどうか、確かめる余裕はなかった。


 目の前で誰かが動いた気配がして、肩へ軽く手が触れた。


 俺は頷いた。


「優子。終わったら、背中に触ってね」


 自分の声が、変に頭の中へ響いた。


 胸が、どくどく鳴っていた。


 足を動かして、何かへぶつかったら困る。勝手に振り向いてもいけない。優子が安心していられるように、ここで待っていなければならない。


 両手を体の横へ下ろした。


 背筋を伸ばし、足を揃えた。


 緊張するなと思うほど、心臓がうるさくなった。


 息を止めかけて、慌てて口を開いた。


 呼吸は、していい。


 さっき、そう決まった。


    * * 優子視点 * *


 加藤さんが、勝也の横から私を見た。


「これなら、大丈夫そう?」


 私は、小さく頷いた。


 勝也は、中にいた。


 扉の向こうの影ではなかった。黒い制服の背中も、体の横へ伸ばした指も、曇らずに見えた。


 ただ、その頭の両側から、白いものが大きくはみ出していた。


 ティッシュだった。


 片方は斜め上へ、もう片方は横へ広がっていた。目にはタオルを巻き、背中はまっすぐで、足もきっちり揃っている。


 大きな白い耳をつけて、何かの当番をしているみたいだった。


 口だけが、少し開いていた。


「……勝也」


 思わず呼んだけれど、返事はなかった。


 そのまま、ぴしっと立っていた。


 加藤さんが口元を押さえた。勝也を見て、それから私を見た。


 私も、唇を結んだ。


 さっきまで、どうしても止まらなかった震えが、少し弱くなっていた。


 こんな姿になってまで、中にいてくれている。


 おかしいと思うのに、それよりずっと、ほっとした。


「私、外にいるね」


 加藤さんが小さく言った。


「……ありがとう」


 頷くと、加藤さんは外へ出た。


 扉を閉めて、鍵をかけた。


 また、あの音がした。


 肩が跳ねた。


 すぐに、勝也を見た。


 同じ部屋にいた。手を伸ばして近づけば、触れられる場所にいた。


 大きくはみ出したティッシュも、さっきのままだった。


 ゆっくり息を吐いた。


 怖さは、まだあった。


 けれど、今度は足を動かせた。


 便座に座るまで、勝也の背中から目を離さなかった。勝也は1度も振り向かず、肩の向きさえ変えなかった。


 扉の向こうから、くぐもった声がした。


「……っ、ごめ……」


 加藤さんだった。


 そのあとに、笑い声が続いた。こらえようとしているのに、また声が出てしまうような笑い方だった。


 勝也は、気づかなかった。


 大きな耳をつけたまま、真剣に立っていた。


 私は口元へ手を当てた。


 少しだけ、笑ってしまった。


     * * *


 用を済ませて身支度を整えると、ようやく長い息が出た。


 水を流しても、勝也は動かなかった。


 手を洗いながら、その背中を見た。


 私が振り返るたび、必ずそこにいてくれた。


 ハンカチで手を拭いて、鞄を取った。肩へ掛けてから、そっと近づいた。


 背中に触って、と言ってくれていた。


 手を伸ばした。


 でも、指先で触れるだけでは、足りなかった。


 制服へ両手を添え、そのまま、ゆっくり腕を回した。


    * * 勝也視点 * *


 背中へ、そっと何かが触れた。


 肩が動きかけたが、そこで止めた。


 俺の脇から細い腕が回り、制服を掴んだ。


 優子だった。


 終わったのだと思った途端、体へ入れていた力が抜けた。


 耳のティッシュを、片方ずつ外した。


「……勝也」


 背中から、小さな声が聞こえた。


「うん」

「……ありがとう」


 さっきより、落ち着いた声だった。


「大丈夫だった?」

「……うん。勝也が、いてくれたから」


 俺は、ゆっくり息を吐いた。


 よかった。


 本当に、それだけだった。


 外で真弓が何をしていたのかも、水が流れたことも、全く気づかなかった。耳を塞いでいる間は、自分の鼓動と、口で息をする音ばかり気になっていた。


「目、もう……いいよ」


 優子に言われて、タオルを外した。


 すりガラスの白い光が戻った。


 目も耳も元に戻ったのに、呼吸だけは、まだ口で続けていた。鼻で息をしないように意識しているせいか、話す声まで少しこもっていた。


 外したものを片づけてから、俺は腰の前にある優子の手へ触れた。


「こっち、向くね」


 優子の腕が少し緩んだ。離れきらないその腕の中で、ゆっくり体の向きを変えた。


 優子が顔を上げた。


 目元に涙の跡があった。でも、もう、扉から飛び出してきた時の顔ではなかった。


 左手を腰の後ろへ回し、右手を頭へ添えた。


 短くなった白い髪を、そっと撫でた。


 優子の額が、俺の胸元へ戻った。


「……ごめんね」


 制服を掴む指が、少し縮まった。


「こんなところまで、入ってもらって……。それなのに、見ないでとか、聞かないでとか……」


 顔が、さらに下を向いた。


「勝也、困ってたのに。私、いろいろ言って……」

「謝らなくてもいいよ」

「でも……何回も、迷惑かけちゃった」


 俺は頭へ添えた手を止めず、ゆっくり髪を撫でた。


「びっくりはしたよ。どうしたらいいのか、俺もテンパっちゃって」


 優子の指へ、また力が入った。


「でも、迷惑だとは思ってないよ。優子が落ち着けたなら、一緒に入ってよかったって思ってる」


 優子が、少しだけ顔を上げた。


 トイレで、優子がどんな目に遭ったかは知っている。


 さっき、腕の中で震えていた体を思い出した。場所が変わったからといって、すぐに忘れられるはずがなかった。


 それでも、学校へ来たいと言ってくれた。


 安心して通えるようになるまで、俺にできることは、できるだけしてあげたい。そのつもりで、今日は隣にいた。


「俺、優子が安心して学校に来られるようになってほしいんだ」


 優子の目が、俺へ向いた。


「そのために、俺にできることなら、なんでもしてあげたい。遠慮なんかしなくていいんだよ」


 目が合ったまま、優子は黙っていた。


「だから、怖い時とか不安な時は言ってね」


    * * 優子視点 * *


 髪を撫でる手が、ゆっくり動いていた。


 さっきは、勝也を困らせてしまった。私が中へ来てほしいと言わなければ、あんな格好で待たなくてもよかった。


 それなのに、一緒に入ってよかったと言ってくれた。


 遠慮なんかしなくていいんだよ。


 その言葉を、心の中でもう1度繰り返した。


「……また、お願いしても、いいの?」

「うん」


 勝也は、頷いてくれた。


「今日みたいに、どうしようってなるかもしれないけど。その時は、一緒に考えよう」


 私は、勝也の制服を見た。


 お願いするたびに、嫌がられないかと考えてしまう。今も、その心配が全部なくなったわけではなかった。


 でも、腰に回った腕は私を離さず、頭を撫でる手も止まらなかった。


「……もう少しだけ、こうしててもいい?」

「うん。いいよ」


 背中へ回った腕に、そっと力がこもった。


 ごめんね、と言いかけて、口を閉じた。


 代わりに、勝也の胸元へ額を寄せた。


「……ありがとう」


 髪の上から、うん、と返事が聞こえた。


 勝也には、少しずつ、遠慮しなくてもいいのかもしれない。


 そう思いながら、制服を掴んでいた指を緩め、両手を勝也の背中へ回した。もう少しだけ近づいて、胸元へ頬を寄せた。


 髪の上で、小さく息を吸う音がした。


 ふと見上げると、勝也はまだ、口を少し開けて息をしていた。


「……勝也?」

「ん、どうしたの?」


 優しく聞き返してくれる声が、やっぱり、少し鼻にかかっている。


 目隠しも、耳のティッシュも、もう外しているのに。顔もいつもの勝也に戻っているのに、声だけが、まださっきのままだった。


「……まだ、口で息してるの?」

「うん。なんか、そのままになってた」


 その返事まで同じ声で、私は唇をきゅっと結んだ。


 笑ったら悪い。私が、いろいろお願いしたせいなのに。


 そう思うほど、きょとんとした顔と、鼻にかかった声が可笑しくなってしまった。


「……ふふっ」

「え、なに?」

「ごめん……勝也、声が……」


 口元を押さえたけれど、笑いが少しこぼれた。


「ずっと、その声で……真面目に、話してくれてたんだって思ったら……」


 さっきの言葉は、ちゃんと胸に残っている。嬉しかった気持ちも、そのままだった。


 それなのに、私のお願いを守ったまま、一生懸命に話してくれていた勝也を思うと、可笑しくて、胸の奥まで温かくなった。


「そんなに変だった?」

「……少しだけ」


 そう答えると、勝也も困ったように笑った。


「もう、普通に息していいよ……」

「うん。ありがとう」


 お礼を言うのは、私の方なのに。


 また笑いそうになって、勝也の胸元へ顔を寄せた。さっきまで強張っていた頬が、今は自然に緩んでいた。


    * * 勝也視点 * *


 しばらくして、優子が顔を上げたところで、俺も扉へ目を向けた。


「出ようか」

「……うん」


 片手をつないでから、鍵を開けた。


 扉を引いた。


 真弓が、いなかった。


 いや、いた。


 思っていた高さに、顔がなかっただけだった。


 壁のそばで、床へ膝をついていた。片手でお腹を押さえ、もう片方の手で口元を覆っている。


「……真弓?」


 呼ぶと、顔が上がった。


 目元に涙が浮かんでいた。


「ごめ……ちょっと、待って……」

「どうしたの?」

「耳が……」


 俺は、自分の耳へ触れた。


 もう、何もついていなかった。


「ティッシュ?」


 真弓が頷いた。頷いた途端、また肩が揺れた。


「あの耳で……ずっと、まっすぐ……」


 両手を体の横へ伸ばす真似をして、途中でお腹を押さえた。


「ガラスに、ずっと……映ってて……」

「そんなに変だった?」


 返事の代わりに、笑い声が返ってきた。


 隣を見ると、優子も口元を押さえていた。


「……優子も?」


 優子は俺を見上げ、申し訳なさそうに、少しだけ頷いた。


「……でも、すごく安心した」


 つないだ手が、きゅっと握られた。


 俺は2人を見比べてから、握り返した。


「……それなら、よかったけど」


 真弓が、もう1度笑い崩れた。


 俺は手の中のタオルを見た。


 あとで、どんな耳になっていたのかだけは、聞いてみようと思った。


 真弓は何度か息を整えてから、ようやく立ち上がった。目元を拭い、優子へ顔を向けた。


「富田さん、落ち着いた?」

「……うん。ありがとう」


 優子が答えると、真弓はほっとしたように頷いた。


「よかった。じゃあ、戻ろうか」


「真弓も、ありがとう。タオル、洗って返すね」

「うん。急がなくていいよ」


 真弓が階段の方へ歩き出した。俺も優子と並び、その歩幅に合わせてあとを追った。


     * * *


 教室へ戻る途中で、チャイムが鳴った。


 優子の足が速くなりかけたので、俺も同じ速さで歩きながら声をかけた。


「走らなくていいよ。大丈夫」


 3時間目の先生は、教室の入口にいた。俺たちに気づくと、持っていた教科書を少し下ろした。


「遅くなって、すみません。少し、困ったことがあって」


 声を落として言うと、先生は優子を見てから、今は大丈夫、と静かに聞いた。


 優子が頷いた。


「分かった。まず、席に戻ろうか」


 詳しい話は、その場ではしなかった。俺が授業のあとに花沢先生へ相談したいと伝えると、連絡しておくね、と返してくれた。


 真弓が自分の席へ向かう前に、優子が声を出した。


「加藤さん……ありがとう」


 小さかったが、真弓には聞こえた。


「うん。また、声かけてね」


 真弓が微笑むと、優子も少しだけ口元を緩めた。


 席へ戻って、教科書を開いた。少し進んでいたところを確かめ、俺も鉛筆を持った。


 優子の鞄が、机のそばへ戻された。


 どこへ行くにも一緒にいればいい、と思っていた。けれど、実際に動いてみないと気づけないことがあった。


 また何かあったら、今日みたいに慌てるかもしれなかった。


 隣で、優子がノートを開いた。


 俺も、書くところへ指を置いた。


     * * *


 3時間目が終わったあと、花沢先生が教室へ来てくれた。


 俺たちは真弓と一緒に、教室の入口から少し離れた廊下へ出た。優子は鞄を持ち、俺のすぐ横に立っていた。


「さっき、何か困ったことがあったって聞いたよ。今、話せそう?」


 俺は優子を見た。


「さっきのこと、先生に話してもいい?」


 優子が、つないだ手を握り直してから頷いた。


 声を落として話した。


 女子トイレで怖くなり、階段の下の広い方へ移ったこと。そこでも真弓が一緒に入ってくれたが、前のことを思い出して怖くなったと、優子が話していたこと。


 それで、俺も同じ個室へ入ったこと。目を隠して耳を塞ぎ、扉の前で優子へ背を向けて待っていたら、ようやく落ち着けたことを伝えた。


 真弓も、どの場所を使ったのか、短く付け足した。


 先生は途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。


「富田さん。鵜飼くんが同じ部屋にいてくれたら、落ち着けたんだね」

「……はい。外だと、怖くて……」


 優子の声が小さくなった。


「前に怖い思いをしたのも、女子トイレだったものね」


 先生は、その先を優子に説明させようとはしなかった。


「お父さんとお母さんからも、学校でのことは鵜飼くんにお願いしていると伺っています。今の富田さんには、鵜飼くんがそばにいてくれることが、いちばん安心できるんだよね」


 優子が頷いた。


 学校へ任せるより、俺へ頼みたい。


 優子の両親がそう思うまでに、学校で何があったのかも、先生は知っていた。


「分かった。これからも、あのトイレを使っていいよ。必要な時は、今日みたいに鵜飼くんに中で待ってもらおう。付き添いが必要なことは、ほかの先生にも伝えておくね」


 優子が小さく頭を下げた。


「……すみません」

「謝らなくていいよ。私も、そこまで気が回っていなかったね」


 それから、先生は俺たち3人へ目を向けた。


「ただ、1つだけお願いしてもいいかな。普段は2人だけで行かずに、今日みたいに、もう1人と一緒に行ってほしいの」


 俺は真弓を見てから、先生へ目を戻した。


「急に具合が悪くなった時や、どうしても間に合わない時は、その時にできるようにしてくれていいからね。でも、そうでなければ3人で。もう1人には外で待っていてもらえば、何かあった時に先生を呼べるから」

「はい。分かりました」


 真弓も頷いた。


「私、また一緒に行きます」

「ありがとう。加藤さんが行けない時は、先生にも声をかけてね」


 先生の目が、俺へ向いた。


「鵜飼くんも、ありがとう。富田さんのことを、こんなに任せてしまって、ごめんなさい」


 俺は、少し驚いて顔を上げた。


「いえ。俺は、優子が安心できるなら、一緒にいたいです」


 さっき、優子へ言ったのと同じ気持ちだった。


「でも、どうしたらいいか分からないこともあるので。その時は、先生に聞いてもいいですか」

「もちろん。場所を用意したり、ほかの先生と相談したりするのは、私たちがするから。困ったことは、その都度教えてね」


 答えると、優子の手が少し緩んだ。


 先生は少し考えてから、優子へ顔を向けた。


「今日のことで、もう1つ、先に相談しておきたいんだけど。体育の着替えは、どうしようか」


 優子が、鞄の肩紐へ手を添えた。


「みんなと一緒に着替える時、鵜飼くんと離れても大丈夫そう?」


 すぐには返事がなかった。


 優子が俺を見て、また先生へ目を戻した。


「……勝也がいないと、怖いです」


 肩紐を掴む指に、力が入った。


「それと……鞄も。教科書とか、私の物を、置いていくのが……」


 言いかけて、下を向いた。


 新しいノートも、筆箱も、今は鞄の中にあった。教室を出るたびに持ってくるのを見ていたのに、着替えの時にどうするかまでは、俺も考えていなかった。


「手元に置いて、確かめられる方がいいね」


 先生は廊下の奥へ、少し目を向けた。


「今、物置代わりに使っている小さな空き部屋があるの。あそこを、着替えに使えるようにしようか」


 優子が顔を上げた。


「扉もカーテンも閉められるし、荷物を置く場所も作れるよ。鵜飼くんにも一緒にいてもらって、着替える間は背中を向けて待ってもらおう。もう1人には、扉の外で待っていてもらえばいいから」


 優子が俺を見た。


「……勝也も、いていいの?」

「うん。優子が落ち着けるなら、俺も一緒にいるよ」


 返事を聞いてから、優子は先生へ頷いた。


「……そこを、使いたいです」

「分かった。今日の掃除の時間に、使えるようにしておくね。体育の先生にも、私から話しておきます」


 真弓が、少し前へ出た。


「先生。掃除、私もやります」

「助かるよ。あとで、ほかにも手伝ってもらえる人に声をかけるね」


 先生は優子へ、掃除を手伝う人には着替えに使う部屋を整えることだけ伝えるね、と確かめた。優子が、小さく頷いた。


 今朝は、教室へ来ることで頭がいっぱいだった。


 学校で1日過ごすには、その先にも、いくつもあった。


 俺たちが席へ戻る時、先生は、今日決めたことはおうちの方にもお話しするね、と言ってくれた。教室のみんなへ、トイレのことを説明することはなかった。


 4時間目は、先生が説明するところを、優子と一緒に追った。途中で分からなくなると、隣から小さく袖を引かれた。


 すぐに答えられることは声を落として伝えた。あとで見直したいところには、優子がノートへ小さく印をつけた。


     * * *


 給食の時間になると、机を動かす音が1度に大きくなった。


 優子の手が止まった。


 窓側の後ろの班は、俺たちを含めて6人だった。前にいる4人が椅子や机を動かし始めたので、俺は優子へ顔を向けた。


「俺たちも、少し動かすね。鞄、持っててもいいよ」


 優子が頷き、鞄を抱えて立った。俺が机を寄せる間、すぐ横にいた。


 席の形が変わったあと、優子はどこへ座るか、一瞬迷ったようだった。俺が隣の椅子を引くと、自分の椅子へ座り直した。


 前から渡された器を受け取った。


 優子も、隣へ渡そうとして手を伸ばした。向かいの子が、ここでいい、と机を指すと、小さく頷いて置いた。


 給食当番の白衣を着る必要はなかった。


 配膳が終わるまで、俺も同じ席にいた。優子は箸袋を出してから、俺の方へ少し体を寄せた。


「……勝也も、ここ?」

「うん。ここで食べるよ」


 同じ班なのだから、いつもなら聞かれないことだった。


 優子は、俺の分の器が並んでいるところを確かめた。


 いただきますの声が揃うと、箸を持った。


 優子の食べ始めは、ゆっくりだった。ひと口分を取って、口へ運び、周りの声が大きくなると箸を止める。


 俺は、食べながら向かいの子に聞かれたことへ答えた。次の授業で使うものの話だった。机の中へ入れたままかもしれないと、その子が椅子の下を覗いた。


 優子も、つられるようにそちらを見た。


 出てきたものが違っていたので、俺が、それは明日の方、と言った。向かいの子が笑い、また机の中を探した。


 優子の箸が、もう1度動いた。


 俺は最後のひと口を飲み込み、箸を置いた。


「ごちそうさま」


 隣で、優子の手が止まった。


 俺の顔を見てから、器へ目を落とした。ご飯の器も、おかずの皿も、もう空だった。


「……もう?」

「うん」

「全部……食べたの?」


 頷くと、優子は自分の分を見た。まだ、ほとんど残っていた。


「勝也……いつの間に食べたの?」

「いつの間にって。普通に食べてたよ」


 話している間も箸を動かしていたので、自分では、それほど早かったつもりはなかった。


 優子は、もう1度俺の器を確かめた。それから、教室の前へ目を向けた。


 配膳台には、まだ給食が残っていた。おかわりを取りに行く子が、食器を持って立ち上がっていた。


「……勝也。おかわり、行ってきていいよ」

「ん?」

「まだ、残ってるから。お腹、空いてるんじゃないかなって……」


 優子が、俺の袖へ触れかけた手を、自分の膝へ戻した。


「私なら、ここで待ってるから。ここから、見えるし……」


 そこまで聞いて、ようやく分かった。


 俺が離れられないから、おかわりを我慢していると思ったらしい。


「大丈夫だよ。優子がいるから我慢してるわけじゃないよ」

「……本当に?」

「うん。今ので大丈夫。優子は、ゆっくり食べて」


 優子は少し迷ってから、頷いた。


 あの時、もう1杯もらっておけばよかったと思うことになるのは、まだ先だった。


 廊下側の前の方から、翔太の声が聞こえた。何か言って、同じ班の子に言い返されていた。


 優子がそちらを見た。


「翔太、あっちでもよく話してるね」


 俺が言うと、小さく頷いた。


「……ずっと、元気」

「うん。あんまり変わらない」


 優子が少し笑った。


 それを見てから、俺は空になった器を、自分の机の端へ寄せた。


 家の食卓で隣に座っている時とは、周りの音が違った。こちらへ来る人も多かった。


 それでも、優子の箸が俺の隣で動いていた。


     * * *


 昼休みには、借りていた文庫本を開いた。


 優子は、俺が今どこを読んでいるのか確かめ、そこはもう少しあと、と言って、口を閉じた。


「何が?」

「……言わない」


 俺が顔を向けると、笑うのを我慢しているような顔になった。


「優子も、今、言いそうだったね」

「うん。ちょっとだけ」


 日曜日と、立場が戻っていた。


 ページをめくると、優子が少しこちらへ寄った。俺は本を2人の間へ置いた。


 その時、綾香が通路を歩いてきた。机の端を軽く指して、ここ、いい、と聞いた。


 優子が頷くと、少し離れたところで立ち止まった。


「富田さん、デスノート読んだんだってね」


 優子が顔を上げた。


「……うん。面白かった」

「私も好き。続き、勝也に借りるの?」


 優子は俺を見てから、頷いた。


「また、持ってきてくれるって」

「いいね。読んだら、どこが好きだったか聞きたいな」


 優子の指が、本の端へ触れた。


「井上さんも……全部、読んだ?」

「うん。でも、先は言わないから安心して」


 その返事に、優子の表情が少し緩んだ。


 綾香が俺を見た。


「勝也、続き忘れないであげてよ」

「忘れないよ。俺も、読んだあと話したいし」


 隣で、優子が顔を上げた。


 綾香は、じゃあ、またね、と自分の席へ戻っていった。


 少しして春樹が来た時には、話しかける前に、優子が読んでいるところを確かめていた。


「今、話しかけて平気?」


 俺が頷くと、春樹は近くの机の横で止まった。


「翔太、先の話はしてなかった?」

「うん。言わないって言ってた」

「じゃあ、ちゃんと覚えてたんだな」


 優子が、少し笑った。


 春樹はそれを見てから、好きな場面のことを、名前も内容も言わずに話そうとした。途中で、これ、どこまでなら言っていいんだ、と自分で止まった。


「春樹も、結構話したいんじゃん」

「話したいよ。面白かったから」


 はっきり返されて、俺も笑った。


 優子が、本から顔を上げた。


「……続きを読んだら、聞きたい」


 春樹が頷いた。


「うん。その時に話そう」


 それ以上、感想を急いで聞こうとはしなかった。自分の席へ戻る春樹を、優子は少し長く見ていた。


 俺が本を開き直すと、また隣から覗いた。


 朝よりも、肩が少し近かった。


 昼休みの終わりが近づくと、花沢先生が、掃除の相談をしに来た。


 真弓と綾香、宣仁、春樹、翔太が、先生のそばへ集まった。俺と優子は、席からその話を聞いていた。


「今日の掃除の時間に、小さい部屋を片づけたいの。富田さんが体育の着替えに使えるように、手伝ってもらえるかな」


 真弓が、やる、とすぐに頷いた。


「私も大丈夫です」


 綾香が続くと、春樹たちも頷いた。


「今日は、いつもの掃除場所から外れてもらっていいように、先生から話しておくね。鵜飼くんと富田さんは、予定どおり教室をお願い」


 俺も手伝おうかと思ったが、優子が俺の袖を見ていた。


 まだ、知らない部屋だった。


「分かりました。こっち、やっておきます」


 答えると、優子も小さく頷いた。


     * * *


 午後になると、優子が目をこする回数が増えた。


 眠いのか聞くと、少し、と言った。けれど、そのあとには、疲れたのかもしれない、とも言った。


 休み時間、俺は本を閉じた。


「今は、読まないでいようか」


 優子が頷いた。


 机の上へ腕を置いた。優子も同じように腕を置き、袖の先へ指を寄せた。


 隣で座っているだけの時間になった。


 誰かが後ろの扉を強く閉めると、優子が顔を上げた。俺がそちらを見てから、閉まっただけだよ、と言うと、ゆっくり息を吐いた。


 昼休みに笑えても、びっくりしなくなるわけではなかった。


 それでも、次に先生が来るまで、優子は席にいられた。


 午後の授業の途中、黒板の文字を写していると、腹の奥が小さく鳴った。


 鉛筆を止めた。


 隣で、優子がこっちを見た。


 目が合ったので、聞こえた、と小さく尋ねると、頷かれた。


「……お腹、空いた?」


 俺も、小さく頷いた。


 給食の時に、大丈夫と言ったばかりだった。


「やっぱり、もらっとけばよかった」


 声を落として言うと、優子が唇を結んだ。笑いをこらえているのが分かって、俺も少し笑った。


「……さっき、聞いたのに」

「あの時は、大丈夫だったんだよ」


 優子は俯いて、肩を小さく揺らした。


 先生の声に顔を戻し、俺も鉛筆を動かした。腹の方は、帰るまで待ってもらうしかなかった。


 最後の授業が終わり、掃除の時間になった。


 花沢先生が入口から声をかけると、真弓たちが掃除用具を持って集まった。綾香は雑巾を、宣仁はほうきとちり取りを持っていた。春樹と翔太も続き、先生を先頭に6人で、普段とは違う掃除場所へ向かっていった。


 俺たちは同じ教室の、窓側を担当することになっていた。優子は鞄を持って立ち、俺が掃除用具を取りに行く時にも一緒に来た。


 雑巾を持ったところで、鞄へ目を落とした。


「……これ、置かないと」

「椅子の上なら、見えるよ。ここに持ってこようか」


 俺が椅子を窓のそばへ寄せると、優子は少し考えてから鞄を置いた。


 すぐ横だった。


 窓の下の棚を拭く間にも、ときどきそちらを見た。俺は近くの床を掃きながら、椅子へぶつからないようにほうきを動かした。


 俺が集めたごみをちり取りへ入れる間、優子は椅子の上へ目を向けていた。


 拭きかけだったところへ目を戻し、雑巾を動かした。


「そこ、もうきれいになってるよ」


 言うと、優子が棚の端を見た。


「……あと、ここだけ」


 細いところを拭いてから、雑巾を持ち上げた。


 終わった、と俺へ言った顔を見て、俺もほうきを片づけようと思った。


 掃除用具を戻したところで、花沢先生が入口から顔を見せた。


「着替えの部屋、だいぶ片づいたよ。富田さん、今、一緒に見てみる?」


 優子が俺を見たので、一緒に行こうか、と聞いた。頷いて鞄を背負い、差し出した手を取った。


 部屋は、教室よりずっと小さかった。


 廊下には、運び出された箱がいくつか並んでいた。春樹と翔太が中身を確かめ、先生に教えられた置き場所へ順番に運んでいた。


「これ、もう1個ある?」

「それで最後。そっち、持って」


 翔太が声をかけ、春樹と箱の両側を持ち上げた。


 中では真弓が机を拭き、綾香が椅子の座面へ雑巾をかけていた。片側の棚にはまだ物が残っていたが、床の真ん中は空いていた。


 花沢先生も棚の端を拭いてから、窓のカーテンを引いて確かめた。


「ここを閉めれば、外からは見えないね。使う時には、誰かが入ってこないように先生たちへも伝えておくよ」


 入口の近くでは、宣仁が残ったほこりを集めていた。


「ちょっと待ってな。今、ここ終わるから」


 ほうきを動かす手を止め、俺たちが立つところを空けてくれた。


 真弓が机から雑巾を離した。


「ここ、鞄を置けると思う。もう拭いたから」


 優子が机を見た。


「……置いても、いい?」

「うん」


 鞄を下ろし、机の上へ置いた。背負ったままでは分からなかった机の高さを、手で確かめるように触れた。


 綾香が椅子をそばへ寄せた。


「座るところもあった方がいいかなって。ここなら、荷物もすぐ見えるよ」


 先生が俺たちの立つ場所を確かめ、着替える時は扉の方を向いて待っていてね、と俺へ伝えた。


 俺が頷くと、優子は机と俺を見比べた。


 宣仁がちり取りを持ち上げる時、鞄へ近づきすぎないように、少し体をずらした。


「ここに置くんやな。ほな、こっち通るわ」

「……ごめんなさい」

「ええよ。ぶつからんようにしたらええだけやし」


 宣仁はそのまま、ごみを捨てに出ていった。


 箱を運び終えた春樹と翔太も、入口へ戻ってきた。真弓が、机の端を最後にひと拭きした。


 俺たちが教室の窓の下を掃除している間、みんなは、ここを使えるようにしてくれていた。


 優子の指が、鞄の持ち手から離れた。


「……ありがとうございます」


 小さな声だったが、近くにいたみんなが顔を向けた。


「うん。使ってみて、また困ることがあったら教えてね」


 花沢先生が言うと、優子はもう1度、部屋を見てから頷いた。


    * * 優子視点 * *


 帰りの支度をする時、ノートの角が鞄の内側へ引っかかった。


 少し戻して、向きを直した。


 朝、持ってきたものだった。


 表紙を確かめてからしまおうとすると、勝也が隣で、自分の教科書を重ねていた。


「忘れ物、ない?」


 私は机の上を見た。筆箱も、連絡帳も入れた。日傘の袋もあった。


「……うん。全部、ある」


 口にしてから、もう1度だけ鞄の中を見た。


 全部、あった。


 そのことを、今日は自分で確かめられた。


 帰りの挨拶が終わり、周りの人が立ち上がった。朝と同じように椅子の音が重なったけれど、勝也が隣で鞄を背負うところを見ていられた。


 手が差し出された。


 私は、その手を取った。


 教室を出る時、翔太くんが前の方から、またな、と言った。


 少し声が大きくて、肩が動いた。


 でも、顔を上げると、手を振っているのが見えた。


「……また」


 返せたかどうか分からないくらいの声だった。勝也が隣で手を上げたので、私も少しだけ手を動かした。


 廊下へ出ると、花沢先生がこちらを見た。


「富田さん、今、気分はどう?」


 私は少し考えた。


 疲れていた。足も、朝より重かった。家へ帰りたかった。


 でも、それだけではなかった。


「……少し、疲れました」

「うん。帰ったら、ゆっくりしてね」


 先生は、明日も同じように来られるかとは聞かなかった。


「お母さんには、今日の様子をあとでお話しするね」


 頷いた。


 昨日、先生から聞いた話を勝也が伝えてくれた。今日は、学校で私が過ごしたことを、お母さんへ伝えてもらえる。


「……ありがとうございました」


 頭を下げてから、勝也と階段へ向かった。


     * * *


 靴箱には、朝入れた靴があった。


 手を伸ばす前に、少し止まった。


 片方ずつ出し、中を確かめてから履いた。勝也が日傘を持って待っていてくれた。


 上履きを袋へ入れ、鞄へしまった。


 今日は、置いて帰ろうとは思えなかった。


 勝也は、しまい終わるまで隣にいた。


 昇降口を出ると、目の前が明るくなった。日傘が開き、その下へ入ってから、もう1度手をつないだ。


 校門を通った。


 朝、足が止まったところを、今は反対向きに歩いていた。


 少し離れてから振り返ると、校舎の窓が見えた。あの中に、私の机がある。今日は、そこへ座っていた。


「優子」


 勝也に呼ばれて、顔を戻した。


「少し、ゆっくり歩こうか」

「……うん」


 足の速さが変わった。


 後ろから来た生徒たちが、私たちを追い越していった。声が近づくと、まだ手を強く握ってしまった。


 勝也は、そのたびに握り返した。


 しばらく歩いてから、私は口を開いた。


「今日……何回も、待っててもらったね」


 勝也がこちらを見た。


「門のところも。靴の時も……」

「うん」

「お手洗いも」


 口にしてから、少し恥ずかしくなった。


 見ないでほしい、聞かないでほしいと頼んだ時のことを思い出した。息まで止めてほしいと言って、勝也を困らせてしまった。


「……ずっと、動かないでいてくれたね」

「動いたら、どこかにぶつかりそうだったから。見えないし」


 勝也がそう言うと、両側にはみ出した白いティッシュまで思い出してしまった。


 口元が、少し緩んだ。


「加藤さん……すごく、笑ってた」

「うん。俺、外に出るまで全然気づかなかったよ」


 勝也が、少し首を傾げた。


「そんなに大きかった?」

「……うん。ちょっと、耳みたいになってた」

「耳、もうあるのに」


 思わず、小さく笑ってしまった。


 勝也がこちらを見たので、つないだ手を握り直した。


「……でも、いてくれて、安心した。ありがとう」

「うん。優子が大丈夫だったなら、よかった」


 指が、優しく握り返された。


 道の向こうで、自転車が曲がっていった。勝也と一緒に少し端へ寄り、通り過ぎるのを待った。


 また歩き始めたところで、勝也が言った。


「俺、今日、嬉しかったよ」


 顔を上げた。


「……学校、行けたから?」

「それもあるけど。授業が終わって横を見たら、優子がいてさ。そのまま話せるの、やっぱり嬉しかった」


 声が、日傘の下へ近く聞こえた。


「ノート、俺の方が書き忘れてたところもあったし」

「うん」

「昼休みに、本の話もできた。前だったら、帰ってから優子に聞こうって思ってたところ、その場で聞けたから」


 勝也が笑った。


「一緒に給食食べたのも、楽しかったよ」


 私は足元へ目を落とした。


 何も特別なことはできなかった。教科書を借りて、ノートを書いて、ご飯を食べた。何度も手を握り、途中で動けなくなった。


 勝也の方に、それを楽しかったと思う時間があった。


 手を引いてもらうばかりだった1日が、少し違って見えた。


「……私も」


 声を出すと、勝也がこちらを見た。


「休み時間に、勝也がいるの……嬉しかった」

「うん」

「おうちに来てくれるまで、待たなくてよかった」


 勝也の指が、少し動いた。


「明日も、本、持っていくね」


 私は頷いた。


 明日の校門を考えれば、また怖くなると思った。あの教室で、今日と同じように座れるかどうかも、今は分からなかった。


 それでも、勝也が開いていたページの続きを、隣から見たいと思った。


「今日は……来られて、よかった」


 言い終えてから、勝也を見た。


「うん。俺も、優子と一緒にいられてよかった」


 隣を歩く勝也を見て、午後の授業を思い出した。


「……勝也。お腹は?」


 勝也が、少しだけ眉を下げて笑った。


「空いてる」

「やっぱり……おかわり、行けばよかったね」

「うん。あんなに早く減るとは思わなかった」


 私が待っているから、我慢しているのかと思った。


 でも、あの時は本当に足りているつもりで、そのあと、お腹が空いてしまったらしい。


 思い出すと、また少し笑いそうになった。夕ご飯はうちで食べていいと、もう、お母さんたちの間でも話してあった。それでも勝也は、ときどき、続けてお世話になっていいのかと気にしていた。


 今日は、私から言いたかった。


「……今日も、夜ご飯、一緒に食べる?」


 勝也がこちらを向いた。


「うん。俺も、一緒に食べたい」


 すぐに答えてから、勝也は少しだけ目を伏せた。


「でも、本当に毎日お世話になっちゃって、いいのかなって」

「……お母さん、来てくれる日は一緒に食べてほしいって、言ってたよ。勝也のお母さんとも、話したって」

「うん。母さんからも聞いた。遠慮しなくていいって」


 知っていても、気になってしまうらしかった。


「私も……今日、一緒に食べたい」


 そう言うと、勝也がこちらを見て笑った。


「じゃあ、今日もいただこうかな」


 返事を聞いて、つないだ手へ少し力が入った。


「……何が食べたい?」

「何でも嬉しいよ。お母さんの料理、おいしいし」


 少し間を置いてから、勝也が続けた。


「本当は、毎日食べに行きたいくらい」


 顔を上げた。


「……本当?」

「うん。毎日来ていいって言ってもらえて、すごく嬉しかったんだ」


 さっき少し伏せられた目が、今は私へ向いていた。


「家で作る時は、焼くだけで済ませることも多いから。肉を焼いて、ご飯を入れて、それで終わり、みたいな」

「……うん。前、言ってたね」

「優子の家だと、おかずが何個も並ぶじゃない。1回のご飯なのに、こんなに作るんだって、最初びっくりした」


 私には、いつも見ていた食卓だった。


 大きなお皿のほかに、小さな器があって、お汁がある。お母さんが最後の1品を置き、お父さんが箸を取る。


「野菜も、ちゃんと食べられるし。あれだけあると、食べるのも楽しみになる」

「お母さんに言ったら、喜ぶと思う」

「うん。今日も、お礼言わないと」


 勝也が前へ目を戻した。


 何歩か並んで歩いてから、もう1つあるんだけど、と言った。


「……何?」

「みんなで食べるのも、好きなんだ」


 日傘の持ち手を握る指が、少し動いた。


「優子のお父さんとお母さんが、今日どうだったとか、これも食べるとか、話してるでしょ。ああいうの、聞いてるだけでも、なんか、ほっとする」


 私は、勝也の横顔を見た。


「うちは、親が離婚してから、家で晩ご飯を食べる時は毎日1人だから。ああいうふうに、みんなで食べるの、いいなって思う」


 笑って話していたけれど、最後の言葉は、少しゆっくりだった。


 私が、お母さんからお皿を受け取っている時。お父さんが、その日の話をしている時。


 勝也は、ご飯のおいしさだけを喜んでいたのではなかった。


「優子の家で、隣に座ってるとさ。俺まで、温かい気持ちになるんだよね」


 私は、つないだ手を握り直した。


 学校では、ずっと勝也のそばにいたかった。勝也がいてくれるから、ほっとできた。


 私の家にも、勝也がほっとできる時間がある。


 それが嬉しくて、もう1度、顔を上げた。


「……じゃあ、今日も一緒に食べたい。私も」


 勝也が笑った。


「うん。ありがとう。夕ご飯まで、待ち遠しいな」

「……今度は、おかわりもしてね」


 勝也が笑って頷いたので、私も少し笑った。


 いつもの道を、ゆっくり歩いた。


 門が見えてくると、玄関からお母さんが出てきた。


 私たちに気づいて、顔を上げた。


「お帰り」


 勝也と一緒に足を止めた。


「……ただいま」


 お母さんの顔を見てから、隣の勝也を見上げた。


「お母さん。勝也、今日も一緒にご飯食べるって」


 お母さんが、勝也へ顔を向けた。


「うん。勝也くんの分も用意するつもりだったよ」

「ありがとうございます。今日も、いただきます」


 その返事が、さっきより少し明るく聞こえた。


「母にも、連絡しておきます」

「うん。お願いね」


 夕ご飯の時にも、隣にいられる。


 そう思いながら、勝也と一緒に、お母さんが開けてくれた門を通った。


 朝、この家を出た時と同じ鞄を背負っていた。


 けれど、その中に入っているノートには、今日、隣の席で過ごした時間が残っていた。


     * * *


 手を洗って居間へ戻ると、お母さんが飲み物を用意してくれていた。


 鞄を足元へ置き、勝也の隣へ座った。学校の椅子とは違う柔らかさに、背中の力が少し抜けた。


 お母さんも、向かいへ座った。


「学校、どうだった?」


 コップを両手で持ったまま、今日のことを思い返した。


 校門。教室の入口。窓側の、いちばん後ろの席。


「……ちょっと、疲れた」

「うん。久しぶりだったものね」


 お母さんが頷いた。その顔を見てから、もう少し話した。


「でも、勝也が隣にいてくれたから。授業も、最後まで受けられた」


 勝也がこちらを見た。


「ノートも、ちゃんと書いてたよ。俺が書き忘れてたところ、優子のを見せてもらいました」

「そうなの?」

「……1文字だけだよ」


 勝也が笑った。


「でも、助かった。休んでる間のところも、あとで一緒に見ようって話してたんです」


 私は、足元の鞄へ目を落とした。


「勝也が、教えてくれるって。でも、すぐ私に追い越されるかもって……」

「そうなったら、俺が教えてもらう方ですね」


 お母さんが、少し笑った。


「お互いに聞けるなら、いいね」


 頷いた。朝、ノートを開く時には、そんなふうに話せるとは思っていなかった。


 休み時間に、翔太くんが挨拶してくれたことも話した。漫画の先の話はしないと、約束してくれたこと。井上さんも春樹くんも、続きを読んだら感想を聞かせてくれると言っていたこと。


 名前や話した順番に迷うと、勝也が横から少し足してくれた。


「みんな、続きの話をしたいみたいで。でも、まだ言えないからって、途中で止まるんです」

「……春樹くんも、言いかけてた」


 思い出すと、口元が緩んだ。


 お母さんは私たちを交互に見ながら、話を聞いてくれた。


「給食も、一緒だった?」

「うん。隣で食べた」


 答えてから、勝也の顔を見た。


「でも……勝也、すぐ食べ終わっちゃった」

「そんなに?」

「私、まだ少ししか食べてなかったのに。気づいたら、もう全部なくなってて……」


 勝也が、少し困ったように笑った。


「普通に食べてたつもりなんですけど」

「おかわり、行ってきていいよって言ったの。でも、大丈夫って」


 お母さんが勝也を見た。


「足りたの?」

「その時は、足りてたんですけど。午後に、お腹空きました」


 私が俯くと、勝也から、また思い出してる、と言われた。


「……だって、さっきまで大丈夫って言ってたのに」


 お母さんも笑った。


「じゃあ、夕ご飯はしっかり食べていってね」

「はい。ありがとうございます」


 コップを置いたところで、学校の廊下を思い出した。


 楽しかったことだけではなかった。


「……それと、お母さん」


 声が小さくなると、お母さんがこちらへ顔を向けた。


「お手洗いが……怖くなっちゃって」


 膝の上へ置いた手を、握った。


「加藤さんが、一緒に来てくれたんだけど。入ったら、前のことを思い出して……」


 言葉が止まった。勝也の袖へ指を寄せると、すぐに手を差し出してくれた。


 その手を握ってから、続きを話した。


「階段の下に、広いところがあって。そっちにも、一緒に入ってくれたの。でも、やっぱり怖くて……」

「そうだったの。今は、落ち着いてる?」

「うん。今は、大丈夫」


 お母さんの目が、つないだ手へ向いた。


「勝也にも、中にいてほしいって、お願いした」


 勝也が、私の方を見てから話を継いだ。


「最初は、外で待ってたんです。でも、優子が怖いって言ってたので、同じ個室に入って、扉のところで待ちました」


 お母さんは頷いた。


「勝也くんがそばにいてくれたら、安心できたのね」

「……うん」


 返事をすると、お母さんが、そっか、と静かに言った。


「昔は2人で一緒にお風呂にも入っていたから、勝也くんとなら、一緒の部屋にいることは平気なのかなって思ったけど……」


 勝也が、少し背筋を伸ばした。


「いや、そのままってわけには……。俺も、どうしたらいいか、結構慌てて」


 私も顔を下へ向けた。


「……見ないでって、お願いしたの。音も、聞かないでって」


 お母さんが、少し目を丸くした。


「それで、どうしたの?」

「真弓にタオルを借りて、目隠しをしました。耳も、ティッシュで塞いで」


 勝也が、空いている方の手を耳の横へ持っていった。


「急いでたから、こんなふうに、横へはみ出してたみたいで」


 白いティッシュを思い出した。


「……耳みたいに、なってた」


 私が言うと、お母さんの口元が動いた。


「耳?」

「うん。大きい、白い耳が……」


 勝也が、困ったように頷いた。


「その格好で、扉に向かって、ずっと真っすぐ立ってたんです。外から、すりガラス越しに見えてたらしくて」


 お母さんが、とうとう小さく吹き出した。


「ごめんね。勝也くんが、そんな格好で一生懸命待っていてくれたのかと思ったら……」


 口元へ手を当てていたけれど、笑いが少しこぼれていた。


 私も、つられて笑ってしまった。


「加藤さん、外で……すごく笑ってたの。出たら、床に膝をついてて」

「俺、耳を塞いでたから、全然気づかなくて」


 お母さんはもう1度笑って、それから、私たちの顔をゆっくり見比べた。


「……そういえば、もう2人とも中学生なのよね」


 少ししみじみとした声だった。


「優子の背が小さいから、お母さん、つい、小学校の低学年の頃みたいな感覚で接していたわ。勝也くんと一緒なら、昔みたいに平気なんだろうって」


 お母さんの目が、私へ向いた。


「そばにいてほしくても、恥ずかしいことはあるものね」

「……うん」


 頬が熱くなった。


 小さい頃は、一緒に遊んで、そのままお風呂へ入ることもあった。でも、今日、勝也にお願いした時には、何も気にならないわけではなかった。


 怖くて離れたくない気持ちも、見られるのは恥ずかしい気持ちも、どちらもあった。


 お母さんが、勝也へ顔を向けた。


「勝也くんも、戸惑ったよね。優子のお願いを聞いてくれて、ありがとう」

「いえ。落ち着けたなら、よかったです」


 つないだ手が、少しだけ握り返された。


「……あの格好、ちょっと可笑しかったけど。勝也がいてくれて、安心した」


 私が言うと、お母さんは、うん、と頷いた。


「先生には、お話しできた?」


 勝也が頷いた。


「授業が終わってから、花沢先生に、真弓と一緒に話しました。あのトイレを使っていいって。俺が中で待つのも、今はそれでいいって言ってもらってます」

「そう。先生も、分かってくれたのね」

「はい。ただ、急な時は別ですけど、普段は2人だけじゃなくて、今日みたいに、もう1人と一緒に行ってほしいって」


 お母さんは、話を聞きながら頷いていた。


 私も、思い出したことを足した。


「体育の着替えも、どうするって聞いてくれたの。勝也がいないと怖いのと、鞄を置いていくのが心配だって言ったら……小さい部屋を、使っていいって」


 荷物を置いた机を思い浮かべた。


「勝也も一緒にいていいし、鞄も持っていっていいって。着替える時は、背中を向けて待っててもらうの。もう1人には、外で待っててもらうって」

「先に相談できたんだね」

「……うん」


 勝也が、掃除の時間のことを話した。


「先生と、真弓、綾香、宣仁、春樹、翔太で、片づけてくれたんです。俺たちは教室の掃除をして、あとから見に行きました」


 私は頷いた。


「机も椅子も、拭いてくれてた。ここなら鞄も見えるよって……」


 お母さんが、ほっとしたように息を吐いた。


「みんなで、使えるようにしてくれたのね」


 私は、足元の鞄を見た。


 ノートも筆箱も、全部、持って帰ってきていた。


「……怖いところも、まだあったけど。みんな、優しかった」


 勝也が、隣で静かに頷いた。


「花沢先生も、あとでお母さんへ、今日のことを話すって言ってた」

「分かった。先生ともお話しするね。2人からも聞かせてもらえて、よかった」


 お母さんが立ち、私のコップへ少し飲み物を足してくれた。


「今は、ゆっくり休もうか」


 私は頷き、もう1度コップを持った。


 今日あったことを話している間、隣では勝也が、同じ場面を思い出してくれていた。


 1人ではうまく話せなかったところにも、勝也の言葉が続いた。


 家へ帰ってからも、今日のことを一緒に話せるのが、嬉しかった。


     * * *


 夕ご飯の時、勝也は本当におかわりをした。


 空いたお茶碗を見て、お母さんが、もう少し食べる、と聞いた。勝也は少しだけ私を見てから、お願いします、と答えた。


 目が合ったので、私は口元を緩めた。


「お昼の分も、食べていってね」


 お母さんが笑うと、勝也も笑った。


「はい。すごくおいしいです」

「まだあるからね。遠慮しなくていいよ」


 お父さんが、真ん中に置いてあったお皿を少し寄せてくれた。


 勝也が、お礼を言って箸を伸ばした。お母さんがお茶碗を返し、お父さんが話し始めると、勝也も顔を上げて聞いていた。


 ああいうの、聞いてるだけでも、なんか、ほっとする。


 帰り道の言葉を思い出した。


 勝也が話に頷くところも、お母さんに、おいしいです、と言うところも、すぐ隣で見えた。


 同じ食卓で、同じお皿からおかずを取った。


 私も、もう少し食べたくなって、箸を伸ばした。


     * * *


 夕食を終え、しばらく一緒に過ごしてから、勝也は帰った。


 門のところで、また明日ね、と言ってくれた。私も同じ言葉を返し、姿が見えなくなるまで見送った。


 家へ戻ると、お母さんが食卓を拭いていた。


 さっきまで勝也のいた椅子が、机の下へ戻されていた。お茶碗も、箸も、もうなかった。


「……お母さん」

「うん?」


 お母さんの手が止まった。


「勝也、帰り道でね……うちで、みんなとご飯を食べるのが好きだって、言ってた」


 お母さんが、布巾を畳んだ。


「そう。今日も、よく食べてくれたね」

「うん。お母さんのご飯がおいしいって。おかずも、たくさんあるのがすごいって……」


 そこまで言ってから、勝也の声を思い出した。


「でも、それだけじゃなくて」


 お母さんが私の顔を見た。


「お父さんとお母さんが、話してるのを聞いてるだけでも、ほっとするって。みんなで食べるの、いいなって……」


 口にしてみると、帰り道で聞いた時より、その言葉が胸に残った。


「自分まで、温かい気持ちになるって、言ってた」


 お母さんは、すぐには返事をしなかった。


 勝也が座っていた椅子へ目を向け、それから、私へ戻した。


「……そっか。勝也くんも、寂しかったんだね」


 小さな声だった。


「1人で食べていることは聞いていたけれど、そんなふうに思っていたのね」


 お母さんが椅子を引いた。私も隣へ座った。


 勝也は、自分でご飯を作る。食べ終われば、片づける。お母さんが帰ってくるまで、宿題をしたり、好きなことをしたりして過ごす。


 その話をしていた時も、困った顔はしていなかった。


「……勝也、いつも、大丈夫って言ってくれるから」


 食卓の端へ、指を置いた。


「私、勝也がいてくれると、ほっとして……そればっかりだった」


 怖い時には、勝也を探した。手を握り、離れないでほしいと頼んだ。今日も、何度も助けてもらった。


 お母さんの手が、私の手のそばへ置かれた。


「優子。今は、勝也くんにたくさん助けてもらっているね」


 頷いた。


「いつか、勝也くんが困ったり、寂しくなったりした時には、優子も、勝也くんを支えてあげられるようになろうね」


 顔を上げると、お母さんがこちらを見ていた。


「今は、頼っていていいのよ。すぐに何かを返さなきゃって、急がなくていいから。少しずつ元気になって、できることを増やしていこうね」


 お母さんの言葉を、心の中で繰り返した。


 私も、勝也を支える。


 今日、手を握ってもらっていた時には、考えもしなかったことだった。


「勝也くんの話を聞いたり、一緒に過ごしたり。そういうことも、支えになると思うよ」


 私は、勝也の座っていたところを見た。


「……私にも、話してくれるかな。困った時とか」

「今日、話してくれたんでしょう?」


 お母さんに言われて、顔を戻した。


「みんなで食べるのが好きだって。1人で食べていた時のことも、優子には話してくれたんだね」


 帰り道の、少しゆっくりになった声を思い出した。


 あの時、私は隣にいた。


 勝也が話してくれたことを聞いて、今日も一緒に食べたいと伝えた。


「……うん」

「お母さんも、また一緒にご飯を食べに来てほしいと思ってるよ。勝也くんが、ほっとできるなら嬉しいね」


 頷くと、お母さんが私の手へ、そっと触れた。


 勝也の寂しさを、全部分かったとは思えなかった。1人の食卓でどんなふうに過ごしていたのか、私が知らない時間の方が、ずっと長かった。


 それでも、今日、話してくれたことは覚えていたかった。


 いつか勝也が困っている時には、私も、その隣にいたい。


「……お母さん。明日も、勝也の分のお箸、私が出すね」


 お母さんが微笑んだ。


「うん。お願いね」


 空いた椅子を、もう1度見た。


 明日も、ここで一緒に食べたい。


 勝也にも、ここに来てよかったと思ってもらえたら、嬉しかった。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

復帰した優子の隣で授業や給食、掃除を共にする。勉強を教えたいと話しつつ、すぐに優子に追い越されて教わる側になるかもしれないと笑う。トイレの問題は真弓と方法を探し、授業後に花沢先生へ相談する。給食をあっという間に食べ終え、おかわりを断ったものの午後には空腹になる。帰り道では、優子の家の料理と、家族で囲む食卓の温かさを好きな理由として伝え、夕食の誘いを喜ぶ。


・富田 優子

怖さを抱えながら勝也と登校し、隣の席で1日を過ごす。トイレでは同室で背を向けて待つ勝也に安心し、その姿や、目隠しを外したあとも続く鼻声に笑みがこぼれる。体育の着替えについても、勝也と離れる怖さと教材・私物への心配を先生へ伝える。勝也の給食の早さに驚き、自分のためにおかわりを我慢しているのかと気遣う。帰り道で夕食へ誘い、自分の家が勝也にとっても安心できる場所だと知る。勝也の帰宅後、その言葉を母へ伝え、「いつか勝也を支えてあげられるようになろうね」という母からの語りかけを受け止める。


・優子の母(美和)

朝の支度を見守り、優子を勝也のマンションまで送る。帰宅した2人から授業や友人、給食、トイレ、着替え用の部屋の話を聞く。目隠しと大きなティッシュの耳で待った勝也を思い浮かべて笑い、優子を小学校低学年の頃の感覚で見ていたことと、2人がもう中学生であることに気づく。相談済みの取り決めに沿って勝也の夕食を用意する。夜、優子から帰り道の会話を聞き、勝也の寂しさを知る。今は頼っていてよいと伝えながら、優子も少しずつ勝也を支えられるようになろうと話す。


・優子の父

夕食を共にし、勝也へおかずを勧める。勝也が温かいと感じる、家族で囲む食卓の一員として描かれる。


・花沢先生

校門で優子を迎え、教室へ入るまで急がせずに付き添う。3時間目の授業後にトイレの問題を聞き、被害の起きた場所と保護者の意向を踏まえて勝也の同室での付き添いを認める。緊急時を除き、普段はもう1人と一緒に行くよう頼み、勝也へ任せていることも謝る。体育の着替え用に荷物を持ち込める小部屋を用意し、掃除の時間には真弓たち5人と一緒に整える。


・鶴見 春樹

優子が読んだ範囲に気をつけながら『デスノート』の話へ加わり、続きを読んだ時に感想を話す約束をする。掃除では翔太と箱を運び、着替え用の部屋を整える。


・翔太

優子へ普段の調子で挨拶し、漫画の先の展開を話さないように気をつける。いつもの賑やかさを見せながら、掃除では春樹と箱を運ぶ。


・真弓

初めて直面したトイレの問題を勝也と考え、広いトイレでも優子に付き添う。恐怖が収まらない優子と一緒に外へ戻り、勝也の付き添いに必要な目隠しと耳栓を用意する。外で待つ間、すりガラスに映る勝也の大きな耳と直立姿に笑いが止まらなくなる。授業後の相談にも同席し、着替え用の部屋の掃除を申し出る。


・綾香

優子が『デスノート』を読み始めたことを喜び、続きを読んだあとの感想を楽しみにする。掃除では椅子を拭き、優子が荷物をすぐに確かめられる位置へ寄せる。


・荒川 宣仁

着替え用の部屋の床を掃き、優子たちが確認に来ると入口を空ける。机へ置かれた鞄にぶつからないよう気をつけ、謝る優子へ自然に返す。

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