第34話 明日の支度
* * 勝也視点 * *
目が覚めた時、いちばん先に気づいたのは、足先の冷たさだった。
布団の外へ出したままになっていたらしい。膝を少し曲げて中へ戻すと、今度は、腕の内側の温かさがはっきりした。優子が、俺の服へ頬を寄せて眠っていた。
昨夜、話し終えてから、こうして目を閉じた。途中で抱き直したかどうかは覚えていなかったが、背中へ回した腕は、まだ同じところにあった。
障子の向こうが明るかった。廊下から聞こえる足音と、遠くで食器の触れる音が、いつもの自分の部屋とは違っていた。今日は日曜日だと確かめてから、顔を少し下へ向けた。
優子の白い髪が、袖の上へ広がっていた。口元には力が入っていなくて、息を吐くたび、服に触れた毛先がわずかに動いた。
また、一緒に学校へ行きたい。
昨夜聞いた声を思い出した。言う前にも、言ったあとにも、優子は怖いと話していた。朝になって、やっぱり無理かもしれないと思っていても、ちゃんと聞こうと思った。
俺は、まだ眠っている顔を見た。
それでも、隣の席に優子がいるところを考えると、嬉しかった。授業の前に、今日も会えたと思える。休み時間になったら、家へ行くまで覚えておこうとしなくても、その場で話せる。
つい笑いそうになって、口を閉じた。その時、服を掴んでいた指が、少し動いた。
「……勝也?」
「うん。おはよう」
優子は、目を開けてすぐには動かなかった。俺の顔を見上げ、まばたきをしてから、小さく挨拶を返した。
「おはよう……。もう、朝?」
「うん。お母さん、起きてるみたい」
優子も、廊下の音を聞くように少し顔を向けた。俺の腕が背中にあることを確かめるように、また体を寄せた。
「眠れた?」
「うん。勝也は?」
「俺も。今、足だけ冷たくなって起きた」
優子の目が、布団の下の方へ動いた。
「また、出してたの?」
「出してたみたい。寝る前は暑かったんだけど」
少し笑う息が、胸元へ触れた。優子は、俺の足がちゃんと入っているかを見るように、上掛けをわずかに持ち上げた。
「今は……寒くない?」
「もう平気だよ」
答えると、上掛けを戻してくれた。今度は俺が、優子の肩まで掛かっているかを確かめた。
しばらく、そのままでいた。学校の話を、こちらから始めることはしなかった。優子の指が、俺の服を軽く握ったり離したりしていた。
「昨日、言ったこと……」
顔を向けた。
「うん」
「お父さんたちに、話す」
優子は、俺を見て言った。昨夜より声が大きかったわけではない。それでも、自分から続きを話してくれたことが嬉しかった。
「一緒に、いてくれる?」
「うん。いるよ」
頷くと、優子は服から手を離した。布団へ両手を置いて起き上がり、枕元の眼鏡を取った。俺も体を起こすと、扉の外からお母さんの声がした。
「起きてる?」
「うん。今、起きたよ」
優子が答えた。少し開いた扉から、お母さんが顔を見せた。
「おはよう。ご飯、もう少しでできるからね」
「おはようございます。ありがとうございます」
挨拶をすると、お母さんは俺たちの布団を見て、口元を緩めた。優子は、膝の上の上掛けを少し直していた。
持ってきた着替えは、リュックサックの中にあった。優子が自分の部屋へ戻ったあとで、俺も着替えた。寝巻きを畳んで鞄へ入れると、昨日までより中に余裕ができた。
今日は夜まで、ここにいられる。着替えを取りに帰るために、いったん別れる必要もなかった。
* * *
朝食には、お父さんも一緒だった。
俺が席へ着くと、よく眠れた、と聞いてくれた。はい、と答える隣で、優子も頷いた。お母さんが味噌汁を置いてくれ、4人で挨拶をしてから食べ始めた。
優子は、最初のうち、いつもよりゆっくり箸を動かしていた。俺と目が合うと、すぐに茶碗へ視線を戻した。話す時を探しているのかもしれないと思ったが、先に言ってしまわずに待った。
「今日は、夕飯も食べていけるんだね」
お父さんが俺へ聞いた。
「はい。母さんにも、昨日話しました。夜に帰ります」
「分かった。ゆっくりしていってね」
優子が、茶碗を置いてこちらを見た。
「……朝も、お昼も、一緒だね」
「うん。今日は、ずっといるよ」
返事をすると、優子の口元が少し緩んだ。それから箸を持ち直し、自分の分を食べた。
食べ終えて、お母さんがお茶を入れてくれた頃だった。優子が膝へ両手を置き、向かいのお父さんを見た。
「お父さん、お母さん。学校のことで、話したいことがあるの」
お母さんが急須を置いた。お父さんも、持っていた湯飲みを食卓へ戻した。
「うん。聞くよ」
優子は、1度だけ俺へ顔を向けた。俺が頷くと、両親の方へ戻した。
「私……また、学校へ行きたい」
言い終えたあと、膝の上の指が重なった。俺は、その横で座り直した。
「勝也と、一緒に」
お父さんは、すぐには質問しなかった。優子の顔を見たまま、ゆっくり頷いた。お母さんが、そっと息を吐く音が聞こえた。
「そう思ったんだね」
「うん。昨日、勝也にも話したの」
お母さんの言葉に、優子が答えた。
「まだ、怖いけど……」
そこで言葉が止まった。俺へ伸びかけた手が、膝の上へ戻ったので、食卓の下で自分の手を少し近づけた。優子の指が触れた。
「家で学校の話を聞くのも、楽しいの。でも……私も、その時に一緒にいたい」
声が小さくなったが、最後まで聞こえた。
お母さんは目を少し伏せ、また優子を見た。お父さんが、俺と優子の間へ視線を動かしてから、口を開いた。
「今も、学校のことを考えると怖い?」
「うん。教室へ入れるか、分からない」
「分かった。それも、先生に伝えておこう」
優子は、お父さんの顔を見ていた。行きたいと言ったことを取り消されると思っていたのか、肩に入っていた力が少し抜けた。
「行く前に、ちゃんと相談できる?」
「できるよ。花沢先生とは、戻る時にどうしたらいいか、これまでもお話ししているからね」
お母さんが答えた。
「優子が行ってみたいと思ったことも、これから伝えるね。朝、どこで会うかも、教室で困った時のことも、一緒に確かめよう」
優子は、頷いてから俺を見た。昨夜、校門のところで止まるかもしれないと話していた時と同じ目だった。
「そこも、話していい?」
聞くと、優子が小さく頷いた。
「学校へ向かっても、門のところで動けなくなるかもしれないって、昨日話してくれて。俺も、その時は一緒に待ちたいです」
お父さんは、優子の方へ顔を向けた。
「その時に急がなくて済むように、先に伝えておこうか」
「……うん」
優子は、手を握ったまま返事をした。お母さんが、食卓の端へ小さなメモ用紙を持ってきた。
「いつから行ってみたいか、考えてる?」
お父さんに聞かれ、優子は少し黙った。
「早く、行きたい。でも、明日って思うと……」
「明日は、先生と最後の確認をする日にしようか。持っていく物も揃えて、火曜日から、というのはどう?」
優子は、俺へ目を向けた。
「火曜日……」
「うん。俺も、一緒に行くよ」
答えてから、優子が考えるのを待った。今日が日曜日で、明日は月曜日。その次の朝に、家で待っている優子に会い、学校へ向かう。
俺にも、日付が決まると急に近く感じられた。
「……火曜日に、行ってみたい」
優子が言った。お母さんは、メモへ書く前にもう1度顔を見て、それから頷いた。
「分かった。先生にも、そのつもりで相談するね」
お父さんも、同じように頷いた。
「当日の朝に怖くなったら、その時も話していいからね」
「うん」
優子は、お母さんが書いた日付を見ていた。俺の手を握る力が、少し強くなった。
お父さんは俺にも、学校でのことは先生と相談しながら頼みたい、と言った。俺が分からないことまで引き受けなくていいし、困った時には、先生を呼んでほしいと続けた。
「はい。明日、俺からも聞いてみます」
答えると、優子の指がわずかに動いた。目が合ったので、頷いた。
優子が自分で言えたことを、俺も嬉しく思っていた。隣を見ると、優子はメモの日付から、少し冷めたお茶へ目を移していた。
お母さんがお茶を注ぎ足すと、優子は空いている手で湯飲みを寄せた。いつもの食卓のまま、話を終えられたことに、俺も少しほっとした。
* * *
居間へ戻ると、優子はソファへ座る前に俺を見た。
「……言えた」
「うん。ちゃんと話せてたよ」
優子の口元が緩んだ。隣へ座ると、肩が触れた。そのまま、本を持ってきてくれた。
「今日は、続き……読めそう?」
「読めると思う。あと、これくらいだから」
残っているページを指で挟んで見せると、優子が覗き込んだ。
「そこまで読んだんだ」
「うん。でも、最後はまだ教えないでね」
「分かってるよ」
少し笑ってから、自分の本を開いた。
学校へ行く日が決まりかけても、そのための話だけをして過ごすわけではなかった。優子は、俺がページをめくるたびにこちらを見ることもあれば、自分の本に集中して、しばらく顔を上げないこともあった。
お母さんが学校へ連絡するため居間を出ていった時には、手が止まった。俺が本を膝へ置くと、優子は俺の袖へ触れた。
「あとで、何を話したか聞こうね」
そう言うと、小さく頷いた。お母さんが戻ってきて、花沢先生とは明日改めて詳しく話すことになった、と伝えてくれるまで、袖を掴んだままだった。
お母さんは、メモを勝手に読み上げず、まず優子へ顔を向けた。
「火曜日に行ってみたいって、伝えておいたよ。明日、準備のことも確認しようね」
「うん。ありがとう」
返事をしてから、優子の指が緩んだ。
昼前には、俺の本が最後まで進んだ。栞を抜いて閉じると、隣でもすぐにページをめくる音が止まった。
「……読んだ?」
「うん。これ、最初のところ、もう1回見たい」
言うと、優子が嬉しそうに頷いた。俺が覚えていた場面を話すと、本を少し戻してくれた。
「ここ。最初に出てきた時は、違うことだと思ったの」
「俺も。こっちの人のことかと思ってた」
同じページを見ながら、しばらく話した。優子が先に気づいていたところもあれば、2人とも読み飛ばしていた言葉もあった。もう隠しておかなくていいからか、優子は途中で笑い、次のページへ指を滑らせた。
昼ご飯だと呼ばれても、まだ話の途中だった。2人で本へ栞を挟み、食卓へ向かった。
お父さんに、今度は何の話、と聞かれ、俺が説明しようとすると、優子が袖を軽く引いた。
「お父さん、まだ読んでない」
「あ、そうだった」
俺が口を閉じると、お父さんが笑った。
「じゃあ、楽しみにしておこうかな」
優子も頷いた。食べながら話す内容は、結末ではなく、どこまで読んだ時に面白くなったかへ変わった。
俺はご飯を口へ運びながら、いつもなら、この時間にはまだ家にいたと思った。着替えて、昼ご飯を食べて、それから優子の家へ向かう。今日は、朝の続きのまま、こうして隣に座っていた。
午後も、優子は俺が立つたびに帰り支度をするかどうか確かめることがなかった。飲み物を取りに行く時には一緒に立ち、戻ると、俺が座る分だけ場所を空けてくれた。
ソファへ座り直してから、昨日リュックサックへ入れた漫画のことを思い出した。
「そうだ。俺も、優子に見せたいのを持ってきたんだ」
「本?」
「うん。漫画なんだけど」
客間へ取りに行くと、優子も一緒についてきた。着替えと一緒に入れてあった2冊を取り出して、表紙を見せた。
「『デスノート』って、読んだことある?」
優子は表紙の文字を見て、少し目を丸くした。
「名前は知ってる。でも、怖い話だと思ってたから……読んだことないの。どんなお話かも、全然知らなくて」
「そっか。怖いところもあるけど、俺、これすごく面白くて。相手が何を考えてるかとか、どうやって先を読もうとするかとか、そこが気になって、続き読みたくなるんだ」
優子が、俺の手元へもう1度目を向けた。
「勝也、好きなの?」
「うん。優子はどうかなって思って、最初の2冊、持ってきた。読んでみる?」
「……うん。勝也が面白いって言うなら、読んでみたい」
居間へ戻り、1巻を渡した。優子は両手で受け取ると、表紙をもう1度眺めてから、最初のページを開いた。
俺も隣で、さっき読み終えた本の、気になっていたところを開き直した。しばらくして肩が触れ、優子がこちらへ少し寄ってきた。そのまま漫画へ目を戻したので、俺も座る位置を少しだけ直した。
初めのうちは、優子はページをめくる手を止めて、表情を硬くすることがあった。けれど、だんだん顔を上げる間隔が長くなった。数ページ戻って読み直したかと思うと、今度は続けて先へ進んでいった。
「……この人、どうしてそこまで分かるんだろう」
不意に言われて、開いているところを覗いた。
「そこ、俺も最初に読んだ時、びっくりした」
「だって、まだ、これしか分かってないのに」
優子が指先で示したところを見て、俺は頷いた。何か言いかけると、すぐにこちらを向いた。
「あ、でも、先は言わないでね」
「言わないよ」
午前中は、俺が同じことを頼んでいた。そう思って笑うと、優子も気づいたのか、口元を緩めてから本へ目を戻した。
読み終わる頃には、俺はもう自分の本を閉じていた。優子が最後のページまで進み、裏表紙を見てから、すぐにこちらを向いた。
「……続き、読んでいい?」
「うん。面白かった?」
「すごく。怖いだけのお話だと思ってたけど、全然違った。次にどうなるのか、ずっと気になっちゃって」
優子は読み終えた1巻を膝へ置き、俺が差し出した2巻を受け取った。
「最初の方も、もう1回読みたい。分かってから読むと、違うところに気づきそう」
「じゃあ、今日の2冊、置いていくね。続きも、また持ってくる」
「ありがとう。……その先も、読みたい」
まだ2巻を開く前なのにそう言うので、持ってきてよかったと思った。俺が好きな漫画を、優子もこんなふうに読んでくれる。
「春樹たちも、これ好きなんだよ」
「そうなの?」
「うん。翔太も、真弓も綾香も。みんなハマってて、学校でもよく話してる」
優子は、少し驚いたように俺を見た。
「みんなも、読んでるんだ」
「うん。どこが面白かったとか、この人は何を考えてたんだろうとか」
「……読み終わったら、その話も聞いてみたい」
俺が頷くと、優子は膝の上の漫画へ目を落とした。表紙の端を指で撫でてから、もう1度こちらを見た。
「勝也が好きなの、読めてよかった」
「俺も、優子と話せて嬉しい。これ、アニメも映画もあるよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。アニメだと声もつくし、映画は実写でやってる」
優子は少し考えるように表紙を見たあと、顔を上げた。
「そっちも見たい。動いたり、話したりすると、どんな感じなんだろう」
「じゃあ、漫画を読んだあと、一緒に見ようか」
「うん。……勝也と見たい」
返事をすると、優子が嬉しそうに2巻を開いた。
今度は、俺も隣から少し覗き込んだ。優子が気になったところで手を止めると、そこまでの話をした。俺が先を知っているので、予想を聞かれても、答えになりそうなことは言わないようにした。
「今、何か言いそうだった」
「……ちょっとだけ」
「まだ、言わないで」
優子が笑いながら本を自分の方へ寄せたので、俺も笑って、続きを読むのを待った。
お茶を飲んだり、途中の場面を見返したりしているうちに、窓から入る光が少し傾いていた。2巻を読み終えた優子は、2冊を揃えて机の端へ置いた。まだ続きが気になる、と小さく言ってから、今度は本棚の方を見た。
「次は、どれにしようかな」
その視線を追うと、優子がこちらへ顔を向けた。
「俺に貸してくれるやつ?」
「うん。短いお話が入ってるのも、あるよ」
「じゃあ、それ、見せてもらってもいい?」
優子が頷いて立ち上がり、俺も一緒に本棚へ向かった。
背表紙を見ている横顔を、近くで見られた。どの本にするかを迷い、1冊抜いてから、別の場所へ手を伸ばした。
「こっちの方が……先がいいかも」
「順番があるんだ?」
「続きじゃないけど、こっちが好きだから」
その理由が嬉しくて、俺は差し出された本を受け取った。優子が好きな方から読める。読み終われば、今日みたいに話せる。
漫画を取り出したリュックサックは、客間の壁際へ置いたままだった。新しく借りる本を少し読んでいるうちに、窓の外が暗くなり始めた。
夕飯を食べ、食器を下げてから、ようやく取りに行った。着替えた寝巻きの上へ、新しく借りた本を入れた。優子が戸口で待っていたので、鞄を背負ってそちらへ向かった。
「明日は、学校が終わってから来るね」
「……うん。先生と、お話ししたことも聞きたい」
「分かった。聞いたこと、覚えてくるよ」
優子は頷いた。昨日から今日まで、こんなに長く一緒にいたのに、帰るとなると、俺ももう少し話したくなった。
玄関でお父さんとお母さんへ礼を言った。優子は、俺が靴を履き終えるまでそばにいて、顔を上げた。
「昨日も、今日も……ありがとう」
「俺も楽しかったよ。また、明日ね」
優子が手を伸ばしたので、鞄を背負ったまま抱きしめた。背中に触れた手へ少し力が入り、それからゆっくり離れた。
今夜は、それぞれの家で眠る。明日は、まだ学校からここへ会いに来る。その次は、朝から一緒に行けるかもしれない。
門を出て振り返ると、優子は小さく手を振っていた。
* * *
月曜日、10月になった最初の朝も、隣の席は空いていた。
教室へ入って鞄を置く時、いつものようにそちらを見た。昨日、同じ本を覗き込んでいた顔を思い出した。明日はここで、おはようと言えるだろうか。
机の横へ鞄を掛け、花沢先生を探した。教室の前でほかの生徒と話していたので、その会話が終わるまで待った。
「先生、少し、いいですか」
「うん。富田さんのことかな」
頷くと、先生は廊下の、入口から少し離れたところへ来てくれた。
「お母さんとは、今朝もお話ししたよ。明日、鵜飼くんと一緒に来てみたいって」
「はい。俺も、昨日一緒に聞いてました」
先生は、俺の返事を聞いてから続けた。
「お母さんが鵜飼くんのおうちのところまで送って、そこから2人で歩いてくるんだね。校門には、私が出ているようにするから」
「お願いします。少し早めに出るつもりです」
昨日、お父さんとお母さんに相談したことだった。明日はいつもの公園へ寄らず、優子と2人で学校へ向かう。春樹たちには、あとで話しておこうと思った。
「もし、門のところで止まってしまったら、そのまま待っていていいですか」
「うん。急いで入るようには言わないよ。私から声をかける時も、まず様子を見るね」
俺は頷いた。昨夜、家へ帰ってから考えたことを、順番に思い出した。
「教室へ来られても、みんなの前で話すのは、まだ難しいと思います」
「休んでいた理由を説明してもらったり、前へ出て挨拶してもらったりはしないよ。いつもの席へ座ってもらおう」
先生は、教室の中へ目を向けた。
「みんなにも、1度に声をかけに行かないように話しておくね。今、鵜飼くんが話してくれた不安の中身まで、教室で伝えることはしないから」
「ありがとうございます」
優子が何も言えなくなったらどうしよう、と考えていたところが、1つ減った。俺が代わりに説明して回る必要もなかった。
続けて、教科書のことを話した。自分の物を開くのがまだつらくて、持っていくことも怖がるかもしれない。一緒に俺の教科書を見る形で始めたいと伝えると、先生は、お母さんからも相談されている、と頷いた。
「教科の先生にも伝えてあるよ。足りない物や、まだ使えない物があることも聞いているから、忘れ物として叱るようなことはしない」
「机も、近づけていいですか」
「見やすいようにして大丈夫。授業で困ることがあれば、その時にも教えてね」
そこで終わろうとして、もう1つ思い出した。
「俺の委員会の時も、一緒にいられますか。富田を、教室で1人で待たせたくないんです」
あの日、自分だけ教室を出ていったことを思い出した。帰ってきた時には、優子はいなかった。
先生は、少し声を落として答えた。
「会議の部屋の中で待てるように、担当の先生と話してあるよ。端に椅子を用意してもらうから、一緒に来ていい」
「中に、いていいんですね」
「うん。廊下で1人で待ってもらうことにはしないよ」
息を吐くと、思っていたより長くなった。優子が顔を上げた時、同じ部屋に俺がいる。それなら、今日会って、そのまま伝えられた。
「富田さんの図書委員の仕事は、引き続き休めるようにしてあるからね。ほかの当番や掃除のことも、負担や付き添いを考えて相談してあるよ」
そのあと、給食当番は当面免除し、掃除は俺と同じ場所で始められることを確認した。教室でつらくなった時には先生へ声をかけ、落ち着ける場所へ移る。急いで1人にせず、その場でどうするかを一緒に考えてくれるという話だった。
「鵜飼くんも、困った時はすぐに言ってね。付き添っていて授業に遅れそうな時は、私から先生へ伝えるから」
「はい」
全部を俺だけで決める必要はなかった。そばにいながら、困ったところを先生に話せばよかった。
先生に礼を言って席へ戻った。鞄からノートを出す時、明日の教科書を1つずつ思い浮かべた。今日は帰ってから、いつもよりきちんと確かめようと思った。
* * *
放課後、机の中を確かめていると、翔太が鞄を持って近づいてきた。春樹もその後ろにいて、真弓と綾香が、近くの椅子へ手をかけた。
「今日も、富田さんの家?」
真弓に聞かれ、頷いた。
「うん。先生と話したこと、伝えてくる」
「最近、どう? 少し、元気になった?」
綾香も、こちらを見た。俺は閉めかけた鞄を机へ置いた。
「家では、結構話してくれるよ。昨日も本の話をしてて、俺が読み終わったから、先のことまで話せるって喜んでた」
真弓が、そっか、と笑った。俺も顔を上げ、少し離れたところで帰り支度をしていた宣仁へ声をかけた。
「宣仁も、ちょっといい?」
「うん。何?」
来てくれたところで、5人の顔を見た。
「土曜に泊まった時、寝る前に、優子が自分から話してくれたんだ。また一緒に学校へ行きたいって」
翔太の手が、鞄の肩紐のところで止まった。
「……来られそうなの?」
「うん。昨日、お父さんとお母さんにも話して。明日、一緒に来てみることになった」
春樹が、ゆっくり頷いた。
「そうか。自分で、行きたいって言えたんだな」
「うん」
真弓は、空いた隣の席へ目を向けた。綾香も、口元を緩めながら、小さく息を吐いた。
「よかった。勝也とだったら、行ってみようって思えたんだね」
綾香の言葉に頷いた。宣仁が机の端へ手を置き、明日か、と確かめるように言った。
「まだ、怖いとは言ってるんだ。門で止まるかもしれないし、教室に入れるかも、分からないって」
「そりゃ、すぐには平気にならんよな」
宣仁は、空席から俺へ顔を戻した。
「何かあったら呼んで。先生呼びに行くんでも、手伝うから」
「ありがとう」
翔太も、うん、と頷いた。来てくれたら嬉しい、と言ったあとで、少し首を傾けた。
「……ん? 今、泊まったって言った?」
俺は頷きかけたまま止まった。
「うん」
「泊まったの? 富田さんの家に?」
「そうだよ」
翔太が、春樹を見た。春樹は小さく笑い、勝也がそう言ってるだろ、と返した。
「いや、聞こえたけど。普通に話が進んだから、俺が聞き間違えたのかと思って」
「先に、明日の話をしたかったんだよ」
「それは分かる。分かるけど、気になるだろ」
真弓も笑って、翔太の方を見た。
「急に元気になったね」
「だって、泊まりだぞ」
周りへ響きそうな声だったので、翔太は途中で少し小さくした。それから、春樹と綾香へ順番に顔を向けた。
「っていうか、お前ら、なんでそんなに落ち着いてるんだよ」
「泊まること自体は、そんなに珍しくないから。俺も勝也の家には、よく泊まってたし」
春樹が答えると、綾香も頷いた。
「私も。勝也がうちに泊まることも、よくあったよ」
「いや、お前らは隣だろ」
俺と春樹と綾香は、同じマンションの隣り合った部屋に住んでいた。誰かの家へ遊びに行って、そのまま泊まることは何度もあった。俺も2人の家へ泊まっていたし、うちへ来てもらうこともあった。
「うん。だから、着替えとかもすぐ取りに帰れるし」
綾香が普通に答えるので、翔太は少し口を開けた。
「すぐ隣なら、そのまま帰ればいいだろ」
「帰れるけど、まだ一緒に遊んでたい時もあるじゃん」
俺が言うと、綾香も頷いた。
「そうそう。朝起きて、また一緒にいられるのも楽しいし」
春樹まで頷くのを見て、翔太は俺たち3人を見回した。
「お前らの中だと、そういう感じなのか。俺、勝也の家には遊びに行っても、泊まったことないからな」
「私も、泊まったことはないよ」
真弓が言った。翔太がすぐにそちらを向いた。
「だろ?」
「うん。だから、どんな感じなのかなって、ちょっと気になる」
翔太が、ほら、と俺たちを見る。真弓は笑いながら、でも、そんなに大きな声は出さないけど、と付け足した。
「別に、ずっと叫んでないだろ」
「さっきは、結構大きかったよ」
俺が言うと、春樹も頷いた。翔太は、そこはもういいから、と鞄を抱え直し、俺へ顔を近づけた。
「それで、富田さんの家では、何してたの?」
「トランプとか、本読んだり。あと、一緒にご飯食べてた」
「ずっと?」
「土曜の午後から、昨日の夜までいたよ」
綾香が、昨日の夜、と繰り返した。
「じゃあ、結構長く一緒にいられたんだ」
「うん。着替えも持っていったから、昨日は帰らずに、そのままいた」
翔太が、また目を丸くした。
「待て。着替えも?」
「寝巻きと、次の日の分」
「準備よすぎだろ。最初から泊まる約束だったの?」
俺は首を振った。
「優子が、また泊まってほしいって言うかもしれないなと思って。一応、持っていっただけだよ」
「……また?」
翔太の声に、今度は春樹も少し眉を上げた。
「その前にも、泊まったんだ」
「うん。先週の土曜日にも。中学になってからは、今回で2回目」
真弓と綾香が顔を見合わせた。俺が何か言う前に、翔太が鞄を持ち直した。
「お前、こっちは初めて聞く話を、どんどん足すなよ」
「聞かれたから答えてるんだけど」
「順番にびっくりするんだって」
宣仁が、翔太の肩を軽く叩いた。
「いっぺん落ち着け。まだ何泊したか聞いただけやろ」
「お前も気になるだろ」
「気にはなるけど、聞く前に勝手に驚きすぎや」
俺も笑ってしまった。春樹が、2人の間へ短く声を入れた。
「家の人も、知ってるんだよな」
「うん。両方とも。俺の母さんにも、泊まることになったら連絡してるよ」
土曜日には、家を出る前から話していたことも伝えた。真弓はそこまで聞いて、優子の席へもう1度目を向けた。
「富田さんから、泊まってほしいって?」
「うん。お母さんに聞いてから、俺にも言ってくれた」
「そっか。そういうお願いも、できるようになってるんだね」
その言葉を聞いて、夕方、膝へ本を置いていた優子を思い出した。なかなかこちらを見られなかったのに、それでも言ってくれた。
「前に泊まった時、よく眠れたって言ってたんだ。今回も、朝まで眠れてたと思う」
綾香が、安心できたんだね、と言った。翔太も、それならよかったな、と頷いてから、また聞いた。
「小さい頃も、そういうのあったの?」
「あったよ。隣に住んでた頃は、よく泊まってた」
「なるほどなあ。お前らには、前からあることなのか」
翔太は腕を組んだが、すぐ、でも中学になって2回目なんだよな、と言った。春樹に、そこはさっき聞いた、と返されて、真弓が声を抑えて笑った。
「そういえば、本って何を読んでたの?」
綾香に聞かれて、机の中から取り出した文庫本を見せた。
「俺は、優子に借りた本。優子は、俺が持っていった『デスノート』を読んでた」
「えっ、富田さんも?」
翔太が、すぐに顔を上げた。
「どこまで?」
「昨日は2巻まで。名前は知ってたけど、読むのは初めてだったって。面白かったから、続きも読みたいって言ってた」
「あれ、途中でやめられないよな。俺も、次の巻ないかって探したもん」
翔太の言葉に、春樹も頷いた。
「分かる。読み終わると、前のところも確かめたくなるんだよな」
「優子も、同じこと言ってたよ」
そう伝えると、春樹が笑った。真弓は、最初から読めるのがちょっと羨ましい、と言った。
「私、先を知らないまま、もう1回読みたいくらいだもん」
「俺も。あそこなんかさ――」
「翔太、富田さんの前では、どこまで読んだか聞いてからね」
真弓が言うと、翔太は、分かってるって、と笑った。
「映画とかアニメも、これから?」
綾香に聞かれて、俺は頷いた。
「あるって話したら、そっちも見たいって。一緒に見ようって話してた」
「いいな。私もハマってるから、感想聞くの楽しみ」
みんなの話を聞いているうちに、昨日、続きを渡した時の優子の顔を思い出した。先の話を言わないで、と笑ったことも。学校でも、優子が話したくなった時に、あんなふうに話せたらいいと思った。
俺は借りた本と、最後のノートを鞄へ入れた。優子の家にいた時には、こんなふうにみんなから聞かれるとは思っていなかった。何をしたかを話してみれば、普段の訪問と同じことも多かった。
ただ、夜になっても帰らず、朝も隣にいた。その時間の中で、優子が話したかったことを聞けた。
「それで、明日なんだけど」
俺が言うと、翔太もこちらを見た。
「朝は、優子と2人で行くね。いつもの公園には寄らないから、先に行ってて」
「分かった。じゃあ、俺らはいつもどおりだな」
春樹が答えた。翔太は、門へ行って待つのも違うか、と呟いてから、自分で頷いた。
「教室に来た時に、みんなで寄っていったりしない方がいいんだよな」
「うん。まだ、人が集まると怖いかもしれないから」
「分かった」
真弓が、椅子を机へ戻した。
「勝也、私も手伝うよ。富田さんがよければ、近くにいるから。何か困ったことがあったら、声かけてね」
「うん。お願いしてもいい?」
「もちろん。まだ私と話しにくそうだったら、急がないから」
その返事にほっとした。優子は、真弓たちと同じように話せるところまでは戻っていない。今、家で笑えていることが、学校でもすぐにできるとは限らなかった。
綾香には、図書委員のことも聞いた。
「今は、代わりに入れる人で分けてるよ。戻ってきたからって、休んだ分を全部やることにはならないから。それ、伝えておいて」
「うん。ありがとう」
宣仁が、俺の鞄を見た。
「そろそろ行かんと、待ってるんちゃう?」
時計を見てから頷いた。翔太が、最後に、今日も泊まり、と聞きかけ、俺の返事を聞く前に春樹に見られた。
「今日は帰るよ。明日、学校だから」
「分かったって。ちょっと聞いただけ」
笑いながら教室を出た。昇降口へ向かう途中で携帯を出し、今から行くね、と優子へ送った。
みんなが、明日を待っていた。そのことも、優子へ伝えたかった。話しかけられるのを怖がっていても、戻ってきてほしいと思っている人がいることは、知ってもらいたかった。
* * 優子視点 * *
携帯が鳴った時、机の上には、まだ何も入っていないリュックサックがあった。
勝也からのメールを開いた。今から来てくれる。その短い文を読んでから、部屋の時計を見た。
昨日は、時間を確かめて待たなくても、隣にいた。
朝ご飯の時にも、お昼になっても、勝也の分の箸があった。本を読み終わって、私を見てくれた顔も覚えていた。夕方になっても帰る支度をせず、そのまま一緒に夕飯を食べられた。
今朝、目を覚ました時には、自分の部屋だった。昨日の朝より、布団が少し広かった。
それでも今日は、ただ会える時間を待っている日ではなかった。明日の支度をする日だった。
お母さんに出してもらった時間割へ目を戻した。科目の名前は読めた。何を持っていけばいいかも、順番に考えれば分かるはずだった。
けれど、鞄の底を見ていると、学校で開けた時のことが浮かんだ。入れたはずの物がなくて、探しても見つからなかったこと。残っている物を開いたら、読まなければよかった字が見えたこと。
私は、ファスナーの引き手から手を離した。
まだ、何も入れていない。
入っていないから、何もなくなっていなかった。そう確かめている自分が嫌になり、携帯をもう1度開いた。
勝也のメールに、うん、待ってる、と返した。
* * *
玄関の音が聞こえるより先に、窓から門の方を見た。勝也が歩いてくるのが見えたので、部屋を出た。
お母さんが玄関へ向かうところだった。私の足音に気づき、先にドアを開けてくれた。
「お帰り」
「ただいま」
勝也が笑った。制服を着ている姿を見て、朝から学校にいたのだと、改めて思った。
私がまだ机の前で止まっている間に、授業を受け、先生とも話してくれていた。
「準備、してた?」
「……少し。でも、まだ、入れられてない」
「そっか。一緒に見ようか」
できたところを先に聞かれたり、もう終わったと思われたりしなかった。それだけで、鞄のことを話せた。
勝也が手を洗っている間に、お母さんへ、部屋で一緒に見たい、と頼んだ。お母さんは頷き、もう1つ椅子を運んでくれた。
戻ってきた勝也は、机の上を見てから、私の隣へ座った。自分の鞄を足元へ置き、時間割の方へ顔を向けた。
「先生と、話せたよ」
私は、膝へ置いていた両手を握った。
「明日の朝、門で待っててくれるって。教室へ入っても、みんなの前で何か話してもらうことはしないって言ってた」
「……休んでたこと、聞かれない?」
「優子に説明してもらうつもりはないって。みんなが1度に来たりしないようにも、話してくれるよ」
お母さんも、机のそばで頷いた。
「お母さんが電話でお話しした時も、同じことを言ってくれたよ。席に着けたら、まず、そこで過ごそうって」
私は、少し息を吐いた。
教室へ入るところを考えると、そのあとに何を言うかまで、勝手に頭の中へ並んでいた。休んでいたことを謝った方がいいのか。小さな声しか出なかったら、聞こえないと言われるのか。
勝也は、時間割を2人の間へ寄せた。
「持っていく物も、1つずつでいいよ。ノートは、どれにする?」
私は机の端を見た。お母さんが用意してくれた新しいノートがあった。開いても、何も書かれていないものだった。
1冊取り、表紙へ手を置いた。
「これを……使う」
「うん」
勝也は、自分で鞄へ入れようとはしなかった。私が表紙を確かめてから、膝の上のリュックサックへ入れるまで、隣で待っていてくれた。
次の科目へ指を動かしたところで、手が止まった。
教科書も、必要だった。
どこにあるかを思い出そうとした途端、表紙より先に、黒い線の方が見えた。読めなくなったページを、消しゴムで擦った時のことまで思い出した。
「……教科書」
言うと、勝也が顔を向けた。
「俺のを、一緒に見よう。先生にも、その話をしてきたよ」
「持っていかなくても……いいの?」
「うん。まだ使えない物があるって、分かってくれてる。机も寄せていいって」
私は、お母さんを見た。お母さんも頷いた。
「明日、つらい物を無理に鞄へ入れなくていいよ。必要な物は、先生と相談してあるから」
勝也の手が、自分の鞄へ触れた。
「俺が持っていくね。ノートは、優子の方へ書こう」
隣の机で、同じページを見るところを思い浮かべた。自分の教科書を開かなくても、黒板の字を写せる。授業が始まった時に、慌てて鞄の中を探さなくてよかった。
「……また、見せてもらっていいんだ」
「うん。帰ってから宿題をする時も、一緒に見られるよ」
私は頷き、ノートをもう1冊持った。
名前を書く欄が、まだ空いていた。筆箱からペンを取り、科目を書いてから、自分の名前を書き始めた。
富田、と書いたところで、先が遅くなった。
私の物だと分かれば、また取られるかもしれない。小さく書いても、使っているところを見られたら分かってしまう。
「優子。どうしたの……?」
隣から声がした。私は、書いた字へ手を重ねた。
「これも、また……なくなったら」
自分で言うと、机の上の新しいノートが、急に遠く感じられた。まだ1度も学校で使っていないのに、もう、そのあとのことを考えていた。
勝也は、私の手からノートを取らなかった。
「教室を離れる時は、鞄も一緒に持っていこうか。俺も持っていくから」
「……置いていかなくて、いい?」
お母さんが、そばへ来た。
「うん。持ち物から離れるのが怖いことも、先生に話してあるよ。明日は、手元に置いておこうね」
私は、重ねた手を少しずらした。書きかけの名字が見えた。
勝也が、次の授業の場所まで、鞄も一緒に持っていくと言ってくれた。戻るまで、机の中へ置いておかなければならないわけではなかった。
ペンを持ち直し、続きを書いた。優子、と書き終えてから、インクが乾くまで待った。
鞄へ入れたあとにも、1度、そこにあるかを見た。
勝也は何も言わず、次の科目を一緒に確かめてくれた。
* * *
筆箱まで入れると、お母さんが、お茶を持ってくるね、と部屋を出た。
勝也は、持ってきた紙へ、明日の待ち合わせを書くと言った。お母さんと話して決めた場所は、勝也の住んでいる建物の前だった。
「ここまでは、お母さんと車で来て、ここから一緒に歩こう。少し早めに会えるようにしたから、急がなくていいよ」
私は、書かれた場所を見た。学校の名前より、その手前の、勝也と会う場所の方を長く見ていた。
「私が、遅くなったら……」
「待ってるよ。出る時に連絡もらって、外へ出るから」
「先に、行かない?」
「うん。一緒に行こうって約束したでしょ」
顔を上げると、勝也がこちらを見ていた。
昨夜、1人で布団に入った時、朝になって家を出られず、勝也が先に行ってしまうところを考えた。待たせていると思うと余計に動けなくなる気がして、その先を考えるのをやめた。
今日は、待っていると言ってもらえた。
戻ってきたお母さんも紙を見て、家を出る前に知らせるね、と言った。私は、その紙を筆箱の上へ置いた。
「みんなにも、話したよ」
勝也の言葉に、指が止まった。
「明日、来てみるって。まだ怖いから、急に集まったりしないでっていうことも」
「……何か、言ってた?」
「嬉しいって。宣仁は、何かあったら先生を呼ぶのでも手伝うって言ってくれた」
私は、学校で会った時の顔を1人ずつ思い出そうとした。話しているところへ自分も入るのは、まだ難しく感じた。
「綾香は、図書委員の仕事を休んだ分、あとから全部やるわけじゃないからって。今は、ほかの人と分けてくれてるって言ってたよ」
膝へ目を落とした。
「お礼、言いたいけど……うまく、言えないかも」
「うん。話せる時でいいよ。今日、俺からもありがとうって伝えてあるから」
頷いた。委員会へ行けなくなったことを、教室へ戻った途端に説明しなければならないように思っていた。誰かが代わってくれたことも、申し訳なくて聞きにくかった。
勝也が伝えてくれた言葉なら、もう1度、頭の中で聞き直せた。
「勝也の、委員会は……?」
聞くと、勝也はすぐに頷いた。
「それも聞いてきた。一緒に会議の部屋へ行って、中で待ってていいって。俺が見えるところに、椅子を置いてもらえるよ」
机の上で、指が少し開いた。
「同じ部屋に、いていいの?」
「うん。廊下で待つんじゃなくて、中に入っていいって」
勝也の背中が教室の外へ消えるところを、何度も思い出していた。私はついていけなくて、席へ戻る。扉の向こうから、ほかの人の声が聞こえる。
その続きを、少し違う形で考えられた。
勝也と同じ扉を通り、同じ部屋へ入る。用事が終わるまで、そこに座っていていい。
「……待ってる」
「うん。終わったら、一緒に帰ろうね」
私は、勝也の袖へ指を添えた。
土曜日の夜、学校でもそばにいると言ってくれた。今日は、私が不安に思った場所のことを、1つずつ聞いてきてくれていた。
「給食当番は、今は休んでいいって。掃除も、俺と同じ場所だよ」
勝也が続けた。お母さんも確認するように頷いた。
廊下へ出たり、違う教室へ行ったりする時にも、勝也と一緒に動いていい。声が出なくなったら、先生へ伝えるのを助けてもらえる。
教室だけではなく、廊下でも、委員会の部屋でも、勝也がそばにいてくれる。そのことを確かめながら、私はもう1度頷いた。
「真弓も、何か困ったことがあったら手伝うって言ってたよ」
「加藤さん……?」
「うん。まだ話しにくかったら、急がなくていいって」
明日、教室で会った時に、うまく話せるかどうかは分からなかった。それでも、返事を急がなくていいと聞いて、握っていた袖を少し緩めた。
袖から手を離すと、その手を握ってくれた。
* * *
部屋の戸の近くに、制服が掛かっていた。
筆箱をしまおうと顔を動かした時、襟が目に入った。家で何度も見ていた服なのに、明日着ると思うと、胸のあたりが狭くなった。
あの服を着て、玄関を出る。校門を通り、階段を上がる。
教室へ入ったら、誰がこちらを見るだろう。髪が短くなったことにも、気づかれる。何も聞かれなくても、目を向けられるだけで、そこから動けなくなるかもしれない。
握っていた勝也の手に、力が入った。
「優子?」
返事をしようとした。けれど、制服から目を離せなかった。
「明日……これ、着たら」
言いかけたあと、息を吸った。胸の途中で止まってしまうような感じがした。お母さんがそばへ来たが、私は先に、勝也の方へ体を向けた。
「……少し、こうしててもいい?」
空いている手で服へ触れると、勝也が椅子を寄せた。
「うん、いいよ」
肩へ額を寄せた。背中に腕が回り、私は服を掴んだ。学校で着ている服だったけれど、近くからは、よく知っている勝也の匂いがした。
お母さんは、鞄の口を閉じようとはしなかった。制服の掛かった戸を少し動かし、私の正面から見えないようにしてくれた。
「用意は、だいぶできたよ。今は休もうね」
私は、肩へ顔を寄せたまま頷いた。
全部できたら、もう行かなければいけなくなる気がしていた。自分で行きたいと言ったのに、鞄へ物が増えるたび、明日の朝から逃げられなくなるように感じた。
勝也の手が、背中をゆっくり撫でた。
「朝、会ってから、一緒に歩こう。今、学校まで行くところを全部考えなくても大丈夫だよ」
私は、目を閉じた。
勝也の住む建物の前。車から降りるところ。手を伸ばしたら、握ってもらえる。
そこまでなら、考えられた。
「……明日も、手、つないでいい?」
「うん。つないで行こう」
握っていた手を、少しだけ持ち直してくれた。強く握りすぎていたことに気づき、私は指を緩めた。
顔を上げると、勝也はすぐ近くで私を見ていた。髪へ触れた指が、頬の横の白い毛先をそっと避けてくれた。
「学校でも……優子って、呼んでくれる?」
「うん。優子って呼ぶよ」
「みんなが、いても?」
「もちろん」
その返事を聞いて、鼻の奥が熱くなった。
家の外へ出たら、少し遠くへ戻ってしまうような気がしていた。学校の中では、今のように袖へ触れたり、名前を呼んだりしてはいけないのではないかと思っていた。
「私も……勝也って、呼びたい」
「うん。そう呼んでほしいよ」
勝也が少し笑った。私も笑おうとすると、目の端から涙が落ちた。
昨日、自分で両親へ話せた時には、もう少し平気になれた気がしていた。今日、鞄を出したら、また怖くなった。それでも、勝也は困った顔をして離れていかなかった。
お母さんが差し出してくれたティッシュを受け取った。頬を拭いてから、もう少しだけ肩へ顔を寄せた。
明日、最初に会いたいのは、この人だった。
* * *
落ち着いてから、残っていた物を鞄へ入れた。
筆箱と、ハンカチ。お母さんが確かめてくれた物を、勝也にも見てもらった。時間割は、すぐに出せるところへしまった。
最後にファスナーを閉めた。中身が見えなくなる直前、もう1度手を止めたが、勝也が隣で待っていたので、そのまま閉じられた。
「……できた」
「うん。明日の分、揃ったね」
勝也は、鞄を持ち上げてから、どこへ置く、と聞いた。
「机の、横に」
答えると、座ったまま見えるところへ置いてくれた。私が入れたノートは、その中にあった。今、誰かが持っていくわけではなかった。
お母さんが、お父さんが帰ったら夕飯にしよう、と言った。私は頷き、勝也と一緒に居間へ戻った。
昨日借りてもらった本の話を、少しだけした。勝也は、まだ最初のところだと言って、表紙を見せてくれた。今日は学校であまり読めなかったらしかった。
「明日、休み時間に……読む?」
「読むと思う。優子も、一緒に見る?」
私は頷いた。
学校の時間を、怖いところばかりで考えていた。でも、休み時間になって、勝也が本を開くこともある。その隣へ座っていられたら、昨日の居間の続きみたいに、少し話せるかもしれなかった。
夕飯では、お父さんにも準備ができたことを話した。お母さんが、学校との確認も済んだと伝えた。お父さんは、明日の朝に何か変わったら、その時に知らせればいい、と言った。
勝也が頷くのを見て、私も頷いた。
夜、勝也を見送る時には、昨日と違うことを言った。
「……明日の朝、ね」
「うん。待ってるね」
勝也は、いつものように手を握ってくれた。離す前にもう1度、顔を見た。
明日は、学校が終わるまで待たなくても会える。
勝也が門の外へ出て、振り返った。私も手を振った。背中が見えなくなってから玄関へ戻ると、お母さんがそばにいた。
「明日の服、もう1度見る?」
少し考えてから、頷いた。
「うん。一緒に、見てほしい」
部屋へ戻り、お母さんと制服を確かめた。全部を着てみることはしなかった。襟へ手を添え、明日使う物をそばへ置いた。
机の横には、閉じた鞄があった。
学校のことを考えると、まだ、眠るのが惜しかった。眠ったら朝になる。けれど、朝になったら、勝也に会える。
携帯へ、明日、家を出る時に連絡するね、と送った。少しして返ってきた、うん、待ってる、という文を読んだ。
目覚ましを確かめてから、携帯を閉じた。
お母さんへおやすみと言い、部屋の明かりを落とした。布団へ入る前に、鞄の持ち手の向きだけを直した。朝、持ち上げる時に、手をかけやすい方へ向けた。
学校までの道を、最後まで思い浮かべることはしなかった。
車を降りたところに、勝也がいる。
明日は、その人へ、おはようと言うところから始めようと思った。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
日曜は朝から夜まで優子と過ごし、持参した『デスノート』を勧めて、一緒にアニメや映画を見る約束もする。両親への相談を隣で支え、月曜には花沢先生との確認、親友たちへの報告、優子の登校準備を進める。
・富田 優子
日曜は怖い話だと思っていた『デスノート』に夢中になり、続巻やアニメ、映画にも興味を持つ。学校への怖さを残しながら両親へ復帰の希望を伝え、月曜には勝也と美和に支えられて登校の支度を終える。
・優子の母(美和)
優子の希望を聞き、花沢先生との連絡や登校・持ち物の準備を整える。言葉や手が止まる時にも急がせず、翌朝は勝也の家まで送ることを確認する。
・優子の父(泰臣)
日曜の朝、優子から復帰の希望を聞き、不安も含めて受け止める。学校と相談しながら火曜の登校を目指し、勝也にも困った時は先生を頼るよう伝える。
・花沢先生
保護者と進めてきた相談を踏まえ、月曜に勝也と受け入れ方を確認する。校門での出迎えや教室での配慮、教材の共有、委員会などの付き添いを整える。
・高瀬 春樹
優子の復帰の希望を喜び、隣同士の勝也・綾香とはよく泊まり合っていたことから、宿泊の話も落ち着いて受け止める。翌朝は勝也と優子が2人で登校できるよう、待ち合わせの変更を了承する。
・翔太
勝也の家へ泊まったことがなく、宿泊の話や慣れた様子の3人に驚いて質問を重ねる。翌日は教室で待ち、優子へ1度に集まらないことを確かめる。
・真弓
自分も泊まった経験がなく宿泊の話に興味を持ちながら、優子が勝也へお願いでき、安心して過ごせたことを気にかける。復帰後も困ったことがあれば、本人の気持ちに合わせて手伝うと伝える。
・綾香
隣同士の勝也・春樹とはよく泊まり合っており、翔太へその楽しさを自然に話す。優子の復帰を喜び、図書委員の仕事は分担しているので、休んだ分をすべて引き受ける必要はないと伝言を頼む。
・荒川 宣仁
復帰の知らせを受け、必要な時には先生を呼ぶなど手伝うと申し出る。宿泊の話へ驚く翔太に突っ込みながら、勝也を優子の家へ送り出す。




