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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
38/52

第33話 また、一緒に


タイトルを考えるのが大変なので、この話から基本的にタイトルは無しにします。


大きな出来事や行事の時はタイトルにいれていきます




    * * 勝也視点 * *


 土曜日の朝、母さんが仕事へ出る前に、今日のことを話した。


「今日も優子の家に行くんだけど、もしかしたら、今夜も泊まるかも」

「優子ちゃんに頼まれたの?」

「まだ。でも、また泊まってほしいって言うかな、と思って」


 母さんは、鞄を持つ手を止めて俺を見た。


「美和さんたちがよければ、いいよ。決まったら、ちゃんと連絡してね」

「うん。ありがとう」


 母さんを見送ってから、洗濯や宿題を済ませた。昼ご飯を食べ、出かける支度をする時、いつもの本のほかに、寝巻きと明日の着替えもリュックサックへ入れた。


 優子は今日も、泊まってほしいと言うだろうか。


 先週、朝まで一緒に過ごした時の顔を思い出した。もし、またそう言ってくれたら、着替えを取りに帰ったり、服を借りたりせず、そのままそばにいられるようにしておきたかった。


 畳んだ服の上に本を入れ、ファスナーを閉めた。


     * * *


 午後、優子の家へ着くと、インターホンを押してから、それほど待たずに玄関のドアが開いた。


 優子が顔を出し、俺を見つけて、少しだけ口元を緩めた。門まで来る足音を聞きながら、リュックサックの肩紐を持ち直した。


「ただいま」

「……お帰り」


 門を開けてもらい、通り終えてから振り返った。鍵を確かめた優子が、俺の横へ来る。歩き始めると、袖の端へ指が触れた。


 昨日は、ここで手を振って帰った。今日は、まだ夕方にもなっていなかった。玄関までの短い間に、今朝読んだ本の話をしようかと思ったが、先に優子が顔を上げた。


「今日は……急がなくて、いい?」

「うん。今日は、もう用事ないよ」


 優子は頷いた。俺の袖から手を離すと、先に玄関へ入り、靴を脱いだ。


 居間から、お母さんが顔を出した。挨拶をすると、今日も来てくれてありがとう、と言ってくれた。俺も、昨日の夕飯のお礼を伝えた。


「お昼は食べてきた?」

「はい」

「そう。お茶を入れるから、先に座っていてね」


 手を洗って戻ると、優子はソファの端へ座っていた。隣には何も置かれていなかったので、いつものようにそこへ腰を下ろした。


 テーブルには、昨日一緒に読んだ本があった。その少し向こうへ、透明なファイルも置かれていた。中の紙は伏せてあり、名前や文字までは見えなかった。


「昨日の紙……もう1度、見たんだ」


 優子が言った。俺の目が向いたことに気づいたらしかった。


「班の?」

「うん。帰ったあとに」


 昨日は、持つことにもためらっていた紙だった。今日、自分で見たいと思ったのなら、よかった。何が書いてあったかを、もう1度説明することはしなかった。


「お母さんに、出してもらったの」

「そっか」


 優子はファイルへ目を向け、それから本の表紙へ指を置いた。


 まだ、参加すると決めたわけではなかった。学校へ戻る日も決まっていない。俺は隣でリュックサックを開き、持ってきた本を取り出した。


「こっちも、持ってきたよ。途中までなんだけど」

「今朝も……読んだ?」

「うん。用事が終わってから、少しだけ」


 栞の場所を見せると、優子は、そこまで、と小さく言った。先のことを知っている顔だったので、言わないでね、と付け足した。


「……言わないよ」

「今、ちょっと笑ったでしょ」

「うん。でも、言わない」


 俺も笑って、本をテーブルへ置いた。優子は、その表紙の向きを直してくれた。


 先のことを話すと俺が困るのを、ちゃんと分かって待ってくれていた。そんな小さなやり取りが嬉しかった。続きを早く読みたい気持ちと、今は優子と話していたい気持ちが、どちらもあった。


     * * *


 お茶を持ってきたお母さんが、テーブルの端のファイルへ目を向けた。


「優子、学校の紙は、いったんこちらへ置いておくね」

「……うん」


 お母さんは俺たちに本を寄せてもらい、ファイルを持ち上げた。居間の棚へしまう前に、優子にも置く場所を見せていた。


 紙がなくなると、テーブルが少し広くなった。そのまま本を開こうとした時、お母さんが引き出しの中を見て、あ、と声を出した。


「これ、こんなところにあったのね」


 手に持っていたのは、トランプの箱だった。口のところが少し白くなっていたが、中のカードは揃っているようだった。


「使う?」


 お母さんが俺たちを見た。優子は箱へ目を向けてから、俺を見た。


「やってみる?」

「……勝也は、本……」

「あとでも読めるよ」


 俺が答えると、優子は小さく頷いた。


 お母さんから箱を受け取り、カードを出した。全部を広げるとお茶まで置けなくなりそうだったので、同じ数字が2枚ずつになるように、何組かを選んだ。


「神経衰弱なら、これくらいでもできるね」

「うん」


 優子がコップを端へ寄せた。俺も本を重ね、裏返したカードを混ぜた。優子の指も、その中へ加わった。机の上でぶつかりそうになると、少しだけ手を引き、俺が場所を空けると、また混ぜ始めた。


 傷の跡は、まだ右手に残っていた。でも、カードを揃えたり指で挟んだりしても、もう痛みはなかった。手元を見ていた優子も、何も聞かず、最後の1枚を列へ加えた。


「優子からで、いいよ」

「……じゃあ」


 端のカードが2枚、表になった。数字は違った。優子は少し見比べてから、元へ戻した。


 俺は、別のところをめくった。さっき優子が出した数字と同じだった。


「あ、これ、見た」


 言いながら手を伸ばした。優子が、そちらへ目を向けた。


 めくると、違う数字が出た。


「……こっちじゃなかったか」


 優子は口元を押さえていた。


「分かってた?」

「うん……」

「止めてくれてもよかったのに」

「言ったら、分かっちゃうよ」


 確かに、そうだった。俺が笑うと、優子も声を少し漏らした。


 次の番で、優子は迷わず2枚をめくった。俺が間違えた方ではなく、その隣に、同じ数字があった。


「こっちだったんだ」

「さっき……ここ、見たから」


 揃った2枚を、自分の前へ重ねた。俺が、覚えてたんだね、と言うと、優子はカードを見たまま頷いた。


 続けているうちに、俺も、最初に見た数字を忘れた。さっきまで覚えていたつもりのところへ、別の数字が出る。優子が小さく首を振っただけで、今のも知っていたんだなと分かった。


「俺、さっきから、優子に教えてるだけじゃない?」

「……ちょっと」


 今度は、隠しきれずに笑った。その顔を見てから、また机へ目を戻した。


 わざと間違えているわけではなかった。覚えたつもりで同じところをめくり、そこを優子に取られていた。揃った枚数を数える頃には、優子の前の方が多くなっていた。


「負けた」


 俺が言うと、優子は2つの山を見比べた。


「……もう1回、する?」

「うん。今度は覚える」


 優子の方から、カードを真ん中へ戻した。俺も自分の分を足した。


 お母さんが通りかかり、勝ったの、と優子へ聞いた。優子は小さく頷き、俺が、結構取られました、と言うと、お母さんも笑った。


 次は、俺も少し覚えられた。優子が考えている間、コップを持ち上げてお茶を飲んだ。戻したカードを勝手に確かめたりせず、優子が選ぶのを待った。


 同じ机を囲んでいるだけでも、ずいぶん時間が過ぎていた。


     * * *


 トランプを箱へ戻したあと、優子は、俺が持ってきた本を自分の方へ少し寄せた。


「続き……読む?」

「うん。優子は、こっち?」


 もう1冊を示すと、頷いた。肩が触れるくらいの距離へ座り直し、それぞれ本を開いた。


 すぐ隣でページをめくる音がした。優子の読む速さにつられそうになったが、自分のところへ目を戻した。さっきのカードと違って、こちらは最後まで読まなければ、何が起こるのか分からなかった。


 少しして、栞を挟んだところより、先まで進んだ。思わず顔を上げると、優子が待っていたように俺を見た。


「……そこ?」

「うん。これ、さっき言おうとしてた?」


 優子は頷いてから、首を少し横へ振った。


「言わないって……思ってた」

「そっか。でも、分かったよ。ここだったんだね」


 俺が開いているページを見せると、優子の口元が緩んだ。自分が先に読んだところへ、俺が追いつくのを待っていてくれたのだと分かった。


 しばらく、その場面のことを話した。優子が好きだった言葉を示し、俺も、その少し前のやり取りが面白かったと答えた。意見が違うところでも、優子は、そうかな、と小さく返してくれた。


 それだけで話が終わってしまうこともあった。でも、隣で別のページをめくっているうちに、また思いついたことを聞けた。次の用事が来るまでに、何か話しておかなければと急ぐ必要はなかった。


「教室でも……こうだったね」


 小さな声に、顔を向けた。


 優子は、本の端を押さえていた。目は、俺ではなくページへ向いていた。


「本の話?」

「うん。休み時間に」


 頷いた。優子の隣へ席が変わったあと、近くにいるだけで、話しかけられることが増えた。表紙が見えれば、今それを読んでるんだね、と言えた。


「また、同じ本を読んだら話せるね」


 そこまで言って、学校で、とは付け足さなかった。優子の指が止まっていた。


「……うん」


 返事はあった。そのあと、俺の袖へ手が来た。


 腕を動かして、優子の手に自分の手を重ねた。指が少しずつ曲がり、俺の指を握った。何か聞こうと思ったが、優子は本へ目を戻していたので、俺も開いたページを見た。


 片手でも、少しずつなら読めた。ページの端を持ち上げる時だけ、優子が空いている手で本を押さえてくれた。


 今日、学校のことで答えをもらおうと思って来たわけではなかった。夕方まで、こうして隣にいられる。今はそれを、優子と一緒に過ごしたかった。


     * * *


 お父さんが帰ってきた時、俺たちはまだ居間にいた。


 挨拶をすると、お父さんは鞄を置く前に、2人で何をしていたの、と聞いてくれた。俺が本を閉じるより先に、優子がテーブルの端を見た。


「……トランプも、した」

「そうなの。どっちが勝った?」


 優子が俺を見たので、俺から答えた。


「最初は、優子です。俺、同じところばっかり間違えて」

「2回目は……勝也」

「じゃあ、1回ずつだね」


 お父さんが笑った。優子も頷いて、箱を少し向こうへ寄せた。


 学校の紙は、棚の中にあった。お父さんは、それを出すように言わなかった。俺たちの本を見てから、着替えてくるね、と居間を出ていった。


 優子の手は、いつの間にか俺の手から離れていた。もう1度本を開くと、隣でも表紙の動く音がした。


 そのあと、お母さんが夕飯の支度を始めた。台所から、引き出しを閉める音や、水の音が聞こえた。窓から入る光が弱くなり、居間の明かりがついた。


 俺が栞を挟むと、優子も本を閉じた。


「疲れた?」

「ううん」


 首を振ったあと、何か言いかけた。俺が待っていると、優子は台所の方へ顔を向けた。


「お母さん……」


 返事があった。優子はすぐには続けず、膝の上の本へ両手を置いた。


「どうしたの?」


 お母さんが手を拭きながら来た。俺も本をテーブルへ置いた。


「今日も……泊まってもらって、いい?」


 言い終えてから、優子がこちらを向いた。目が合うと、少し俯いた。


「勝也も……よかったら」


 今日も、という言葉が嬉しかった。


 前に泊まったのは、1週間前だった。朝、優子は、よく眠れたと話してくれた。お父さんにも、ほとんど目を覚まさずに眠れたのは久しぶりだったと聞いた。


 優子が笑える時間は、少しずつ増えていた。でも、聞かせてもらったことを、俺は忘れたわけではなかった。1人になると、またつらいことばかり考えてしまうのかもしれない。俺がいることで少しでも楽になるなら、今夜もそうしたかった。


「うん、いいよ。母さんには、泊まるかもしれないって話してきたよ」


 優子が顔を上げた。


「……もう、話してくれたの?」

「うん。決まったら、連絡することになってる」


 優子の肩が、少し下がった。


 お母さんは、戻ってきたお父さんへ目を向けた。お父さんも俺たちのそばへ来て、優子の顔を見た。


「今夜も、一緒にいたい?」

「……うん」

「分かった。うちは大丈夫だから、お母さんにも連絡しておこうね」


 優子が、ありがとう、と言った。俺へも顔を向けたので、頷いた。


 小さい頃は、泊まると決まったあと、夜まで何をして遊ぼうかと考えた。今も、一緒にいられる時間が長くなるのは嬉しかった。それに、優子が夜を怖がらずに過ごせるなら、もっと嬉しい。


 リュックサックから携帯を取り出した。母さんが仕事中だということは分かっていたので、出てもらってから、今、少し話せる、と先に聞いた。


『うん。どうしたの?』

「今朝話した泊まりのことなんだけど、優子も泊まってほしいって。お父さんとお母さんにも、いいって言ってもらったよ」


 隣で、優子が膝の上の本を持ち直した。俺は、明日は母さんも休みだよね、と確かめ、朝食のあとに1度帰ると伝えた。


『分かった。美和さんと、少しお話ししてもいい?』

「うん」


 携帯をお母さんへ渡すと、優子が俺を見た。


「いいって。明日の朝、ご飯を食べてから、1度帰るね」

「……うん」


 返事をしたあと、優子は自分の本をテーブルへ戻した。


 お母さんたちの電話は、長くはかからなかった。預かります、と聞こえ、帰る時刻をもう1度確かめていた。戻ってきた携帯から、母さんにも、自分のことは自分でしてね、と言われた。


「うん。ありがとう」


 電話を切ると、お母さんが優子へ頷いた。優子の口元が緩むのを見て、俺も携帯を閉じた。


「着替えは大丈夫? この前の服も、洗ってあるけれど」

「ありがとうございます。今日は、寝巻きと明日の着替えも持ってきました」


 リュックサックへ手を添えると、優子もそちらを見た。


「……持ってきて、くれてたの?」

「うん。また泊まることになるかな、と思って。一応ね」


 言ってから、少し照れくさくなった。出かける前に、自分で鞄へ入れた時は、こうして聞かれるところまで考えていなかった。


 優子は、鞄から俺へ目を戻した。口元がゆっくり緩み、小さく、嬉しい、と言った。


 お母さんも、それならよかった、と頷いた。お父さんが、布団もあとで出しておくよ、と言ったので、俺も手伝います、と答えた。


 前は、右手のことを気にかけてもらった。今日は、もう普通に持てる。何かをしてもらうばかりでなく、ここで自分にもできることがあるのは、少しほっとした。


     * * *


 夕飯の前、優子と2人で、箸やコップを食卓へ運んだ。


 お母さんが皿を置くところを見て、優子が少し場所を空けた。俺がコップを寄せると、そこへお父さんが座った。


「今日は、帰る時間を気にしなくていいね」


 優子へ言ったのか、俺へ言ったのか分からなかった。2人とも頷いたので、お母さんが少し笑った。


 食べ始めてから、お父さんが、午前中は何をしていたの、と俺へ聞いた。洗濯や宿題を済ませたことを話すと、優子も箸を止めて聞いていた。


「じゃあ、明日は宿題がたくさん残っているわけではないんだね」

「はい。今日のうちに、だいたい終わらせてきました」


 優子は俺を見てから、自分の茶碗へ目を戻した。少しして、お母さんが、もう少し食べられそう、と優子へ聞いた。


 頷いて、皿から自分で取った。前に、箸がほとんど動かなくなった時のことを思い出した。今日は、俺が話している間にも、少しずつ減っていた。


「勝也くんは、おかわりする?」

「はい。いただきます」


 茶碗を渡すと、お母さんは、これくらい、と盛ったご飯を見せてくれた。お願いします、と答えた隣で、優子が小さく笑った。


「……体育祭の時も、いっぱい食べた?」

「食べたよ。弁当、みんなに笑われたけど」


 優子の箸が止まった。


「お弁当……?」

「うん。上に焼き肉丼で、下に炒飯を詰めていったら、両方ご飯じゃんって」


 お父さんが、茶碗から顔を上げた。お母さんも、ご飯を渡しながら笑った。


「2段とも?」

「はい。押したら入ったので」

「……押したの?」


 優子に聞き返され、頷いた。


「炒飯が、ちょっと多くて」


 言うと、優子は弁当箱の大きさを考えているように、食卓の上へ目を向けた。それから、ちゃんと食べられたの、と聞いた。


「うん。全部食べたよ」


 優子の顔を見ていると、今度は、呆れているのか心配しているのか分からなくなった。でも、口元は緩んでいた。


「勝也くんらしいね」


 お母さんが言った。お父さんも笑い、食べられるのはいいことだね、と俺の茶碗を見た。


 俺も笑って、ご飯を口へ運んだ。


 学校であったことを話すと、優子も笑ってくれた。昼間のトランプの話では、自分から俺の間違えた場所を教えていた。長く喋るわけではなかったが、何を思い出しているのか、言ってくれた分だけ俺にも分かった。


 食べ終えても、俺は鞄へ手を伸ばさなかった。


 優子と食器を下げ、お父さんと布団を出した。客間の床へ置いてから、どちらへ敷くかを聞いた。お父さんは戸口の方を見て、優子にも声をかけた。


「今夜も、ここで寝る?」


 優子は、少し俺を見た。


「……いい?」

「うん」


 答えると、お父さんへ頷いた。お父さんは、じゃあ、もう1組だね、と押し入れへ戻った。


 布団を並べてから、優子が自分の枕を持ってきた。置く場所を少し迷っていたので、俺の枕を横へ動かした。優子の枕は、そのすぐ隣へ置かれた。


 お母さんが、前と同じ小さな明かりを用意してくれた。俺は礼を言い、持ってきたリュックサックを壁際へ置いた。寝巻きを取り出し、明日の着替えは鞄の中へ残しておいた。


 今夜は、ここで眠る。


 優子は枕の形を直してから、俺を見上げた。俺も頷いた。寝るまでに、もう少し本の話ができるだろう。朝になってから、今日みたいに一緒にご飯を食べられる。


 明日の朝も優子の顔を見られるのが、今から楽しみだった。


    * * 優子視点 * *


 洗面所で歯を磨いたあと、鏡の前で髪を指で直した。


 短く揃えた白い毛先が、頬の横へまっすぐ落ちていた。勝也が好きだと言ってくれた色だった。鏡を見ていると、まだ、長かった時の自分を探してしまうことはあった。でも、今は、指で全部を隠すことはしなかった。


 廊下へ出ると、居間の方から勝也の声がした。


 私が来るのを待っていたのか、こちらを見て立ち上がった。持ってきた寝巻きに着替えていた。先週借りたお兄ちゃんの服とは違う、勝也の服だった。


 私がお願いする前から、これを鞄へ入れてきてくれていた。


 朝までいてくれることに加えて、家を出る前にも私のことを考えてくれたのが嬉しかった。こちらを見る勝也へ、少しだけ笑いかけた。


「眠い?」

「……少し」


 本当は、寝てしまうのが少しもったいなかった。午後からずっと一緒にいたのに、まだ話したかった。話したいことを全部思いつけているわけでもないのに、隣の時間が終わるのは惜しかった。


 お母さんが、客間の小さな明かりはつけてあるよ、と教えてくれた。


「寒かったり、何かあったりしたら、呼んでね」

「うん」


 お父さんとお母さんへ挨拶をした。勝也も、おやすみなさい、と頭を下げた。


 廊下を歩く間に、自分から勝也の手へ触れた。指が、すぐに握り返してくれた。客間の入口まで、手をつないだまま歩いた。


 布団が2つ並んでいた。さっき運んだ枕も、そのまま置いてあった。勝也は携帯を枕元へ置き、私の方へ向き直った。


 もう、帰るための連絡を送るところではなかった。


 隣へ座り、上掛けの端を持った。勝也も腰を下ろすと、膝が少し触れた。離れずにいると、勝也は、そのまま私の枕を見た。


「前も、これ持ってきたね」

「うん……」


 前は、これを抱えて、1人でドアの前に立った。一緒に寝てもいいと聞くまで、なかなか勝也の顔を見られなかった。


 今日は、お父さんに聞いてもらい、勝也の横で頷けた。今夜もそうしたいと思っていることを、声にできた。


「……また、隣がいい」

「うん。俺も、ここで寝るよ」


 勝也は枕を少し寄せた。私も自分の分を近づけ、眼鏡を外して、手の当たらないところへ置いた。


 横になる前に、勝也の服へ指をかけた。上掛けを直していた手が止まり、こちらを見てくれた。


「もう少し……話しても、いい?」

「いいよ。まだ、そんなに眠くないから」


 返事を聞き、私は頷いた。横になってからも顔が見えるように、勝也の方へ体を向けた。布団を敷いた時には近く感じた枕が、寝てみると、少し離れていた。


 服へ添えていた手を、そのままにした。勝也がこちらへ寄ると、私も少し近づいた。肩のところへ額が触れ、背中へ腕が回った。


 前と同じように、抱きしめてもらっていた。


 左腕を挟まないところへ置き直してから、息を吐いた。目の前の布が、呼吸に合わせてゆっくり動いていた。その近くで、自分の息も少し落ち着いていくのが分かった。


「今日、楽しかったね」


 勝也が言った。


「……うん」

「トランプ、またやろうか」

「今度も……覚えられる?」


 聞くと、肩の近くで笑う声がした。


「少しは。今日よりは、頑張る」


 私も笑った。勝也が、同じところへまた手を伸ばした時のことを思い出した。違う、と言いそうになって、言わずに待った。間違えても勝也は怒らなかったし、私が笑うと、一緒に笑っていた。


 その顔を、布団の中から見上げた。


 昼間も、夕飯の時も、そばにいた。けれど、今は、もう少し近かった。自分が小さな声で話しても、聞いてもらえる距離だった。


「本の続きも……あとで、話そうね」

「うん。最後まで読んだら、教える」


 頷いて、肩へ額を戻した。


 勝也が先を読むのを待っている間、早くそこまで来ないかなと思っていた。読んでくれたら、同じところの話ができる。私が先に知っていることを、勝也も知ってくれるのが嬉しかった。


 学校の話を聞く時には、その反対だった。


 勝也は、私のいないところで、いろいろな人と話していた。走ったり、笑ったり、班の紙に名前を書いたりしていた。家に来て、声や顔を少し変えながら話してくれると、その場にいなかった私も笑えた。


 でも、笑ったあとには、少し寂しくなることがあった。


 私も、その時の勝也を見ていたかった。


 何を話したら、春樹くんがそんな返事をするのか。翔太くんが笑った時、勝也もどんな顔になっていたのか。私の知らない教室の中で、今日のトランプみたいなやり取りがあったのだと思うと、もっと聞きたくなった。


 体育祭で走るところは、もう見られなかった。あとから、もう1度同じことをしてほしいわけではなかった。ただ、次に何かあった時には、私も隣にいられたらと思った。


 そう考えると、すぐ、校門のところが浮かんだ。


 そこで、気持ちが止まった。


 入っていく人たちの間を歩くこと。昇降口で靴を履き替えること。階段を上がって、廊下を通って、教室の入口まで行くこと。


 勝也と話しているところだけを思い浮かべても、その前には、そこを歩かなければならなかった。


 服へ添えていた指に、力が入った。


「優子?」


 顔を上げた。勝也が、私を見ていた。


「……何?」

「何か、考えてた?」


 すぐには答えられなかった。首を振ってしまえば、今日も、そのまま眠れた。勝也は、話せと言わない。そばにいたいとお願いしたことだけで、泊まってくれている。


 学校へ行くと約束しなくても、今夜、ここにいてくれる。そのことは、もう分かっていた。


 それでも、言ってみたかった。


「学校のこと……」


 小さく答えると、勝也の手が背中で止まった。


「うん」


 続きを待っている声だった。私は、肩のところから少し顔を離した。


「私の席……まだ、隣?」

「うん。優子の席は、そのままだよ」


 窓に近い机を思い浮かべた。その横に、勝也の机があった。振り向かなくても、顔を少し向ければ見えた。


「誰かが……座ってるんじゃ、ない?」

「ううん。授業の時も、空いてるよ」


 頷いた。


 私がいない間に、もう別の人の場所になっているところを、少し考えていた。班には名前があっても、教室に戻ったら、どこへ行けばいいのか分からなくなるのではないかと思った。


 そこは、まだ、私の席だった。


「勝也は……そこで、本、読む?」

「読むよ。休み時間に、少しだけだけど」


 下を向いた勝也の横顔が、思い浮かんだ。私が見ていた時と同じように、机へ本を置いている。話しかけると、指をページへ挟んでから、こちらを見てくれる。


 その隣へ、座ってみたかった。


 胸の奥が苦しくなった。行きたいと思ったのに、行くところを考えると怖かった。どちらも自分の気持ちだった。片方だけを勝也へ伝えたら、もう片方がなくなったと思われてしまいそうだった。


 私は、服を握っていた指を少し緩めた。勝也の手を探すと、背中にあった手が、前へ来た。


 指を握った。手の温かさを確かめてから、口を開いた。


「学校……まだ、怖い」

「うん」


 頷くところが見えた。


「でも……」


 声が止まった。勝也は、そのまま待っていた。私も顔を下げず、言おうとしていた言葉を、もう1度探した。


「また……勝也と、一緒に学校へ行きたい」


 言ったあと、つないだ手を少し強く握った。


 勝也は、すぐには話さなかった。私を見たまま、少しだけ口を開いた。それから、ゆっくり頷いた。


「うん。優子が来てくれたら、俺も学校に行くのが楽しくなるよ」


 つないだ手を、そのままにして顔を上げた。


「……私が、いたら?」

「うん。今も、翔太たちと話してると楽しいよ。でも、授業中とか、つい隣を見ちゃうんだよね」


 勝也は、少し照れたように笑った。


「休み時間にも、これ、優子に話したいなって思うことがあって。いないって分かってるのに、そっち向いたりしてさ」

「……そうなの?」

「うん。早く会いたいなって、時計を見てる時もあるよ。優子が隣にいたら、その時に話せるでしょ」


 目の奥が、じわりと熱くなった。


 私が家で勝也を待っている間、勝也も、私に話したいことを考えてくれていた。教室で本を読んでいる横顔しか思い浮かべられなかったのに、その顔が、誰も座っていない隣の席へ向くところまで浮かんだ。


 戻れたら、そこから返事ができる。


 勝也の話を聞いて笑うだけでなく、私が隣にいることで、勝也も今より楽しくなる。そう言ってもらえたことが嬉しくて、握った指へ、そっと力を込めた。


「……怖いのは、まだ」

「うん。今、言ってくれたね」


 もう1度頷いてくれた。


 怖いという言葉も、先に聞いてもらえていた。行きたいと言ったから、もう平気だと思われたわけではなかった。


 つないだ手へ目を落とした。今も、考えたことを声にできているのは、この手を握ってもらっているからだった。


「でも……勝也が隣にいてくれたら、心強い、と思う」


 言ってから、顔を上げた。学校でもそばにいてほしい。そのお願いまで口にする前に、勝也が頷いた。


「なら、学校にいる時は、ずっとそばにいるよ」

「……休み時間も?」

「うん。休み時間も、一緒にいよう」


 勝也が、つないでいない方の手を背中へ回した。私は、その腕の中へ少し体を寄せた。


 胸に詰まっていた息を、ゆっくり吐けた。


 学校のことを考えると、まだ怖かった。それでも、教室へ入ったあと、自分の席で1人きりになるところばかりが浮かぶのではなくなった。隣を向けば勝也がいて、休み時間になっても、一緒にいられる。


「……ありがとう」


 肩へ額を寄せると、背中の手が、そっと動いた。しばらくその温かさを感じてから、まだ気になっていることも話してみようと思った。


「校門のところで……止まっちゃうかも」


 小さく言った。昨日、名前の紙を見た時から、そこまで考えると、いつも先へ進めなかった。


「行くって言ったのに……入れなかったら」


 勝也は、私の顔を見ていた。


「そのことも、先に話しておこう」

「……誰に?」

「お父さんとお母さんに。それから、先生にも」


 私は少し黙った。先生、と聞くだけで、すぐには頷けなかった。


 勝也が前の先生へ話しに行ってくれたことを思い出した。それでも、何も変わらなかった。


 勝也は、続けて言った。


「朝、どこで待ってもらえるかとか、途中で怖くなったらどうするかとか。ちゃんと聞いてからにしよう」


 今すぐ、私が全部を説明する話ではなかった。学校へ行って、その場で困ってから、誰かに声をかける話でもなかった。


 行く前に、聞いてもらえることがある。


 昨日、班の名前が先に用意されていたことを思い出した。私が教室に戻ってから、どこへ入れるかを探さなくてよかった。あの紙を見た時と、少し似ていた。


「花沢先生……?」

「うん」


 新しく来た先生だった。私はまだ、勝也みたいに、教室でその先生と話したことがなかった。


 昨日、私の返事を待ってから参加を考えると言ってくれたことは、お母さんから聞いていた。勝也と同じ班にすることも、先生が先に考えてくれていた。


 だから、全部大丈夫だと思えるわけではなかった。でも、今度はお父さんとお母さんにも話してもらえる。


「勝也も……一緒に、聞いてくれる?」

「うん。分からないところは、俺も聞くよ」


 少し息が吐けた。


 勝也も、まだ全部は知らない。何でも決まっているふりをして、大丈夫だと言っているのではなかった。私が困りそうなところを、一緒に確かめようとしてくれていた。


     * * *


 少しの間、話さなかった。


 つないだ手は、そのままだった。勝也が離さずにいてくれたので、私も、自分から握り直せた。


 学校へ行きたいと言った。


 その言葉は、もう、私の中だけにあるものではなかった。隣で聞いてくれた人がいた。それでも、明日の朝になれば、また怖くなって、言わなければよかったと思うのかもしれなかった。


「明日……違うこと、言っちゃったら」


 勝也が、私を見た。


「やっぱり、怖いって……言ったら」

「その時も、言ってね」


 短い返事だった。


「黙って、平気なふりしなくていいよ。今日も、怖いって話してくれたでしょ」


 頷いた。目の端から落ちた涙が、頬を伝った。泣こうと思っていたわけではなかった。止めようとして、息だけが少し乱れた。


 勝也は、背中をゆっくり撫でた。


 行きたいと言えたのに、まだ泣いていた。でも、勝也は、何で泣くの、と聞かなかった。私が返事をできなくなっても、話したところまでを聞いてくれていた。


「……一緒に、教室まで行ってほしい」

「うん。一緒に行こう」


 私は、肩へ額を寄せた。自分の声が近くへこもった。


「席も……」

「隣だよ。座ってからも、話せるね」


 少し笑ったら、涙がもう1度落ちた。


 授業が始まる前、勝也がこちらへ顔を向けてくれたことを思い出した。おはよう、と言ってくれるのが嬉しかった。返事を小さくしてしまった日にも、次の日にはまた声をかけてくれた。


 あの頃、自分からもっと話したかった。


 今も、話したい。家だけでなく、教室でも、隣で同じものを見ていたい。


「……朝、おはようって、言いたい」


 口に出すと、勝也が少し笑った。


「うん。俺も言うよ」


 大きなことを決めたつもりだったのに、今、いちばん思い浮かべられたのは、それだった。朝に会って、おはようと言う。席へ座って、勝也が本を開くところを見る。分からないことがあったら、少しだけ顔を向ける。


 春樹くんたちと、すぐ同じように話せるかは分からなかった。誰かに見られるのも、何かを聞かれるのも、まだ怖かった。


 でも、勝也の隣には座りたかった。


「学校の話……聞くの、好き」

「うん」

「でも、私も……そこに、いたかった」


 言うと、背中の手が少し止まった。


「勝也が笑ってるところ……見たかった」


 顔を上げた。近くにいる勝也の目が、こちらを見ていた。


「そっか」


 それから、口元が柔らかくなった。


「俺も、優子が隣で笑ってくれたら嬉しいよ」


 胸の奥が、また熱くなった。


 学校へ行くことそのものを褒めてもらいたいわけではなかった。ずっと休んでいる自分が、誰かに迷惑をかけないようにしたいだけでもなかった。


 勝也と、同じ場所にいたかった。


 私が隣にいることを、勝也も嬉しいと思ってくれる。それを聞けると、怖い場所のことを考えていても、息が詰まるだけではなくなった。


「……お父さんたちに、明日、話す」


 勝也が頷いた。


「うん」

「一緒に……いてね」

「いるよ。隣で聞いてる」


 顔を下げかけて、もう1度見た。


 私が言えなくなったら、全部、勝也に代わりに話してもらいたくなるかもしれない。でも、行きたいと思ったことは、できれば自分で伝えたかった。


 お父さんにも、お母さんにも、心配してもらっていた。昨日も、今日も、先に答えを決めずに待っていてくれた。明日は、私の言葉で話したかった。


「途中で……分かんなくなったら、助けて」

「うん。その時は、一緒に話そう」


 頷いた。


 いつ行くかは、まだ決まっていなかった。朝、どこで待ってもらえるかも、学校で怖くなった時にどうするかも、これから聞くことだった。


 明日、お父さんとお母さんへ伝える。


 今夜は、そこまでを考えられた。


     * * *


 しばらくして、涙が止まった。


 勝也が枕元のティッシュを取ってくれたので、頬へ当てた。鼻をかんでから、少し顔を離した。さっきより静かに息ができた。


「……話せた」


 小さく言うと、勝也が頷いた。


「うん。聞けたよ」


 その返事が嬉しくて、また肩へ顔を戻した。


 今日は、初めてお願いしたことばかりではなかった。もう1度遊びたいと言えた。もう1度、泊まってほしいと頼めた。前と同じように抱きしめてもらいながら、前には言えなかったことを話せた。


 勝也は、上掛けを私の肩へ直した。足元の方で、少し布が動いた。


「……暑い?」


 聞くと、笑う息が髪へかかった。


「ちょっと。足、出しとく」


 私も少し笑った。背中の腕は、そのままだった。暑いと言っても、離れてしまうわけではなかった。


 目を閉じかけると、校門のところが、また浮かんだ。


 そこを歩けるかどうかは、まだ分からない。学校の匂いや、人の声を思い出すと、手を握る力が少し強くなった。


 勝也の指が、握り返してくれた。


 私は目を開け、目の前の肩を確かめた。今夜、話したことを覚えていてくれる人が、すぐ隣にいた。明日は、その人と一緒に、お父さんとお母さんへ話す。


「おやすみ、優子」

「……おやすみ、勝也」


 学校へ行きたいと言ったあとも、同じように抱いていてくれた。


 眠る前に、もう1度、朝の道を思い浮かべた。校門より手前のところで、勝也と並んでいた。歩く速さが違ったら、少し待ってもらおうと思った。


 服へ添えた指を緩め、私は目を閉じた。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

優子からまた泊まってほしいと頼まれるかもしれないと考え、朝、真紀に宿泊の可能性を伝え、寝巻きと翌日の着替えを持って訪ねる。優子の希望と両家の了承を受け、2回目の宿泊をする。夜、学校への怖さと復帰したい気持ちの両方を受け止め、優子が来てくれたら学校がもっと楽しくなると伝える。学校ではずっとそばにいることと、翌朝は両親へ一緒に話すことを約束する。


・富田 優子

勝也と遊んだり本の話をしたりする時間を楽しみ、もう1度泊まってほしいと頼む。就寝前、まだ学校は怖いものの、勝也と一緒に登校したいという自分の希望を伝える。隣にいてくれたら心強いと話し、学校でもそばにいるという返事に安心する。


・優子の母(美和)

優子の希望を聞き、真紀と相談して2回目の宿泊を整える。学校の返事を急がせず、家で2人が穏やかに過ごせるよう見守る。


・優子の父(泰臣)

帰宅後は2人が遊んだ話を聞き、夕食を共にする。宿泊を了承し、勝也と一緒に布団を用意する。


・勝也の母(真紀)

朝、勝也から今夜も泊まるかもしれないと聞き、富田家が了承することを前提に認め、決まったら連絡するよう伝える。夕方、勝也と美和から電話で確認し、翌朝に1度帰宅する約束を交わす。

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