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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
35/52

第31話 そばにいたい理由


    * * 優子視点 * *


 勝也を見送った月曜日の夜、私は食卓の椅子に手を添えていた。


 さっきまで勝也が座っていた椅子だった。明日もここで一緒にご飯を食べる。好きな物を聞いてみようと、お母さんと話したばかりだった。


 台所で水の音が止まった時、お父さんが本を閉じた。


「優子。少し、話してもいいかな」


 顔を上げた。お父さんは、閉じた本を自分の横へ置いた。さっきまで勝也に見せていた本だった。


「……うん」


 お母さんも、手を拭いて戻ってきた。私が座ると、その隣へ座った。


 何の話なのか、聞く前から分かった気がした。明日から、また学校がある。勝也も、学校が終わってから来ると言っていた。


 私は、膝へ手を下ろした。


「学校のことなんだけれど」


 お父さんが言った。重ねた指に、少し力が入った。


「すぐ行きなさい、という話ではないよ」


 続いた言葉で、顔を上げた。


「お母さんとも相談していたことがあるんだ。優子にも、話しておきたくて」


 お父さんは、お母さんを1度見た。お母さんが頷いた。


「学校を変わることも、考えていた」


 言葉の意味を、すぐには受け取れなかった。


 学校を変わる。


 校舎の色や、教室の場所が違うところを、一瞬だけ思い浮かべた。知らない机が並んでいた。その中に、自分の席がある。


「……転校?」

「うん。この学校へ通い続けるのがつらいなら、別の学校へ行くこともできないかと考えたんだ」


 お父さんは、ゆっくり話した。


「そのために必要なら、引っ越すことも含めてね」


 私は、隣の椅子を見た。少し前まで、勝也がそこに座っていた。明日も来ると言って、ここから帰っていった。


 引っ越したら、同じようには会えなくなるかもしれない。夕方になっても勝也の来ない家で過ごすところを考え、もう1度お父さんを見た。


「嫌」


 考えるより先に、はっきりと口から出た。大きな声ではなかったけれど、自分でも驚くほど、迷いのない返事だった。


 お父さんが、私へ体を向けた。その顔を見た途端、続けようとした言葉が止まった。


 私のために、考えてくれたのに。


 学校へ行けない私が、違う学校も嫌だと言ってしまった。引っ越すことまで考えてくれていたお父さんとお母さんに、いきなり、嫌とだけ。


 膝の上へ目を落とした。


「……ごめんなさい。考えてくれたのに」

「謝らなくていいよ。優子がどうしたいのか、聞きたかったんだから」


 お父さんの声は、さっきと変わらなかった。


「どうして嫌なのか、話せそうかな」


 小さく頷いた。でも、すぐには続けられなかった。


 勝也と、離れたくない。


 自分の中では、それが1番だった。けれど、こんなことを理由にしてもいいのだろうか。学校へ行けるようになるための話をしているのに、勝也と一緒にいたいから、ここにいたいと言っても。


「……勝也が、いるから」


 声が小さくなった。そっと顔を上げると、お父さんは何も言わずに待っていた。隣のお母さんも、私を見ていた。


 膝の上で、右手の指をゆっくり曲げた。


「また勝也と離れるのは嫌……なの」


 最後まで言ってから、お母さんの顔を見た。困らせてしまったかもしれないと思ったけれど、お母さんは、先を促すように頷いてくれた。


 小さい頃、勝也が引っ越してからも、隣の家へ顔を向ける癖が抜けなかった。面白いことがあると見せに行きたくなって、そのたびに、もういないのだと思い出した。


 今は、今日の続きを明日も話せる。貸した本は、読み終わったら持ってきてくれる。勝也の好きなことも、少しずつ聞けるようになった。ようやく戻ってきたその時間を、自分から手放したくなかった。


「やっと、また一緒にいられるようになったから……」


 ここにいたい、と続けかけて、唇を閉じた。


 お母さんが、私の顔を見て頷いた。


「今みたいに、勝也くんと会っていたいんだね」

「……うん」


 返事をして、隣の椅子へ目を戻した。


「今日も、一緒にご飯を食べて……明日も来るって言ってくれたの」


 椅子を見ていると、さっきまでの勝也の顔が浮かんだ。少し黙ってから、言葉を足した。


「そういうの、これからも……続けたいなって」


 それ以上は言えなくて、お父さんの返事を待った。


 お母さんの口元が、少し緩んだ。お父さんも椅子を見てから、私へ顔を戻した。


「分かった。まだ何も決めていないよ。優子の知らないところで、引っ越しを決めるつもりもない」

「うん」

「今の学校へ通うことが難しいなら、ほかの学校を考えることもできる。それを伝えておきたかったんだ」


 私は頷いた。今いる場所を離れる方法まで考えてくれていたのだと、改めて分かった。


「学校は……まだ、怖いの」


 教室へ入るところを考えると、すぐに行けるとは言えなかった。机に向かって歩いていく自分を思い浮かべるだけでも、気になることはいくつもあった。


「でも……勝也と同じ学校に、いたくて」


 また、手元へ目を落とした。行くのは怖いのに、変わりたくはない。そんなことばかり言って、どうしてほしいのか分からないと思われないだろうか。


「こんな理由でも……ここにいて、いい?」


 聞き終えてから、お父さんを見た。


「もちろん。勝也くんと一緒にいたいんだね」


 小さく頷いた。お父さんは、私の返事を待ってから続けた。


「転校したくないと答えたから、明日から今の学校へ行きなさい、ということにはしないよ」


 私は、お父さんを見た。


「……まだ、休んでいてもいい?」

「もちろん。どうしたら戻れそうかも、これから一緒に考えよう」


 頷くと、お母さんが私の右手へ軽く触れた。


「優子の気持ちを聞けてよかった。話してくれて、ありがとう」


 ようやく、肩の力が少し抜けた。うまく説明できたかは分からなかったけれど、言わなければよかったとは思わずに済んだ。


 お母さんが台所へ立ち、水の入ったコップを持ってきた。私は礼を言って受け取り、1口飲んだ。


「ここにいよう」


 お父さんが言った。


「優子の気持ちを聞かずに、勝也くんと離したりはしないよ」

「うん。ありがとう」


 コップをテーブルへ戻した。勝也が来ると、門を通って玄関まで歩いてくる。その足音を、明日もここで待てると思った。


 お父さんは少し考えてから、続けた。


「学校へ戻ることを考えられるようになったら、その時にも、優子の話を聞く。教室でどう過ごすかも、先生たちと話しているから」


 私は頷いた。今すぐ登校する日を決める話ではないのだと分かって、続きを聞けた。


「優子が1人で何とかしなければいけないまま、戻すつもりはないよ」

「うん」


 お父さんは、テーブルの上の本を少し脇へ寄せた。


「勝也くんにも、私から少し話してみてもいいかな」


 私は顔を上げた。


「……今日のこと?」

「うん。優子が、離れたくないと思っていることを。明日、来てくれるなら、帰りに送っていこうと思うんだ」


 勝也が、お父さんの車へ乗るところを思い浮かべた。私は、その中にいなかった。


「怒るの……?」


 聞いてから、違うと思った。勝也は、何も悪いことをしていない。お父さんも、今日、褒めていた。


 けれど、お父さんに話があると言われたら、私はいつも少し緊張する。勝也も、困るかもしれなかった。


「怒る話ではないよ」


 お父さんは、すぐに答えた。


「会いに来てくれて、私たちも嬉しい。まず、そのお礼を言いたいんだ」


 少し、肩の力が抜けた。


「それから、これからのことを相談できたらと思っている」


 お母さんが、隣から言った。


「優子が離れたくないと言っていること、伝えても大丈夫?」


 返事をしようとして、止まった。


 泊まってほしいとは、自分で言えた。一緒に寝たいとも言った。どちらも、勝也は嫌がらなかった。


 でも、離れたくない、は、もっと長い間のお願いに聞こえた。今日だけではなく、明日も、その次も。


 それを知ったら、勝也は困らないだろうか。


「……ずっと、来ないといけないって……思わないかな」


 お母さんが、私の手元を見た。


「そう思わせたくないんだね」


 頷いた。


 勝也が、自分から来たいと言ってくれたのが嬉しかった。私が待っているから、仕方なく来るようになってほしいわけではなかった。


 お父さんは、私が顔を上げるのを待ってから答えた。


「勝也くんの気持ちも、聞いてから話すよ。優子の気持ちだけで、全部を決めるような話し方はしない」


 私は、少し考えた。考えても、勝也の返事は分からなかった。


 それでも、知られないまま、また離れる方が嫌だった。


「……言って、いい」


 お父さんを見た。


「勝也と、離れたくないって……言っても、いい」


 お父さんが、しっかり頷いた。


「分かった。ちゃんと、伝えるね」


 私は頷き、コップへ手を添えた。お父さんと話したあとで、勝也がどんな顔をするのか、少し気になった。


     * * *


 部屋へ戻ってから、携帯を開いた。


 勝也の名前があった。電話をかければ、声を聞けるかもしれなかった。


 私は、画面を見たまま、ベッドへ座った。


 明日も来てくれる。それは、お父さんに頼まれたからではなかった。さっき、門のところで、自分から言ってくれた。


 手首のミサンガへ、そっと目を向けた。勝也の手にも、あった。土曜日、眠る前にも、すぐ近くで見た。


 引っ越したあと、何度も思い出した人が、同じ教室にいた。初めて気づいた日に、どれだけ嬉しかったか。その人を見つけられた学校を、怖い場所としてしか考えられなくなったことが、悲しかった。


 そこへ戻るところを思うと、今も怖かった。それでも、勝也と同じ学校で過ごしたかった。家で話している本の続きを、学校でも話せたらと思った。また別々の場所へ通うようになるのは、嫌だった。


 私は文字を打った。


 明日、学校が終わったら、待ってるね。


 何度か読み直した。さっきも言ったことだった。それでも、今夜、もう1度伝えたかった。


 送って、携帯を膝へ置いた。


 少しして、返事が来た。


 うん。終わったら連絡するね。明日も一緒にご飯を食べよう。


 最後のところを、もう1度読んだ。


 何が好きなのか、聞いてみようと思った。明日の夕飯のことを考える時間も、なくなったわけではなかった。


 扉が軽く鳴った。お母さんの声がしたので、入っていいよ、と答えた。


 携帯を机へ置く前に、もう1度画面を見た。明日の約束が、そこに残っていた。


     * * *


 火曜日は、昼ご飯を食べ終えても、まだ勝也は来なかった。


 分かっていた。今日は学校がある。昨日みたいに、午後1時半に来る約束ではなかった。


 それでも、時計を見るたび、もう少しなのではないかと思った。


 本を開いた。何ページか進んでから、同じ人の話を読んでいることだけが分かって、もう1度戻った。今日は、うまく頭へ入ってこなかった。


 本を伏せ、昨日、勝也が座っていた隣へ目を向けた。今はクッションが置かれていた。少し端へ寄せてから、そんなことをしても、早く来てもらえるわけではないと思った。


「……まだ、だよね」


 時計の針は、さっき見たところから少ししか進んでいなかった。授業が終わるまで待たなければならないことは分かっている。勝也には勝也の今日があって、そのあとで、ここへ来てくれる。


 携帯を開きかけて、やめた。授業中に返事をもらいたいわけではなかった。


 お母さんが、洗濯物を持って通った。私の前に伏せられた本を見て、少し笑った。


「今日は、学校が終わってからだものね」


 頷いた。待っていることが、顔に出ていたらしかった。


 お母さんは、私を急かすようには時計を見なかった。洗濯物を置いて戻ると、隣へ少し座った。


「昨日、話したこと。今日も気になってる?」


 私は、本の端を押さえた。


「……勝也、何て言うかなって」

「そうだね」


 お母さんも、勝也なら絶対にこう言うとは、決めなかった。


「会ったら、いつもみたいに話していいんだよ」


 私は頷いた。でも、何を最初に言うかを考え始めると、また、本の文字が頭へ入らなくなった。


 携帯を、机の上から自分のそばへ移した。画面は、まだ暗かった。


 午後の光が、カーテンの下で少しずつ動いた。台所へ水を飲みに行き、戻ってきたところで、携帯が鳴った。


 学校が終わったよ。今から行くね。


 短い言葉だった。私は、そのまま立って読んだ。


「……お母さん」


 呼ぶと、台所から顔を出した。


「終わったって」

「うん。よかったね」


 返事を打った。待ってる、とだけ入れるつもりが、気をつけてね、と続いた。


 送ってから、手に持っていたコップを思い出した。飲み終えた水の跡が、底に少し残っていた。


 流しへ置き、居間へ戻った。さっきまで読めなかった本へ、栞を挟んだ。


     * * *


 インターホンが鳴った時には、すぐに立ち上がれた。台所のお母さんへ顔を向けると、行っておいで、と頷いてくれた。


 お母さんに門を開けてもらい、私は玄関で待った。外から近づく足音を聞いている間に、さっきまでの長い午後が、ようやく終わる気がした。


 勝也は、制服を着ていた。リュックサックを下ろす前に、こちらを見た。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 返事をすると、勝也が笑った。昨日、別れた時と同じ顔だった。


「待っててくれた?」


 頷いた。それから、少しだけ近づいた。


 勝也がリュックサックを足元へ下ろした。私が近づくのを待って、少しかがんでくれた。左手が頭へそっと触れた。


「来たよ」

「……うん」


 それだけで、昨夜から考えていたことを、今すぐ全部言わなくてもよくなった。


 お母さんへ挨拶し、勝也が靴を揃えた。私は、隣で待った。


 居間へ入ると、勝也はリュックサックから、薄い紙の束を出した。学校でもらった物だった。


「今日の分、ここへ置いてもいい?」

「うん」


 テーブルの端を空けた。勝也は、紙が折れないように置いた。


「急いで見なくても大丈夫だよ」


 頷いた。印刷された学校の名前が、少しだけ目に入った。私は、そこから顔を上げた。


 勝也は、もう1冊、本を出していた。


「これ、俺の家にあったの。今日は、持ってきてみた」

「……貸してくれるの?」

「うん。気になったら、読んでみて」


 私の前へ置いてくれた。表紙を見た。自分では、手に取ったことのない本だった。


「1つずつの話は、そんなに長くないよ」


 勝也が、目次を開いて見せた。同じページを覗くと、肩が触れた。


 今日は、文字が頭へ入らなかった。でも、勝也がここ、と指した題名は、読めた。顔を上げれば、目次を覗く横顔がすぐそばにある。次に時計を見るまでに何分過ぎただろうと、考えなくてもよかった。


「……ありがとう」

「うん。ゆっくりでいいからね」


 勝也は、本を閉じた。私の前に残してから、隣へ座った。


 お母さんが、麦茶とお菓子を持ってきてくれた。袋から出したビスケットが、小さな皿に並んでいた。


 勝也は礼を言い、コップを持った。学校から歩いてきたので、少し喉が渇いていたらしかった。


 飲み終えるまで待ってから、名前を呼んだ。


「勝也……」

「うん?」

「好きな食べ物って、何?」


 勝也は、少しだけ首を傾げた。


「食べ物?」

「うん。お母さんと、昨日……何が好きなのかなって、話してて」


 お母さんが、台所へ戻りかけたところで笑った。


「これから一緒に食べるなら、聞いておこうと思ってね」

「ああ……」


 勝也は、自分の前の皿を見た。そこに答えがあるみたいだった。


「唐揚げとか、ハンバーグとか。カレーも好きです」


 私は、覚えておこうと思った。唐揚げと、ハンバーグと、カレー。


「昨日のさんまも、おいしかったし。焼き魚も好きです。煮魚も」


 覚える物が、増えた。


「餃子とか、肉じゃがとか……麺も、だいたい好きです」

「……だいたい?」

「ラーメンも、うどんも、そばも」


 指で数えようとして、やめた。お母さんが、小さく笑っていた。


「たくさんあるね」

「はい。考えると、まだ出てきます」


 勝也も笑った。何を言えば喜ばれるか、困っているようには見えなかった。本当に、思い出すたびに好きな物が増えているらしかった。


「1番は……?」


 聞くと、今度は少し考えた。コップを置き、腕を組みかけて、また下ろした。


「1番かあ……」


 私は待った。


「今、唐揚げの話をしたから、唐揚げが食べたくなっちゃった」


 お母さんが笑った。


「よかった。今日は、唐揚げにしようと思っていたの」

「本当ですか」


 勝也の顔が、すぐに明るくなった。私は、つられて口元が緩んだ。


「じゃあ、今日は……唐揚げ?」

「うん。今、すごく楽しみ」


 はっきりした返事だった。さっきまで、1番を決められなかった人とは違うみたいだった。


 お母さんは、じゃあ作るね、と台所へ戻った。私は勝也の横顔を見た。


 好きな物を1つ聞いて、次に来た時にも覚えておきたかった。けれど、こんなにたくさんあると、どこまで覚えたらいいのか分からなかった。


 肉を焼いて、フライパンへご飯を入れて食べる。土曜日に聞いた話を思い出した。勝也はあの時も、好きな味にできるからと言っていた。今、唐揚げを楽しみにしている顔を見たら、ほかの好物も、ここで食べてもらいたくなった。


 お母さんが作ってくれるご飯を、私も一緒に食べる。その時に、今日の1番をまた聞ける。


「いっぱいあるんだね」

「うん。食べるの、好きだから」


 勝也がビスケットを1枚取った。口へ入れ、少ししてから、おいしい、と言った。


 私は、自分の分を手に取った。端をかじると、軽く崩れた。口の中に、甘い匂いが残った。


「これ、前にもらったのより、バターの匂いがするね」


 勝也が言った。


「前の?」

「昨日の。あれもおいしかったけど、こっちは、口に入れた時から違う」


 私は、もう1口食べた。昨日もお母さんがお菓子を出していた。袋が違うことは覚えていたけれど、そんなふうには考えなかった。


「こっちの方が好き?」

「うん。これ、すごく好き。さくっとしてるし、食べたあとも香りが残るね」


 勝也は、残ったところを口へ入れた。飲み込んでから、続けた。


「前のは、少し油の匂いが強かった。でも、あれはあれで、甘いところがおいしかったよ」


 勝也は、昨日もおいしいと言っていた。ただ同じように言っていたのだと思っていたけれど、匂いまで覚えているらしかった。


 残ったビスケットをもう少しだけかじった。今度は、甘さだけでなく、口の中に残るバターの香りも探した。


「……ほんとだ。まだ、匂いする」

「ね。こっちは、ゆっくり食べたくなる」


 そう言う勝也の指先には、もう、何も残っていなかった。私がそこを見ていると、気づいたらしく、少し笑った。


「おいしいと、なくなるのも早いね」


 私も笑った。違いが分かったうえで、どちらも好きだと言っている。そのことが、少し面白かった。


「嫌いな物はないの?」

「あるよ」


 今度は、返事が早かった。私は、少し驚いた。


「1つだけ」


 勝也の眉が、少し下がった。


「給食の、ビーンズサラダ」


 名前を聞いて、すぐに思い出した。いくつかの豆と、オレンジ色の果物が入っていた。酢の味がする、冷たいサラダだった。


「豆と、みかんみたいなのが入ってるやつ?」

「そう。それ」


 勝也が頷いた。


「豆だけなら好きなんだけど。あれは、どうしても苦手なんだよね」


 私は、給食の皿を思い浮かべた。ほかの物を食べ終えても、そこだけ残っていた。自分の皿だけではなかった。


「みんな残すよね」

「うん。あの日は、ほとんどそのままの人もいるね」


 勝也は、困ったように笑った。


「好きな人もいるかもしれないけど、俺は、あれだけは駄目」


 唐揚げの話をしていた時とは、少し違う顔だった。覚えるのは、好きな物より、こっちの方が簡単だった。


「お母さんにも言っておくね」

「うん。でも、あのサラダだけだからね。豆が入ってる物、全部駄目じゃないよ」


 急いで言い足したので、少し笑ってしまった。勝也も、俺、食べられなくなる物を増やしてるね、と笑った。


     * * *


「翔太にも、よく聞かれるんだ」


 勝也が、もう1枚ビスケットを取ってから言った。


「好きな物?」

「そっちは、これ食べられるかって」


 私は、勝也の持ったビスケットを見た。これを食べる前に、誰かへ聞く必要はなさそうだった。


「変わったお菓子を見つけると、買ってくることがあって」

「辛いのとか?」

「そういう時もあるけど。この前は、バッタだった」


 意味が分からず、勝也の顔を見た。


「バッタ?」

「うん。お菓子になってるやつ」


 勝也は、当たり前のように答えた。私は、皿へ目を落とした。今ここにある物は、ビスケットだった。


「食べたの?」

「うん。サソリのスナックを食べた時もあったよ」


 もう1つ増えた。好きな料理を聞いた時とは、違う増え方だった。


 口を開いたままになるのが分かり、慌てて閉じた。


「どうして?」

「翔太が、どんな味か気になるけど、最初に食べるのは嫌だって。それで、俺が先に食べてみたんだ」


 勝也は、少し笑った。


「春樹もいて、2人でずっと、どう、どう、って聞くから」

「うん」

「美味い、って言ったんだ」


 私は、勝也を見た。冗談を言っている顔ではなかった。


「そしたら、翔太も食べたんだけど」


 そこで、勝也が1度笑った。


「マズイ! って」


 急に声の調子が変わった。翔太くんの言い方をまねたらしかった。私は、少し肩を動かした。


「お前、うまいって言ったじゃん、って言われて。言ったよって答えたら、何でもうまいって言うなよ、って」

「おいしくなかったの?」

「俺は、おいしかったんだよ」


 勝也は、またはっきり答えた。


「香ばしかったし、塩もきいてたから。もう1つ食べたら、翔太が、嘘だろって」


 私は、口元へ手を当てた。食べたところを見たわけではないのに、2人の顔が少し浮かんだ。


「春樹くんは?」

「翔太が騒ぐから、少し待ってって言ってた。そのあと食べて、しばらく黙ってた」

「黙っちゃったの?」

「うん。で、勝也はこれ好きなんだね、って」


 今度は、声を落ち着かせて言った。その違いがおかしくて、また笑ってしまった。


 勝也も笑っていた。誰かを困らせようとして、先においしいと言ったのではなかった。自分が食べた時に、そう思っただけなのだと分かった。


「翔太くん、次も聞くのかな」

「聞くんじゃないかな。自分が先なのは、嫌みたいだから」


 勝也は、少し考えてから続けた。


「また何か見つけたら、持ってくると思うよ」


 次も同じことになるかもしれないのに、まだ、そのつもりらしかった。


 お母さんが、台所からこちらを見た。


「楽しそう。何の話?」


 答えようとして、止まった。お母さんは、夕飯を作っているところだった。


「……勝也の、好きな食べ物」


 そう言うと、勝也が笑った。


「それで合ってるけど、何か違うね」


 私も笑った。お母さんは不思議そうな顔をしてから、あとで聞かせて、と台所へ戻った。


 私は、ビスケットの最後の1口を食べた。勝也が言った通り、甘い匂いが残った。


 好きな食べ物を聞いたら、勝也が友達と笑っていた日のことまで聞けた。翔太くんも春樹くんも、勝也といると、こんなふうに遠慮なく話すのだと思った。


 土曜日には、ゲームや釣りの話を聞いた。今日は、その時にどんなことで笑っていたのかを、少しだけ知った。


 離れていた間のことを全部聞きたくなっても、いっぺんには聞けない。今、勝也が思い出して話してくれた分を、私も覚えていたかった。


「また、聞かせてね」

「翔太の話?」

「うん。それも……勝也が、楽しかったこと」


 言ってから、少し顔が熱くなった。何でも知りたいと思っているのが、そのまま伝わりそうだった。


「うん。何かあったら、話すよ」


 勝也はそう答え、空になった皿を見た。私も最後のかけらを食べてから、ありがとう、と言った。


     * * *


 お皿が空になると、勝也が2人のコップを少し寄せた。


「本、見てみる?」


 頷いた。借りた本を開くと、最初のページに、まだ折り目のないところがあった。私は、強く開きすぎないようにした。


 隣で勝也も、自分の読みかけの本を開いた。しばらく、ページをめくる音だけになった。


 私は、さっきより読めた。1つの話を読み終える前に、勝也の袖へ肩が触れた。少しだけ寄って、そのまま次のページへ進んだ。


 ふと、テーブルの端の紙が目に入った。今日、届けてくれた学校の物だった。


 膝の上の本を閉じた。紙の1番上へ目を向けると、日付と、見覚えのある印刷の文字があった。


 昨日の話が、戻ってきた。


 この家にいたい。勝也と離れたくない。


 昨夜、そう言ったことと、あの教室へ戻ることが、頭の中でつながりかけた。お父さんは、明日から行きなさいという意味ではないと言ってくれた。それでも、印刷された学校の名前を見ると、机の並びや、後ろから聞こえた声を思い出した。


 私は、紙を取ろうとした手を止めた。


「優子?」


 勝也の声がした。顔を向けると、もう本を閉じていた。


「どうしたの……?」

「……ううん」


 首を振りかけて、やめた。それだけで終わらせると、何を気にしたのか、勝也には分からない。


「学校の……紙、見てたの」


 小さく言った。


「うん」

「見られるかなって、思ったけど……」


 言葉が続かなかった。勝也は、紙をこちらへ持ってこなかった。


「今、見なくても大丈夫だよ」


 私は頷いた。手を本の上へ戻した。


 お母さんが、2人のそばへ来た。私の目の向いていた先を見て、勝也へ聞いた。


「学校からの物?」

「はい。今日、預かってきた分です」

「ありがとう。お母さんが先に見ておこうか」


 私を見て言った。頷くと、紙を持っていってくれた。


 テーブルの上には、本が2冊残った。勝也が、私の方へ少し体を向けた。


「……昨日、お父さんと話したの」


 自分から言った。勝也は、そのまま待った。


「学校のこと」

「うん」


 どこまで言えばいいのか、分からなかった。転校という言葉を、ここで出したら、勝也の顔が変わるかもしれない。


「今日、帰る時……お父さんが、送ってくれるって」

「俺を?」


 頷いた。


「少し、お話したいって……」


 勝也は、少し驚いていた。でも、嫌そうな顔にはならなかった。


「そっか。分かったよ」


 返事を聞いても、私は、袖へ触れた指を離せなかった。


「怒る話じゃ、ないって」


 急いで言い足した。勝也がこちらを見た。


「……優子、気にしてくれてたの?」


 私は頷いた。勝也が困るかもしれないと思ったことまで、分かってしまった。


「ありがとう。大丈夫だよ。ちゃんと、お話を聞くね」


 その声を聞いてから、少しずつ指を緩めた。


 勝也は、私の手を見ていた。私が袖から離した右手の下へ、自分の左手を差し入れてくれた。


「……少し、こうしてようか」


 私は頷いた。手を包んでもらってから、勝也の肩へそっと寄った。


 本は、閉じたままだった。勝也も、自分の本を開き直さなかった。


 さっきは、あんなに笑っていた。それなのに紙を見ただけで怖くなった自分が、嫌だった。勝也まで困らせてしまっただろうかと横顔を窺うと、こちらを向いてくれた。


「急がなくていいよ」


 手を引かれたり、紙を見るように言われたりはしなかった。私は少し頷き、肩へ寄りかかったまま息を吐いた。笑っている時も、言葉が出なくなった今も、勝也は同じところに座っていた。


 しばらくしてから、私が本へ目を戻すと、どこまで読んだの、と小さく聞いた。その声が、さっきと同じだった。


    * * 勝也視点 * *


 優子のお父さんが帰ってきたのは、夕飯の少し前だった。


 俺が挨拶すると、お父さんは、今日もありがとう、と答えた。優子が隣にいた。俺とお父さんを、順に見ていた。


「帰り、家まで送っていってもいいかな」

「はい。ありがとうございます」


 先に聞いていたので、すぐ答えられた。お父さんが少し笑った。


「優子から、聞いた?」

「はい。話があるって」

「うん。少しだけ、付き合ってもらえれば」


 俺は頷いた。優子の指が、服へ1度触れてから離れた。


 お父さんが着替えに行くと、お母さんが食卓へ皿を運び始めた。俺も立った。優子が箸を出し、昨日と同じように4人分を並べた。


 唐揚げの皿が来た。揚げたところの色が、少しずつ違った。小鉢の青菜と、味噌汁もあった。


「熱いから、気をつけてね」


 お母さんが言った。俺は礼を言って、席へ着いた。


 お父さんが戻り、4人で手を合わせた。


 最初の1つを、箸で持ち上げた。1口かじると、中から熱が出てきた。ゆっくり噛み、飲み込んでから顔を上げた。


「おいしいです。外が、すごくかりっとしてて」

「よかった。今、揚げたところだから」


 お母さんが笑った。隣で、優子がこちらを見ていた。


「……今日の、1番?」

「うん。今は、これ」


 答えると、優子が笑った。お父さんが、何の話、と聞いた。


 お母さんが、好きな食べ物を聞いたら、たくさん出てきたのだと話した。俺は、口の中の物を飲み込んでから頷いた。


「1つに決めるのが、難しくて」

「いいことだね。用意する方も、いろいろ出せる」


 お父さんが言った。優子は自分の皿から唐揚げを1つ取って、少し考えてから顔を上げた。


「でも、給食のビーンズサラダだけは、苦手なんだって」

「そうなの?」

「はい。あれだけは、どうしても……」


 答えると、お父さんが笑った。優子も、さっき俺がしていたみたいに、少し眉を下げていた。


「豆は、好きなの。あのサラダだけ」

「うん。そう。それも、言っておいてくれるんだね」


 優子が頷いた。お母さんは、分かった、と笑っていた。ちゃんと覚えてくれていたことが嬉しくて、俺はもう1度礼を言った。


 食べている間は、昨日の学校の話を聞かれなかった。俺も、お父さんの言いたいことを、先に探ろうとはしなかった。


 優子が笑うと、お母さんの口元も少し緩んだ。俺は、その間にご飯を食べた。


 ほかの物も、ちゃんとおいしかった。青菜を食べてから、唐揚げへ戻ると、また違う感じがした。熱さが少し落ち着いたので、さっきより大きくかじれた。


 お父さんが、俺の皿を見た。


「勝也くん、本当においしそうに食べるね」

「はい。おいしいので」


 そう答えると、お母さんが笑った。優子も、少し俯いた。笑っているのを隠そうとしているようだった。


「何か、変なこと言った?」


 小さく聞くと、優子は首を振った。


「ううん……そのままだなって」


 俺は、自分の箸を見た。何を言えばよかったのか、少し考えてから、まあいいかと思った。


「優子も、おいしい?」

「……うん」


 頷いて、もう1口食べた。それを見て、俺も続きを食べた。


     * * *


 夕飯のあと、母さんへ電話した。今日は優子のお父さんに送ってもらい、その途中で少し話をすることになっている。帰る時刻がいつもと変わっても、心配をかけないように伝えておきたかった。


「優子のお父さんが、家まで送ってくれるって」

「そう。ちゃんとお礼を言ってね」

「うん。少し話してから帰るね」

「分かった。お母さんは、今日もいつもくらいになるから。美和さんにも、また連絡するねって伝えてくれる?」

「うん」


 母さんの帰りは、だいたい21時だった。電話を切ってから、優子のお母さんへ頼まれた言葉を伝えた。お父さんは、車の鍵を持ってきた。


「準備ができたら、行こうか」

「はい」


 リュックサックを背負うと、優子も立ち上がった。俺が食卓の横を通るのを待ち、隣へ来た。お母さんは台所の明かりを落としてから、俺たちについてきた。


 玄関で靴を履いている間、優子は、すぐそばにいた。


「勝也……」


 顔を上げた。


「うん?」

「明日も、来る……?」

「うん。学校が終わったら、来るよ」


 優子は頷いた。それでも、すぐには顔を上げなかった。


 お父さんが、先に車を出しておくね、と言って外へ出た。お母さんも、門の方を見に行った。


 俺は、立ち上がってから、優子へ顔を寄せた。


「お話したら、帰ってから連絡しようか」


 優子が、少し目を大きくした。


「……うん」

「分かった。家に着いたら、送るね」


 肩が、少し下がった。俺も、背負っていたリュックサックを片方だけ下ろした。


 優子が、こちらへ1歩来た。靴を履くための段差があるので、俺が少し近づいた。腕を回すと、肩へ額が触れた。


「……また、明日」


 優子が言った。


「うん。また明日ね」


 背中を、ゆっくり撫でた。腕の中で、1度長く息を吐いた。


 離れる時、優子は自分から顔を上げた。俺も、その目を見て頷いた。


 外へ出ると、車の明かりがついていた。お母さんが、夕飯は足りた、と聞いた。お腹いっぱいです、と答えた。


 優子が、また少し笑った。その顔を見てから、俺は車の方へ向かった。


     * * *


 車の横まで来て、少し足を緩めた。


 大きな車だった。車の印を見ても、どこの何という車なのか、俺には分からなかった。窓の向こうには、ゆったりした座席が見えた。


 春樹なら、こういう乗り物にも詳しそうだ。一目見ただけで、名前が出てくるのかもしれない。


 そう思いながら助手席へ座り、リュックサックを足元へ置いた。座面が体を受け止め、背中までゆっくり預けられた。


 左手でドアを引くと、思っていたより重かった。最後に、低く、短い音がした。薄い板がぶつかるような響きは残らず、閉まったところで音が収まった。


 その途端、外の音がずいぶん遠くなった。


 さっきまで聞こえていた通りの音が、ほとんど耳へ入ってこない。エンジンがかかっているのかどうかも、音だけでは分からなかった。足の裏や座っているところへ伝わる振動も、気になるほどではなかった。


 俺は、思わずドアの内側を見た。閉めただけで、こんなに変わるものなのか。


 車には詳しくない。それでも、ものすごく高い車に乗せてもらっていることだけは、分かった。


 シートベルトを引くと、お父さんが、苦しくない、と聞いた。大丈夫です、と答えたところで、窓の向こうに優子が見えた。


 お母さんの隣から、こちらを見ていた。手を上げると、優子も小さく振った。


 車が動き出した。俺は、優子が見えなくなるまで、窓の方を向いていた。


「いつもは、歩いて帰っているんだね」

「はい」

「家までの道、途中で教えてもらっていいかな。前に住んでいたところとは違うんだよね」

「はい。大きい道に出たら、しばらく真っすぐです」


 お父さんが頷いた。道の両側に、いつも見ている店があった。歩いている時よりも早く、後ろへ流れていった。


「今日も、優子と過ごしてくれてありがとう」

「いえ。俺も、楽しかったです」

「食べ物の話で、ずいぶん笑ったみたいだね」


 俺は、少し笑った。


「翔太の話をしたら、笑ってくれて」

「そうか」


 お父さんの声も、少し柔らかくなった。


「昨日の夜にも、勝也くんは何が好きなんだろうと言っていたよ」


 俺は、窓へ向けていた顔を戻した。そんなに考えてくれていたのだとは、思っていなかった。


「少し、コンビニへ寄ってもいいかな」

「はい」


 少し先に、明るい看板が見えていた。お父さんが駐車場へ入り、車を止めた。


 ドアを開けると、急に外の音が戻ってきた。道路を走る車の音がした。隣に止まった車から降りる人の、話し声も聞こえた。さっきまで、すぐそばにあった音なのだと思った。


 お父さんと一緒に店へ入り、飲み物の並ぶところへ行った。


「勝也くん、コーヒーは飲める?」

「はい」

「じゃあ、1本どうかな。好きなのを選んで」


 俺は、棚を見た。いつも見かける缶が、いくつも並んでいた。


「……ありがとうございます。これでも、いいですか」


 ミルクの入った物を指すと、お父さんが頷いた。


「もちろん」


 自分の分も取り、2本一緒に会計をしてくれた。俺は、店を出たところで、冷たい缶を受け取った。


「ごちそうさまです」

「うん。少し飲んでから行こうか」


 車へ戻り、缶を開けた。小さな音が、静かな車内では、はっきり聞こえた。


 1口飲むと、甘さのあとから、コーヒーの苦みが残った。お父さんも、自分の缶へ口をつけた。


「おいしい?」

「はい」


 すぐに答えると、お父さんが少し笑った。俺も、もう1口飲んだ。


 優子のいないところで、お父さんと2人で飲み物を飲んでいる。さっきまで少し緊張していたのに、缶を持っている間は、肩へ入っていた力が抜けた。


 お父さんが、缶を置くところを示してくれた。俺もそこへ置き、ベルトを確かめた。車は、また静かに走り出した。


 いくつかの交差点を通り過ぎた。お父さんが、次の信号も真っすぐ、と確かめたので、はい、と答えた。


「家は、まだこの先なんだね」

「はい。もう少し行ったところを曲がります」


 お父さんは、前を見たまま、小さく息を吐いた。


「思っていたより、ずいぶん遠いね。うちから歩くと、どのくらいかかるの?」

「1時間近くです」


 いつものことなので、そのまま答えた。お父さんは、少し間を空けた。


「1時間近く……」

「学校から来る時は、そこまでかからないです。帰りは、家まで歩くので」

「そうか。帰りは毎日、それだけ歩いているんだね」


 俺は頷いた。窓の向こうに、いつも帰る途中で見る店があった。今日は、店先の明かりが、すぐに後ろへ流れていった。


「毎日来てもらって、負担になっていないかな」


 お父さんの声で、顔を戻した。


「優子が喜ぶから、私たちも嬉しくてね。でも、勝也くんが疲れたり、自分のことをする時間がなくなったりしていないか、気になって」

「大丈夫です。帰ってから、宿題もできてますし。夕飯も、ご馳走になってるので」


 家へ帰ってから、何か作ろうとする日より、すぐ机へ向かえる。お腹もいっぱいだった。


「それに、俺が会いたくて来てるので」


 明日も来るかと聞いた優子を思い出した。待っていてくれるのが嬉しかった。学校が終わると、今日は何をしているだろうと、俺も早く会いたくなった。


「歩く時間はかかりますけど、優子と話して帰れるのが、楽しみなんです」


 お父さんが、ゆっくり頷いた。


「ありがとう。でも、疲れた時や、帰りが遅くなりそうな時は、遠慮しないで言ってね。私がいる時なら、今日みたいに送れるから」

「はい。ありがとうございます。今日も、助かります」


 そう答えると、お父さんの口元が少し緩んだ。毎日会いに行きたいことと、こうして送ってもらえて嬉しいことは、どちらも本当だった。


 赤信号で、車が止まった。お父さんは、ハンドルへ手を置いたまま、少し間を空けた。


「昨日ね。優子と、転校の話をしたんだ」


 膝の上の手が、動かなくなった。


「……転校、ですか」

「うん。今の学校へ通い続けることが難しいなら、学校を変わることも考えていた。必要なら、私たちも引っ越すつもりで」


 優子の机が、頭に浮かんだ。今も、授業の間は空いている。でも、そこに名前があるのと、なくなるのとでは違った。


 帰りに、この家へ寄れなくなるのだろうか。携帯で話せても、顔を見たいと思った時、すぐには会えないのだろうか。


「どこか、決まってるんですか」

「いや。まだ、どこも決まっていないよ」


 信号が変わった。車が、ゆっくり前へ進んだ。


「そういうことも考えていると、本人に伝えたんだ。そうしたら、嫌だと言った」


 俺は、お父さんの横顔を見た。


「また勝也と離れるのは嫌、と言ったんだ」


 返事をしようとした。でも、その前に、お父さんが続けた。


「最初の『嫌』は、はっきりしていたんだけれどね。そのあとは、私たちに遠慮しているようだった。学校はまだ怖いけれど、勝也くんと同じ学校にいたい。今みたいに会える毎日を続けたいと、少しずつ話してくれたよ」


 優子の声で、その言葉を考えた。


 庭で、もう少しこのままでいてと頼まれた。土曜日には、泊まってほしいと言ってくれた。今日も、帰る前に、明日も来るかと聞かれた。


 今日だけでなく、明日も、その次も。優子は、今みたいに会える日を続けたいと思ってくれていた。帰る時に聞かれた、明日も来る、という声をもう1度思い出した。


「この話をすることは、優子にも聞いてある。離れたくないと伝えていいと、言ってくれたんだ」

「……はい」


 窓へ目を戻した。通り過ぎる家の明かりが、ガラスに映っていた。


「俺も、離れたくないです」


 考えていたことが、そのまま出た。


 お父さんは、すぐには返事をしなかった。前の車が曲がるのを待ってから、静かに答えた。


「うん」

「小さい頃、引っ越した時も……優子に、また会いたいと思ってました」


 俺は、足元のリュックサックを見た。今日、貸した本は、その中にはなかった。優子の家にある。


「今は、明日も会えるって決まってるのが、嬉しいです」

「ありがとう」


 お父さんは、前を見たまま言った。


 次の角で曲がることを伝えた。車が細い道へ入り、少しして、家のある建物が見えてきた。


 お父さんは、邪魔にならないところへ車を寄せた。止まってから、初めて、きちんとこちらへ顔を向けた。


「もう少しだけ、いいかな」

「はい」


 俺は、ベルトを外しかけていた手を戻した。


「勝也くんに、1つ、お願いがあるんだ」


 お父さんは、膝の上で手を重ねた。


「これからも、優子のそばにいてやってくれないだろうか」


 俺は頷こうとした。お父さんは、俺の顔を見ながら、続けた。


「家にいる間は、私たちが一緒にいられる。でも、もし学校へ戻る日が来たら、教室にはついていけない。そこで勝也くんの顔を見られたら、優子も、少しは安心できると思うんだ」

「はい」

「学校との話は、私たちと先生で進める。困ったことがあれば、すぐ教えてほしい。そのうえで、できる時に、一緒にいてもらえたら嬉しい」


 俺は頷いた。お父さんは、置いてあった缶へ1度目を落としてから、こちらへ顔を戻した。


「持ってきてくれたノートも、これからどう使うか、私たちで考えていく。先生たちと話す時にも、優子をどう守ってもらうか確かめるためにもね」

「はい。お父さんとお母さんが、必要だと思うようにしてもらえたら」

「うん。預かったからね」


 静かな返事だった。今も、先生たちに自分からあのノートを差し出す気持ちにはなれなかった。けれど、優子のお父さんとお母さんには、全部読んでもらいたかった。そのうえで何が必要かを決めてほしくて、持っていった。


 この人が学校へ見せると決めたことも、もう聞いていた。今後、学校へ渡す方がいいと思うなら、そうしてもらってよかった。使うたびに俺へ確かめてもらうために、渡したのではなかった。


 優子のために考えてくれる人へ、みんなで調べたことを届けられた。そのことは、お父さんと話している今も、間違っていなかったと思えた。


 最初に、みんなへ力を貸してほしいと頼んだ時のことを思い出した。話を聞き、ノートへ書き、なくなった物を探し始めた時から、決めていた。


 2度と、優子がいじめられるようなことはさせない。


 どこで何があったのかを知って、それで終わりにするつもりはなかった。優子が戻ってきたあと、また同じことをされるのなら、見つけた物を返すだけでは足りない。何もされていないか、怖い思いをしていないか。今度は、そばにいて、ちゃんと見ていたかった。


 お父さんに頼まれた今、初めて決めることではなかった。


 俺は、お父さんの目を見て頷いた。


「俺も、そのつもりです」


 すぐに答えた。それでも、まだ伝えたいことがあった。


「俺も、また離れたら、寂しいです。それに……優子が、また1人になったらと思うと、心配で」


 お父さんは、続きを待っていた。俺は、膝の上へ目を落とした。


「俺が引っ越したあと、小学校でも、仲間外れにされてたって聞きました」


 優子のことを調べている間に聞いた話が、頭へ戻った。その頃の優子を、俺は知らなかった。自分の知らない教室で、誰と遊び、どんな顔で帰っていたのかも。


「中学で、やっと会えたのに。朝、話しかけて、返事をしてくれたら、それで大丈夫なんだと思ってました」


 お父さんの方を見た。


「本の話もできたし、隣の席になった時も、嬉しかったんです。でも、優子がそれ以外の時間に、何をされてるのかまでは……」


 少しずつ話せるようになっているつもりだった。優子が返事をしてくれた日のことを覚えている。そのあとで、誰に何を言われていたのかは、知らなかった。


「俺が知らないところで、ずっと続いてて。小学生の時みたいに、もっとそばにいたら……」


 言葉が、少し詰まった。


「あんなにつらい目に、遭わなくて済んだんじゃないかって。今でも、考えるんです」


 お父さんは、しばらく黙っていた。俺が顔を下げると、静かに名前を呼んだ。


「勝也くん」

「……はい」

「優子にひどいことをした人間が悪い。それは、変わらないよ」


 俺は頷いた。そう言ってもらっても、あの時こうしていればと考えることは、すぐにはやめられなかった。


 お父さんは、こちらを見ていた。俺が続きを話すまで、待ってくれた。


「だから、転校しても……また仲間外れにされたり、いじめられたりしたら、どうしようって」


 知らない学校の教室を、うまく思い浮かべることはできなかった。でも、その中で優子が1人で座っているところだけは、浮かんだ。


「今度は、気づこうと思っても、俺、そこにはいないので」


 お父さんの目元が、少し動いた。


「勝也くんも、優子が1人になるのが心配なんだね」

「はい」


 俺は、今度は顔を下げなかった。


「また、何も知らないままになるのは嫌です。近くにいたいです」


 何もなかったのだと思い込んで、先に帰る。大丈夫だと言われたら、安心してしまう。そんなふうには、もうしたくなかった。


「何をしたらいいか、分からない時もあると思います」

「うん」

「でも、話したいことがあったら聞きたいし。1人でいたくない時には、一緒にいたいです」


 白い糸のある手首へ、目を落とした。


「中学でまた優子に会えた時、すごく嬉しかったんです。でも、なんか照れくさくて……昔みたいに、遊ぼうって言うのも、うまくできなくて」


 昔みたいに名前で呼ぶことも、しばらくできなかった。同じ教室にいるのだから、話しかけに行けばいい。それだけのことが、小さい頃のようにはできなかった。


「昔みたいに、一緒に遊びたかったんだね」

「はい。本の話とかはしてたんですけど、本当は、もっと話したかったです。同じクラスにいるのに、前みたいにはいかないのが、ちょっと寂しかったんです」


 少し恥ずかしくなって、膝の上へ目を落とした。こんなことまで話すつもりはなかったけれど、お父さんは、黙って聞いてくれていた。


「だから、今、こうやって一緒にいられるのは……俺も嬉しいんです。優子が、また来てって言ってくれるのも」


 今日も玄関で、明日も来るかと聞かれた。帰る前に次の約束ができるのが嬉しくて、俺も、また明日会えることを楽しみにしていた。


「そうか。勝也くんも、そう思ってくれていたんだね」


 俺は頷いてから、お父さんを見た。


「俺がそばにいるだけで、優子が安心できるなら……優子がもう平気だって思えるまで、ずっとそばにいたいです」


 優子が、ほっとした顔でこちらを見るところが浮かんだ。隣に座って話をする。もう少し一緒にいたいと言われたら、そのまま一緒に過ごす。それで安心してくれるのなら、俺もそこにいたかった。


「学校でも、家で話してる時みたいに、安心して笑ってくれたら嬉しいです。また、一緒に遊んだりもしたいので」


 お父さんが、少し笑った。


「それが、今の優子には、とても嬉しいんだと思う」


 俺は、頷いた。


 今日、優子が笑った顔が浮かんだ。翔太の真似をしたら、口元へ手をやっていた。夕飯の時にも、こちらを見て笑った。


 優子には、笑顔が1番似合う。笑っている顔は、最高に可愛いと思う。小さい頃にも、面白いことがあると、すぐに優子へ教えたくなった。大親友と2人で笑うと、自分だけで面白がっている時より、もっと楽しかった。また、そんな毎日を一緒に過ごしたかった。


「好きな人には、笑顔でいてほしいです」


 お父さんを見て言った。


「優子が笑ってくれるなら、俺にできることは、全部してあげたいんです」


 うまく言えたのかは分からなかった。でも、そこだけは迷わずに言えた。


 お父さんは、少し目を細めた。それから、膝に置いていた手を持ち上げ、俺の肩へ軽く触れた。


「ありがとう。1人で困った時は、私たちにも言ってね」

「はい」


 分からないことまで、できると言うつもりはなかった。優子が困っているなら、また誰かに聞けばいい。学校で何かあったら、お父さんとお母さんへ話せばいい。今日こうして話せたことで、そのことも、前より言いやすくなった。


    * * 泰臣視点 * *


 好きな人、と勝也くんは言った。


 私の目を、まっすぐに見ていた。照れ笑いでごまかすことも、言い直すこともなかった。


 その顔を見ながら、私は、小さい頃の優子を思い出していた。


 仕事から帰ると、今日あったことを話してくれた。隣の家で遊んだ日の話には、何度も同じ名前が出てきた。


「勝也くんがね」


 話し始める前から、笑っていた。何がそんなに楽しかったのか、順番が前後して、聞き直すこともあった。聞けば、また嬉しそうに説明してくれた。


 もう帰ろうと言われて寂しかったことまで、最後には、明日も遊ぶのだと笑っていた。


 あの頃、1度ならず思ったことがあった。


 この子は、そのうち勝也くんと結婚するのかもしれない。


 まだ子供同士のことだった。先のことを決められるはずもなく、本人たちに言ったこともなかった。ただ、娘があまりに楽しそうに名前を呼ぶので、そんな先まで思い浮かべてしまった。


 引っ越してからは、その名前を聞くことが減った。私も、いつしか、あの時に考えた将来のことを思い出さなくなっていた。


 昨夜、娘が最初に口にした「嫌」には、迷いがなかった。けれど、そのあとには目を伏せ、私たちが考えていたことを断ったのを謝った。何度もこちらの顔を確かめながら、また勝也と離れたくないのだと、少しずつ話してくれた。今のように一緒にご飯を食べ、翌日にも会える毎日を続けたい。そんな希望を口にしてよいかまで、気にしていた。


 そして今、勝也くんも離れたくないと答え、好きな人の笑顔のために、できることは全部したいと言っている。娘から聞いた願いと、その返事を重ねていた。


 そばにいてほしいと頼んだ時、私が考えていたのは、学校のことだけではなかった。


 教室で、優子を1人にしないでほしい。そして、学校へ通えるようになってからも、その先も。あの子が楽しそうに名前を呼べる相手で、ずっといてほしかった。


 さっきの返事を聞いて、その気持ちまで伝わったのだと思った。優子がどんな思いでそばにいたがるのかも、この子には、もう届いているのだろう。


 私は、膝の上で重ねていた手を、少し緩めた。


「勝也くん。これからも、末永く、優子のことを頼むね」


 勝也くんが、姿勢を正した。


「はい。俺も、ずっとそばにいたいです」


 返事は、はっきりしていた。その目に、ためらいはなかった。


 私は、ゆっくり頷いた。改めて2人の仲を尋ねる必要は、感じなかった。


「ありがとう」


 そう言うと、勝也くんも、小さく頭を下げた。


    * * 勝也視点 * *


 お父さんが、少し安心したように見えた。


 俺は、優子が学校へ来られるようになった時のことを考えていた。休み時間に、1人で困っていないか。次の教室へ行く時に、置いていかれないか。


 席が隣だったから、一緒にいられた時間もあった。もし席が離れても、休み時間には顔を見に行けばいい。机が隣かどうかだけで、一緒に過ごせる時間を決めたくなかった。


 毎日会って、今までみたいに本の話をする。面白いことがあったら、聞いてもらう。小さい頃みたいに、優子が隣にいる毎日を、これからも続けたかった。困った時だけでなく、楽しい時にも、一緒にいられる親友でいたかった。


 お父さんが、1度窓の方を見てから、こちらへ顔を戻した。


「この前、泊まってくれただろう」

「はい」

「翌朝、よく眠れたと言っていたんだ。あんなふうに、眠れたことを嬉しそうに話すのは、久しぶりだった」


 日曜の朝、俺が起きた時にも、優子は腕の中にいた。俺より先に1度目を覚まし、もう少しそのままでいたくて、また眠ったのだと話してくれた。


 もう少し眠っていたいと言える朝になったことが、俺も嬉しかった。


「来てほしいとか、泊まってほしいとか。自分から言ってくれるようになったことも、私たちは嬉しい」


 お父さんの声が、少し低くなった。


「我慢してから、何でもなかったように笑うことが多かったからね」


 俺は、何も言えなかった。大丈夫だと答えていた顔を、いくつも覚えていた。


「今日も、帰ってきたら話してくれるかな」


 お父さんが、小さく笑った。


「ビーンズサラダのことでも、いいんだけれど」


 俺も、少し笑った。


「それ、話すかもしれないです」

「うん。聞いてみるよ」


 窓の向こうで、誰かが階段を上がっていくのが見えた。俺は、そこでようやく、家の前に着いているのだと、はっきり思った。


「遅くまで、引き止めてしまったね」

「いえ。送っていただいて、ありがとうございました」


 ベルトを外した。リュックサックを持ち上げてから、もう1度お父さんを見た。


「優子には、明日、俺からも話していいですか」

「もちろん」


 お父さんは頷いた。


「聞かせてやってほしい。勝也くんが、今、話してくれたことを」

「はい」


 残っていたコーヒーを飲み、空いた缶も持った。ドアを開けた。外の空気が、頬へ当たった。


 車から降り、振り返って頭を下げた。お父さんは、母さんへよろしく、と言ってくれた。


 車が見えなくなるまで、その場にいた。それから、階段を上がった。


 明日、会ったら話そうと思った。お父さんに頼まれたからではなく、俺も、優子と離れたくないことを。


     * * *


 玄関の鍵を開け、明かりをつけた。母さんは、まだ帰っていなかった。時計を見ると、21時までは少しあった。


 靴を揃え、部屋へ入った。母さんが帰ったら、送ってもらったお礼と、お父さんからよろしくと言われたことを伝えようと思った。


 リュックサックを下ろし、制服のポケットから携帯を出した。優子には、帰ったら連絡すると約束していた。お父さんが家へ戻るのを待つ間、どんな話だったのだろうと気にしているかもしれなかった。優子の名前を選び、文字を打った。


 家に着いたよ。お父さんとも話せた。明日、俺からも話したいことがあるんだ。


 そこまで書いて、手を止めた。これだけを送ったら、優子は、明日まで何を考えるだろう。


 俺は、その下へ続けた。


 俺も、優子と離れたくないよ。明日も、会いに行くね。


 読み直してから、送った。


 明日まで待たなくても、今、伝えられることはあった。その続きを、顔を見て話したかった。


    * * 優子視点 * *


 携帯が鳴った時、私は、居間のソファに座っていた。


 お母さんの隣で、テレビを見ていた。何の番組なのかは、よく分からなかった。門の向こうで車の音がするたび、顔を上げていた。


 画面を開くと、勝也の名前があった。


 家に着いた。お父さんと、話せた。


 そこまで読んで、少し息を止めた。次の言葉へ目を動かした。


 俺も、優子と離れたくないよ。


 携帯を持つ手が、胸の前まで上がった。


「……優子?」


 お母さんの声がした。私は、画面から目を離せなかった。


 俺も、と書いてあった。


 私が離れたくないと言ったことへの返事だった。それだけでなく、俺も、と勝也の気持ちが書いてあった。


 何度読んでも、その2文字で目が止まった。毎日来なければならないと思わせてしまうのではないかと、昨夜から気にしていた。その人から、自分も離れたくないのだと伝えてもらえた。


「勝也が……」


 声にすると、少し震えた。


「離れたくないって……」


 お母さんが、こちらへ顔を向けた。


「そう」


 優しい声だった。続きを急いで聞かれなかったので、私は、もう1度読んだ。


 明日も、会いに行くね。


 学校が怖くなくなったわけではなかった。明日の朝、制服に着替えて出ていけるかと聞かれたら、まだ、すぐには頷けない。


 それでも、また勝也と離れるのは嫌だという私の気持ちに、返事をもらえた。同じように、これからも会いたいと思ってくれている。それが嬉しかった。


 私は、ゆっくり文字を打った。


 ありがとう。私も、勝也に会いたい。明日、待ってるね。


 送ってから、携帯を膝へ置いた。お母さんの肩へ、少し寄りかかった。


 しばらくして、玄関の扉が開く音がした。お父さんが戻ってきた。


 居間へ入ってきたところで、顔を上げた。


「お帰りなさい」

「ただいま」


 お父さんは、私の手にある携帯を見た。


「連絡、来た?」


 頷いた。聞きたかったことは、たくさんあったはずだった。でも、今は、最初に言いたいことが1つあった。


「……話してくれて、ありがとう」


 お父さんが、目を細めた。


「うん。勝也くんも、明日、優子と話したいと言っていたよ」

「……うん」


 私は、携帯を両手で包んだ。明日は、あの声で聞ける。


 顔を見て、私からも伝えたかった。また勝也と離れるのは嫌だから、これからも一緒にいたいこと。そして、勝也もそう思ってくれていたことが、どれだけ嬉しかったかを。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

優子と食べ物や友人の話を楽しみ、帰りの車で泰臣から転校の相談を聞く。再会後の寂しさと、今は一緒にいられて嬉しい気持ちを明かし、優子が安心できるまでそばにいたいと伝える。


・富田 優子

転校の提案にはっきり「嫌」と答えた後、両親に遠慮しながら、また勝也と離れたくない気持ちを説明する。翌日は勝也との時間に笑顔を見せ、夜には勝也も離れたくないと思っていることを知って喜ぶ。


・優子の母(美和)

転校を望まない優子の理由を聞き、勝也との毎日を続けたい気持ちを受け止める。翌日は勝也の好物の話に加わり、唐揚げの夕食を用意する。


・優子の父(泰臣)

優子の希望を聞き、無理に勝也と離さないと約束する。勝也を送る車内で、学校との対応を引き受けながら娘のそばにいてほしいと頼み、勝也の返事に2人の将来への期待も重ねる。


・勝也の母(真紀)

電話で、勝也が泰臣に送ってもらうことを聞く。お礼を伝えるように言い、いつもの時刻に帰宅する予定も知らせる。

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