第30話 もう少し、一緒に
土曜日は、朝から何度も時計を見ていた。
勝也が来るのは、午後1時半だった。昨日、居間で約束した時刻を、起きてからも覚えていた。それでも、まだ午前中だと分かっているのに、食卓の時計へ目が向いた。
「お昼を食べたら、もう少しだね」
お母さんに言われて、頷いた。待っているのが分かってしまったことが、少し恥ずかしかった。
昨日の夜、勝也が帰ってから届いたメールを、もう1度開いた。明日、楽しみにしてるね。その明日が、今日だった。私だけが会いたいと思って待っているわけではない。短い言葉を読み直すと、携帯を閉じてからも、少し口元が緩んだ。
部屋から、昨日読んでいた本を持ってきた。ソファの隣を空け、自分の本だけをテーブルへ置いた。勝也へ貸した方は、まだ帰ってきていなかった。どこまで読んだだろう。好きだったところまで進んでいたら、話せるかもしれない。
昼ご飯のあと、食器を下げてから居間へ戻った。お母さんが引いてくれたカーテンの隙間から、細く光が入っていた。窓に近い方を避けて座り、本を開いたけれど、廊下の音がするたびに顔を上げた。
インターホンが鳴った時には、栞の場所はほとんど変わっていなかった。
「……私、行く」
台所へ声をかけ、本を閉じた。お母さんが頷くのを見て、玄関へ向かった。
門の向こうに、勝也がいた。リュックサックの肩紐を持ち直してから、こちらへ顔を上げた。
「ただいま」
「……お帰り」
門を開け、横へ寄った。勝也が通るところを見ていて、いつもと服が違うことに気づいた。白いYシャツではなく、半袖のシャツだった。下も、学校のズボンではなかった。
「何か、ついてる?」
聞かれて、首を振った。見すぎていた。
「……今日は、制服じゃないね」
「うん。学校がお休みだからね」
勝也が自分の袖を見た。私も同じところへ目を落とした。休みの日だと知っていたのに、昨日と同じ姿で来るところを思い浮かべていた。
「……今日は、早いね」
「うん。今日は、長くいられるね」
門を閉めると、勝也は玄関へ行かずに待っていてくれた。隣へ並び、歩き始めた袖へ指を添えた。いつもならまだ学校にいる時間に、ここへ来てくれた。そのことを確かめるように、玄関まで触れていた。
* * *
「いらっしゃい。おうちの用事は済んだ?」
お母さんが台所から顔を出した。
「はい。昨日は、ごちそうさまでした」
勝也は靴を揃え、リュックサックを持ち直してから、もう1度頭を下げた。
「お邪魔します」
「どうぞ。お昼は食べてきた?」
「はい。食べてきました」
「じゃあ、あとでお茶を持っていくね」
私は先に居間へ入り、テーブルの上の本を少し寄せた。勝也は隣へ座り、リュックサックから、私が貸した本を取り出した。栞が、昨日より後ろにあった。
「そこまで進んだの?」
「うん。午前中、宿題が終わってから読んでたんだ」
「……来る前も?」
「うん。続きが気になって。でも、お昼を作らないと遅れちゃうから、そこでやめてきた」
勝也が本をテーブルへ置いた。私がここで時計を見ていた間、勝也は自分の家で、この続きを読んでいた。ご飯を作って食べて、それから、会いに来てくれた。
今日の午前中が、少しだけ思い浮かべられた。制服ではない袖を見ていると、学校がない日の勝也を、私はあまり知らないのだと気づいた。
「勝也は……お休みの日、いつも何してるの?」
「家にいる時?」
「うん。今日みたいに、ここに来ない時……」
勝也が少し考えた。何を聞かれたのだろう、という顔ではなかった。いくつかある答えの中から、選んでいるように見えた。
「ゲームしたり、漫画を読んだりかな。洗濯とか、宿題が終わったあとだけど」
「……ゲームは、何をするの?」
「今は、モンハンが多いよ。翔太や春樹とやってると、もう1回ってなっちゃって」
勝也は少し笑った。学校で2人と話している時にも、こんな顔をしていた。何か面白いことがあったのだと分かっても、私には、話の途中から聞こえる名前や言葉しか分からないことがあった。
「一緒に集まって、するの?」
「うん。集まってやることもあるし、パソコンで別のゲームをする時は、それぞれの家から遊ぶこともあるよ」
「勝也の部屋に、パソコンがあるの……?」
「あるよ。自分で組んだやつだけど」
私は勝也の顔を見た。言われた言葉を頭の中でもう1度繰り返したけれど、思い浮かぶのは、お店に並んでいるパソコンだった。
「……自分で?」
「うん。ハードオフのジャンクコーナーで、安い部品を探してきて。使える物を集めて、組み立てるんだ」
「パソコンって、作れるの?」
聞くと、勝也が頷いた。
「部品を組み合わせるんだよ。何でも使えるわけじゃないから、買う前に調べないといけないけど」
「すごい……。ちゃんと、動くの?」
「動くよ。そうじゃないと、ゲームできないからね」
笑って言われ、私も少し笑った。動かない物を毎日使っているはずがなかった。それでも、自分で作ったパソコンの前に勝也が座っているところは、すぐには想像できなかった。
「翔太と春樹のも、俺が組んだんだ」
「2人の分も……?」
「うん。できるだけ安くって言われて。部品を探すのも、結構面白いんだよ」
勝也は、説明する間も私の方を見ていた。知らない言葉ばかりにならないようにしてくれているのか、私が頷くと、その先を少し話してくれた。
ゲームで何をするのかだけではなくて、遊ぶための物まで自分で作る。勝也の家で、いつの間にかそんなことができるようになっていた。
「……作るの、好きなんだね」
言ってから、小さい頃のことを思い出した。隣の家へ行けば会えた頃は、何をしているか、わざわざ聞かなくても分かった。今は、同じように隣へ座っていても、初めて聞くことがたくさんあった。
「うん。ゲームしない日は、プラモデルを作ったりするし」
「どんなの?」
「お城。日本のお城のプラモデル」
今度は、形を思い浮かべられた。白い壁や、何枚も重なった屋根のある、小さなお城だった。
「お城が好きなの?」
「うん。戦国時代とか、好きなんだ」
「武将も……好きな人がいるの?」
「うん。信長かな」
織田信長の名前なら、私も知っていた。頷いてから、小さなお城の屋根や窓を思い浮かべた。あれを作るのだと思い、勝也の指先へ目を向けた。
「細かいところも、作るんだね……」
「そうだね。木で作る方は、もっと細かいかも」
「木?」
「お寺とか、塔を作るんだ。割り箸とか、つまようじを使って」
思わず、勝也の方へ体を向けた。
「割り箸……?」
「うん。竹串とか、アイスの棒も使うよ。あとは、ホームセンターにある小さい木材とか」
食卓の引き出しを思い浮かべた。そこにある割り箸と、お寺がうまくつながらなかった。
「そういう、作る物が……売ってるの?」
「材料は買うけど、組み立てる物は、自分で作るんだ。長さを合わせて切って、柱にしたり、屋根にしたり」
「初めから……全部?」
「うん。全部、木で」
勝也が、膝の上に置いた左手を少し持ち上げた。指先が動くのを見ながら、私は小さな柱が何本も並ぶところを思い浮かべようとした。
お店で買った物を説明書どおりに組み立てるだけでも、私には難しそうだった。勝也は、その小さな部品を作るところから始めるのだという。
「5重の塔みたいなのも、木で作るんだよ」
「屋根のところも?」
「うん。何段もあるから、そこが結構大変だけど」
大変だと言いながら、勝也は楽しそうだった。私は、こちらへ向いた手を見た。今は右手をかばっているのに、話していると、作る時のことが浮かぶのだろうか。
「その手で……できるの?」
聞くと、勝也が右手へ目を落とした。
「細かいことは、今はお休み。ちゃんと治ってからにするよ」
頷いた。無理に動かしてほしいわけではなかった。ただ、治ったら、その手で小さな柱や屋根を作るのだと思うと、もう少し話を聞きたくなった。
「時間、かかる……?」
「かかるよ。少しずつ作るから、すぐにはできないんだ」
「途中で、嫌にならないの?」
「うまく合わないと困るけど、形になってくると面白いよ。ここまでできた、って」
勝也は、左手の指を少し曲げた。そこに何かあるわけではなかった。それでも、見えない小さな屋根を、そっと載せているように見えた。
「……見てみたい」
声にしてから、勝也の顔を見た。
「勝也が、作ったの」
「うん。今度、見せるね」
勝也が頷いた。それから、何か思い出したように、あ、と声を出した。
「写真なら、1枚だけ残ってたかも」
「……写真?」
「うん。携帯で撮ったのが。ちょっと待ってね」
勝也は折り畳みの携帯を取り出した。膝の上で開き、左手に持って、親指でボタンを押した。画面が替わるたびに、私は隣から覗き込みそうになった。
「あった。これ」
携帯が、こちらへ向いた。
何枚も屋根が重なった、木の塔が写っていた。
少し顔を近づけた。小さな画面でも、屋根が上へ重なっていく形や、その下に並んだ細い柱が見えた。さっきまで、割り箸を何本か立てたところを思い浮かべていた。写真に写っているのは、ちゃんと建物の形になった、小さな塔だった。
「……これ?」
「うん」
「これを、勝也が作ったの?」
「そうだよ」
画面を見て、勝也を見た。勝也は、さっき材料の名前を教えてくれた時と同じ顔で頷いた。
「すごい……!」
思っていたより、大きな声が出た。
「これ、全部? 屋根も、下のところも?」
「うん。下から少しずつ作って、屋根を載せていくんだ」
「本当に、木だけなの?」
「木を切って、接着剤でくっつけてるよ。細いところは、つまようじとかで」
また写真へ目を戻した。あの小さな木を、切って、並べて、ここまで作る。説明を聞いても、すぐには信じられなかった。
「すごい。勝也、こんなの作れるの……?」
勝也が少し笑った。その返事を聞く前に、廊下からお母さんの声がした。
「何がそんなにすごいの?」
麦茶を載せたお盆を持って、居間へ入ってきた。私は顔を上げた。
「お母さん、見て。これ、勝也が作ったんだって……!」
早く見てほしくて、携帯の方へ右手を向けた。勝也がお母さんにも見えるように、少し画面を起こしてくれた。
「見せてもらってもいい?」
「はい」
お母さんはお盆をテーブルに置き、横から覗き込んだ。
「……えっ。これを?」
私と同じことを聞いた。
「はい。木で作った物です」
「これ、全部作ったの? 勝也くんが?」
「そうなの。割り箸とか、つまようじで……」
勝也より先に答えてしまった。お母さんは、私を見てから、もう1度写真へ顔を戻した。
「ええ、すごい! これが割り箸なの?」
「ほかの木も使ってますけど。竹串とか、小さい板とかです」
「組み立てる部品を買ってくるんじゃなくて?」
「はい。材料を切るところからです」
お母さんが私を見た。私も頷いた。さっき、私も同じことを聞いたのだと伝えたかった。
「すごいよね……!」
「本当ね。こんなに細かいのに」
2人で、また携帯を見た。
「ここの柱も、自分で切ってるの?」
「はい。長さを揃えてから――」
「じゃあ、この屋根も?」
思わず聞くと、勝也がこちらを見て笑った。
「うん。それも俺が作ったよ」
もう聞いたことだった。でも、写真を見ると、もう1度確かめたくなってしまった。
「何だか、さっきから同じことばかり聞いちゃうね」
お母さんが笑った。私も頷いたけれど、まだ画面から目を離せなかった。
「だって……すごいから」
「うん。分かる。お母さんもびっくりしちゃった」
勝也は携帯を持ったまま、少し顔を伏せた。耳の辺りが赤くなっていた。
「そんなに言ってもらうと、ちょっと恥ずかしいです」
「だって、すごいもの。もっと見せてもらってもいい? ほかの写真もある?」
「作った物の写真は、これ1枚しか残ってなくて」
「そうなの。じゃあ、今度は実物も見せてね」
「はい。今度、優子にも見せるって話してたんです」
私も頷いた。実物を見たい気持ちが、さっきよりずっと強くなっていた。横から見たら、どうなっているのだろう。屋根の向こう側にも、同じように細い柱が並んでいるのだろうか。
お母さんはグラスを私たちの前へ置いた。勝也がお礼を言い、私も、ありがとう、と顔を上げた。
「麦茶も飲んでね。2人で聞いてばっかりだったね」
お母さんは最後にもう1度写真を覗き、すごいわねえ、と言いながら台所へ戻っていった。
勝也が携帯をこちらへ向け直した。まだ見ていていいのだと分かり、私はもう少しだけ顔を近づけた。
「……作ってるところも、見てみたい」
言うと、勝也が少し目を丸くした。
「ずっと同じことしてる時もあるよ?」
「それでも、見たい」
勝也は笑って、いいよ、と言った。この塔が、まだばらばらの木だったところから見てみたかった。少しずつ建物になっていくのを、隣で見ていたかった。
「優子も、作ってみたくなったら言ってね」
「……私にも、できる?」
「うん。簡単なところから、一緒にやればいいよ」
私は自分の左手へ目を落とした。今すぐ、何かを作れるかは分からなかった。それでも、手が治ったあとにしてみたいことが、1つできた。勝也の部屋で、隣に座り、小さな木を並べるところを少しだけ思い浮かべた。
「見せてくれて、ありがとう」
「うん。写真、残っててよかった」
勝也が携帯を閉じた。私は右手で麦茶のグラスを持った。冷たさが指に触れて、ずいぶん前へ体を乗り出していたことに気づいた。
「お休みの日、すること、いっぱいあるね」
「その時やりたいことを、やってるだけだよ。漫画を読んでたら、ほかは何も作らずに終わる日もあるし」
「ずっと、おうちにいるの?」
「外にも行くよ。翔太や春樹と、近くの池で釣りしたり」
「釣りも……?」
勝也が頷いた。私はまた、新しく聞いたことを頭の中へ並べた。
「何が釣れるの?」
「ブラックバス。釣れない日もあるけどね」
「釣れなかったら……何してるの?」
「釣れるかなって待ちながら、3人で話してる。別の話で盛り上がっちゃうこともあるよ」
勝也が笑ったので、私も口元が緩んだ。学校で見ていた3人が、池のそばに並んでいるところなら、少し想像できた。
「……楽しそう」
「うん。楽しいよ」
麦茶をひと口飲んでから、もう1度勝也を見た。話を聞くたびに、知らなかった時間が少しずつ形になっていった。学校で会えない時間にも、勝也には楽しみにしていることがあった。友達と遊ぶ日も、1人で好きな物を作る日もあった。
今日は、その時間を私と過ごしてくれていた。
「……今日も、何かするつもりだった?」
聞くと、勝也がこちらへ顔を向けた。
「優子のところへ来るつもりだったよ。昨日、約束したから」
それは知っていた。でも、もっと別のことをしたかったのではないかと思ったのが、伝わったのかもしれなかった。勝也は、私の前に置かれた本へ目を向けた。
「ここで一緒に話したり、本を読んだりするのも、楽しいよ」
「……うん」
返事をすると、勝也は麦茶を置いた。私もグラスを戻し、その隣にある本を見た。
「いっぱい、聞いちゃったね」
「ううん。また聞いて。優子の好きなものも、教えてね」
頷いた。何から話そうかと思うと、膝の上の手に少し力が入った。全部を今、言わなくても、また聞いていいと言ってくれた。
「その本の続き……読んでもいいよ」
「うん。優子も読む?」
自分の本を持ち上げて見せると、勝也が栞を抜いた。紙のカバーが指の下で小さく鳴った。私はページを開き、隣で同じように本を持つ手を、もう1度だけ見た。
パソコンを組み立てたり、小さな塔を作ったりする手だった。今は、私が貸した本を持っていた。
しばらくして、勝也が少し笑った。
「そこ?」
開いているページを見て聞くと、頷いた。
「うん。さっきまで、うまくいくと思ってたのに」
私もその先の場面を思い出して、口元が緩んだ。続きを言いそうになって、口を閉じた。勝也は結末を聞かずに、またページへ目を戻した。
同じところで笑ってもらえた。私の好きな物も、こうして知ってもらえるのだと思うと、隣にいることが、さっきより少し嬉しかった。
* * *
午後は、本を読んだり、また少し話したりして過ぎた。テレビをつけると、画面には知らない町の商店街が映っていた。お店の前で、猫が丸くなって眠っていた。話しかけている人がしゃがんでも、顔を少し上げただけだった。
「起きないね」
「あれだけ話しかけられても、寝ちゃうんだね」
画面の中の人が立ち上がると、猫も目を開けた。でも、すぐに元の姿勢へ戻った。
「……寝た」
「うん。用事、なかったみたい」
笑ってしまった。隣でも勝也が笑っていた。さっき聞いた話も、今、一緒に見ているものも、もう少し続きを知りたかった。私は肩が勝也の腕に触れるところまで寄った。
勝也が座る場所を少し空けてくれたので、背もたれへ体を預けた。聞きたいことがなくなって黙っているのではなかった。そばにいると、言葉にするのを少し待っても大丈夫だった。
台所から包丁の音が聞こえ始めた。しばらくすると、煮物の匂いがした。
勝也が時計を見た。
「……そろそろ、帰る準備しようかな」
私は背もたれから体を起こした。触れていた肩が離れたところへ、空気が入った。
「ご飯……?」
「うん。帰って、用意しようと思って」
勝也が本へ手を伸ばした。さっきまで読んでいた物が、またリュックサックへ戻る。そのあとは、玄関へ向かうのだと思った。
今日は長くいられると言ってくれた。本当に、いつもより長く一緒だった。それなのに、もう帰ってしまうのだと考えると、テレビの声が頭に入らなくなった。
お母さんが居間へ来た。
「勝也くん、これから自分で作るの?」
「はい。母さん、仕事から帰るのが、いつも21時くらいなので」
「普段は、その時間なのね。昨日は、学校へ行く時間を作ってくれたのね」
「今日は、肉を焼いてご飯と食べようと思ってました。普段も、焼いたり炒めたりするだけの物ばかりです」
勝也は、本へ指を挟んだまま答えた。これからすることを尋ねられて、そのまま教えている声だった。
「お母さんを待って、一緒に食べるの?」
「いえ。いつも、先に食べてます」
「……1人で?」
私が聞くと、勝也はこちらを向いた。
「うん。引っ越してからは、だいたい1人だよ。作って、洗って。母さんが帰る頃は、宿題したり、テレビ見たりしてる」
私は、台所の方を見た。お母さんが用意してくれるご飯を、毎日食べていた。お父さんの帰りが遅くても、食卓にはお母さんがいた。
勝也が引っ越してからの夕飯を、私は知らなかった。さっき聞いたゲームや模型の話からは、楽しそうな部屋ばかり思い浮かべていた。その前には、ご飯を作り、1人で食べて、片づける時間もあった。時々1人で食べる日があるという話ではないのだと、少し遅れて分かった。
「よかったら、今日はここで食べていかない?」
お母さんが言った。勝也が顔を上げたので、私もお母さんを見た。
「……いいんですか」
「うん。今、夕飯を作っているところだから」
私は勝也を見て、またお母さんへ顔を戻した。うまく言葉が出なかった。今から作っているご飯を、勝也にも食べてもらえるのだろうか。
「母さんに聞いてからで……」
「もちろん、先にお母さんへ聞いてからね。もう用意している物があれば、無理にとは言わないよ」
「少し、電話してもいいですか」
「うん。私も、あとで代わってもらえる?」
勝也が携帯を取り出した。私は、立ち上がらずに待った。まだ駄目だと言われるかもしれない。そう思うのに、勝也の本を片づける場所を、もう考えなくなっていた。
* * *
「今、話しても大丈夫?」
勝也が携帯へ声を向けた。相手の声は、私のいるところからは聞き取れなかった。
「まだ、優子の家にいるんだけど。夕飯、食べていかないかって誘ってもらって」
返事を待つ間、私は膝の上で指を重ねた。
「うん。冷蔵庫の肉、今日は使わなくてもいい?」
少しして、勝也が頷いた。俺もそう思ってた、と笑ったので、怒られてはいないようだった。
勝也がこちらを見た。目が合うと、私も顔を上げた。
「……うん。いただいていきたい」
声にしてくれた。隣に座ったまま、その言葉を聞けたことが嬉しかった。
「うん。優子のお母さんも、話したいって」
携帯がお母さんへ渡った。
「もしもし、美和です。お仕事中に、ごめんなさいね」
お母さんは、今日の午後も勝也が来てくれたことを話した。これから帰ってご飯を作ると聞いたから、と続け、私たちへ目を向けた。
「よかったら、来てくれる日は、うちで夕飯も一緒にどうかと思って」
今日だけではなかった。
勝也も、少し背筋を伸ばした。私も姿勢を直したけれど、お母さんの方を見続けてはいられなかった。
「いつも食べるご飯を、1人分多く作るだけだから。私の方は、大丈夫よ」
お母さんは返事を聞き、頷いた。
「真紀さんも、帰ってからの用事が少し減るでしょう。優子も喜ぶから、うちも助かるの」
膝の上の指を止めた。そう思っていることを、勝也のいるところで言われてしまった。テレビへ目を向けたけれど、画面の中に何が映っているか、やっぱり分からなかった。
「ええ。2人がいいなら、そのつもりで。予定が変わる時には、早めに分かるようにしようね」
勝也がテーブルへ本を置いた。帰る前にリュックサックへ入れるはずだった物が、私の本の隣に残った。
「うん。こちらこそ、ありがとう。また、お仕事のない時にゆっくり話そうね」
お母さんが携帯を返した。勝也はもう少し話を聞き、分かった、と返事をした。
「ご飯がいらない日は、早めに言うよ。うん。ありがとう」
電話を切り、お母さんへ頭を下げた。
「ありがとうございます。夕飯、いただきます」
「はい。もう少し待っていてね」
お母さんが台所へ戻るのを見送ってから、勝也へ向き直った。
「……一緒に、食べる?」
「うん。今日は、一緒だね」
頷いた。唇を結んでも、すぐに緩んでしまった。もう分かっていることを、もう1度尋ねてしまった。でも、勝也は同じことを聞くのかとは言わなかった。
「まだ、片づけなくてよかったね」
「……うん」
テーブルの本を見て答えた。そのまま隣へ寄ると、さっきと同じように肩が触れた。テレビは、いつの間にか違う番組になっていた。2人で画面を確かめ、途中から見始めた。
* * *
夕飯の支度ができる頃、勝也が台所の入口へ立った。
「何か、運びます」
「じゃあ、お箸をお願いしてもいい? 優子、出すところを教えてあげて」
私も横へ行き、引き出しを開けた。自分の箸と、お母さんの箸を取った。それから、勝也の分を選んだ。
「勝也は……これで、いい?」
「うん。ありがとう」
箸先を揃えて渡した。勝也が受け取り、食卓へ運んでくれたので、私は自分の席を示した。その隣へ、もう1組を置いた。
勝也は、そこへ茶碗を運んだ。向かいには、お母さんの分を置いた。
「お父さんは、遅いから。今日は、先に3人で食べましょう」
お母さんが小鉢を並べた。肉じゃがと冷やした豆腐があった。味噌汁のお椀から、湯気が上がっていた。
勝也がお礼を言って茶碗を受け取った。自分で選んだ箸の前へ座ってくれたのを見てから、私も隣へ座った。
「ご飯、足りなかったら言ってね」
「はい。ありがとうございます」
3人で、手を合わせた。
「いただきます」
隣からも同じ声がした。勝也はじゃがいもを箸で割り、小さくして口へ入れた。すぐに噛まず、少し目を細めた。
「熱かった?」
お母さんに聞かれて頷き、飲み込んでから答えた。
「でも、おいしいです」
「よかった。まだ熱いから、気をつけてね」
私は自分のじゃがいもを、勝也より小さく割った。少し待ってから口へ運んだのに、中はまだ熱かった。
「……熱い」
勝也が笑った。私も、口元を手で隠した。
「小さくしたのにね」
頷いた。お母さんが水のコップを寄せてくれたので、少し飲んだ。
勝也は豆腐を取り、茶碗を手前へ寄せた。お母さんから醤油を受け取ると、私の手の届くところへ回してくれた。
「ありがとう」
声をかけると、頷いてご飯を食べた。そのあとも、肉じゃがへ箸を伸ばした。
「これ、味がしみてて、おいしいですね」
「そう言ってもらえると、作った甲斐があるね」
お母さんが笑った。私も茶碗を持ち直した。勝也の箸は止まらず、隣から食器の触れる小さな音が聞こえた。
勝也の茶碗から、ご飯が減っていった。
さっきまで、夕飯の匂いがすると、もう帰る時刻なのだと思っていた。今日は、そのご飯を、勝也も食べていた。
私の隣で、お母さんに、おいしいと言った。お母さんは、嬉しそうに笑った。
自分が作ったわけではないのに、私まで嬉しかった。
「普段は、どんな物を作るの?」
お母さんが聞いた。勝也は、口の中の物を飲み込んでから答えた。
「肉を焼いたり、焼きそばとか、チャーハンとかです。だいたい、フライパンでできる物ですね」
「お肉は、味のついている物?」
「そういう時もありますけど、ついてないのも焼きます。塩コショウを振れば、おいしいので」
勝也は、肉じゃがの皿へ目を向けた。
「バターで焼いて、塩コショウにしたり、醤油を入れたり。焼き肉のたれも使います」
「味を替えるのね」
「はい。焼いて、味をつけたら、そこにご飯を入れて食べます」
「そこに……?」
私が聞くと、勝也はこちらを向いた。
「フライパンに。肉の横に、ご飯を盛るんだ」
「……炒めるの?」
「ううん。そのまま。お皿の代わりにして、そこから食べるの」
私は、勝也の前の茶碗を見た。肉じゃがの皿と、豆腐の小鉢と、味噌汁のお椀が並んでいた。それが、家ではフライパン1つになる。
「ソーセージとか、ベーコンを焼いた時も同じ。ご飯を入れたら、もう食べられるから」
「お皿は……使わないの?」
「うん。移さなくていいし、洗う物も少なくて済むよ」
勝也は、少し笑って言った。困っているようには見えなかった。私には、熱いフライパンを自分の前へ置いて、ご飯を食べるところが、なかなか思い浮かばなかった。
「たれがご飯につくと、おいしいんだよ。今日のお昼も、それだった」
「今日は、お肉……?」
「うん。肉とご飯。夜も、そのつもりだったよ」
箸を持った手を止めた。お母さんは、お肉の日にも、野菜のおかずや汁物を用意してくれた。自分で作ったことのない物が、毎日、いくつもお皿に載っていた。
「焼きそばは、何を入れるの?」
お母さんが尋ねると、勝也は少し考えた。
「肉があれば肉を入れたり、野菜だけの時もあります。両方入れる時も。何も入れない時もありますけど」
「……麺だけ?」
「うん。ついてるソースを入れれば、味はするから」
勝也が頷いた。お母さんは、なるほどね、と笑って聞いていた。
「塩焼きそばにすることもあるよ」
「そっちは、どうするの?」
「ソースを使わずに、塩を入れるだけ」
そのあとを待っていたけれど、勝也は味噌汁をひと口飲んだ。どうやら、それで出来上がりらしかった。
「……それだけ?」
「うん。麺だけでも、具を入れても。好きな方にするよ」
あまりに簡単そうに答えるので、少し笑ってしまった。勝也も、私を見て笑った。
「本当に、焼くだけなんだね」
「そうだね。袋のラーメンは、茹でるけど」
「ラーメンも、作るの?」
「うん。フライパンにお湯を沸かして、麺を入れて」
また、フライパンだった。私は、思い浮かべた丼を頭の中で消した。
「それも……そのまま?」
「うん。スープを入れたら、そこから食べるよ」
お母さんが、口元を緩めた。
「フライパンが、忙しいね」
「大体それで済むんです。卵も焼けるし」
「卵は、目玉焼き?」
「はい。スクランブルエッグにする時もあります」
焼く物が、また増えた。勝也は特別な料理を教えているような顔をしていなかった。家にある物を、焼いたり、炒めたりして食べる。それで、1人分のご飯ができるのだと言った。
「チャーハンは……?」
「カニカマを入れるよ。ほぐして、ご飯と炒めるんだ」
「それも、フライパンから?」
聞いた途端、勝也が笑った。
「うん。せっかくそこにあるからね」
私も、少し笑った。いちいちお皿へ移す方が不思議なのかもしれなかった。焼きそばも、チャーハンも、食べ終われば、同じフライパンが空になる。
「ご飯……足りてる?」
聞くと、勝也は少し驚いた顔をした。それから、柔らかく笑った。
「うん。けっこうたくさん作るよ。今日も、お腹いっぱい食べてきたから」
「……お腹、空かない?」
「大丈夫。好きな味にして、食べたいだけ作ってるから、結構満足してるんだ」
その声に、無理をしている感じはなかった。お肉だけを、毎日同じ味で食べているわけではない。野菜を入れる日もあって、卵や麺も、自分で選んで作っていた。
それでも、具のない焼きそばだけの日や、お肉とご飯だけの日もあるのだと思うと、少し心配だった。私は自分の前に並んだ小鉢を見た。何をどれくらい食べればいいのか、毎日自分で考えたことはなかった。勝也が1人で済ませていることを、私はお母さんにしてもらっていた。
お母さんが、豆腐の皿を少し手前へ寄せた。
「1人分だと、手早く作れるものになるよね。じゃあ、ここでは、いろいろ食べていってね」
「はい。こういうご飯も、すごく好きです」
勝也が、肉じゃがへ箸を伸ばした。野菜も一緒に口へ運び、おいしそうに食べた。
私は、それを見て、少しほっとした。
夕飯を一緒に食べる日が増えたら、長くそばにいてもらえる。さっきまでは、それが嬉しかった。今は、お母さんの作ったご飯を、勝也にも食べてほしかった。
お母さんは、家での勝也の話を聞いていた。この間、私が学校でされたことを話していた時とは、声が違った。勝也も、何を聞かれるのか待つように、背中を固くしてはいなかった。
私は、味噌汁を飲んだ。温かさが、喉を通っていった。
昨日までの食事も、お母さんが用意してくれていた。食べやすい物を選び、量も少なくしてくれていた。それでも、途中で箸が止まってしまうことがあった。
今日は、勝也がおいしいと言ったところを、私も食べてみたくなった。同じ煮汁のついた玉ねぎを取った。
甘かった。
勝也は、豆腐を食べていた。今、話しかけたら、口に入っているから少し待つのだろうと思った。それを待つことさえ、楽しかった。
学校の給食の時間を、少しだけ思い出した。誰がどこにいるかを気にして、早く終わってほしいと思った日があった。
今は、茶碗の中が減っていくのが寂しかった。
食べ終えたら、勝也は帰るのだろうか。まだ、こんなに近くにいるのに。
箸が止まった。勝也が、それに気づいた。
「どうしたの……?」
「……ううん」
首を振りかけて、やめた。お母さんも、向かいにいた。聞こえるところで言うのは恥ずかしかった。
でも、このまま黙っていたら、食べられなくなったのだと思われるかもしれなかった。
「ご飯のあとも……少し、いてくれる?」
勝也は、私の顔を見た。
「うん。お茶をいただいてから、帰ろうと思ってたよ」
「……そう、なの?」
「うん。食べたらすぐ、ってことはないよ」
お母さんが、何も言わずに笑った。私は顔を伏せた。聞かれていたことが、返事をもらったあとで恥ずかしくなった。
勝也は、また箸を動かした。
「優子も、ゆっくり食べてね」
頷いた。残っていたじゃがいもを、少しずつ口へ運んだ。
食べ終わらないように残しておかなくても、隣にいてもらえた。私は、茶碗に残ったご飯を集めた。
* * *
勝也は、ごちそうさまでした、と言ってから、もう1度お母さんへ礼を言った。
「すごくおいしかったです。ありがとうございました」
「こちらこそ。きれいに食べてくれて、ありがとう」
茶碗も、小鉢も空になっていた。私は、自分の皿を見た。まだ少し残っていたけれど、いつもより食べられていた。
お母さんは、そのことを大きな声で言わなかった。もう少し食べるかと聞き、私が頷くと、先に勝也のお皿だけを下げた。
勝也も立って、茶碗を運んだ。私は、台所へ行く背中を見た。
「洗います」
声が聞こえた。
「今日は、置いておいてくれればいいよ。優子、まだ食べているから」
お母さんが言うと、勝也はこちらを見た。私が箸を持ったままだと分かり、戻ってきた。
「お先に食べ終わっちゃったね」
「ううん……」
勝也は、隣へ座り直した。自分の食器がなくても、ここにいてくれた。
私は、残った豆腐を食べた。最後に少しだけ味噌汁を飲み、箸を置いた。
「……ごちそうさまでした」
台所のお母さんへ、声を向けた。お母さんが振り返り、はい、と答えた。
お箸を下げる時、流しのそばに勝也の使ったものがあった。私の分も置くと、2膳並んだ。
私たちの、今日使ったお箸だった。
お母さんが、お茶を入れてくれた。勝也が左手で1つずつ湯呑みを運び、私はテーブルの上を拭いた。左手に力を入れずにできるところだけ、ゆっくり拭いた。
勝也は、拭き終わったところへ湯呑みを置いた。
「ここでいい?」
「うん。ありがとう」
席へ戻ると、お茶の向こうに勝也がいた。テレビを見にソファへ行ってもよかった。でも、私は、もう少しこの椅子に座っていたかった。
お母さんもお茶を持ってきた。3人で、もう1度テーブルを囲んだ。
湯呑みを持つと、指の先が温かくなった。お母さんが、勝也へ今日読んでいた本のことを尋ねた。勝也はまだ途中だと言い、私を見た。
「明日までに、読み終わるかな」
私も本の厚さを思い浮かべ、首を少し傾けた。急いで終わらせてほしいわけではなかった。読んでいる途中で顔を上げ、今のところ、と話しかけてくれる時間も好きだった。
「……ゆっくりで、いいよ」
「うん。じゃあ、もう少し借りてるね」
頷いた。貸している本が勝也の荷物に入って、明日、また戻ってくる。その時には栞の場所が変わっているかもしれなかった。
勝也が時計を見た。今度こそ帰る支度をするのだと思うと、私も湯呑みを置いた。
夕飯のあとまで、一緒にいてくれた。さっきまで欲しかった時間は、ちゃんともらえた。それでも、もう少しと思ってしまった。今日、初めて聞いたことがたくさんあった。ゲームのことも、小さな木で作るお寺のことも、また続きを聞きたかった。けれど、話したいことが残っているだけではなかった。昨夜、部屋へ戻って服を畳んだ時の寂しさを思い出すと、今夜も1人で目を閉じるまでの時間が長く感じられた。
お母さんが、自分の湯呑みを少し脇へ寄せた。
「……お母さん」
呼ぶと、こちらを見た。
「どうしたの?」
勝也も顔を上げた。2人に見られると、考えていた言葉が出なくなった。私は服の裾から手を離し、もう1度お母さんを見た。
「今日……勝也に、泊まってもらうのは……駄目?」
言い終わる前から、顔が熱かった。泊まる支度をして来てくれたわけではない。明日も休みだから大丈夫かもしれないと思っただけで、勝也の予定を聞いたわけでもなかった。お母さんはすぐに返事をせず、私の顔を見ていた。
「今夜も、いてもらいたい?」
頷いた。今ここで首を横に振ったら、勝也は帰ってしまう。そう思うと、うまく笑ってごまかすこともできなかった。
「お母さんは、いいよ。お父さんにも聞いてみようね。それから、勝也くんと、真紀さんにも」
私はまだ、勝也に返事をもらっていなかった。お母さんにお願いすることばかり考えていて、本人へ言う前に話が進んでしまった。リュックサックへ手を伸ばしかけていた勝也の方へ、体を向けた。
「勝也……」
「うん」
いつもの声だった。言えなくなりそうなところで待ってくれる声を聞き、私は顔を上げた。
「今日、泊まってほしい……」
勝也が、荷物から手を戻した。
「うん、いいよ。母さんに聞いてみるね」
勝也の手が、テーブルの上に置いた私の右手へ触れた。
「昔も、よく泊まったよね」
お隣だった頃は、夕方になっても帰りたくなくて、お母さんたちにお願いした。今は、あの頃よりずっと、声にするのが難しかった。
勝也は返事を急かさず、私が頷くと、そっと手を握ってくれた。頼んでもよかったのだと思うと、ようやく息を吐けた。
お母さんが携帯を取り出し、お父さんへ電話をかけた。勝也が夕飯を食べていってくれたことを話してから、私を見た。
「優子が、今夜、泊まってもらいたいって。勝也くんも、いいよと言ってくれているの」
お母さんは少し聞いてから頷き、携帯を私へ差し出した。
「お父さん、優子と話したいって」
右手で受け取り、耳へ当てた。聞こえてきた声に、小さく返事をした。
『勝也くんに、泊まってもらいたいの?』
「……うん」
隣に勝也がいるのに、声にすると、また恥ずかしくなった。
「もう少し……一緒に、いたい」
お父さんは、すぐには何も言わなかった。駄目だと言われるのだろうかと思い、携帯を持ち直した。
『そうか。勝也くんと、おうちの方がよければ、泊まってもらおう』
顔を上げた。勝也がこちらを見ていた。
「……ありがとう」
『お父さんも、帰ったら挨拶するね』
「うん」
携帯をお母さんへ返した。お父さんにも、そばにいてほしいと伝えられた。そのことが嬉しくて、膝に置いた手へ目を落とした。
「お父さんも……いいって」
勝也が頷き、自分の携帯を取り出した。番号を選び、耳へ当てるところを見ていた。私は隣の椅子に座ったまま、膝の上へ両手を置いた。
「今、少し話しても大丈夫?」
返事を聞いてから、勝也は私を見た。
「あのさ。今日、こっちに泊まってもいい?」
携帯の向こうで、何か声がした。言葉までは聞き取れなかった。私は服の裾を指で握った。急に頼んだせいで、困らせてしまっているかもしれなかった。
「優子が、泊まってほしいって。お父さんとお母さんには、いいって言ってもらったんだけど」
勝也が、こちらへ顔を向けた。
「俺も、泊まりたいんだ」
目が合った。勝也が小さく頷いてくれたので、握っていた服から指を離した。
少しして、携帯がお母さんへ渡った。
「急なお願いで、ごめんね。客間は使えるし、寝る時の服もあるから、こちらは大丈夫なんだけど」
お母さんは返事を聞きながら頷いた。
「うん。優子が、自分から言ったの。勝也くんも泊まりたいと言ってくれて」
顔を伏せた。さっきは自分でも言えたのに、人に伝えられると、恥ずかしかった。勝也はリュックサックを壁際へ寄せた。玄関へ持っていくところを考えていた荷物が、まだ居間に残っていた。
お母さんが話を終え、携帯を返した。
「うん。ありがとう。明日は、午前中に1度帰るよ。着替えも持ってきてないから」
勝也はもう少し聞いてから、分かった、と言った。
私は、その袖へ触れた。顔を向けてくれたので、小さな声で、お礼、と伝えた。勝也は頷いた。
「母さん。優子がお礼を言いたいって。代わってもいい?」
携帯が私の前へ来た。右手で受け取り、耳へ当てた。
『こんばんは、優子ちゃん』
「……こんばんは。あの、ありがとうございます」
言ったあとで、これだけで伝わるだろうかと思った。泊まってもいいと言ってくれたお礼だった。でも、その言葉を続ける前に、声が返ってきた。
『ううん。こちらこそ。お父さんとお母さんにも、よろしくね』
「はい……」
勝也へ携帯を返すと、2人とも夜更かししすぎないようにと言われたよ、と教えてくれた。頷くと、勝也も少し笑った。
「うん。分かった。じゃあ、また明日ね」
電話を切り、携帯を閉じた。
「いいって。今日は、泊まれるよ」
もう1度頷いた。何度も聞いたり確かめたりしなくても、本当にいてくれるのだと、ようやく思えた。
「……ありがとう」
「うん」
勝也が、お母さんへ頭を下げた。
「急にすみません。今日は、よろしくお願いします」
「うん。ゆっくりしていって」
お母さんは、寝る時の服を探してくると言った。
「恒一の物が置いてあるから、少し借りようね。大きいかもしれないけど」
「ありがとうございます」
居間を出ていく背中を見送った。お兄ちゃんの服を着た勝也を、まだ思い浮かべられなかった。でも、着替えまで用意してもらえたら、もう帰る支度をしなくてよかった。
勝也の左手へ、右手を触れさせた。そのまま握ってもらうと、指の間が温かくなった。
「……無理、してない?」
聞くと、勝也はこちらを向いた。
「してないよ」
私が頷くまで待って、それから少し声を落とした。
「話を聞いてから、心配だったから。そばにいて、少しでも楽になるなら、そうしてあげたいんだ」
私は、つないだ手を見た。自分で命を絶とうとしたことも、勝也は知っていた。そのことを思い出すと、すぐには顔を上げられなかった。
手を握る力は、変わらなかった。
「できることがあったら、言ってね。今日みたいに」
ゆっくり頷いた。もう平気だと言えなくても、そばにいてほしいと頼めた。それを、してはいけないことにはされなかった。
「昔も、こうやって泊めてもらってたしね」
顔を上げると、勝也が少し笑った。
「家が隣なのに、わざわざ着替えを取りに帰って」
「……うん」
「お母さんたちもいいって言ってくれたし。今日は、ここにいようと思ったんだ」
私は勝也の指を握り直した。今夜も帰らずにいてくれる。そのことを考えると、肩の辺りに入っていた力が、少しずつ抜けた。
「……朝も」
「うん?」
「いるんだね」
「うん。起きたら、また話せるね」
今度は、顔を見て頷けた。
* * *
しばらくして、玄関の開く音がした。お父さんの声がすると、勝也が椅子から立った。私も隣へ行った。
「こんばんは。今日は、泊めていただいて、ありがとうございます」
「うん。ゆっくりしていってね」
お父さんは鞄を置き、私へも顔を向けた。
「電話、ありがとう。優子からも聞けて、よかったよ」
頷いた。さっき携帯へ話したことを、今、もう1度言うのは恥ずかしかった。お父さんは返事を重ねて求めず、上着を椅子へ掛けた。
「今日は、何をしていたの?」
「いろいろ話したり、本を読んだりしてました。テレビも見て。借りてる本は、まだ最後まで読めてないんですけど」
勝也がリュックサックへ目を向けた。私も、借りてもらっている本を思い浮かべた。
「続きは、明日の楽しみにできるね」
「はい」
お父さんが座ったので、私たちも椅子へ戻った。向かいでお父さんが、勝也へ顔を向けた。
「今日も、優子と過ごしてくれて、ありがとう」
「いえ。俺も、楽しかったです」
その返事を聞くと、私も嬉しかった。木でお寺を作る話をしてくれた顔や、テレビの猫を見て一緒に笑ったことを思い出した。私ばかりが楽しかったわけではないのだと、今も聞けた。
「勝也くんにも予定があるから、毎回、同じようにはできないだろう。でも、今日は2人とも、そうしたいと思えたんだね」
「はい。俺がいると、少し安心できるみたいなので。泊まっても大丈夫なら、そうしてあげたくて」
お父さんが、私を見た。私は勝也の横で頷いた。
「ありがとう。今夜は、ゆっくりしていってね」
そう言ってから、勝也の右手へ目を向けた。
「布団は、私が運ぶよ。勝也くんは荷物を置いておいて」
「すみません。ありがとうございます」
客間へ行く時、私もついていった。お父さんが布団を運び、お母さんが枕元へ小さな明かりを用意した。勝也はリュックサックを壁際へ置いた。
いつもは帰る時に持っていた荷物が、布団のそばにあった。
「ここを借りるね」
勝也に言われて、頷いた。お客さんに使ってもらう部屋だと、前から知っていた。でも、今夜は、勝也が眠る部屋になった。
お母さんが持ってきた服を、勝也が受け取った。少し大きいかもしれないね、と言われ、広げてから笑った。
「ありがとうございます。お借りします」
私はその袖を見ていた。普段の服を着た勝也を、今日、玄関で見たばかりだった。夜になっても、また別の姿を見られる。そんなことも、泊まってもらえるまで考えていなかった。
* * *
勝也がお風呂へ入っている間、私は自分の部屋で寝間着へ着替えた。昨夜は、脱いだ服に残った勝也の香りを思い出しながら、1人で布団へ入った。今日は、すぐ近くに勝也がいた。
居間へ戻って待っていると、勝也がお兄ちゃんの服を着て入ってきた。知っている服なのに、勝也が着ると違って見えた。袖が少し余っているのも、昼間とは違う服で隣に座っているのも、何度も見たくなった。
「変かな」
勝也が、自分の袖を見た。私は首を横に振った。
「……大きいね」
「うん。でも、寝るのは楽そう」
ズボンの裾も折ってあった。隣へ座った勝也の服を、また見てしまった。
「本当に、泊まるんだね」
「うん」
返事を聞いて、顔を上げた。勝也が座り直しても、帰る準備なのかと手元を追わずにいられた。今日はもう続きを見ないことにして、テレビの面白かったところを少しだけ話した。
テレビを消したあとも、勝也はそこにいた。お父さんがお茶を入れ、お母さんが客間に置くタオルを持って通る。そのたびに、勝也が礼を言った。いつもなら玄関へ向かう時間は、もう過ぎていた。
帰らなくていいのだと思うと嬉しくて、眠くなっても、すぐには立ちたくなかった。あくびを手で隠すと、勝也がこちらを見た。
「眠くなってきた?」
頷いた。寝てしまうのがもったいないけれど、目を開けているのも少しつらかった。
「じゃあ、そろそろ寝ようか。明日もお休みだし、ゆっくり起きればいいよ」
私は頷き、お父さんとお母さんへ、おやすみなさいと言った。勝也も同じように挨拶し、私の隣を歩いた。客間の前で立ち止まると、勝也がこちらへ体を向けた。
「おやすみ、優子。また朝ね」
「……おやすみ」
自分の部屋へ戻った。ベッドに座り、枕へ手を置く。明日の朝も、同じ家にいる。それだけで、さっきまでは十分嬉しかった。けれど、部屋のドアを閉めると勝也の声は聞こえなくなった。今なら、まだ起きている。すぐ近くにいるのに、1人で目を閉じるのが寂しかった。
枕を持って立ち上がった。廊下へ出てから、まだ何も聞いていないことに気づいた。それでも、部屋へ戻すと、もう1度ここまで来る勇気が出ない気がした。客間の前まで歩き、空いている手で、小さくドアを叩いた。
「……勝也」
すぐに返事があった。ドアが開くと、勝也の目が私の抱えた枕へ動いた。
「優子、どうしたの……?」
少しかがんで、顔を見てくれた。
「もう、寝る?」
「うん。横になろうとしてたよ」
その向こうに、布団が見えた。枕元へ携帯が置かれ、リュックサックは壁際にあった。朝まで、ここにいてくれる支度だった。
「……一緒に、寝てもいい?」
枕を抱え直した。泊まってもらえただけで嬉しかったのに、また次のお願いをしていた。顔を見られなくなり、勝也の袖の先へ目を落とした。その手が、私の肩へそっと触れた。
「うん。一緒に寝ようか」
顔を上げた。勝也は困った顔をしていなかった。
「お母さんに、布団がもう1組あるか聞いてみよう。俺も一緒に行くね」
頷いた。戻る時には、来た時ほど足が重くなかった。勝也が隣を歩き、私の歩く速さに合わせてくれた。お母さんは居間で、テーブルの上を拭いていた。私が枕を持っているのを見て、手を止めた。
「お母さん……客間で、勝也と寝てもいい?」
お母さんが私たちを順に見た。少し驚いたようだったが、すぐに何かを言うことはなかった。
「心細くなった?」
頷いてから、勝也を見た。
「一緒に、いたくて……」
怖さだけではなかった。勝也のそばにいられる時間を、もう少し長くしたかった。眠くなっても、離れずにいたかった。お母さんは布巾を置いた。
「分かった。隣へ敷こうね」
勝也にも確かめると、俺も一緒にいたいです、と返事があった。私が頼んでよかったのかと迷う前に、同じ気持ちだと教えてくれた。お父さんが布団を運んでくれた。勝也が手を出そうとすると、枕を置いておいて、と言われていた。お母さんが初めの布団を少し動かし、その隣へもう1組を敷いた。
「これで、いいかな」
「……うん。ありがとう」
お父さんへ答え、枕を置いた。同じ方を向いた枕が2つ並んだ。お母さんが小さな明かりを残し、何かあったら呼んでね、と言った。2人へおやすみなさいと伝えると、ドアが静かに閉まった。
勝也が私の枕を見た。
「持ってきてて、よかったね」
恥ずかしくなり、少し顔を伏せた。
「勝手に……持ってきちゃった」
「うん。いつもの枕の方が、寝やすいよね」
そう言ってくれたので、頷けた。自分の布団のそばへ座り、上掛けの端を直した。家の中は静かになり始めていた。廊下でお母さんたちが動く音が、だんだん遠くなった。目を閉じる前に、勝也のいる場所を確かめたくなった。隣を見ると、勝也もこちらを見ていた。
「優子。同じ布団で寝る?」
上掛けへ置いていた手が止まった。
「……いいの?」
「うん、いいよ」
少し横へ寄ってくれた。私が敷いてもらった方を見ていると、狭かったらそっちも使えるから、と言った。せっかく運んでもらった布団を片づけるわけではなかった。私は枕を持ち上げ、勝也の枕のそばへ置いた。
眼鏡を外し、手の当たらない枕元へ置く。勝也が上掛けを持ち上げてくれたところへ、そっと横になった。左腕を体の前へ置くと、そこを挟まないように、背中へ腕を回してくれた。
「痛くない?」
「……うん」
勝也の右手も、強く握られてはいなかった。私はそこへ体を載せないよう、少し位置を直した。左腕で背中を支えてもらうと、顔を上げなくても、すぐそばにいるのが分かった。額を肩の近くへ寄せた。勝也が上掛けを直し、背中へ添えた手をゆっくり動かした。
「このまま、寝ようか」
頷いた。喉の奥に残っていた力が、息と一緒に抜けた。私が願ったのは、同じ部屋で眠ることだった。もっと近くへ来ていいと言ってくれたのは、勝也だった。それが嬉しくて、寝る前なのに、まだ顔を見ていたくなった。
「昔も、泊まったね」
勝也が小さな声で言った。
「……うん」
「家、隣だったのに。着替えを取りに帰って、また来たりしてた」
思い出して、少し笑った。次の日にも会えるのに、まだ帰りたくなかった。いいよと言われると、早く支度をしなければ、気が変わってしまうような気がした。
「寝なさいって言われても、話してたよね」
頷いた。静かにしたつもりで、またお母さんに聞こえてしまった夜もあった。
「朝も、一緒だったね……」
「うん。明日も、起きたらいるよ」
私は服へ添えた手を動かした。昔から好きだった人が、今、同じ枕元で声を聞かせてくれていた。会えなかった間に、何度も思い出した。学校で話せるようになってからも、こんなふうにそばにいられる夜が来るとは思わなかった。言いたいことはあった。でも、今は全部を言葉にできなくても、手を伸ばせば触れられた。
「……ありがとう」
「うん。俺も、嬉しいよ」
勝也の肩へ頬を寄せた。息をするたびに体が少し動き、同じように温かさが戻ってきた。学校へ行くことを考えれば、今も怖かった。明日、目を覚ましたら、また話せなくなるかもしれない。それでも、眠くなった私を、勝也はそのまま抱いていてくれた。
帰る時間までに何か話そうとしなくてよかった。笑っていられなくなっても、離れなくてよかった。そばにいてほしいと言うと、いてくれた。そのことを、今夜は何度も確かめられた。
「おやすみ、優子」
「……おやすみ、勝也」
目を閉じた。服を握っていた指を少し開き、掌を添えるだけにした。明日は、インターホンが鳴るのを待たなくても会える。そう思っているうちに、勝也へ次に話そうとした本のことも、だんだん考えられなくなっていった。
* * *
次に目を開けた時には、日曜日の朝になっていた。
カーテンの向こうが、明るかった。顔のすぐ前には、昨夜、勝也が借りたTシャツの胸元があった。
少しだけ顔を上げると、勝也は眠っていた。目を閉じ、ゆっくり息をしていた。背中には、まだ腕が回っていた。眠る前と同じところにいることを確かめ、私は、声を出さずにその顔を見た。
足元だけ、上掛けが持ち上がっていた。勝也の両足が、その端から出ていた。肩も背中も布団の中なのに、足だけ外にあった。
私が少し動くと、背中の腕にも力が入った。離れた分を戻すように、体がゆっくり近づいた。顔を上げたけれど、勝也の目は閉じたままだった。小さく息を吐くと、その頬が私の髪へ触れた。
眠っていても、抱きしめてくれていた。
服へ添えた手をそのままにして、私も肩へ顔を戻した。
夜中に起きなかった。廊下の小さな音や、どこかでドアの動く音で、目を開けることもなかった。布団の中で耳を澄まし、次の音がするのを待っていた時間もなかった。
おやすみを言って、その次は、もう朝だった。
勝也に抱きしめてもらってから、前より眠れるようになっていた。でも、今日は、それよりも、ずっと深く眠った気がした。起きてすぐ、部屋の中を確かめなくてもよかった。
右手を少し動かした。勝也の服へ、指が触れた。
まだ、抱きしめてくれていた。
起きる時刻かもしれない。枕元にある携帯を見れば、分かるのだと思った。でも、今は、そこまで手を伸ばしたくなかった。
もう少しだけ、このままでいたい。
勝也の肩へ、もう1度頬を寄せた。起こさないよう、ゆっくり近づいた。背中の腕は、そのままだった。
目を閉じると、また眠くなった。朝になったことを、もう知っている。それでも、今なら、もう1度眠れそうだった。
声には出さずに、おはよう、と思った。
そのあとに何を考えたのかは、覚えていなかった。
* * *
次に目を開けたのは、小さく笑う声がした時だった。
勝也の肩へ顔を寄せたまま、少しだけ目を動かした。ドアが細く開き、その向こうにお母さんがいた。口元へ手を当て、私たちを見ていた。
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
小さな声だった。私は首を少し振った。背中には、まだ勝也の腕があった。
「……おはよう」
「おはよう。よく眠れた?」
頷いた。勝也は、まだ目を閉じていた。声を出したら起きるかもしれないと思い、今度は黙ったまま顔を見た。
お母さんは、使っていない方の布団から、私たちへ目を戻した。
「昔と、寝方が一緒ね」
頬が熱くなった。昨夜、隣へ敷いてもらった布団には誰もいなかった。私の枕まで、勝也のそばにあった。
「小さい時も、こうやって勝也くんが優子を抱えて寝ていたの。2人とも、ぐっすりでね」
私は勝也の服へ添えた手を見た。小さい頃に泊まったことは覚えていた。夜になっても遊んでいたことや、朝も一緒にいたことも。でも、眠ってからどんな形だったのかは、覚えていなかった。
顔を上げ直そうとすると、勝也の腕が少し動いた。背中を抱いたまま、体をこちらへ寄せた。目を閉じた顔が近づいたので、私はまた肩のところへ額を戻した。
お母さんが、声を出さずに笑った。
「今も、同じ」
勝也は何も答えなかった。眠ったまま、私を抱き直しただけだった。
そのままにしていたかったけれど、お母さんに見られていると思うと、顔を上げられなかった。服を握っていた指を少し開いた。それでも、勝也の腕は離れなかった。
「足だけ出してるのも、可笑しくて」
お母さんの目が下へ動いた。私も見ると、勝也の両足は、さっきと同じように上掛けから出ていた。
その時、勝也が小さく息を吸った。少し顔を動かし、目を開けた。初めに私を見て、それからドアの方へ顔を向けた。
「……おはようございます」
「おはよう。そのままでいいよ」
勝也の肩が少し上がり、また元へ戻った。私も背中の腕に合わせて、布団の中へ体を戻した。
「暑かった?」
お母さんに聞かれ、勝也は足元を見た。
「……はい。優子、あったかいので」
私は勝也を見た。暑くしてしまっていたのだろうか。少し離れようと肩を動かすと、背中の手がそっと止めた。
「大丈夫だよ。足、出してたら涼しいから」
言いながら、足の先だけを少しずらした。上掛けが動いたけれど、私の背中のところは開かなかった。勝也の胸元も、まだ近かった。
お母さんは私たちを見て、もう1度口元を緩めた。そのまま少し黙り、ゆっくり息を吐いた。ドアの縁に置かれていた手が、下へ戻った。
「大きくなったのに、変わらないね。何だか、ほっとしちゃった」
声も、顔も柔らかかった。私は、まだ勝也に抱かれているところを見られたのが恥ずかしかった。でも、お母さんがそんなふうに笑っていると、すぐに離れなければとは思わなくなった。
「ご飯は、起きてからで大丈夫。何かあったら呼んでね」
「はい。ありがとうございます」
勝也が答えた。私も頷くと、お母さんは静かにドアを閉めた。
廊下の足音が遠ざかった。勝也は少しの間ドアの方を見てから、私へ顔を戻した。
「おはよう、優子」
「……おはよう」
今朝、初めて目を開けた時にも、声に出さずに思った。その挨拶を、今度は聞いてもらえた。
「よく眠れた?」
「うん。途中で1回も起きなかったの」
「よかったね」
背中へ添えられた手が、少し動いた。私は右手で服を握り直した。
「朝、1回、起きたの」
「そうなの?」
「うん。勝也は、まだ寝てたよ」
勝也の目が、私のいたところへ動いた。さっき、同じようにその顔を見ていたことを思い出して、少し恥ずかしくなった。
「もう少し、このままがよくて……また寝ちゃった」
「そっか。俺、気づかなかったよ」
私も、次に目を開けるまでのことは知らなかった。目覚めるたびに、同じように腕の中にいた。お母さんが来ても、しばらく勝也は眠っていた。
「寝てても……抱いてくれてた」
言うと、勝也は自分の腕を見た。
「うん。起きたら、このままだったね」
少し照れたように笑った。私は頷き、肩へもう1度頬を寄せた。見られていないと分かると、そばにいる嬉しさの方が大きくなった。
* * *
すぐには、起き上がらなかった。
勝也が枕へ頭を戻したので、私も隣で目を閉じた。眠くて開けられないわけではなかった。もう少しだけ、何もせずにくっついていたかった。
髪へ、指先が触れた。
ゆっくり頭を撫でられ、それから背中へ手が戻った。しばらくすると、また髪へ触れた。目を開けると、勝也は私の頬のそばへ落ちていた髪を、指でそっとよけていた。
白い毛先をすくい、引っ張らないように指を開いた。短くなった髪が、また枕へ落ちた。
「……どうしたの?」
聞くと、勝也がこちらを見た。
「ごめん。くすぐったかった?」
首を振った。嫌だったわけではなかった。ただ、勝也がすくっていた白い毛先へ、目がいった。
こんなに近くで見られると、どう思われているのか気になった。真っ白な髪は、枕に落ちていても目についた。手でよけようとすると、勝也が口を開いた。
「優子の髪、好きなんだ」
伸ばしかけた手が止まった。
「……白いのも?」
「うん。この色も好きだよ。きれいだなって思う」
勝也は、私の髪へもう1度そっと触れた。
自分の髪を見ると、他の人と違うことばかりが気になっていた。誰かにじっと見られると、顔を上げられなくなることもあった。その白い色まで好きだと言われて、すぐには返事ができなかった。
「……ありがとう」
下ろした手で、勝也の服へそっと触れた。まだ、髪を見られるのが平気になったわけではなかった。でも、勝也が触れているところを、今は隠したくなかった。
もう1度触ってもらいたくて、顔を近くへ戻した。
勝也は少し笑い、また頭を撫でた。私は目を閉じた。
髪を短くしてから、鏡を見ると、切られた時のことを思い出すことがあった。今も長さは変わっていなかった。でも、触れる手はゆっくりで、痛くなるところまで引かれることはなかった。
息を吐くと、胸の辺りが少し下がった。その分だけ、勝也の手も背中へ添い直された。
台所から、食器の音がした。ご飯の用意ができているのだと思ったけれど、起きてからでいいと言われていた。
勝也が部屋の隅へ目を向けた。リュックサックが置いてあった。そのあと、何も取らずに、私へ顔を戻した。
「本……?」
「うん。でも、あとでいいよ。今は、のんびりしてようか」
頷いた。言われるままに体を預けても、勝也の腕はそこにあった。
足元では、時々、布が小さく動いた。勝也の足は外へ出たままで、体だけは離れなかった。少し可笑しくなり、顔を上げると、どうしたの、と聞かれた。
首を振って、肩へ頬を戻した。うまく言葉にはできなかった。暑くても、こんなふうに一緒にいてくれるのが嬉しかった。
しばらくして、私のお腹が小さく鳴った。
顔を上げると、勝也と目が合った。
「ご飯……食べる」
「うん。俺も、お腹空いた」
笑ってから、2人で体を起こした。背中の腕が離れると、少し涼しくなった。私は眼鏡を掛け、枕を持ち上げかけて、また布団へ置いた。
「あとで、一緒に片づけようか」
頷いた。勝也が上掛けの端を直し、立ち上がるのを待っていてくれた。
ドアの前で袖へ触れた。
「……朝も、一緒だね」
「うん。一緒に行こうね」
顔を洗いに、2人で廊下へ出た。いつもは1人で通る朝の廊下を、勝也が隣で歩いていた。
* * *
台所へ行くと、お母さんが振り返った。
「おはよう。お腹、空いた?」
頷いた。勝也がお椀を運ぶ間に、私はお母さんのそばへ行った。
「よく……眠れた」
それだけ伝えると、お母さんは手を止めて、私を見た。
「うん。よかったね」
小さく笑ってくれた。私も頷き、箸の引き出しを開けた。自分の分と、勝也の分を選び、隣り合う席へ置いた。
朝の食卓には、焼いた卵と、小鉢の野菜があった。勝也が左手で味噌汁のお椀を運び、私の茶碗のそばへ置いた。
お父さんも顔を出した。これから出かける用事があり、朝ご飯はもう済ませたと言った。
「眠れたかい」
「はい。よく眠れました。ありがとうございました」
勝也が答え、私も頷いた。お父さんは、そうか、と言って、私たちが座るのを見てから居間を出た。
お母さんと、3人で手を合わせた。
「いただきます」
昨日の夜と同じ席だった。でも、窓の外は明るく、テレビからは朝の番組の声がしていた。勝也はお兄ちゃんの服を着たまま、私の隣で卵を食べた。
「……おいしい?」
「うん。優子も、食べてみた?」
頷いた。私が好きな味だった。同じ物を勝也もおいしいと言ってくれたので、もうひと口食べたくなった。
「よく眠れたって、さっき教えてくれたの」
お母さんが勝也へ言った。私は少し顔を伏せた。
「はい。俺も、よく眠れました」
「そう。ご飯のあとも、慌てなくていいからね」
礼を言い、卵をもうひと切れ取った。勝也もご飯を食べた。寝ている間に苦しくなかったか、邪魔ではなかったか。気にしていたことを聞かなくても、よく眠れたという返事を、すぐそばで聞けた。
お母さんが、おかわりは、と聞いた。勝也が茶碗を渡したので、私はその中を見た。
「どれくらい……?」
「半分くらい、お願いします」
戻ってきた茶碗を受け取る時、勝也はまた礼を言った。
「……もう半分」
「うん。おいしいから、もう少し食べたくなった」
私も笑った。お母さんが卵の皿を寄せたので、勝也はそちらへも箸を伸ばした。
昨日の朝は、ご飯を食べてからも、勝也が来る時刻まで待っていた。今日はもう隣にいて、これから何を食べようかと、同じ皿を見ていた。
* * *
朝食のあと、2人で客間へ戻った。勝也は左手で上掛けの端を揃えた。私も、自分の枕を持ち上げた。
昨夜は、これを抱えてドアの前に立っていた。頼んでいいのか迷っていた場所を見て、それから、すぐ隣の勝也を見た。
「よく眠れたって……お母さんに話したの」
「うん。よかったね」
「……ありがとう」
「俺も、よく寝たよ」
勝也が畳んだ上掛けを重ねた。お母さんが運んでくれたので、私も自分の枕を部屋へ戻した。
客間へ戻ろうとすると、勝也が着替えるところだった。廊下で待ち、お母さんと借りた服の話をしている声が聞こえてから、中を覗いた。
勝也は昨日着てきたシャツに戻り、お兄ちゃんの服を畳んで渡していた。
「洗いますね」
「ありがとうございます。服まで、お借りして」
リュックサックを持つところを見ると、帰るのだと分かった。昨日の夜にも同じように荷物へ手を伸ばしていた。でも、今日は、午後にまた来ると聞いていた。
「また、午後……?」
「うん。母さんにも、1度帰るって約束したから。着替えて、家のことを少ししたら、また来るね」
頷いた。玄関まで、一緒に歩いた。
「今日は……何時くらい?」
「1時半くらいで、どうかな。遅くなりそうだったら、連絡するね」
同じ時刻だった。昨日の朝から何度も確かめた数字を、今日も待っていられた。
お母さんにも午後のことを伝え、勝也は朝ご飯のお礼を言った。靴を履いてから、私へ向き直った。
「泊めてくれて、ありがとう」
「……来てくれて、ありがとう」
勝也が笑ったので、私も笑った。門まで見送ると、道にはまだ午前の光が残っていた。
家へ戻り、食卓の隣の椅子を見た。朝ご飯を食べた跡は、もう片づけられていた。でも、夜だけでなく朝もそこにいたことを、覚えていられた。
* * *
お昼までの間、本を読んで待った。
客間は、もう片づいていた。自分の枕はいつものベッドに戻した。でも、そこへ座ると、今朝、顔を上げた時に勝也がいたことを思い出した。勝也が眠ったまま抱き直してくれた腕の力も、まだ覚えていた。
携帯を手に取った。何か送ろうかと思って、やめた。勝也は家へ帰り、着替えや用事を済ませているはずだった。午後に来るという約束を、急いで確かめ直さなくてもよかった。
お母さんと昼ご飯を食べ、居間へ本を戻した。クッションを2つ並べてから、自分の分を膝へ載せた。
1時半になる頃、インターホンが鳴った。
門を開けると、勝也は、ただいま、と言った。朝、見送った時とは服が違った。
「……お帰り」
隣へ並ぶと、リュックサックの隙間から本のカバーが見えた。居間で取り出してもらうと、栞は、昨日より少し後ろに進んでいた。
「もう少しだね」
「うん。今日、読み終わると思う。家でも、少し読んできたんだ」
勝也が本を置いて座った。私も隣へ行った。昨日は少し迷ってから近づいたけれど、今日は、いつものように肩の触れるところへ座れた。
「今日は、何見ようか」
リモコンを取り、録画の一覧を出した。まだ見ていないアニメの続きを選び、勝也へ顔を向けた。頷いてくれたので、再生した。
お母さんが台所へ行ってから、私は声を落とした。
「お母さん、大丈夫だった?」
勝也がこちらを向いた。
「うん。泊めてもらったお礼を、もう1度伝えてねって。夕飯のことも、助かるって言ってたよ」
「そう。よかった」
「優子も、よく眠れたって話したら、よかったねって」
私が眠れたことを、勝也のお母さんにも話してくれた。膝に置いていた指を、クッションの端へ移した。
「朝も、いてくれて……嬉しかった」
「うん。俺も、泊まってよかったよ」
勝也の方へ、少し体を寄せた。肩が、さっきよりもしっかり触れた。勝也はリモコンを置けるように本を動かしてから、また私の隣へ戻った。
「今日は、ここで食べるって言ってきた?」
「うん。言ってきたよ」
頷いた。さっきお母さんと昼ご飯を食べていた時にも、夕飯の分を一緒に用意すると聞いていた。それでも、本人に確かめられると、また嬉しかった。
「じゃあ、今日はご飯まで一緒だね」
「うん。ご飯まで、一緒にいられるよ」
クッションを抱え直し、画面へ目を戻した。
途中で聞き逃した台詞があった。戻そうか、と勝也に聞かれて頷いた。少し前から再生してもらい、今度は2人とも黙って聞いた。
同じところで、勝也が笑った。私も、さっき分からなかったところで笑えた。戻してもらったことを謝ろうかと思ったけれど、勝也も楽しそうだったので、ありがとうと言った。
「うん。ここ、そういうことだったんだね」
話しかけると返事があり、画面へ目を戻しても、肩は触れたままだった。
* * *
アニメを見たあとは、2人で本を開いた。
勝也の本は、残りが薄くなっていた。先に読み終えている私の方が、落ち着かなくなった。どこまで進んだか知りたくて、時々、隣のページへ目を向けた。
勝也が、最後のページを閉じた。
「どうだった……?」
顔を上げたところで聞いてしまった。勝也が私を見て、口を開きかけた時、台所から声がした。
「ご飯、できたよ」
私はお母さんの方を見た。それから勝也を見ると、栞を抜いた本をテーブルへ置いていた。リュックサックには入れなかった。
「あとで、続きを話そうか」
頷いた。今日は、ご飯の時間になっても帰らないと知っていた。読んでいた本を閉じ、2人で手を洗いに行った。
食卓へ座って、いただきますと言った。ひと口食べてから、勝也を見た。
「さっきの続き……」
「本の感想?」
「……うん」
勝也は口の中の物を飲み込んでから、好きだったところを話してくれた。私が気になっていた場面も、その中にあった。
「そこ、私も……」
言いかけると、勝也が頷いた。結末を知る前には言えなかったことを、今なら話せた。言葉を探して止まっても、先に答えを決められることはなかった。
お母さんが、少し笑った。
「先の話だけ聞いても、分からないね」
私は本の初めを思い出した。どこから話せばいいだろう。短く説明しようとして、お母さんが知らない人物の名前を先に言いそうになった。
勝也を見ると、初めはこういうところからなんです、と続けてくれた。
私は隣で頷いた。言葉が止まったところを、代わりに話してくれた。勝也がこちらへ顔を向けると、そこ、と短く返した。
「このあとは……言わない方が、いいよね」
「うん。そこは、読んだ時に分かる方が面白いと思う」
お母さんも、じゃあ聞かないでおくね、と頷いた。
話しながら、ご飯も食べた。勝也が飲み込むのを待つ間に、私も箸を動かした。食べ終わったら会話まで終わるわけではなかった。それでも、まだここで話していたかった。
「ごちそうさまでした」
勝也がお母さんへ礼を言った。お母さんは、どういたしまして、と答えた。
居間へ戻ってから、勝也が本を返してくれた。
「面白かった。貸してくれて、ありがとう」
受け取ると、開き慣れた重さが手に戻った。私だけが読んでいた本を、勝也も最後まで読んでいた。好きだったところを思い返せば、今日、隣で話した声も一緒に思い出せそうだった。
* * *
日曜日の夜は、夕飯のあとで勝也が帰った。
翌日の月曜日も学校は休みだった。また午後1時半に来ると約束してから、門へ向かった。
勝也が手を伸ばしてくれたので、私は自分から近づいた。少しだけ抱きしめてもらい、肩へ顔を寄せた。朝からずっと一緒だったわけではない。それでも、起きた時に勝也がいた1日が、もう終わるのだと思うと寂しかった。
「また明日ね」
「……うん」
背中の手が動いた。私が顔を上げるまで待ってくれてから、勝也は腕を下ろした。
見送って家へ戻ると、客間のドアは開いていた。昨夜の布団はなかった。今日は、自分の部屋で眠るのだと分かっていた。
居間で返してもらった本を開いていると、お母さんの携帯が鳴った。
「もしもし。真紀さん?」
顔を上げると、お母さんは私を見て頷いた。勝也のお母さんからだった。
「ううん。こちらこそ。朝ご飯も夕飯も、よく食べてくれたよ」
私は本へ指を挟んだ。すぐに読むのへ戻らず、お母さんの声を聞いていた。
「あら、毎日だと悪いって? そんなこと、気にしなくていいのに」
お母さんが少し笑った。
「ええ。私からお願いしたの。来てくれる日は、一緒に食べてもらえたら嬉しいから」
私は、勝也の座っていた椅子を見た。夕飯を食べられると喜んでいたけれど、勝也は別のことも気にしていたらしかった。
お母さんは、向こうの話をしばらく聞いていた。
「うん。予定が変わる時には、早めに教えてもらうね。帰りが21時を過ぎそうな時も、本人から連絡するようにね」
それから、お母さんは、服のことを話した。
「そう、恒一のを。少し大きかったけど、ちゃんと着られたよ」
昨日、袖を見せてくれた勝也を思い出した。自分も顔が緩んでしまい、本へ目を落とした。
「本当に。小さかった2人が、もう中学生だものね」
お母さんが、また笑った。声の調子が、学校へ電話をしていた時とは違った。私もそのまま座り、本を閉じて聞いていられた。
電話が終わると、お母さんが隣へ来た。
「勝也くん、毎日ご飯を食べていいのかなって、おうちでも気にしていたんだって」
頷いた。嫌だから食べないという話ではないのだと、分かった。
「真紀さんも、助かるって。帰りが遅いから、ちゃんと食べているかなって気になっていたそうよ」
「……そうなんだ」
「うん。こちらのことは、お母さんたちで話せるから。2人は、食べに来られない日は早めに教えてね」
私は頷いた。毎日の約束にしてしまっていいのか、自分でも少し気になっていた。でも、何も相談せずに決まったことではなかった。
「明日も……来るって」
「うん。何を作ろうかね」
お母さんが立ち、台所へ戻った。私は、返してもらった本を膝へ置いた。
* * *
部屋へ戻ってから、勝也にメールを送った。
昨日は泊まってくれてありがとう。朝も一緒にご飯を食べられて、嬉しかった。今日も楽しかった。
打ち終えて、読み直した。今日も何度もありがとうと言っていた。それでも、夜になってから、もう1度伝えたくなった。
返事は、少しして届いた。
俺も嬉しかったよ。お父さんとお母さんにも、ありがとうって伝えてね。また明日。
その下に、もう1文あった。
よく眠れたね。
画面を見たまま、枕へ手を置いた。昨日の夜、客間へ持っていった枕だった。朝まで眠れたと話したことを、勝也も覚えていてくれた。
お母さんたちにも伝えるね。おやすみ。
返してから、携帯を閉じた。部屋には私しかいなかった。でも、明日の約束はあった。枕を直して横になると、額へ触れていた肩の温かさを思い出した。
* * *
連休最後の月曜日も、勝也は午後に来てくれた。
昨日返してもらった本は、自分の部屋へ戻した。テーブルには、今日読む物を持ってきていた。勝也が座ると、私は隣へ寄った。
夕方、2人で話している時に、玄関の開く音がした。
「あ……」
お父さんの声だった。勝也も顔を上げ、座っていたところから立った。居間へ入ってきたお父さんへ、頭を下げた。
「お邪魔しています」
「こんにちは。今日も来てくれていたんだね」
「はい」
お父さんは私たちを見てから、台所へ顔を向けた。
「今日は、間に合ったかな」
「ええ。今から焼くところ」
「じゃあ、着替えてくるよ」
鞄を持って出ていくと、勝也は少し遅れて座り直した。さっきまで背もたれへ預けていた背中を、まだ伸ばしていた。
「……お父さんも、一緒だね」
「うん」
勝也が、廊下の方へ目を向けた。泊まる時にも話していたけれど、お父さんと一緒に夕飯を食べるのは、今回が初めてだった。
私は、勝也の手のそばへ指を置いた。
「お父さん……怖い?」
「怖くないよ。ちょっと、緊張しただけ」
私は、お父さんが出ていった方を見た。
「あんまり、たくさん話さないけど……」
「うん」
「嫌がってるわけじゃ、ないから」
声にしてから、お父さんに聞こえるかもしれないと思った。でも、勝也が気にしたまま食べるのは嫌だった。さっきは、間に合ったかと聞いていた。一緒に食べるつもりで帰ってきてくれたのだと思った。
「ありがとう。俺も、一緒に食べられたら嬉しいよ」
勝也が言った。私は頷き、手へ少し触れてから、膝へ戻した。
台所から、魚の焼ける匂いがしてきた。お母さんが、今日はさんまよ、と声をかけた。
「魚は、食べられる?」
「はい。好きです」
「よかった。主人が早く帰れると言っていたから、今日は焼いて一緒にと思って」
お母さんが笑った。私も台所へ行き、箸を出した。
今日は、お父さんの分もあった。4組を揃えて、テーブルへ置いた。勝也の席は変えなかった。私の隣へ箸を置くと、勝也もそこへ茶碗を運んだ。
お父さんが着替えて戻ってきた。自分の席へ座り、私たちも椅子を引いた。
* * *
4人で手を合わせた。
さんまの皮には、焼き色がついていた。皿の端には大根おろしがあった。勝也は少しだけ醤油をかけ、魚へ箸を入れた。
私も、身の厚いところを取った。口へ入れると皮が香ばしく、ご飯も食べたくなった。
「おいしいです」
隣から、声がした。お母さんが、よかった、と頷いた。
お父さんはお母さんと、明日、何時に家を出るか話していた。いつもどおりだと答えてから、勝也へ顔を向けた。
「勝也くんは、この時間に食べて帰って、家の方は大丈夫かい」
「はい。母にも、話しています」
「そうか」
勝也は背筋を伸ばして答えた。お父さんが味噌汁のお椀を持つと、また箸を動かした。
私も食べようとして、隣の皿へ目が止まった。勝也の魚は、きれいに身が分かれていた。箸で大きく崩さず、骨のあるところだけを少しずつ外していた。
自分の皿を見た。骨に近いところを残したまま、食べやすい身ばかり取っていた。勝也は、そこにも箸を入れていた。
指が動くところを見ていると、勝也がこちらを向いた。
「何か、ついてる?」
私は首を振った。
「……ううん。上手だなって」
「魚?」
頷いた。勝也は自分の皿を見下ろし、それから、また箸を持ち直した。
上の身を食べ終えると、頭とつながっているところを外した。中骨を少し持ち上げ、身がついてくるところだけを、そっと戻した。下の身を残し、骨が皿の横へ移った。
「……きれい」
思わず声が出た。お父さんも、勝也の皿を見た。
「本当だね。きれいに食べるね」
勝也の箸が止まった。
「いえ……」
「普段から、よく魚を食べるの?」
「はい。祖父母の家で、食べ方を教わって」
勝也は、皿の端の骨を少し寄せた。
「魚を食べることが多かったので。骨のところに残っていると、まだあるよって教えてもらいました」
私は、もう1度お皿を見た。小さい頃から教わって、今も同じように食べているのだと分かった。自分でご飯を作る話を聞いた時とは、また違う、私の知らなかった勝也だった。
「ちゃんと覚えているんだね」
「はい」
「ここまで食べてもらえると、出した方も嬉しいでしょう」
お父さんがお母さんへ顔を向けた。お母さんも、勝也の皿を見て頷いた。
「本当に。焼いてよかった」
勝也が少し顔を伏せた。口元を緩めてから、まだ残っている魚へ箸を戻した。耳の辺りが少し赤くなっていた。
「急がずに、食べてね」
「はい」
お母さんの声に返事をしたあと、勝也が私を見た。私も笑っていたことに、目が合ってから気づいた。
勝也が褒められているのを、もっと聞いていたかった。自分のことではないのに、顔が緩んでしまった。
* * *
食べ進めるうちに、お父さんが本のことを尋ねた。
「勝也くんは、どんな本を読むの?」
「最近は、優子から借りて読んでます」
お父さんが、こちらを見た。
「そんな話も、していたんだね」
頷いた。
「昨日、読み終わったって……」
「はい。感想も、話しました」
勝也が続けてくれたので、私も、もう1度頷いた。
「同じ物を読んでいると、話し相手がいていいね」
「……うん」
勝也を見て答えた。勝也もお父さんへ、好きなところを聞けて面白かったです、と話した。
どんな話なのかと聞かれ、本の題名を口にした。その先をどう説明しようかと考え、勝也へ顔を向けた。
「最後、言わない方がいいよね……」
「そうだね。読んだら分かる方が、面白いと思う」
お父さんが笑った。
「じゃあ、そこは聞かないでおこう」
私は、本の初めのところだけを話した。昨日、お母さんに説明した時と同じところで止まりそうになったけれど、勝也が横から少し言葉を足してくれた。
頷くと、こちらを見ながら続きを話した。全部を任せきりにするつもりではなかった。でも、短い返事をするだけでも、私も一緒に話していられた。
お父さんは聞き終えてから、自分にも今読んでいる本があると言った。知らない作者の名前だった。
「鞄に入っているから、あとで見せようか」
「はい。見てみたいです」
勝也が答えた。お父さんは頷き、ご飯の続きを食べた。
食卓の向こうと隣で、話が続いていた。どちらかが私について尋ね、もう片方が答えているのではなかった。本の話をしていた。そのことが嬉しくて、私は黙って2人の声を聞いた。
勝也が、残っていた魚の身を食べた。骨を端へまとめ、最後にご飯を食べ終えた。
私のお皿には、まだ少し残っていた。さっき勝也がしていたように、骨の近くへ箸を入れた。
「そこ、細い骨があるよ」
隣から言われ、手を止めた。
「……ここ?」
「うん。その、少し横」
箸先を動かすと、細い骨が出てきた。
「あった」
「うん。取れたね」
皿の端へ置いてから、身を口へ運んだ。勝也はそれを見て、味噌汁のお椀を持った。私がひと口食べるところまで、待ってくれていた。
お父さんが、勝也の方を見ていた。目が合うと、小さく頷いた。勝也も少し頭を下げ、お椀を置いた。
お父さんが見てくれたのは、勝也の食べ終わったお皿だった。学校で何を調べたかでも、私をどれだけ助けてくれたかでもなかった。勝也が、ご飯を食べているところを見ていた。
「ごちそうさまでした」
勝也が、手を合わせた。お母さんへ向き直り、おいしかったです、と言った。
「また、食べてね」
「はい。ありがとうございます」
その、また、が嬉しかった。今日は特別だからと、明日からなくなる話ではなかった。
私も箸を置いた。まだ少し残っていたけれど、もう、お腹がいっぱいだった。お母さんへそう言うと、頷いてくれた。
勝也がお皿を下げた。私は、自分と勝也の箸を持った。お椀は勝也が運び、私は台所の手前で待った。
お母さんが、流しへ置いた物を受け取った。
「勝也くん、ありがとう。優子も、もう座っていていいよ」
私は頷いた。でも、すぐには居間へ戻らなかった。勝也が手を拭くまで、そばにいた。
勝也はこちらを見て、少し笑った。
「お父さんの言ってた本、あとで見せてもらってもいい?」
食事の途中に、お父さんが自分も読んでいる本のことを話していた。私は、居間に置かれた鞄を見た。
「お父さんに、聞いてくる……」
歩き出すと、勝也もついてきた。
お父さんは、食卓でお茶を飲んでいた。勝也が声をかけると、覚えていたのかい、と笑った。鞄から本を出し、表紙を見せてくれた。
私は、勝也の隣で見た。知らない題名だった。お父さんは、この人の本を前にも読んだのだと言った。
勝也が、そうなんですか、と頷いた。表紙を見せてもらい、少しだけ中を開いた。
お父さんと勝也が、本の話をしていた。私は、うまく入れなかった。でも、2人の声を聞いているのは嫌ではなかった。
勝也が、お父さんにも話しかけてくれる。お父さんは、勝也へ答えてくれる。
私の好きな人が、うちの食卓にいた。
お母さんがお茶を持ってきた時、勝也は、また礼を言った。その声を聞いて、私は、少しだけ椅子を近づけた。
* * *
お茶を飲み終えてから、勝也が時計を見た。
「そろそろ、帰るね」
私は、自分の湯呑みを片づけた。その言葉は、何度聞いても寂しかった。
今日も、午後からずっと一緒だった。ご飯を食べ終わってからも、お父さんと話した。泊まってもらった夜も、並んで食べた朝ご飯も、思い出せた。
それでも、もう少しだけと思った。
勝也がリュックサックを持ち上げると、私は椅子から立った。勝也がこちらを見て、持ち手を左手へ替えた。隣へ行くと、歩き始めるのを待ってくれた。
「明日は、学校のあと……?」
「うん。今日は、お休みだったからね」
私は頷いた。また、お昼を食べて少ししたら会えるつもりでいた。明日は、そうではなかった。
「終わったら、連絡するよ」
勝也が言った。
「……うん。待ってる」
お母さんが、台所から出てきた。お父さんも、食卓から顔を上げた。
勝也は2人へ挨拶した。夕飯のお礼を言い、お父さんにも、おやすみなさいと言った。
「おやすみ。また来てね」
お父さんが答えた。勝也は、はい、と少し背中を伸ばした。
玄関へ向かう時、私は、その後ろを歩いた。勝也が靴を履き、振り返るのを待った。
「……今日、お父さんが」
「うん?」
「勝也のこと、褒めてて……嬉しかった」
言ってから、顔が熱くなった。自分ではない人を褒められたのに、嬉しかったと伝えるのは、おかしいかもしれなかった。
勝也は、少し照れたように笑った。
「俺も、嬉しかったよ」
その返事で、顔を上げられた。
「あんなふうに見られると思わなかったから、ちょっと緊張したけど」
「……でも、きれいだった」
「ありがとう」
勝也が、今度は私に礼を言った。私は、また顔を伏せた。
台所で、お母さんが食器を重ねていた。まだ、こちらへは来ていなかった。
私はサンダルを履き、土間へ下りた。勝也の袖へ、そっと触れた。勝也は、ドアへ向けていた手を下ろした。
「……少しだけ」
それで分かってもらえた。勝也が体をこちらへ向け、腕を開いた。
1歩近づき、勝也の肩へ顔を寄せた。体を預けすぎないようにしていたら、背中へ手が回った。
「大丈夫だよ」
耳の近くで、声がした。
私は目を閉じた。今日、食卓で何度も聞いた声だった。おいしいと言った時も、魚の骨を教えてくれた時も、優しかった。
右手で、服の脇を少し掴んだ。勝也の手が、頭へそっと触れた。
昨日も会ったし、今日も会えた。明日も来てくれる。分かっていても、帰る前には、こうしてもらいたかった。
「明日も、ご飯……」
「うん。一緒に食べようね」
私は頷いた。
あと少し、このままでいた。お母さんの足音が近づくと、顔を上げた。勝也は私が離れるまで、背中に手を置いていた。
見られたことが恥ずかしくて、お母さんの方へはすぐに向けなかった。でも、早く離れなさいとは言われなかった。
「外、暗いから気をつけてね」
お母さんが言った。勝也は頷き、ドアを開けた。
私も門までついていった。勝也の後ろで、ゆっくり歩いた。
門のところで、名前を呼ばれた。
「優子、おやすみ」
「……おやすみ、勝也」
手を振った。勝也が角を曲がるまで、お母さんと並んで見ていた。
* * *
月曜日の夜、家へ戻ると、お父さんはまだ居間にいた。
さっき勝也へ見せた本を、開いていた。私が入ると、顔を上げた。
「見送れた?」
「うん」
返事をし、勝也のいた椅子を見た。椅子は、テーブルの下へ戻されていた。湯呑みも、もうなかった。
お父さんは、私の目の向いた方を1度見た。
「また明日、来てくれるんだね」
「……学校が、終わってから」
言うと、お父さんが頷いた。そのまま本へ目を戻した。
お母さんが、明日のご飯は何にしようか、と言った。私にも聞いているのだと分かるまで、少しかかった。
「勝也、何が好きなのかな……」
自分の食べたい物を考える前に、そう言っていた。お母さんが笑った。
「明日、聞いてみようか」
「うん」
勝也が、おいしいと言って食べるところを、また見たかった。私も同じ物を食べ、好きなところを聞いてみたかった。
食卓を囲んでいる間は、帰る時刻のことを忘れる瞬間があった。箸を動かして、飲み込んで、次の返事を待っていた。勝也は、私が食べ終わるのも待ってくれた。
家族とご飯を食べる場所へ、その人が加わった。
明日の夕方、台所から匂いがしても、寂しくなるばかりではない。勝也と一緒に手を洗って、ここへ座る。
私は、テーブルの下へ戻された椅子の背に触れた。さっきまで勝也がここに座り、お父さんの本を見ていた。隣の自分の席へ目を向けると、明日の食卓も思い浮かべられた。
明日も、自分の箸の隣に、勝也の分を並べられる。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
普段の趣味を話し、携帯に残っていた木製模型の写真を優子と美和に見せる。富田家で夕食を共にし、土曜夜は優子を支えたい気持ちから宿泊する。月曜には泰臣と魚や本の話を交わす。
・富田 優子
勝也の趣味に興味を持ち、木製模型の写真を見て母と一緒に驚き、実物や製作中の姿も見たくなる。食生活を心配し、土曜夜は宿泊を頼む。勝也のそばで深く眠り、月曜には父に褒められる姿を喜ぶ。
・優子の母(美和)
勝也の木製模型の写真に、優子と一緒になって驚き、褒める。真紀と夕食や宿泊を相談し、優子の願いを受け止める。翌朝、昔と同じ姿で眠る2人を見て安堵する。
・優子の父(泰臣)
電話で優子本人の希望を聞き、勝也の宿泊を了承する。帰宅後に布団を用意し、月曜日には勝也も交えて食卓を囲み、魚の食べ方や本の話をする。
・勝也の母(真紀)
美和と相談し、勝也の夕食と土曜日の宿泊を了承する。電話で優子の礼に応じ、翌日も美和と食事や宿泊について話す。




