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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
33/52

第29話 明日、続きを



    * * 勝也視点 * *


 水曜日の放課後、俺は学校から、そのまま優子の家へ向かった。


 門が見えたところで、リュックサックの肩紐を掛け直した。


 昨日は、手提げの口から教科書が見えていた。今日は、その手提げはなかった。右手のガーゼを袖に引っかけないよう、左手でリュックサックの紐を直した。インターホンを押す前に、携帯を出した方がいいだろうかと迷った。番号は、昨日教えてもらったばかりだった。


 でも、今日は行くと約束していた。携帯をポケットへ戻し、ボタンを押した。


『はい』


 優子の声だった。


「やほ、着いたよ」


『うん』


 返事のあと、少し音が途切れた。


『待ってて。今、開けるから』


「ありがとう」


 昨日は、何を言えば出てきてもらえるのか考えていた。今日は、待っていてと言われた。


 塀の内側から足音がした。門が開き、優子が顔を出した。


「こんにちは」

「こんにちは」


 顔を見て挨拶すると、優子は少し口元を緩めた。昨日と同じ眼鏡を掛けている。短く揃えられた白い髪が、肩の辺りへまっすぐ落ちていた。目元にまだ疲れた感じはあったけれど、門の向こうへ隠れるようには下がらなかった。


「……お帰り」

「ただいま。帰りに先生のところへ寄って、プリントもらってきたんだ」


 プリント、と繰り返しかけた唇が止まった。


「あと、本も」


 リュックサックの肩へ手を添えると、優子の目がそちらへ動いた。


「持ってきてくれたの?」

「うん。あとで、感想聞いてね」


 優子が、門をもう少し開けた。俺を中へ入れてから門を閉め、隣へ戻ってきた。


 家までの短い道を、2人で歩いた。昨日、長く立っていたところを通った時、優子の足が少し遅くなった。俺も、歩幅を小さくした。


 何か言いかけたようだったが、声は聞こえなかった。そのまま玄関へ着いた。


「お邪魔します」


 上がり框の向こうから、お母さんが来た。


「いらっしゃい。今日も来てくれて、ありがとう」

「いえ。あの、先生から預かってきた物があります」


 靴を脱ぐ前に、リュックサックを下ろした。ファイルから封筒を出し、お母さんへ渡す。


「これは、保護者の方へって。授業で配ったプリントは、別にあります」

「ありがとう。あとで見ておくね」


 封筒を受け取ると、お母さんは優子の方を見た。


「先に居間へ行っていてくれる?」

「うん」


 優子が頷いた。けれど、歩き出す前に俺の靴へ目を向けた。俺は、片方の踵を抜いたところだった。


「もう脱げるから、一緒に行こうか」


 そう言うと、優子はその場で待っていた。俺が靴を揃えて上がると、今度は歩き出した。


 居間へ入る前に、手を洗わせてもらった。右手のガーゼを見て、お母さんが清潔なタオルを出してくれた。手当てをしたところを濡らさないようにして洗い、指の間の水を拭く。昨日、途中で血を落とそうとした時とは違って、洗面台の水は透明なままだった。


「お母さんには、見てもらえた?」

「はい。昨日、帰ってから。手当てもしてもらいました」

「そう。まだ痛む時は、遠慮しないで言ってね」

「ありがとうございます」


 優子は廊下で待っていた。タオルを返して戻ると、俺の右手を見てから、居間の方へ体を向けた。昨日と同じ椅子を引いてくれたので、礼を言って座った。優子も隣へ腰を下ろす。少し離れていた椅子が、床を擦らないよう持ち上げられ、俺の方へ寄った。


「ここでいい?」


 俺が荷物を足元へ置きながら聞くと、優子が頷いた。昨日は、話さなければならないことがいくつもあった。今日は、座ってから何を話そうかと考える余裕があった。


 俺はファイルを開き、授業のプリントを出した。優子の指が、膝の上で重なった。


「これ、今日の分。花沢先生が、すぐ全部やらなくても大丈夫だって言ってたよ」

「花沢先生……?」


 俺は、プリントから顔を上げた。


「今日から、3組の担任になった先生。女の先生だよ」


 優子はお母さんを見た。お母さんが、テーブルの向かいで頷いた。


「お父さんからも、電話で聞いたよ。今日から替わったんだって」


 優子の目が、もう1度俺へ戻った。


「……本当に?」

「うん。朝も帰りも、その先生だったよ」


 膝の上で重なっていた指が、少し動いた。でも、それだけで顔から緊張がなくなったわけではなかった。


「戸田たちも、今日は教室にいなかった」


 名前を聞いた優子の肩が動いた。俺は声を大きくしないまま、続きを伝えた。


「別の部屋で、先生と話したり、勉強したりしてるって。今は、俺たちの教室へ来させないって聞いたよ」

「……いつまで?」

「いつまでかは、まだ聞いてないんだ」


 分からないことまで、大丈夫だとは言えなかった。優子が目を伏せると、お母さんが少し椅子を近づけた。


「そのことで、お父さんが確かめてきたこともあるよ。あの4人を、優子と同じ3組には戻さないって。教室へ戻れるようになった子は、学年主任の先生の1組へ移す方針だそうよ」


 俺も、お母さんの顔を見た。そこまでは聞いていなかった。優子は口を少し開いたが、何も言わず、膝へ目を落とした。


「ほかのことも、あとでお父さんと一緒に話そうね。全部、今聞かなくてもいいから」

「私も……先生に会うの?」

「今は、会う約束はしていないよ。優子に聞かずに決めないからね」


 優子は小さく頷いた。俺は、まだ触っていないプリントの端が折れないよう、ファイルを少し横へ寄せた。


 俺は、プリントを揃えた。優子の方へ押しつけず、テーブルの真ん中に置いた。


「渡す物は、これで全部だよ」


 優子が、俺を見た。


「……明日、持っていくの?」

「終わったプリント?」


 頷いた。


「明日までにやって、とは言われてないよ。俺、そこも先生に聞いたから」


 今日、配布物を受け取った時に聞いた返事を、そのまま伝えた。お母さんも、急いで取り組まなくていいと言った。


 優子は、それでも少し紙を見ていた。俺はリュックサックから、もう1つの袋を出した。


「こっちは、俺が返したかった物」


 文庫本を取り出すと、優子が顔を上げた。


 新しい紙のカバーは、借りた時のままだった。何度か開いたところだけ、少し手になじんでいた。


「長く借りてて、ごめんね。ありがとう。面白かったよ」


 優子が両手を伸ばした。俺は、取りやすい向きで本を置いた。


「……読めた?」

「うん。最後まで」


 紙の背へ触れていた指が、止まった。


「最初に……戻った?」


 その聞き方を、覚えていた。教室で貸してくれた時、途中で言うのをやめた続きだった。


「戻った。言ってたの、あそこだったんだね」


 優子の目が、少し大きくなった。


「同じこと書いてあるのに、最初に読んだ時と、違う感じになった」

「……うん」

「俺、初めはあの人が嘘ついてると思ったんだよね」


 優子は、本の前の方を開いた。探す場所が決まっているように、何枚か続けてめくった。


「ここ……?」

「そう。そこで、何で今それ言うんだろって」


 俺が指したところへ、優子も目を向けた。初めに読んだ時は気にならなかった言葉が、あとから効いてきた。最後の方で分かって、俺は夜なのに、あ、と声を出していた。


「俺、そこ分かった時、誰かに言いたくなった」


 言ってから、優子の顔を見た。


「今日、言えてよかった」


 優子の唇が、少し開いた。それから、ゆっくり閉じた。


「私も……」


 声は小さかった。


「そこのこと、話したかった」

「うん」


 お母さんが、プリントを手に取った。


「これは、いったんこちらへ置いておくね。本、2人で見るんでしょう」


 優子が頷いた。テーブルの上に、本を置く場所ができた。お母さんはプリントを棚へ置き、台所へ戻った。


     * * *


 優子の好きなところは、俺が気になった場面より少し前だった。


 そこへ戻るために、2人でページをめくった。俺は後ろの方だと思っていたが、優子は、もう少し前、と言った。


「この辺?」

「ううん、もう少し前」


 見つかると、優子は行を指さした。声に出して読むのではなく、俺が目で追うのを待った。


「ここまでだよ」


 指が、1つ先の行へ移った。俺は最後まで読んでから、顔を上げた。


「俺、そこ、初めはそんなに気にしてなかった」

「そう?」

「うん。でも、最後まで読むと、分かる気がする」


 優子は、行の横へ指を置いたまま、少し考えていた。


「私は、最初に読んだ時からここが好きだったの」

「どういうところが?」


 聞くと、優子はさっき指した行へ目を戻した。


「……ちゃんと、見てたところ」


 優子の指が、少し前のページへ戻った。今指している人が、前の場面で何をしていたかを示してくれたのだと分かった。


「この前から?」


 頷いた。本を俺へ少し向け直し、読むのを待ってくれた。


 俺は、もう1度その部分を読んだ。確かに、そこまでの場面が頭に残っていると、別の意味にも見えた。


「ああ。だから、その前のところも好きなんだ」

「うん」


 今度の返事は、少し早かった。


 優子が後ろの方を開き、さっき俺が話した場面へ指を置いた。そこで気づいても、前へ戻れる。


「……あとからでも」

「俺、完全にそっちだった」


 優子が小さく笑った。俺も、つられて口元を緩めた。


 同じ本を読んでも、同じ順番で面白くなるわけではなかった。優子が気に入ったところを聞くと、俺が読んだ時には通り過ぎていた場面が、もう1度気になった。


「あと……ここも」

「うん。どこ?」


 優子はページをめくり、途中で俺を見た。


「……退屈じゃない?」

「退屈じゃないよ。優子がどこ好きなのか、聞きたかったから」


 優子の指が、紙の端から離れた。


「俺の好きなところも、あとで聞いてね」

「うん。聞きたい」

「じゃあ、先に優子の続き、聞かせてね」


 促すと、優子は少しだけ笑った。もう1度ページへ目を落とした。


 お母さんが、冷たい麦茶を運んできた。俺たちの間へ本が広げてあるのを見て、コップを端へ置いた。


「そこ、濡らさないようにね」

「はい。ありがとうございます」


 お母さんが台所へ戻るのを見送り、コップを少し離してから続きを聞いた。


 優子は、ときどき俺を見た。頷くと、次に読んでほしい行を指した。言葉が出てこない時は、その指が止まるのを待った。分からないところを尋ねると、本を前へ戻してくれた。


 俺が1つ尋ねると、優子も好きな場面を1つ教えてくれた。聞いているうちに、さっき読んだばかりのページへ何度も戻った。


 俺も、本の中で気になったところを探した。


「俺は、ここ」


 ページを示すと、優子が身を寄せた。髪が肩から落ち、眼鏡の脇へかかった。


「そこ?」

「うん。ちょっと笑った」


 優子が読んだ。先ほどまでと違って、すぐに頷かなかった。


「私、そこは困ってるところだと思った」

「困ってるんだけど。ここまで格好つけといて、そこで間違えるのかって」


 俺が言うと、優子は前の数行へ目を戻した。読み終わる頃に、口の端が少し上がった。


「それはそうかも」

「でしょ」


 大きな声で笑うほどの場面ではなかった。でも、1人で読んだ時より、今の方が面白かった。


 俺がもう1度その場面を読むと、優子も同じところへ目を落とした。さっきは気にならなかった言い訳が、今度は格好つけているように読めたらしい。唇の端が、また少し上がった。


「次に読む時、ここで思い出しそう」


 優子が小さく言った。


「俺のこと?」


 頷かれて、少し照れくさくなった。


「もっと、ちゃんとした感想も言ったんだけどな」


 優子は口元を手で隠した。その向こうから、さっきよりはっきり笑う息が聞こえた。大きく笑ったわけではなかった。でも、俺も嬉しくなって、本へ顔を戻した。ほかにも話しておきたかった場面が、まだあった。


     * * *


 本を閉じる頃には、麦茶のコップが空いていた。


 優子は表紙を撫で、そのまま両手で持った。昨日、学校の物が見えた時とは違う持ち方だった。


「貸してくれて、ありがとう」


 もう1度言うと、優子は首を振った。


「私の方こそ、ありがとう」

「俺、借りた方だよ」

「でも、読んでくれたから」


 優子が、本を胸の前へ寄せた。


「最後まで一緒に話せて、嬉しかった」


 俺は、うん、と答えた。教室で借りた時、続きまで聞きたかったことを思い出した。


「また、読んで面白かったのがあったら教えてね」

「今、あるよ」


 思っていたより早く返事が来た。優子も自分で気づいたのか、少し顔を伏せた。


「あ、でも……急にじゃ、なくて」

「どんな本?」


 尋ねると、優子が顔を上げた。今度は、部屋の方を見た。


「持ってきてもいい?」

「うん。見せてほしい」


 優子は返した本を抱えて立った。空いた椅子へ手を添え、机にぶつからないよう戻してから、廊下へ向かった。


 優子は居間の入口で振り返った。俺が見ていると分かると、小さく頷いて、廊下へ出た。


 お母さんが台所から来た。空いたコップを持ち上げ、優子の出ていった方を見た。


「本の話、できたんだね」

「はい。俺、見落としてたところ、教えてもらいました」

「そう」


 お母さんは笑い、テーブルに残った本の袋を畳んだ。


「ここが面白いんだよって言える相手がいると、もう1度読むのも楽しくなるね」

「はい。俺も、さっき返した本、また読みたくなりました」


 お母さんが空いたコップを台所へ運んでいく。その間に時計を見た。思っていたより長く座っていたが、まだ慌てて帰る時刻ではなかった。リュックサックを少し手前へ寄せ、次の本を入れる場所を空けたところで、優子が戻ってきた。


 本を2冊持っていた。俺の手元のリュックサックを見て、歩く速さが少し落ちた。


「……帰る?」

「まだ大丈夫だよ。本、入れるところ空けてたんだ」


 優子は頷いた。隣へ戻り、持ってきた本を並べた。


「どっちが、いいかなって……」

「両方、見てからでもいい?」

「うん」


 片方は、さっき返した本と同じ作者だった。もう片方は、俺の読んだことのない人の本だった。優子は先の展開を話さないように、ときどき説明を止めた。そこで俺を見るので、読んでからのお楽しみ、と言うと頷いた。


「じゃあ、今日はこっち借りてもいい?」


 同じ作者の方を選んだ。優子が、どうぞ、と寄せてくれた。


「急がなくて……」


 言いかけて、少し笑った。俺も、その続きを待って笑った。


「うん。分かってるよ」


 本を受け取り、袋へ収めた。今日は返して軽くなるつもりだったところへ、次の1冊が入った。


 読み終わった時に、また話せる。リュックサックへ入れながら、それを楽しみにしていた。


「明日も、学校が終わったら来るね」


 優子が頷いて、お母さんを見た。お母さんも、待ってるね、と答えてくれた。


    * * 優子視点 * *


 貸した本が、勝也のリュックサックへ入った。


 返してもらった方は、私の手元にあった。この前、教室で渡した時には、読んでもらえたか聞けるかどうかも分からなかった。今日は、好きなところを指で示し、少しずつ言葉にできた。


 長くなっていると思って止めた時も、続きを聞いてくれた。私が選んだ場面を、もう1度読んでくれた。


 楽しかった。


 そう思ったあとで、棚へ置かれたプリントが目に入った。学校では、今日も授業が進んでいた。その時間には家で休んでいたのに、放課後になった今は、本の話を楽しめていた。


 持っていた本を、膝へ下ろした。


「……私、こんなことしてて、いいのかな」


 勝也がファスナーから手を離した。


「本の話?」


 頷いた。自分でも、何を謝ろうとしているのか、はっきりしなかった。


「休んでるのに……」


 途中で言えなくなった。勝也は、椅子を少しこちらへ向けた。


「俺は、一緒に話せて楽しかったよ」


 私は、本の角を見た。


「でも、学校には……行けないのに」

「うん」


 勝也は、それなら行けるとは言わなかった。少し考えてから、プリントの方を見た。


「学校は休んでていいって、お母さんとも話したんだよね」

「……うん」

「その間、本を読んでもいいと思うよ。俺と話して笑ったから、明日行かなきゃってことにはならないよ」


 お母さんも、そばへ来た。


「勝也くんの言うとおりだよ」


 私の椅子の背へ手を置いた。


「楽しい時間があったら、お母さんも嬉しい。休んでいる間、ずっとつらい顔をしていないといけないわけじゃないの」


 顔を上げると、お母さんは、さっき私たちの話を聞いていた時と同じ顔で見ていた。


「今日は、本の話ができてよかったね」


 私は、ゆっくり頷いた。


 よかったと、思ってもよかった。学校のことを考えて苦しくなる私と、勝也の話に笑った私は、どちらも私だった。少し笑えたからといって、もう全部できるはずだと、2人とも言わなかった。


 膝の本を、もう1度持ち上げた。


「……楽しかった」


 勝也へ言うと、目元が少し緩んだ。


「うん。よかった」


 その顔を見て、私も小さく笑えた。


     * * *


 帰る時刻を聞かなくても、勝也が本をしまうと分かった。お母さんへ挨拶する間、私は玄関で待った。靴を履いて立ち上がった勝也と、門まで歩く。お母さんは、玄関の前から見送っていた。昨日と同じ道なのに、今日は短く感じた。


 あと数歩で、門へ着いてしまう。


 勝也の歩く音を聞きながら、何か話そうとした。貸した本のことは、もう話した。明日も来てくれることは、居間で聞いていた。


 それでも、もう1つ、ここにいてもらえる理由がほしかった。


 門の前で振り向くと、勝也が立っていた。


「今日は、ありがとう」

「……こちらこそ」


 返事をしたら、それで終わってしまいそうだった。門へ伸ばしかけた手を下ろした。


 勝也が、私の顔を覗いた。


「どうしたの……?」


 私は首を振りかけた。でも、手が勝也の袖へ触れていた。


「もう少し……」


 そこまでしか言えなかった。家へ戻ってと言うつもりではなかった。帰らないでと困らせたいわけでもなかった。


 ただ、目の前からいなくなる前に、もう1度近づきたかった。


 勝也が、私の手元を見てから、少し腕を動かした。


「……こっち、来る?」


 少し腕を開いてくれた。私は、その間へ1歩進んだ。


 背中へ手が回った。胸元へ額が触れた。昨日も触れた場所だった。


「こうしてたかった?」


 小さな声で聞かれて、頷いた。


「……うん」


 左腕は無理に回さず、体の前に置いた。右手で制服を少し掴むと、勝也が背中を支えてくれた。


 泣いていなくても、抱きしめてもらえた。


 昨日は、声も涙も止められなかった。今日は、本の話をして笑っていた。それでも、こうしていたいと思う気持ちは、同じだった。


 制服の布に頬を寄せ、目を閉じた。もう少しだけ、と口にしなくても、勝也はすぐには離れなかった。


「明日も来るよ」

「うん……」


 分かっていた。分かっていても、声で言ってもらうと嬉しかった。


 頭を、1度ゆっくり撫でられた。息を吐くと、勝也の腕の中で、肩が下がった。


 玄関の方で、お母さんの動く気配がした。でも、こちらへ声をかけることはなかった。


「……勝也」

「うん」

「明日……読み終わってなくても、来てね」


 言うと、頭の上で少し笑う息がした。


「もちろん。読み終わるまで来ない、なんてしないよ」


 私も、頬をつけたまま口元を緩めた。


 先に腕の力を抜いた。勝也が、それに合わせて少し離れた。手は、私が顔を上げるまで背中にあった。


「また明日」

「……うん。また、明日」


 今度は、自分で門を開けられた。


 道路へ出た勝也が、1度振り返った。手を振ると、同じように振ってくれた。


 見えなくなってからも、少しだけそこに立っていた。寂しくなくなったわけではなかった。けれど、袖を掴んだ手には、ちゃんと近づかせてもらえた感触が残っていた。


 お母さんと家へ戻った。居間のテーブルには、返してもらった本があった。


 勝也が笑ったところへ、紙の栞を挟んだ。


 私だけで読んでいた時には、印をつけなかった場所だった。


 夕飯のあとにも、1度そのページを開いた。寝る前に本を机へ戻し、お母さんに、おやすみ、と言った。


 明日、勝也が学校から帰ってきたら、また続きを話したかった。


     * * *


 翌日の木曜日。勝也は今日も、学校が終わってから来てくれることになっていた。


 昼ご飯のあとから、体が重かった。


 朝は、ちゃんと起きられた。顔を洗い、着替えもした。お母さんと少し話して、部屋で本も開いた。


 でも、同じページを、何度も読んでいた。栞を抜いたのに、進まないまま、また挟んだ。


 勝也が来るまでに、昨日とは違う話を考えておこうと思った。教えてもらった面白いところも、読み直しておきたかった。机の前へ座ると、目の奥が重くなった。


 お母さんに呼ばれて居間へ戻り、ソファへ座った。膝に置いた本が傾き、慌てて表紙を押さえる。落とさなかったことにほっとしても、もう1度開く気力はなかった。


「……今日は、眠い」


 自分で思っていたより、弱い声だった。


 お母さんが、読みかけの本をテーブルへ置いてくれた。


「少し横になる?」

「でも……もうすぐ、来るから」

「来たら、声をかけるよ」


 頷きかけて、時計を見た。寝てしまったら、すぐには起きられない気がした。せっかく会いに来てくれるのに、ずっと待たせるかもしれない。


 私は、背中を起こした。


「ここで、待ってる……」


 お母さんは、もう1度寝るようには言わなかった。クッションを1つ持ってきて、私の横へ置いた。


 背もたれへ寄りかかると、少し楽になった。膝の上で揃えていた指も、いつの間にか力が抜けていた。


 インターホンが鳴った時、私は立ち上がろうとした。お母さんが、先に廊下へ出た。


「私が開けてくるね」


 返事をする間に、玄関の方へ行ってしまった。私は、膝の上で服を直した。眼鏡が少し下がっていたので、指で押し上げた。


 廊下から、お母さんが誰かを迎える声が聞こえた。


「お邪魔します」


 勝也の声だった。それを聞くと、私も背筋を伸ばした。


 廊下を歩く音が近づいた。私は本を少し横へ寄せ、隣に人が座れる場所を空けた。勝也が居間へ入ってきた。


「こんにちは、優子」

「……こんにちは」


 私の前まで来て、足を止めた。昨日と違うところに座っていることに、気づいたようだった。


「ここ、座ってもいい?」


 ソファの隣を示され、頷いた。クッションを少し寄せると、勝也がリュックサックを下ろした。


 今日のプリントは、お母さんへ渡していた。そのあとで、私の隣へ腰を下ろした。


「今日は、どうしてた?」

「本を少し読んでたの」


 テーブルの本へ目をやった。栞は、ほとんど同じところだった。


「でも、あまり進んでないんだ」

「そうなんだ」


 勝也も、本を見た。


「俺も、昨日借りたの、まだ初めの方だよ」

「……忙しかった?」

「宿題もちょっとあったけど。昨日、帰ってから眠くなっちゃって」


 勝也は、少し困ったように笑った。


「途中で閉じた。今日の夜、また読もうと思ってる」


 私は、膝へ目を戻した。昨日は、帰ってしまう時まで、もっと話していたかった。今日は、会えた時から眠かった。


 隣にいる人へ顔を向けようとして、あくびが出た。慌てて、口を手で隠した。


「……ごめん」

「眠い?」


 小さく頷いた。


「来てくれたのに……」

「少し休んでていいよ」


 勝也は、テーブルへ置かれた本を見た。


「俺、ここで読んでてもいいし」

「でも、私が寝たら……」


 そこで、言葉が止まった。帰るの、と聞くのが、少し怖かった。昨日も、同じようなことを聞いた。


 勝也が、私の方へ顔を向けた。


「もう少し、ここにいるよ。帰る時は、声をかけるね」


 私は、服の上で指を重ねた。


「眠くて、あまり話せないかも」

「うん。今日は、ここでゆっくりしていようか」


 勝也はリュックサックを開け、ノートを1冊出した。学校で見ていた、普通のノートだった。


「宿題、持ってきてるんだ。少しやっててもいい?」

「……うん」


 勝也がソファから立った。私は顔を上げた。離れたテーブルの椅子へ行くのかと思った。


 でも、すぐ前の低いテーブルへノートを置き、床のクッションへ座った。


「ここなら、書けそう」


 筆箱を出す音がした。勝也は、こちらを振り返った。


「少し、音がするけど。気になる?」


 私は首を振った。


「聞こえる方がいい」


 勝也は、うん、と答えた。それ以上、理由は聞かれなかった。


 お母さんが、薄い掛け物を持ってきた。私の足へ広げ、冷房の風が当たらないよう、端を直してくれた。


「眠れなくても、横になっていていいからね」


 クッションへ頭を預けた。顔を向ければ、勝也の横顔が見えた。問題文を読んでいるらしく、鉛筆の先は止まっていた。


 勝也がノートを開いた。右手のガーゼに目が止まると、気づいたのか、鉛筆を軽く持ち直してくれた。


「手……」

「うん。強く握らなければ、書けるよ。痛くなったら本にする」


 私は頷いた。無理をしていないか気になったけれど、勝也は急いで書こうとはしなかった。問題文を目で追い、消しゴムを取りやすいところへ置き直した。学校と違って、次の授業が始まるまでに何かを終わらせなくてもよかった。


 鉛筆が動き始めた。紙を擦る音が、近くで聞こえた。ときどき止まり、また続いた。


 何の問題を解いているのか、見ようとした。でも、起き上がるほどの力は出なかった。学校の机だったら、こうして横になることはできない。今は、目を閉じてもよかった。


「勝也……」

「うん?」

「……ありがとう」


 勝也が、少しこちらを向いた。


「うん。おやすみ」


 返事をしようとした時には、もう、目が閉じかけていた。


     * * *


 目を開けると、同じところに勝也の背中があった。


 ノートは閉じられていた。代わりに、昨日貸した文庫本を開いていた。ページの下へ左手を添え、背中をソファへ軽く預けていた。


 私は、しばらくそのまま見ていた。本を読んでいる時は、眉があまり動かなかった。ページをめくる直前だけ、指が端へ移った。


 読み終わったところを聞いてみたかった。でも、今は、声をかけずに見ているのも好きだった。


 掛け物を少し動かすと、布が擦れる音がした。勝也が指を栞の代わりに挟み、こちらを振り返った。


「起きた?」

「……うん」

「お母さん、台所にいるよ」


 私は頷いた。居間の時計を見た。思っていたより、針が進んでいた。


「ずっとここにいてくれたの?」

「うん。宿題、終わったよ」


 勝也は、閉じたノートを少し持ち上げて見せた。


「本も、ちょっと進んだ」


 開いたページを見せようとして、いったん手を止めた。


「あ。これ、先に答え聞いちゃうところだった」


 勝也が自分で口を閉じたので、私も少し笑った。寝ている間に、ここまで読んだのだと分かった。私が何も話せなくても、勝也は自分の時間を過ごしながら、ここにいてくれた。待たせてしまったと思っていた気持ちが、少しだけ軽くなった。


 お母さんが、起きたのね、と来た。私は体を起こし、コップを受け取った。


 水を飲んでから、勝也へ顔を向けた。


「本、どこまで……?」

「ここ。今、ちょっと気になるところ」


 見せられたページを確かめた。その先を知っていたので、何も言わないように口を閉じた。


「何かある?」


 勝也に聞かれ、首を振りかけた。途中で止まると、勝也が小さく笑った。


「うん。読んでから、聞くね」


 私も頷いた。今日、全部を話してしまわなくても、次があった。


 勝也が本へ栞を挟んだところで、お母さんの携帯が鳴った。窓の外は、少しずつ夕方の色になっていた。お母さんは画面を見て、学校からだと小さく教えてくれた。廊下へ出て話す声が聞こえたが、何を言われているのかまでは分からなかった。私はコップへ両手を添えた。勝也は本を閉じたまま、隣に座っていた。しばらくして戻ってきたお母さんが、向かいへ腰を下ろした。


「昨日、お父さんと約束した連絡をくださったの。明日のことも、確かめられたよ」


 携帯を脇へ置き、私と勝也を見た。


「明日のことで、2人に話しておきたいんだけど」


 私はコップを持ち直した。


「夕方、お父さんと、学校へ行ってくることになったの」


 学校、と聞いて、眠っていた時の緩んだ感じが薄くなった。


「私も……?」

「ううん。優子は、おうちにいていいよ」


 お母さんは、私を見て答えた。


「先生たちから、詳しい説明を聞いてくる。今日までに確かめたこともあるそうだから」


 勝也は黙っていた。私も、何を聞けばいいのか分からなかった。


 学校へ、お母さんとお父さんが行く。教室ではなくても、あの建物の中で、私のことを話す。それを思うと、コップの水が飲めなくなった。


「……怒られない?」


 お母さんの目が、私のところで止まった。


「お父さんとお母さんが?」


 頷いた。誰に何を言われると思ったのか、自分でも、ちゃんと説明できなかった。大げさにするなと、言われる気がした。私が休んでいるせいで、また困らせるのかもしれなかった。


 お母さんは、少し考えてから答えた。


「話し合いに行くんだよ。優子に何があったかと、学校がこれからどうするかを、聞いてくるの」


 テーブルの私のコップへ、1度目を落とした。


「何か言われても、お父さんも一緒にいるから。お母さん1人で、黙って帰ってくるわけじゃないよ」


 私は、お母さんの顔を見た。すぐに怖くなくなりはしなかった。でも、お父さんが一緒にいるところは、思い浮かべられた。


 お母さんが、勝也へ顔を向けた。


「それで、勝也くん。明日、私たちが帰ってくるまで、優子と一緒にいてもらえるかな」


 私は、コップを持ったまま顔を上げた。


「お父さんとも話したんだけど、勝也くんにお願いできたらって。もちろん、おうちの都合が大丈夫ならでいいんだけど」


 勝也は、お母さんを見て頷いた。


「はい。俺でよければ」


 それから、私の方を向いた。


「優子も、それでいい?」

「……いてほしい」


 すぐに答えていた。勝也が、少し笑った。


「うん。じゃあ、明日も学校が終わったら来るね。母さんにも話しておく」

「ありがとう。時間のことは、私からも真紀さんにお話しするね」


 勝也が頷いた。


 私は、コップをテーブルへ置いた。空になってはいなかったけれど、もう、両手で握っていなくてもよかった。


 明日、お母さんたちがいない間も、勝也がいる。怖い時に顔を上げれば、ここで返事をしてもらえる。


 そう思うと、ようやく、あと少し水を飲めた。


     * * *


 その日の夕方、勝也が本とノートをリュックサックへ戻した。私は掛け物を畳み、門まで一緒に歩いた。


「今日は、寝ちゃって……」


 そこまで言うと、勝也がこちらを見た。


「少し、楽になった?」

「……うん」

「よかった。明日も、眠かったら寝てていいからね」


 頷いたあと、袖へ手を伸ばした。昨日と同じところを掴むと、勝也は門を開けずに待ってくれた。


「帰る前に……昨日みたいに、してもらってもいい?」


 言い終える頃には、顔を見られなくなっていた。でも、勝也は、うん、と答えた。


 腕が開いたところへ近づいた。胸元に額をつけると、背中へ手が回った。左腕を挟まないように、少し体をずらしてくれた。


「……これで、大丈夫?」

「うん」


 右手で制服を掴んだ。背中をゆっくり撫でられる間、明日まで会えない時間のことを考えずにいられた。


 私が顔を上げるまで、勝也は待ってくれた。


「また明日ね」

「……うん。待ってる」


 手を振って見送ってから、お母さんと家へ戻った。


 その夜、寝る前に、居間の本を2冊とも揃えておいた。明日は金曜日。お母さんたちが学校へ行く日だった。出かける前には、勝也が来てくれる。


 お母さんにも、もう1度そう確かめてから、私は部屋へ戻った。


    * * 勝也視点 * *


 翌日の金曜日、学校の帰りの会が終わると、俺は廊下の時計を見た。


 昨日、優子のお母さんから聞いた時刻まで、まだ余裕はあった。優子の家へ着いてから、ご両親が学校へ向かうことになっていた。俺の母さんも、今日は学校へ来る。


 家でその話をした時、母さんは、先に美和さんとも話したよ、と言った。帰る時刻が遅くなるなら、向こうからも連絡をくれることになっていた。


 俺が戸田に怪我をさせ、教室のドアとガラスを壊したことについて、母さんにも学校から説明がある。優子のご両親の面談とは別に、俺がしたことを話す時間が取られていた。俺自身は、したことをもう話していた。母さんにも、家で同じことを伝えてある。優子の被害について集めた話を、俺から学校へ説明し直す約束はしていなかった。資料はご両親へ渡したままだったし、学校への不信感がなくなったわけでもなかった。今日は夕方から保護者と話をするので、俺はいつもどおり下校してよいと伝えられていた。


 廊下を歩きながら、リュックサックの肩紐へ指をかけた。


 火曜日には、教室から出る時も、まだ言いたいことがあった。説明しても聞かない相手に、これ以上何を話せばいいのかと思っていた。


 今は、お母さんたちが来る。ご両親が資料をどう使うかは、ご両親に任せていた。学校が本当に調べているかを確かめるのも、引き受けると言ってもらっていた。俺は、優子の家へ行っていい。


 職員室でプリントを受け取り、昇降口へ向かった。靴を履いて外へ出ると、まだ日差しが強かった。


 道の端へ寄って携帯を出し、優子へ電話をかけた。


「今、学校出たよ。これから向かうね」


『うん。待ってるね』


 昨日までは、着いてインターホンを押してから声を聞いていた。歩き出す前にそう言ってもらえると、早く顔を見たくなった。


 携帯をしまい、日陰のある側へ渡った。


 昨日、目を覚ました優子は、最初に俺のいる方を見た。目が合うと、まだ眠そうな顔で、少し笑った。


 本を閉じたあとも、俺はすぐには立ちたくなかった。宿題は終わっていたし、家へ帰れば本の続きも読めた。でも、目を覚ました優子と、あと少し話していたかった。


 今日も、同じところへ行ける。優子の声を思い出しながら、家までの道を歩いた。


     * * *


 今日は、お父さんも玄関へ出てきた。学校へ出かけるための鞄が、上がり框のそばに置かれていた。


「こんにちは。お邪魔します」

「こんにちは。今日も来てくれて、ありがとう」


 頭を下げると、お父さんは俺の手へ目を向けた。


「傷は、どうかな」

「はい。まだ少し痛いですけど、昨日よりは」

「そうか。荷物は、そこへ置いていいよ」


 鞄の横へリュックサックを下ろした。お父さんは居間の方を見てから、俺へ顔を戻した。


「預かったノート、水曜日に学校でも見てもらったよ」


 顔を上げた。


「そうですか」

「今は、うちへ持ち帰ってある。今日は、学校がその後どこまで確かめたのか、聞いてくる」


 学校へ預けたままではないと分かり、頷いた。自分では見せなかった物を、優子のお父さんが必要だと思って見せた。そのことを嫌だとは思わなかった。


「みんなの字を読んでいると、何度も集まって確かめてくれたことが分かるね。見つけられた物も、話をしてくれた人も、勝也くんだけではつながらなかったんだろう」

「はい。みんなが、手伝ってくれたので」

「その子たちにも、ありがとうと伝えてね。君にも、改めてお礼を言いたかった」


 俺は、もう1度頭を下げた。言っておきたいことが、いくつか喉のところへ来た。見つかっていない物もあること。聞ききれていない話もあること。


 けれど、お父さんは、読んだと言っていた。空いたところを、今すぐ全部埋めなければならないわけではなかった。


「まだ、見つかってない物もあるんです」

「うん。そこも、学校へ伝えてあるよ。昨日の連絡では、まだ全部は見つかっていないという話だった。今日も確かめてくるね」


 俺は頷いた。お父さんの手に、鞄があった。中身を、ここで見せてもらおうとは思わなかった。


 優子が、そばで待っていた。俺が靴を脱ぐと、少し安心したように居間へ向いた。


「こっち……」

「うん」


 今日は、少し先を歩いてくれた。俺が洗面所の前で立ち止まると、優子も振り返った。


「手、洗ってから行くね」


 優子は頷き、居間の入口を少し開けたままにしてくれた。


 優子が廊下の先へ行くと、お母さんが俺のそばへ来た。お父さんも、居間の方を見ていた。


「昨日、お願いしたことなんだけどね」


 お母さんは、少し声を落とした。


「昨日、あのあと、少し楽になったって言っていたの。勝也くんが来てくれたら話さなきゃって、頑張ろうとしていたみたいだから。眠っていてもいてくれたのが、嬉しかったんだと思う」


 俺は、さっき優子が歩いていった方を見た。昨日は眠っている時間も長かったけれど、起きたあとには、本の続きを聞いてくれた。


「帰ったあとも、勝也くんがこう言ってたよって、話してくれるんだよ」


 お父さんが言った。


「会いたい相手がいて、来てもらえることを楽しみにできる。それが、私たちにも嬉しいんだ」


 どう答えればいいか分からず、俺はリュックサックの紐へ触れた。


「今日は、私たちが学校で話をしている間、一緒にいてくれるかな。遅くなるようなら、こちらから必ず連絡するから」

「はい。一緒に待ってます」


 お父さんが、ありがとう、と頭を下げた。俺も慌てて頭を下げた。


 居間から、優子が俺を呼んだ。顔を向けると、入口のそばに立っていた。


「……テレビ、見てもいい?」

「うん。手、洗ってくるね」


 優子が頷いた。戻っていく足音を聞きながら、俺は洗面所へ向かった。


     * * *


 お母さんは、戸締まりを確かめてから居間へ戻ってきた。


 優子はソファに座っていた。俺は、低いテーブルの脇へ置いたリュックサックから手を離した。


「それじゃ、行ってくるね」


 お母さんは、台所に軽く食べられる物を用意してあると教えてくれた。長くなったら先に食べていてよいと言われ、俺も礼を言った。出かける声を聞いて、優子がソファから立ち上がった。


 廊下までついていき、玄関の手前で止まった。俺も、その少し後ろへ立った。


「何かあったら、電話してね。遅くなる時は、お母さんからもかけるから」

「……うん」


 優子の返事は、小さかった。お父さんが、靴を履き終えて振り返った。


「帰ってきてから、優子にまた同じことを聞くために行くんじゃないからね」


 優子が顔を上げた。


「今日は、先生たちの話を聞いてくる。家で待っていてくれればいいよ」


 頷いた顔が、また少し下がった。俺は、隣まで進んだ。


 優子の指が、俺の袖へ触れた。引っ張られたわけではなかった。その位置にあることを、指先で確かめるようだった。


「勝也くん、優子のこと、よろしくね。帰る時刻が変わったら、真紀さんにも伝えておくね」


 お母さんへ、はい、と答えた。


 お父さんが扉を開けた。外の光が、土間へ入ってきた。


「……行ってらっしゃい」


 優子が言った。2人とも、1度こちらを見て返事をした。


 扉が閉まった。


 車が出る音を聞くまで、優子はそこにいた。音が遠ざかってからも、指は袖に触れていた。


「居間、戻ろうか」


 顔を見て聞くと、優子は頷いた。歩き出す時に、指が離れた。


 居間へ戻る前に、廊下の明かりをつけた。帰ってきた時にも、このままでいいだろうと思った。優子はその光を見てから、俺の左手へ指を添えた。俺も指を曲げて握り、居間まで並んで歩いた。


    * * 優子視点 * *


 居間へ戻ると、ソファにリモコンが置いてあった。お母さんたちが出かける前に、私が持ってきたものだった。私はそこへ腰を下ろし、右手でリモコンを取った。


 テレビの画面は、まだ暗かった。隣へ座った勝也が、私の手元を見た。


「何、見る?」

「録ってあるアニメがあるの」


 深夜に放送しているものだった。起きて見ることはできないので、録画していた。まだ見ていない話が、いくつか残っている。


「途中からでも、分かるかな」


 勝也に聞かれ、頷いた。


「1話ずつだから……大丈夫だと思う」

「じゃあ、それ、一緒に見たい」


 リモコンを持ち直し、テレビをつけた。録画してある番組を選ぶと、いつもの歌が流れ始めた。


 勝也が画面へ顔を向けた。私も画面へ向き直り、リモコンをテーブルへ置いた。


 さっきまで気になっていた、台所の静かさが分からなくなった。お母さんたちが学校へ着いたかどうかは、まだ気になった。でも、時計へ目を向ける前に、画面の中で声がした。


「この人が、主人公?」

「うん。その隣の人もよく出てくるよ」


 知っているところだけ、小さな声で説明した。勝也は頷き、それからすぐ画面へ目を戻した。


 登場人物の1人が言い間違えて、別の人が本気にしてしまった。慌てて説明するのに、かえって話がややこしくなる。隣で、勝也が笑った。


 私は、画面から少しだけ目を外した。


「面白い?」

「うん。今の、言い直さない方がよかったね」

「うん」


 私も笑った。1人で見ていたら、そのまま次の台詞を聞いていたと思う。今は、同じところで笑ったことまで嬉しかった。


 コップへ手を伸ばし、ひと口飲んだ。戻す時、隣に置かれた勝也の手が見えた。


 火曜日に、私の手を包んでくれた。昨日、帰る前にも、背中へ回してくれた手だった。


「勝也」

「うん?」


 テレビの中では、まだ話が続いていた。勝也は、こちらへ顔を向けた。


「夜も……少し、眠れた」


 言うと、勝也はリモコンへ手を伸ばし、音を少し小さくした。


「そうなんだ。昨日も?」

「うん。火曜日から……」


 膝へ置いた手を見た。


「抱きしめてくれたから」


 勝也が、黙って私を見た。私は、指を少し重ねた。


「寝る時……思い出すの」


 手を包んでくれたことも、泣いている間、ずっと背中に手があったことも。うまく言えずに指を握り直すと、勝也は急かさず待ってくれた。


 布団の中で目を閉じると、背中を撫でてくれた手を思い出せた。もう帰ってしまったあとでも、その手がまだそこにあるような気がした。


「まだ、あったかい気がして……」

「……そっか」


 勝也の声が柔らかくなり、目元が少し緩んだ。


「眠れたって聞けて、俺も嬉しいよ」


 私は頷いた。昼間、そばにいてくれた時にも眠れた。夜、1人で布団へ入った時には、帰り際の腕の中を思い出した。今日それを話すと、勝也も喜んでくれた。


 嬉しそうに言ってくれたので、私も顔を上げられた。テレビから、さっき笑っていた人の声がした。今度は何と言ったのか、聞き取れなかった。


「……あのね」

「うん」


 右手を、ソファの上で少し動かした。勝也の袖までは、まだ届かなかった。


「今、つらいわけじゃ……ないんだけど」


 そこで止まると、勝也は続きを待ってくれた。


「また、抱きしめて……もらっても、いい?」


 口にしたら、顔が熱くなった。泣きそうだからではなかった。さっきまで、2人で笑っていた。そのまま、もっと近くにいたかった。


「うん。いいよ」


 勝也がリモコンを置いた。私の方へ体を向け、腕を開いてくれた。


 座ったまま、少しずつ近づいた。左腕を体の前に置き、右手を制服へ添えた。胸元へ額が触れると、背中へ手が回った。


「これで、痛くない?」

「うん……」


 眼鏡が当たらないように、頬を少しずらした。勝也も腕の位置を直し、背中をゆっくり撫でてくれた。


 制服越しに、体の温かさが伝わってきた。息を吐くと、さっきまで上がっていた肩が下がった。


「……こうしてるの、好き」


 顔を伏せたまま言った。背中の手が、1度止まった。それから、またゆっくり動いた。


「うん」


 頭の上から、返事がした。私は右手に少しだけ力を入れた。


 テレビの声が続いていた。顔を横へ向ければ画面も見えたけれど、今は、そうしなかった。台詞と、近くで聞こえる勝也の呼吸を聞いていた。


 テーブルの上で、エアコンの風に紙の端が動いた。小さく擦れる音も、今日は気にならなかった。


 しばらくして、背中を撫でる手が止まった。離れるのかと思い、少し顔を上げた。でも、勝也は自分の座る位置を直しただけだった。


「こっちの方が、楽かな」


 背もたれへ少し体を預け、私が寄りかかれるようにしてくれた。私は頷いて、もう1度頬を戻した。


「……まだ、こうしててもいい?」

「いいよ。優子は、苦しくない?」

「うん。大丈夫……」


 言い終わる前に、背中を支える手の温かさが戻ってきた。少しだけのつもりでお願いしたのに、勝也は時間を決めなかった。


 テレビの中では、さっきの騒ぎが終わったようだった。誰かの笑う声のあとに、終わりの歌が流れた。


 見始めた時には、隣に座っていた。お話が終わる頃にも、まだ勝也の腕の中にいた。歌が終わっても、すぐに離れなくてよかった。


「最後、見てなかったね」


 小さく言うと、勝也が少し笑った。


「俺も。あとで、戻して見ようか」

「うん。でも……もう少し、あとでもいい?」

「うん」


 それだけで、また静かになった。勝也の服を掴んでいた指を、少し緩めた。離れないように握っていなくても、背中の腕はそのままだった。


 私は目を閉じた。言いたいことがなくなっても、ここにいてよかった。


     * * *


 窓の外の色が変わったことに気づいたのは、勝也が顔を上げた時だった。


「明かり、つけようか」


 私も窓を見た。ガラスに、寄り添っている私たちが薄く映っていた。


 ずいぶん長く、こうしていた。それでも、体を離すのが惜しかった。制服へ添えていた手を下ろすと、勝也は私がちゃんと座り直すまで待ってくれた。


「……ありがとう」

「うん」


 勝也が明かりをつけ、カーテンを引いた。私はリモコンを持ち、録画を少し前へ戻した。どこから見ていなかったのか、すぐには分からなかった。


「この辺も見てないね」

「俺も、その前からかも」


 戻ってきた勝也と顔を見合わせ、少し笑った。抱きしめてもらっていた間にも、お話はこんなに進んでいた。


 続きを見始めてから、携帯が鳴った。お母さんだった。


「……もしもし」


『優子? 大丈夫?』


「うん」


 勝也が、テレビを一時停止した。


『少し長くなっているの。もう少し、待っていてくれる?』


「うん。勝也と、テレビ見てる……」


『そう。2人で見てたのね』


 お母さんの声が、少し緩んだ。私は携帯を耳へ寄せた。


「お母さんは……大丈夫?」


『うん。お父さんも、そばにいるよ。ちゃんと話しているからね』


 疲れている気はしたけれど、泣いてはいなかった。私は、もう1度、うん、と答えた。


『勝也くんに代わってもらってもいい?』


 返事をして、携帯を渡した。勝也は少し背筋を伸ばした。


「はい。勝也です」


 お母さんの話を聞き、何度か頷いた。


「大丈夫です。はい。母さんには、俺からも帰る時に連絡します」


 私は、止まった画面を見た。リモコンへ手を伸ばすと、勝也の制服に触れていた指に、まだ少し温かさが残っていた。


 電話を切ると、勝也が携帯を返してくれた。


「もう少しかかるって。帰ってくるまで、ここにいるよ」

「おうち、大丈夫?」

「うん。母さんも分かってるから」


 私は頷いた。勝也が、続きを見る、と画面を示した。


「うん……」


 再生のボタンを押した。話の終わりまで見ても、勝也はまだここにいてくれる。そう思うと、今度は落ち着いて画面を見られた。


 終わりの歌を、2人で聞いた。勝也が、なるほどね、と言った。


「あの時の言い間違い、最後まで出てきたね」

「うん。ちゃんと覚えてたんだね」


 同じところを思い出して笑った。次の話も録ってあると言うと、勝也が、見たい、と答えた。


 始まりの歌が流れる間に、私は少しだけ肩を寄せた。勝也が、こちらを見た。


「……さっきみたいに、しててもいい?」


 今度は、顔を見て聞けた。勝也が頷いて、背中へ腕を回してくれた。


 その中へ戻り、体を少し横へ向けた。今度は、ここからテレビが見えた。背中の手がときどき動くたびに、頬を寄せ直した。


 台詞に笑うと、勝也の体も少し揺れた。近くで同じ声を聞けることが嬉しくて、また少し笑った。


 テーブルの上のコップに、テレビの明かりが映っていた。少し動けば手が届くのに、今はそのまま寄りかかっていたかった。


 次のお話も、終わりに近づいていた。勝也の腕は、まだ私の背中にあった。


     * * *


 お母さんが用意してくれた軽い夕飯を、途中で勝也と一緒に食べた。食器を台所へ運んでから居間へ戻り、見ていた話の続きを再生した。門の方で音がした時には、すっかり夜になっていた。私はリモコンを置いて、顔を上げた。勝也は耳を澄ましてから、腕を緩めた。


「帰ってきたみたいだね」


 私は頷いた。すぐに立ち上がると、少し足が重かった。長く、同じ姿勢で座っていた。


 勝也が、私の立つのを待った。一緒に廊下へ出ると、玄関の扉が開いた。


「ただいま」


 お母さんの声だった。その後ろに、お父さんもいた。


「……お帰りなさい」


 言うと、お母さんが顔を上げた。私と勝也を見て、少し笑った。


「遅くなって、ごめんね。待っていてくれて、ありがとう」


 私は、お母さんの顔を見た。疲れているようだった。でも、私を見て、何か言おうと唇を噛むことはなかった。


「ちゃんと、お話……できた?」

「うん。できたよ」


 お母さんは、鞄を下ろした。


「今日、学校が確認したことを聞いてきた。まだ確かめることもあるから、続けて話をすることになったよ」


 お父さんも頷いた。


「優子が、明日何かを決めないといけない、という話はしていないからね」


 私は、少し息を吐いた。すぐに返事を求められることはなかった。お父さんは靴を脱ぎ、お母さんの鞄も一緒に持って居間へ向かった。


 勝也が、1歩下がった。


「じゃあ、俺も、そろそろ帰ります」


 分かっていたのに、そちらを見た。お母さんたちが帰るまで、と言っていた。ちゃんと、その時までいてくれた。


「遅くまでありがとう。真紀さんは、ひと足先に帰られたから、おうちにいらっしゃると思うよ」

「はい。連絡してから帰ります」


 勝也が居間へ戻った。私は、その後ろについていった。リュックサックを持ち上げる前に、本の入ったところを確かめていた。今日はまだ、借りた本の続きを全部は読めていないと言っていた。テレビにも、見ていない話が残っていた。


「明日も……来てくれる?」


 勝也が顔を上げた。


「うん。お昼を食べてからでも、いい?」


 頷いた。学校のあとに来る日より、早く会えた。


「1時半くらいで、どうかな」

「……待ってる」


 そう答えると、勝也が笑った。私は、テレビの方へ目を向けた。今日見られなかった続きが、まだ残っていた。全部見てしまわなかったことが、少し嬉しかった。


 勝也は家へ電話をかけ、両親が帰ってきたことと、今から帰ることを伝えた。短く返事をしてから、携帯を閉じた。


「母さん、もう家で待ってるって」


 私は頷いた。お母さんたちが帰るまで、という約束は守ってくれた。そのあとにも勝也を待っている人がいた。


 お父さんが居間へ入ってきた。勝也は向き直り、軽い夕飯をいただいたお礼を言った。


「こちらこそ、遅くまでありがとう。気をつけて帰ってね」

「はい。明日も、お邪魔していいですか」

「うん。優子と話して決めてくれたら、それでいいよ」


 勝也が私を見た。さっき約束した時刻を伝えると、お母さんも頷いた。


「待っているね」


 私は勝也と一緒に玄関へ向かった。帰ってしまうのが寂しかった。今日は長く隣にいてもらったのに、それだけで、もう大丈夫とは思えなかった。


 靴を履いた勝也が振り返った。私は右手を伸ばし、袖へ触れた。


「……少しだけ」


 勝也が荷物を置いた。私の方へ歩み寄り、背中へ手を回してくれた。肩へ顔を寄せると、テレビを見ていた時と同じ温かさが戻ってきた。


「今日、楽しかったね」


 頷いた。笑っていたところを思い出すと、今も少しだけ口元が緩んだ。


「明日、続き見ようね」

「……うん」


 顔を上げるまで、勝也は待っていてくれた。私が袖から手を離すと、荷物を持ち直した。


 お母さんと一緒に、門まで見送った。勝也が角を曲がる前に、もう1度手を振ってくれた。私も手を上げ、見えなくなるまでそこにいた。


 明日は、1時半だった。


 まだ遠い時間のように感じたけれど、何時に来るのか分からないまま待つのとは違った。私はお母さんと家へ戻り、テレビのそばに置いたリモコンを見た。明日は今日の続きから、また一緒に見られる。


    * * 勝也視点 * *


 家の鍵を開けると、台所の明かりがついていた。母さんが顔を出し、俺を見ると、帰ってきたね、と言った。


「ただいま。遅くなって、ごめん」

「お帰り。連絡してくれたから、大丈夫だよ」


 靴を揃え、リュックサックを下ろした。テーブルには学校から持ち帰った封筒があった。手を洗って戻ると、母さんがお茶を入れてくれた。


「今日は、学校へ行ってくれて、ありがとう」


 母さんが座るのを待って、向かいの椅子へ腰を下ろした。湯呑みから、細く湯気が上がっていた。


「うん。勝也から聞いていたことも、先生たちに確かめてきたよ」


 母さんは、テーブルの封筒から紙を出した。全部広げるのではなく、自分で書いたらしいところへ目を落とした。


「まず、勝也が話してくれた順番と、学校で聞いた話は、同じだった」


 俺は頷いた。制服を掴んだことも、押したことも、母さんには初めから話していた。戸田に叩かれたところだけを話して、俺のしたことを飛ばしたわけではなかった。


「荒川くんが止めてくれたことも、聞いた」

「うん」

「ドアの修理は、学校で手配するそうよ。うちへ弁償を求める話ではないって」

「俺も、主任の先生にそう言われた」


 そこは同じだった。けれど、払わなくていいと言われても、自分で壊したことまで消えた感じはしなかった。ガラスが床へ落ちた時、入口にいた人たちが顔を引いたことを覚えていた。


「壊したことは、謝った。ほかの人にも、当たったかもしれないから」


 母さんが俺を見た。


「うん。そこは、忘れないでね」


 返事をして、テーブルへ置いた右手を見た。ガーゼの端は、今朝より少し浮いていた。指を曲げると傷が引きつる。戸田の顔も、俺が家へ帰って寝れば元に戻るわけではなかった。


「その子を椅子へ座らせてから、謝ったことも、先生は知っていたよ」

「……うん」


 俺は母さんへ顔を戻した。ガラスのあるところへ倒れないようにした時、戸田は、また何かされると思ったように身を縮めた。肩へ腕を回したあとも、俺の手を見ていた。


「怖がってた。俺が近づいただけでも」


 口にすると、椅子へ座らせた時の顔が、また浮かんだ。


「それくらいのことをしたんだよね」


 母さんの声は大きくなかった。俺は頷いた。あの時、戸田が怖がったことを、知らなかったとは言えなかった。


「でも、殴ったのは必要だったって、まだ思ってる」


 そこまで答えてから、右手を膝へ下ろした。怒られないために違うことを言っても、母さんと話したことにはならなかった。


「優子がされたことを聞いて、あんなふうに笑われたまま、帰りたくなかった」

「うん。勝也がそう思っていることは、分かった」


 母さんは、俺が続きを言わないか、少し待った。


「お母さんは、殴ってよかったとは言えない。それは、この間話した時から変わってないよ」

「……うん」

「もう手は出さないって、約束したよね」

「した。のりちゃんにも、母さんにも」


 母さんが頷いた。俺も、もう1度頷いた。あそこで殴った気持ちを、今すぐ全部なくすことはできなかった。それでも、次に腹が立った時も殴るつもりでいるわけではなかった。宣仁に止めてもらった時の腕の重さと、翔太の小さな声は、まだ覚えていた。


「先生には、優子ちゃんの相談を聞いてもらえなかったことも尋ねたよ」


 顔を上げると、母さんは紙へ目を戻した。


「学校にも、対応できていなかったところがあると話していた。それで終わらせずに、何を確かめて、どうするのかを、ご両親へきちんと伝えてくださいって言ってきた」

「……そうなんだ」

「勝也が怪我をさせたことは、ちゃんと話す。でも、それで優子ちゃんがされたことまで消す話にはしない。そこは、この間、勝也にも言ったでしょう」


 俺は頷いた。母さんに謝ってもらうだけの面談ではなかった。そのことが分かると、少し肩の力が抜けた。


「まだ、学校を信用できるとは思ってない」

「うん」

「調べた物も、優子の家へ渡した。学校へは、お父さんが見せてくれたって」

「美和さんからも、聞いたよ。勝也たちが集めた物、大事にしているって」


 閉じたノートを、優子のお父さんが読んでいたところを思い出した。何人かの字が混ざったページを、ゆっくりめくっていた。今はもう、俺の部屋にはなかった。


「先生に言われたから、何でも話そうとは思ってないんだ」

「うん。無理に預けなさいとは言わないよ」


 母さんはそう答えてから、封筒を脇へ寄せた。


「ただ、自分がしたことを聞かれた時には、今日みたいに話してね。殴ったことや、ドアを壊したことまで、何も話さないというわけにはいかないから」

「そこは、話したよ。もう1度聞かれても、話す」


 言うと、母さんは頷いた。優子から聞いたことを全部話せ、と続けられなかった。俺は手を膝から上げ、湯呑みへ添えた。


「学校へ行かせちゃって、ごめん。仕事もあったのに」

「話をしに行く必要があったから、行ったんだよ。それより、また同じことにならないようにしてほしい」

「うん」


 母さんは、俺の手をもう1度見た。俺が湯呑みから手を離すと、指の先へ軽く触れた。血が流れていた日のような顔はしなかったけれど、すぐには手を戻さなかった。


 俺も黙っていた。心配をかけたと謝るだけでは、次の約束を守ったことにはならなかった。母さんの手が離れるまで待ち、それから、少しぬるくなったお茶へ口をつけた。


 母さんは、封筒を鞄へ戻した。それから、優子の家で何をしていたのか尋ねた。


「録ってあったアニメを、一緒に見てた。見てないところへ戻したりして、あんまり進まなかったけど」

「優子ちゃんも、楽しめた?」

「うん。笑ってたよ」


 言うと、母さんの表情が少し和らいだ。俺も、ソファで優子が笑ったところを思い出した。聞き逃した台詞を確かめるために戻したのに、また同じところで笑っていた。


「俺も、楽しかった」


 そう続けると、母さんは頷いた。


「明日も行くの?」

「うん。お昼を食べてから。1時半に行くって、約束した」

「じゃあ、今日はゆっくり寝ないとね」


 俺は残っていたお茶を飲んだ。学校の話を全部済ませたから、もう何も考えなくていいわけではなかった。でも、明日、優子と会ったら何を話すかまで、その続きにしなくてもよかった。


     * * *


 風呂へ入る前に制服のシャツを脱ぐと、胸元から、かすかにいつもと違う香りがした。手に持った布を見て、ソファで優子がそこへ頬を寄せていたことを思い出した。笑った時に少し体が揺れたことも、腕の中から顔を上げた時の目も、まだよく覚えていた。


 長くくっついていたから、服にまで残っていた。


 少し照れくさくなり、袖を揃えた。さっきまで、ここに顔があった。優子は、抱きしめてほしいと自分から言ってくれた。泣いている時だけでなく、笑っている時にも隣にいたいと思ってもらえたことが、嬉しかった。


 シャツを洗濯物のところへ置いた。今頃は、優子も着替えているだろうかと思った。携帯を見れば声をかけられるけれど、何を聞くかは浮かばなかった。帰る時に、また明日、と話してきたばかりだった。


 風呂から出て部屋へ戻り、本を机へ置いた。栞の先には、まだ読んでいないページがあった。今夜全部読むより、明日、隣で少しずつ読んでもよかった。


 携帯を開き、今日はありがとう、と送った。すぐに、私も楽しかった、と返ってきた。


 明日、楽しみにしてるね。おやすみ。


 そう返して、携帯を閉じた。


    * * 優子視点 * *


 寝間着へ替えようと服を持ち上げた時に、勝也の香りがした。


 胸元へ顔を寄せていた時と、同じだった。脱いだ服を膝へ置くと、長く抱きしめてもらったことを思い出して、口元が緩んだ。


 お父さんとお母さんが帰ってくるまで、一緒に待っていた。話をしない時間にも、勝也は腕を離さなかった。私が笑うと、近くで同じように笑ってくれた。


 携帯に届いた、楽しみにしてるね、という言葉を、もう1度読んだ。待っているのは、私だけではなかった。


 おやすみ、と返して枕元へ置いた。脱いだ服を畳み、明かりを小さくした。布団へ入ると、隣に勝也はいなかった。寂しさは残っていたけれど、背中へ回してくれた手を思い出せた。


 明日は、昼ご飯を食べたら来てくれる。


 見ていないアニメの続きを、どこから始めようかと思った。本の感想も、また聞きたかった。言いたいことを全部うまく話せなくても、勝也は待ってくれた。


 携帯を確かめ直さずに、目を閉じた。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

放課後に優子を訪ね、本やアニメを一緒に楽しむ。金曜日は両親の面談中に優子と過ごし、帰宅後、母と学校での面談について話す。


・富田 優子

休養中に楽しんだり、眠ったりしてよいと受け止めてもらう。勝也に抱きしめてほしいと伝え、翌日の訪問を楽しみに待つ。


・優子の母(美和)

優子の休養を支え、学校との連絡や面談を進める。金曜日は勝也に娘と過ごしてもらい、帰宅後に感謝を伝える。


・優子の父(泰臣)

調査資料を学校へ見せたことを勝也へ伝え、金曜日には美和と面談に出向く。娘に判断を急がせず、学校の対応を確かめる。


・勝也の母(真紀)

勝也自身の暴力と破損について学校で説明を受け、帰宅後に息子と話す。優子への被害も曖昧にせず、もう手を出さないという約束を確かめる。

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