第29話 明日、続きを
* * 勝也視点 * *
水曜日の放課後、俺は学校から、そのまま優子の家へ向かった。
門が見えたところで、リュックサックの肩紐を掛け直した。
昨日は、手提げの口から教科書が見えていた。今日は、その手提げはなかった。右手のガーゼを袖に引っかけないよう、左手でリュックサックの紐を直した。インターホンを押す前に、携帯を出した方がいいだろうかと迷った。番号は、昨日教えてもらったばかりだった。
でも、今日は行くと約束していた。携帯をポケットへ戻し、ボタンを押した。
『はい』
優子の声だった。
「やほ、着いたよ」
『うん』
返事のあと、少し音が途切れた。
『待ってて。今、開けるから』
「ありがとう」
昨日は、何を言えば出てきてもらえるのか考えていた。今日は、待っていてと言われた。
塀の内側から足音がした。門が開き、優子が顔を出した。
「こんにちは」
「こんにちは」
顔を見て挨拶すると、優子は少し口元を緩めた。昨日と同じ眼鏡を掛けている。短く揃えられた白い髪が、肩の辺りへまっすぐ落ちていた。目元にまだ疲れた感じはあったけれど、門の向こうへ隠れるようには下がらなかった。
「……お帰り」
「ただいま。帰りに先生のところへ寄って、プリントもらってきたんだ」
プリント、と繰り返しかけた唇が止まった。
「あと、本も」
リュックサックの肩へ手を添えると、優子の目がそちらへ動いた。
「持ってきてくれたの?」
「うん。あとで、感想聞いてね」
優子が、門をもう少し開けた。俺を中へ入れてから門を閉め、隣へ戻ってきた。
家までの短い道を、2人で歩いた。昨日、長く立っていたところを通った時、優子の足が少し遅くなった。俺も、歩幅を小さくした。
何か言いかけたようだったが、声は聞こえなかった。そのまま玄関へ着いた。
「お邪魔します」
上がり框の向こうから、お母さんが来た。
「いらっしゃい。今日も来てくれて、ありがとう」
「いえ。あの、先生から預かってきた物があります」
靴を脱ぐ前に、リュックサックを下ろした。ファイルから封筒を出し、お母さんへ渡す。
「これは、保護者の方へって。授業で配ったプリントは、別にあります」
「ありがとう。あとで見ておくね」
封筒を受け取ると、お母さんは優子の方を見た。
「先に居間へ行っていてくれる?」
「うん」
優子が頷いた。けれど、歩き出す前に俺の靴へ目を向けた。俺は、片方の踵を抜いたところだった。
「もう脱げるから、一緒に行こうか」
そう言うと、優子はその場で待っていた。俺が靴を揃えて上がると、今度は歩き出した。
居間へ入る前に、手を洗わせてもらった。右手のガーゼを見て、お母さんが清潔なタオルを出してくれた。手当てをしたところを濡らさないようにして洗い、指の間の水を拭く。昨日、途中で血を落とそうとした時とは違って、洗面台の水は透明なままだった。
「お母さんには、見てもらえた?」
「はい。昨日、帰ってから。手当てもしてもらいました」
「そう。まだ痛む時は、遠慮しないで言ってね」
「ありがとうございます」
優子は廊下で待っていた。タオルを返して戻ると、俺の右手を見てから、居間の方へ体を向けた。昨日と同じ椅子を引いてくれたので、礼を言って座った。優子も隣へ腰を下ろす。少し離れていた椅子が、床を擦らないよう持ち上げられ、俺の方へ寄った。
「ここでいい?」
俺が荷物を足元へ置きながら聞くと、優子が頷いた。昨日は、話さなければならないことがいくつもあった。今日は、座ってから何を話そうかと考える余裕があった。
俺はファイルを開き、授業のプリントを出した。優子の指が、膝の上で重なった。
「これ、今日の分。花沢先生が、すぐ全部やらなくても大丈夫だって言ってたよ」
「花沢先生……?」
俺は、プリントから顔を上げた。
「今日から、3組の担任になった先生。女の先生だよ」
優子はお母さんを見た。お母さんが、テーブルの向かいで頷いた。
「お父さんからも、電話で聞いたよ。今日から替わったんだって」
優子の目が、もう1度俺へ戻った。
「……本当に?」
「うん。朝も帰りも、その先生だったよ」
膝の上で重なっていた指が、少し動いた。でも、それだけで顔から緊張がなくなったわけではなかった。
「戸田たちも、今日は教室にいなかった」
名前を聞いた優子の肩が動いた。俺は声を大きくしないまま、続きを伝えた。
「別の部屋で、先生と話したり、勉強したりしてるって。今は、俺たちの教室へ来させないって聞いたよ」
「……いつまで?」
「いつまでかは、まだ聞いてないんだ」
分からないことまで、大丈夫だとは言えなかった。優子が目を伏せると、お母さんが少し椅子を近づけた。
「そのことで、お父さんが確かめてきたこともあるよ。あの4人を、優子と同じ3組には戻さないって。教室へ戻れるようになった子は、学年主任の先生の1組へ移す方針だそうよ」
俺も、お母さんの顔を見た。そこまでは聞いていなかった。優子は口を少し開いたが、何も言わず、膝へ目を落とした。
「ほかのことも、あとでお父さんと一緒に話そうね。全部、今聞かなくてもいいから」
「私も……先生に会うの?」
「今は、会う約束はしていないよ。優子に聞かずに決めないからね」
優子は小さく頷いた。俺は、まだ触っていないプリントの端が折れないよう、ファイルを少し横へ寄せた。
俺は、プリントを揃えた。優子の方へ押しつけず、テーブルの真ん中に置いた。
「渡す物は、これで全部だよ」
優子が、俺を見た。
「……明日、持っていくの?」
「終わったプリント?」
頷いた。
「明日までにやって、とは言われてないよ。俺、そこも先生に聞いたから」
今日、配布物を受け取った時に聞いた返事を、そのまま伝えた。お母さんも、急いで取り組まなくていいと言った。
優子は、それでも少し紙を見ていた。俺はリュックサックから、もう1つの袋を出した。
「こっちは、俺が返したかった物」
文庫本を取り出すと、優子が顔を上げた。
新しい紙のカバーは、借りた時のままだった。何度か開いたところだけ、少し手になじんでいた。
「長く借りてて、ごめんね。ありがとう。面白かったよ」
優子が両手を伸ばした。俺は、取りやすい向きで本を置いた。
「……読めた?」
「うん。最後まで」
紙の背へ触れていた指が、止まった。
「最初に……戻った?」
その聞き方を、覚えていた。教室で貸してくれた時、途中で言うのをやめた続きだった。
「戻った。言ってたの、あそこだったんだね」
優子の目が、少し大きくなった。
「同じこと書いてあるのに、最初に読んだ時と、違う感じになった」
「……うん」
「俺、初めはあの人が嘘ついてると思ったんだよね」
優子は、本の前の方を開いた。探す場所が決まっているように、何枚か続けてめくった。
「ここ……?」
「そう。そこで、何で今それ言うんだろって」
俺が指したところへ、優子も目を向けた。初めに読んだ時は気にならなかった言葉が、あとから効いてきた。最後の方で分かって、俺は夜なのに、あ、と声を出していた。
「俺、そこ分かった時、誰かに言いたくなった」
言ってから、優子の顔を見た。
「今日、言えてよかった」
優子の唇が、少し開いた。それから、ゆっくり閉じた。
「私も……」
声は小さかった。
「そこのこと、話したかった」
「うん」
お母さんが、プリントを手に取った。
「これは、いったんこちらへ置いておくね。本、2人で見るんでしょう」
優子が頷いた。テーブルの上に、本を置く場所ができた。お母さんはプリントを棚へ置き、台所へ戻った。
* * *
優子の好きなところは、俺が気になった場面より少し前だった。
そこへ戻るために、2人でページをめくった。俺は後ろの方だと思っていたが、優子は、もう少し前、と言った。
「この辺?」
「ううん、もう少し前」
見つかると、優子は行を指さした。声に出して読むのではなく、俺が目で追うのを待った。
「ここまでだよ」
指が、1つ先の行へ移った。俺は最後まで読んでから、顔を上げた。
「俺、そこ、初めはそんなに気にしてなかった」
「そう?」
「うん。でも、最後まで読むと、分かる気がする」
優子は、行の横へ指を置いたまま、少し考えていた。
「私は、最初に読んだ時からここが好きだったの」
「どういうところが?」
聞くと、優子はさっき指した行へ目を戻した。
「……ちゃんと、見てたところ」
優子の指が、少し前のページへ戻った。今指している人が、前の場面で何をしていたかを示してくれたのだと分かった。
「この前から?」
頷いた。本を俺へ少し向け直し、読むのを待ってくれた。
俺は、もう1度その部分を読んだ。確かに、そこまでの場面が頭に残っていると、別の意味にも見えた。
「ああ。だから、その前のところも好きなんだ」
「うん」
今度の返事は、少し早かった。
優子が後ろの方を開き、さっき俺が話した場面へ指を置いた。そこで気づいても、前へ戻れる。
「……あとからでも」
「俺、完全にそっちだった」
優子が小さく笑った。俺も、つられて口元を緩めた。
同じ本を読んでも、同じ順番で面白くなるわけではなかった。優子が気に入ったところを聞くと、俺が読んだ時には通り過ぎていた場面が、もう1度気になった。
「あと……ここも」
「うん。どこ?」
優子はページをめくり、途中で俺を見た。
「……退屈じゃない?」
「退屈じゃないよ。優子がどこ好きなのか、聞きたかったから」
優子の指が、紙の端から離れた。
「俺の好きなところも、あとで聞いてね」
「うん。聞きたい」
「じゃあ、先に優子の続き、聞かせてね」
促すと、優子は少しだけ笑った。もう1度ページへ目を落とした。
お母さんが、冷たい麦茶を運んできた。俺たちの間へ本が広げてあるのを見て、コップを端へ置いた。
「そこ、濡らさないようにね」
「はい。ありがとうございます」
お母さんが台所へ戻るのを見送り、コップを少し離してから続きを聞いた。
優子は、ときどき俺を見た。頷くと、次に読んでほしい行を指した。言葉が出てこない時は、その指が止まるのを待った。分からないところを尋ねると、本を前へ戻してくれた。
俺が1つ尋ねると、優子も好きな場面を1つ教えてくれた。聞いているうちに、さっき読んだばかりのページへ何度も戻った。
俺も、本の中で気になったところを探した。
「俺は、ここ」
ページを示すと、優子が身を寄せた。髪が肩から落ち、眼鏡の脇へかかった。
「そこ?」
「うん。ちょっと笑った」
優子が読んだ。先ほどまでと違って、すぐに頷かなかった。
「私、そこは困ってるところだと思った」
「困ってるんだけど。ここまで格好つけといて、そこで間違えるのかって」
俺が言うと、優子は前の数行へ目を戻した。読み終わる頃に、口の端が少し上がった。
「それはそうかも」
「でしょ」
大きな声で笑うほどの場面ではなかった。でも、1人で読んだ時より、今の方が面白かった。
俺がもう1度その場面を読むと、優子も同じところへ目を落とした。さっきは気にならなかった言い訳が、今度は格好つけているように読めたらしい。唇の端が、また少し上がった。
「次に読む時、ここで思い出しそう」
優子が小さく言った。
「俺のこと?」
頷かれて、少し照れくさくなった。
「もっと、ちゃんとした感想も言ったんだけどな」
優子は口元を手で隠した。その向こうから、さっきよりはっきり笑う息が聞こえた。大きく笑ったわけではなかった。でも、俺も嬉しくなって、本へ顔を戻した。ほかにも話しておきたかった場面が、まだあった。
* * *
本を閉じる頃には、麦茶のコップが空いていた。
優子は表紙を撫で、そのまま両手で持った。昨日、学校の物が見えた時とは違う持ち方だった。
「貸してくれて、ありがとう」
もう1度言うと、優子は首を振った。
「私の方こそ、ありがとう」
「俺、借りた方だよ」
「でも、読んでくれたから」
優子が、本を胸の前へ寄せた。
「最後まで一緒に話せて、嬉しかった」
俺は、うん、と答えた。教室で借りた時、続きまで聞きたかったことを思い出した。
「また、読んで面白かったのがあったら教えてね」
「今、あるよ」
思っていたより早く返事が来た。優子も自分で気づいたのか、少し顔を伏せた。
「あ、でも……急にじゃ、なくて」
「どんな本?」
尋ねると、優子が顔を上げた。今度は、部屋の方を見た。
「持ってきてもいい?」
「うん。見せてほしい」
優子は返した本を抱えて立った。空いた椅子へ手を添え、机にぶつからないよう戻してから、廊下へ向かった。
優子は居間の入口で振り返った。俺が見ていると分かると、小さく頷いて、廊下へ出た。
お母さんが台所から来た。空いたコップを持ち上げ、優子の出ていった方を見た。
「本の話、できたんだね」
「はい。俺、見落としてたところ、教えてもらいました」
「そう」
お母さんは笑い、テーブルに残った本の袋を畳んだ。
「ここが面白いんだよって言える相手がいると、もう1度読むのも楽しくなるね」
「はい。俺も、さっき返した本、また読みたくなりました」
お母さんが空いたコップを台所へ運んでいく。その間に時計を見た。思っていたより長く座っていたが、まだ慌てて帰る時刻ではなかった。リュックサックを少し手前へ寄せ、次の本を入れる場所を空けたところで、優子が戻ってきた。
本を2冊持っていた。俺の手元のリュックサックを見て、歩く速さが少し落ちた。
「……帰る?」
「まだ大丈夫だよ。本、入れるところ空けてたんだ」
優子は頷いた。隣へ戻り、持ってきた本を並べた。
「どっちが、いいかなって……」
「両方、見てからでもいい?」
「うん」
片方は、さっき返した本と同じ作者だった。もう片方は、俺の読んだことのない人の本だった。優子は先の展開を話さないように、ときどき説明を止めた。そこで俺を見るので、読んでからのお楽しみ、と言うと頷いた。
「じゃあ、今日はこっち借りてもいい?」
同じ作者の方を選んだ。優子が、どうぞ、と寄せてくれた。
「急がなくて……」
言いかけて、少し笑った。俺も、その続きを待って笑った。
「うん。分かってるよ」
本を受け取り、袋へ収めた。今日は返して軽くなるつもりだったところへ、次の1冊が入った。
読み終わった時に、また話せる。リュックサックへ入れながら、それを楽しみにしていた。
「明日も、学校が終わったら来るね」
優子が頷いて、お母さんを見た。お母さんも、待ってるね、と答えてくれた。
* * 優子視点 * *
貸した本が、勝也のリュックサックへ入った。
返してもらった方は、私の手元にあった。この前、教室で渡した時には、読んでもらえたか聞けるかどうかも分からなかった。今日は、好きなところを指で示し、少しずつ言葉にできた。
長くなっていると思って止めた時も、続きを聞いてくれた。私が選んだ場面を、もう1度読んでくれた。
楽しかった。
そう思ったあとで、棚へ置かれたプリントが目に入った。学校では、今日も授業が進んでいた。その時間には家で休んでいたのに、放課後になった今は、本の話を楽しめていた。
持っていた本を、膝へ下ろした。
「……私、こんなことしてて、いいのかな」
勝也がファスナーから手を離した。
「本の話?」
頷いた。自分でも、何を謝ろうとしているのか、はっきりしなかった。
「休んでるのに……」
途中で言えなくなった。勝也は、椅子を少しこちらへ向けた。
「俺は、一緒に話せて楽しかったよ」
私は、本の角を見た。
「でも、学校には……行けないのに」
「うん」
勝也は、それなら行けるとは言わなかった。少し考えてから、プリントの方を見た。
「学校は休んでていいって、お母さんとも話したんだよね」
「……うん」
「その間、本を読んでもいいと思うよ。俺と話して笑ったから、明日行かなきゃってことにはならないよ」
お母さんも、そばへ来た。
「勝也くんの言うとおりだよ」
私の椅子の背へ手を置いた。
「楽しい時間があったら、お母さんも嬉しい。休んでいる間、ずっとつらい顔をしていないといけないわけじゃないの」
顔を上げると、お母さんは、さっき私たちの話を聞いていた時と同じ顔で見ていた。
「今日は、本の話ができてよかったね」
私は、ゆっくり頷いた。
よかったと、思ってもよかった。学校のことを考えて苦しくなる私と、勝也の話に笑った私は、どちらも私だった。少し笑えたからといって、もう全部できるはずだと、2人とも言わなかった。
膝の本を、もう1度持ち上げた。
「……楽しかった」
勝也へ言うと、目元が少し緩んだ。
「うん。よかった」
その顔を見て、私も小さく笑えた。
* * *
帰る時刻を聞かなくても、勝也が本をしまうと分かった。お母さんへ挨拶する間、私は玄関で待った。靴を履いて立ち上がった勝也と、門まで歩く。お母さんは、玄関の前から見送っていた。昨日と同じ道なのに、今日は短く感じた。
あと数歩で、門へ着いてしまう。
勝也の歩く音を聞きながら、何か話そうとした。貸した本のことは、もう話した。明日も来てくれることは、居間で聞いていた。
それでも、もう1つ、ここにいてもらえる理由がほしかった。
門の前で振り向くと、勝也が立っていた。
「今日は、ありがとう」
「……こちらこそ」
返事をしたら、それで終わってしまいそうだった。門へ伸ばしかけた手を下ろした。
勝也が、私の顔を覗いた。
「どうしたの……?」
私は首を振りかけた。でも、手が勝也の袖へ触れていた。
「もう少し……」
そこまでしか言えなかった。家へ戻ってと言うつもりではなかった。帰らないでと困らせたいわけでもなかった。
ただ、目の前からいなくなる前に、もう1度近づきたかった。
勝也が、私の手元を見てから、少し腕を動かした。
「……こっち、来る?」
少し腕を開いてくれた。私は、その間へ1歩進んだ。
背中へ手が回った。胸元へ額が触れた。昨日も触れた場所だった。
「こうしてたかった?」
小さな声で聞かれて、頷いた。
「……うん」
左腕は無理に回さず、体の前に置いた。右手で制服を少し掴むと、勝也が背中を支えてくれた。
泣いていなくても、抱きしめてもらえた。
昨日は、声も涙も止められなかった。今日は、本の話をして笑っていた。それでも、こうしていたいと思う気持ちは、同じだった。
制服の布に頬を寄せ、目を閉じた。もう少しだけ、と口にしなくても、勝也はすぐには離れなかった。
「明日も来るよ」
「うん……」
分かっていた。分かっていても、声で言ってもらうと嬉しかった。
頭を、1度ゆっくり撫でられた。息を吐くと、勝也の腕の中で、肩が下がった。
玄関の方で、お母さんの動く気配がした。でも、こちらへ声をかけることはなかった。
「……勝也」
「うん」
「明日……読み終わってなくても、来てね」
言うと、頭の上で少し笑う息がした。
「もちろん。読み終わるまで来ない、なんてしないよ」
私も、頬をつけたまま口元を緩めた。
先に腕の力を抜いた。勝也が、それに合わせて少し離れた。手は、私が顔を上げるまで背中にあった。
「また明日」
「……うん。また、明日」
今度は、自分で門を開けられた。
道路へ出た勝也が、1度振り返った。手を振ると、同じように振ってくれた。
見えなくなってからも、少しだけそこに立っていた。寂しくなくなったわけではなかった。けれど、袖を掴んだ手には、ちゃんと近づかせてもらえた感触が残っていた。
お母さんと家へ戻った。居間のテーブルには、返してもらった本があった。
勝也が笑ったところへ、紙の栞を挟んだ。
私だけで読んでいた時には、印をつけなかった場所だった。
夕飯のあとにも、1度そのページを開いた。寝る前に本を机へ戻し、お母さんに、おやすみ、と言った。
明日、勝也が学校から帰ってきたら、また続きを話したかった。
* * *
翌日の木曜日。勝也は今日も、学校が終わってから来てくれることになっていた。
昼ご飯のあとから、体が重かった。
朝は、ちゃんと起きられた。顔を洗い、着替えもした。お母さんと少し話して、部屋で本も開いた。
でも、同じページを、何度も読んでいた。栞を抜いたのに、進まないまま、また挟んだ。
勝也が来るまでに、昨日とは違う話を考えておこうと思った。教えてもらった面白いところも、読み直しておきたかった。机の前へ座ると、目の奥が重くなった。
お母さんに呼ばれて居間へ戻り、ソファへ座った。膝に置いた本が傾き、慌てて表紙を押さえる。落とさなかったことにほっとしても、もう1度開く気力はなかった。
「……今日は、眠い」
自分で思っていたより、弱い声だった。
お母さんが、読みかけの本をテーブルへ置いてくれた。
「少し横になる?」
「でも……もうすぐ、来るから」
「来たら、声をかけるよ」
頷きかけて、時計を見た。寝てしまったら、すぐには起きられない気がした。せっかく会いに来てくれるのに、ずっと待たせるかもしれない。
私は、背中を起こした。
「ここで、待ってる……」
お母さんは、もう1度寝るようには言わなかった。クッションを1つ持ってきて、私の横へ置いた。
背もたれへ寄りかかると、少し楽になった。膝の上で揃えていた指も、いつの間にか力が抜けていた。
インターホンが鳴った時、私は立ち上がろうとした。お母さんが、先に廊下へ出た。
「私が開けてくるね」
返事をする間に、玄関の方へ行ってしまった。私は、膝の上で服を直した。眼鏡が少し下がっていたので、指で押し上げた。
廊下から、お母さんが誰かを迎える声が聞こえた。
「お邪魔します」
勝也の声だった。それを聞くと、私も背筋を伸ばした。
廊下を歩く音が近づいた。私は本を少し横へ寄せ、隣に人が座れる場所を空けた。勝也が居間へ入ってきた。
「こんにちは、優子」
「……こんにちは」
私の前まで来て、足を止めた。昨日と違うところに座っていることに、気づいたようだった。
「ここ、座ってもいい?」
ソファの隣を示され、頷いた。クッションを少し寄せると、勝也がリュックサックを下ろした。
今日のプリントは、お母さんへ渡していた。そのあとで、私の隣へ腰を下ろした。
「今日は、どうしてた?」
「本を少し読んでたの」
テーブルの本へ目をやった。栞は、ほとんど同じところだった。
「でも、あまり進んでないんだ」
「そうなんだ」
勝也も、本を見た。
「俺も、昨日借りたの、まだ初めの方だよ」
「……忙しかった?」
「宿題もちょっとあったけど。昨日、帰ってから眠くなっちゃって」
勝也は、少し困ったように笑った。
「途中で閉じた。今日の夜、また読もうと思ってる」
私は、膝へ目を戻した。昨日は、帰ってしまう時まで、もっと話していたかった。今日は、会えた時から眠かった。
隣にいる人へ顔を向けようとして、あくびが出た。慌てて、口を手で隠した。
「……ごめん」
「眠い?」
小さく頷いた。
「来てくれたのに……」
「少し休んでていいよ」
勝也は、テーブルへ置かれた本を見た。
「俺、ここで読んでてもいいし」
「でも、私が寝たら……」
そこで、言葉が止まった。帰るの、と聞くのが、少し怖かった。昨日も、同じようなことを聞いた。
勝也が、私の方へ顔を向けた。
「もう少し、ここにいるよ。帰る時は、声をかけるね」
私は、服の上で指を重ねた。
「眠くて、あまり話せないかも」
「うん。今日は、ここでゆっくりしていようか」
勝也はリュックサックを開け、ノートを1冊出した。学校で見ていた、普通のノートだった。
「宿題、持ってきてるんだ。少しやっててもいい?」
「……うん」
勝也がソファから立った。私は顔を上げた。離れたテーブルの椅子へ行くのかと思った。
でも、すぐ前の低いテーブルへノートを置き、床のクッションへ座った。
「ここなら、書けそう」
筆箱を出す音がした。勝也は、こちらを振り返った。
「少し、音がするけど。気になる?」
私は首を振った。
「聞こえる方がいい」
勝也は、うん、と答えた。それ以上、理由は聞かれなかった。
お母さんが、薄い掛け物を持ってきた。私の足へ広げ、冷房の風が当たらないよう、端を直してくれた。
「眠れなくても、横になっていていいからね」
クッションへ頭を預けた。顔を向ければ、勝也の横顔が見えた。問題文を読んでいるらしく、鉛筆の先は止まっていた。
勝也がノートを開いた。右手のガーゼに目が止まると、気づいたのか、鉛筆を軽く持ち直してくれた。
「手……」
「うん。強く握らなければ、書けるよ。痛くなったら本にする」
私は頷いた。無理をしていないか気になったけれど、勝也は急いで書こうとはしなかった。問題文を目で追い、消しゴムを取りやすいところへ置き直した。学校と違って、次の授業が始まるまでに何かを終わらせなくてもよかった。
鉛筆が動き始めた。紙を擦る音が、近くで聞こえた。ときどき止まり、また続いた。
何の問題を解いているのか、見ようとした。でも、起き上がるほどの力は出なかった。学校の机だったら、こうして横になることはできない。今は、目を閉じてもよかった。
「勝也……」
「うん?」
「……ありがとう」
勝也が、少しこちらを向いた。
「うん。おやすみ」
返事をしようとした時には、もう、目が閉じかけていた。
* * *
目を開けると、同じところに勝也の背中があった。
ノートは閉じられていた。代わりに、昨日貸した文庫本を開いていた。ページの下へ左手を添え、背中をソファへ軽く預けていた。
私は、しばらくそのまま見ていた。本を読んでいる時は、眉があまり動かなかった。ページをめくる直前だけ、指が端へ移った。
読み終わったところを聞いてみたかった。でも、今は、声をかけずに見ているのも好きだった。
掛け物を少し動かすと、布が擦れる音がした。勝也が指を栞の代わりに挟み、こちらを振り返った。
「起きた?」
「……うん」
「お母さん、台所にいるよ」
私は頷いた。居間の時計を見た。思っていたより、針が進んでいた。
「ずっとここにいてくれたの?」
「うん。宿題、終わったよ」
勝也は、閉じたノートを少し持ち上げて見せた。
「本も、ちょっと進んだ」
開いたページを見せようとして、いったん手を止めた。
「あ。これ、先に答え聞いちゃうところだった」
勝也が自分で口を閉じたので、私も少し笑った。寝ている間に、ここまで読んだのだと分かった。私が何も話せなくても、勝也は自分の時間を過ごしながら、ここにいてくれた。待たせてしまったと思っていた気持ちが、少しだけ軽くなった。
お母さんが、起きたのね、と来た。私は体を起こし、コップを受け取った。
水を飲んでから、勝也へ顔を向けた。
「本、どこまで……?」
「ここ。今、ちょっと気になるところ」
見せられたページを確かめた。その先を知っていたので、何も言わないように口を閉じた。
「何かある?」
勝也に聞かれ、首を振りかけた。途中で止まると、勝也が小さく笑った。
「うん。読んでから、聞くね」
私も頷いた。今日、全部を話してしまわなくても、次があった。
勝也が本へ栞を挟んだところで、お母さんの携帯が鳴った。窓の外は、少しずつ夕方の色になっていた。お母さんは画面を見て、学校からだと小さく教えてくれた。廊下へ出て話す声が聞こえたが、何を言われているのかまでは分からなかった。私はコップへ両手を添えた。勝也は本を閉じたまま、隣に座っていた。しばらくして戻ってきたお母さんが、向かいへ腰を下ろした。
「昨日、お父さんと約束した連絡をくださったの。明日のことも、確かめられたよ」
携帯を脇へ置き、私と勝也を見た。
「明日のことで、2人に話しておきたいんだけど」
私はコップを持ち直した。
「夕方、お父さんと、学校へ行ってくることになったの」
学校、と聞いて、眠っていた時の緩んだ感じが薄くなった。
「私も……?」
「ううん。優子は、おうちにいていいよ」
お母さんは、私を見て答えた。
「先生たちから、詳しい説明を聞いてくる。今日までに確かめたこともあるそうだから」
勝也は黙っていた。私も、何を聞けばいいのか分からなかった。
学校へ、お母さんとお父さんが行く。教室ではなくても、あの建物の中で、私のことを話す。それを思うと、コップの水が飲めなくなった。
「……怒られない?」
お母さんの目が、私のところで止まった。
「お父さんとお母さんが?」
頷いた。誰に何を言われると思ったのか、自分でも、ちゃんと説明できなかった。大げさにするなと、言われる気がした。私が休んでいるせいで、また困らせるのかもしれなかった。
お母さんは、少し考えてから答えた。
「話し合いに行くんだよ。優子に何があったかと、学校がこれからどうするかを、聞いてくるの」
テーブルの私のコップへ、1度目を落とした。
「何か言われても、お父さんも一緒にいるから。お母さん1人で、黙って帰ってくるわけじゃないよ」
私は、お母さんの顔を見た。すぐに怖くなくなりはしなかった。でも、お父さんが一緒にいるところは、思い浮かべられた。
お母さんが、勝也へ顔を向けた。
「それで、勝也くん。明日、私たちが帰ってくるまで、優子と一緒にいてもらえるかな」
私は、コップを持ったまま顔を上げた。
「お父さんとも話したんだけど、勝也くんにお願いできたらって。もちろん、おうちの都合が大丈夫ならでいいんだけど」
勝也は、お母さんを見て頷いた。
「はい。俺でよければ」
それから、私の方を向いた。
「優子も、それでいい?」
「……いてほしい」
すぐに答えていた。勝也が、少し笑った。
「うん。じゃあ、明日も学校が終わったら来るね。母さんにも話しておく」
「ありがとう。時間のことは、私からも真紀さんにお話しするね」
勝也が頷いた。
私は、コップをテーブルへ置いた。空になってはいなかったけれど、もう、両手で握っていなくてもよかった。
明日、お母さんたちがいない間も、勝也がいる。怖い時に顔を上げれば、ここで返事をしてもらえる。
そう思うと、ようやく、あと少し水を飲めた。
* * *
その日の夕方、勝也が本とノートをリュックサックへ戻した。私は掛け物を畳み、門まで一緒に歩いた。
「今日は、寝ちゃって……」
そこまで言うと、勝也がこちらを見た。
「少し、楽になった?」
「……うん」
「よかった。明日も、眠かったら寝てていいからね」
頷いたあと、袖へ手を伸ばした。昨日と同じところを掴むと、勝也は門を開けずに待ってくれた。
「帰る前に……昨日みたいに、してもらってもいい?」
言い終える頃には、顔を見られなくなっていた。でも、勝也は、うん、と答えた。
腕が開いたところへ近づいた。胸元に額をつけると、背中へ手が回った。左腕を挟まないように、少し体をずらしてくれた。
「……これで、大丈夫?」
「うん」
右手で制服を掴んだ。背中をゆっくり撫でられる間、明日まで会えない時間のことを考えずにいられた。
私が顔を上げるまで、勝也は待ってくれた。
「また明日ね」
「……うん。待ってる」
手を振って見送ってから、お母さんと家へ戻った。
その夜、寝る前に、居間の本を2冊とも揃えておいた。明日は金曜日。お母さんたちが学校へ行く日だった。出かける前には、勝也が来てくれる。
お母さんにも、もう1度そう確かめてから、私は部屋へ戻った。
* * 勝也視点 * *
翌日の金曜日、学校の帰りの会が終わると、俺は廊下の時計を見た。
昨日、優子のお母さんから聞いた時刻まで、まだ余裕はあった。優子の家へ着いてから、ご両親が学校へ向かうことになっていた。俺の母さんも、今日は学校へ来る。
家でその話をした時、母さんは、先に美和さんとも話したよ、と言った。帰る時刻が遅くなるなら、向こうからも連絡をくれることになっていた。
俺が戸田に怪我をさせ、教室のドアとガラスを壊したことについて、母さんにも学校から説明がある。優子のご両親の面談とは別に、俺がしたことを話す時間が取られていた。俺自身は、したことをもう話していた。母さんにも、家で同じことを伝えてある。優子の被害について集めた話を、俺から学校へ説明し直す約束はしていなかった。資料はご両親へ渡したままだったし、学校への不信感がなくなったわけでもなかった。今日は夕方から保護者と話をするので、俺はいつもどおり下校してよいと伝えられていた。
廊下を歩きながら、リュックサックの肩紐へ指をかけた。
火曜日には、教室から出る時も、まだ言いたいことがあった。説明しても聞かない相手に、これ以上何を話せばいいのかと思っていた。
今は、お母さんたちが来る。ご両親が資料をどう使うかは、ご両親に任せていた。学校が本当に調べているかを確かめるのも、引き受けると言ってもらっていた。俺は、優子の家へ行っていい。
職員室でプリントを受け取り、昇降口へ向かった。靴を履いて外へ出ると、まだ日差しが強かった。
道の端へ寄って携帯を出し、優子へ電話をかけた。
「今、学校出たよ。これから向かうね」
『うん。待ってるね』
昨日までは、着いてインターホンを押してから声を聞いていた。歩き出す前にそう言ってもらえると、早く顔を見たくなった。
携帯をしまい、日陰のある側へ渡った。
昨日、目を覚ました優子は、最初に俺のいる方を見た。目が合うと、まだ眠そうな顔で、少し笑った。
本を閉じたあとも、俺はすぐには立ちたくなかった。宿題は終わっていたし、家へ帰れば本の続きも読めた。でも、目を覚ました優子と、あと少し話していたかった。
今日も、同じところへ行ける。優子の声を思い出しながら、家までの道を歩いた。
* * *
今日は、お父さんも玄関へ出てきた。学校へ出かけるための鞄が、上がり框のそばに置かれていた。
「こんにちは。お邪魔します」
「こんにちは。今日も来てくれて、ありがとう」
頭を下げると、お父さんは俺の手へ目を向けた。
「傷は、どうかな」
「はい。まだ少し痛いですけど、昨日よりは」
「そうか。荷物は、そこへ置いていいよ」
鞄の横へリュックサックを下ろした。お父さんは居間の方を見てから、俺へ顔を戻した。
「預かったノート、水曜日に学校でも見てもらったよ」
顔を上げた。
「そうですか」
「今は、うちへ持ち帰ってある。今日は、学校がその後どこまで確かめたのか、聞いてくる」
学校へ預けたままではないと分かり、頷いた。自分では見せなかった物を、優子のお父さんが必要だと思って見せた。そのことを嫌だとは思わなかった。
「みんなの字を読んでいると、何度も集まって確かめてくれたことが分かるね。見つけられた物も、話をしてくれた人も、勝也くんだけではつながらなかったんだろう」
「はい。みんなが、手伝ってくれたので」
「その子たちにも、ありがとうと伝えてね。君にも、改めてお礼を言いたかった」
俺は、もう1度頭を下げた。言っておきたいことが、いくつか喉のところへ来た。見つかっていない物もあること。聞ききれていない話もあること。
けれど、お父さんは、読んだと言っていた。空いたところを、今すぐ全部埋めなければならないわけではなかった。
「まだ、見つかってない物もあるんです」
「うん。そこも、学校へ伝えてあるよ。昨日の連絡では、まだ全部は見つかっていないという話だった。今日も確かめてくるね」
俺は頷いた。お父さんの手に、鞄があった。中身を、ここで見せてもらおうとは思わなかった。
優子が、そばで待っていた。俺が靴を脱ぐと、少し安心したように居間へ向いた。
「こっち……」
「うん」
今日は、少し先を歩いてくれた。俺が洗面所の前で立ち止まると、優子も振り返った。
「手、洗ってから行くね」
優子は頷き、居間の入口を少し開けたままにしてくれた。
優子が廊下の先へ行くと、お母さんが俺のそばへ来た。お父さんも、居間の方を見ていた。
「昨日、お願いしたことなんだけどね」
お母さんは、少し声を落とした。
「昨日、あのあと、少し楽になったって言っていたの。勝也くんが来てくれたら話さなきゃって、頑張ろうとしていたみたいだから。眠っていてもいてくれたのが、嬉しかったんだと思う」
俺は、さっき優子が歩いていった方を見た。昨日は眠っている時間も長かったけれど、起きたあとには、本の続きを聞いてくれた。
「帰ったあとも、勝也くんがこう言ってたよって、話してくれるんだよ」
お父さんが言った。
「会いたい相手がいて、来てもらえることを楽しみにできる。それが、私たちにも嬉しいんだ」
どう答えればいいか分からず、俺はリュックサックの紐へ触れた。
「今日は、私たちが学校で話をしている間、一緒にいてくれるかな。遅くなるようなら、こちらから必ず連絡するから」
「はい。一緒に待ってます」
お父さんが、ありがとう、と頭を下げた。俺も慌てて頭を下げた。
居間から、優子が俺を呼んだ。顔を向けると、入口のそばに立っていた。
「……テレビ、見てもいい?」
「うん。手、洗ってくるね」
優子が頷いた。戻っていく足音を聞きながら、俺は洗面所へ向かった。
* * *
お母さんは、戸締まりを確かめてから居間へ戻ってきた。
優子はソファに座っていた。俺は、低いテーブルの脇へ置いたリュックサックから手を離した。
「それじゃ、行ってくるね」
お母さんは、台所に軽く食べられる物を用意してあると教えてくれた。長くなったら先に食べていてよいと言われ、俺も礼を言った。出かける声を聞いて、優子がソファから立ち上がった。
廊下までついていき、玄関の手前で止まった。俺も、その少し後ろへ立った。
「何かあったら、電話してね。遅くなる時は、お母さんからもかけるから」
「……うん」
優子の返事は、小さかった。お父さんが、靴を履き終えて振り返った。
「帰ってきてから、優子にまた同じことを聞くために行くんじゃないからね」
優子が顔を上げた。
「今日は、先生たちの話を聞いてくる。家で待っていてくれればいいよ」
頷いた顔が、また少し下がった。俺は、隣まで進んだ。
優子の指が、俺の袖へ触れた。引っ張られたわけではなかった。その位置にあることを、指先で確かめるようだった。
「勝也くん、優子のこと、よろしくね。帰る時刻が変わったら、真紀さんにも伝えておくね」
お母さんへ、はい、と答えた。
お父さんが扉を開けた。外の光が、土間へ入ってきた。
「……行ってらっしゃい」
優子が言った。2人とも、1度こちらを見て返事をした。
扉が閉まった。
車が出る音を聞くまで、優子はそこにいた。音が遠ざかってからも、指は袖に触れていた。
「居間、戻ろうか」
顔を見て聞くと、優子は頷いた。歩き出す時に、指が離れた。
居間へ戻る前に、廊下の明かりをつけた。帰ってきた時にも、このままでいいだろうと思った。優子はその光を見てから、俺の左手へ指を添えた。俺も指を曲げて握り、居間まで並んで歩いた。
* * 優子視点 * *
居間へ戻ると、ソファにリモコンが置いてあった。お母さんたちが出かける前に、私が持ってきたものだった。私はそこへ腰を下ろし、右手でリモコンを取った。
テレビの画面は、まだ暗かった。隣へ座った勝也が、私の手元を見た。
「何、見る?」
「録ってあるアニメがあるの」
深夜に放送しているものだった。起きて見ることはできないので、録画していた。まだ見ていない話が、いくつか残っている。
「途中からでも、分かるかな」
勝也に聞かれ、頷いた。
「1話ずつだから……大丈夫だと思う」
「じゃあ、それ、一緒に見たい」
リモコンを持ち直し、テレビをつけた。録画してある番組を選ぶと、いつもの歌が流れ始めた。
勝也が画面へ顔を向けた。私も画面へ向き直り、リモコンをテーブルへ置いた。
さっきまで気になっていた、台所の静かさが分からなくなった。お母さんたちが学校へ着いたかどうかは、まだ気になった。でも、時計へ目を向ける前に、画面の中で声がした。
「この人が、主人公?」
「うん。その隣の人もよく出てくるよ」
知っているところだけ、小さな声で説明した。勝也は頷き、それからすぐ画面へ目を戻した。
登場人物の1人が言い間違えて、別の人が本気にしてしまった。慌てて説明するのに、かえって話がややこしくなる。隣で、勝也が笑った。
私は、画面から少しだけ目を外した。
「面白い?」
「うん。今の、言い直さない方がよかったね」
「うん」
私も笑った。1人で見ていたら、そのまま次の台詞を聞いていたと思う。今は、同じところで笑ったことまで嬉しかった。
コップへ手を伸ばし、ひと口飲んだ。戻す時、隣に置かれた勝也の手が見えた。
火曜日に、私の手を包んでくれた。昨日、帰る前にも、背中へ回してくれた手だった。
「勝也」
「うん?」
テレビの中では、まだ話が続いていた。勝也は、こちらへ顔を向けた。
「夜も……少し、眠れた」
言うと、勝也はリモコンへ手を伸ばし、音を少し小さくした。
「そうなんだ。昨日も?」
「うん。火曜日から……」
膝へ置いた手を見た。
「抱きしめてくれたから」
勝也が、黙って私を見た。私は、指を少し重ねた。
「寝る時……思い出すの」
手を包んでくれたことも、泣いている間、ずっと背中に手があったことも。うまく言えずに指を握り直すと、勝也は急かさず待ってくれた。
布団の中で目を閉じると、背中を撫でてくれた手を思い出せた。もう帰ってしまったあとでも、その手がまだそこにあるような気がした。
「まだ、あったかい気がして……」
「……そっか」
勝也の声が柔らかくなり、目元が少し緩んだ。
「眠れたって聞けて、俺も嬉しいよ」
私は頷いた。昼間、そばにいてくれた時にも眠れた。夜、1人で布団へ入った時には、帰り際の腕の中を思い出した。今日それを話すと、勝也も喜んでくれた。
嬉しそうに言ってくれたので、私も顔を上げられた。テレビから、さっき笑っていた人の声がした。今度は何と言ったのか、聞き取れなかった。
「……あのね」
「うん」
右手を、ソファの上で少し動かした。勝也の袖までは、まだ届かなかった。
「今、つらいわけじゃ……ないんだけど」
そこで止まると、勝也は続きを待ってくれた。
「また、抱きしめて……もらっても、いい?」
口にしたら、顔が熱くなった。泣きそうだからではなかった。さっきまで、2人で笑っていた。そのまま、もっと近くにいたかった。
「うん。いいよ」
勝也がリモコンを置いた。私の方へ体を向け、腕を開いてくれた。
座ったまま、少しずつ近づいた。左腕を体の前に置き、右手を制服へ添えた。胸元へ額が触れると、背中へ手が回った。
「これで、痛くない?」
「うん……」
眼鏡が当たらないように、頬を少しずらした。勝也も腕の位置を直し、背中をゆっくり撫でてくれた。
制服越しに、体の温かさが伝わってきた。息を吐くと、さっきまで上がっていた肩が下がった。
「……こうしてるの、好き」
顔を伏せたまま言った。背中の手が、1度止まった。それから、またゆっくり動いた。
「うん」
頭の上から、返事がした。私は右手に少しだけ力を入れた。
テレビの声が続いていた。顔を横へ向ければ画面も見えたけれど、今は、そうしなかった。台詞と、近くで聞こえる勝也の呼吸を聞いていた。
テーブルの上で、エアコンの風に紙の端が動いた。小さく擦れる音も、今日は気にならなかった。
しばらくして、背中を撫でる手が止まった。離れるのかと思い、少し顔を上げた。でも、勝也は自分の座る位置を直しただけだった。
「こっちの方が、楽かな」
背もたれへ少し体を預け、私が寄りかかれるようにしてくれた。私は頷いて、もう1度頬を戻した。
「……まだ、こうしててもいい?」
「いいよ。優子は、苦しくない?」
「うん。大丈夫……」
言い終わる前に、背中を支える手の温かさが戻ってきた。少しだけのつもりでお願いしたのに、勝也は時間を決めなかった。
テレビの中では、さっきの騒ぎが終わったようだった。誰かの笑う声のあとに、終わりの歌が流れた。
見始めた時には、隣に座っていた。お話が終わる頃にも、まだ勝也の腕の中にいた。歌が終わっても、すぐに離れなくてよかった。
「最後、見てなかったね」
小さく言うと、勝也が少し笑った。
「俺も。あとで、戻して見ようか」
「うん。でも……もう少し、あとでもいい?」
「うん」
それだけで、また静かになった。勝也の服を掴んでいた指を、少し緩めた。離れないように握っていなくても、背中の腕はそのままだった。
私は目を閉じた。言いたいことがなくなっても、ここにいてよかった。
* * *
窓の外の色が変わったことに気づいたのは、勝也が顔を上げた時だった。
「明かり、つけようか」
私も窓を見た。ガラスに、寄り添っている私たちが薄く映っていた。
ずいぶん長く、こうしていた。それでも、体を離すのが惜しかった。制服へ添えていた手を下ろすと、勝也は私がちゃんと座り直すまで待ってくれた。
「……ありがとう」
「うん」
勝也が明かりをつけ、カーテンを引いた。私はリモコンを持ち、録画を少し前へ戻した。どこから見ていなかったのか、すぐには分からなかった。
「この辺も見てないね」
「俺も、その前からかも」
戻ってきた勝也と顔を見合わせ、少し笑った。抱きしめてもらっていた間にも、お話はこんなに進んでいた。
続きを見始めてから、携帯が鳴った。お母さんだった。
「……もしもし」
『優子? 大丈夫?』
「うん」
勝也が、テレビを一時停止した。
『少し長くなっているの。もう少し、待っていてくれる?』
「うん。勝也と、テレビ見てる……」
『そう。2人で見てたのね』
お母さんの声が、少し緩んだ。私は携帯を耳へ寄せた。
「お母さんは……大丈夫?」
『うん。お父さんも、そばにいるよ。ちゃんと話しているからね』
疲れている気はしたけれど、泣いてはいなかった。私は、もう1度、うん、と答えた。
『勝也くんに代わってもらってもいい?』
返事をして、携帯を渡した。勝也は少し背筋を伸ばした。
「はい。勝也です」
お母さんの話を聞き、何度か頷いた。
「大丈夫です。はい。母さんには、俺からも帰る時に連絡します」
私は、止まった画面を見た。リモコンへ手を伸ばすと、勝也の制服に触れていた指に、まだ少し温かさが残っていた。
電話を切ると、勝也が携帯を返してくれた。
「もう少しかかるって。帰ってくるまで、ここにいるよ」
「おうち、大丈夫?」
「うん。母さんも分かってるから」
私は頷いた。勝也が、続きを見る、と画面を示した。
「うん……」
再生のボタンを押した。話の終わりまで見ても、勝也はまだここにいてくれる。そう思うと、今度は落ち着いて画面を見られた。
終わりの歌を、2人で聞いた。勝也が、なるほどね、と言った。
「あの時の言い間違い、最後まで出てきたね」
「うん。ちゃんと覚えてたんだね」
同じところを思い出して笑った。次の話も録ってあると言うと、勝也が、見たい、と答えた。
始まりの歌が流れる間に、私は少しだけ肩を寄せた。勝也が、こちらを見た。
「……さっきみたいに、しててもいい?」
今度は、顔を見て聞けた。勝也が頷いて、背中へ腕を回してくれた。
その中へ戻り、体を少し横へ向けた。今度は、ここからテレビが見えた。背中の手がときどき動くたびに、頬を寄せ直した。
台詞に笑うと、勝也の体も少し揺れた。近くで同じ声を聞けることが嬉しくて、また少し笑った。
テーブルの上のコップに、テレビの明かりが映っていた。少し動けば手が届くのに、今はそのまま寄りかかっていたかった。
次のお話も、終わりに近づいていた。勝也の腕は、まだ私の背中にあった。
* * *
お母さんが用意してくれた軽い夕飯を、途中で勝也と一緒に食べた。食器を台所へ運んでから居間へ戻り、見ていた話の続きを再生した。門の方で音がした時には、すっかり夜になっていた。私はリモコンを置いて、顔を上げた。勝也は耳を澄ましてから、腕を緩めた。
「帰ってきたみたいだね」
私は頷いた。すぐに立ち上がると、少し足が重かった。長く、同じ姿勢で座っていた。
勝也が、私の立つのを待った。一緒に廊下へ出ると、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
お母さんの声だった。その後ろに、お父さんもいた。
「……お帰りなさい」
言うと、お母さんが顔を上げた。私と勝也を見て、少し笑った。
「遅くなって、ごめんね。待っていてくれて、ありがとう」
私は、お母さんの顔を見た。疲れているようだった。でも、私を見て、何か言おうと唇を噛むことはなかった。
「ちゃんと、お話……できた?」
「うん。できたよ」
お母さんは、鞄を下ろした。
「今日、学校が確認したことを聞いてきた。まだ確かめることもあるから、続けて話をすることになったよ」
お父さんも頷いた。
「優子が、明日何かを決めないといけない、という話はしていないからね」
私は、少し息を吐いた。すぐに返事を求められることはなかった。お父さんは靴を脱ぎ、お母さんの鞄も一緒に持って居間へ向かった。
勝也が、1歩下がった。
「じゃあ、俺も、そろそろ帰ります」
分かっていたのに、そちらを見た。お母さんたちが帰るまで、と言っていた。ちゃんと、その時までいてくれた。
「遅くまでありがとう。真紀さんは、ひと足先に帰られたから、おうちにいらっしゃると思うよ」
「はい。連絡してから帰ります」
勝也が居間へ戻った。私は、その後ろについていった。リュックサックを持ち上げる前に、本の入ったところを確かめていた。今日はまだ、借りた本の続きを全部は読めていないと言っていた。テレビにも、見ていない話が残っていた。
「明日も……来てくれる?」
勝也が顔を上げた。
「うん。お昼を食べてからでも、いい?」
頷いた。学校のあとに来る日より、早く会えた。
「1時半くらいで、どうかな」
「……待ってる」
そう答えると、勝也が笑った。私は、テレビの方へ目を向けた。今日見られなかった続きが、まだ残っていた。全部見てしまわなかったことが、少し嬉しかった。
勝也は家へ電話をかけ、両親が帰ってきたことと、今から帰ることを伝えた。短く返事をしてから、携帯を閉じた。
「母さん、もう家で待ってるって」
私は頷いた。お母さんたちが帰るまで、という約束は守ってくれた。そのあとにも勝也を待っている人がいた。
お父さんが居間へ入ってきた。勝也は向き直り、軽い夕飯をいただいたお礼を言った。
「こちらこそ、遅くまでありがとう。気をつけて帰ってね」
「はい。明日も、お邪魔していいですか」
「うん。優子と話して決めてくれたら、それでいいよ」
勝也が私を見た。さっき約束した時刻を伝えると、お母さんも頷いた。
「待っているね」
私は勝也と一緒に玄関へ向かった。帰ってしまうのが寂しかった。今日は長く隣にいてもらったのに、それだけで、もう大丈夫とは思えなかった。
靴を履いた勝也が振り返った。私は右手を伸ばし、袖へ触れた。
「……少しだけ」
勝也が荷物を置いた。私の方へ歩み寄り、背中へ手を回してくれた。肩へ顔を寄せると、テレビを見ていた時と同じ温かさが戻ってきた。
「今日、楽しかったね」
頷いた。笑っていたところを思い出すと、今も少しだけ口元が緩んだ。
「明日、続き見ようね」
「……うん」
顔を上げるまで、勝也は待っていてくれた。私が袖から手を離すと、荷物を持ち直した。
お母さんと一緒に、門まで見送った。勝也が角を曲がる前に、もう1度手を振ってくれた。私も手を上げ、見えなくなるまでそこにいた。
明日は、1時半だった。
まだ遠い時間のように感じたけれど、何時に来るのか分からないまま待つのとは違った。私はお母さんと家へ戻り、テレビのそばに置いたリモコンを見た。明日は今日の続きから、また一緒に見られる。
* * 勝也視点 * *
家の鍵を開けると、台所の明かりがついていた。母さんが顔を出し、俺を見ると、帰ってきたね、と言った。
「ただいま。遅くなって、ごめん」
「お帰り。連絡してくれたから、大丈夫だよ」
靴を揃え、リュックサックを下ろした。テーブルには学校から持ち帰った封筒があった。手を洗って戻ると、母さんがお茶を入れてくれた。
「今日は、学校へ行ってくれて、ありがとう」
母さんが座るのを待って、向かいの椅子へ腰を下ろした。湯呑みから、細く湯気が上がっていた。
「うん。勝也から聞いていたことも、先生たちに確かめてきたよ」
母さんは、テーブルの封筒から紙を出した。全部広げるのではなく、自分で書いたらしいところへ目を落とした。
「まず、勝也が話してくれた順番と、学校で聞いた話は、同じだった」
俺は頷いた。制服を掴んだことも、押したことも、母さんには初めから話していた。戸田に叩かれたところだけを話して、俺のしたことを飛ばしたわけではなかった。
「荒川くんが止めてくれたことも、聞いた」
「うん」
「ドアの修理は、学校で手配するそうよ。うちへ弁償を求める話ではないって」
「俺も、主任の先生にそう言われた」
そこは同じだった。けれど、払わなくていいと言われても、自分で壊したことまで消えた感じはしなかった。ガラスが床へ落ちた時、入口にいた人たちが顔を引いたことを覚えていた。
「壊したことは、謝った。ほかの人にも、当たったかもしれないから」
母さんが俺を見た。
「うん。そこは、忘れないでね」
返事をして、テーブルへ置いた右手を見た。ガーゼの端は、今朝より少し浮いていた。指を曲げると傷が引きつる。戸田の顔も、俺が家へ帰って寝れば元に戻るわけではなかった。
「その子を椅子へ座らせてから、謝ったことも、先生は知っていたよ」
「……うん」
俺は母さんへ顔を戻した。ガラスのあるところへ倒れないようにした時、戸田は、また何かされると思ったように身を縮めた。肩へ腕を回したあとも、俺の手を見ていた。
「怖がってた。俺が近づいただけでも」
口にすると、椅子へ座らせた時の顔が、また浮かんだ。
「それくらいのことをしたんだよね」
母さんの声は大きくなかった。俺は頷いた。あの時、戸田が怖がったことを、知らなかったとは言えなかった。
「でも、殴ったのは必要だったって、まだ思ってる」
そこまで答えてから、右手を膝へ下ろした。怒られないために違うことを言っても、母さんと話したことにはならなかった。
「優子がされたことを聞いて、あんなふうに笑われたまま、帰りたくなかった」
「うん。勝也がそう思っていることは、分かった」
母さんは、俺が続きを言わないか、少し待った。
「お母さんは、殴ってよかったとは言えない。それは、この間話した時から変わってないよ」
「……うん」
「もう手は出さないって、約束したよね」
「した。のりちゃんにも、母さんにも」
母さんが頷いた。俺も、もう1度頷いた。あそこで殴った気持ちを、今すぐ全部なくすことはできなかった。それでも、次に腹が立った時も殴るつもりでいるわけではなかった。宣仁に止めてもらった時の腕の重さと、翔太の小さな声は、まだ覚えていた。
「先生には、優子ちゃんの相談を聞いてもらえなかったことも尋ねたよ」
顔を上げると、母さんは紙へ目を戻した。
「学校にも、対応できていなかったところがあると話していた。それで終わらせずに、何を確かめて、どうするのかを、ご両親へきちんと伝えてくださいって言ってきた」
「……そうなんだ」
「勝也が怪我をさせたことは、ちゃんと話す。でも、それで優子ちゃんがされたことまで消す話にはしない。そこは、この間、勝也にも言ったでしょう」
俺は頷いた。母さんに謝ってもらうだけの面談ではなかった。そのことが分かると、少し肩の力が抜けた。
「まだ、学校を信用できるとは思ってない」
「うん」
「調べた物も、優子の家へ渡した。学校へは、お父さんが見せてくれたって」
「美和さんからも、聞いたよ。勝也たちが集めた物、大事にしているって」
閉じたノートを、優子のお父さんが読んでいたところを思い出した。何人かの字が混ざったページを、ゆっくりめくっていた。今はもう、俺の部屋にはなかった。
「先生に言われたから、何でも話そうとは思ってないんだ」
「うん。無理に預けなさいとは言わないよ」
母さんはそう答えてから、封筒を脇へ寄せた。
「ただ、自分がしたことを聞かれた時には、今日みたいに話してね。殴ったことや、ドアを壊したことまで、何も話さないというわけにはいかないから」
「そこは、話したよ。もう1度聞かれても、話す」
言うと、母さんは頷いた。優子から聞いたことを全部話せ、と続けられなかった。俺は手を膝から上げ、湯呑みへ添えた。
「学校へ行かせちゃって、ごめん。仕事もあったのに」
「話をしに行く必要があったから、行ったんだよ。それより、また同じことにならないようにしてほしい」
「うん」
母さんは、俺の手をもう1度見た。俺が湯呑みから手を離すと、指の先へ軽く触れた。血が流れていた日のような顔はしなかったけれど、すぐには手を戻さなかった。
俺も黙っていた。心配をかけたと謝るだけでは、次の約束を守ったことにはならなかった。母さんの手が離れるまで待ち、それから、少しぬるくなったお茶へ口をつけた。
母さんは、封筒を鞄へ戻した。それから、優子の家で何をしていたのか尋ねた。
「録ってあったアニメを、一緒に見てた。見てないところへ戻したりして、あんまり進まなかったけど」
「優子ちゃんも、楽しめた?」
「うん。笑ってたよ」
言うと、母さんの表情が少し和らいだ。俺も、ソファで優子が笑ったところを思い出した。聞き逃した台詞を確かめるために戻したのに、また同じところで笑っていた。
「俺も、楽しかった」
そう続けると、母さんは頷いた。
「明日も行くの?」
「うん。お昼を食べてから。1時半に行くって、約束した」
「じゃあ、今日はゆっくり寝ないとね」
俺は残っていたお茶を飲んだ。学校の話を全部済ませたから、もう何も考えなくていいわけではなかった。でも、明日、優子と会ったら何を話すかまで、その続きにしなくてもよかった。
* * *
風呂へ入る前に制服のシャツを脱ぐと、胸元から、かすかにいつもと違う香りがした。手に持った布を見て、ソファで優子がそこへ頬を寄せていたことを思い出した。笑った時に少し体が揺れたことも、腕の中から顔を上げた時の目も、まだよく覚えていた。
長くくっついていたから、服にまで残っていた。
少し照れくさくなり、袖を揃えた。さっきまで、ここに顔があった。優子は、抱きしめてほしいと自分から言ってくれた。泣いている時だけでなく、笑っている時にも隣にいたいと思ってもらえたことが、嬉しかった。
シャツを洗濯物のところへ置いた。今頃は、優子も着替えているだろうかと思った。携帯を見れば声をかけられるけれど、何を聞くかは浮かばなかった。帰る時に、また明日、と話してきたばかりだった。
風呂から出て部屋へ戻り、本を机へ置いた。栞の先には、まだ読んでいないページがあった。今夜全部読むより、明日、隣で少しずつ読んでもよかった。
携帯を開き、今日はありがとう、と送った。すぐに、私も楽しかった、と返ってきた。
明日、楽しみにしてるね。おやすみ。
そう返して、携帯を閉じた。
* * 優子視点 * *
寝間着へ替えようと服を持ち上げた時に、勝也の香りがした。
胸元へ顔を寄せていた時と、同じだった。脱いだ服を膝へ置くと、長く抱きしめてもらったことを思い出して、口元が緩んだ。
お父さんとお母さんが帰ってくるまで、一緒に待っていた。話をしない時間にも、勝也は腕を離さなかった。私が笑うと、近くで同じように笑ってくれた。
携帯に届いた、楽しみにしてるね、という言葉を、もう1度読んだ。待っているのは、私だけではなかった。
おやすみ、と返して枕元へ置いた。脱いだ服を畳み、明かりを小さくした。布団へ入ると、隣に勝也はいなかった。寂しさは残っていたけれど、背中へ回してくれた手を思い出せた。
明日は、昼ご飯を食べたら来てくれる。
見ていないアニメの続きを、どこから始めようかと思った。本の感想も、また聞きたかった。言いたいことを全部うまく話せなくても、勝也は待ってくれた。
携帯を確かめ直さずに、目を閉じた。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
放課後に優子を訪ね、本やアニメを一緒に楽しむ。金曜日は両親の面談中に優子と過ごし、帰宅後、母と学校での面談について話す。
・富田 優子
休養中に楽しんだり、眠ったりしてよいと受け止めてもらう。勝也に抱きしめてほしいと伝え、翌日の訪問を楽しみに待つ。
・優子の母(美和)
優子の休養を支え、学校との連絡や面談を進める。金曜日は勝也に娘と過ごしてもらい、帰宅後に感謝を伝える。
・優子の父(泰臣)
調査資料を学校へ見せたことを勝也へ伝え、金曜日には美和と面談に出向く。娘に判断を急がせず、学校の対応を確かめる。
・勝也の母(真紀)
勝也自身の暴力と破損について学校で説明を受け、帰宅後に息子と話す。優子への被害も曖昧にせず、もう手を出さないという約束を確かめる。




