第28話 ノートに残されたもの
水曜日の朝、いつもの公園には翔太が先に来ていた。ベンチから立ち上がり、俺の顔を見てから、右手へ目を落とした。
「おはよ。手、どうした?」
「昨日、母さんに手当てしてもらった」
「そっか」
白いガーゼの端が、袖から少し出ていた。制服も着替えていたので、昨日みたいに血のついたところはなかった。それでも、リュックサックの肩紐を握ろうとすると、拳の傷が引きつった。
「春樹から聞いた。富田さんに、会えたんだな」
「うん。みんなにも、ありがとうって」
「……うん」
翔太は、ベンチの背へ置いていた手を下ろした。
「会えて、よかったな」
「うん」
何を話したのかは聞かれなかった。俺も、庭で聞いたことまでは話さず、隣へ座った。
春樹が来て、そのあと真弓と綾香も合流した。俺からも優子の言葉を伝えると、真弓は小さく笑って、そっか、と答えた。綾香は昨夜と同じように頷いた。
「写したノート、持ってきたよ」
歩き出してから、春樹が言った。
「昨日の分、あとで合わせよう」
「うん。ありがとう」
春樹は肩紐を直した。道で中身を出すことはせず、そのまま歩いていた。
学校が近づくと、ほかの生徒も増えた。俺を見て、隣の友達へ顔を寄せる人がいた。何を言っているかまでは聞こえなかったが、昨日のことを思い出し、右手を少し体の方へ寄せた。
「着いたら、先生んとこ?」
翔太に聞かれ、頷いた。
「主任の先生に来るように言われてる」
「分かった」
短い返事のあと、翔太の目が俺の顔へ戻った。
「もう、手は出さないよ」
俺が言うと、翔太は1度口を閉じ、それから頷いた。
「うん。待ってる」
春樹も、授業が始まったらプリントをもらっておく、と言ってくれた。俺は礼を言い、昇降口でみんなと別れた。
* * *
職員室へ行くと、主任の先生が廊下へ出てきた。案内されたのは、職員室に近い小さな会議室だった。机の向こうには、生徒指導の先生も座っていた。
「おはよう。その手は、お母さんに見てもらった?」
「はい。腕も、手当てしてもらいました」
「そうか。痛みが強くなったり、ガーゼに血が滲んだりしたら、我慢せずに言いなさい」
頷いて、椅子へ座った。リュックサックは自分の足元へ置いた。
「昨日、富田さんの家へ行けた?」
「はい。教科書もノートも、集めた物は全部、ご両親に渡しました。俺たちが調べた資料もです。どう使うかも、ご両親にお願いしてきました」
主任の先生は、分かった、と答えた。俺は、机に置かれている紙を見た。先生たちが書いた物だった。
ご両親が必要だと思って、学校へ見せるなら、それでよかった。渡すかどうかも任せてきた。俺から学校へ説明し直すこととは、別の話だった。
「富田のことで、俺たちが調べた内容を話すつもりはありません。そこは、昨日と変わらないです」
「分かっている。今日は、君が戸田にしたことの確認と、学校からの説明をする」
生徒指導の先生が、手元の紙へ目を落とした。
「教室にいた生徒にも、別々に話を聞いた。戸田の顔を殴ったのは、2回。そのあと、もう1度手を上げたところを荒川に止められた。違っているところはあるか」
「ないです」
「先に戸田から頬を叩かれたことも聞いている。ただ、その前に君が制服を掴んで押し、ドアにぶつかった。そこも、昨日の説明どおりだな」
「はい」
順番を直すところはなかった。優子のことを聞こうとした理由とは別に、俺が手を出したことは、あそこにいた人が見ていた。
「戸田は、保護者と病院へ行っている。顔の腫れや傷のことも、引き続き確認する」
先生の声を聞きながら、膝の上の手へ目を落とした。拳が当たった時の感触が戻り、指を曲げかけてやめた。
「富田さんが何をされたかは、学校で確かめる。それを放っておいた学校の問題もある。だが、人を殴って怪我をさせたことを、よかったとは言えない」
主任の先生が、俺の方へ体を向けた。
「ドアやガラスも、ほかの生徒へ当たる危険があった。自分が狙った相手だけで済むとは限らない。そこは、分かってほしい」
「……はい」
割れた音のあと、みんなが動かなくなったところを思い出した。あの時、ガラスがどこまで飛んだのか、俺は全部見ていなかった。
「怪我をさせたことも、制服を破ったことも、戸田には謝りました。ドアとガラスを壊したことも、すみませんでした」
頭を下げた。顔を上げるまで、先生たちは待っていた。
「でも、殴らなければよかったって、今すぐには思えないです。富田が痛いって言ってたのを、聞いて笑ってたんだって。それを、昨日も」
声が硬くなった。右手を握らないよう、膝へ開いて置いた。
「腹が立ったことと、次に何をするかは、分けて考えよう」
主任の先生は、俺が言い終えてから答えた。
「また同じように誰かを殴ることは、認められない」
「もう殴りません。荒川と約束しました。母さんにも、言いました」
「その約束は守りなさい」
俺は頷いた。先生にそう言われたから、昨日の気持ちがなくなるわけではなかった。それでも、宣仁のいないところでも手を出さないと、もう約束していた。
「君が手を離したあと、戸田を椅子へ座らせたことも聞いている。ガラスのあるところへ倒れないようにしたんだな」
「はい」
生徒指導の先生が確かめた。俺はそれだけ答えた。座らせた時にも、戸田は俺の手を見て怯えていた。
「ドアの修理は、学校で手配している。別に鵜飼の保護者に弁償しろとかは無いから、そこは心配しなくてもいい」
主任の先生はそう言ってから、紙を1枚、脇へ寄せた。
「それから、3組の担任は、今日から花沢先生に替わる。昨日伝えたとおり、前の担任を君たちのクラスへ戻すことはしない」
「……今日から、ですか」
「朝の会には、花沢先生が入る」
昨日、担任を外すと言われても、本当にそうなるのか分からなかった。今朝、教室へ行ったら、またあの先生がいるのではないかと思っていた。
「戸田たち4人は、しばらく通常の教室には入れない。別室で、教師がついて指導する。詳しい対応は、保護者にも説明する」
「富田のお父さんたちにも、ですか」
「もちろん。今日、お父さんに来ていただくことになっている」
先生は、そこで少し間を置いた。
「君たちが相談した時に、学校で動かなかった。昨日、被害を話すよう求められても応じたくないと言ったことは、受け止めている。申し訳なかった」
頭を下げられ、俺は机の端を見た。
「謝ってほしいんじゃないです。学校で調べて、富田が同じことをされないようにしてください」
「分かった。昨日から聞いている話を確かめて、保護者へ説明する」
今ここにある紙の中身を、俺は知らなかった。何人に聞いたのかも、どこまで分かったのかも。ただ、資料を見せろとは、もう言われなかった。
遠くでチャイムが鳴った。主任の先生が時計を見てから、立ち上がった。
「今朝の話は、ここまでにしよう。教室へ戻ろうか」
俺も荷物を持った。半日も、1日も、ここで話すつもりで教科書を持ってきたわけではなかった。でも、こんなに早く戻れるとも思っていなかった。
廊下を歩きながら、昨日壊したドアのことを考えた。まだ、教室の中を見ていなかった。
* * 泰臣視点 * *
学校へ持っていく袋を、玄関の脇へ置いた。持ち手を離してから、上に重ねたノートをもう1度開いた。
昨日、勝也くんから預かり、隣の部屋で読み始めたノートだった。夜には、優子が部屋へ戻ったあと、美和と向かい合って読んだ。ページの上の日付を見て、前へ戻り、別の紙を重ねて確かめた。今朝も、朝食のあとで読み直した。
このノートをどう使うかは、お父さんとお母さんに決めてほしいです。
そう言った時、勝也くんは私の顔を見ていた。学校へ見せなくても、見せても、必要なら渡してもよいと言った。自分は教師へ渡さなかったが、優子のためにどうするかは、私たちに任せたいのだと。預かったのは、保管しておくだけの役目ではなかった。
居間で話を聞いた時、同じクラスの友達なのかと尋ねると、勝也くんは頷いた。勝也くんの家に集まり、聞いてきたことを合わせていたという。受け取った時にも、何ページか見せてもらった。それでも、初めから通して読むと、思っていた以上に多くの手が加わっていた。
丸みのある字の次に、細く小さな字が続いていた。同じ行の幅へ揃えて書く子もいれば、言葉の途中で行を替え、余白へ矢印を伸ばしている子もいた。挟まれた紙にも、違う筆跡があった。
勝也くんが挙げた友達の名前を、ノートの記録と見比べた。鶴見くん、鳥居くん、加藤さん、井上さん。それから、先に先生へ相談していたという荒川くん。勝也くんを含めた6人が、話を聞き、探し、書いた。
直接見たという話と、誰かから聞いた話は、書き分けられていた。見つけた日と、捨てられたと思われる日も同じにはしていなかった。分からなかったところには、分からないと残してあった。
私が学校へ尋ねても、はっきりした返事をもらえなかったことが、その中にあった。
こんなことまで、子供たちが確かめたのか。
ページをめくるたびに、同じところで手が止まった。娘にされたことを知る苦しさだけではなかった。その話を聞いて、次の相手を探し、また学校へ戻っていた子供たちのことが気になった。
自分たちにも授業があり、部活があり、帰る家があっただろう。週末や連休にも、優子のために動いていた。休んでいる娘の知らないところで、何人もの子が、娘の名前を確かめていた。
「それも、持っていく?」
美和が、居間から出てきた。私はノートを閉じて頷いた。
「うん。教材と一緒に、見てもらう」
「今日は、見てもらって、持って帰ってきてね」
「そうする」
昨夜、美和と話して決めたことだった。学校が確かめた内容と照らし合わせてもらう。そのうえで、私たちも手元で読み返せるよう、今日は持ち帰る。勝也くんから、学校へ渡さないよう求められたのではなかった。
美和は、袋の中の教材へ目を向けた。
「勝也くん、自分が悪いみたいに謝ってたね」
昨日、玄関で声がして、居間から顔を出した。美和に名前を聞くまで、昔、隣に住んでいた子だとは分からなかった。ずいぶん背が伸びていて、久しぶりだと挨拶もしてくれた。その子が、靴を脱ぐ前に、私たちの目の前で膝をついた。
もっと早く、気づけたはずなのに。そう言った声を覚えていた。白いシャツには血の跡があり、手にも傷があった。それでも、自分のことより先に、娘のことを謝っていた。
同じ家で娘を見ていた私たちにも分からなかったことを、この子は友達と確かめてきてくれた。その子が、私たちの前で頭を下げていた。
「あの子に、背負わせることじゃない」
「うん。話は聞いてくれたけど、まだ、気にしてると思う」
美和の声が少し掠れた。私はノートを袋へ戻し、紙の角が折れないように置き直した。
「ちゃんと、話してくる」
「うん」
居間の方で、小さな足音がした。優子がドアのそばに立っていた。白い髪が、肩のあたりへまっすぐ落ちていた。揃えられた毛先を見るたびに、帰ってきた日のことを思い出した。
私の手元の袋を見ると、優子の足が止まった。
「今日は、お父さんが行ってくる。優子は、家にいていいから」
そう言うと、娘は頷いた。すぐには顔を上げず、ドアの縁へ指を添えていた。
「帰ってきたら、お母さんにも話す。優子に聞いておいてほしいことがあったら、急がずに話そう」
小さく、もう1度頷いた。
昨日は、明日も来てくれるの、と言っていた。勝也くんのことだった。その時の声を思い出しながら、私は袋を持ち上げた。
「行ってくる」
「……いってらっしゃい」
娘の声が聞こえた。美和がその隣へ行くのを見てから、私は玄関を出た。
* * *
校門へ着いた時には、授業が始まっていた。校舎から教師の声が聞こえ、どこかで椅子を引く音がした。
来客用の玄関で名前を伝えると、職員室から教頭が出てきた。袋を持ちましょうかと言われたが、自分で持ったまま案内を受けた。
校長室には、校長と、生徒指導を担当する教師がいた。少しして学年主任も入り、椅子を引いた。今日は私との話に入るため、授業をほかの教師へ頼んであるという。
机の脇へ教材の袋を置き、調査ノートの入った袋は膝の上に残した。
「本日は、お越しいただき、ありがとうございます」
校長がそう言ってから、頭を下げた。
「優子さんへのいじめについて、生徒や保護者から相談を受けながら、学校として必要な対応をしませんでした。申し訳ありませんでした」
ほかの教師たちも、頭を下げた。
私は、膝の上の持ち手を握っていた。すぐには何も言えなかった。電話では、まだ分からない、調べていると聞かされていた。それが今は、必要な対応をしなかったという説明になっていた。
「何を受けて、何をしなかったのか、順番に説明してください」
校長が顔を上げた。教頭が、机に置いてあった紙を開いた。
「まず、同じクラスの荒川くんから相談がありました。そのあと、先週の月曜日に鵜飼くんから、教科書への書き込みについて話がありました」
「担任は、相談を受けたことを認めているんですね」
「はい。昨日、本人へ確認しました」
昨夜読んだ日付と重なった。昨日、勝也くんに確かめると伝えたのは、相談を受けたあとに学校が何をしたかだった。私は、自分の手帳を出して開いた。
「その時、どうしたんですか」
教頭は、紙へ目を落とした。
「優子さん本人から話がないことや、誰が書いたのか分からないことを理由に、十分な確認をしませんでした」
「本人が話せない状態だったら、ずっと分からないままですか」
「それでよいとは考えていません」
「では、なぜそうしたんですか」
返事まで間があった。廊下で、誰かが歩いていく音がした。
「担任が、本人に聞いても答えない以上、判断できないとしていました。学年や学校全体へ、相談の内容を共有することもしていませんでした」
教頭の横で、学年主任が口を開いた。
「私にも、必要な報告が上がっていませんでした。ただ、担任から報告がなかったことだけで、私たちの責任がなくなるとは思っていません。クラスの状態や、欠席が続いている理由を、こちらから確かめるべきでした」
私は学年主任の顔を見た。知らなかったという言葉だけで終わらせなかったことは分かった。それでも、娘が家で過ごした時間を思うと、すぐに頷くことはできなかった。
「先週の水曜日、妻が電話をしています。そのあと、私も話しています」
「承知しています」
教頭が答えた。
「帰宅した時の様子がおかしいこと、髪や持ち物の状態についても、お話を受けていました」
「髪を切られて帰ってきたんです。物もなくなっていた。泣いて、何を聞いても、ほとんど答えられなかった。それを、妻は伝えています」
手帳の端へ置いていた指に力が入った。
「そのあと、何を調べましたか」
教頭は、すぐには紙をめくらなかった。
「関係する生徒や、被害のあった場所を確かめる聞き取りは、昨日まで行われていませんでした」
「調べていると言われました」
「はい」
「何もしていなかったのに、そう答えていたんですか」
校長が、机へ置いていた両手を揃えた。
「実際に確認が進んでいるかを確かめず、そのような説明をしていました。誤った説明でした」
「こちらは、それを信じて待っていたんです!」
声が大きくなった。手帳から手を離しても、指先の力が抜けなかった。
「誰がしたか分からないなら、調べてくださいと頼んでいたんです。娘が話せないから、先生に聞いていたんです!」
校長は頭を下げた。私は、その前の言葉を聞き返すように、机の紙を見た。
昨日まで、聞き取りをしていなかった。
優子のそばで、美和が待っていた時間。私が仕事の合間に連絡を確かめた時間。その間、学校では、確かめる相手を探すことさえ始まっていなかった。
「申し訳ありません。相談を受けた段階で、学校が動くべきでした」
私は、しばらく返事をしなかった。怒鳴り続ければ聞けなくなると思い、手帳を机へ置いた。
「昨日から何をしたのかも、説明してください」
今度は、生徒指導の教師が紙を手前へ寄せた。
「関係する生徒と、周囲で見聞きしていた生徒へ、別々に話を聞いています。複数の教員で担当を分けています。届けられた教材については、名前と、持ってきた生徒、見つけた場所を記録しています」
「勝也くんたちの話を、まとめただけではないですね」
「違います。鵜飼くんたちは、優子さんの被害について調べた内容を話すことも、資料を見せることも断りました。学校で調べるようにと、全員から言われています」
私は、膝に残した袋を見た。
「その返事を、どう受け止めましたか」
生徒指導の教師が、私へ目を戻した。
「相談を受けながら動かなかった学校へ、これ以上話したくないという気持ちを持たせたのは、私たちです。協力しないことを責めるつもりはありません」
学年主任も頷いた。
「今朝も、鵜飼くんの返事は同じでした。自分がしたことについては説明しましたが、調査内容は話さないと。必要な話を終えて、教室へ戻っています」
勝也くんも、今、この校舎にいた。昨日、家で話した時にも、学校を信用できないと言っていた。娘のそばへ来てくれたあの子は、今朝も教師に同じ返事をしていた。
「この子たちの資料は、私が持っています」
袋の持ち手を離した。
「昨日、うちへ届けてくれました。学校へ見せるか、渡すかも、私たちに任せると言ってくれています。妻とも話し、今日は、ここで見ていただくことにしました」
学年主任の目が、私の手元へ向いた。誰も、先に袋へ手を伸ばさなかった。
ノートと、挟まれていた紙を取り出した。机の上へ置くと、校長が椅子を少し寄せた。
「開いても、よろしいでしょうか」
「はい」
私は、最初のページを開いた。
校長が読み始めると、ほかの教師も、自分たちの紙をいったん脇へ寄せた。教頭は椅子を動かし、ノートの向きを変えてよいか、私へ確かめた。
私は頷いた。挟んだ紙が落ちないよう、端を揃えてから手を離した。勝也くんたちが調べたことを、娘のためにどう使うか。任せてもらった私たちが、読んで、考え、今日ここで見せると決めた。袋を机の端へ寄せ、教師たちがページを開くのを待った。
しばらく、紙をめくる音だけがした。
校長は最初の数行を読んで、前のページへ戻った。日付を確かめ、教頭へ向けて開いたまま置いた。生徒指導の教師も顔を寄せたが、すぐに次の紙へ手を伸ばすことはなかった。
「これは、見つけた日ですね」
教頭が、小さく言った。
「こちらは、本人たちが受け取った日……別に書いてあります」
私は、昨夜同じところで止まったのを思い出した。
捨てられた日を見たのではない。落ちていた物を見つけた。それを持っていた生徒から、別の日に受け取った。
読んでいるうちに、頭の中で同じ日になりかけることを、子供たちは分けて書いていた。
「その生徒が見ていないところまでは、書いていません」
私が言うと、生徒指導の教師が頷いた。
「はい。物を持って歩いていたところを見た話と、捨てるところを見た話も、区別されています」
教師は、自分の記録を開きかけた。しかし先に、ノートの続きを読んだ。余白の小さな字を読むために、少し顔を近づけた。
「ここは、あとから確かめ直したんですね」
学年主任が言った。書き加えられた行を、指で隠さないよう示していた。
「最初に聞いた内容を消すだけでなく、どこが違っていたかも残している」
私は、その跡を見た。線を引かれた言葉の脇へ、別の字が添えてあった。誰が直したのか、私は知らなかった。しかし、1度聞いて書いたら終わりにはせず、もう1度確かめに行った子がいた。
校長が、挟まれていた紙を持ち上げた。
「こちらも、一緒に預かった物ですか」
「そうです。私たちに渡してくれました。私たちが書き足したものではありません」
校長は紙をノートの横へ置き、もう1枚と並べた。字の大きさも、行を空ける場所も違っていた。
「複数の生徒が、書いているのですね」
「勝也くんと、友達の5人です」
私が答えると、校長は数えるように紙を見た。
「それぞれ、自分が聞いたことを書いたそうです。勝也くんが聞けなかった相手にも、友達が話を聞いています」
学年主任は、見覚えのある字を探すように、目を動かしていた。
「昨日、6人とも同じ部屋で待っていました。資料を渡さないという返事も、同じでした。ただ、私は、この中身を見ていませんでした」
そう言って、ページをめくった。
「ここまで、役割を分けて……」
言葉が途中で止まった。次のページへ伸ばしていた手を下ろし、読みかけていた行へ目を戻した。
私は、学校へ来る前のことを思い出した。玄関に置いた袋を見て、足を止めた優子。何も聞かないうちから、また説明しなければいけないと思ったのかもしれない。娘の顔を見ると、ノートを持っていくのも悪いことのように感じた。
けれど、昨日、勝也くんがこのノートを渡してくれた時には、優子もそばにいた。私が預かると言うと、娘は私の手元を見ていた。自分で全部話せなくてもよいと伝えられる物が、ようやく私たちの手元へ来た。
「私も、驚きました」
口にすると、教師たちがこちらを見た。
「昨夜、初めから読みました。友達と調べたとは聞いていましたが、ページごとに字が違った。書き直したところにも、別の子の字があった」
膝へ戻した手を、ゆっくり開いた。
「娘のために、これだけの子が動いてくれたんだと分かりました。それは、嬉しかったです。妻も、何度も、ありがたいと言っていました」
校長は、私の言葉を聞き終えてから頷いた。
「友達のために、ここまで動ける生徒がいることを、私も嬉しく思います」
ノートへ目を戻した。口元が少し緩んだが、すぐには続きを言わなかった。
「気にかけるだけで終わらず、話を聞き、探し、こうして確かめている。そのことには、本当に感心しています」
学年主任も、開いたページへ手を添えた。
「しかも、自分の友達に都合のよいことだけを残しているわけではありません。昨日、鵜飼くんがしたことも、ここにあります」
昨日の記録が、ノートの後ろへ挟まれていた。
私も、そこを読んでいた。家で聞いた説明だけではなく、教室で何があったかが、そこに書いてあった。勝也くんが相手の制服を掴んだことも、殴ったことも、抜かれていなかった。
「そこも含めて、勝也くんが自分から渡してくれました」
閉じた表紙から、ようやく指を離した時のことを思い出した。自分に都合の悪いページを、抜こうとはしなかった。
生徒指導の教師は、紙を持ったまま、少し目を伏せた。それから、2枚の紙を並べ直した。
「同じ場所にいた生徒でも、聞こえたところが違う。それを、同じ文章へ直していないんですね」
「そう聞いています」
私が頷くと、教師はもう1度読んだ。
勝也くんが何をしたかを、私は褒めるつもりはなかった。殴られた子の怪我が、それでなくなるわけではない。しかし、この子たちが、勝也くんのしたことを隠すために集まっていたのではないことは、紙を見れば分かった。
娘に何があったのかを、確かめようとしていた。そのために書いた記録だからこそ、自分の友達がしたことまで残していた。
「昨日、鵜飼くんは、自分の行動について説明しました」
学年主任が、私を見た。
「自分がしたことを隠すために、話を断っているわけではありませんでした。怪我をさせたことも、ドアを壊したことも、自分の言葉で説明しています」
私は頷いた。昨日、勝也くんは私たちにも、自分がしたことは学校で説明したと言っていた。ノートを学校へ渡さなかった理由と、自分がしたことを、分けて話そうとしていた。
少しして、校長がノートから手を離した。
「本来、ここまで生徒にさせてはいけませんでした」
先ほどより、低い声だった。
「最初の相談を受けた時点で、学校が事実を確かめ、優子さんを守るために動くべきでした。自分たちで調べて示さなければ聞いてもらえないと、そこまで思わせてしまった」
教頭は、ノートの始めの日付をもう1度見た。学年主任も、机の上にある、自分たちの記録を見ていた。
子供たちのノートには、昨日より前の日付がいくつも並んでいた。学校の聞き取りの紙が増えたのは、昨日からだった。
「その子たちの力を、嬉しいと思いました」
校長は、こちらへ向き直った。
「同時に、その力へ甘えてはいけないと思っています。この資料ができるまで動かなかった責任は、学校にあります」
私は、その顔を見た。何か返さなければと思ったが、すぐには言葉が出なかった。
教頭が、椅子に座り直した。
「鵜飼くんたちにも、改めて伝えます。よく調べたということだけではなく、私たちが先にしなければならなかったことを、任せてしまったと」
学年主任も頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
私は、机の上のノートへ目を落とした。
嬉しかった。そのことに嘘はなかった。娘には、もう頼れる相手がいないのではないかと思った夜もあった。今、知らなかった名前が5つ増えていた。
けれど、読み返すほど、学校に聞きたくなることも増えた。
「この子たちができたんだから、先生にも簡単にできたはずだと、そう言いたいわけではありません」
私は、ゆっくり口を開いた。
「子供同士だから聞けた話も、あるでしょう。でも、学校へ相談した子がいた。親から電話もした。それでも、確認を始めなかった」
校長が、私へ顔を向けた。
「ノートがなくても、調べる理由はあったでしょう」
「はい」
「これを見て、ようやく大変なことだと分かった、では困るんです」
声を抑えたつもりだったが、最後の方が震えた。私は、開いたページを指で押さえた。娘の名前の上へ手を置きそうになり、少し横へずらした。
校長は頷いた。
「おっしゃるとおりです。鵜飼くんたちがここまで調べなくても、動くべきでした」
私は手を引いた。
「では、娘がどうなったのか、聞いてください」
* * *
教師たちが、こちらへ向き直った。生徒指導の教師は、読んでいた紙を机へ置いた。
私は、机の縁を見た。今から言うことを、今朝、美和と確かめてきた。学校へ伝える必要はある。ただ、誰にでも知られてよいことではなかった。
「先週の木曜日、優子は、自分で命を絶とうとしました」
教頭の手が止まった。
校長は口を開いたが、すぐには言葉が出なかった。隣にいた学年主任も、私を見たままだった。
「妻が見つけました。私は、妻に呼ばれて行きました。そのあと、病院へ行っています」
それ以上、あの時の様子を細かく話そうとは思わなかった。口にすると、娘の部屋へ向かった時の足の感覚まで戻ってきた。
私は、膝の上で両手を組んだ。力を入れないと、声が続かなかった。
「今は、家にいます。今日も、妻がそばにいます」
誰も、すぐには質問しなかった。廊下から遠く授業の声が聞こえた。つい先ほどまで、紙をめくる音がしていた部屋だった。
「……そのことは、今、初めて伺いました」
校長が言った。
「今日、初めてお伝えしています」
私は顔を上げた。
「でも、その前の日に、妻は電話をしているんです。娘が、いつもとは違う状態で帰ってきたと。何かあったはずだと」
校長は、頷きかけて止まった。
「娘が命を絶とうとするまで、分からなかったと言うんですか!」
自分の声が、部屋の中へ響いた。口を閉じても、胸の奥の熱さが収まらなかった。
私は学校を責めに来た。それは間違いなかった。それでも、責める言葉だけを準備していたわけではない。何をしていたのかを聞き、娘に何をしてくれるのかを確かめるつもりだった。
なのに、何もしていなかったという答えを聞いてから、あの朝のことが頭から離れなかった。
「優子は、もう、やめてほしかったんです。帰ってきてからも、何を話したらいいか分からなくなっていた。学校へ行かせる話なんて、できる状態ではなかった!」
息を吸った。机の向こうが、少しぼやけた。
「それでも、何か聞き出さなければと思ってしまった。学校からは、本人が話さないと分からないと言われていたから」
木曜日より前の夜、美和と交わした言葉を思い出した。何かあったのは分かっている。でも、何があったのかが分からない。学校が確かめてくれるならと、連絡を待っていた。
娘の口から聞かなければ、始まらないのだと思わされていた。
校長が椅子から立った。ほかの教師も立ち、深く頭を下げた。
「命に関わる状態になってから知ればよい話ではありませんでした。学校へ届いていた相談と連絡に、対応するべきでした。申し訳ありません」
私は、しばらく何も言わなかった。
頭を下げている人たちを見ても、あの朝、娘の部屋にいた私たちは変わらなかった。もう少し早く気づいていればと、何度考えたか分からなかった。
この人たちにも、それを繰り返してほしいだけではなかった。
「今、娘に会って、謝ろうとはしないでください」
そう言うと、校長が顔を上げた。
「分かりました」
「学校から電話があるというだけでも、娘は気にします。本人から聞かなければ先へ進めないという理由で、呼び出さないでください」
「はい。まず保護者の方と相談します」
教師たちが座り直すまで、私は手を組んでいた。指をほどくと、掌に爪の跡が残っていた。
「今の話を、ほかの生徒へ伝えることもしないでください」
4人の顔を順に見た。
「先生方の間でも、誰に、何のために知らせるのか、私たちに確認してください。必要な対応まで止めるつもりはありません。でも、娘の知らないところで、話が広がるのは困ります」
教頭が頷いた。
「今伺ったことは、扱いを分けて記録します。新しい担任や養護教諭への共有も、必要な内容を保護者の方と確認してからにします。生徒へ話すことはしません」
私は、その説明を手帳へ書いた。
書き終わると、校長が静かに尋ねた。
「今日、こちらからお伝えすることについても、優子さんへどのようにお話しになるかは、ご家庭で決めていただければと思います。すぐに全てを聞かせていただく必要はありません」
私は頷いた。昨日、娘は本の話をしていたという。明日、勝也くんと話したいと言った。その小さな楽しみの中へ、今日ここで聞いたことを全部押し込むつもりはなかった。
「今朝も、学校へ来る話はしていません。先生が替わったから、明日から来られるだろうとは、考えないでください」
「登校の時期を、学校だけで決めることはしません」
校長の返事を聞いてから、私は机の脇の袋へ手を伸ばした。
現物を見せるために、紙を広げた。教科書の角が包みへ引っかかり、いったん袋を倒して取り出した。指に触れた表紙は、まっすぐには戻らなかった。
優子が学校へ持っていった物だった。
美和が揃えた時には、こうではなかった。娘の名前を書き、リュックサックへ入れた時には、普通に開いて読める物だった。
教頭が、椅子を寄せた。
「こちらは、昨日、鵜飼くんに見せてもらいました」
「そう聞いています。こちらは、どうですか」
別のノートも並べた。破れた紙の端が表紙からはみ出していた。校長が手を伸ばす前に、私は自分で開いた。
黒いマジックで塗り潰されたところは、娘の字も、印刷された文字も読めなくなっていた。太い文字が余白を越え、ページをめくっても続いていた。
昨夜、私は途中で閉じた。先を読めば、ほかにもあるだろうと分かっていた。それでも、妻の前で、そのまま続きを見られなくなった。
今日は、閉じなかった。
「優子は、これを使って授業を受けていたんです」
校長の目が、ページの上で止まった。
「学校に、勉強するために持っていった物です。家で私たちに見せることもできず、また持っていっていた」
生徒指導の教師が、めくれた紙の下を覗いた。読もうとした行が見えなかったのか、少し目を細めた。
「昨日の聞き取りでも、書き込んだことを認めた生徒がいます。本人の説明と、現物の状態を、続けて確認します」
「ノートに書いた子だけを探せば終わる話ではないですね」
「はい。直接した行為も、その時に一緒にいたことも、分けて確かめています」
私は頷いた。袋の中には、まだ、全部揃っているわけではなかった。昨日、優子も、まだない物があると小さな声で話した。私たちからも学校へ聞くと、その場で約束していた。調査ノートにも、見つかっていない物のことが残っていた。
「なくなった物も、全て戻ってきたわけではありません」
「学校でも探しています。見つかった場合は、場所や届けた人を記録し、ご家庭へ連絡します」
教頭が言った。学校へ別に届けられた教材も、このあと確認してほしいという。
私は、今開いているノートを閉じた。表紙だけ整えても、膨らんだ紙は収まらなかった。無理に押さえず、そのまま包みの上へ戻した。
代わりを買えば、授業を受けるための物は揃うかもしれなかった。けれど、また持っていく娘が、同じことをされないと思えるかどうかは、別だった。
「教材を新しくすることも必要です。ただ、それを渡して、もう困らないでしょうとは言わないでください」
学年主任は、開いていた手帳へ書き留めた。
「はい。必要な物の用意と、学校で安心して使えるようにすることは、どちらも考えます」
その言葉を聞き、私は手提げの持ち手を畳んだ。
ようやく、これからの話へ進もうと思えた。
* * *
「4人への対応を、聞かせてください」
私が言うと、生徒指導の教師が別の紙を出した。教材の上へ重ねず、自分の前の空いたところへ置いた。
「今日から、通常の教室へ入れず、別室で学習と指導を行っています。担当する教員を決め、交代でつきます。生徒だけで過ごす時間は作りません」
「学校には来るんですね」
「はい。登校の時刻をずらし、ほかの生徒が朝の会に入っている間に、指定した部屋へ来させています」
どの部屋なのかを尋ねると、教師は紙へ簡単な図を描いた。生徒指導室は、普段の移動教室や体育へ向かう道から外れているという。
「休み時間や、トイレへ行く時は、どうなりますか」
「自由に教室や校内を歩かせることはしません。隣のトイレを、教員へ伝えて使わせます。出入りも確認します」
私は、その図を見た。朝、来る時刻を変えるだけでは足りなかった。優子がいつか学校へ戻ったとして、その子たちに会わずに過ごせるのかを、考えていた。
「本人たちには、何と説明していますか」
「通常の教室へ戻す時期は、まだ決めていないと伝えています。学習を続けながら、自分がしたことについて話を聞き、指導します。保護者にも連絡し、それぞれ来校していただく段取りを進めています」
「反省文を書けば終わり、ですか」
「それだけでは判断しません。書いた内容も、普段の態度も確認し、個別に考えます」
個別に、という言葉を手帳へ残した。
全員が同じ日に謝れば、全員が同じ日に終わる。そういう話にはしてほしくなかった。誰がどこで何をし、その後どう受け止めているのかを、学校が見なければならなかった。
「戻すと決めた時は、娘と同じ教室へ戻すんですか」
学年主任が、こちらへ向き直った。
「いいえ。通常の教室へ戻す場合は、4人とも、1年1組へクラスを変更する方針です」
私は、ペンを止めた。
「1組、ですか」
「私が担任をしています。別室での指導を終えた生徒から、私のクラスで受け入れ、引き続き様子を見ます。元の1年3組へ戻すことはしません」
学年主任は、私の方を見たまま説明した。
「4人を一緒に戻すという意味ではありません。戻せるかどうかは、それぞれについて判断します。その時の受け入れ先を、あらかじめ決めています」
私は、手帳へ1年1組と書いた。書いてから、その下に学年主任、と付け加えた。
「娘のクラスは、変わらないんですね」
「はい。優子さんと鵜飼くんたちの所属は、そのままです。優子さんの席も残しています」
隣に勝也くんが座っているのだと、昨夜、美和から聞いていた。娘が学校へ戻ることを考えられるようになった時、その席まで失わせたくはなかった。
私は、少し息を吐いた。しかし、すぐにペンを置くことはできなかった。
「別のクラスなら、それで会わなくなるわけではありませんね」
「はい」
学年主任は、返事を急いで終わらせなかった。
「廊下や特別教室、行事などで接触しないようにすることも必要です。通常の教室へ戻す前に、別室での指導の結果と、復帰後の対応を、ご家庭へ説明します」
「娘が登校したら、いつの間にか戻ってきていた、ということはやめてください」
「そのような進め方はしません」
教頭が、学校側の紙にも書き加えた。私は、どの言葉を記録したかを尋ねた。事前に保護者へ説明することと、元のクラスへは戻さないことを、教頭が読み返した。
聞いてから、手帳を少し横へ寄せた。
「担任の交代についても、お願いします」
校長が答えた。
「前の担任は、昨日の時点で1年3組の担任から外しています。今日から、女性教員の花沢先生が担当します。前の担任を戻すことはありません」
「担任を外して、それで対応を終えるんですか」
「いいえ。今回の相談への対応と、保護者への説明について、引き続き確認します。今後の処遇は、その結果も踏まえて検討しています」
校長は、そこで1度言葉を切った。
「今回の確認の中で、以前の女子生徒へのセクハラ行為や、体罰に関する問題も分かってきました。別の生徒のことになりますので、詳しい内容をここでお話しすることは控えますが、合わせて確認を進めます」
私は、校長の顔を見た。
娘だけのことでも、受け止めきれずにいた。その向こうに、学校がこれまで拾わなかった話が、まだあった。
「今になって、分かってきたんですね」
「はい」
言い訳は続かなかった。私は、前の担任の名前を手帳へ書くことをやめた。今日聞いておきたいのは、その人について腹を立てるための材料ではなかった。
「花沢先生は、何を知っていますか」
教頭が答えた。
「優子さんへのいじめが継続していたこと、相談への対応が不適切だったこと、現在欠席されていることです。これから確認する内容は、学年主任とも共有して対応します」
「先ほど話したことは、まだ伝えていないんですね」
「はい。ここで初めて伺いました。共有する前に、保護者の方と確認します」
私は頷いた。新しい担任になったからといって、娘のことを初めから何もかも知っていてよいわけではなかった。必要なことは伝える。その順番を、私たちにも分かるようにしてほしかった。
「勝也くんがついていれば大丈夫、ということにも、しないでください」
学年主任が、顔を上げた。
「あの子には、あの子の授業も用事もあります。娘のそばを離れた時に何かあったら、また自分のせいだと思うようなことには、してほしくない」
玄関で膝をついて謝る姿を、私は目の前で見ていた。帰り際には、自分のことも後回しにしすぎないよう伝えた。あの子に、娘の安全まで背負わせたくなかった。
「はい。安全を確保する責任は、学校にあります。生徒の付き添いだけを前提にはしません」
学年主任は、そう答えた。
娘が勝也くんを頼りにしていることと、学校が勝也くんへ任せてよいことは、同じではなかった。そばにいてくれる子ができたのは嬉しい。だからこそ、その子がいなければ守れない学校には戻せなかった。
* * *
廊下で、チャイムが鳴った。思っていたより長く話していた。校長室の時計を見てから、私は手帳の空いたところへ目を戻した。
まだ、聞いていないことがあった。
「話してくれた生徒の扱いについても、確認したいです」
生徒指導の教師が、頷いた。
「以前の相談で、荒川くんが話したあと、担任がその名前を出して注意していたことも、確認しています」
私は、机にある調査ノートを見た。その子は、勝也くんより前から相談していた。
「相談した子の名前を、相手へ教えたんですか」
「はい。本人がそうしてほしいと頼んだことではありません」
「その子や、娘が、あとで何か言われるとは考えなかったんですか」
生徒指導の教師は、目を逸らさなかった。
「配慮を欠いていました。荒川くん本人にも、学校から謝罪します。今回の聞き取りでは、話した生徒の名前を加害側へ伝えることはしません」
私は、ノートを少し自分の方へ戻した。
「ここに名前があるからといって、本人に何も説明せず、誰が何を話したかを広めないでください」
「はい」
「聞き直す必要があるなら、その子が見たことを、学校から確かめてください。勝也くんたちに、もう1度全員を集めさせるようなことはしないでください」
学年主任が、分かりました、と答えた。
私は、手を離した。見せることを決めたのは自分だった。その判断で、協力してくれた子たちが困ることにならないか、気になっていた。
生徒指導の教師は、学校で進めた聞き取りについて、もう少し説明した。昨日、ほかの生徒の話を確かめたあと、大島奈々が自分から来たという。
「こちらが聞いている内容を先に教えず、本人がしたことから話してもらいました」
私は、調査ノートに書かれた名前を見た。
勝也くんの言葉を歪めて伝えた子だった。そのことも、昨夜読んだ。美和からは、娘がその嘘を信じていたと聞いた。
「自分で、したことを認めたんですね」
「はい。ノートへの書き込みや、教材を持ち出して捨てたこと、鵜飼くんの名前で嘘を伝えたことを話しています。自分が見た範囲と、そこにいなかった間のことも、分けて確認しました」
私は、すぐには返事をしなかった。どこからか、休み時間の生徒の声が聞こえた。
「なぜ、話そうと思ったと?」
生徒指導の教師は、手元の紙を見た。
「自分も加害に加わっていたが、髪を切られて泣いている優子さんを見て、やり過ぎだと思った。それでも止められず、先に帰ったと。家へ帰ってからも、そのことを思い出していたと話しています」
教師は、そこで言葉を切った。
「昨日、教室で鵜飼くんに謝っただけでは終わらせられないと、本人は言っていました」
私は、校長へ目を向けた。
「その話をしたから、娘に許してほしいということですか」
「いいえ」
校長は首を振った。
「自分から話したことは、そのまま記録します。したことがなくなるわけではありませんし、優子さんに許すよう求めるつもりもありません」
私は頷いた。自分から話した子がいることは分かった。しかし、娘がその話を聞いて、どう感じるかは分からなかった。
「娘への謝罪の場も、勝手に決めないでください」
「ご本人と保護者の意向を確認せずに、対面させることはしません」
教頭の返事を、手帳へ書いた。
生徒指導の教師は、ほかの3人についても確認中だと話した。誰が何を認め、どこがほかの生徒の説明と食い違っているのか、まだ確かめる必要があるという。私は、その場で全ての結論を出すようには求めなかった。
早く分かってほしかった。だが、急いで同じ話へ揃えればよいとは思わなかった。そうしないために、子供たちは、このノートを書いていた。
「分かったことと、まだ分からないことを分けて、報告してください」
私は言った。
「こちらが何度も電話をして、そのたびに調べていると言われるだけには、戻さないでください」
教頭が、連絡を受け持つことになった。今日の話を学校でもまとめ、今後の確認についても経過を伝えるという。次の連絡は翌日の夕方、美和へ入れることを、その場で確かめた。
私は、手帳に書いた時刻を見せた。教頭も自分の紙へ同じことを書き、読み返した。
学校で別に預かっている教材は、学年主任が取りに行った。戻ってきた時には、紙に包まれた物と、発見場所を書いた記録を持っていた。
それらを、私が持参した物から離して並べた。表紙に残った優子の名前を見た。土の入った紙の間は、教師が無理に広げず、そのまま見せた。
私は、それがどこで見つかったのかを聞いた。教師は、届けられた時に記録した内容を説明した。全て見つかったとは言わなかった。
「こちらも、娘の物として記録してください。保管する場所と、誰が扱うかも、分かるようにしておいてください」
「はい」
ノートを取り上げたという話ではなかった。娘の手から離れ、誰かが拾うまで、そこに落ちていた物だった。私は、その表紙へ少し触れてから、手を引いた。
学校へ持参した教科書とノートは、包み直した。校長が、学校側で確認した状態を記録してよいかと尋ねたので、頷いた。
「今日ここで見たことは、記録してください。ただ、現物と、この調査ノートは持ち帰ります」
「承知しました」
校長は、読んでいた紙を元のところへ戻した。教頭も、挟んであった順序を私に確かめた。
学校から届く説明を、私たちでも読み比べたかった。必要な時にまたどう使うかは、美和と考えればよかった。勝也くんへ返して、次の判断まで求めるつもりはなかった。
表紙を閉じると、朝、家で閉じた時と同じ形に戻った。中身を読んだ大人が増えた。それでも、このノートを作った子供たちが、もう同じ仕事を続けなくてよいかどうかは、これからのことだった。
「これを作ってくれた子たちに、私からも礼を言いたいと思っています」
私が言うと、学年主任は頷いた。
「学校からも、伝えます」
「学校が調べるようになったことも、伝えてください。もう自分たちが毎日、確かめに行かなければと思わなくて済むように」
学年主任は、分かりました、と答えた。
私はノートを袋へ入れた。次に開く時、娘のことで新しく分かったことがあるなら、それは学校から届いた話であってほしかった。
* * *
話を終える前に、配布物のことを伝えた。
「欠席している間のプリントなどですが、勝也くんに届けてもらうよう、お願いできますか」
生徒指導の教師が、顔を上げた。
「鵜飼くんに、ですね」
「はい。妻とも相談しています。昨日、家へ来てくれました。娘も、また会いたいと言っています」
昨日の優子の声を思い出した。勝也くんが帰ったあとの居間で、明日も来てくれるの、と言った。その言葉を言う時には、学校のことを尋ねた時とは違う顔をしていた。
「今日も、訪ねる約束をしているそうです。ただ、本人に都合を聞いて、できる範囲でお願いしたい」
学年主任が頷いた。
「学校から本人へ尋ねます。難しい日は、別の方法で届けます」
「娘が何を話したか、家でどう過ごしていたかまで、その子に報告させないでください。必要なことは、私たちに聞いてください」
校長も、はい、と答えた。
勝也くんが来ることを、娘は楽しみにしていた。会うたびに学校からの質問を運ぶ役になってしまったら、その時間まで変わってしまう。
「プリントを届けることと、ご家庭への連絡は分けます。授業の課題も、今すぐ全て終えるようにとは求めません。取り組める状態かどうかも含めて相談します」
教頭の説明を聞いて、私は手帳を閉じた。
校長が、最後にもう1度、謝罪した。私も椅子から立ったが、すぐに、よろしくお願いします、とだけ言って帰る気持ちにはなれなかった。
「今日、お約束いただいたことは、妻にも伝えます」
手帳を持ち直した。
「次の連絡を、待っています」
「はい。必ず、こちらから連絡します」
教頭が答えた。私は袋を持ち上げ、教材の入った方を反対の手へ移した。
学年主任が、ドアを開けてくれた。廊下へ出ると、先ほどの休み時間の声は収まり、また授業をする声が聞こえていた。
この校舎の中で、娘も毎日過ごしていた。ノートに書かれたことだけをしていたわけではない。教科書を開き、鉛筆を持ち、次の授業へ移動していた。その間に、持ち物がなくなり、ひどい言葉をかけられていた。
私は、窓の向こうへ目をやった。
学校へ戻れるかどうかは、まだ分からなかった。今日、教師たちが頭を下げたからといって、娘が明日の朝、ここへ歩いてこられるわけではなかった。
来客用の玄関で、教頭がもう1度頭を下げた。
「鵜飼くんへのお願いは、こちらから伝えます」
「よろしくお願いします」
そう答えて、靴を履いた。
勝也くんへ、改めて礼を言いたかった。ノートを最後まで読んだ今、受け取った時に伝えたありがとうだけでは、足りない気がした。しかし、授業中に呼び出してもらうつもりはなかった。夕方、家で会えなければ、改めて機会を作ればよかった。娘のために動いた子の時間を、また私が使わせることはなかった。
校門を出てから、美和へ電話をかけた。少し待つと、声が聞こえた。
「終わった?」
「うん。今、出た」
どこから話すか、少し迷った。担任が替わったこと。4人が通常の教室へは戻っていないこと。戻す場合も、学年主任のクラスへ移すということ。順番に、短く伝えた。
美和は、途中で口を挟まずに聞いた。
「詳しくは、帰ってから話す。ノートも、見てもらったよ」
「……そう」
返事のあと、小さく息を吐く音がした。
「優子は?」
「そばにいるよ。今、本を見てる」
私は、袋の持ち手を握り直した。
「分かった。これから帰る」
電話を切り、歩き出した。手元の袋は、来た時と同じだけ重かった。持ち帰る言葉は増えたが、それをそのまま、娘へ聞かせる必要はなかった。
まず、美和と話そうと思った。勝也くんに会えたら礼を言う。その友達にも、きちんと伝える。
校長室でノートを囲んだ教師たちの顔が浮かんだ。違う筆跡を見つけ、読み返していた。感心している言葉も、反省している言葉も聞いた。
次は、その人たちが調べたことを、聞かせてもらう番だった。
* * 勝也視点 * *
帰りの会が終わると、花沢先生に呼ばれた。
朝、教室へ戻った時に、先生は黒板へ名前を書いてくれた。花沢昭子。俺に向けても、よろしくね、と言った。昨日のことをクラス全員の前で説明するようには求められなかった。
今日、優子の隣で授業を受けることはなかった。それでも、朝から自分の席へ座れた。窓側の机は空いたままで、机の下へ入った椅子も、そのままだった。
「富田さんのお父さんから、お願いがあったの」
先生は、机の上の紙を揃えた。
「欠席している間の配布物を、鵜飼くんに届けてもらえないかって。無理なくできる範囲でお願いしたい、と言っていらしたそうよ」
「俺で、いいんですか」
「うん。頼んでほしいと、おっしゃっていたの。今日、行く予定はある?」
「はい。約束してます」
答えてから、リュックサックへ目を向けた。本は、朝入れたまま、まだそこにあった。
「じゃあ、お願いしてもいいかな」
「はい」
授業のプリントと、保護者へ渡す封筒を分けて受け取った。角を揃え、自分のファイルへ入れた。
「学校からの説明は、お父さんとお母さんへ直接連絡するからね。富田さんの様子を、毎回聞いてきてくれなくて大丈夫」
先生がそう言ったので、顔を上げた。
「プリントも、今すぐ全部やるようにとは言わなくていいよ。今日は届けてもらうだけで」
「分かりました」
先生は、ありがとう、と言った。頭を下げて戻りかけたところで、昨日の担任の声を思い出した。
「先生。クラス委員長は、どうなるんですか」
花沢先生は、持っていた紙を机へ置いた。
「昨日、言われたことが気になってる?」
「はい。俺が、続けてていいのかと思って」
先生は、主任の先生から話を聞いていると言った。
「あの言葉だけで、鵜飼くんの役割を取り上げたりはしないよ。ただ、クラスの困ったことを、全部1人で解決しようとしなくていいからね」
俺は、ファイルの角を見た。先生へ話しても無駄だと思った時のことは、まだ残っていた。今度は大丈夫だと、すぐに思えたわけでもなかった。
「何かあったら、話して。聞いたことにどう対応したかも、ちゃんと伝えるから」
「……分かりました」
返事をして、自分の机へ戻った。
翔太が、廊下側から歩いてきた。俺のファイルを見て、優子の分かと聞いた。
「うん。お父さんから、頼んでほしいって」
「そっか。今日も行くんだもんな」
翔太は、俺の机の端に手を置いた。昨日、何も言えずにいた時とは違い、隣へ来てから、すぐに口を開いていた。
春樹も来て、持っていたノートを少し上げた。
「昼休みに合わせたところ、ちゃんと足してある。こっちは俺が持ってるから」
「うん。ご両親にも、あとで渡す」
昼休み、俺たちは写した内容と、昨日あとから書いた分を確かめた。先生に呼ばれて見せたわけではなかった。追加したことがあれば、優子の家にも伝えようと話していた。
真弓と綾香もそばへ来た。宣仁は、鞄を持ち、机の間を通ってきた。
「先生、何か言うてた?」
宣仁に聞かれ、俺はファイルをしまいながら答えた。
「俺がしたことは、怒られた。もう殴らないって、話した」
「うん」
「優子のことは、学校で調べてくださいって言った」
春樹が頷いた。宣仁も、そっか、と答えた。
「お父さんには、ちゃんと説明してくれたのかな」
綾香が言った。俺は、まだ分からない、と答えた。
「でも、今日、話したとは聞いた。俺から、学校のことを全部聞いてくるつもりはないけど」
「うん。会ってくるだけで、いいと思う」
真弓の言葉に、頷いた。
戸田たちの席は、今日、ずっと空いていた。学校には来ていると聞いたが、廊下でも顔を見なかった。それを見て、もう全部大丈夫だとは言えなかった。でも、昨日までと同じではなかった。
帰る支度をしてから、部活へ行った。顧問と部長に、しばらく放課後に会いに行きたい相手がいることを話した。毎日来てほしいと言われたことにはせず、相手の家とも相談しながら訪ねたいと伝えた。
2人は話を聞き、休むことを認めてくれた。戻れる時が分かったら知らせるように言われ、頭を下げた。
廊下へ出ると、山崎先輩がいた。
「鵜飼くん。昨日、会えた?」
「はい。少し、話せました」
「そっか。よかった」
先輩は、そこから何を話したかまでは聞かなかった。俺も、先輩の友達へのお礼を伝えてほしいと頼んだ。
「優子が、みんなにもありがとうって言ってたので」
「うん。伝えておくね」
礼を言い、昇降口へ向かった。
外靴へ履き替える時、右手へ少し力が入り、傷が痛んだ。いったん手を止め、左手で靴の踵を直した。
学校で言われたことは、覚えていた。ガラスが、ほかの誰かへ当たっていたかもしれないことも。自分が止まれなかった時、宣仁に止めてもらったことも。
痛みが引いても、そのことは忘れたくなかった。
外へ出ると、部活へ急ぐ生徒が校舎の横を走っていった。俺は校門へ向かい、リュックサックの肩紐を左手で直した。
今日は、血のついた制服ではなかった。右手には手当てをしてもらった跡があり、リュックサックには返す本があった。
優子のお母さんに渡す封筒もある。それを渡したら、本の話をしてもよかった。優子が何か話したければ、聞いていればよかった。
昨日は、会えたら最初に何を言うか、そればかり考えていた。
今日は、また明日、と言って別れた家へ向かう。
校門を出て、優子の家へ続く道を歩き始めた。
今回の登場人物
・鵜飼 勝也
学校の調査への協力は断ったまま、自分の暴力と破損について指導を受け、教室へ戻る。放課後、優子の両親の希望で配布物を預かり、返す本と一緒に持って訪問へ向かう。
・優子の父(泰臣)
ノートの扱いまで託されたことを受け止め、美和と相談して学校への提示と持ち帰りを決める。子供たちへの感謝を抱き、未遂の事実と学校の不対応、今後の具体策について話す。
・優子の母(美和)
泰臣と資料を確かめ、優子と家で過ごしながら面談の報告を待つ。面談後、電話で学校の対応について聞く。
・富田 優子
学校へ向かう父を、短い言葉で見送る。自分の代わりに父が話しに行く朝を、母と家で過ごす。
・学年主任
勝也へ指導と学校の対応を伝えたあと、泰臣との面談に加わる。調査ノートから生徒たちの協力を知り、反省を示すとともに、4人の通常教室への復帰先を自身が担任する1年1組とする方針を説明する。
・生徒指導の先生
勝也の行動を確認し、泰臣へ学校独自の聞き取りや奈々の供述を説明する。別室での学習・指導と、協力した生徒を守る対応について話す。
・校長
相談後の不対応を認め、泰臣へ謝罪する。調査ノートを初めて読み、生徒たちへの感心と、本来学校がすべきことを担わせた反省を伝える。
・教頭
これまでの対応と今後の連絡を説明し、教材や情報の扱いを泰臣と確かめる。学校から経過を報告する窓口を引き受ける。
・花沢先生
新たに1年3組の担任となる。勝也へ優子の配布物を託し、保護者への連絡や課題への対応は学校が行うと伝える。
・鶴見 春樹
写した調査ノートを持参し、勝也と追記内容を確かめる。資料を学校へ開示せず、富田家へ追加分を伝える準備をする。
・鳥居 翔太
登校時、勝也が優子に会えたことを喜び、怪我を気遣う。放課後も勝也へ声をかけ、普段のやり取りを少しずつ取り戻す。
・加藤 真弓
優子からの礼を受け取り、放課後には勝也の訪問を見送る言葉をかける。優子の事情を無理に聞き出そうとはしない。
・井上 綾香
登校時と放課後に勝也と話す。学校が優子の父へ説明したかを気にかけながら、勝也の返事を受け止める。
・荒川 宣仁
放課後、学校との対話について勝也に尋ねる。勝也がもう殴らないと教師にも伝えたことを聞く。
・山崎 詩織
部活を休む相談を終えた勝也と会い、優子に会えたと聞いて安堵する。協力した友人へ、優子からの礼を伝えると約束する。
・茶道部の顧問、部長
勝也から、放課後に優子を訪ねたいという相談を受ける。部活を休むことを認め、戻れる時が分かれば知らせるよう伝える。




