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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
31/52

第27話 聞きたかった言葉


26話と27話は勝也視点と優子視点で同じ話を分けています。



 お母さんと目が合っても、すぐには手を離せなかった。


 勝也の制服を握っていた。胸元は、私が泣いたせいで濡れていた。顔を上げたところへ風が当たると、目の下が少し冷たかった。


「お母さん……」

「うん」


 お母さんは、返事をしてから勝也を見た。


「家に上がって、詳しい話を聞かせてもらってもいい?」


 指に、また力が入った。


 学校のことを話してもいいと、私が言った。お母さんに知ってほしかった。けれど、家に入って、向かい合って座った時、どこから話せばいいのかは分からなかった。


 何をされたのか。その時、何と言われたのか。順番に聞かれたら、また声が出なくなるかもしれなかった。


「中、入ろうか」

「……うん」


 勝也が、私の顔を見ていた。


 先に歩き出さず、返事を待ってくれた。それで、少しだけ体を離せた。背中にあった手が下りると、服の上に、まだ温かさが残っていた。


 借りたタオルを目へ当てた。その間に、勝也は左手でリュックサックを持ち上げ、背負い直した。足元には、もう1つ、手提げがあった。


「俺が持つから」


 私は頷いた。中にある物を、確かめようとはできなかった。


 お母さんが玄関の方へ回り、私も歩き出した。数歩進んでから、振り返った。


 さっきまで、すぐそばにいたのに。少し離れただけで、本当に一緒に来てくれるのか、見たくなった。


「いるよ」


 勝也が言った。


 頷いて前へ向くと、今度は隣に並んでくれた。歩く音が、近くにあった。


     * * *


「お邪魔します」


 玄関で、その声を聞いた。


 勝也が、私の家にいる。庭で会えたこととも、抱きしめてもらったこととも、少し違っていた。靴を脱いだあとも、帰らずに、家の中へ来てくれる。


 そう思って片方の靴へ手をかけた時、土曜日、という言葉が聞こえた。


「はい。土曜日に、訪ねたんですけど、留守だったので」

「土曜日……?」

「うん。会えたらと思って」


 勝也の顔を見た。それから、お母さんを見た。


「携帯を買いに行っていた時だと思う。帰ってから、インターホンに残っているのを見たの」


 あの日も、来てくれていた。


 新しい携帯を買ってもらっても、前の物がなくなったことを考えていた。お店にいる間も、早く帰りたいと思っていた。その間に、勝也は、この玄関の前にいたのだった。


「優子には、まだ話していなかったね」

「……来てくれてたの」

「その日は、会えなかったけど」


 私は、タオルを胸の前へ寄せた。


 今日、たまたま会えただけではなかった。私が知らないところでも、会おうとしてくれていた。


 ありがとうと言いたかった。でも、喉の奥が詰まり、言葉になる前に口を閉じた。


 お母さんが、勝也へ名前を尋ねた。


「鵜飼です。鵜飼勝也です」

「鵜飼くん……」

「前は、朝倉でした。昔、隣に住んでいた……」


 お母さんの顔が変わった。勝也を見て、片手を口元へ持っていった。


「……勝也くん?」

「はい」

「あの、勝也くんなの?」


 私も、小さく頷いた。


 ずっと、同じ勝也だった。学校では名字で呼んで、前みたいに話せなくても、私には、あの頃の勝也だった。


 でも、お母さんには、同じクラスになったことを、ちゃんと話していなかった。今日まで言えていなかったことが、学校でされたことのほかにもあった。


「優子と同じ学校だったのね」

「同じクラスです。4月から」


 お母さんが私を見た。私は、もう1度頷いた。


 昔の名前を聞いて、お母さんの声が少し柔らかくなった。勝也のお母さんのことも尋ねていた。私は靴を脱ぎかけたまま、そのやり取りを聞いていた。


 居間の方から、お父さんが出てきた。勝也が、少し背筋を伸ばした。


「美和、誰が来たの?」

「昔、隣に住んでいた勝也くん。優子と同じクラスなの」

「勝也くん……?」

「はい。お久しぶりです」


 お父さんも玄関まで来て、勝也の顔を見た。


「大きくなったね」


 勝也が頷いた。お父さんはお母さんの隣に立ち、私へも目を向けた。


 お母さんとお父さんが、勝也を迎えていた。小さい頃は、早く遊びたくて、玄関での挨拶が終わるのを待っていられないことがあった。


 今は、どこへ手を置けばいいのか迷っていた。片方の靴を脱いでも、もう片方へ足を移せずにいた。


 勝也が、上がり框の端へ荷物を置いた。けれど、そのまま動かなくなった。


「勝也……?」


 呼ぶと、勝也はお母さんへ顔を向けた。


「俺、同じクラスで会った時、優子だって分かったんです」


 白い髪で、すぐに分かったと話していた。私は、タオルを持つ手を下げた。


 私の髪は、どこにいても目立った。学校では、目立たなければいいのにと思ったことが何度もあった。でも、勝也が私を見つける時にも、この髪を見ていた。


「小さい頃みたいに話すのが、何か、照れくさくて。昔のことを言ったら、困るかなとか、いろいろ考えて」


 困らなかった。


 声に出す前に、勝也の話が続いた。席が近くなってからのこと。部活を辞めた理由を聞けなかったこと。


 違う、と言いたかった。


 言わなかったのは私だった。聞かれた時も、答えられなかった。うまく吹けた時のことだけ覚えていてもらいたかった。辞めた理由を話して、もう1度、失敗した時の自分へ戻るのが怖かった。


「俺は、普通に、友達と遊んでて」


 声が、途切れた。


「同じ教室に、いたのに……」


 勝也の顔が下がった。さっき庭でも泣いていた。その目が、また濡れていた。


「もっと早く……気づけたはずなのに」


 急に、目の前の体が低くなった。


 土間へ膝がついた。勝也が頭を下げた。


「すみません……」


 息が止まった。


 勝也が謝っている。私にひどいことをした人ではないのに。今日、会いに来てくれて、ずっと抱きしめてくれた人が、お母さんとお父さんの前で頭を下げていた。


 やめて、と言いたかった。喉が動いたのに、音にならなかった。


「勝也くん」


 お母さんが、勝也の肩へ手を置いた。お父さんも、勝也の前へかがみかけていた。


「そういうふうに謝らないで。立って」

「でも、俺……」

「あなたが謝ることではないよ」


 私は、その横で立ったままだった。何か言わなければ、勝也が、まだ自分のせいだと思ってしまう。


 お母さんは、私にひどいことをした人の分まで背負わなくていいと話していた。勝也は顔を下げたまま、返事をしなかった。


 私が何も言わなかったことで、こうして謝らせているのだと思うと、また、ごめんなさいが先に出そうになった。


 でも、それを言っても、勝也は顔を上げてくれない気がした。


 袖へ、指を伸ばした。


 白い布に触れた。強く引くことはできなかった。ただ、そこへ指を置いた。勝也が顔を上げると、目が合った。


「……来てくれて、よかった」


 声が震えた。


 本当だった。来てくれなければよかったとは、思っていなかった。少しも、そうではなかった。


 勝也が頷いた。片足へ体重を移して、ゆっくり立ち上がった。私は、その袖から、まだ手を離せなかった。


「すみま……」


 言いかけて、止まった。


「……ありがとうございます」

「うん」


 お母さんが答えた。


 お父さんが、立ち上がった勝也へ顔を向けた。勝也の背中が、少し伸びた。


「会いに来てくれて、ありがとう」

「……はい」


「私たちにも、まだ分からないことがある。君が知っていることを、聞かせてもらえるかな」

「はい。俺が分かることなら」


 お父さんも、勝也を責めなかった。頷いて横へ寄り、上がるところを空けてくれた。


 勝也が靴を脱ぐのを、そばで待った。先に居間へ行ってしまいたくなかった。隣に並んで、家へ上がった。


     * * *


 テーブルに手提げが置かれた。私は、勝也の隣の椅子へ座った。


 学校とは、座っている側が違っていた。少し顔を向けると、勝也も椅子をこちらへ向けてくれた。


 お母さんが持ってきた濡れタオルを受け取り、眼鏡を外した。借りていた小さなタオルは、膝に置いた。


 目へ冷たい布を当てると、泣き続けていたところが少し楽になった。隣でも、勝也が顔を拭いていた。


 お母さんが、勝也の手を見て、先に手当てをした方がいいと話した。右手にも、腕にも、傷があった。制服には血の跡が残っていた。


「すみません。あとで、ちゃんとします。今は、優子の話を先にさせてください」


 私は、濡れタオルを少し下ろした。


 自分の怪我より、私の話をしようとしていた。何か言おうとしても、先ほどと同じように、声が出なかった。お母さんが、痛くなったら言ってねと伝えると、勝也は頷いた。


 お父さんが、勝也の前のコップへ目を向けた。


「勝也くんも、少し水を飲んで。話は、落ち着いてからでいいから」


 勝也は頷き、水を飲んだ。コップを戻すまで、お父さんもお母さんも、続きを尋ねなかった。


 私も水を手前へ寄せた。すぐには飲めず、コップの縁を見た。


 お母さんが向かいへ座ると、お父さんもその隣へ椅子を引いた。2人へ向けて、勝也が学校の話を始めた。


「お父さんも、一緒に聞いていい?」


 お母さんに尋ねられ、私は濡れタオルを畳む手を止めた。


 知ってほしい。けれど、知られるのも怖かった。お母さんやお父さんの顔が、話を聞く前と後で変わってしまったら、どうすればいいのか分からなかった。


 それでも、頷いた。濡れタオルをテーブルの端へ置いた。


「……うん」

「自分から話せる? 思い出して話すのがつらいなら、俺が話す」


 勝也が言った。


 膝に置いたタオルの折り目を押さえた。最初のひと言だけでも、自分で言いたかった。


「学校で……」


 隣で、勝也の手が止まった。お母さんも待っていた。


「物、なくなったり……書かれたり、してたの」

「うん」

「自分で、なくしたんじゃ、なくて……」


 それ以上が続かなかった。


 なくなった物は1つではなかった。どの話から言えばいいか考えると、ほかの物も浮かんだ。いつだったかを思い出そうとすると、その日の声まで戻ってきそうだった。


 手提げから目を離し、タオルへ指をかけた。


「教科書のことから、俺が話そうか」


 私は頷いた。


 お母さんが、聞こえたよと言ってくれた。途中で止まっても、言えたところまでは届いていた。


 勝也が、自分のノートを出した。紙が、何枚も挟まっていた。


「ここに、俺たちが聞いたこと、書いてある。全部、優子に読み直してもらうつもりじゃないから」

「……俺たち?」


 勝也が、友達の名前を挙げた。学校で会う人たちだった。勝也の周りで、一緒に笑ったり、話したりしていた人たちだった。


「一緒に、聞いてくれたんだ」


 ノートを見た。


 何を、知っているのだろう。どこまで、聞いたのだろう。


「みんなに、知られた……?」


 聞いてから、勝也の顔を見られなくなった。


 手伝ってくれたのなら、お礼を言わなければいけないはずだった。それなのに、先に、知られたことが怖くなった。どんな顔で会えばいいのか、考えてしまった。


 勝也は、ノートを閉じたまま答えた。教科書のことは話したけれど、私が学校を休んでいる理由は決めつけて話していないと言った。


「勝手に聞きに来たりは、しない。会えるかどうかは、優子に聞いてからにする」


 私は、少し顔を上げた。


 今すぐ、みんなに会って話さなければいけないのではなかった。玄関が鳴るたびに、次の人が聞きに来るのだと考えなくてもよかった。


「……うん」


 返事をすると、勝也がノートを開いた。


 月曜日の社会の教科書の話からだった。黒い字で読めなくなっていたページを、見ていた。貸してくれた教科書のことも、自分が忘れたことにしてくれたことも、お母さんに話していた。


 私は、自分の手へ目を落とした。


「消しても……取れなくて」


 消しゴムを動かしても、黒いマジックの跡は残った。紙が傷んでいくだけだった。授業のたびに開かなければいけない物なのに、開けば、またその字を見た。


 お母さんは、家にある物についても尋ねた。頷くと、今は見せなくていいと言ってくれた。


 勝也の持ってきた手提げにも、私の物が入っていた。外で見つかった物。拾った人が、持っていてくれた物。


 勝也の説明を聞きながら、なくなった時のことを思い出した。誰にも言えず、もう出てこないと思っていた物を、探してくれた人がいた。


「まだ……ないの、ある」


 それだけ言うと、勝也がお母さんへ続きを伝えてくれた。私が全部の名前を並べなくても、話が進んだ。


 お父さんも手提げを見てから、私へ顔を向けた。


「見つかっていない物も、そのままにはしない。私たちからも学校へ聞くよ」


 なくなった物を、今すぐ思い出すようには言われなかった。タオルを握っていた指を、少し緩めた。


 先生へ相談したという話になった。


 私は、膝へ置いた手を握った。本人が言わないと、という返事を聞いた途端、目を上げられなくなった。


「私が、言わなかったから……」

「違うよ」


 お母さんが、すぐに答えた。


「今、その話をしているんじゃないの」


 顔を上げた。怒られたのかと思った。でも、お母さんは私を睨んでいなかった。


「勝也くんも、荒川くんも、見たことを先生に伝えていたんでしょう。聞いた先生が、確かめなければいけなかったことだよ」


 お父さんが、勝也を見た。


「その話は、私からも学校に確かめる」


 声は静かだった。けれど、玄関で勝也へ話しかけた時とは少し違った。


「相談を受けたあと、何をしたのかも聞く。優子が話せなかった、で済むことじゃない」


 勝也が頷いた。お父さんは私にも同じことを言い直すようには求めず、勝也の前のノートへ目を落とした。


 私は、口を閉じたまま聞いていた。


 自分で言えなければ、なかったのと同じなのだと思っていた。私が黙っているから、何も変わらない。それなら、言えない私が悪いのだと、何度も考えた。


 お母さんは、そうは言わなかった。


 水曜日に帰った時、お母さんとお父さんも、おかしいと分かっていた。その話を聞きながら、私は目を伏せた。何も言えなくても、見えていた物はあった。


 髪も、服も。隠せなかった。それなのに、声にして聞かれると、何も出てこなかった。


 勝也が、部活や日傘の話もしていいか尋ねた。


「……話して」


 少し間を置き、続けた。


「自分だと……ちゃんと、言えないから」

「うん」


 勝也は頷いた。私に言い直させず、ノートへ目を落とした。


 夏休み前になくなった日傘の話を聞いた。壊したところを見ていた人と、公園へ捨てたところを見ていた人がいた。


 戸田さんと、富永さん。


 名前を聞いた時、肩へ力が入った。勝也が口を閉じたので、私はタオルを握りながら頷いた。


 今、この家に来ているのではない。目の前にはお母さんとお父さんがいて、隣には勝也がいた。そう確かめてから、続きを聞いた。


 水曜日になくなった傘は、まだ見つかっていなかった。


「帰る時、なかったの」


 言ってから、足元へ目が落ちた。


「靴も……」


 言葉を止めた。帰りたかった時のことを考えると、喉が狭くなった。


 勝也は、靴も傘もなかったから、私が帰ったと思っていたと話した。あとになって違うと分かり、ノートにも書き足したと言っていた。


 私は、その横顔を見た。


 私がいなくなったあと、靴箱を見に行っていた。そのことを、今、知った。


 帰ってしまったと思っていたのなら、教室で私を待つ理由はなかった。分かっていて、置いて帰ったのではなかった。


 勝也は、お母さんへ順番に話していた。私が囲まれたこと。物を持っていかれたこと。体にされたことも、長くは言わなかった。


「髪も……戸田さんに、切られたって聞きました」


 首の後ろへ、手をやりかけた。


 途中で止めた。触っても、戻らなかった。ここに座っていても、短くなった髪は、そこにあった。


「優子」


 名前を呼ばれた。少し遅れて、勝也を見た。


「ここで、1回やめようか」


 頷く前に、口だけが動いた。お母さんが椅子から立ち、そばへ来てくれた。


「もう、今、続きを言わなくていい」


 優しい声を聞いたら、我慢していたものが崩れた。


「……ごめんなさい」

「何を、謝ってるの」


 タオルを握る手を見た。言わなければいけないことが、たくさんあった。心配をかけたままにしていたことも、お母さんの問いかけに、顔を伏せることしかできなかったことも。


「言えなくて……ずっと」

「うん」

「お母さんが、聞いてくれた時も……何も、言えなくて」


 涙が、膝へ落ちた。


「心配、かけて……」


 背中へ腕が回った。私は前へ傾き、お母さんの肩へ顔を寄せた。


「言えなかったんだよね」


 お母さんの声も震えていた。


「言わないといけないと思っても、言えなかったんでしょう」


 頷いた。顔を寄せたまま、何度も頷きたかった。


 言いたくなかっただけではなかった。何も聞いてほしくなかったのでもなかった。言葉にしたら、またあの場所へ戻ってしまいそうで、どこから声を出せばいいか分からなかった。


「ごめんなさい……」

「謝らなくていいよ。お母さんに話せなかったこと、怒ってない」


 頭へ手が触れた。短くなった髪のところで、少し止まった。


 隣で、紙の動く音がした。顔を少し上げると、勝也がノートを閉じていた。


 まだ、全部は話していなかった。でも、誰も、先を促さなかった。


「お母さんにも、できることをさせてね」


 お母さんの目からも、涙が落ちていた。


「今まで話せなかった分を、今日、1人で全部話そうとしなくていい。勝也くんが伝えてくれたことも、ちゃんと聞いたから」


 お母さんの服へ、指をかけた。


 お父さんが、こちらへ少し身を寄せた。顔を上げると、目が合った。


「お父さんにも、話したくなった時に話してくれればいい。うまく言えなくても、聞くから」


 お母さんに抱かれたまま頷いた。お父さんはそれ以上尋ねず、椅子へ座り直した。次に話す時も、全部を順番どおりに言えなくていいのだと思った。


 庭では、勝也の制服を握った。今は、お母さんの服を握っていた。泣いている間、離れなくてもよかった。


     * * *


 お母さんに頬を拭いてもらい、水を飲んだ。コップを両手で持つと、指に冷たさが伝わった。


 勝也が、私の物を預かってもらえないかと、お母さんへ話した。


「優子の物なので。俺が、勝手にどうするか決めたくなくて」


 お母さんは、袋へ手を添えてから私を見た。


「お母さんが持っていてもいい?」


 頷いた。コップを置き、少しだけ息を吸った。


「……見なくても、いい?」

「うん。今は、見なくていい」


 肩から力が抜けた。


 探してもらったのだから、受け取ったら全部、確かめなければいけないと思っていた。自分の名前があって、その上に別の字が書いてある物を、また開くのだと思っていた。


 お母さんが持っていてくれるのなら、今、私の部屋へ持っていかなくてもよかった。


 勝也が、袋の口を閉じた。お母さんが、自分の方へ寄せた。


 学校には教材を見せたけれど、預けていないと言っていた。調べたことを書いたノートも、見せていなかった。


 先生の話になると、勝也の声が少し硬くなった。


「謝るだけじゃなくて、実際に動いてもらわないと、信用できないんです」


 私は、その顔を見た。勝也が学校で何を話し、どんな顔をしていたのか、ここからは分からなかった。けれど、今も、怒りが残っているのは声で分かった。


 怪我をした手が、目に入った。私の方へ伸びてきた時には、怖くなかった手だった。その手で人を殴ったと聞くと、同じ人のことなのに、うまく結びつかなかった。


 勝也は、私へ怒鳴らなかった。顔を上げるまで待って、話を止めてくれた。今も、私が袋を見なくていいように、口を閉じてくれた。


 何と言えばいいか分からず、私は黙っていた。


「すぐに信用しろとは言えないね。私も、説明を聞いて、それで終わりにはしない」


 お父さんが答えた。勝也は、その顔を見てから頷いた。


「……お願いします」


 担任の先生を外す方針だという話も聞いた。すぐに、学校へ来るように言われるのかと思った。


 膝の上で、指が動いた。


「先生が替わったら、すぐ学校へ行きなさい、という話にはしないからね」


 お母さんが、私へ向いていた。


「……うん」

「学校の話は、お父さんとも相談する。優子が今日、決めなくていい」


 お父さんも頷いた。


「今すぐ、どうするか答えなくていいからね」


 今、答えを出さなくてもよかった。


 勝也は、ノートもお母さんへ渡した。友達が写した物を持っているので、大丈夫だと言った。


 お母さんがページをめくると、違う人の字が見えた。紙の大きさも、ペンの色も揃っていなかった。私が知らない間に、何人もの人が、私のことを書いていた。


 さっきは、知られたことが怖かった。今も、誰にどう会えばいいか分からなかった。


 でも、この紙がなければ、お母さんに伝わらなかったことがあった。私が見ていない場所で、何をされたのかも分からなかった。


 お母さんは、いつから調べてくれていたのかも尋ねた。連休にも人の話を聞いていたと、勝也は答えた。


 お父さんも、ノートをのぞいた。


「みんな、同じクラスの友達なのかな」

「はい。家に集まって、聞いてきたことを合わせたりしてました」

「君も、友達も、随分時間を使ってくれたんだね」


 勝也が頷いた。私が家にいる間にも、みんなは集まっていた。ノートの字を見てから、勝也へ目を戻した。


「ありがとう。皆さんにも、私からお礼を伝えたい」

「伝えます」


 お母さんと勝也の声を聞いて、口を開いた。


「……ありがとうって」


 2人が、こちらを見た。


「私も……言ってたって、伝えて」

「うん。伝える」


 勝也が答えた。


 会いに行って自分で言うようには、言われなかった。これだけでも、預かってくれた。


 お母さんは、勝也たちがこれからも全部、聞いて回らなくていいと話した。分からないことが残っていても、ここまで調べたことを受け取ると言った。


「学校へ聞かなければいけないことは、私たちからも聞く。これも、2人でちゃんと読むから」


 お母さんが言うと、お父さんもノートへ手を添えた。


「ここまで調べてくれて、ありがとう。預からせてもらうね」

「……はい」


 勝也の指が、ノートの表紙から離れた。お母さんだけではなく、お父さんにも受け取ってもらえたのを、私も見ていた。


 お母さんが、ノートと手提げを少し離れた台へ移した。袋の中が見えなくなった。私は、小さく息を吐いた。


「部活も……」


 お母さんが振り返った。


「辞めたの、自分で、嫌になっただけじゃ、なくて」


 コップの縁を見た。お母さんが座り直すまで、続きを待った。


「楽器を吹くのは、好きだったの」

「うん」

「でも、また、間違えたらって……」


 指を重ねた。違う音が出た時のことを思い出すと、今も、顔が熱くなった。自分だけが、みんなと違っていた。


「笑われるのが……怖くて」


 声を止めた。間違えなければいいと思っても、次も間違える気がした。誰かが笑うたびに、また自分なのだと思ってしまった。


 勝也が、違う譜面を渡されたことを話してもいいか尋ねた。


「……うん」


 顔を見て、頷いた。


 見ていた先輩がいた。その人の名前を、勝也が言った。違う物だと分かって渡していたのだと、お母さんへ説明した。


「優子が、自分で間違えたわけではなかったのね」


 私は、下を向いた。


「私……ちゃんと聞いてなかったからだと、思ってた」

「渡された時、何て言われたか、覚えてる?」


 少し考えて、答えた。


「次、これ、使うって」


 教えてもらったのだと思った。ありがとうと言って、受け取った。その時の自分を思い出すと、恥ずかしくて、悲しかった。


「それなら、そうだと思うよ」


 お母さんが言った。


「教えてくれたんだと思って、受け取るよ」


 私は、タオルへ目を落とした。


 ちゃんと聞けばよかったのだと、何度も考えた。ほかの人の物も確かめればよかった。すぐにありがとうと言って受け取らなければよかった。


 そう考えても、あの時へ戻れなかった。


 お母さんの言葉を聞いても、すぐには、自分のせいではなかったと思い切れなかった。それでも、渡された紙を信じたことを、ここでは笑われなかった。


「辞めたかったのは、楽器じゃなかったんだね」


 唇が動いた。


「……うん」


 好きだった。みんなと音が揃った時、嬉しかった。勝也が見に来てくれた時のことも、覚えていた。


 好きだったまま、やめた。そのことを、ようやく言えた。


 お父さんが、私へ声をかけた。


「辞めたいって言った時、こんなに怖い思いをしていたとは分からなかった。話してくれて、ありがとう」


 少し顔を上げた。うまく返事はできず、お父さんを見て、小さく頷いた。


 お母さんがティッシュを寄せてくれた。1枚取り、目の下を押さえた。


「今日は、ここまでにしようか」


 そう言われた時、自分でも、少し疲れていたのだと分かった。


 お父さんが席を立ち、台へ置かれたノートと手提げを取った。


「私は、向こうでこれを読ませてもらうね。優子は、勝也くんとゆっくりしていていいから」


 頷くと、勝也も、お願いします、と答えた。お父さんは隣の部屋へ入り、ドアを静かに閉めた。


 お母さんが飲み物を取りに立った。私は、勝也を見た。


「勝也……」

「うん」

「時間……大丈夫?」


 いてほしかった。でも、帰らなければいけないのに、言い出せないだけだったら困ると思った。


 勝也は時計を見た。


「大丈夫。母さん、まだ仕事だから」


 私は、少し頷いた。


 勝也が携帯を出した。学校でのことを、帰ったら話すと伝えておくと言った。


 電話の向こうの声は、私には分からなかった。勝也は、お母さんが今、話せるか確かめてから、私の家にいることを伝えた。


「うん。今、会えたから」


 そう言った横顔を見ていた。


 私に会えたことを、お母さんにも話していた。隠さずに、家へ上がっていると言っていた。


 電話を切ったあと、勝也は、またこちらを向いた。


 まだ、帰るためには立たなかった。


 お母さんが飲み物を持って戻ってきた。勝也が電話のことを伝えると、お母さんも、あとで連絡すると答えた。


 私は、勝也の制服へ目を落とした。


 胸元が、まだ濡れていた。私が顔を押し当てたところだった。大丈夫と言ってくれたから、何度もそこへ顔を戻した。涙だけではなかったのに、離されなかった。


「……服」


 膝のタオルを持ち上げかけた。でも、このタオルも、私が何度も使っていた。


「濡らしちゃった……」


 お母さんも、勝也の胸元を見た。


「ごめんね。制服、汚れてしまったね」

「大丈夫です。好きな人が少しでも楽になれたなら、服が汚れたくらい全然気にならないです」


 好きな人。


 勝也は、確かに、そう言った。


 聞き間違えたのかと思って、顔を上げた。でも、言い直されなかった。私のことではない誰かの名前が、あとから続くこともなかった。


 私が、服を濡らした。私が、泣いていた。その私が少しでも楽になれたならと、勝也は言った。


 膝の上で、タオルの角を折った。うまく折れず、もう1度、指で押さえた。


 嬉しかった。


 さっきまで、苦しい話をしていた。お母さんを泣かせてしまった。自分も、何度も泣いた。


 なのに今、胸の奥が、違うことでいっぱいになっていた。


 庭で抱きしめてもらった時、私は、自分の気持ちが分かった。小さい頃から、一緒にいるのが好きだった。勝也が笑うと、私も嬉しかった。また会ってから、隣にいたいと思うようになった。


 その気持ちに、勝也も、同じ言葉をくれた。


 横を向きたかった。でも、見たら、また顔が赤くなると思った。コップへ手を伸ばしたのに、飲まずに持っていた。


「熱かった?」


 勝也に聞かれた。私は慌てて首を振った。


「……違う」

「そっか」


 それだけ言って、勝也は自分の飲み物へ口をつけた。さっきの言葉を、特別なことのようには話さなかった。だから、聞き直す勇気が出なかった。


 好きなの、と私から言うには、まだ声が足りなかった。


 その代わり、椅子の上で、少しだけ勝也の方へ向いた。腕が触れそうな距離にいた。庭で離れるのが怖かった時より、今は、顔が見えることが嬉しかった。


 お母さんが、テーブルの濡れたところを拭いた。私のコップの底にも、少し水がついていた。


「持ち上げてくれる?」

「うん」


 拭いてもらってから、同じところへ戻した。お母さんの顔を見ると、まだ目元が赤かった。でも、私を見る目は、さっきより柔らかかった。


 話してしまった。


 ずっと言えなかったことを、少しだけ、自分でも言った。残りは勝也が話してくれた。


 言ったら、全部を思い出して、途中で止められなくなるのかと思っていた。聞かれたことに答えられなかったら、困らせると思った。私が間違えていたところを、もっと説明しなければならないのかもしれなかった。


 でも、お母さんは、続きが出なくても待っていた。勝也は、途中でノートを閉じた。話を止めても、2人とも、どこへも行かなかった。


 袋は、少し離れたところへ置かれていた。ここからは、中が見えなかった。


 あれを家へ持ち帰ったら、また、私の机で見なければいけないと思っていた。開いて、勉強に使わなければいけないと思っていた。見なくていいと言われたことが、まだ、不思議だった。


「優子、疲れてない?」


 お母さんに聞かれた。


「少し……」


 答えてから、勝也を見た。帰ってほしいという意味には、なってほしくなかった。


「でも……ここに、いたい」

「うん。じゃあ、座っていよう」


 お母さんは、すぐに答えた。勝也も頷いた。


 私のいる椅子の隣で、リュックサックが倒れかけていた。勝也が気づいて、壁の方へ寄せた。中からノートがなくなったからなのか、来た時より薄く見えた。


 あの中に、私のことが、たくさん書かれていた。違う人の字もあった。


 教室で、私に気づかなかった人ばかりだと思っていた。見ていても、何も言わない人ばかりだと思っていた。そうではない人が、勝也の周りにいた。


 でも、明日、その人たちの前へ行けるかと聞かれたら、まだ分からなかった。教室の入口を思うだけで、息が苦しくなる。そのことも、今は言わなくてよかった。


 お母さんは、学校へ行く話をやめてくれた。勝也も、明日来られるかとは聞かなかった。


 窓の外が、少し暗くなっていた。ガラスへ映った自分の顔が、目に入った。前より短くなった髪が、肩の辺りで止まっていた。


 私は、そちらから目を逸らした。


 その時、勝也の目が、髪へ向いているのが分かった。庭で会った時にも、少し驚いた顔をしていた。今は、その続きを見ているようだった。


「……お母さんが、切ってくれたの」


 自分から言った。勝也が、私の顔へ目を戻した。


「髪?」

「うん」


 お母さんが、私の髪へ少し目をやった。


「後ろが、不揃いになっていたから。揃えようとしたら、その長さになったの」


 勝也は、頷いた。けれど、すぐには何も言わなかった。


 私は、膝の上で指を重ねた。鏡の前で見た時のことを思い出した。長いところへ手を伸ばしたつもりなのに、途中でなくなっていた。


「俺……長い髪、好きだったから」


 勝也が言った。


 胸の奥が、冷たくなった。さっき嬉しかったところが、急に、重くなった。


「……やっぱり変かな……」


 自分の声が、小さく聞こえた。眼鏡の下が、また熱くなった。


「違う。そうじゃなくて」


 勝也が、すぐにこちらを向いた。


「変じゃないよ。今のも、ちゃんとまとまってるし。可愛いと思う」


 私は、顔を上げられなかった。


「でも……長い方が」

「俺の好みの話。すごく長い髪が、好きだっただけで」


 勝也は、そこで少し言葉を探した。


「短いと、優子が可愛くなくなるってことじゃない」


 顔を上げた。勝也は、困ったように眉を寄せていた。私の顔から、目を逸らさなかった。


「最初に言うの、それじゃなかった。ごめん」


 私は、首を振りかけて、止まった。否定してほしかった。本当は、ずっと気にしていた。


「……変じゃ、ない?」

「うん。変じゃない」


 同じ言葉で答えてくれた。急いで話を終わらせるための声には聞こえなかった。


「このくらいの長さも、優子に似合ってると思う」


 勝也は、自分の肩の少し下を指した。私の髪へは、勝手に触れなかった。


 お母さんが、横で黙って聞いていた。私がその顔を見ると、小さく頷いてくれた。


 私は、毛先へ少し手をやった。まっすぐ落ちた髪が、肩から鎖骨の間で指に触れた。なくなった長さは戻らなかった。でも、勝也が変だと思っていないなら、さっきより触るのが怖くなかった。


「あと、前髪も」


 勝也が言いかけた。私は手を止めた。


「前髪……?」

「もう少し短いと、顔が見えて、似合うと思う」


 無意識に、目の前の髪へ触れた。眼鏡の上へかかっていた。


「顔、出したら……」


 人から見えるところが増える。そう思うと、指を下ろせなかった。


 勝也は、すぐに言い足した。


「今、切ろうって話じゃないよ。ただ、せっかく可愛いお顔してるから、見えた方がいいなって」


 手が、止まった。


 可愛い顔。今度は、髪のことだけではなかった。


 お母さんが、1度、口元へ手を当てた。笑われたのかと思って見たけれど、からかう言葉はなかった。


 勝也は、自分が何を言ったか考えるみたいに、少し黙った。


「……変な言い方だった?」

「ううん」


 私は、急いで首を振った。


「違う……嬉しい」


 最後の言葉は、とても小さくなった。聞こえなかったかもしれないと思った。


 でも、勝也の顔が少し緩んだ。


「なら、よかった」


 それ以上は言わなかった。前髪へ手を伸ばしたり、眼鏡を取るように言ったりもしなかった。


 私は、ゆっくり手を膝へ戻した。その途中で、勝也が左手でコップを持ち直した。手首に、白いミサンガが見えた。


 髪を伸ばせば、好きになってもらえるのかと考えかけた。けれど、好きな人だと言ってくれたのは、今の私だった。短くなった髪を、もう見ていた。


 それを思い出すと、俯いたまま、少しだけ口元が緩んだ。


 勝也の携帯が、テーブルの端へ置いてあった。さっき、お母さんと話していた時に使った物だった。


 それを見て、部屋に置いた自分の携帯を思い出した。


 土曜日に買ってもらった。前の物は、もう使えなくなっていた。新しい物を選んでいても、持って帰りたいという気持ちは、あまりなかった。


 今は、あれを持ってきたいと思った。


「……私も、携帯」


 声を出すと、勝也が顔を向けた。


「土曜日に、買ってもらったの」

「さっき、お母さんが言ってたね」

「うん」


 そのあとが言えなかった。指で、タオルの端を押さえた。


 勝也は少し考えてから、自分の携帯へ手を伸ばした。


「番号、教えてもらってもいい?」


 顔を上げた。


「……いいの?」

「うん。帰ってからも、話せるし」


 私は、すぐに頷いた。頷いてから、部屋にあることを思い出した。


「取ってくる……」


 椅子から立った。お母さんが、持ってこようか、と言ってくれたけれど、私は首を振った。


「自分で、取れる」

「そう。ゆっくりでいいよ」


 居間の入口まで行って、振り返った。勝也は座ったまま、携帯を開いていた。私が見ていることに気づくと、顔を上げた。


「待ってるよ」


 私は頷いた。今は、少し離れても、戻ったらそこにいてくれる。そのことを確かめてから、部屋へ向かった。


 机の上に、携帯があった。充電器を外し、両手で持った。


 この部屋から居間まで、そんなに遠くなかった。けれど、さっきまでは、この家の中に勝也がいることさえ、考えていなかった。帰ったらもう会えないのだと思うと怖かった。


 番号を教えれば、家へ帰っても、つながっている。そう思って、急ぎかけた足を少し緩めた。


 居間へ戻ると、勝也はお母さんと話していた。私を見ると、途中でこちらへ顔を向けた。


「持ってきた?」

「……うん」


 同じ椅子へ座った。携帯を開くと、画面が明るくなった。新しいボタンには、まだ慣れていなかった。


「赤外線で、送れる?」


 勝也に聞かれ、私は画面を見た。


「多分……」

「ゆっくりでいいよ。分からなかったら、一緒に探す」


 私はメニューを開いた。いくつかの項目を動かすと、それらしい言葉があった。勝也へ画面を少し向けた。


「これ……?」

「うん。それ」


 勝也も、自分の携帯を操作した。私の手から取り上げずに、どこを選ぶか教えてくれた。


 テーブルの上で、2つの携帯を向かい合わせた。近づけすぎた気がして、少し離した。勝也が、そこでいいよ、と言った。


 受信する画面になった。私は、息を止めていた。


 少しして、画面が変わった。


 鵜飼勝也。


 名前と、電話番号が出ていた。小さい文字だった。でも、何度も見た。


「入った?」

「うん……」

「じゃあ、今度、優子のを」


 私は、自分の番号を送る画面を探した。途中で戻りすぎて、最初からになった。


「ごめん……」

「俺も、たまにやる」


 勝也が言った。それだけで、もう1度ボタンを押せた。


 今度は、送れた。勝也の携帯に、自分の名前が出た。それを見せてもらうと、胸が小さく動いた。


「ちゃんと入ったよ」


 勝也が言った。私は頷いた。


 登録するところで、少し手が止まった。消してしまったらどうしようと思った。確認の文字をもう1度読んでから、ボタンを押した。


 電話帳を開いた。家族の名前の中に、勝也の名前が増えていた。


 前の携帯にも、家族以外の人は入っていなかった。学校で持っていても、誰かと番号を交換することはなかった。新しい携帯になってからも、同じままだった。


 初めてだった。


 家の人以外で、私から電話をかけられる人。話したいと思った時に、名前を選べる人。


 その最初が、勝也だった。


「……ありがとう」


 画面を見たまま言った。


「うん。俺も、聞けてよかった」


 勝也の返事が、隣から聞こえた。私は、もう1度、その名前を見た。登録したばかりなのに、消えていないか確かめたくなった。


「かけても、いいの……?」

「いいよ。出られなかったら、あとでかけ直す」


 すぐに返事があった。


「学校の時とか、家の用事してる時は、すぐ出られないかもしれないけど」

「……うん」


 ずっと手に持って待っていてほしいわけではなかった。かけてもいいと、言ってもらえた。出られなくても、あとで返してくれる。


 その言葉を、覚えておきたかった。


 お母さんが、自分の携帯も持ってきた。勝也へ尋ねてから、連絡先を交換した。


「何か連絡する時、こちらからも電話していいかな」

「はい。お願いします」


 勝也が、きちんと座り直した。その動きを見て、少しだけ笑いそうになった。お母さんと話す時の勝也は、いつもより背中が伸びていた。


「優子に伝えてほしいことがある時も、連絡してね」

「ありがとうございます」


 勝也は、登録した名前を確認してから携帯を閉じた。私は、まだ閉じられなかった。


 電話帳の画面を、もう1度見た。押せば、隣にある携帯へかかる。今は、かけなくても声が聞こえる距離だった。


 そのことが嬉しくて、ようやく閉じた。


「明日も、来ていい?」


 勝也が聞いた。私は、携帯を落としそうになった。


「明日……?」

「学校、終わってから。優子が疲れてなければ」


 顔を上げて、頷いた。返事をしなければと思ったのに、声が少し遅れた。


「……来てほしい」


 勝也が頷いた。


「じゃあ、来る」


 私は、お母さんを見た。勝手に決めてしまったかもしれないと思った。


 お母さんは、私たちを見ていた。


「もちろん。勝也くんのおうちにも、ちゃんと話してね」

「はい」

「部活は、大丈夫?」


 お母さんに聞かれ、勝也は頷いた。


「しばらく、休むことを相談します。何も言わずに帰ったりはしないので」


 私は、携帯を持つ手を下げた。


「部活……行けなくなる」

「俺が、来たいんだ」


 勝也は言った。


「明日も、その次も。会える日は、会いに来たい」


 何も返せなくなった。帰る時に、またいつか、と言われるのが怖かった。その、いつかが来ないかもしれないと思っていた。


 明日だった。その次の日のことまで、話してくれた。


「無理な日は、ちゃんと言うよ。優子も、休みたい時は言って」


 勝也が、私の手にある携帯へ目を向けた。


「もう、連絡できるから」


 私は頷いた。携帯の角が、掌に当たった。まだ新しくて、傷のない物だった。


「あと、本」


 勝也が言った。


「借りてる文庫本、家にあるんだ。明日、持ってくる」

「急がなくて、いいよ……」

「うん。でも、ずっと借りてたから。返して、それから、話せたらと思って」

「本のこと……?」

「うん」


 私は、頷いた。貸した本の表紙を思い浮かべた。読んでいる途中で、ここはどう思うだろうと考えたところがあった。そういう話を、してもよかった。


 学校で何をされたかだけを、明日も話さなければいけないのではなかった。


「……話したい」


 小さく言った。勝也は、うん、と答えた。


     * * *


 玄関へ行く時、私は携帯を持ったままだった。


 お母さんに言われて、落とさないようポケットへ入れた。勝也は、リュックサックだけを背負っていた。手提げとノートは、お父さんに預けたままだった。


 お母さんが隣の部屋へ声をかけると、お父さんも出てきた。勝也がお礼を言い、私たちも玄関へ向かった。


 靴を履く背中を、少し離れて見た。帰るのだと分かると、さっきの約束があっても寂しかった。


 袖を掴みそうになって、手を止めた。今日は、もう、たくさんいてくれた。


 勝也が、靴の踵を直してから振り返った。


「また明日」

「……うん」


 私は、頷いた。お母さんが、横から礼を言った。


「今日はありがとう。真紀さんにも、よろしくね」

「はい。こちらこそ、遅くまで、すみませんでした」


 お父さんも、声をかけた。


「友達にも、ありがとうと伝えてくれるかな」

「はい。伝えます」


 勝也が頭を下げた。玄関へ入った時とは、違っていた。膝をつかずに、顔を上げた。


 お父さんが、勝也の右手へ目を向けた。


「帰ったら、お母さんにその手も見てもらいなさい。自分のことも、後回しにしすぎないようにね」

「はい。帰ったら話すって、連絡してあります」

「うん。気をつけて帰るんだよ」


 勝也が、もう1度頷いた。私も、その手を見た。さっき電話で話していたのを思い出し、帰ってから見てもらえるのだと、少しほっとした。


 私は、手に残っていたタオルを見た。


「あ……これ」


 返そうとしたところで、濡れていることを思い出した。もう、きれいな面が少なかった。


「洗ってからでも、いい……?」

「うん。急がなくていいよ」


 勝也は答えた。さっき私が本のことを言った時と、同じ言葉だった。


「明日、会えるし」


 私は、タオルを持ち直した。


「……うん」


 ドアを開けると、外は暗くなっていた。玄関の明かりの下へ、勝也が出た。お母さんと一緒に、門の方まで見送った。


 勝也が、道路へ出る前に振り返った。


 私は、手を少し上げた。振るつもりだったのに、最初は止まってしまった。勝也が手を上げてくれたので、私も、今度は動かせた。


「おやすみ、優子」

「……おやすみ、勝也」


 名前を言えた。庭で泣いていた時だけではなく、ちゃんと、見送る時にも言えた。


 勝也の姿が角の向こうへ消えるまで、そこにいた。見えなくなると、ポケットへ手を入れた。


 携帯があった。


「入ろうか」


 お母さんに言われ、私は頷いた。玄関へ戻る道を、今度はお母さんと歩いた。


     * * *


 夕飯のあと、お母さんと一緒にタオルを洗った。


 私が持ってきたのを見て、お母さんは、明日返すの、と尋ねた。頷くと、きれいにしておこうね、と答えてくれた。


 乾かすために広げられた布を、しばらく見た。さっきまで、何度も握っていた。勝也が帰ったあとも、掌に、その形が残っている気がした。


 お母さんが、私の隣へ来た。


「今日は、話してくれてありがとう」


 私は、顔を上げた。


「勝也が……話してくれたから」

「うん。でも、優子も、話してくれたよ」


 私は、床へ目を落とした。少しして、頷いた。


 学校のことは、まだ、怖かった。思い出そうとすると、笑う声が戻ってきた。携帯が新しくなっても、髪を揃えても、前のことが消えたわけではなかった。


 でも、今日は、お母さんに、知られてしまったと思うだけではなかった。分かってもらえたことも、あった。


「……楽器、好きだったの」


 もう1度言うと、お母さんは頷いた。


「うん。聞いたよ」


 それで、続きを言わなくてよかった。辞めた理由を、今夜、全部並べ直さなくてよかった。


 居間へ戻ると、お父さんが隣の部屋からノートを持ってきた。テーブルの上へ置いたあと、私を見た。


「勝也くん、明日も来てくれるんだね」


 私は頷いた。勝也が帰ってからも、その約束を何度も思い出していた。


「……明日も、来てくれるの」

「うん」


 お父さんは、私の顔を見た。


「よかったね」


 その言葉に、頷いた。よかったと言っても、誰も、そんなことで、と笑わなかった。


 お母さんが、お父さんの向かいへ座った。私は、テーブルのノートを少しだけ見た。さっき勝也が手を離し、お父さんが預かった物だった。


 私が見なくても、読んでくれる人がいた。ここで聞いてもらえたことも、まだ全部は話せなかったことも、その中に残っていた。もう1度、私から1つずつ言い直さなくてもよかった。


「優子は、先に休んでいていいよ」


 お母さんが言った。


「あとで、そっちへ行くから」

「……うん」


 お父さんにも、おやすみなさいと言った。部屋へ戻り、机の上へ携帯を置いた。


 椅子へ座ってから、また開いた。電話帳の中に、名前があった。


 鵜飼勝也。


 声に出さず、唇だけで読んだ。それから、今度は、小さく呼んでみた。


「勝也……」


 返事はなかった。今は、ここにいない。でも、かけてもいいと言ってくれた番号が、目の前にあった。


 今日は、かけずに閉じた。帰ったばかりで、これから夕飯かもしれなかった。かける理由を無理に探さなくても、明日、会える。


 好きな人。


 思い出すと、顔が熱くなった。私は、閉じた携帯を両手で包んだ。


 髪が短くなった私を、もう見ていた。泣いて、うまく話せなかった私も見ていた。それでも、そう言ってくれた。


 机の上の本へ目を向けた。明日は、返してもらった本の話をする。どのところが好きだったか、聞いてみたい。私が好きだったところも、話せたらいいと思った。


 ドアが、軽く鳴った。お母さんの声がした。


「入ってもいい?」

「うん」


 返事をして、携帯を机へ置いた。お母さんが入ってくるまで、もう1度、そちらを見た。


 朝になるのが怖くて、眠りたくなかった夜があった。今も、目を閉じたら何を思い出すか、少し怖い。


 それでも、明日の放課後には、勝也が来る。


 お母さんがそばへ来て、私の顔を覗いた。


「そろそろ、横になろうか」

「……うん」


 布団へ入り、枕に頬を預けた。お母さんが、肩のところまで布団を掛け直してくれた。


 部屋の明かりが、小さくなった。お母さんは椅子を枕元へ寄せ、そこへ座った。


「少し、ここにいるね」


 頷くと、布団が頬へ触れた。目を閉じても、そばにいてくれるのが分かった。


「おやすみ、優子」

「おやすみなさい」


 小さく答えて、目を閉じたまま、庭で勝也に手を包んでもらった時のことを思い出した。


 勝也の左手が、私の右手にそっと触れた。その掌へ指を添えたら、包むように握ってくれた。私も、自然に握り返していた。


 何があっても、富田の味方だよ。昔も、今も、これからも。


 その声を思い出すと、目を閉じたままでも、そばで言ってもらっているような気がした。


 布団の中で、自分の手へそっと指を重ねた。手の甲にも、指先にも、あの温かさがまだ残っている気がした。


 泣いている私を、抱きしめてくれたことも思い出した。顔を伏せた制服の感触。背中へ回った腕と、ゆっくり撫でてくれた手。


 うまく話せなくても、泣き止めなくても、そのまま待っていてくれた。力を抜いても、ちゃんと支えてもらえた。


 思い出すと、今も背中に勝也の掌が添えられているようだった。枕へ頬を預けたまま、ゆっくり息を吐いた。肩から、少しずつ力が抜けていった。


 もう家へ帰ったのは、分かっている。それでも、手にも背中にも、優しく触れてもらった感覚が残っていて、あの時の安心が戻ってきた。


 明日も、会える。


 その時に、何を話そうか。本の感想を聞いたら、また、話したいことが出てくるだろうか。


 考えているうちに、まぶたが重くなった。重ねていた指も、自然に緩んだ。今夜は、眠気に逆らわなくてもよかった。


 枕元で、お母さんが身じろぎする音がした。目を開けなくても、大丈夫だった。


 あの温かさに、まだ包まれているような気持ちのまま、私は、久しぶりに安心して眠りについた。



今回の登場人物


・富田 優子

両親に言えなかったいじめのことを、勝也に支えられながら少しずつ伝える。「好きな人」という言葉を恋愛として受け取り、翌日も会える約束と抱きしめられた温かさを思い出して眠りにつく。


・鵜飼 勝也

在宅していた優子の父とも再会し、玄関で両親に謝ったあと、調べたことを伝えて、私物と調査ノートを託す。優子の髪を褒め、連絡先を交換し、翌日も会いに来ると約束する。


・優子の母(美和)

勝也の謝罪を受け止め、話せなかったことを謝る優子も抱きしめる。泰臣とともに教材と調査ノートを受け取り、眠る優子に付き添う。


・優子の父(泰臣)

膝をついて謝る勝也の話を聞き、優子にも、うまく言えなくても聞くと伝える。学校の対応を確かめると約束してノートを預かり、夜には翌日の約束を喜ぶ優子へ「よかったね」と返す。

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