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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
30/52

第26話 伝えたかったこと


26話と27話は勝也視点と優子視点で同じ話を分けています。




 優子が顔を上げたのは、庭の方から聞こえた小さな物音のあとだった。俺の服を掴んだまま、家の方を見る。ドアのそばで待っていたお母さんと目が合うと、肩が少し動いた。


「お母さん……」

「うん」


 お母さんは、そこで1度返事をしてから、俺へ顔を向けた。


「家に上がって、詳しい話を聞かせてもらってもいい?」


 優子の指が、俺の制服を握り直した。俺は、すぐに歩き出さず、その顔を見た。


「中、入ろうか」

「……うん」


 小さな返事だった。けれど、さっきまでと違って、優子の方から少し体を離した。


 俺は背中から手を下ろした。優子がタオルを目へ当てている間に、左手で足元のリュックサックを持ち上げ、背負い直す。手提げを取ろうとすると、優子もそちらを見た。


「俺が持つから」


 優子は頷いた。袋の中へ手を伸ばすことはしなかった。


 お母さんが、玄関の方へ回ってくれた。俺たちも、庭からそちらへ歩いた。数歩進んだところで、優子がこちらを振り返った。


 ちゃんとついてきているか、確かめたように見えた。


「いるよ」


 そう言うと、優子は少しだけ頷いた。次に歩き出した時には、俺も隣へ並んだ。


 玄関のドアは、内側から開いていた。日傘を届けた時には、この辺りで帰った。あの日のことを思い出しながら、敷居をまたいだ。


「お邪魔します」

「どうぞ」


 お母さんが、俺の手元を見た。それから顔へ目を戻した。


「この間も来てくれてたよね?」

「はい。土曜日に、訪ねたんですけど、留守だったので」


 先に靴を脱ぎかけていた優子が、動きを止めた。


「土曜日……?」

「うん。会えたらと思って」


 優子は俺を見たあと、お母さんの方を見た。


「携帯を買いに行っていた時だと思う。帰ってから、インターホンに残っているのを見たの」


 お母さんが答えた。


「優子には、まだ話していなかったね」

「……来てくれてたの」


 優子の声が、小さくなった。責めるような言い方ではなかった。俺は頷いた。


「その日は、会えなかったけど」


 優子は、タオルを持つ手を胸の前へ寄せた。何か言いかけて、やめた。


「名前、忘れちゃって……ごめんなさいね」


 俺は、お母さんへ向き直った。今度は、ちゃんと名乗ろうと思った。


「鵜飼です。鵜飼勝也です」

「鵜飼くん……」

「前は、朝倉でした。昔、隣に住んでいた……」


 そこまで言うと、お母さんの目が大きくなった。俺の顔を、もう1度、見た。


「……勝也くん?」

「はい」

「あの、勝也くんなの?」


 頷くと、お母さんは片手を口元へ当てた。少しして、その手を下ろした。


「そうだったの。大きくなって……ごめんなさい、全然、気づかなくて」

「いえ。俺も、前に来た時、ちゃんと言わなかったので」

「優子と同じ学校だったのね」

「同じクラスです。4月から」


 お母さんが、優子を見た。優子は、俺の隣で小さく頷いた。


 そのやり取りを見て、胸の奥が詰まった。


 4月から。


 自分で言った言葉が、思っていたより長い時間に聞こえた。今月になって初めて会ったのではなかった。夏休みの前にも、同じ教室にいた。


「また、こっちへ戻っていたんだね。真紀さんも、お元気?」

「はい。元気です」

「そう。あとで、よろしく伝えてね」


 居間の方から足音がした。廊下へ出てきたのは、優子のお父さんだった。家にいたのだと分かって、俺は背筋を伸ばした。


「美和、誰が来たの?」

「昔、隣に住んでいた勝也くん。優子と同じクラスなの」

「勝也くん……?」

「はい。お久しぶりです」


 お父さんは玄関まで来ると、俺の顔を確かめるように見た。


「大きくなったね」


 俺は頷いた。お父さんも、お母さんの隣に立った。


 2人に迎えてもらうのは、久しぶりだった。お母さんの声を聞きながら、昔、隣の家へ遊びに行った時のことを思い出した。


 あの時は、優子が先に家へ上がり、俺を呼んだ。俺も、靴を脱いで追いかけた。今日みたいに、土間に立ったままではなかった。


「荷物、重かったでしょう。こっちに置いて」


 お母さんが、上がり框の端を示してくれた。俺は手提げを置いた。自分のリュックサックも、その隣へ下ろした。


 それで、手が空いた。靴を脱げばよかったのに、動けなかった。


「勝也……?」


 優子が、こちらを見た。片方の靴を脱いだところで、待っていた。


「あの」


 俺は、お母さんへ顔を向けた。


「俺、同じクラスで会った時、優子だって分かったんです」

「うん」

「名字が変わってたのは俺の方で、優子の名前は、そのままだったし。あんな白い髪の子、ほかに見たことなかったから、すぐ分かったんですけど」


 お母さんは、途中で尋ね返さなかった。俺は、続けた。


「小さい頃みたいに話すのが、何か、照れくさくて。昔のことを言ったら、困るかなとか、いろいろ考えて」


 優子の顔を、すぐには見られなかった。


「席が近くなって、話せるようになってからも、俺、ちゃんと聞けてなくて。部活のことも、何で辞めたのかとか……」


 言葉が、そこで引っかかった。


 演奏を見に行った。うまくできたと言った声を聞いた。だから、部活を辞めたと聞いた時にも、その先まで考えなかった。


 教室で1人でいても、本を読むのが好きなのだと思った。返事が小さくても、久しぶりだからだと思った。そういう理由で、自分を納得させていた。


「俺は、普通に、友達と遊んでて」


 喉が痛くなった。さっきまで大きな声を出していたせいだけではなかった。


「同じ教室に、いたのに……」


 お母さんの足元が、ぼやけた。


 優子がいない休み時間にも、俺は笑ったことがある。どこへ行っていたのか、確かめなかった日がある。その全部が、急に、目の前へ戻ってきた。


「もっと早く……気づけたはずなのに」


 俺は、膝を曲げた。土間へついたところで、頭を下げた。


「すみません……」

「勝也くん」


 すぐに、お母さんの声がした。肩へ手が触れた。少し顔を上げると、お父さんも、俺の前へかがみかけていた。


「そういうふうに謝らないで。立って」

「でも、俺……」

「あなたが謝ることではないよ」


 静かな声だった。けれど、もう1度頭を下げることは、できなかった。


 お母さんが、少しかがんでいた。俺の顔を見ようとして、同じ高さへ寄ってくれていた。


「優子にひどいことをした人がいるんでしょう。その人がしたことまで、勝也くんが背負わなくていいの」


 俺は、返事ができなかった。


「今、会いに来てくれたんだよね」

「……はい」

「だったら、上がって。立って話そう。ここで、頭を下げ続けることはないから」


 袖の端に、もう1つ、手が触れた。優子だった。


 強く引っ張るのではなく、指を置いていた。俺が顔を上げると、目が合った。


「……来てくれて、よかった」


 声が震えていた。


 俺は、頷いた。1度では、うまく立てなかった。片足へ体重を移してから、立ち上がった。


 お母さんは俺が立つと、肩から手を離した。優子の指は、袖に残っていた。


「すみま……」


 もう1度言いかけて、止めた。お母さんが、俺の顔を見ていた。


「……ありがとうございます」

「うん」


 お父さんも、俺の顔を見ていた。何か言われるかと思って、背中に力が入った。


「会いに来てくれて、ありがとう」

「……はい」


「私たちにも、まだ分からないことがある。君が知っていることを、聞かせてもらえるかな」

「はい。俺が分かることなら」


 答えると、お父さんは頷いた。横へ寄り、家へ上がるところを空けてくれた。


 靴を脱いだ。踵が引っかかり、少し手間取った。揃えようと振り返ると、優子もまだ、そこにいた。


 先に行かず、俺が上がるまで待っていてくれた。


     * * *


 居間のテーブルへ、手提げを置いた。


 お母さんに勧められた椅子へ座ると、優子は俺の隣に座った。いつも学校で並んでいた時と、左右が違った。それだけのことが、妙に気になった。


 俺は、優子の座った方へ、少し椅子を向けた。体ごと向き直らなくても、その顔を見られるようになった。


 お母さんが、水と、顔を拭くための濡れタオルを持ってきてくれた。


「顔、拭いて。2人とも」


 俺は礼を言って受け取った。頬へ当てると、少し冷たかった。自分も泣いていたことを、また思い出した。


 優子は、俺が貸した小さなタオルを膝へ置いてから、お母さんの差し出した濡れタオルを受け取った。眼鏡を外し、そっと目元を押さえた。


 お母さんの目が、俺の袖から右手へ動いた。白いYシャツには、洗っても落ちなかった血の染みが残っていた。


「腕だけじゃなくて、手も怪我をしてるのね。先に手当てをした方が……」

「すみません。あとで、ちゃんとします。今は、優子の話を先にさせてください」


 俺は答えた。お母さんは少し眉を寄せたが、無理に手を取ろうとはしなかった。


「痛くなったら言ってね」

「はい」


 お父さんが、俺の前のコップへ目を向けた。


「勝也くんも、少し水を飲んで。話は、落ち着いてからでいいから」


 まだ何も説明していないのに、座っているだけでよいのかと思った。けれど、お父さんは話の先を尋ねずに待っていた。俺は頷いて、コップを取った。


 水を飲んだ。ひと口のつもりだったのに、もうひと口飲んだ。喉が乾いていた。


 優子も、コップを手前へ寄せた。俺は手提げから手を離したまま、その様子を見ていた。


 お母さんが、向かい側へ座った。お父さんも、その隣へ椅子を引いた。テーブルには、まだ袋の外側しか見えていない。


「さっき、外で話してたんですけど」


 俺は言った。


「学校のことで、俺が聞いたことを、お母さんに伝えてもいいと、優子が」


 お母さんは、優子へ顔を向けた。


「お父さんも、一緒に聞いていい?」


 優子は、顔を拭いた濡れタオルを畳みかけた手を止めた。少しして頷き、それをテーブルの端へ置いた。


「……うん」


 俺も、優子の顔を見た。


「自分から話せる? 思い出して話すのがつらいなら、俺が話す」


 優子は、膝の上のタオルへ目を落とした。折り目を指で押さえた。


 お母さんも、俺も、待っていた。お父さんも、先を促すことはしなかった。


「学校で……」


 声がした。俺は、ノートを出そうとしていた手を止めた。


「物、なくなったり……書かれたり、してたの」

「うん」


 お母さんが答えた。


「自分で、なくしたんじゃ、なくて……」


 優子の目が、手提げへ動いた。そのまま口を閉じ、膝の上のタオルへ指をかけた。息を吸って唇を動かしたが、次の言葉は出なかった。


 俺は、袋を指ささずに尋ねた。


「教科書のことから、俺が話そうか」


 優子は頷いた。お母さんが、聞こえたよ、と短く言った。


 俺は、リュックサックから自分のノートを出した。優子のノートとは、別の物だ。角が丸くなり、いろいろな大きさの紙が挟まっていた。


 開く前に、優子へ向けて言った。


「ここに、俺たちが聞いたこと、書いてある。全部、優子に読み直してもらうつもりじゃないから」

「……俺たち?」

「翔太と、春樹と、真弓と、綾香。それから、荒川も」


 名前を言うと、優子は少し顔を上げた。


「一緒に、聞いてくれたんだ」


 教室で会ったことのある名前ばかりだったはずだ。それでも、すぐには返事がなかった。


「みんなに、知られた……?」


 小さな声だった。俺は、ノートを閉じたまま答えた。


「教科書に書かれたこととかは、話した。俺1人じゃ、見た人も探せなかったから。優子が休んでる理由は、俺も知らなかったし、決めつけて話してない」


 さっき庭で聞いたことは、誰にも話していなかった。それを今、言い直す必要もなかった。


「勝手に聞きに来たりは、しない。会えるかどうかは、優子に聞いてからにする」


 優子は、俺の顔を見た。すぐに安心したようには見えなかった。けれど、逃げるように顔を伏せることもしなかった。


「……うん」


 その返事を待ってから、俺はノートを開いた。


 最初に話したのは、月曜日の社会の教科書だった。


 授業で開けずにいたこと。印刷された文の上にも字があったこと。俺の教科書を貸し、自分が忘れたことにしたこと。


 お母さんは、1度、優子を見た。


「学校で使っていた物にも、そんなことをされていたのね」


 優子は頷き、自分の手へ目を落とした。


「消しても……取れなくて」


 俺は、月曜に見た黒い字を思い出した。黒いマジックで本文の上まで塗り潰され、読めなくなったところがあった。授業で使おうとしても、先に書かれた字が目へ入る。消しゴムをかければなくなるようなものではなかった。


 お母さんが、テーブルに置いた手を握った。けれど、優子には静かに尋ねた。


「家にある物も?」

「……うん」

「見せてくれなくても、今はいいよ。そこにあるのも、あとでお母さんが見るから」


 優子は、袋から目を離した。俺も、その場で全部を広げることはやめた。


「こっちは、外で見つかった物です」


 手提げの外側へ手を添えた。


「拾って持っていてくれた人から受け取った物と、話を聞いて探しに行った物があります。いつ、どこで見つけたかは、中に紙を入れてあります」

「家に持ち帰れなかった物を、探してくれたの?」

「はい。ただ、見つかった物が全部ではないと思います」


 優子を見た。頷いてもらうために、見たつもりではなかった。でも、優子は小さく頷いた。


「まだ……ないの、ある」


 声を聞いてから、俺はお母さんへ向き直った。


「見つかっていない物もあります。俺が知らない物も、あるかもしれません」

「分かった」


 お父さんも、手提げを見た。


「見つかっていない物も、そのままにはしない。私たちからも学校へ聞くよ」


 優子へ目を戻して言った。今ここで全部挙げるようには求めなかった。優子は、タオルを握っていた指を少し緩めた。


 お母さんは、ノートの表紙へ目を落とした。


「先生には、話したの?」

「月曜日に、担任の先生へ話しました」


 言うだけで、あの時の返事が戻ってきた。俺は1度、息を吐いた。


「誰が書いたか分からないだろうって。それから、本人が言わないと、って言われて」


 お母さんの目が、俺へ戻った。


「本人が?」

「はい。同じクラスの荒川宣仁も、俺より前に相談してたんです。俺が教科書のことを話した時には、もう、先生に伝えたことがあるって」


 お母さんは、しばらく何も言わなかった。テーブルの上で、指先が動いた。


 優子が、膝へ置いた手を握った。


「私が、言わなかったから……」

「違うよ」


 お母さんが、すぐに答えた。


「今、その話をしているんじゃないの」


 優子が顔を上げた。


「勝也くんも、荒川くんも、見たことを先生に伝えていたんでしょう。聞いた先生が、確かめなければいけなかったことだよ」


 お父さんが、俺へ目を向けた。


「その話は、私からも学校に確かめる」


 大きな声ではなかった。けれど、さっき玄関で話した時よりも、言葉の終わりが硬かった。


「相談を受けたあと、何をしたのかも聞く。優子が話せなかった、で済むことじゃない」


 俺は頷いた。お父さんは優子へ続きを尋ねず、開いたノートへ目を落とした。


 俺は、ノートの端を押さえた。紙が、指の下で少し曲がった。


 今日、主任の先生も、担任へ相談のあとに何をしたのか尋ねていた。それでも、学校を信用できるようになったわけではなかった。今、お母さんが同じところを確かめてくれた。俺が大げさにしているわけでも、優子が話せなかったせいでもないと言ってもらえて、少し肩の力が抜けた。


「水曜日に帰ってきた時、様子がおかしいことは、私も主人も分かっていたの」


 お母さんが言った。


「髪も、服も、いつもと違っていたから。何もなかったとは思っていない。学校にも、そのことは伝えた」


 優子が目を伏せた。お母さんは、優子へ手を伸ばしかけ、それからテーブルへ戻した。


「でも、誰に何をされたかまでは、聞けなかった」


 そこで、俺の方を見た。


「前から、続いていたんだね」

「……はい」


 俺は答えた。今朝初めて分かったことだけを話しているのではなかった。ノートの前の方には、1学期の日付があった。もっと前の話は、別のページに書いてあった。


「今、説明していいのは、学校の物のことだけ?」


 俺は、優子へ尋ねた。


「部活とか、日傘のことも、聞いてる。つらかったら、ここで止める」


 優子は少し考えるように、目を下げた。お母さんが待っていた。


「……話して」


 はっきり聞こえた。


「自分だと……ちゃんと、言えないから」

「うん」


 俺は頷いた。きちんと順番に言えなくてもいい、と言いかけた。でも、今は、代わりに話してほしいと言ってくれた。その頼みを受け取る方が先だった。


 夏休み前の日傘のことを話した。俺が公園で拾い、この家へ届けた、あの日の傘だった。


「あの傘も、落とした物じゃなかったんです」


 お母さんの口元が動いた。俺は、続けた。


「戸田が壊すところを見た人と、富永が公園へ捨てるところを見た人がいました。別々の人です。2人とも、見た場所や、その時のことを話してくれて」


 名前を出した時、優子の肩が少し上がった。俺は、いったん口を閉じた。


 優子は、タオルを握ったまま頷いた。お母さんが、その様子を見ていた。


「戸田さんと、富永さん。その子たちは、同じクラス?」

「はい」


 俺が答えると、お母さんはノートへ目を落とした。


「名前も、ここに書いてあるのね」

「はい。誰が何をしたのを見たか、分けてあります。同じ場所にいたから、同じことをしたって書かないように」


 お母さんが、ゆっくり頷いた。


 あの夏休み前、お母さんは、壊れた傘を受け取った。俺が届けたことも覚えていた。今は、そこへ、壊した人と捨てた人の名前が加わった。


 優子は、傘の話には何も言わなかった。無理に確かめなかった。本人が見ていない場面のことを、そうだったかと尋ねても、答えようがなかった。


「水曜日になくなった傘は、それとは別です。そっちは、まだ見つかっていません」

「……うん」


 今度は優子が答えた。


「帰る時、なかったの」


 お母さんの目が、優子へ向いた。


「靴も……」


 言葉がそこで切れた。唇を閉じ、息だけを吐いた。


 俺は、その先を急いで埋めなかった。机の下で、優子の足が少し動いた。


 あの日、空だった靴箱を見た。俺は、そのことをお母さんへ話した。委員会から戻ったあと、宣仁と確かめたこと。リュックサックを持って教室を出たと聞き、もう帰ったのだと思ったこと。


「でも、違っていました。そのあとに、校門を出る優子を見た人がいたんです」


 お母さんは、俺の言葉を聞き終えるまで黙っていた。


「帰った姿を、見たわけではなかったのね」

「はい。靴も傘もなかったから、持って帰ったと思っていました」


 ノートを、少しだけお母さんの方へ向けた。最初に書いた行の横に、確認できていない、と足してあった。


「間違えていたところも、残してあります。あとで聞いて分かったことは、その横に書いてあります」


 お母さんは、その行を見た。俺の手元へ戻させず、そのまま待った。


「自分たちが思ったことと、誰かが見たことを、分けてくれたんだね」

「……最初は、一緒にしていたところもあったので」


 優子の隣で、その間違いを口にした。言い直しても、水曜の放課後が変わるわけではなかった。でも、今度は、お母さんへ正しい順番で渡したかった。


 水曜日のことにも、見ていた人がいた。俺は、その人たちから聞いたことを、短く話した。無関係の人を通して宣仁を教室から離れさせたこと。優子が帰ろうとしていた場所で、複数の女子に囲まれたこと。物を持っていかれ、体にも危害を加えられたこと。


 細かな言葉を1つずつ読み上げなかった。お母さんが確認したいところは、あとでノートを見られた。


「髪も……戸田さんに、切られたって聞きました」


 お母さんの顔が、強張った。優子は、反射のように首の後ろへ手をやりかけた。途中で止まり、その手を膝へ戻した。


 俺は、もう次のページへ進まなかった。


「優子」


 名前を呼ぶと、少しして目が合った。


「ここで、1回やめようか」


 優子の口が動いた。返事にはならなかった。


 お母さんが椅子から立った。優子の横へ来て、かがんだ。


「もう、今、続きを言わなくていい」


 優子は、顔を下げた。


「……ごめんなさい」


 細い声だった。


「何を、謝ってるの」


 お母さんは優しく聞いた。優子が、タオルを握る手へ目を落とした。


「言えなくて……ずっと」

「うん」

「お母さんが、聞いてくれた時も……何も、言えなくて」


 涙が、膝へ落ちた。


「心配、かけて……」


 お母さんが、優子の背中へ腕を回した。優子は少し前へ倒れるようにして、その肩へ顔を寄せた。


「言えなかったんだよね」


 お母さんの声も、震えていた。


「言わないといけないと思っても、言えなかったんでしょう」


 優子が頷いた。俺の位置からは、頭が小さく動くのが見えた。


「ごめんなさい……」

「謝らなくていいよ。お母さんに話せなかったこと、怒ってない」


 お母さんは、優子の後頭部へそっと手を添えた。その手が、短くなった髪のところで止まった。


 俺はノートを閉じた。音が出ないように、ゆっくり閉じた。


 先生に話したのか。誰がやったのか。何で早く言わなかったのか。


 学校では、どれも、言わなければ聞いてもらえないことのように思えた。ここでは、優子が泣いている間、話が止まった。止まっていても、話さなかったことにはされなかった。


 お母さんの目からも、涙が落ちた。優子へ顔を寄せたまま、すぐには拭かなかった。


「お母さんにも、できることをさせてね」


 少しして、そう言った。


「今まで話せなかった分を、今日、1人で全部話そうとしなくていい。勝也くんが伝えてくれたことも、ちゃんと聞いたから」


 優子は、お母さんの服へ指をかけた。さっき俺の制服を掴んだ時と、似た動きだった。


 お父さんが、少し身を寄せた。優子が顔を上げると、その目を見て話した。


「お父さんにも、話したくなった時に話してくれればいい。うまく言えなくても、聞くから」


 優子は、お母さんに抱かれたまま頷いた。お父さんはその返事を待ってから、椅子へ座り直した。


 俺は、優子とお母さんから少しだけ顔を逸らした。水の入ったコップが、手元にあった。もう1度飲もうとして、持ち上げる前にやめた。


 木曜日のことが、頭の中へ戻っていた。でも、ここでその話を持ち出すことはしなかった。お母さんは知っている。今、娘を抱きしめている、その人が、そばにいた。


 俺が学校で知らなかったことを、この家では一緒に過ごしていた。その全部を、俺が聞き直す必要はなかった。


 優子の息が、少し落ち着いてきた。お母さんがタオルを取り、頬へ当てた。それから自分の目も押さえた。


「お水、飲めそう?」


 優子は頷いた。お母さんがコップを近づけたが、優子は自分で持った。両手で包み、少しずつ飲んだ。


 俺は、手提げの持ち手をテーブルの内側へ倒した。優子が手を伸ばした時、引っかからないようにした。


「これ、預かってもらってもいいですか」


 お母さんがこちらを向いた。


「優子の物なので。俺が、勝手にどうするか決めたくなくて」

「もちろん」


 お母さんは、袋へ手を添えた。受け取る前に、優子へ尋ねた。


「お母さんが持っていてもいい?」


 優子は、コップを置いてから頷いた。


「……見なくても、いい?」

「うん。今は、見なくていい」


 その返事で、優子の肩が少し下がった。俺も、袋の口を閉じた。


 返す時には、名前を確かめてもらうのだと思っていた。1冊ずつ出して、これもそうかと聞くのだと思っていた。でも、そうしなくても、受け取ってもらえた。


 お母さんは、袋を自分の側へ寄せた。机の上には置いたまま、口が優子へ向かないようにした。


「学校には、もう見せたの?」

「今日、学年主任の先生と、生徒指導の先生、教頭先生には見せました。預けてはいません」


 お母さんが頷いた。


「今日の担任の先生との話し合いでは、見せませんでした。預けるつもりも、ありませんでした」


 口にすると、少し硬い声になった。でも、そこは曖昧にしたくなかった。


「話を聞いてもらえなかったので、預けてしまうのが、怖くて」

「分かった。ここからは、私たちが持っているね」


 お母さんは、俺を責めなかった。学校へ渡さなかったことを、面倒なことだとも言わなかった。


「主任の先生たちは、担任の先生よりは話を聞こうとしてくれました。でも、調べたことをまとめた資料はあるって言っただけで、中は見せていません」

「このノートのこと?」

「はい。誰に何を聞いたかも、教えていません。自分たちで調べてくださいって言いました。俺が殴ったことや、ドアを壊したことは説明しましたけど」


 お母さんは、閉じたノートを見てから頷いた。


「見せてもらった教科書だけでも、学校が確かめなければいけないことはあるものね」

「謝るだけじゃなくて、実際に動いてもらわないと、信用できないんです」


 さっきより声を落として言った。ここでお母さんへ怒っても仕方がなかった。渡さなかった理由を、そのまま伝えたかった。


「すぐに信用しろとは言えないね。私も、説明を聞いて、それで終わりにはしない」


 お父さんが答えた。先生たちも大変なのだと言われるかもしれないと思っていたので、少ししてから頷いた。


「……お願いします」


「担任を外す方針だって、俺たちの前でも言っていました。ただ、その先をどうするかは、まだ、俺は聞いていません」


 お母さんは、しばらく俺を見ていた。それから、優子へ目を向けた。


「先生が替わったら、すぐ学校へ行きなさい、という話にはしないからね」


 優子の手が、膝の上で動いた。


「……うん」

「学校の話は、お父さんとも相談する。優子が今日、決めなくていい」


 お父さんも、優子へ頷いた。


「今すぐ、どうするか答えなくていいからね」


 俺は、閉じていたノートをお母さんの方へ置いた。


「これも、全部、渡します」

「これは、勝也くんたちが書いた物でしょう?」

「はい。春樹が写した分を持っているので、大丈夫です。今日聞いたこととか、あとで増えたところは、俺も覚えているうちに、もう1度合わせます」


「学校が動かないなら、俺たちで調べるしかないと思って、みんなに頼みました」


 閉じた表紙へ目を落とした。先生に相談しても変わらず、優子の席が空いたままだった。何があったのか、分からないまま待ってはいられなかった。


「このノートをどう使うかは、お父さんとお母さんに決めてほしいです」


 お父さんが、俺を見た。


「学校へ見せるかどうかも、ということかな」

「はい。見せなくてもいいし、必要だと思ったら、見せても、渡してもらっても大丈夫です」


 お父さんとお母さんへ、順に顔を向けた。学校で渡さないと言ったことは覚えていた。それでも、この2人に同じ返事をしてもらうために、ここへ来たわけではなかった。


「俺は先生たちに渡しませんでしたけど、お父さんとお母さんが決めたことなら、そうしてほしいです。優子のために、使ってもらいたくて持ってきました」


 お母さんが、お父さんを見た。お父さんは頷いてから、俺へ向き直った。


「分かった。どう使うかも、私たちで考えるね」

「……お願いします」


 お母さんが表紙へ手を置いた。角からはみ出した紙を、押し込まないように持った。


「名前を出して話してくれた人もいます。学校で聞かれたら、自分で話すって言ってくれた人も」

「連絡先も、書いてある?」

「聞いていいって言われた分は。俺たちを通して、もう1度連絡することになっている人もいます。その人は、そう書いてあります」


 お母さんがページを1枚めくった。真弓の字があった。その下には、俺が後から尋ねたことを足していた。


 次のページは、春樹が整理してくれたところだった。同じ日に2度聞いた話が、同じ出来事だと分かるように書いてあった。


「みんなで、ここまで……」


 お母さんが、小さく言った。


「いつから、調べてくれていたの?」

「木曜日に、みんなへ頼みました。荒川とは、その前から、学校で話していました」

「連休も?」

「はい。学校が休みの時にしか、ゆっくり話せない人もいたので」


 お父さんも、横から開いたページを見た。


「みんな、同じクラスの友達なのかな」

「はい。家に集まって、聞いてきたことを合わせたりしてました」

「君も、友達も、随分時間を使ってくれたんだね」


 俺は頷いた。お父さんは、挟まれていた紙の端へ指を添え、そこに書かれた日付を確かめていた。


 お母さんは、もう1枚、ページをめくった。そこには、聞いた日と、出来事があった日が、別に書かれていた。


 持っているペンが違ったので、色も揃っていなかった。綾香の小さな紙は、落ちないように挟んであった。


「ありがとう。皆さんにも、私からお礼を伝えたい」

「伝えます」


 そう答えた時、隣から声がした。


「……ありがとうって」


 優子だった。


「私も……言ってたって、伝えて」


 俺は、優子の方へ顔を向けた。


「うん。伝える」


 優子は頷いた。まだ、直接会いたいとは言わなかった。俺も、会えば喜ぶよ、と勧めなかった。


 今、優子から言葉を預かった。それだけで、家へ帰ってからみんなに伝えたいことが増えた。


 お母さんは、ノートを開いたまま、しばらく手を止めていた。


 俺の書いたページだけではなかった。翔太が聞いたことを、自分の言い方のまま書いたところもあった。字が大きすぎて、途中から次の行へはみ出していた。


 家のテーブルを、6人で囲んだ時のことを思い出した。同じ話をしていても、覚えている言葉が少しずつ違った。そのたびに、誰が聞いたのか確かめて、書き直した。


「学校から、何か違うことを言われたら、俺にも聞いてください」


 お母さんが顔を上げた。


「俺が直接聞いた話なら、もう1度説明できます。俺じゃないところは、聞いたやつに確かめます」

「ありがとう。その時は、お願いするね」


 お母さんは、そこでノートを閉じた。


「でも、勝也くんたちが、これからも全部、聞いて回らなくていいんだよ」


 俺は、少し返事に迷った。


「まだ、分からないところが……」

「うん。あると思う」


 お母さんは言った。


「ここまで調べてくれたことは、ちゃんと受け取る。分からないところがあるからって、役に立たないなんて思わないよ」


 俺は、ノートの表紙を見た。


 聞いたことを忘れないように、何度も開いて書き足したノートだった。みんなと確かめたことが、この中に残っている。ここまで分かったことを、優子のそばにいる人へ届けたかった。これから学校とどう話すかも含めて、ご両親に任せたいと思っていた。


「学校へ聞かなければいけないことは、私たちからも聞く。これも、2人でちゃんと読むから」


 お母さんの言葉に、お父さんが頷いた。閉じたノートへ手を添え、俺を見た。


「ここまで調べてくれて、ありがとう。預からせてもらうね」

「……はい」


 2人とも、俺の話を途中でやめさせなかった。まだ分からないところがあると言っても、ノートを返そうとはしなかった。俺がここを出たあとも、読んで、考えてくれる人がいる。


 学校へ見せることになっても、渡すことになっても、それはご両親が優子のために決めたことになる。俺が先生を信用できない気持ちまで、引き受けてもらう必要はなかった。


 俺は、表紙の端へ置いていた指を離した。


 お母さんが立ち、ノートと手提げを少し離れた台へ移した。優子から、袋の中が見えないところだった。その上にはほかの物を重ねず、横へ揃えて置いた。


 テーブルが空くと、優子が少し息を吐いた。俺はそれを見て、もっと早く移せばよかったかもしれないと思った。でも、もう取り戻して説明を足すことはしなかった。


「部活も……」


 優子の声がした。お母さんが、振り返った。


「辞めたの、自分で、嫌になっただけじゃ、なくて」


 俺は、隣へ顔を向けた。


 優子は、コップの縁を見ていた。お母さんが席へ戻るまで、次の言葉を待った。


「楽器を吹くのは、好きだったの」

「うん」


 お母さんが答えた。


「でも、また、間違えたらって……」


 そこで声が止まり、優子は膝の上で指を重ねた。


 俺は、譜面の話を思い出した。自分で違う紙を見たのだと、綾香へ話していた。ありがとうと言って受け取ったと、見ていた人は言っていた。みんなと違うことをして演奏を止めたのは自分だと、あの時の優子は思っていたのかもしれなかった。


「笑われるのが……怖くて」


 それだけを言うと、優子はまた口を閉じた。教室でも、誰かが笑うと優子が顔を伏せることがあった。あの時も、こんなふうに怖がっていたのかもしれなかった。


 お母さんが、唇を結んだ。


 俺は、優子が顔を上げるのを待ってから尋ねた。


「違う譜面を渡されたこと、俺から話してもいい?」


 優子は俺を見た。しばらくして、頷いた。


「……うん」


 お母さんへ、見ていた先輩がいたことを伝えた。山崎先輩の友達で、同じ吹奏楽部だった人だ。違う物だと分かって渡そうとしていた会話と、実際に渡したところを見ていた。


「杉浦さんだったそうです。名前は、ノートに書いてあります」


 お母さんは、さっき台へ置いたノートを見た。でも、すぐに取りに行くことはしなかった。


「優子が、自分で間違えたわけではなかったのね」

「はい。その場で言わなかったことも、その人は話してくれました。先生に聞かれたら、自分で説明するって」


 優子が、下を向いた。


「私……ちゃんと聞いてなかったからだと、思ってた」

「渡された時、何て言われたか、覚えてる?」


 口にしてから、聞きすぎたかもしれないと思った。けれど、優子は少し間を置いて答えた。


「次、これ、使うって」


 お母さんの目が、細くなった。泣きそうなのとは、違う顔だった。


「それなら、そうだと思うよ」


 お母さんは言った。


「教えてくれたんだと思って、受け取るよ」


 優子は、頷かなかった。ただ、膝の上のタオルを見ていた。


 俺も、その先を説明しなかった。今ここで、全部が自分のせいではなかったと分かっても、部活へ行っていた時の気持ちがすぐ変わるわけではないのだと思った。


「辞めたかったのは、楽器じゃなかったんだね」


 お母さんが、静かに言った。


 優子の唇が動いた。


「……うん」


 そのひと言を聞いて、俺は、目を伏せた。演奏が揃った時、嬉しそうだった優子を覚えていた。好きだったという言葉を、今日、本人からも聞けた。


 それでも、今、またやればいいとは言えなかった。楽器を吹きに行く場所で、待っていたものを聞いていた。


 お父さんが、優子へ声をかけた。


「辞めたいって言った時、こんなに怖い思いをしていたとは分からなかった。話してくれて、ありがとう」


 優子は少し顔を上げた。お父さんを見て、小さく頷いた。


 お母さんが、優子の前へティッシュを寄せた。優子は1枚取り、目の下を押さえた。


「今日は、ここまでにしようか」


 お母さんが言った。


「ここに座って、違う話をしていてもいいし、少し休んでもいい。勝也くんも、疲れたでしょう」

「俺は、大丈夫です」


 お父さんが、台の上のノートと手提げを取った。


「私は、向こうでこれを読ませてもらうね。優子は、勝也くんとゆっくりしていていいから」


 優子が頷いた。俺も、お願いします、と答えた。お父さんは隣の部屋へ入り、静かにドアを閉めた。


 お母さんは、俺の水の減ったコップを見た。


「じゃあ、もう少し飲み物を持ってくるね」

「ありがとうございます」


 お母さんが台所へ向かった。椅子へ座り直すと、優子がこちらを見ていた。


「勝也……」

「うん」

「時間……大丈夫?」


 時計を見た。母さんが帰ってくる21時頃までは、まだ時間があった。


「大丈夫。母さん、まだ仕事だから」


 優子は少し頷いた。俺は携帯を出し、母さんの番号を選んだ。学校から連絡が行っているはずだった。俺から何も言わないままでは、帰るまで心配させてしまう。


「今日の学校のこと、帰ったら話すって伝えておくね」


 優子は、携帯を開いた手を見ていた。


 電話へ出た母さんに、今少し話せるか尋ねた。大丈夫だと返事があってから、優子の家へ来ていることと、帰ってから学校であったことを話したいと伝えた。


『優子ちゃんのところ?』

「うん。今、会えたから」

『そう。お母さんもいらっしゃるの?』

「いるよ。上がらせてもらってる」


 母さんは、向こうのお母さんへよろしくね、と言った。俺も頷いてから、電話では見えないと気づいて、うん、と返した。


 学校から電話があったことは、その時、短く聞いた。


『帰ってから、話せる?』

「うん。俺も、話すことあるから」


 仕事中の母さんを長く引き止めないよう、それで電話を切った。帰ってから、自分の口で話すことは決まった。時計をもう1度見てから携帯を置き、優子へ顔を向けた。まだ、ここにいられる時間があった。


 お母さんが、飲み物を持って戻ってきた。母さんからの言葉を伝えると、少しだけ表情が和らいだ。


「あとで、私からもご連絡するね」

「はい」


 優子は、俺の制服へ目を落とした。胸の辺りは、まだ乾いていなかった。涙のあとが、白い布の上に残っていた。


「……服」


 俺が貸したタオルを持ち上げかけて、止めた。


「濡らしちゃった……」


 お母さんも、そこを見た。


「ごめんね。制服、汚れてしまったね」

「大丈夫です。好きな人が少しでも楽になれたなら、服が汚れたくらい全然気にならないです」


 言ってから、胸元を見た。帰って洗えばよかった。左袖にも裾にも自分の血が残っているし、どうせ、すぐに着替えるつもりだった。


 優子が少しでも楽になったなら、それでよかった。小さい頃から一緒に遊んできた、大切な幼馴染だった。離れていた時間があっても、俺にとっては、ずっと大親友だ。その優子が、俺にしがみついて泣いていた。頼ってくれるのなら、少しでも安心できるまで、そばにいたかった。昔、一緒に遊んでいた時みたいに、また話せる方が、俺にはずっと大事だった。


 顔を上げると、優子が俺を見ていた。唇を少し開いたまま、動かなくなっていた。


「……優子?」


 呼ぶと、肩が動いた。


「う、うん……」


 顔を下げた。さっきまで涙で赤かった頬が、また少し赤く見えた。


 泣かせてしまったのかと思った。でも、優子は目を拭こうとはしなかった。手にしていたタオルを、ゆっくり膝へ戻した。


 お母さんが、俺と優子を順に見た。それから、何も聞かずに、コップを置いた。


 優子は、膝の上でタオルの角を折っていた。指を離し、また同じところを押さえる。顔を上げたと思うと、俺と目が合う前に、コップへ視線を戻した。


 手を伸ばしたのに、持ったまま飲もうとしなかった。頬は、まだ赤かった。


「熱かった?」


 尋ねると、優子は慌てたように首を振った。


「……違う」

「そっか」


 俺も自分の飲み物へ口をつけた。何か言いにくいことがあるのかと思ったが、優子は、椅子の上で少しだけこちらへ向き直った。腕が触れそうな距離だった。


 泣き出す様子はなかった。膝へ戻したタオルを見ながら、口元がほんの少し緩んだ。その顔を見ると、俺も、さっきまで止まっていた息をゆっくり吐けた。


 お母さんが、テーブルの濡れたところを拭いた。優子のコップの底にも、水がついていた。


「持ち上げてくれる?」

「うん」


 優子は、コップを少し持ち上げた。拭いてもらってから、同じところへ戻した。お母さんも、まだ目元が赤かった。それでも、優子へ話しかける声は、落ち着いていた。


 話をしに来たのだから、持ってきた物を全部広げて、分かったことを順番に伝えなければいけないと思っていた。今は、閉じたノートが少し離れた台にあった。手提げも、その隣に置いてもらっていた。


 続きを急がなくても、お母さんは聞いてくれた。優子が言えなくなったところで止まっても、話をなかったことにはしなかった。


 その人に受け取ってもらえたのだと思うと、もう1度、ノートを確かめに立つ必要はなかった。


「優子、疲れてない?」


 お母さんが尋ねた。


「少し……」


 優子は答えてから、俺を見た。


「でも……ここに、いたい」

「うん。じゃあ、座っていよう」


 お母さんが答えた。俺も頷き、背もたれへ少し体を預けた。


 足元で、リュックサックが倒れかけていた。左手で持ち直し、壁の方へ寄せた。ノートがなくなった分、背中のところが薄くなっていた。


 優子は、その動きを見ていた。それから台の方へ目を向け、すぐにコップへ戻した。


 明日から学校へ来られるかどうかは、聞かなかった。今、ここで会えている。その優子が、もう少しここにいたいと言ってくれた。それだけで、椅子へ座り直す理由には十分だった。


 窓の外が、少し暗くなっていた。ガラスに居間の明かりが映り始めていた。


 優子が窓へ顔を向け、すぐに目を伏せた。その拍子に、肩の辺りで髪が揺れた。庭で会った時から、短くなっているのは分かっていた。けれど、隣で見ると、前にあった長さを、また思い出してしまった。


「……お母さんが、切ってくれたの」


 声をかけられ、俺は顔へ目を戻した。髪を見ていたことに、気づかれたのだと思った。


「髪?」

「うん」


 お母さんも、優子の髪へ少し目をやった。


「後ろが、不揃いになっていたから。揃えようとしたら、その長さになったの」


 俺は頷いた。優子は、膝の上で指を重ねていた。


 小さい頃から、長い髪が好きだった。優子の髪も、そうだった。教室で本を読んでいる時、肩から背中へ流れていた白い髪を覚えていた。


「俺……長い髪、好きだったから」


 先に、それを口にしてしまった。


 優子の指が止まった。肩が少し内側へ入り、顔が下がった。


「……やっぱり変かな……」


 眼鏡の下で、目元が濡れたように見えた。何を先に言ってしまったのか、その声で気づいた。


「違う。そうじゃなくて」


 俺は、椅子ごと少し優子へ向いた。


「変じゃないよ。今のも、ちゃんとまとまってるし。可愛いと思う」


 優子は、まだ顔を上げなかった。


「でも……長い方が」

「俺の好みの話。すごく長い髪が、好きだっただけで」


 また同じことを言っている気がして、言葉を探した。髪が短くなったのが嫌なのではなかった。優子が、自分で選んで切った長さではない。そのことが、さっき聞いた話と一緒に残っていた。


「短いと、優子が可愛くなくなるってことじゃない」


 優子が、少し顔を上げた。俺は、その目を見た。


「最初に言うの、それじゃなかった。ごめん」


 優子は首を振りかけて、止めた。


「……変じゃ、ない?」

「うん。変じゃない」


 今度は、ちゃんと答えた。慰めるために言っているのではなかった。肩の辺りでまっすぐ揃った毛先も、頬の横へすとんと落ちる髪も、似合っていると思った。


「このくらいの長さも、優子に似合ってると思う」


 自分の肩の少し下を指した。優子はそこを見てから、お母さんへ目を向けた。お母さんが小さく頷くと、優子も、自分の毛先へそっと触れた。


 指先で少しだけ髪を挟み、そのまま下ろした。さっきより、顔が上がっていた。


「あと、前髪も」


 言いかけると、優子の手が止まった。


「前髪……?」

「もう少し短いと、顔が見えて、似合うと思う」


 優子は、眼鏡の上へかかった髪に触れた。


「顔、出したら……」


 そのまま指を下ろさなかった。また、今のままではいけないように聞こえたのかもしれない。俺は、すぐに言い足した。


「今、切ろうって話じゃないよ。ただ、せっかく可愛いお顔してるから、見えた方がいいなって」


 優子の手が止まった。お母さんが、1度、口元へ手を当てた。


 どちらも何も言わなかった。俺は、自分の言い方を思い返した。また余計なことを言ってしまったのだろうか。


「……変な言い方だった?」

「ううん」


 優子は、すぐに首を振った。


「違う……嬉しい」


 最後は、聞き取れるかどうかという声だった。それでも、嬉しい、と言ったのは分かった。


「なら、よかった」


 優子が手を膝へ戻した。俺も、それ以上、髪の話を続けなかった。左手でコップを持ち直すと、優子の目が、袖から出た白いミサンガの辺りへ向いた。


 そのあと、また顔を伏せた。でも、今度は口元が少し緩んでいた。飲み物を口へ運びながら、その横顔を見た。


 優子の視線が、テーブルの端へ移った。母さんへ電話をかけたあと、俺が携帯を置いたところだった。


「……私も、携帯」


 俺はコップを置いた。


「土曜日に、買ってもらったの」

「さっき、お母さんが言ってたね」

「うん」


 優子は頷いたが、そのあとが続かなかった。タオルの端を指で押さえながら、俺の携帯を見ていた。


 持っているのなら、番号を聞いておきたかった。今日のように、家の前まで来なければ会えるかどうか分からないままではなく、先に、都合を尋ねることもできる。


 俺は、自分の携帯へ手を伸ばした。


「番号、教えてもらってもいい?」


 優子が顔を上げた。


「……いいの?」

「うん。帰ってからも、話せるし」


 すぐに頷いてくれた。少しして、居間の入口へ目を向けた。


「取ってくる……」


 椅子から立った優子へ、お母さんが、持ってこようか、と尋ねた。優子は首を振った。


「自分で、取れる」

「そう。ゆっくりでいいよ」


 俺は、座ったまま携帯を開いた。入口へ着いた優子が、振り返った。


「待ってるよ」


 顔を上げてそう言うと、優子は頷いて、部屋を出ていった。


 少しの間、お母さんと話して待った。優子が戻ってきたのは、まだ携帯を開いたまま、受信の項目を確かめている時だった。


 両手に、新しい携帯を持っていた。


「持ってきた?」

「……うん」


 同じ椅子へ座り、画面を開いた。ボタンへ指を置いてから、少し迷うように止まった。


「赤外線で、送れる?」

「多分……」

「ゆっくりでいいよ。分からなかったら、一緒に探す」


 優子は、メニューを開いた。項目をいくつか動かしてから、画面を俺へ向けた。


「これ……?」

「うん。それ」


 俺も自分の携帯を操作し、番号を送る画面を出した。優子の携帯は持ったままにしてもらい、受信するところを選んでもらった。


 テーブルの上で、2つの携帯を向かい合わせた。優子が少し離して置き直したので、そこでいいよ、と伝えた。


 送信が終わるまで、優子は画面を見つめていた。表示が変わっても、すぐにはボタンを押さなかった。


「入った?」

「うん……」

「じゃあ、今度、優子のを」


 優子は頷いて操作を始めたが、途中で最初の画面へ戻ってしまった。指が止まり、こちらを見た。


「ごめん……」

「俺も、たまにやる」


 俺がそう言うと、もう1度メニューを開いた。今度は、送信するところまで進んだ。


 受け取った画面に、優子の名前が出た。番号も、確かに入っていた。俺は、その画面を優子へ向けた。


「ちゃんと入ったよ」


 優子は、少し身を寄せて画面を見た。頷いてから、自分の携帯へ目を戻した。


 登録するところで、また指が止まった。画面の文字を目で追い、ゆっくりボタンを押した。それから電話帳を開いて、しばらく見ていた。


 俺は、急がせずに待った。番号を交換するだけなら、いつもは、もっと短い時間で済んでいた。でも、今は、優子が自分で確かめてから閉じればよかった。


「……ありがとう」


 画面を見たまま、声がした。


「うん。俺も、聞けてよかった」


 優子が少しこちらを見た。それから、また携帯へ目を落とした。


「かけても、いいの……?」

「いいよ。出られなかったら、あとでかけ直す」


 そう答えてから、少し言い足した。


「学校の時とか、家の用事してる時は、すぐ出られないかもしれないけど」

「……うん」


 優子は、ゆっくり頷いた。携帯を持つ指が、さっきより緩んだように見えた。


 お母さんが、自分の携帯も持ってきた。俺にも番号を教えてくれて、連絡先を交換した。


「何か連絡する時、こちらからも電話していいかな」

「はい。お願いします」


 座り直して答えた。横から、小さく息の漏れる音がした。優子を見ると、口元を隠すようにタオルを少し持ち上げた。目が合うと、また膝へ戻した。


 笑ったのかもしれない。聞き直すほどの声ではなかったが、俺も少しだけ肩の力を抜いた。


「優子に伝えてほしいことがある時も、連絡してね」

「ありがとうございます」


 登録した名前を確認して、携帯を閉じた。優子は、もう少し画面を見ていた。俺の方へ1度目をやり、それから、両手でそっと閉じた。


「明日も、来ていい?」


 尋ねると、優子の手の中で携帯が少し傾いた。落とす前に、両手で持ち直した。


「明日……?」

「学校、終わってから。優子が疲れてなければ」


 顔を上げて、頷いてくれた。返事は、少し遅れて聞こえた。


「……来てほしい」

「じゃあ、来る」


 俺も頷いた。優子が、お母さんを見た。俺も、そちらへ顔を向けた。


「もちろん。勝也くんのおうちにも、ちゃんと話してね」

「はい」

「部活は、大丈夫?」


 お母さんに聞かれ、頷いた。


「しばらく、休むことを相談します。何も言わずに帰ったりはしないので」


 優子が、携帯を持つ手を下げた。


「部活……行けなくなる」

「俺が、来たいんだ」


 優子の顔を見て言った。


「明日も、その次も。会える日は、会いに来たい」


 今日、会えた。それで、もう何も心配しなくてよくなったとは思っていなかった。話の途中で、優子が言葉を止めたところも、顔を伏せたところも覚えていた。


 ただ、また会いたかった。学校で何をされたのかを聞くだけではなく、今日みたいに隣へ座って、違う話もしたかった。


「無理な日は、ちゃんと言うよ。優子も、休みたい時は言って」


 優子の手にある携帯へ、目を向けた。


「もう、連絡できるから」


 優子が頷いた。携帯を膝へ置かず、両手で包んだままだった。


「あと、本」


 忘れないうちに、言った。


「借りてる文庫本、家にあるんだ。明日、持ってくる」

「急がなくて、いいよ……」

「うん。でも、ずっと借りてたから。返して、それから、話せたらと思って」

「本のこと……?」

「うん」


 優子が頷いた。少し間を置いて、口を開いた。


「……話したい」

「うん」


 答えると、優子の目がこちらへ向いた。俺も、あの本のどこから話そうかと考えた。


     * * *


 帰るために立ち上がると、優子も椅子から立った。携帯を持ったままだったので、お母さんが声をかけた。優子は頷き、落とさないようにポケットへ入れた。


 俺は、リュックサックだけを背負った。持ってきた手提げとノートは、お父さんに預けたままだった。お母さんが隣の部屋へ声をかけると、お父さんも出てきた。2人へもう1度礼を言ってから、玄関へ向かった。


 優子は、少し後ろを歩いてきた。靴を履くためにかがむと、すぐそばで足音が止まった。


 踵を直し、振り返った。優子の手が、俺の袖の少し手前から下りた。


「また明日」

「……うん」


 優子が頷いた。お母さんが、横から礼を言った。


「今日はありがとう。真紀さんにも、よろしくね」

「はい。こちらこそ、遅くまで、すみませんでした」


「友達にも、ありがとうと伝えてくれるかな」


 お父さんに言われ、頷いた。


「はい。伝えます」


 頭を下げた。玄関へ入った時、膝をついた場所が目に入った。今度は立ったまま、顔を上げた。


 お父さんの目が、俺の右手へ向いた。


「帰ったら、お母さんにその手も見てもらいなさい。自分のことも、後回しにしすぎないようにね」

「はい。帰ったら話すって、連絡してあります」

「うん。気をつけて帰るんだよ」


 俺は、もう1度頷いた。


「あ……これ」


 優子が、タオルを差し出しかけた。まだ湿っている布を見て、手を止めた。


「洗ってからでも、いい……?」

「うん。急がなくていいよ」


 さっき、本の話をした時には、優子が同じことを言ってくれた。


「明日、会えるし」

「……うん」


 優子はタオルを持ち直した。俺はドアを開け、外へ出た。


 もう暗くなっていた。玄関の明かりの下を抜けると、お母さんと優子も、門の方まで来てくれた。


 道路へ出る前に振り返った。優子が、手を少し上げた。途中で止まったその手へ向けて、俺も左手を上げた。


 優子の手が、小さく動いた。


「おやすみ、優子」

「……おやすみ、勝也」


 庭で泣いていた時と同じ呼び方だった。でも、今は、見送るために呼んでくれた。


 俺はもう1度、手を振った。優子とお母さんが門のところに立っているのを見てから、家の方へ歩き出した。


     * * *


 家へ向かう道で、右手の指を少し動かした。握り込むと傷が引きつれそうで、力を入れるのはやめた。


 痛みは、まだ残っていた。けれど、手提げを持っていないだけで、歩く時の体の傾きが違った。背中のリュックサックも、来る時より軽かった。


 ノートを置いてきた。拾ってもらった物も、自分で見つけた物も、全部、ご両親に渡した。調べたことをどう使うかも、2人にお願いしてきた。


 歩きながら確かめたくなって、ファスナーへ手をやりかけた。途中でやめた。なくしたのではなかった。優子の家へ、置いてきた。


 あの物を見つけてから、ずっと、俺が持っていなければと思っていた。学校で預かると言われた時も、渡せなかった。何もなかったことにされるのではないかと、考えてしまった。


 お母さんは、袋を受け取る前に優子へ聞いた。見るのがつらいと言われると、見なくていいと答えた。俺たちのノートも、そのまま受け取ってくれた。


 お父さんも、ちゃんと読むと言ってくれた。先生へ見せるか、渡すか、家に置いておくか。もう、そのたびに俺へ許可を取ってもらわなくてよかった。


 背負って歩いていた物が、なくなっただけではなかった。受け取ってくれる人へ、ようやく届けられた。


 角を曲がる前に、1度だけ振り返った。優子の家は、もう見えなかった。


 明日、また行く。


 そう決まっているだけで、昨日までとは違った。次に会えるかどうかを、1人で考え続けなくてよかった。


 携帯を開いた。新しく登録した名前を見た。


 優子。


 番号も、その下にあった。今から電話をかけようとは思わなかった。さっき別れたばかりだった。でも、家へ帰ったあとでも、連絡できるようになった。


 俺は携帯を閉じた。立ち止まっていた道の端から、もう1度歩き出した。


     * * *


 家へ着いた時、母さんはまだ帰っていなかった。玄関で靴を脱ぎ、リュックサックを下ろした。時計を見てから、制服の袖へ目を落とした。


 着替えようと思いかけて、手を止めた。学校であったことを話すなら、この服も見てもらった方がよかった。まだ乾ききっていない胸元を避けてリュックサックを部屋へ運び、水を飲んでから待った。


 21時を少し過ぎた頃、玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま」

「お帰り」


 廊下へ出ると、母さんは荷物を下ろす途中で止まった。目が、俺の袖と裾へ向き、それから顔へ戻った。


「学校から、連絡があったけど……」

「うん。主任の先生から、聞いた」

「後日、学校へ来てほしいって。それ以上のことは、電話では聞いていないの」


 母さんは、少し近づいた。


「その服も、学校で?」

「血は、俺の。袖と、裾のも。こっちは……優子が、泣いてたから」


 胸元を見た。だいぶ乾いていたが、まだ跡があった。


 母さんは、すぐには何も言わなかった。俺の腕と顔を、もう1度見てから、右手へ目を止めた。


「手も切れてるじゃない。学校では、手当てしてもらわなかったの?」

「俺が、断った」


 答えると、母さんの眉が寄った。俺は、右手を隠さずに見せた。


「まず着替えて。手と腕も、ちゃんと見せてね。そのあと、話を聞かせて」

「……うん」


 部屋へ入り、制服を脱いだ。袖が引っかかり、少し顔をしかめた。机の上には、袋に入れた文庫本があった。


 明日、持っていく。忘れないように、リュックサックのそばへ置き直した。


 着替えて戻り、母さんに手と腕を見てもらった。右の拳と左腕の傷に手当てをしてもらう間、学校でも優子の家でも後回しにしていた痛みを、ようやく確かめた。


 それから、俺も食器を出した。母さんが夕飯を温め直し、向かい側へ座った。


「食べながらでいいよ」


 俺は頷いた。けれど、箸を持つ前に、言っておきたいことがあった。


「母さん」

「うん」

「今日、クラスの女子を殴った」


 母さんの手が止まった。


「それと、教室のドアを壊した。ガラスも割れた」


 言い終えてから、顔を上げた。母さんは俺を見ていた。驚いているのは分かった。それでも、すぐに大きな声は出さなかった。


「その腕は、その時に?」

「うん」

「相手の子は?」

「先生が、連れていった。俺は、そのあと、別の部屋で話をしてたから……今、どうかまでは分からない」


 母さんは、ゆっくり息を吐いた。


「何があったのか、最初から話して」


 俺は頷いた。


 月曜日に、優子の教科書を見たことから話した。担任へ相談したこと。宣仁も前から相談していて、2人で気をつけていたこと。それでも、水曜日に優子が帰ったと思い込んだこと。


「それで、春樹たちにも手伝ってもらってた。家に集まって、聞いたことをまとめたりして」

「うちで?」

「うん。母さんが帰ってくる前に、みんな帰ってたから」


 母さんは、少し驚いた顔をした。友達が家に来ていたことも、何をしていたのかも、まだ話していなかった。


「そうだったの。みんなも、一緒に調べてくれてたんだね」

「うん。俺1人じゃ、ここまで分からなかったと思う」


 持ち帰った教科書やノートを、みんなで部屋に広げたこと。同じ日傘のことを、違う人から聞いたこと。見ていたのに何もできなかったという人もいた。それを、分かる範囲で話した。


 母さんは、俺が言葉を探している間、黙っていた。分からないところだけ、短く尋ねた。


「今日、何が変わったの?」


 俺は、膝へ置いた手を見た。


「水曜日のことを、その場で見た人が、話してくれた」


 声が低くなった。学校で聞いた言葉が、また戻ってきた。


「優子が、助けてって言ってた。その人は、怖くて、逃げたって」


 母さんの顔が、強張った。


「俺たちが、帰ったって思ってた時に、まだ、そういうことをされてた」


 右手へ力が入りかけた。俺は、指を開いた。


「放課後、その女子に聞いた。知らないって言われて。そのあとも、優子が弱いからみたいなことを言って……」


 順番に話した。胸倉を掴んだことも、自分から押したことも、省かなかった。ドアが外れ、ガラスが割れた。それでも、手を離せなかった。


「そのあと、頬を叩かれた。それで、俺は殴り返した。顔を、2回」


 言ってから、息を吸った。叩かれたから仕方なかった、という説明にするつもりはなかった。1回殴ったあとも、俺はやめなかった。


「倒れそうになったのを、掴んだまま引き寄せて、もう1回殴った。3回目をやろうとしたところで、荒川が止めた」


 母さんは、目を伏せた。しばらくして、俺を見た。


「止めてもらえて、よかったね」


 俺は、すぐには頷けなかった。


 もう1発殴っていたら、どうなっていたのか。学校では、怒りの方が強くて、その先まで考えていなかった。でも、宣仁の腕を振りほどこうとしたことは覚えていた。


「……うん」


 少し遅れて答えた。


「優子ちゃんにされたことと、勝也がその子を殴ったことは、両方、話をしないといけない」


 母さんが言った。


「学校へ行ったら、私も、ちゃんと聞く。先生がどうして動かなかったのかも」


 俺は顔を上げた。


「俺が殴ったからって、優子の話を、なかったことにされたくない」

「うん。そこをなくすつもりはないよ」


 母さんは、はっきり答えた。


「だから、今、聞いているの」


 俺は、少し息を吐いた。言い返すために、喉へ力を入れていたことに気づいた。


「殴ったのは、必要だったと思ってる」


 それでも、そこは言った。


「口で言っても、全然、分かってないみたいで。優子が、どれだけ……」


 続けようとして、止まった。


 庭で聞いた話が、そこへ重なった。でも、それを母さんへ話すことはしなかった。あれは、優子が俺に伝えてくれたことだった。


「どれだけ嫌な思いしたか、笑って、終わらせようとしてたから」


 言葉を選び直した。


 母さんは、頷いて済ませなかった。


「怒る理由は、分かった。でも、お母さんは、殴ってよかったとは言えない」

「……うん」

「勝也がまた手を出したら、相手にも、勝也にも、今よりひどい怪我が残るかもしれない。それは嫌だよ」


 俺は、右手を見た。人を殴った感触が、まだ残っている気がした。


 すぐに、間違っていたと言える気持ちにはならなかった。殴らずに戻っていたら、あいつはまだ同じように笑っていたのではないかと思った。


 でも、母さんが何を言っているかは、分かった。


「荒川にも、もう殴らないって言った」


 俺は答えた。


「明日も、主任の先生と話す。ちゃんと調べてくれたかも、聞く」

「そう。そこは、約束して」

「うん」


 母さんは、少し肩を下ろした。


「ドアのことも、詳しく聞かせてね。誰かほかに怪我をしていたかどうかも、学校で確認する」

「分かった」

「話してくれて、ありがとう」


 その言葉で、顔を上げた。怒られないために話したつもりではなかった。でも、最後まで聞いてもらえたことが、思っていたより大きかった。


 母さんは、俺の前の茶碗を見た。


「少し、食べようか」


 俺は箸を持った。ひと口食べると、腹が減っていたことに気づいた。母さんも、それを見てから、自分の箸を取った。


 少し食べてから、優子の家であったことを話した。


 門のところで会えたこと。お母さんに、昔、隣に住んでいた勝也だと分かってもらえたこと。集めた物とノートを渡し、学校のことを伝えてきたこと。


 母さんは、美和さん、と小さく名前を言った。


「私も、ずっと連絡できていなかったね」

「よろしくって、言ってた。あとで、母さんにも連絡するって」

「そう。私も、話したい」


 俺は、ご飯をもうひと口食べた。飲み込んでから、続けた。


「明日も、行っていい?」

「優子ちゃんのところへ?」

「うん。学校が終わってから。また来ていいって、言ってもらった」


 母さんは、少し考えてから頷いた。


「いいよ。帰りが21時を過ぎそうな時は、連絡してね」

「うん。しばらく、会える日は、毎日行きたいんだ」

「優子ちゃんも、そう言ってくれているの?」

「明日は、来てほしいって。それから、また会いたいって話してきた。休みたい日は、ちゃんと連絡することにした」


 母さんは、俺を見た。少しして、もう1度頷いた。


「じゃあ、向こうのおうちとも相談しながらね。部活にも、ちゃんと話すんだよ」

「分かってる。明日、話す」


 母さんが、俺の茶碗へ目を向けた。


「それと、自分のご飯も、宿題も、寝る時間も、なくさないこと」

「うん」

「毎日会いたいなら、勝也も、毎日、ちゃんと帰ってこられるようにしないとね」


 俺は、箸を少し止めた。


 会えたら、そのあとをどうするか。今日までは、そこまで考えられなかった。今は、明日の約束があった。その次にも行きたいと思っていた。


「……ちゃんと帰ってくる」

「うん。待ってるから」


 母さんは、そう答えた。俺も、ご飯の続きを食べた。


     * * *


 夕飯の食器を下げてから、母さんに、春樹と少し話してくると伝えた。靴を履き、共用廊下へ出た。


 隣のインターホンを押すと、少ししてドアが開いた。部屋着の春樹が顔を出した。


「今、ちょっといい?」

「うん」


 春樹も靴を履いて出てきた。後ろ手にドアを閉めるのを待ってから、俺は顔を向けた。


「優子に、会えた」


 春樹の口が少し開いた。それから、そっか、と息を吐いた。


「話せた?」

「うん。家にも上がらせてもらった。ご両親に、ノートと、集めた物も渡した」

「全部?」

「全部。春樹が写したのを持ってるって、話してきた。学校へ見せるか、渡すかも、ご両親に任せるって」

「分かった。こっちは、ちゃんと置いてあるよ」


 春樹が、自分の家のドアへ少し目をやった。


「今日、あとから書いた分は、明日、もう1度合わせたい」

「うん。持っていく」


 その時、廊下の向こうでドアが開いた。綾香が顔を出し、俺たちを見た。


「2人の声が聞こえたから。何かあった?」

「今、話してたんだ。優子に会えたって」


 そう答えると、綾香はドアを閉め、こちらへ歩いてきた。


「会えたんだ……」

「うん。少し、話もできた」


 綾香の肩が、少し下がった。


「そっか。よかった」


 俺も頷いた。2人へ顔を向け、声を少し落として続けた。


「それと、優子が、ありがとうって。みんなにも伝えてほしいって言ってた」


 春樹が、もう1度頷いた。綾香はすぐには何も言わず、口元を緩めた。


「翔太には、俺から伝えとく。家にかければいると思うし」


 春樹が言うと、綾香も続いた。


「じゃあ、真弓には私から言うね」

「ありがとう。俺からも、明日、みんなに言う」


 少し間を置いて、綾香が尋ねた。


「学校は、まだ休むの?」

「うん。いつ来るかは、決まってない。俺からも、急がなくていいって話した」

「そっか。じゃあ、待ってればいいね」


 春樹が言うと、綾香も頷いた。いつまで、と聞かれなかった。


「明日も、家へ行くことになった」

「うん」

「学校で聞かれても、会って話せたって、それくらいにしておいて。本人が話したことまで、俺からみんなに言うのは、違うと思うから」

「分かった」


 春樹は、すぐに答えた。


「何を話したかは、聞かないよ。勝也が会えたって分かれば、今はそれでいい」


 綾香も、俺を見て頷いた。


「……ありがとう」


 明日の公園で会う時刻を確かめた。いつもの時間だった。朝になれば、ここにいないみんなにも会える。


「じゃあ、また明日」

「うん。おやすみ」


 春樹がドアへ手をかけ、綾香も小さく手を振って、自分の家へ戻っていった。俺も玄関へ入り、静かにドアを閉めた。


 庭で聞いた言葉は、話さなかった。隠していることを、2人に見抜かれるのではないかとも思わなかった。聞かないと言ってくれた春樹の声と、隣で頷いた綾香の顔が残っていた。


 部屋へ戻り、机の前へ座った。いつもノートを置いていたところが、空いていた。その脇の文庫本へ目をやってから、明日の時間割を出した。


 明日は、学校で先生と話す。授業に出られない時間もあるだろう。でも、必要な物は持っていくつもりで、教科書を入れた。


 最後に、優子へ返す文庫本を入れた。袋の口が折れないよう、教科書との間へ置いた。


 ノートのあった場所へ、宿題を広げた。問題文を読んでも、最初は、頭に入ってこなかった。もう1度、最初の行から読んだ。


 今日、優子と話した。好きだった本のことを、明日、また話せる。


 そこまで考えて、鉛筆を持ち直した。今夜、何もかも分かるまで起きていなくても、よかった。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

優子の両親へ被害を説明し、調査ノートを学校に見せるか、渡すかも含めて判断を託す。優子と翌日の訪問を約束し、帰宅後は自分が起こしたことを母へ話す。


・富田 優子

短い言葉と頷きで両親への説明を勝也に託し、髪を褒められて嬉しいと伝える。勝也と連絡先を交換し、翌日も来てほしいと願う。


・優子の母(美和)

来訪した男子が昔の勝也だと知り、自責から謝る彼を立たせて話を聞く。優子を抱きしめ、泰臣とともに私物と調査ノートを受け取る。


・優子の父(泰臣)

在宅中に勝也と再会し、玄関での謝罪を受け止める。優子の話を急がせず、学校への確認と資料の受け取りを引き受け、協力した友人たちや勝也の怪我にも気を配る。


・勝也の母(真紀)

帰宅後、勝也の怪我を手当てし、学校での出来事と優子へのいじめについて話を聞く。暴力には賛同せず、学校の対応も確認すると伝え、優子宅への訪問を認める。


・鶴見 春樹

隣の部屋から共用廊下へ出て、勝也から優子に会えたことと資料を両親へ渡したことを聞く。優子の話した内容を無理に尋ねず、写しておいた資料を翌日持参すると約束する。


・井上 綾香

廊下から聞こえた勝也と春樹の声に気づき、会話に加わる。優子に会えたと聞いて安堵し、優子からの礼を真弓にも伝えると申し出る。

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