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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
29/52

第25話 君の味方


    * * 勝也視点 * *


 優子の家へ続く道で、左手に提げた袋を持ち直した。歩くたびに袖口が引っ掻かれた腕へ触れ、傷が痛んだ。拳から血が滴るのは止まっていたが、傷を押さえるのに使ったYシャツの裾には、赤黒い染みが残っていた。長袖の白い夏服は、左袖にも自分の血がついたままだった。学校で何度か勧められた手当てを、俺は断っていた。


 家へ帰れば、着替えられる。傷も洗える。でも、自分の家のある方へは曲がらなかった。優子は、俺が迷惑がっていると思っているかもしれない。そのことを知った土曜日から、もう3日が経っていた。


 見た人の話を聞いた。同じ話なのか確かめて、ノートに書いた。今日、ようやく話を聞こうとする先生にも会えた。担任とは違うと思った。それでも、もう学校を信用する気にはなれなかった。


 優子とだけは、まだ話せていなかった。


 住宅の間を通ると、夕飯を作っている匂いがした。どこかの家から、テレビの音も聞こえた。いつもの帰り道より人が少なくて、靴の音がよく聞こえた。


 今、何をしているだろう。


 教室にいた時も、俺は何度もそう思っていた。朝、目を覚ましただろうか。昼ご飯は食べただろうか。本を読んでいるだろうか。


 どれも、確かめられないままだった。


 手提げの口から、紙で包んだ教科書の角が見えた。歩く間にずれたらしく、その隣の袋も少し出ていた。中には、破れたノートがある。これを持っていって、どうするのか。返せば済むものではないことは、もう分かっていた。せっかく学校から離れているのに、見たくない字まで持っていくことになる。


 俺は道の端で足を止め、手提げをいったん足元へ置いた。左手で、はみ出していた袋を少しだけ内側へ戻す。破れた紙が引っかからないよう、教科書との間を空けた。優子が見たくないなら、その場で開かなくていい。お母さんに預かってもらうこともできる。持ってきた物を全部説明しなければ、会ったことにならないわけではない。


 そう考えて、左手で持ち手を拾い、また歩いた。


 学校では、自分が戸田を殴ったことと、ドアやガラスを壊したことを説明した。優子の話も聞いてほしくて、大きな声を出した。でも、みんなで調べた資料は見せなかった。誰が何を見たのかも、学校で調べてほしいと断った。手提げの中の物も、リュックサックの中の資料も、全部、優子のご両親へ渡すつもりだった。


 まだ、先生たちへの怒りは残っていた。その気持ちのまま、優子の前へ立ちたくはなかった。


 歩きながら右手を見た。爪の間に、黒っぽくなった血が残っていた。指にも、袖にも、裾にも。このまま会ったら、優子を驚かせてしまう。


 少しでも落とせないかと思い、学校の近くの公園へ寄った。水道から離れたところへ手提げを置き、リュックサックも下ろした。教科書やノートに水がかからないのを確かめてから、蛇口をひねった。


 指先へ水を流すと、爪の間に残った血が少しずつ薄くなった。指の腹で擦り、こびりついたところを落としていく。けれど、拳まで濡らしたところで、ひりつくような痛みが走った。


 傷の端がまた開き、赤いものが滲んできた。洗い流したそばから新しい血が出て、水と混ざって指へ広がった。


 思わず手を引いた。さっきより綺麗になったのかどうかも、分からなくなった。


 今度はYシャツの裾を濡らしてみた。血のついたところを擦ると、染みの周りへ薄い赤が広がった。色の濃いところは残ったままで、濡れた部分だけが大きくなっていく。左袖も同じだった。固まっていた血は生地に残り、少し擦ったくらいでは落ちなかった。


 これ以上やっても、服を濡らすだけだった。


 諦めて裾を下ろした。拳へもう1度当てると、濡れた生地に新しい血が混じった。俺は少し屈んだまま、流れ続ける水を見ていた。


 手や服を洗うことに気を取られているうちに、さっきまで頭の中で続いていた言い争いを、思い返さなくなっていた。肩も、いつの間にか下がっていた。


 先生に言われたことを、納得したわけではない。それでも、今すぐ何か言い返したい気持ちは、少しずつ収まっていた。


 優子に会いに行くんだった。


 左手に水を受け、最後に顔を洗った。熱の残っていた頬に冷たい水が触れ、俺は長く息を吐いた。顔を上げてから蛇口を閉めると、さっきより周りの音がよく聞こえた。


 濡れた裾を軽く絞り、荷物を持って公園を出た。


 家へ向かって歩いているうちに、拳の傷もまた乾いてきた。もう血が流れてこないのを見て、Yシャツの乾いたところで指や手の甲をざっと拭った。傷そのものには触れず、周りに残った血の跡だけを適当に落とした。


 手は、さっきより綺麗になった。Yシャツには、薄く広がった染みも、赤黒いままのところも残っていた。今度こそ手を下ろし、優子の家へ向かった。


     * * *


 角を曲がると、家を囲う塀が見えた。ガレージの扉は閉じている。土曜日と同じだった。あの日は、インターホンを押して待った。返事がなくて、もう1度押した。最後には、誰も出てこなかった。


 今日は、声を聞けるだろうか。


 門の前まで来て、俺は1度、息を吐いた。喉の奥が少し痛かった。さっきまであんな声を出していたことを、ここへ来て改めて思い出した。優子が出てきたら、まず、会いに来たと言おう。返事を急かさずに、話せるかどうか聞こう。


 順番を考え、インターホンへ手を伸ばした。


 押す前に、門の内側で音がした。


 郵便受けの蓋が動くような、小さな音だった。門扉が少し開き、その向こうに白い髪が見えた。


「……富田」


 考えていた挨拶より先に、呼びかけていた。


 優子が顔を上げた。眼鏡の奥の目が、俺の方で止まった。


 髪が、短くなっていた。


 肩に触れ、その少し下で揃っている。水曜日、教室で見た時の長さとは違った。聞いた話は、本当だったのだと、目の前で分かった。


 でも、そこへ目を向け続けてはいけない気がした。俺は優子の顔を見た。


 少し、痩せたように見えた。襟元のゆるい服から出た首も、頬も、記憶より細く感じた。こちらを見ていた目が下がり、優子は門扉の内側へ体を引いた。


「急に来て、ごめんね」


 言いながら、俺も半歩下がった。出入口を塞がないようにした。


「少し、話せたらと思って」


 優子の足は、家の方へ向いていた。俺の声を聞いても、すぐには戻らなかった。


 呼び止めていいのか、分からなかった。


 会いたかった。ずっと、顔を見て話したかった。だからといって、出てきてくれたところを逃がさないように立つのは違うと思った。


 手提げを持ち直すと、袋の口が少し開いた。優子の目が、そちらへ動いた。


 紙の間から、教科書の表紙が見えていた。上に重ねた透明な袋には、端の破れたノートが入っている。


 優子の足が止まった。


「……それ」


 小さな声だった。でも、聞こえた。


「うん。探して見つけた物があって」


 俺は袋を持ち上げようとして、やめた。優子はもう、中を見ていた。見せつけるように近づける必要はなかった。


「せめて見つかった物だけでもって届けに来たんだよ」


 優子は何も言わなかった。教科書から目を離し、俺の手を見た。傷ついた拳から、左袖と、血の染みたYシャツの裾へ視線が動いた。


「……血」


 俺も自分の服を見た。左袖だけでなく、拳を押さえていた裾にも血が染みていた。白い生地の上では、その汚れがはっきり見えた。


 洗っても落ちなかった染みだった。少しでも綺麗にしたかったのに、優子の目は、そこへ止まっていた。やっぱり驚かせてしまったのだと思った。


「今日、学校でちょっと色々あって……でも大した怪我じゃないよ」


 なるべく、いつもの声で言った。


 優子の手が、門扉の端を握った。さっきとは違う強さで、俺を見た。


「痛く、ないの……?」

「少しね。でも、こうして来られるくらいだから」


 優子は、俺の腕と手提げを見比べた。唇が1度動いたが、声にはならなかった。


 家へ戻りかけていた足が、こちらへ向いた。


「……入って」


 門扉が、もう少し開いた。


「いいの?」


 優子が頷いた。それから、道の左右を確かめるように見た。俺が門の内側へ入ると、すぐに門扉へ手を戻した。閉まる音は、小さかった。通りからは塀で隠れる場所だった。玄関へ続く石の脇に、植え込みがある。奥には、庭に面した家の窓が見えた。


 優子は、俺を家まで案内するようには歩き出さなかった。閉じた門扉のそばで、立ったままだった。


「勝也くん……」

「うん」


 名前を呼ばれただけで、返事が早くなった。優子はまた、袖口へ目を向けた。


「美咲さん……?」


 俺は、すぐには答えられなかった。


 何で分かったのだろう。学校から誰かが連絡したのかと思い、それならこんなふうに尋ねないだろうと思った。


 腕に触れていた爪を思い出した。戸田が関わっていたことは、本当だった。


「……うん。戸田と、話してて」


 そこまで答えると、優子の顔がくしゃっと歪んだ。


「ごめんなさい」


 声が震えた。


 優子は何か続けようとしたが、声が途切れた。俺の腕と、手提げを交互に見ている。俺は、ようやく分かった。


 優子は、この荷物のせいで俺まで何かされたと思ったのだ。


「富田が謝ることじゃないよ」


 優子が唇を動かした。何を言いかけたのか、声にならなくても分かる気がした。


「俺が、話をしに行ったんだよ。誰かに頼まれたわけじゃないよ」


 優子は顔を上げなかった。俺の腕へ触れようとしたのか、手が少し上がって、また下がった。教室で何があったかを話し始めたら、優子は自分のせいだと思いながら聞くのだろう。今、そこから話すことはできなかった。


「これも、俺が持ってきたくて持ってきたんだ。富田の物だから」


 袋を足元へ下ろした。持ち手を離すと、手が軽くなった。


「全部は見つかってないけど。拾ってくれてた人もいて、みんなが探すの手伝ってくれたんだ」


 優子は、袋の中を見ないように目を伏せた。俺は左手で、開きかけた袋の口をそっと寄せた。


「今、見なくていいよ」


 その言葉で、優子が少しだけ俺を見た。


「返すために来たけど、それだけじゃなくて」


 ここまで考えてきた言葉なのに、口にしようとすると、簡単には出なかった。俺は1度息を吸い、優子の顔を見た。


「富田と、話したかったんだ」


    * * 優子視点 * *


 門を閉めても、勝也くんは目の前にいた。


 さっきまでは、庭の端に立っていた。部屋の窓から見ているだけでは分からない風に、少し当たりたかった。塀の内側なら、通る人と目が合うこともない。お母さんは、リビングにいた。私が庭へ出るのを見て、涼しくなってきたね、と言った。戻る時でいいから郵便受けを見てきて、と頼まれた。


 ただ、それだけのつもりだった。


 誰かに会うつもりはなかった。まして、勝也くんが来ているなんて思わなかった。


 富田、と呼ばれた時、嬉しいと思う前に体が動いた。見られたくなかった。話しかけられたら、何を答えればいいか分からなかった。


 けれど、長袖の白いYシャツに血がついていた。袖だけではなかった。ズボンから出た裾には薄く滲んだ赤と、濃いままの染みが重なっていた。そのそばにある右の拳にも、傷が見えた。


 私の教科書を持っていた。なくなったノートまであった。あんなふうになった物を、自分の荷物とは別の袋に入れて、ここまで運んできていた。


 私の物だと分かるから。それを持っているところを、美咲さんに見られたから。


 頭の中で、怖いことばかりがつながった。


 勝也くんは、自分から話しに行ったと言った。でも、私のことがなければ、そんな話をする必要もなかったはずだった。また、ごめんなさいと言いかけた。唇を動かすと、勝也くんが少し眉を下げた。怒った顔ではなかった。それでも、何度も謝られたら困るかもしれないと思って、同じ言葉を飲み込んだ。


 足元の袋を見た。畳んだ紙が、教科書を挟んでいた。


 捨てられた物だった。返してほしいと言っても、返してもらえなかった物だった。


 それが、ここにあった。


「どこに……あったの?」


 聞いてから、顔を伏せた。自分で探せなかったことまで、知られてしまう気がした。


「学校の外にも、中にもあったよ。拾って持っててくれた人のところにも」


 勝也くんは、そこで説明を止めた。


「今、どこにあったか話した方がいい?」


 私は、すぐには頷けなかった。聞けば、あの日の続きが出てくる気がした。どこへ持っていかれたのか、誰が持っていたのか。思い出したくない顔が、また目の前に並びそうだった。


 小さく首を振った。


「うん、分かった。あとで、必要になったら話すね」


 勝也くんは、そのまま袋から手を離した。


 聞かなくてもよかった。今、答えられなくても、袋を開けられることはなかった。


 足の裏に入っていた力が、少しだけ緩んだ。


 わざわざ来てくれたのに、物を受け取ることさえできない。唇を開いても、その気持ちを言葉にできなかった。


「会えたから、よかったよ」


 勝也くんが言った。何もできていない私へ、そう言った。


 その顔を、長く見ていられなかった。


 嬉しいと思うのが、怖かった。前にも、嬉しいことはあった。隣の席になった時も、本を借りたいと言ってくれた時も、私にだけ向けてもらった声があった。


 そのあとで、別の人の言葉を思い出した。


 毎日は無理。迷惑だって。


 笑ってくれたのも、断れなかったからなのかもしれない。聞いてくれたのも、私がいつまでも黙っているからなのかもしれない。そう思い始めると、顔を上げられなくなった。今も、私が何も言わないせいで、勝也くんが困っている。少し声がかすれていた。袖には血がついている。


 帰ってもらった方がいい。そう言えば、これ以上困らせずに済む。


 唇を開いた。


「あの……もう」

「富田」


 勝也くんの声が重なった。私は口を閉じた。


「1つ、先に言ってもいい?」


 何を言われるのか、分からなかった。胸が小さくなっていくようだった。


 それでも、頷いた。


「俺、富田のこと、迷惑だなんて言ってないよ」


 息を吸ったまま、止まった。


 勝也くんは、私を見ていた。笑ってごまかすような顔ではなかった。


「大島から、そう聞いたんだよね」


 答えようとした。でも、喉が動かなかった。


 どうして知っているのだろう。あの時の話を、私は誰にもしていない。お母さんにも、綾香ちゃんにも。勝也くんに確かめたこともなかった。小さく頷くと、勝也くんの左手の指が1度曲がった。それから、また開いた。右手は、血の染みた裾のそばで動かなかった。


「俺が翔太と話してたの、宿題のことなんだ。毎日、忘れないように言ってくれって頼まれて」


 勝也くんは、少しずつ話した。


「それは毎日は無理だよって。自分でも思い出せよ、って話してた。富田のことじゃないよ」


 私は、足元を見た。


 奈々さんは、私の知らないところで聞いてきたように話していた。気にしてくれるのも、頼まれたからだと言っていた。私はその言葉を、何度も頭の中で繰り返していた。


 知らないところでの勝也くんの顔を、勝手に思い浮かべていた。


「私のことじゃ……?」

「うん。違うよ」


 返事は、すぐだった。


「俺が言ったみたいに、違う話を伝えられてた。そういうことがあったって、教えてくれた人がいて」


 誰が話したのだろう。聞こうとして、口を閉じた。名前を聞いたら、その人まで怖くなるかもしれない。自分のことを、どこまで話されたのかも分からなかった。勝也くんは、私の言葉を待った。私が何も言わないと、無理に名前を挙げなかった。


「俺から、ちゃんと言いたかった。誰かがそう言ってた、じゃなくて」


 門の向こうで、自転車の音がした。私は肩をすくめた。勝也くんも1度そちらを見て、少し声を落とした。


「嫌だったんじゃないよ。富田に会えて、嬉しかったんだ」


 言葉の意味は、分かった。分かったはずなのに、すぐには胸へ入ってこなかった。


 間違えて受け取ったら、また怖い思いをする。私だけが喜んでいたら、あとで気づく。


 優しくされるたび、先にそんなことを考えるようになっていた。


「……ほんと?」


 聞いた声は、自分でも情けないくらい小さかった。1度言ってもらったのに、もう1度言わせてしまった。


 勝也くんは頷いた。


「本当だよ」


 それだけだった。どうして信じないのかとは、聞かれなかった。


 私は指を握った。力を入れたところが少し痛み、慌てて緩めた。袖口を下げ、手を体のそばへ戻した。


 まだ、言えないことがあった。勝也くんが知らないことを、私は自分でしていた。


 それを知っても、同じことを言ってくれるだろうか。こんなふうに見ても、嫌な顔をしないだろうか。


 考えたところで、また顔が下がった。


「富田」


 もう1度、呼びかけられた。


「俺に、うまく話そうとしなくていいよ」


 私は、下げかけた顔を少し戻した。


「今日、何があったか全部聞きに来たんじゃないんだ。会って、違うって言いたかったから」


 勝也くんの喉が、小さく動いた。


「1人で、俺が嫌がってるって思わせたままにしたくなかった」


 私は、何も言えなかった。


 嫌がられていると思っていた。そんなはずはないと思うたびに、私の方がそう思いたいだけなのだと打ち消した。本を貸した時、少し笑ってくれたことまで、何度も違う意味に考え直した。あの顔を、そのまま嬉しいと思っていたかった。


「学校のことも、富田が全部、1人で説明しなくてもいいんだよ」


 勝也くんは、足元の袋へ1度目を向けた。


「見てた人が、話してくれたこともあるから。富田が言えなかったことまで、なかったことにはならないよ」


 なかったこと。


 あの日、帰る途中で、何度も思った。家へ着いたら、普通の顔をしなければと思った。そうしたら誰にも聞かれず、もう何も説明しなくていい気がした。けれど、玄関へ入った時、お母さんは私を見て立ち止まった。私は、ただいまさえ、うまく言えなかった。


 帰ってきても、終わらなかった。


「……私」


 言葉が1つ出た。その続きに何を言えばいいのか、分からなかった。


 勝也くんは、続きを待っていた。何も言えないでいると、ほんの少しだけ、こちらへ近づいた。


 体の前で重ねていた手をほどくと、勝也くんの左手が、私の右手にそっと触れた。その掌に指を添えると、私の手を包むように、指が重なった。私も、そっと握り返した。


 温かかった。


 袖の下まで確かめられることも、何があったのか聞かれることもなかった。ただ、そこに手があった。


「何があっても、富田の味方だよ。今も、昔も、これからも」


 私は顔を上げた。


「1人で抱えなくていいんだよ」


 優しい声だった。声がかすれていても、その言い方は知っていた。


 小さい頃、帰りたくなくて、もう少しだけと頼んだ時。ゲームの続きをどうしても自分でやりたくて、隣で待ってもらった時。私の返事を聞いてから、次を決めてくれた。


 今も、その目で見ていた。


 もう1度、包まれた手へ目を落とすと、白い糸が見えた。


 勝也くんの、ミサンガだった。


 初めて見る物ではなかった。


 入学した日の教室でも、見ていた。名字が違って、背も伸びていた男の子が、あの勝也くんなのだと分かった時にも、手首にあった。そのあとだって、何度か目に入っていたはずだった。席が近くなってからは、教科書を押さえる手も見ていた。


 それなのに、今は目を離せなかった。


 白い糸は、真っ白ではなくなっていた。編み目の端が少し毛羽立ち、肌に触れるところには薄く色がついていた。結び目のそばの短い糸も、作った時の形とは違う。


 長い間、そこにあった物だった。


 私と会わなかった間も。知らない学校へ通って、知らない友達と遊んでいた間も。この手首に、ついていた。


 目の前の勝也くんが、私の顔を覗くように少し首を傾げた。


「どうしたの……?」


 答える代わりに、私はミサンガを見た。指を動かすと、その糸へ、ほんの少し触れた。


 勝也くんも手元へ目を落とした。


「あ、これのこと?」


 声が、わずかに柔らかくなった。


「うん。まだ、つけてるよ」


 まだ。その言葉が、胸の奥へ入ってきた。


「……ずっと?」

「うん」


 勝也くんは、少しだけ手首の向きを変えた。私の手を引かないように、ゆっくりと。


「だいぶ、色変わったけどね」


 困ったことでも話すように、少し笑った。捨てようと思っている顔ではなかった。


「富田と一緒に作ったものだから」


 公民館の机を思い出した。


 並べられた色の違う糸。編んでいる途中で長さを見比べたこと。同じ場所に座って、それぞれの手元を覗き込んだこと。


 私は青い糸を選んだ。勝也くんの好きな色だった。


 どんなふうにできたか見せるのが楽しみで、うまくできていないところは手で隠した。それでも見せてと言われると、すぐに手をどけた。


 あの頃は、見てもらうのが嬉しかった。


 今みたいに、見られる前から悪いところを探さなかった。何か言われたらどうしようと考えるより、隣にいる勝也くんへ先に腕を伸ばしていた。


 編み目は、あの時のまま残っていた。


 会えなくなっても、なくならなかった。私が知らない時間の分だけ、糸の色が変わっていた。


「富田も、まだつけてたよね」


 勝也くんが言った。


「隣になった時、見えて。ちょっと、嬉しかったんだ」


 返事をしようとした。私も、と言いたかった。


 けれど、口を開くより先に、涙が落ちた。


 勝也くんの手の上へ落ちた。慌てて顔を下げると、もう1つ落ちた。


 拭かなければと思った。手を離してもらおうとしたのに、指が動かなかった。


 この手を、まだ離してほしくなかった。


 ミサンガを見た日のことだけではなかった。


 傘がなくなった日、晴れているから大丈夫だと言った私に、勝也くんは日差しのことを気にしてくれた。私が断っても、肌は大丈夫なのかと聞いてくれた。


 帰れるかどうかだけの話ではなかった。私が、つらくないかを気にしていた。


 隣の席で、教科書を開けなかった時も。何が書いてあるのかを大きな声で聞かず、自分の教科書を置いてくれた。ほかの人に理由を話さなくても、授業を受けられるようにしてくれた。その時は、ありがとうと言うだけでも精いっぱいだった。嬉しいのに、申し訳なくて、また何かさせてしまったと思っていた。


 でも、あの時の顔を、私は見ていた。


 奈々さんから聞いた顔ではなかった。私が、目の前で見た勝也くんだった。


 文庫本の話を聞いてくれた時も、そうだった。説明が長くなっていないか気にする私に、続きを聞いてくれた。どこが面白かったかを言うと、その部分へ目を向けてくれた。


 あの日、少しだけ、もっと話したいと思えた。


 それを、全部なかったことにしかけていた。知らないところで言われたという言葉を信じて、自分が嬉しかったことまで疑っていた。


 勝也くんが困るから。私といると嫌な気持ちになるから。


 その方が、次に何か言われた時、驚かずに済む気がしていた。


 私の手を包む指は、動かなかった。涙が落ちても、避けられなかった。


「富田……」


 呼びかける声が、近くなった。


「ごめんね。怖かったよね」


 私は首を振ろうとした。怖かったことは、本当だった。けれど、今、涙が出ているのはそれだけではなかった。どう言えば伝わるだろう。嫌われていなかったのが、嬉しい。忘れられていなかったのが、嬉しい。今、ここへ来てくれた人の言葉を、そのまま信じたい。


 どれも声にならなかった。


 涙が、次々に落ちた。口を結んでも、喉の奥で息が引っかかり、声になって漏れてしまった。鼻をすすっても追いつかなかった。涙も鼻水も止まらず、顔を上げていられなかった。


 勝也くんの手が、ゆっくり離れた。


 離れていくと思って、私は顔を上げた。けれど、勝也くんは私の方へ1歩近づいた。動けずにいる私の背中へ左腕が回り、そのまま、そっと抱きしめられた。


「……優子」


 耳の近くで、名前を呼ばれた。学校で聞いていた名字ではなかった。返事をしようとする前に、喉が震えて、また泣き声が漏れた。


 目の前に、白いYシャツの胸元があった。額が触れそうなくらい近かった。


「……大丈夫だよ。ここにいるからね」


 背中に左手があった。反対側にも腕が回り、体を支えてくれた。傷ついた右手は、私の肩から少し離れたところにあった。勝也くんの体が近くにあるだけで、張っていた肩から力が抜けそうだった。


 下ろしたままの腕を、どうすればいいか分からなかった。寄りかかったら、重いかもしれない。それに、今、顔をつけたら。


 顎から涙が落ちた。鼻をすすろうとして、また息がしゃくり上がった。拭わなければと思うのに、次々に溢れてきて、どうにもならなかった。


「服……汚れちゃう、よ……」


 途切れながら、やっと言った。涙だけではなかった。鼻水までついてしまう。嫌な思いをさせたくなくて、顔を少し離そうとした。


「大丈夫だよ。気にしなくていいから」


 勝也くんは、私の顔を覗くように少し身をかがめた。目が合うと、小さく頷いてくれた。それから、背中へ回した腕に少しだけ力を込め、優しく、ぎゅっと抱きしめてくれた。


 私は、その場に立ったまま、制服の脇へ指を伸ばした。布に触れ、少し迷ってから掴んだ。寄りかかると、勝也くんがその重さを受け止めてくれた。


 温かかった。さっき手を包まれた時よりも、ずっと。


 我慢しようと唇を結ぶたび、息が詰まった。次に吸おうとすると、さっきより大きな嗚咽になった。こんな声を聞かせたくないのに、止められなかった。


「声、我慢しなくていいよ」


 背中を撫でながら、勝也くんが言った。


「聞かれるのが気になるなら、俺の胸に顔、押しつけててもいいから。服は汚れても大丈夫だよ」


 私は、濡れた顔を少しだけ制服へ近づけた。頬が触れても、勝也くんの腕は離れなかった。そのまま胸へ顔を押し当てると、こらえていた声が布の中へ漏れた。


 涙も鼻水も、白い生地についてしまった。それでも、もう顔を離せなかった。息をしゃくり上げるたびに肩が揺れ、勝也くんの制服を握る指へ力が入った。


「うん。そのままでいいよ」


 背中の手が、ゆっくり動いていた。泣き止むように言われることも、体を離されることもなかった。私は目を閉じ、声にならない声を漏らしながら、その腕に体を預けた。


 今、泣いているところを見られている。隠そうと顔を伏せても、その先に勝也くんがいる。


 それでも、笑われなかった。


 泣けば泣くほど、困らせてしまうと思っていた。でも、勝也くんの手は、途中でなくならなかった。


 制服を握る指に力が入った。


「……勝也くん」

「うん」


 返事が、すぐにあった。


 名前を呼べば、聞いてもらえる。そのことだけで、また涙が出た。


 何か、ちゃんと話さなければと思った。会いに来てくれてありがとう、とか。信じなくてごめんなさい、とか。


 けれど、口から出たのは、別のことだった。


「嫌われたと……思ってた」


 最後の方は、制服に埋もれた。勝也くんは、聞き返さなかった。


「うん」


 短く返事をしてから、背中の手を止めた。


「嫌ってないよ」


 私は、指を握り直した。


 何か、私がしたのだと思っていた。話しかけるたびに困らせているのなら、やめた方がいい。そう考えていたことも、言おうとした。


「話しかけても……いいの?」


 それだけで、喉が詰まった。勝也くんの腕が、さっきより少し近くなった。


「いいんだよ」


 声が、わずかに揺れた。


「話しかけてくれたら、嬉しいよ。俺、優子と話したいから」


 その言葉を聞いた時、背中へ回した腕にも力が入った。


 私から話してよかった。会えたことを、嬉しいと思ってよかった。


 勝也くんは、少し黙ってから、続けた。


「俺も、うまく話せなかったんだ。再会した時から」


 私は顔を上げきれないまま、聞いていた。


「優子って呼ぶのも、何か、照れくさくて」


 さっき、抱きしめられた時の声を思い出した。優子、と呼ばれたのが嬉しくて、でも涙で返事ができなかった。学校では、富田、と呼ばれていた。入学した日に分かってくれた時を除けば、ほとんど、そうだった。


「久しぶりに会ったら、同じクラスで。昔みたいに話しかけて、変に思われないかなとか」


 勝也くんは、少し言葉を探した。


「名前で呼んで、周りに何か言われたら、優子も困るかなとか。そんなこと考えて」


 私は、制服を見た。


 遠くなったのだと思っていた。昔みたいに呼ばないのは、もう昔と同じではないからだと思っていた。私だけが、あの頃に戻りたがっている。勝也くんには、ほかに友達がたくさんいる。そう思うと、自分から名前を呼ぶことまで、少しずつ難しくなった。


「……嫌じゃない」


 ようやく言えた。困らなかった。名前で呼んでほしかった。昔みたいに、私へ呼びかけてほしかった。そこまでは続けられず、制服を握る指へ力を込めた。


「うん」


 勝也くんの返事が、今度は少し遅れた。


「俺が、勝手に考えてたんだよね」


 私は、ほんの少し首を振った。私も、聞かずに考えていた。そう言いたかったけれど、まだうまく話せなかった。


「優子も、久しぶりで照れくさいのかなって思ってた。静かになったのも」


 背中に置かれた手が、少し動いた。


「俺、自分がそうだったから。同じなのかなって」


 顔を見せなければ、分からない。話さなければ、伝わらない。


 そんなことは、分かっていたはずだった。でも、どうやって話せばいいのか分からなくなっていた。言いかけてやめることばかり増えて、いつからそうなったのかも、もう思い出せなかった。


「……ごめんなさい」


 また言ってしまった。


 勝也くんが、小さく首を振ったのが分かった。


「優子は、謝らなくていいよ」


 私は、その先を待った。


 勝也くんは、何か言おうとして、1度止まった。喉の奥で、息を飲むような音がした。


「俺……」


 その声が、続かなかった。


 頬に、水が触れた。


 自分の涙だと思った。頬を伝っていたものが、また落ちたのだと思った。


 でも、もう1つ、上から落ちてきた。


 私は、顔を上げた。


 すぐそばに、勝也くんの顔があった。目が、赤くなっていた。頬に残った涙が、顎の方へ流れていた。


 声を出さずに、泣いていた。


「……勝也くん?」


 私が見ていることに気づくと、勝也くんは、少しだけ顔を背けかけた。けれど、私を抱く腕は離さなかった。


「ごめんね」


 かすれた声だった。


「もっと早く、気づけたらよかった」


 私は、その顔を見ていた。


「隣にいたのに。優子が帰ったって、思って……」


 途中で、息が詰まった。勝也くんは1度目を閉じて、それから、また私を見た。


「もっと早く、助けられたらよかった」


 胸の奥で、何かがほどけた。


 泣かないで、と言おうとした。勝也くんが泣くことではないと思った。こんなふうに泣かせたかったのではない。


 でも、その言葉より先に、自分の中から声が出てしまった。


「……怖かった」


 小さな声では、終わらなかった。


 続きを言おうとして、泣き声になった。勝也くんの制服を握り直した。さっき、大丈夫だと言ってくれた。その言葉に縋るように、濡れた胸元へ顔を戻した。


 胸へ顔を押しつけ、泣いた。


 喉が痛くなるような声が出た。少し収まりかけていた嗚咽が、また大きくなった。鼻をすすっても、涙と一緒に溢れてきた。息を吸うたびに声が漏れ、私は制服へ顔を押し当てたまま泣いた。


 あの日のトイレを思い出した。あそこにいる間、早く家に帰りたいと、そればかり思っていた。


「家に、帰りたかった……」

「うん」


 返事があった。


 痛いのも、嫌だった。言ってもやめてもらえなくて、それでも、もうやめてほしかった。何をどう伝えたらいいか分からず、口を開いても泣き声にしかならなかった。


「……うん」


 勝也くんは、私が続きを言えなくても返事をしてくれた。どこで、誰に、何をされたかを聞き返さず、私が言えたところだけを聞いていた。


 背中の手が、またゆっくり動いた。


 泣き止めない私を、そのまま抱いていた。


「助けて、って……」


 言おうとしたことを思い出した。言えなかったことも、言ったのに変わらなかったことも。名前を呼んだら、迷惑になると思った。もし来てくれても、私を見て困るだけかもしれないと思った。


 その人が、今、目の前で泣いていた。


「勝也……」


 呼んだ。最後まで考えてから出した名前ではなかった。小さい頃みたいに、名前だけが口から出た。


「うん。聞いてるよ」


 私は、顔を埋めたまま、何度も頷いた。


 聞いてくれていた。泣き声になっても。同じことしか言えなくても。


 私がこの人の名前を呼ぶことを、誰にも止められなかった。


 勝也の肩が、少し動いた。私を抱き直し、顔が外から見えないようにしてくれた。


「もう、ここで無理に話さなくていいよ」


 耳のそばで、声がした。


「俺、聞くよ。話したくなった時に」


 私は、腕に力を込めた。


 優しい言葉をもらうたび、確かめるように抱きついていた。さっきまで手を伸ばすこともできなかったのに、今は少しでも離れるのが嫌だった。


 勝也が、ここにいる。自分から来てくれた。会えてよかったと、言ってくれた。


 それを、何度も体で確かめた。


 少しずつ、言葉が出なくなった。話したいことがなくなったのではなかった。ただ、泣く方で精いっぱいになっていた。声が収まったかと思うと、また喉が震えた。そのたびに、勝也は背中を撫でてくれた。


 どのくらいそうしていたのか、分からなかった。勝也は急がなかった。門から家までの短い道の途中で、私が泣き止むのを待っていてくれた。足元には、私の物を入れた袋があった。


 学校から、これを持って歩いてきたのだと思った。腕が痛いと言っていたのに、私の物を抱えて、ここまで来てくれた。私が会いたがっているかどうかも、知らなかったはずなのに。


 会いに来てくれた。


 制服へ頬を寄せると、勝也の呼吸が分かった。私の泣き方につられるように、時々、少し詰まった。そのたびに顔を上げたくなったけれど、まだ離れられなかった。背中を支える腕に、少しずつ体を預けた。肩を張っていなくても、ちゃんと受け止めてもらえた。制服越しの温もりが、冷えていた胸の奥までゆっくり届いてくる気がした。


 何か言わなければ。早く泣き止まなければ。そうやって自分を急かしていた気持ちまで、背中を撫でられるたびに緩んでいった。


 ここにいていい。何もできないままでも、こうして抱きしめてもらっていていい。


 こんなに深く、安心できたことはなかった。勝也の腕に包まれている間は、ずっと1人でこらえていたものを、少しずつ預けられた。涙も、震えも、そのまま受け止めてくれる温かさに、胸がいっぱいになった。目を閉じたまま、もう少し頬を寄せた。この腕の中にいると、息をすることまで、少し楽になった。


 小さい頃は、隣の家にいた。今日は遊べるかと聞けば、それで会えた。昨日の続きを、今日もできると思っていた。会わなくなってから、話したいことを思いつくたびに、もうすぐには話せないのだと思い出した。本を読んで面白いところがあっても。ゲームで先へ進めても。一緒だったら、どんな顔をするだろうと考えた。


 そのうち、考えるだけで終わることに慣れた。慣れたから、寂しくなくなったわけではなかった。中学校で会えた時、嬉しかった。何を話せばいいのか分からなくなるくらい、嬉しかった。ほかにも、顔を知っている人はいた。同じ小学校から来た子も、たくさんいた。でも、その中の誰かを見つけた時と、勝也を見つけた時は違った。


 名前を呼んでもらいたかった。私に気づいてほしかった。会わなかった間のことも、これからのことも、少しずつ話したかった。その気持ちを、幼馴染だからだと思っていた。昔、仲がよかったから。ほかの人より、私のことを知っているから。


 それも、本当だった。


 でも、それだけなら、こんなに離れたくならない。こうして抱きしめられていることが、嬉しくて苦しくなるほどではない。背中を撫でる手が止まると、もっと触れていてほしいと思った。名前を呼ばれると、もう1度呼んでほしくなった。顔を上げたら目が合う距離に、このままいたかった。


 誰かに代わってもらいたいとは、思わなかった。


 勝也がいい。


 今だけ、優しくしてくれた人だからではなかった。もっと前から、この人がよかった。公民館で青い糸を選んだ時も。一緒に帰る道で、まだ家に着かなければいいと思った時も。また明日と言って別れる、その少し前に寂しくなった時も。


 小さい頃は、好きと言えた。その言葉を口にする前に、どんな意味で受け取られるかなんて考えなかった。


 今は、同じようには言えなかった。


 同じ言葉なのに、口にしたら何かが変わる気がした。友達としての好きだけではないのだと、自分で分かってしまった。


(好き……)


 顔を伏せたまま、思った。


(勝也が、好き)


 泣いているのに、頬が熱くなった。制服を掴んだ指を見られたら、その気持ちまで分かってしまいそうだった。


 ずっと、好きだった。


 離れていた間も、ほかの誰かになったことはなかった。会えなくなって、何をしているか分からなくなっても、思い浮かべるのは勝也だった。


 その人に、嫌われたと思っていた。


 今、違うと言ってもらえた。私のことを考えて、泣いてくれた。


 それだけで、また涙が増えた。


 大好きだと、言いたかった。けれど、言葉にしようとすると、名前しか出てこなかった。


「勝也……」

「……うん」


 少しかすれた返事だった。私が続きを話さなくても、待っていてくれた。


 このまま、声が落ち着くまで待ってもらっていいのだと思った。今までのように、何でもないと言って離れなくてもよかった。


 門の外で、誰かの話す声がした。


 体が、びくっと動いた。笑い声が1つ混じっただけで、背中が冷たくなった。


 何を話しているのかは、聞き取れなかった。私のことではないかもしれない。ここは学校ではない。


 頭では分かっていても、顔を上げられなくなった。


 勝也の手が、背中で止まった。少しだけ立つ向きを変え、門から私を隠す方へ寄った。


「……通り過ぎたよ」


 しばらくして、そう言った。


 私は、制服を掴んだまま頷いた。声が遠ざかっても、すぐには力を抜けなかった。


 学校へ戻れるかと聞かれたら、まだ何も答えられない。教室へ入るところを思い浮かべるだけで、足が動かなくなりそうだった。勝也を信じられたら、ほかの人の顔まで怖くなくなるわけではなかった。でも、怖い時に、ここへ寄ってもいい。この手を、離さなくてもいい。


 それは、さっきまでとは違った。


 私は、少しずつ息を吐いた。吸い直す時、まだ途中で引っかかった。勝也は、その間も背中に手を置いていた。


 もう少し、近くにいたかった。けれど、長くこうしていたら、困るかもしれない。


 口を開きかけて、また閉じた。


「どうしたの……?」


 顔を覗かれ、私は少しだけ首を振った。いつものように、それで終わらせかけた。


 でも、離れる方へは動けなかった。


「もう、帰る……?」


 小さく聞いた。


 勝也は、私の方を見たまま答えた。


「まだ帰らないよ」


 返事を聞いてから、ようやく、自分が何を聞きたかったのか分かった。


「……このまま、いて」

「うん」


 勝也は、黙って抱き直してくれた。


 私は、また頬を寄せた。お願いしたことが、そのまま届いた。


 庭の木が、風で少し揺れた。門の外の声は、もう聞こえなかった。


    * * 勝也視点 * *


 優子の息が、少しずつ長くなってきた。


 さっきは、吸うたびに声が混じっていた。何か言おうとしても、途中から泣き声になっていた。今は、顔を伏せたまま、俺の制服を掴んでいる。


 俺は、背中に置いた手を動かさずにいた。


 もう少し、このままでいて。そう言われた。


 その声を、聞けてよかったと思った。いつもは、大丈夫だと言われることが多かった。何かしても、ありがとうと、そのあとにごめんなさいが続いていた。


 今は、離れたくないと言ってくれた。


 俺は、優子の肩へ頬が触れないくらいに顔を下げた。短くなった髪が、制服の上に載っていた。


 切ったのだと、戸田が言った。その言い方を思い出しそうになり、目を閉じた。


 ここでまた、あの顔を思い出していたくなかった。今、俺が抱いている優子のことを考えたかった。背中へ回された腕が、少し動いた。片方は、俺の服をしっかり掴んでいた。もう片方は、添えるように触れているだけだった。


 さっきから、何度か気になっていた。


 返事をすると、優子は抱きしめ返してくれた。そのたび、片方の手には力が入った。でも、もう片方は同じようには動かなかった。初めは、立っている向きのせいかと思った。片方の腕が回しにくいのかもしれないと思い、少し体をずらした。それでも、変わらなかった。


 痛いところがあるのかもしれない。


 水曜日、何をされたのかは聞いていた。俺が聞いたことが、全部だとは思っていなかった。それでも、今、すぐに腕を見せてほしいとは言えなかった。泣いている優子を離し、服の下を確かめるようなことをしたくなかった。


 俺は、優子が自分で顔を上げるのを待った。息が落ち着いたように聞こえても、すぐに話しかけなかった。ときどき戻ってくる嗚咽が収まるまで、背中へ手を置いていた。


 やがて、胸元から泣き声が聞こえなくなった。優子が鼻をすすり、ゆっくり息を吐いた。それからもしばらく待っていると、制服を掴んでいた指が緩み、優子が自分から少し体を離した。


 全部、離れたわけではなかった。片方の手は、俺の服に残っていた。


 目が合った。眼鏡の下で、頬が濡れていた。まつげにも涙がついていた。


「……ごめん」


 優子が、俺の胸元を見た。濡れた制服へ指を近づけ、触れる前に止めた。


「大丈夫だよ」


 自分でも見た。裾に残る血の染みとは別に、胸元は優子の涙と鼻水で濡れていた。泣いている間、ずっとそこへ顔をつけていたのだと思うと、汚れたことは気にならなかった。


「帰ったら洗えるから、気にしなくていいよ」


 そう言うと、優子は少し唇を噛んだ。まだ気にしているようだったので、俺はもう1度、顔を見て頷いた。左手で肩紐を外し、リュックサックを足元へ下ろした。優子の指が、また少し強くなった。


「タオルを出すだけだよ」


 右手を体のそばへ寄せたまま、足元のリュックサックを塀に立てかけた。身を屈め、左手で外側のポケットのファスナーを開ける。奥には、まだ使っていない小さなタオルが、畳んで入っていた。優子は制服から手を離さなかった。そのままで出せたので、俺も何も言わなかった。


 タオルを渡すと、優子は片手で受け取った。眼鏡を少し持ち上げて目の下へ当て、それから鼻元もそっと拭った。


「ありがとう……」

「うん」


 俺も、空いた左手の指で自分の頬へ触れた。乾きかけたところへ、また指が濡れた。優子がそれを見て、タオルをこちらへ戻しかけた。


「俺は、あとでいいよ。優子が使ってて」


 優子は少し迷ってから、頷いた。


 学校では、自分がしたことを順に説明できた。戸田と何を言い合ったのかも、自分がどこで腹を立てたのかも。でも、優子に泣きながら怖かったと言われた時には、何を言えばいいのか分からなくなった。みんなで話を聞き、ノートへ書いた言葉を読み返していた時とも、違った。


 帰りたかった。


 俺が、もう帰ったのだと思っていた時に、優子はそう思っていた。そのことを本人の声で聞くと、背中を撫でる手まで止まりそうになった。謝るだけでは、あの日へ戻れない。今、目の前で話してくれたことに、返事をしたかった。


「話してくれて、ありがとう」


 優子の手が、頬のところで止まった。


「ちゃんと、話せてない……」

「聞こえたよ」


 俺は答えた。


「怖かったって。帰りたかったって」


 優子は、タオルを下ろした。その角を持つ指が、少し震えた。


「……うん」


 俺は、もう1度、背中へ左手を添えた。まだそばにいると、分かってもらいたかった。


 優子は、自分から少し近づいた。さっきよりゆっくり、息を吐いた。


 少し落ち着いたのだと思った。


 俺は、体のそばへ戻された腕を見た。袖が、手首の近くまで下がっている。立っているだけなら、さっき感じた違いは分からなかった。


「優子」


 顔を上げてくれるのを待った。


「腕、どうしたの……?」


 できるだけ、静かに聞いた。


 優子の目が動かなくなった。それから、袖口へ落ちた。


「さっき、片方、力が入ってないみたいだったから。痛いのかなと思って」


 俺が言うと、優子はその腕を少し体の後ろへ引いた。俺は、伸ばしかけていた手を止めた。


「無理に、見せなくていいよ」


 優子は、顔を下げた。


 門の外を車が通った。その音が小さくなるまで、返事はなかった。


 聞かない方がよかったのかもしれないと思った。やっと泣き止んだところで、また思い出させたのかもしれない。それでも、気づいたのに見なかったことにするのも違うと思った。俺は急かさず、次の言葉を待った。


「……自分で」


 小さな声がした。袖へ目を落とし、優子はそこで言葉を止めた。


 意味が、すぐには分からなかった。


 自分で。どういうことだろうと思った。


 優子は、俺の制服に残していた手まで、離そうとした。俺はその指を追いかけず、顔を見た。


「木曜日……」


 優子の唇が、震えた。


「死のうと、したの」


 息を、止めた。


 傷つけられた腕だと思った。水曜日のことが、まだ痛むのかと思っていた。


 その次の日の話だった。


 俺が、初めて空いた隣の席を見た日だった。


 優子の指が、制服から離れた。俺は、その動きを見ていた。何か返さなければと思ったのに、声が出なかった。目の前に、優子がいる。さっきまで、俺の名前を呼んでいた。もう少し、このままでいてと言った。


 その優子が、いなくなるかもしれなかった。


 考えた途端、目の前の顔がぼやけた。


 俺は、1度息を吸った。うまく吸えず、もう1度、ゆっくり吸った。


 優子は、俺を見ていなかった。言ってしまったことを取り消すように、肩を小さくしていた。


 俺が黙っていたら、話したことを嫌がられたと思うかもしれない。


 それだけは、違うと伝えたかった。


「……聞いたよ」


 やっと、声が出た。


「話してくれて、ありがとう」


 優子が、少しだけ顔を上げた。


 俺は、袖の下を見なかった。どうやったのかも、尋ねなかった。今、答えてもらう必要はなかった。


 それより、確かめたいことがあった。


「お母さんは、このこと知ってるの……?」


 優子は頷いた。


「お母さんが、見つけて……」


 その先は、声にならなかった。


「病院には、行けた?」


 優子は頷いた。今度は、俺の顔を見て頷いてくれた。


「そっか……」


 俺は、ようやく少し息を吐けた。お母さんは知っていた。病院にも行けていた。傷がそのままにされているのではないと分かって、張り詰めていた体から少しだけ力が抜けた。それでも、すぐに安心したとは言えなかった。木曜日という言葉が、頭の中へ残っていた。


 あの朝、俺は欠席の理由を考えた。風邪かもしれないと思った。教科書のことがあっても、そうでなければいいと思っていた。


 優子は、その時のことを、たった今話してくれた。


 俺は左手を握りかけて、やめた。力を入れていないと立っていられない気がした。でも、優子の前で拳を作りたくなかった。指を開き、自分の膝の横へ下ろした。右手の傷と、血の染みたYシャツの裾が目に入ったが、今は、その痛みより、聞いたばかりの言葉から気持ちが離れなかった。


「今も、痛むの……?」


 優子は、少しだけ頷いた。


「力、入れると……」

「さっき、痛かった?」


 俺が背中へ手を回していたところを思い出した。優子がこちらへ腕を伸ばすたび、無理をさせていたのかもしれなかった。


 優子は首を振った。


「勝也のせいじゃない……」


 急いで言うような声だった。俺は頷いた。


「うん。分かった」


 優子が、タオルを持つ手を見た。白くなっていた指の先から、少しずつ力を抜いた。今は触れられたくないのだろうか。それとも、さっきまでみたいに近くにいたいのだろうか。


 勝手に決めないよう、顔を見ていた。


「……怒らないの?」


 優子が聞いた。


 俺は、少し驚いた。それから、首を振った。


「優子に、怒ってないよ」


 言いながら、声がまた詰まりそうになった。


「びっくりして……すぐ、返事できなくて、ごめんね」


 優子は、目を伏せたまま聞いていた。


「話してくれたことが、嫌だったわけじゃないよ」


 そこまで言うと、優子の口元が歪んだ。また、泣きそうになった。


 俺は、ただ頷いた。泣かないで、と言いたくはなかった。


 お母さんは、このことを知っている。優子を見つけて、病院へも行かせてくれたのだ。学校では、誰もその話をしなかった。今日、主任の先生から聞いた電話の話にも、なかった。


 俺から、すぐに友達へ知らせることではないと思った。みんなが心配しているからといって、優子がやっと口にしたことを、そのまま持って帰っていいわけではなかった。


 今、ここで聞いた。俺に、話してくれた。


 そのことを、ちゃんと受け取りたかった。


 家の方へ、1度目を向けた。庭に面した窓があった。この家の中に、お母さんがいる。水曜日の帰りの様子を見て、学校へ電話をしていたと聞いた。でも、優子が何を話せていて、お母さんがどこまで知っているかは分からなかった。


「お母さんは、いじめのことも知ってるの……?」


 優子は、何も言わなかった。


 さっきは、頷いてくれた。今度は、口を少し開いて、それから閉じた。


 タオルの端を、指で押さえた。目が足元の袋へ動き、すぐに逸れた。


 俺は、そのまま待った。


 お母さんに聞かれても、こんなふうに言葉が出なかったのだろうか。何かを話せていても、続きを言えなかったのかもしれない。どちらか分からないまま、俺は待っていた。足元には、俺が持ってきた物があった。リュックサックの中には、みんなで書いたノートがある。


 誰が何を見たのか。いつ、どこで、何があったのか。優子に同じことを言わせなくても、俺から話せることがあった。


 今まで、そのためにも聞いてきたのだと思った。


 優子の顔を見た。こちらを見ようとして、途中で目が下がった。


「俺から、お母さんに伝えてもいいかな?」


 尋ねると、優子の指が止まった。


「俺が聞いたこととか、見つかった物のこと。優子が今、話せないところは、俺から話せるから」


 優子は、すぐには答えなかった。


 俺は、袋へ手を伸ばさずに待った。もう決めたことのように、家へ向かって歩き出さなかった。


 庭を抜けてきた風で、優子の髪が少し動いた。前髪の間から、濡れた目が見えた。


 小さく、頷いた。


 俺を見て、もう1度頷いた。その途中で、涙が落ちた。


 口元が震え、タオルを持っていた手が下がった。何か言おうとして、言えなかった。


「……うん。分かった」


 俺は答えた。


 それだけで、優子はまた泣き出した。


 こちらへ、1歩近づいた。俺の制服へ、指が触れた。


 今度は、俺も迷わなかった。優子の痛む腕を挟まないように気をつけて、背中へ左手を回した。右の拳は体に当てず、腕でそっと支えた。


 優子が、顔を伏せた。俺の胸へ額を寄せ、息を詰まらせた。


 もう1度、抱きしめた。


「急がなくていいよ」


 声を落として言った。


「落ち着いてから、一緒に行こうね」


 優子は、服を掴んだまま頷いた。無理に両腕へ力を入れなくても、こちらへ寄っていられるように支えた。


 聞きたいことは、まだいくつもあった。知らなかったことが、また1つ増えた。


 でも、今、続きを聞く必要はなかった。


 お母さんへ伝えると決めたからといって、すぐに優子を連れていかなくてよかった。話せるようになるまで待つ時間も、泣き止むまで待つ時間も、ここにあった。


 俺は、優子の背中へ手を置いたまま、息を吐いた。


 顔を上げると、庭に面した窓のそばに、人影が見えた。優子のお母さんだった。


 こちらを見ていた。庭へ続くドアに手をかけ、出てこようとしているところだった。


 俺は、優子を抱いたまま、小さく頭を下げた。自分の腕の中にいる娘を見て、何をしているのかと思ったかもしれない。声をかけようとしたが、胸元で優子の肩が震えた。


 お母さんの目が、優子へ向いた。俺の服を掴んでいる手を見て、それから俺を見た。


 小さく、頷いてくれた。こちらまで急いで来ることはせず、ドアのそばで待っていた。俺は、もう1度だけ頭を下げた。優子が話すつもりになったことを、あとで伝えようと思った。今は、泣いている娘を預けてもらっていた。


 目の前にいることが、さっきより怖いくらい大切だった。その思いを全部言ったら、優子にまた謝らせてしまう気がした。


 だから、今は名前を呼んだ。


「優子」


 肩が、小さく動いた。


「……うん」


 返事があった。


 俺は、その声を聞いて頷いた。学校の空席を思い出す代わりに、背中に触れている手へ意識を戻した。


 優子が、俺の服を握り直した。


 玄関へ続く道は、すぐそこにあった。俺たちはまだ、歩き出さなかった。



今回の登場人物


・鵜飼 勝也

優子の家へ向かう途中で手や服の血を洗おうとするうちに、学校での怒りが静まっていく。再会後は「迷惑だと言っていた」という誤解を解き、自分から歩み寄って優子を抱きしめ、泣き止むまで受け止めた後、母へいじめのことを伝える了承を得る。


・富田 優子

郵便物を取りに出たところで勝也と再会し、ミサンガやこれまでの気遣いを通して、彼への信頼を取り戻していく。涙や鼻水で服を汚すことを気にしながらも、勝也に受け止められて泣き、深い安心と恋心を自覚する。


・優子の母(美和)

自宅で優子を見守っている。庭で勝也に抱きしめられて泣く優子を見つけ、急かさずに待つ。

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