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君の隣が、僕の帰る場所  作者: 玲瓏さん
中学1年生編
36/52

第32話 学校の話


    * * 勝也視点 * *


 水曜日は、体育祭の日だった。朝、春樹たちと教室へ向かっていると、校庭のスピーカーから音楽が聞こえてきた。


 同じ曲の途中で音が途切れ、少しして、もう1度最初から流れた。スピーカーの近くにいた先生が、離れたところの先生へ手を上げている。


 廊下の窓から見ると、白い線の周りには、まだ誰も並んでいなかった。


「もう鳴らしてる」


 翔太が足を止めた。俺も、隣から校庭を見た。


「音、確かめてるんじゃない?」

「朝から始まったかと思った」

「まだ着替えてもないでしょ」


 春樹が後ろから言った。翔太は自分の制服を見下ろし、それもそうか、と歩き出した。


 教室には、体操服の袋や水筒が、いつもより目立っていた。黒板の端に、校庭へ出る時刻が書いてある。


 自分の机へ鞄を置いた。


 隣の席は、今日も空いていた。


 机の横に、体操服の袋はなかった。椅子の背にも、何も掛かっていない。俺はそちらを見てから、鞄の口を開いた。


 昨夜、優子から返事をもらった。


 ありがとう。私も、勝也に会いたい。明日、待ってるね。


 寝る前にも、もう1度読んだ。今日、会ったら、自分の口でも話そうと決めていた。


 リュックサックの内側へ携帯をしまい直し、体操服を出した。


     * * *


 校庭へ出ると、まだ低いところにあった朝の光が、テントの白い屋根を照らしていた。


 春樹と長机の両端を持ち、テントの下へ運んだ。脚が地面へつくのを確かめてから手を離すと、花沢先生が、係の順番を書いた紙を持ってきた。


「鵜飼くん。自分の競技の前には、交代して集合場所へ行ってね」

「はい」


 右手には、まだ傷の跡が残っていた。けれど、指を曲げても力を入れても、もう痛みはまったくなかった。俺は紙を受け取り、短距離走と、午後の組体操や綱引きの時刻を確かめた。


「ここで案内する時は、この順番ね。分からなくなったら、私か、あちらの先生に聞いて」

「分かりました」


 紙の端を揃え、風に飛ばないよう、机の上の箱を重ねた。


「そこの椅子、あと2つやって」


 宣仁が、テントの外から言った。俺が顔を上げる前に、近くの男子が立ち上がった。


 宣仁も1脚持ってきた。置いてから、俺の手元を見た。


「そっちは、足りてる?」

「うん。ありがとう」

「ほな、向こう行ってくるわ」


 また呼ばれ、振り返って小走りになった。


 体育委員の仕事は、まだ始まる前から多かった。追いかけて手伝いたくなったが、机へ目を戻した。ここを頼まれていることを忘れて、どこかへ行くわけにもいかなかった。


 集合の放送が入った。


 友達と並んで校庭へ出てくる人たちを見た。隣へ顔を向けながら話す人も、前の人へ追いつこうと走る人もいた。


 昨日のお父さんの声が、少しだけ頭へ戻った。


 もし学校へ戻る日が来たら。


 今日、優子は家にいる。俺がこのあとどこへ立つのか、何をするのかも、ここからは見えない。


 夕方、会ったら、何から話そう。


 開会の放送が始まり、俺は、手に持っていた紙を折らずに机へ置いた。


     * * *


 午前中は、種目が進むたびに、人の流れが変わった。


 並ぶ場所を確かめに来た生徒へ紙を見せ、渡された結果の用紙を先生へ届けた。自分のクラスの席へ戻れる時には、水筒を持って座った。


「俺、次」


 翔太が、目の前へ来て言った。


「うん。見てるよ」

「ちゃんと見とけよ」


 そう言ってから、少し走り、戻ってきた。


「何?」


 聞くと、翔太は俺の横へ手を伸ばした。


「水筒、忘れた」


 飲むために戻ったらしかった。蓋を開け、勢いよく飲んでから、今度こそ集合場所へ向かった。


 春樹が、その後ろ姿を見ていた。


「走る前から忙しいね」

「うん」


 俺は、翔太の置いていった水筒を、倒れないところへ寄せた。


 走る組が呼ばれた。


 翔太は線の手前で足元を見てから、顔を上げた。こちらを見つけたらしく、片手を上げた。


 俺も左手を上げた。


 合図が鳴ると、翔太は前へ飛び出した。


 手を振っていた時とは、顔が違った。腕を大きく振り、隣の人へ少し遅れながら、最後まで走った。


 2位だった。


「速かったね」


 戻ってきた翔太へ言うと、息を切らしたまま、俺の方を向いた。


「あとちょっとだった」

「うん」

「ほんとに、あとちょっと」


 指で幅を作った。春樹が、その手を見た。


「それよりは、あったと思う」

「今、正確さ求めてねえんだよ」


 翔太は、もう1度水筒を取った。笑いながら蓋を閉めようとして、少しずれた。


 今のやり取りも、優子に話したら、笑うだろうか。


 そう思ってから、俺は、校庭へ顔を戻した。


 しばらくして、自分の組も呼ばれた。水筒を置いて立ち上がると、翔太が背中へ声をかけた。


「今度は俺が見てるからな」

「うん。行ってくる」


 集合場所で順番を待ち、呼ばれた線の前へ立った。靴の先を置く位置を確かめる。顔を上げると、ゴールの向こうで先生が手を上げていた。


 合図と同時に、地面を蹴った。


 隣の人が視界の端にいた。腕を振り、前へ足を出す。途中からその姿が見えなくなっても、走る速さは緩めなかった。


 ゴールを抜け、少しずつ足を止めた。息を吐いて振り返ると、先生が1位の場所を示してくれた。


 胸が上下していた。汗を袖で拭い、クラスの方を見る。翔太が、両手を大きく上げていた。


「やっぱ速いな、お前」


 戻ると、翔太が水筒を寄せてくれた。


「途中、抜かれるかと思った」

「抜かれてないじゃん。俺は、あとちょっとだったのに」

「それは、さっき聞いたよ」


 春樹に言われ、翔太が笑った。俺も笑いながら水を飲んだ。座ってからも、脚には走った感覚が残っていた。


     * * *


 昼休みには、日陰のあるところへ集まった。


 翔太は、弁当の蓋を開けてすぐ、まだ足が重い、と言った。春樹に、午後もあるよ、と返されると、分かってる、と大きく頷いた。


 真弓と綾香も近くへ座った。


 俺も、弁当箱を膝の上へ置いた。2段を分けて蓋を開けると、隣で翔太がこちらを見た。


「お、肉じゃん」

「うん。焼き肉」


 上の段には、ご飯の上へ焼いた肉をのせ、タレをかけてきた。肉の端を箸で持ち上げると、その下のご飯にも、茶色いタレが染みていた。


 翔太の目が、もう1つの容器へ移った。


「……待って。そっちもご飯?」

「こっちは、カニカマの炒飯」

「上がおかずで、下がご飯のやつだろ、それ!」

「肉も、ちゃんとのってるよ」

「その下にも、ご飯があるけどね」


 春樹が言った。真弓も覗き込み、2つの容器を見比べた。


「ほんとだ。焼き肉丼と炒飯だ」

「どっちも食べたかったから」

「お弁当箱、2つ持ってきたのと変わらないじゃん」


 笑いながら、真弓が言った。綾香は、肉の方を見ていた。


「これ、勝也が作ったの?」

「うん。朝、肉を焼いた。炒飯は、昨日の夜に作ったやつ」


 昨夜、家へ帰ってからまた腹が減り、カニカマを入れた炒飯を作った。多めに作った残りを、今朝、弁当箱へ詰めてきた。


「朝から焼き肉かあ」

「焼くだけだから、そんなにかからないよ」


 肉と、その下のご飯を一緒に口へ運んだ。冷めても、タレの味がしっかりついていた。翔太はもう1度、下の段まで見てから、自分の弁当へ目を戻した。


「俺の弁当が、急に小さく見えるんだけど」

「翔太のも、結構大きいよ」


 春樹が答え、綾香が笑った。


「そういえば、次、何時からだっけ」


 真弓が聞くと、綾香が、折ったプログラムを開いた。


「休憩終わってから、そんなにないよ」

「じゃあ、ゆっくりしてられないじゃん」


 そう言いながら、真弓は水筒を置いた。綾香の紙を覗き、指で順番をたどった。


「暑い?」

「暑い」


 綾香は即答した。


 翔太が、自分の頭の上を見た。


「ここ、日陰じゃん」

「校庭の話」

「ああ」


 真弓が笑った。


 宣仁は、少し遅れて来た。座る前に水を飲み、ようやく弁当を開いた。


「やっと食べられる」

「ずっと動いてたもんね」

「さっき、向こうまで取りに戻った物、元の机にあってん」

「え?」

「運んだ人と、持ってくるように言うた人が、行き違い」


 翔太が、箸を止めた。


「じゃあ、お前が歩いてる間に、向こうから来てたってこと?」

「そういうこと」


 宣仁も、少し笑った。俺は上の段を食べ終え、炒飯の方へ持ち替えた。


 箸を入れ、端からほぐそうとした。思ったより大きな塊が持ち上がり、慌てて容器の中へ戻した。カニカマの混じった炒飯は、弁当箱の角の形をしたままだった。


「……それ、炒飯やんな?」


 宣仁が、箸を持ったまま俺を見た。


「うん」

「何で、そんな固まってるん?」

「ちょっと押して詰めたから」

「ちょっと?」


 春樹が、俺の手元を見た。俺がもう1度箸を入れて崩すと、詰まっていた米がほぐれ、容器の縁より高くなった。


「待って、増えてない?」

「ほぐしただけだよ」


 真弓へ答えると、綾香が口元を押さえた。


「どれだけ押し込んだの」

「普通に入れたら、蓋が閉まらなくて」

「入らない分を残そうとは、思わなかったんだ」

「押したら入ったから」


 翔太が、声を出して笑った。


「男らし過ぎるだろ、その弁当!」

「まだ入ってるで。下の方、ぎっしりやん」


 宣仁に言われ、上の方だけ崩した炒飯を見た。確かに、底の方はまだ固まっていた。箸で少しずつほぐしながら食べると、春樹が、見た目より多いんだね、と言った。


「午後の途中で、お腹空くの嫌だし」

「それだけ食べて、まだ空いたらびっくりするよ」


 綾香が笑った。俺も笑って、崩れた炒飯を口へ運んだ。


 宣仁の仕事の話や、午後の種目の話を聞いているうちに、下の段も空になった。最後に残った米を箸で集め、2段を重ねると、真弓が俺の弁当箱を見た。


「ほんとに全部食べた」

「うん。ごちそうさま」


 蓋を閉じ、鞄へしまった。


 隣から聞こえる話を聞きながら、たまに口を挟む。誰かが言ったことで笑い、次の種目の話になる。


 学校で、こういう時間を過ごしている。


 優子に、普段どんなことをしているのかと聞かれた時、ゲームや本や、作っている物の話をした。でも、それだけではなかった。


 何を話したか、帰る頃には少し忘れているような時間も、毎日の中にあった。


 優子とも、こうして昼ご飯を食べられたらと思った。


 急にそんなことを考え、膝の上の鞄へ目を落とした。ここに来ればすぐ同じように過ごせる、と簡単には言えなかった。


「勝也」


 呼ばれ、顔を上げた。


 真弓が立ち上がっていた。


「見てるなら、ちゃんと最後まで見ててよ」

「うん。組体操で呼ばれるまでは見てるよ」

「じゃあ、呼ばれるまでは、ちゃんとね」


 綾香も、プログラムをしまった。


「翔太みたいに、途中でこっちへ手を振らなくていいから」

「俺、途中では振ってないだろ」

「走る前は振ってたね」

「それはいいじゃん!」


 真弓が笑いながら歩き出した。綾香もついていった。


 午後の放送が、少し大きな音で入った。


     * * *


 ダンスの列が広がると、さっきまで空いていたところへ、一斉に色が増えた。


 真弓は、隣の人との間隔を確かめ、前を向いた。綾香は、少し離れた列にいた。


 曲が始まった。


 練習の音は、校舎の中でも聞いていた。でも、全部の列が同じ向きへ動くところは、こうして離れて見た方が分かった。


 最後に布が上がり、風で端が揺れた。


 俺は左手を上げかけ、下ろした。さっき綾香に言われたことを思い出した。


 礼が終わってから、ようやく手を上げた。真弓がこちらへ気づき、笑って返した。


 男子の集合がかかり、俺も立ち上がった。春樹と翔太について校庭の端へ向かうと、宣仁が、練習で決めた位置に並んでいた。


「のりちゃん、お待たせ」

「うん。次、こっちからやな」


 頷き、前の列が動くのに合わせて校庭へ出た。さっきまで座っていたクラスの席が、今度は正面に見えた。


 笛が鳴った。


 腕を上げ、次の合図で姿勢を変えた。地面へ手をつくと、掌に細かい砂がついた。練習で覚えた順番を確かめながら、宣仁と呼吸を合わせた。


 2人組の演技では、俺が下になって宣仁を支えた。重みを受け止めると、脚にも力が入った。上で腕を広げた宣仁を、合図までそのまま支えた。


 笛の音を聞き、宣仁が下りたのを確かめてから腕を下ろした。息を整え、次の位置へ移ろうとした時、すぐ隣にいた春樹が、顔を横へ向けて大きく息を吐いた。


 眉間にしわが寄り、口元にも力が入っていた。翔太を支えていた場所から、少し離れようとしている。


 重かったのだろうか。どこか痛くなったのかもしれなかった。


 翔太が何かを言った。春樹がゆっくりそちらを向くと、翔太は、それ以上話さなかった。


「勝也、次やで」

「うん」


 宣仁へ顔を戻し、練習どおりの位置へ動いた。春樹に聞くのは、演技が終わってからにしようと思った。


     * * *


「春樹、大丈夫?」


 演技を終えて一緒に戻ったところで聞くと、春樹は俺を見た。


「何が?」

「途中、苦しそうだったから。サボテンが終わったあと」


 春樹の目が、俺から翔太へ移った。


 翔太は、水筒の蓋を開けていた。急に、とても丁寧に回しているように見えた。


「体調は、悪くないよ」


 春樹は静かに言った。


「翔太が、僕の顔の前で屁こいた」


 俺は、口を開けたまま止まった。


 翔太も、蓋を回す手を止めた。


「……あの時?」

「そう。あの時」

「わざとじゃないって」


 翔太が、すぐに言った。


 春樹は頷いた。


「わざとだったら、もっと怒ってる」


 それで、さっきの顔を思い出した。


 両手で翔太を支えていたから、顔をそらすこともできなかったのだろう。演技が終わった途端、横を向いて息を吐いた理由が、やっと分かった。


 俺は、口元へ左手を当てた。


「ごめん。いや、具合悪いのかと思って」

「僕も、具合悪くなるかと思ったよ」

「力入れたら出ちゃったんだって。あそこで我慢しようとは思ったんだよ」


 春樹は、自分の両手を少し上げた。


「僕、両手使ってるから。鼻もつまめないし」

「うん……」

「合図まで下ろせないし」


 翔太の声が小さくなった。


「ちゃんと謝ったじゃん」

「『ごめん、今の俺』って言われた」

「言った」

「知ってるよ。ほかに誰がいるの」


 そこで、笑いをこらえられなくなった。


 肩を揺らしていると、真弓が、どうしたの、と来た。綾香も足を止めた。


 春樹が、短く説明した。


 真弓は、一瞬黙ったあと、声を上げて笑った。


「ちょっと待って。あの、翔太が腕広げてた時?」

「そう」

「翔太、すごい顔してたじゃん。ちゃんと決まった、みたいな」

「決まってはいたんだよ!」


 春樹が、隣から言った。


「こっちは息止めてたけどね」


 真弓が、また笑った。


 綾香は翔太を見て、少しだけ目を細めた。


「最後まで支えてもらえて、よかったね」

「それは、ほんとに思ってる」


 翔太が頷くと、春樹も、とうとう笑った。


 遅れて来た宣仁が、何の話かと聞いた。翔太は、もう説明しなくていい、と手を振った。


 余計に聞きたくなる言い方だった。


 俺は笑いながら水筒を取った。さっきは心配していたのに、今は、春樹の顔を思い出すたび、口元が緩んだ。


 優子にも、話そう。


 昨日、翔太の声をまねたら、笑ってくれた。今日のことを全部同じように見せることはできなくても、どんなことがあったかは話せる。


 水を飲み、まだ笑っているみんなへ顔を戻した。


     * * *


 綱引きの集合がかかると、俺たちも校庭へ出た。綱の前へ並び、両手で握って、靴の位置を直した。


 開始の合図で、一斉に体を後ろへ倒した。


「せーの!」


 前の方から声が聞こえた。俺もそれに合わせて力を込める。少し動いた綱が、また相手の方へ引かれた。足を踏ん張り直すと、隣から翔太の大きな声がした。


 引いている間は、優子へ何を話すかも、次の係の仕事も、頭から抜けていた。前へ滑りそうになる靴を止め、みんなと同じ声を出していた。


 終わりの笛が鳴った時には、腕も脚も重くなっていた。綱を置き、肩で息をしながら春樹と顔を見合わせた。


「疲れたね」

「うん。足、すごいことになってる」


 春樹の靴も、俺の靴も、砂で白くなっていた。翔太は、声を出しすぎた、と言って水筒を探していた。


 最後のリレーが終わる頃には、校庭の白い線が、朝より薄くなっていた。


 閉会式のあと、椅子を戻す人と、テントを片づける人に分かれた。俺は春樹と長机を運び、係で使った紙や筆記用具も箱へ戻した。


 さっきまで同じ場所から聞こえていた放送が、もう聞こえなかった。


「鵜飼くん、係の仕事もありがとう。お疲れさま」


 花沢先生へ箱を渡すと、そう言ってもらえた。


「はい。ありがとうございました」


 頭を下げて、教室へ戻った。


 体操服を着替えている時、首の後ろに少し砂がついていた。タオルで払った。腕を上げると、思っていたより肩が重かった。


 机の中を確かめ、リュックサックを背負った。


 みんなと挨拶をして昇降口へ向かった。部活のない校庭からは、まだ、片づけをしている人の声がした。


 校門を出てから携帯を開いた。


 体育祭、終わったよ。今から行くね。


 送信すると、ほどなく返事が来た。


 お疲れさま。待ってるね。


 画面を閉じた。


 昨日の話をしようと思った。今日、笑ったことも、聞いてもらいたかった。


    * * 優子視点 * *


 インターホンが鳴り、私はソファから立ち上がった。


 お母さんが門を開ける間、玄関で待った。近づいてくる足音は、いつもと同じだった。


「こんにちは」


 扉の向こうに、勝也がいた。


 制服だった。でも、顔を見た時、少しいつもと違うと思った。


 髪が、少しだけ乱れていた。頬も、朝から家にいた私とは違う色に見えた。


「……お疲れさま」

「うん。ありがとう」


 勝也が笑った。


 その顔を見てから、昨夜の言葉が、胸の中へ戻ってきた。


 俺も、優子と離れたくないよ。


 何から言えばいいか、待っている間に考えていた。それなのに、勝也の顔を見ると、うまく出てこなかった。


「疲れた……?」

「少し。でも、大丈夫だよ」


 お母さんが、先に手を洗っておいで、と言った。勝也が頷いて洗面所へ向かう。私は廊下で待ち、戻ってきた勝也と一緒に居間へ入った。


 ソファの隣へ座ってくれた。


 リュックサックを下ろした勝也の右手へ、目が向いた。傷の跡は、まだ残っていた。


「手は……」

「もう全然痛くないよ。今日は、競技にも出たよ」


 私は頷いた。


 お母さんが麦茶を持ってきた。勝也は礼を言って飲んだ。いつもより、喉が動く回数が多かった。


「おかわりもあるからね」

「ありがとうございます」


 コップを置いてから、勝也がこちらを向いた。


「昨日、連絡、ありがとう」


 私は膝へ目を落とした。


「……私も」

「うん」

「嬉しかった」


 そこまで言うと、声が小さくなった。


 お母さんは、私たちの前へお菓子の皿を置き、台所へ戻った。水の流れる音がした。


 勝也は急かさず、私を見ていた。


「お父さんから……聞いた?」

「うん。引っ越しのことも、話したって」


 頷いた。


 勝也の制服の袖が、すぐ隣にあった。指を伸ばしかけて、自分の膝へ戻した。


「……嫌って、言ったの」

「うん」

「また、離れるのは……嫌で」


 勝也は、少し体をこちらへ向けた。


「俺も、嫌だよ」


 顔を上げた。


「また引っ越して、今みたいに会えなくなるのは、寂しい」


 昨日、画面で読んだ言葉と同じ気持ちを、あの声で聞いた。


 私は、唇を結んだ。


「……お父さんに、頼まれたから?」


 聞きたいわけではなかったのに、口から出た。勝也は首を振った。


「頼んでもらう前から、今日も来るつもりだったよ」

「うん……」

「優子と話したいから来てるんだ。お父さんにも、そう言った」


 勝也の顔を見ていた。


 すぐ返事をしたかった。でも、声を出すと、泣いてしまいそうだった。


「中学でまた会えた時も、嬉しかったよ」


 勝也が続けた。


「昔みたいに、すぐ遊ぼうって言えたらよかったんだけど。なんか、照れくさくて」

「……勝也も?」

「うん」


 少し笑った。


「本の話なら、できるかなって思ってた。優子が読んでる本、俺も気になるし」


 教室で、何を読んでいるのかと聞かれた時のことを思い出した。


 答えたあと、もっと何か言いたくても、言葉が出てこなかった。次に話しかけてもらえるまで、聞きたいことを忘れないようにしていた。


 勝也も、もっと話したいと思ってくれていた。


「今は、優子の方から聞いてくれるでしょ。俺が何してるかとか、何が好きかとか」

「……うん」

「それも、嬉しいよ」


 袖へ手を伸ばした。


 少しだけ、布をつまんだ。勝也の目が、そこへ下りた。それから、また私を見た。


「だから、また来てって言ってくれていいんだよ」


 頷こうとして、少し涙がこぼれた。


 勝也が、机の上のティッシュを取ってくれた。受け取って、目元へ当てた。


「ごめん……」

「ううん」


 勝也は、そのまま隣にいた。


 何も言わない時間にも、帰る支度を始めたりはしなかった。それを確かめるように、私は袖をつまんだままでいた。


「私も……もっと、話したかった」

「うん」

「学校で……会えたの、嬉しかったの」


 言うと、勝也が頷いた。


「俺も」


 何度も、同じことを確かめているのかもしれなかった。でも、今は、何度聞いても嬉しかった。


 もう1度離れるのが嫌だと思っているのが、私だけではない。


 そのことを、言葉にして教えてもらえた。


 私は涙を拭き、少し息を吐いた。


「……明日も、来て」

「うん。行くよ」


 返事をもらってから、ようやく、少し笑えた。


     * * *


 勝也が、空になったコップへ目を向けた。


 お母さんに声をかけようとした時、ちょうど台所から戻ってきた。麦茶を足してくれて、勝也が、ありがとうございます、と頭を下げた。


 その横顔を見て、私は、さっきから聞きたかったことを思い出した。


「……体育祭」

「うん?」

「どうだった?」


 勝也は、コップを置いた。


「面白いこと、あったよ」


 言ったところで、もう少し笑っていた。


 私は、つまんでいた袖を離さず、顔を上げた。


「翔太が走って、2位だったんだ」

「速いんだね」

「うん。あとちょっとで1位だったって言ってた」

「……あとちょっと?」

「本人は、このくらいって」


 左手で、指の間を少し開けた。


「春樹には、もう少しあったって言われてた」


 私は笑った。勝也も笑って、続きを話した。


 真弓ちゃんと綾香ちゃんのダンスのこと。最後に布を上げた時、風で端が揺れたこと。荒川くんが、準備や片づけで、あちこちへ行っていたこと。


 私は、その名前を聞くたび、教室で見た顔を思い浮かべた。


 勝也は、紙を持っていろいろな人へ順番を伝えたり、先生へ届けたりしていたらしかった。


「勝也も、忙しかった?」

「動いてる時はね。でも、座って見られる時間もあったよ」

「走ったりは……」

「うん。短距離走も出たよ。俺の組では、1位だった」


 顔を上げた。勝也は、少し照れたように笑っていた。


「……すごい」

「小さい時も、よく走ってたでしょ」


 頷いた。先に走っていって、振り返って待ってくれた姿を覚えていた。今の勝也が走るところも、見てみたくなった。


「午後は、のりちゃんと組体操に出て、そのあと綱引きもした。終わったら、靴が砂だらけになってたよ」


 勝也は自分の足元を見て、笑った。競技に出て、友達の応援もして、係の仕事もする。私が家で待っていた間に、いろいろなことがあったのだと思った。


 そこで、勝也が少し前へ体を傾けた。


「組体操の時にさ、春樹が、すごい顔になってたんだ」

「……春樹くんが?」

「うん。翔太を支え終わったあと。隣を見たら、苦しそうにしてて」


 勝也が、少し眉を寄せた。


 いつもと違う顔になった。何かを我慢しているみたいに口を閉じ、顎を引いている。


「こんな感じで」

「……重かったの?」

「俺も、そう思った。具合悪くなったのかなって」


 私は、勝也の顔を見た。


 もう、笑いそうになっていた。


「終わってから、大丈夫って聞いたら」

「うん」

「翔太が、顔の前でおならしたって」


 少しの間、意味が分からなかった。


「……おなら?」

「うん。春樹、翔太を支えてるから、両手が離せなかったんだって」


 さっきの顔を、もう1度思い浮かべた。


 重かったのではなかった。


 私は、口元へ手を当てた。


「翔太も、上で謝ったらしいんだけど」

「うん……」

「『ごめん、今の俺』って」


 勝也が、そこで笑った。


「春樹が、『知ってるよ。ほかに誰がいるの』って」


 息が漏れた。


 勝也も笑っていたので、余計に止められなかった。


「だって……すぐ、そこに」

「うん。いるからね」


 勝也の肩が揺れた。


 私は、少し俯いた。さっき目元へ当てたティッシュを、今度は口の前へ持っていった。


「……苦しかった、よね」

「春樹は、最後まで支えたよ。終わるまでは下ろせないからって」

「偉い……」

「うん。翔太も、そこは、ちゃんとありがとうって思ってたみたい」


 お母さんが、台所の入口で笑っていた。


「そんなことがあったの?」

「はい。最初、体調が悪いのかと思って、心配したんです」


 勝也は、お母さんにまで説明しながら、また笑った。


 私も、口元を押さえたまま頷いた。


 学校で、そんなことがあった。


 私は見ていなかった。でも、勝也が春樹くんの顔をまねると、どんなふうだったのか、少し分かる気がした。


「……勝也も、笑ってた?」

「うん。みんなで笑っちゃった」


 その、みんなで、というところを、私は頭の中でもう1度聞いた。


 真弓ちゃんは、きっと大きな声で笑ったのだろう。翔太くんは言い返して、春樹くんは、さっき勝也がまねたような落ち着いた声で答えたのかもしれない。


 そこにいる勝也の顔は、今、隣で笑っている顔と似ているのだろうか。


「……見たかった」


 小さく出た言葉に、自分で少し驚いた。


 勝也が、こちらを見た。


「春樹の顔?」

「うん……それも」


 それ以上、うまく続けられなかった。


 勝也が友達と笑っているところを、私も近くで見たかった。教室では、離れたところから、顔を向けることしかできない時が多かった。


 でも、そこへ行くことを考えると、胸の奥が少し狭くなった。


 私は、勝也の袖を、もう1度つまんだ。


 勝也は急に学校へ誘ったりせず、私の手を見てから、柔らかく笑った。


「また、面白いことあったら話すね」

「……うん」


 今は、その約束が嬉しかった。


     * * *


 夕飯の時、お父さんが帰ってきた。


 勝也は、箸を置いて挨拶をした。それから、昨日は送っていただいてありがとうございました、と頭を下げた。


「うん。今日は、体育祭だったんだね」

「はい」

「手は、大丈夫だった?」

「はい。もう痛みもなくて、競技にも普通に出られました」


 お父さんは頷いた。


 私は、勝也の隣で、お茶碗を持っていた。昨日、2人がどんなふうに話していたのか、少しだけ想像できる気がした。


「何か、面白いことはあった?」


 お父さんが聞いた。


 勝也が、私を見た。


 私は、口を結んだ。もう1度聞いたら、また笑ってしまいそうだった。


「……優子、話す?」

「私……?」

「聞いてたから」


 お父さんが、私の方へ顔を向けた。


 私は、お茶碗を置いた。


「勝也、走って……1位だったんだって」


 お父さんが、勝也へ顔を向けた。


「そうなの。速いんだね」

「自分の組で、ですけど」


 勝也が少し笑った。私は頷いて、続きを話した。


「翔太くんは、2位で……あとちょっとだったって」

「うん」


 お父さんは、続きを待っていた。


 最後まで話せるか分からなかったけれど、勝也が隣で頷いてくれた。


「組体操の時に、春樹くんが……」


 そこまで言って、少し笑ってしまった。


 勝也も、口元を緩めた。


 私が途中で言葉に詰まると、勝也が、見ていた時のことを足してくれた。お母さんは、先に聞いた話なのに、また笑った。


 家にいた日の夕飯で、学校で起きたことを話している。


 私は、その途中で、隣の勝也を見た。


 今度は、お父さんへ向けて、春樹くんの顔をまねていた。


 私は、また笑った。


    * * 勝也視点 * *


 翌日の木曜日、校庭には、昨日の線が少しだけ残っていた。


 窓から見える景色は、いつもの学校に戻っていた。テントも長机もなく、体育の授業を受けている生徒が、離れたところで並んでいた。


 俺は、黒板からノートへ目を戻した。


 昨日、優子は、お父さんへ体育祭の話をした。


 途中で笑ってしまい、俺の方を見た。その続きを一緒に話している間、優子は、ずっと隣にいた。


 学校であったことを話せた。


 そう思うと嬉しかった。でも、今日は空いている席を見て、昨日と同じだとも思った。


 ここでも一緒に笑えたらいい。


 それを、そのまま優子へ言っていいのかは、まだ分からなかった。


     * * *


 帰りの会で、花沢先生が、翌日の学活について話した。


「明日は、林間学校の活動班を決めます」


 教室の後ろで、椅子が小さく鳴った。


 翔太が春樹へ顔を向けた。俺も、黒板の横に貼ってあった予定へ目をやった。


 10月下旬。2泊3日。


 まだ先だと思っていた行事が、明日の授業で決めることになっていた。


「男子と女子、それぞれで班を作って、そのあと先生たちが組み合わせます。細かいことは明日、説明しますね」


 帰りの会が終わり、鞄へノートを入れたところで、花沢先生に呼ばれた。


「鵜飼くん。少し、話してもいい?」


 頷き、教卓の前へ行った。


 先生は、ほかの生徒が帰る支度をしている方を見てから、声を少し落とした。


「林間学校の班のことで、相談したいの」


 俺は、先生の持っている紙を見た。


「富田さんが参加できることになったら、鵜飼くんと同じ班で過ごせるように、準備しておきたいと思ってる」

「……同じ班に、してもらえるんですか」

「うん。参加するかどうかや、必要なことは、ご本人やご両親と相談して決めるけれど。班を決めるのが先だから、戻ってきてから入る場所に困らないようにしておきたいの」


 俺は、もう1度、紙へ目を落とした。


 優子が戻るのを待ってから、空いているところを探すのではなかった。


 そのことを確かめたくて、顔を上げた。


「まだ、学校に来られる日が決まってなくても、いいんですか」

「もちろん。名前を入れたから来なければいけない、ということにはしないよ」


 先生は、机の上へ紙を置いた。


「鵜飼くんは、同じ班で一緒に過ごせそう?」

「はい。富田のお父さんとお母さんにも、学校ではそばにいてほしいって頼まれてます。俺も一緒にいたいので、同じ班にしてもらえたら嬉しいです」


 すぐに答えた。


 先生は頷いてから、春樹たちを呼んだ。翔太は、鞄を持ったまま来た。真弓と綾香も、帰りかけていたところで足を止めた。


「明日の班決めの前に、5人へ相談しておきたいことがあるの」


 先生が説明すると、翔太は、自分たちを順番に見た。


「俺らと、富田さん?」

「そう。活動班を、この6人で考えているの。参加できることになった時に、一緒に過ごせるように」

「俺は、いいです」


 春樹も頷いた。


「僕も、大丈夫です」


 真弓が、少しだけ考えてから口を開いた。


「私、富田さんとは、まだ、そんなに話したことないんですけど」

「うん」

「同じ班になるのは、いいです。最初から、いろいろ聞いたりしない方がいいのかなって」


 先生は、真弓を見た。


「今、何を話せるかは、富田さんにも確かめながら考えようね。まずは同じ班で過ごせるようにしておいてもらえたら、助かるわ」

「はい」


 綾香も頷いた。


「私も、この班で大丈夫です」


 みんなの返事を聞いてから、先生が紙へ書き込んだ。


 俺は、その手元を見ていた。


 鵜飼。鶴見。鳥居。


 加藤。井上。


 最後に、富田、と書かれた。


 まだ学校へ来られなくても、その名前が、ここにはあった。


「ありがとうございます」


 俺が言うと、先生は顔を上げた。


「班の組み方は、明日、私から説明するね。ご両親にも、こういう準備をしていることを伝えます」

「はい」

「詳しい活動や、宿泊の相談は、また別に。今日は、ここまでにしておこうか」


 頷いた。


 どうすれば優子が来られるのか、全部決まったわけではなかった。けれど、戻ってから探さなければいけないものが、1つ減った。


 鞄を取りに机へ戻ると、宣仁が、近くの男子と話していた。


 こちらへ気づき、片手を上げた。


「決まった?」

「うん。明日、先生が話してくれるって」


 宣仁は頷いた。


「俺、こっちで組むことになったから」

「そうなんだ」

「一緒にやろって言うてもらってて」


 隣の男子へ目を向けた。その人も、俺へ軽く頷いた。


 俺は、宣仁へ顔を戻した。


「のりちゃん、ありがとう」

「何が?」

「班のこと」

「ええよ。別の班でも、話くらいするやろ」


 そう言って笑った。


 俺も頷いた。林間学校へ行ったら、ずっと別々になるわけではなかった。


 鞄を持ち上げ、みんなに挨拶をした。


     * * *


 その日も、優子の家へ行った。


 班の話をどこまで伝えるか迷い、先にお母さんへ、先生から話があると思います、とだけ伝えた。


「班を先に決めるので、もし参加できたら、同じ班で過ごせるようにしてくださるそうです」


 お母さんは頷いた。


「そう。教えてくれてありがとう。私からも、先生と話してみるね」


 居間へ戻ると、優子が、貸していた本を膝へ置いていた。


「……何か、学校のこと?」

「うん。明日、林間学校の班を決めるんだって」


 優子の指が、本の端で止まった。


 俺は、すぐに続けた。


「優子も参加できたら、俺と同じ班にしてくれるって。まだ、行くかどうかは、決めなくていいそうだよ」


 優子は俺を見た。


「……勝也と?」

「うん。ちゃんと決まったら、また話すね」


 頷いたあと、優子は本へ目を下ろした。


 すぐに次の話をしようとはせず、隣へ座った。机の上には、お母さんが入れてくれたお茶があった。


 優子の手が、俺の袖へ近づいた。


 そのまま、少しだけ布をつまんだ。


「……同じ、なんだ」

「うん」


 声は小さかった。でも、俺に聞こえるように言ってくれた。


 優子が本の栞を指したので、一緒にそこを開いた。


 その日は、林間学校の話を、そこまでにした。


     * * *


 金曜日の学活が始まると、花沢先生は、黒板へ班の作り方を書いた。


 男子4人。女子4人。


「最初に、それぞれ4人の班を作ります。そのあと、男子の班と女子の班を組み合わせて、8人の活動班にします」


 教室のあちこちで、近くの人へ顔を向ける動きがあった。


 先生は、チョークを置いた。


「組み合わせは、先生たちが決めます。宿泊の部屋については、活動班とは別に、あとで説明しますね」


 翔太が、俺たちへ小声で言った。


「先に勝手に決めたら駄目ってことか」

「昨日、もう決まったでしょ」


 春樹が答えた。翔太は、そうだった、と顔を戻した。


 先生が、別の紙を持ち上げた。


「事前に相談した班は、こちらの名簿で進めます。それぞれの班で、確認をお願いします」


 俺たちのところへ、1枚の紙が来た。


 勝也、春樹、翔太、真弓、綾香、優子。


 6人の名前が並んでいた。


 先生が調整すると言ってくれた時と、同じ組み合わせだった。


 紙を机の中央へ置いた。翔太が椅子を寄せ、春樹も、隣の机との隙間を詰めた。真弓と綾香が、前の席から向きを変えた。


 優子の席は、すぐ横にあった。


 紙の上では、そこも空いていなかった。


「ここに、班長と副班長を書くのね」


 真弓が、下の欄を指した。


「俺、班長やる」


 翔太が、すぐに言った。


 春樹が顔を上げた。


「本当に?」

「何で最初にそれ聞くんだよ」

「班長会議とか、あると思うよ」

「出るよ」


 綾香が、紙の端を押さえた。


「集合場所、ちゃんと覚えてね」

「覚えるって」


 真弓が笑った。


「じゃあ、翔太でいいんじゃない? やるって言ってるし」

「うん。俺も、いいと思う」


 俺が頷くと、翔太は、ほら、と春樹を見た。


 春樹も頷いた。


「じゃあ、お願い」

「任せろ」


 翔太は鉛筆を取り、班長の欄へ名前を書いた。


 書き終えてから、紙を俺の方へ押した。


「副班長は勝也で」

「俺?」

「うん」

「会議って、2人で行くのかな」


 紙には、班長会議、とだけ書かれていた。


 手を上げると、花沢先生が来た。俺が欄を示して聞くと、先生は、班長だけで集まる、と教えてくれた。


「副班長には、あとで班長から連絡を伝えてね。班の中でも、分からない人がいないように確かめてください」

「はい」


 翔太が答えた。


「俺が聞いてきて、勝也に話すから」

「うん。じゃあ、やるよ」


 紙を押さえ、副班長の欄へ自分の名前を書いた。


 鵜飼勝也。


 その下へ、活動の時に必要な役割を、これから相談すると書いてあった。今日、全部を埋めるわけではないらしかった。


「富田さんのところは、どうする?」


 真弓が、空いている役割の欄へ目を向けた。


 先生が答えた。


「今は、空けておいてね。参加の相談をしてから、ご本人と一緒に考えます」

「はい」


 真弓は、そこへ何も書かなかった。


 俺は、その欄を見ていた。


 名前があることと、何をしなければいけないかが決まっていることは、同じではなかった。優子が来る前に、何もかも決めてしまわなくてよかった。


 先生は、提出用の紙を確認してから、ほかの班へ向かった。


 教室の向こうでは、宣仁が、3人の男子と机を寄せていた。誰かが書いた物を覗き、短く何か言っている。笑い声がした。


 目が合うと、宣仁が片手を上げた。


 俺も、小さく返した。


     * * *


 男子と女子の班が揃ってから、先生が、組み合わせを黒板へ書いた。


 名前が書かれるたび、教室のあちこちで、そちらを見る人がいた。


 俺たちの班も、6人のまま、黒板の端へ書かれた。


 優子の名前を見た。


 火曜日の夜、お父さんと転校の話をした時、机からその名前がなくなるところを想像した。


 今日は、これからの行事の紙に、同じ名前が増えていた。


 まだ、優子は知らない。


 昨日、同じ班になると話した時、小さく、同じなんだ、と言っていた。今日、ちゃんと決まったと伝えたら、どんな顔をするだろう。


「勝也、こっち」


 真弓に呼ばれ、手元へ目を戻した。


「これ、提出するの、1枚でいいんだよね」

「うん。班の控えも、あとでもらえるって」

「じゃあ、出してくる」


 真弓が立ち上がった。


 翔太は、配られた活動予定へ顔を近づけた。


「カレーある」

「そこから見るんだ」


 綾香が言った。


「大事だろ」

「作る方だよ」

「分かってるって」


 春樹が、予定の少し下を指した。


「食べる前に、準備と片づけもあるね」

「そこも分かってるよ!」


 真弓が戻ってきて、何、と笑った。綾香が、カレーが大事なんだって、と答えた。


 俺も、活動予定を見た。


 林間学校、という大きな言葉の中に、1つずつ、やることが書いてあった。


 一緒にご飯を作る。食べる。片づける。


 同じ班で過ごす時間が、ここにもある。


 優子がそこにいられたら、と思った。


 それを決めるのは、今日の俺たちではなかった。俺は紙の端を揃え、折り目のつかないように机へ置いた。


     * * *


 放課後、花沢先生から、保護者向けの紙と班の控えを受け取った。


「お母さんには、昨日お話ししました。参加について詳しく相談するのは、もう少し先で大丈夫だと伝えてあります」

「はい」

「今日の分も、まずお母さんへ渡してもらっていい?」

「分かりました」


 ファイルを開き、いつものように分けて入れた。


 先生は、俺がしまい終えるのを待ってから、言った。


「鵜飼くんと同じ班にしておくこと、喜んでくださっていたよ」


 俺は顔を上げた。


「……そうですか」

「うん。まず、できる準備をしておこうね」


 頷いた。


 言ってもらったことが、そのまま紙になっていた。次に話す時にも、この続きから相談できるのだと思った。


 先生へ頭を下げて、教室を出た。


 廊下から、誰かが班の名前を呼ぶ声が聞こえた。別の教室でも、林間学校の話をしているらしかった。


 校門を出てから、いつもの連絡を送った。


 今から行くね。


 少しして、待ってるね、と返事が来た。


    * * 優子視点 * *


 勝也が持ってきたファイルを見た時、少しだけ指が固くなった。


 学校からの紙だと、分かった。


 勝也は、先にお母さんへ渡してくれた。お母さんは封筒と紙を受け取り、ありがとう、と言った。


「先生からも、お電話いただいたよ」


 勝也が頷いた。


 私は、2人の顔を見た。


「……班、決まったの?」


 昨日から、少し気になっていた。


 林間学校のことを考え続けていたわけではなかった。本を読んでいても、勝也と同じ班、という言葉だけが、時々戻ってきた。


「うん。昨日話した通り、同じ班になったよ」


 勝也は、私の隣へ座った。


 お母さんは、受け取った紙を自分の手元で確かめた。それから、班の名前が並んだ方を、机へ置いた。


「今、見てみる?」

「……うん」


 頷いた。でも、すぐには手を伸ばせなかった。


 白い紙の上に、いくつかの名前があった。


 勝也が、端を少しこちらへ向けてくれた。


「ここ」


 指を置いたところを見た。


 鵜飼勝也。


 その近くに、富田優子、と書いてあった。


 私の名前だった。


 学校へ行っていない間に決まった班なのに、そこにあった。


「……私も」

「うん」


 勝也の指が、紙から離れた。


 私は、ほかの名前へ目を動かした。


 春樹くん。翔太くん。真弓ちゃん。綾香ちゃん。


 勝也と一緒にいるのを、教室で何度も見た人たちだった。


「この……6人?」

「うん」


 もう1度、自分の名前を見た。


 誰かに、どこかへ入れてくださいと言いに行くところを、考えなくてよかった。


 それだけで、息が少し楽になった。


「……勝也の隣に、いていいの?」

「うん。同じ班だからね」


 勝也は、いつもの声で答えた。


 私は、紙の端へ、そっと指を置いた。


 名前を隠さないところを押さえた。


「私、まだ……」

「うん」


 言葉が止まった。


 まだ、学校へ行くところを考えると怖かった。朝、制服に着替えて、家を出て、門を通って。そこまで思い浮かべるだけで、足が止まる気がした。


 その先の、泊まりで出かける行事まで、今すぐ決められるはずがなかった。


 お母さんが、向かいの椅子へ座った。


「今日は、班を教えてもらうだけでいいんだよ。先生にも、そうお話ししてあるから」


 顔を上げた。


「名前があるから、絶対に行かなきゃいけない……って、ならない?」

「ならないよ」


 お母さんは、すぐに答えた。


「優子がどうしたいか、これから聞かせてね。そのあとで、先生と一緒に考えるから」


 私は頷いた。


 勝也の手は、膝の上にあった。昨日も、一昨日も、隣へ座ってくれていた。


 紙の上にも、同じ名前があった。


 それを、もう1度見た。


     * * *


「班長は、翔太くん?」


 欄を見て聞くと、勝也が頷いた。


「自分から、やるって」

「そうなんだ」

「副班長は、俺になったよ」


 すぐ下に、勝也の名前もあった。


「お仕事……多い?」

「班長会議は、翔太が行くんだって。あとで、俺にも連絡を教えてくれる」

「……勝也は、行かないの?」

「うん。その会議には行かないよ」


 私は、少し頷いた。


 何も決めていないのに、もしその場にいたら、と考えていた。


 勝也が呼ばれて、どこかへ行く。自分だけが残る。


 そういうところまで思い浮かべていたことに気づき、紙から目を上げた。


 勝也は、私の顔を見ていた。


「気になることあったら、お母さんや先生にも、一緒に聞いてみよう」

「……うん」


 全部、自分で説明できるか分からなかった。でも、隣で一緒に聞いてもらえるなら、少し話せるかもしれなかった。


 お母さんが、別の紙を重ねようとした。


 私は、名前の紙から指を離した。勝也が、まだ見る、と聞いてくれたので、少し考えてから頷いた。


「名前の……こっちだけ」

「うん」


 ほかの紙は、お母さんが持っていってくれた。


 机には、6人の名前が残った。


「今日も、翔太くんたちと、お話した?」

「したよ。班を決めてから、予定を見てた」

「何をするの……?」

「ご飯を作る時間があって、カレーだって」


 勝也が、少し笑った。


「翔太が、そこを最初に見つけた」

「……食べるのが、楽しみ?」

「多分。綾香には、作る方だよって言われてた」

「ふふ……」

「分かってるって言ってたけど、春樹にも、準備と片づけがあるねって」


 翔太くんの声が、少し頭に浮かんだ。


 勝也がまねなくても、昨日までに聞いた話から、どんなふうに答えたのか想像できた。


「……また、分かってるって?」

「うん。今度は、ちょっと大きな声で」


 私は笑った。


 紙を持つところまではできなかったけれど、机の上の名前を見るのは、さっきより怖くなかった。


 春樹くんの名前を見てから、翔太くんの名前へ目を動かした。


 この2人が、組体操で、あんなことを話していた。


 真弓ちゃんは、横で笑っていた。


 綾香ちゃんは、さっきみたいに、短く言い返していたのだろう。


 勝也は、その中で笑っていた。


 同じところに、私の名前もあった。


「……荒川くんは?」

「別の班になったよ。ほかの友達と、組む約束してたんだって」

「そうなんだ」


 勝也は、学校であったことを、少しずつ話してくれた。


 黒板へ班の名前が書かれたこと。翔太くんが、自分から班長をやると言ったこと。まだ決めない役割もあること。


 私のところは、空けてあるのだと聞いた。


「……何か、できるかな」


 言ってから、すぐ、勝也を見た。


 参加すると決めたみたいに聞こえたかもしれなかった。


 勝也は、紙の空欄へ目を向けた。


「一緒に考えよう。できることがあったら、その時に決めればいいよ」


 私は頷いた。


 できないと言ったら、また困らせるのではないか。そんなふうに、すぐ考えてしまった。


 でも、今は、空いているところへ急いで何かを書かなくてもよかった。


 勝也の名前の近くに、自分の名前がある。


 今日は、それを見ているだけでもよかった。


     * * *


 お母さんが、机へお茶を置いた。


「お話、聞けた?」

「……うん」


 答えると、お母さんは紙へ目を向けた。


「先生も、戻ってきてから慌てないように、先に準備しておきたいっておっしゃってたよ」


 私は、コップを持った。


 学校にいなくても、名前を入れてもらえていた。


 まだ返事をできないことを、そのまま待ってもらえていた。


 それでも、学校が怖いという気持ちは、消えなかった。あの廊下を歩くところまで考えると、すぐ隣に勝也がいることを確かめたくなった。


 私は、コップを置いた。


 袖へ触れると、勝也がこちらを向いた。


「……ありがとう」

「うん?」


 名前の紙へ目を向けた。


「一緒に……してくれて」

「先生が、先に考えてくれてたんだ。俺も、同じ班がよかったから」


 勝也がそう言った。


 私は、もう1度、ありがとう、と言った。


 お母さんは紙を片づける前に、私へ聞いてくれた。


「これは、お母さんが預かっておこうか」

「……うん。また、見てもいい?」

「もちろん」


 頷いてもらえた。


 紙が、ほかの学校の物と一緒に、机の端へ置かれた。どこへ置いたのか、目で確かめてから、勝也の方へ向き直った。


「本……続き、読む?」

「うん。どこまで読んだ?」


 膝へ本を載せた。


 栞を挟んだところを開くと、勝也が少し近づいた。同じページを見るために、肩の距離が縮まった。


 さっきまで学校の紙を見ていた机の前で、今度は本を読んだ。


 勝也が、ここ、面白かった、と言った。私も同じところへ指を置いた。


「……私も」


 言えた。


 こうして隣で話すことなら、今はできる。


 教室でも、隣の席だった。


 そのことが、ふと浮かんだ。


 あの席で、一緒に本の話をしたことがある。机を寄せて、同じ教科書を見たこともある。怖かったことばかりを思い出していた場所に、勝也の横顔もあった。


 私は、本から少し目を上げた。


 勝也は、次のページを見ていた。


「どうしたの?」


 気づいて、こちらを向いた。


 私は、首を小さく振った。


「……何でもない」

「そっか」


 それ以上、聞かれなかった。


 また本へ目を戻した。でも、さっき見た、6人の名前も、頭の中に残っていた。


     * * *


 夕飯を食べ、勝也が帰る支度を始めると、私は一緒に立ち上がった。


 まだ、毎回、少し寂しくなる。


 学校から来た日も、休みの日も、帰る時には、次に会えることを確かめたくなった。


 玄関で、勝也の隣へ立った。


「……明日は、お休み?」

「うん。学校はないよ」

「また……来てくれる?」


 勝也が顔を上げた。


「行くよ。午後からで、いい?」

「……うん」


 頷いた。


 土曜日。


 前の土曜日にも、こうして、来てくれるのを待っていた。あの日は、朝まで一緒にいてもらえた。


 また、もう少し一緒にいてほしいと思った。でも、今は、明日も来ると言ってもらえたことを、先に大事にしたかった。


「待ってるね」

「うん。また明日」


 勝也が笑った。


 お母さんと一緒に、門のところまで見送った。背中が少し遠くなってから、勝也が振り返って手を上げた。


 私も、小さく手を上げた。


     * * *


 居間へ戻ると、お母さんが、机の上を片づけ始めた。


 名前の紙が見えた。


 私は、そばへ寄った。


「……それ」

「もう1度、見る?」


 頷いた。


 お母さんが、紙を机へ広げてくれた。


 鵜飼勝也。


 富田優子。


 同じ班に、名前があった。


 学校へ行かなければいけないと思って見ると、まだ怖かった。


 勝也と同じところで過ごせるのだと思って見ると、少し、違う気持ちになった。


 まだ、その気持ちを、うまく言葉にはできなかった。


 私は、紙の上へ指を置いた。


 勝也の名前に触れないように、そのすぐ下を、そっと押さえた。



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