第3話 話しづらい子
* * 勝也視点 * *
4月も後半になると、朝の公園で話すことに、部活の話が混ざるようになった。
翔太は、昨日の練習で走った回数を増やしながら説明していた。最初に聞いた時より、今の方が多い。
「それ、全部足したら、練習中ずっと走ってない?」
「そのくらい走ったってこと!」
「ボールは?」
「触った!」
「よかったね」
春樹が言うと、真弓が笑った。
綾香は、リュックサックの紐を直しながら、まだ楽器を持つだけで腕が疲れると話した。
「吹いてる時より、持って待ってる時の方が気になるんだよね」
「下ろせないの?」
「下ろしていい時は、下ろしてるよ。でも、すぐ構えてって言われるから」
「俺も、すぐ立ってって言われる」
翔太が頷いた。
「それ、休憩が終わっただけでしょ」
「真弓はさっきから俺に厳しくない?」
「説明が変だから」
5人で公園を出た。
前は同じ小学校の話をすれば、大抵、誰のことか分かった。今はそれぞれの部活に、まだ俺が名前を知らない先輩がいる。
昨日会った人の話を聞くのが、少し面白かった。
金曜日の教室には、もう何人も来ていた。
扉の近くで荒川へ挨拶をしてから、自分の席へ荷物を置く。優子は席に座って、本を読んでいた。
「富田、おはよう」
そばへ行って声をかけると、優子が顔を上げた。
「おはよう、勝也くん」
開いていたところに栞を挟む。
俺は机の横でしゃがみ、表紙へ目を向けた。昨日と同じ本だった。
「それ、もう終わりそう?」
「あと、少し。昨日、寝る前にも読んだんだけど、最後までいかなかった」
「気にならなかった?」
「気になった。でも、眠くて同じところ読んでたから」
「ある。読んだはずなのに、次の日、全然覚えてないやつ」
優子の口元が緩んだ。
「勝也くんも?」
「うん。だから、結局、戻って読む」
「じゃあ、昨日やめてよかったのかな」
「多分。今、ちゃんと読めてるなら」
優子が本へ視線を落とした。
読むのを邪魔したかと思ったところで、こちらを見た。
「あのね……昨日、クラリネットに決まったの」
「あ、希望してたやつ?」
「うん」
「よかったじゃん」
今度は、頷きながら笑った。
楽器を決めるまで、いくつか試させてもらっていたらしい。クラリネットを続けられるのが嬉しいのだと、声を聞いていて分かった。
「ちゃんと音を続けて出せるように、練習する」
「じゃあ、その話、また聞かせて」
「うん」
朝の会が始まる前に、俺は自分の席へ戻った。
入学式の日には、返事を聞くたび、話しかけない方がよかったかと考えていた。今は、優子の方から昨日のことを話してくれる。
席へ着いてからも、嬉しくて少し顔が緩んだ。
「鵜飼君」
近くの席から呼ばれた。
大島奈々だった。授業の準備や、プリントを回す時に話すことが増えた女子だ。
「数学の宿題って、ここまでだよね」
奈々が開いた問題集を見せた。
俺も自分の物を出し、印をつけたところを確かめる。
「うん。その下は、まだやらなくていいって」
「よかった。昨日、途中で不安になって」
「先までやったの?」
「やってない。不安になっただけ」
「俺も、そっち」
奈々が笑った。
そのまま自分の答えを眺めてから、俺の手元へ目を向ける。
「最後の問題、答えどうなった?」
「6」
「私、マイナス6になったんだけど」
「どっかで符号が違うのかな」
途中の式を比べると、奈々が書き写した数字の前から、マイナスが抜けていた。
「あ、ここだ」
「俺も前、それやった」
「鵜飼君も間違えるんだ」
「何だと思ってるの?」
「数学はできる人」
「写し間違いはするよ」
茶道部の部長に直してもらったところを思い出した。
教えてもらったばかりのことが、もう役に立った。
「ありがとう。直しとく」
「うん」
奈々は消しゴムを使い始めた。
俺も問題集をしまおうとしたところで、翔太が横から覗いた。
「最後、6?」
「自分でやった?」
「やった。答え、6だった」
「じゃあ、いいんじゃない?」
「途中、見て」
差し出されたノートには、問題の式と答えだけがあった。
「途中、どこ?」
「頭の中」
「そこは見られない」
奈々が消しゴムを持ったまま吹き出した。
翔太は、ちゃんと計算したんだぞ、と言いながら自分の席へ戻っていった。
* * *
国語の時間は、近くの席の4人で、配られた文章について話し合うことになった。
俺の班には奈々もいた。
机を寄せる時、通路が狭くなったので、自分の椅子を少し内側へ入れる。
「鵜飼君、そこ、出られる?」
「出られる。今は」
「帰りも出てね」
「そんなに急に大きくならないって」
班の男子が笑った。
先生が黒板に問いを書き終え、俺たちはプリントへ目を戻した。
登場人物が、言いかけたことを途中でやめる場面だった。
その理由を、本文の言葉を使って説明する。
「言わなくても分かってもらえたから、じゃない?」
奈々が言った。
向かいの女子が、うん、と頷く。
「私もそう思った。前のところで、相手が頷いてるし」
「でも、分かってもらえたかどうかって、頷いただけで分かる?」
俺が聞くと、奈々がプリントの前の方を指した。
「ここ。話す前に、同じこと考えてたって書いてあるから」
「ああ。そっちも使うんだ」
「鵜飼君、最後のところしか見てなかったでしょ」
「ちょっと」
「ちょっとじゃないじゃん」
読むのは好きだった。
でも、どうしてそう思ったかを答えようとすると、どこまで書けばいいのか分からなくなる。
数学なら、途中の式を追えば間違ったところを探せる。国語で、今の自分みたいに読む場所から間違えると、なかなか戻れなかった。
「じゃあ、最初に言ったことと、こっちをつなげる?」
「うん。それなら、理由になると思う」
奈々たちが書き始めたので、俺も鉛筆を持った。
分かれば、そういうことかと思える。最初からそれに気づくのが難しかった。
別の班で、優子の名前が呼ばれた。
顔を向けると、教科書を押さえていた優子が、相手の女子を見ようとしていた。
口が動いた。けれど、何を話しているかまでは聞こえなかった。
向かいにいた戸田美咲が、プリントを机の真ん中へ寄せる。
その隣の富永莉奈も、優子の方を見た。
優子は何か言いかけてから、目を下げた。
朝、俺へ楽器の話をしてくれた時より、ずっと肩に力が入っているように見えた。
「鵜飼、これ、短すぎるかな」
同じ班の男子に聞かれ、俺はプリントへ向き直った。
「どこ?」
「ここ。理由になってる?」
「うん。でも、さっき大島が言ったところ、足した方が分かりやすいかも」
4人で直し、発表する文を決めた。
俺たちの班は当たらなかったけれど、先生が説明したことと大体合っていたので、少し安心した。
授業が終わり、机を元へ戻す。
奈々が、さっきのプリントを持ち上げた。
「鵜飼君、国語はそんなに得意じゃないんだね」
「そんなに、っていうか、こういうのは苦手」
「本読んでるから、得意なのかと思ってた」
「読む時、登場人物の気持ちを何文字以内で説明しろって言われないから」
「それはそうだけど」
笑いながら、奈々は自分の席へ戻った。
次の教科書を出していると、春樹が来た。
「今日の国語、どうだった?」
「助けてもらった」
「何となく、そうかなと思った」
「何で?」
「ずっとプリント見て、同じ顔してたから」
どんな顔だと聞くと、春樹は、今みたいな顔、と答えた。
納得できなかったけれど、困っていたのは本当だった。
「明日、部活終わってから、うち来る?」
俺が聞くと、春樹が頷いた。
「行ける。宿題持っていってもいい?」
「うん。俺もやる」
「先にやろうね」
「分かってるって」
その約束を聞きつけた翔太が、自分も行くと言った。
真弓と綾香にも都合を聞き、来られる時刻を確かめる。
部活へ入ったので、休みの日でも、5人が最初から同じ時刻に揃うとは限らなくなっていた。
昼休みには、優子が席で本を読んでいた。
朝より、栞の位置が後ろへ進んでいる。
読み終わったら感想を聞こうと思って、俺は翔太たちの方へ向かった。
* * 優子視点 * *
あと少しだったはずの本を、私はなかなか読み終えられなかった。
文章を追っている途中で、国語の時間のことを思い出してしまう。
戸田さんに、どう思う、と聞かれた。
私は、登場人物が安心したのだと思っていた。前の場面では相手の返事を気にしていたけれど、最後にはそうしていなかったから。
そう言おうとした。
「安心したって、何に?」
戸田さんが聞き返した時、隣にいた富永さんもこちらを向いた。
それだけで、さっきまで考えていた説明が、順番に出てこなくなった。
違うことを言ったのかもしれない。
そんなふうに読むのは、私だけなのかもしれない。
先に不安になってしまい、答える前に声が小さくなった。
「わ、分かって……もらえた、から……」
「何を?」
「えっと、前の……」
プリントを指そうとして、どこから説明すればいいか迷った。
戸田さんは待っていた。富永さんも、もう1人の子も、私を見ていた。
早く言わなきゃと思うほど、喉が詰まった。
「私も……同じ、だから……。さっきの、答えで……」
結局、そう言ってしまった。
戸田さんが、じゃあこれでいいね、と書き始めた。
自分の番が終わってほっとしたのに、すぐに、どうしてちゃんと言えなかったのだろうと悲しくなった。
誰かに怒られたわけではない。
急かされたわけでもなかった。
それでも、見られていると、間違えてはいけないと思ってしまう。
「富田さん」
本から顔を上げると、富永さんが立っていた。
近くの席に戸田さんもいる。
「それ、そんなに面白いの?」
「……うん」
「どういう話?」
私は表紙を見た。
出てくる人の名前から説明した方がいいだろうか。それとも、どんなことが起きる話なのかを先に言った方がいいだろうか。
「旅を……する、話……。途中で、いろんな人に……会って……」
「ふうん。恋愛のやつ?」
「それだけ、じゃ……ないけど……」
富永さんが戸田さんを見た。
「美咲が読んでるのとは違う感じだね」
「私のは、もっと普通のだよ。学校の話」
聞いてみたかった。
どんな本を読むの、と聞き返せば、今度は私が話を聞ける。
「戸田さんは……」
声を出した時、富永さんが別のことを言い始めた。
私の声は重なって、止まった。
「何?」
戸田さんに聞かれる。
「……ううん。何でも、ない……」
言ってから、聞けばよかったと後悔した。
本のことを聞きたかっただけなのに。
戸田さんは少し首を傾げたあと、富永さんの話へ戻った。
2人が席を離れかけた時、声が聞こえた。
「私、何か変なこと聞いた?」
「別に、普通じゃない?」
「だよね。何か、話続かないんだよね」
富永さんの声だった。
私は本へ目を落とした。
そうではないと言いたかった。
話したくなかったわけではない。聞いてくれたことは、嬉しかった。
でも、今からそれを説明しに行ったら、2人は困るかもしれない。
指で、読んでいた行を探した。
どこまで進んだのか、分からなくなっていた。
* * *
その日の夜、家で本の最後のページを閉じた。
読み終えられて嬉しかったはずなのに、机の上へ置くと、昼間の言葉が戻ってきた。
話が続かない。
私だって、続けたかった。
朝、勝也くんには言えた。クラリネットに決まって嬉しい、と話せた。
相手が変わると、どうして同じようにできないのだろう。
椅子から立ち、ベッドの端へ座った。
膝へ置いた手を見ていると、小学生の頃、学校から帰って1人で泣いた日のことを思い出した。
あれは、勝也くんが転校して、もう隣の家にはいなくなっていた頃のことだった。
休み時間に遊ぶ相談をしている子たちへ、私も入れて、と声をかけた。
もう決まったから、と言われた。
それなら仕方ないと思ったのに、あとから来た別の子には、こっちに来て、と呼びかけていた。
私の分だけ、入れる場所がなかった。
別の日には、話しかけても返事がなかった。
聞こえなかったのかと思って、もう1度呼んだ。隣の子が話すと、すぐに返事をしていた。
今度こそ、自分に聞こえなかったことにはできなかった。
あの日、小学生だった私は、家へ帰って自分の部屋に入ると、学校では我慢していた涙をこぼした。
枕へ顔を押しつけて、何が嫌だったのか考えた。何を直したら、明日は返事をしてもらえるのかも考えた。
でも、分からなかった。
勝也くんに会いたかった。
私が呼ぶと、何、と振り返ってくれた。
何を話すか決める前に近づいても、嫌な顔をせず、隣を空けてくれた。
そのことを思い出すほど、会えないのが悲しかった。
枕へ顔を埋めたまま、あの時の私は名前を呼んだ。
「勝也くん……」
名前を呼んでも、返事はなかった。
いないのだから、当たり前だった。
それでも、声に出さずにはいられなかった。
その時には、もう分かっていた。
私が勝也くんを好きなのは、友達としてだけではない。
転校してから、何度も会いたいと思い、そのたびに気づいていた。誰かと遊びたかっただけではなく、勝也くんと一緒にいたかった。
会えたら、何を話そう。
前みたいに笑ってくれたら、私も、嬉しいと言えるだろうか。
あの頃、そんなことを考えながら泣いていた自分に、中学校でまた同じクラスになるよと教えてあげたかった。
私は顔を上げた。
机の上には、中学校で使っている教科書と、さっき読み終えた本があった。
勝也くんに会えずに泣いたのは、昔のことだ。今は、また同じ教室で過ごしている。
膝の上で、手を握り直した。
今朝は、ちゃんと返事があった。
勝也くんの方から、おはようと言ってくれた。
入学式で見かけた時から、かっこいい人だと思っていた。
落とした物を拾ってあげていたところを見て、優しい人だとも思った。その人が勝也くんだと分かった時は、嬉しすぎて、かえって何も言えなかった。
昔から好きだった人に、また会えた。
私に気づいて、目の高さを合わせて、嬉しいと言ってくれた。
その声を思い出すだけで、今も顔が熱くなる。
勝也くんと話す時だって、平気なわけではない。
目が合えば照れるし、笑ってくれたら、もっと見ていたくなる。
それでも、話が途中で止まっても待ってくれると、少しずつ思えるようになってきた。
今日は、私から楽器の話をした。
勝也くんは、よかったじゃんと言ってくれた。
私は机へ戻り、読み終えた本をリュックサックへ入れた。
月曜日、もう読み終わったよと話そう。
そんな短いことを決めただけで、学校へ持っていく物を揃える手が、さっきより軽くなった。
戸田さんたちとも、もう少し上手く話せるようになりたい。
声が重なっても、今度は途中でやめずに、もう1度言ってみよう。
明かりを消す前に、私はもう1度、リュックサックを見た。
会いたいと思う相手が、今は同じ教室で待っている。
そのことまで、昼間の失敗で悲しいものにしたくなかった。
* * 勝也視点 * *
土曜日の午後、うちのテーブルには、問題集が5冊並んでいた。
部活から帰って昼ご飯を食べ、それぞれ来られる時刻に来た。最後に綾香が着いた時、翔太はもう問題集を閉じようとしていた。
「終わったの?」
「数学は」
春樹が聞くと、翔太は胸を張った。
「英語は?」
「あとで」
「今やろうよ」
「気持ちの切り替えが必要なんだよ」
「閉じる方には、すぐ切り替わるのにね」
真弓が言った。
翔太は反論を考えるように口を開き、それから英語のノートを出した。
学校が変わっても、5人で集まると、結局こうなる。
俺も笑っていたけれど、英語の問題を見たところで、翔太のことを笑えなくなった。
「春樹、これ」
「どこまで考えた?」
「ここまで並べた。残った単語を、どこへ入れるか迷ってる」
春樹が自分のノートを閉じ、俺の方へ寄せられた問題集を見た。
「日本語だと、どういう意味?」
「この下の文」
「その文の、どこがまだ入ってない?」
指で追ってみる。
最後に置くのだと思っていた単語が、違う場所に入る気がした。
「……こっちか」
「うん。それで読んでみて」
小さく声に出した。
春樹が頷く。答えだけ聞くより、次の問題でも同じところを探せそうだった。
「ありがとう」
「残りも、同じようにやってみて」
「俺にも教えて」
翔太がノートを差し出した。
春樹がそちらへ向いた隙に、俺は菓子の袋へ手を伸ばした。真弓も同じ袋へ手を伸ばしてきて、目が合った。
「勝也、さっき食べてたよね」
「真弓も食べてた」
「私は、これで休憩終わり」
「俺も」
残っていた分を、綾香の方にも寄せる。
綾香は礼を言ってから、開いていた国語のプリントへ目を戻した。
「昨日の問題、もう1回見てたの?」
「うん。先生の説明、書いたところを読み直してた」
「俺、最初、全然違うところ見てた」
「そうなんだ。富田さんは、ここって分かってたよ」
優子の名前に、顔を上げた。
「昨日の授業?」
「ううん。部活へ行く時に、私から聞いたの。どこを読めばいいんだろうって。そしたら、しばらくプリントを見て、ここって指してくれた」
綾香が、俺が奈々に示してもらったのと同じ場所を指した。
「富田さん、本読むの好きだもんね」
「俺も読むのは好きなんだけどな」
「勝也、好きなところにばっかり戻るからじゃない?」
真弓に言われ、思い当たった。
面白かったところは、何度でも読みたくなる。それが問題の答えに使えるかどうかは、考えたことがなかった。
「富田さん、まだ話す時は緊張してるみたい」
綾香はそう言って、自分のプリントを重ねた。
「聞いたら頷いたり、少しずつ答えたりはしてくれるんだけどね」
「朝、教えてくれた。クラリネットになったって」
「うん。私もフルートになったんだ」
「よかったね、綾ちゃん」
「ありがとう」
綾香が笑った。
優子が綾香といる時にどんなふうに話すのか、俺はまだほとんど知らない。
朝、楽器の話をしてくれた時には、嬉しそうだった。綾香とも、あんなふうに話せるようになればいいと思った。
宿題が片づくまで、思ったより時間がかかった。
ようやくテレビをつけ、マリオカートを始めると、翔太はさっきまでと違う速さで体を起こした。
「勝也、今日こそ勝つからな」
「先週も言ってた」
「今日は本当に勝つ」
「じゃあ、先週は何だったの?」
春樹が聞く。
翔太は、練習、と答えた。
最初のレースでは、俺が勝った。
次は、ゴールのすぐ手前で、翔太に抜かれた。
「よし!」
「待って、今の、どこから来た?」
「後ろから!」
「それは分かる!」
真弓が声を上げて笑い、綾香までコントローラーを受け取りながら笑っていた。
悔しかったので、もう1回と言いかけた。春樹が次の順番の人を指す。
「勝也、交代」
「……はい」
勝った時だけ終わろうとするのも、負けた時だけ続けようとするのも、駄目らしい。
隣へ場所を空けてから、俺は残っていた飲み物を飲んだ。
* * *
月曜日の朝、優子の机に置いてある本には、栞が挟まっていなかった。
いつもどおり挨拶をすると、優子が本を持ち上げた。
「これ、読み終わったよ」
「最後、どうだった?」
「よかった。途中で気になってたことも、ちゃんと分かって」
「すっきりした?」
「うん。でも、もう少し続きも読みたい」
俺は笑った。
「終わってほしくない方だったんだ」
「……そうかも」
話は、それだけだった。
朝の会の準備があるので席へ戻ったけれど、優子が自分から本を見せてくれたのが嬉しかった。
聞きに行こうと思っていたことを、向こうでも話そうとしてくれていた。
休み時間、黒板の端へ書かれた連絡を小島と確かめたあと、教室の後ろを通った。
男子が2人、次の授業で使う物を出しながら話していた。
「富田って、可愛くない?」
聞こえた名前に、つい顔が向いた。
「ああ、いつも本読んでる子?」
「うん。さっき、顔上げてた時に思った」
「あんまり話したことないけどな」
「俺も。けど、普通に可愛いじゃん」
優子は自分の席にいた。
長い前髪の向こうに、眼鏡の赤いフレームが見える。俯いている時は顔がよく見えないけれど、笑えば、目元も口元も柔らかくなる。
可愛いと言われるのは、分かる気がした。
ただ、それを本人の近くで大きな声で話すのは、何だか落ち着かなかった。
自分が同じように見られていたら、顔を上げにくいと思う。
「鵜飼は? 富田とよく話してるよな」
通り過ぎる前に、男子の片方から聞かれた。
「まあ、話すけど」
「どう思う?」
「可愛いとは思うよ。でも、それ、本人に聞こえるんじゃない?」
俺が声を少し落とすと、男子も優子の方を見た。
「あ、そうか。別に悪く言ってないけど」
「そうでも、困るかもしれないじゃん」
「……まあな」
男子は教科書へ目を戻した。
俺も自分の席へ向かった。
褒めているのだからいいだろうと言われると、どう答えればいいのか、少し迷う。でも、優子が返事に困る姿は、簡単に思い浮かんだ。
「鵜飼君、これ、前へ持っていけばいい?」
奈々が集めたプリントを持っていた。
「うん。先生の机でいいって」
「分かった。鵜飼君の分も、まだなら一緒に持っていくよ」
「あ、ありがとう」
机へ置いていたプリントを渡した。
奈々が運んでいくのを見て、俺も次の授業の準備を始めた。
昼休み、優子が問題集を持って俺の席へ来た。
翔太は春樹の机へ行っていて、俺は給食で使ったハンカチをしまっていたところだった。
「勝也くん……今、いい?」
「うん。どうした?」
優子は、今朝の数学でやった問題を指した。
俺は机の上を空け、問題集を置けるようにした。
「先生に当てられた時、ここの式、私と違う順番で説明してたから。どうやったのかなって」
「ここを先にまとめたんだよ。そしたら、数字が小さくなるから」
自分のノートを出して、途中の式を見せる。
優子が身をかがめたので、通路を塞がないように少し横へ向いた。
「あ、こっちからでもいいんだ」
「富田は?」
「私は、書いてある順番で計算した」
見せてもらうと、答えは同じだった。
途中を省かずに書いてあるので、どこを計算したか分かりやすい。
「こっちでも、合ってるじゃん」
「うん。でも、勝也くんの方が早そうだなと思って」
「早いだけだよ。説明する時、自分で途中を飛ばして分かんなくなることあるし」
優子が少し笑った。
「自分のなのに?」
「うん。あとから見ると、何でこうしたんだろって」
「そこは、書いた方がいいと思う」
「富田にも言われた」
昨日の翔太のノートほどではないけれど、俺も人のことを言えない。
優子は、じゃあ私もこっちで解いてみる、と問題集を持ち直した。
「ありがとう」
「どういたしまして。俺も、国語で困ったら聞いていい?」
「国語?」
「この前の、文章のどこを見ればいいかってやつ。綾ちゃんから、富田は分かってたって聞いて」
優子の目が、少し大きくなった。
「井上さんが?」
「うん。土曜日に、みんなで宿題やっててさ」
「……私も、上手く説明できるか分からないけど」
「分かるところだけでいいよ。俺が、また最後の3行だけ見てたら教えて」
そう言うと、優子は困ったように笑った。
「最初から読まないの?」
「読む。でも、答えを探す時、そこへ戻っちゃう」
「じゃあ、前のところも一緒に見よう」
「助かる」
優子が頷いた。
それで席へ戻るかと思ったけれど、問題集を抱えたまま、少しだけ俺の机を見た。
「土曜日……勉強だけだったの?」
「そのあと、ゲームもしたよ」
「何の?」
「マリオカート。みんなで順番に対戦してた」
ゲームの名前を聞くと、優子が顔を上げた。
知っているらしい。
「勝也くん、勝った?」
「最初は。次、翔太に最後のところで抜かれた」
「最後?」
「もう勝ったと思ってたのに、急に横を通ってった」
優子が笑った。
すぐに口元へ手をやったけれど、笑いは隠れなかった。
「それ、悔しいね」
「だからもう1回って思ったら、交代だった」
「順番なら、仕方ないよ」
「富田も春樹と同じこと言う」
笑ったまま、優子は問題集を抱え直した。
「私は昨日、ポケモンしてたんだ」
「そうなんだ」
「捕まえたいのがいて。でも、なかなか捕まらなくて」
「倒しちゃった?」
「……うん。弱く攻撃したつもりだったのに」
今度は俺が笑う番だった。
「あるよね、それ」
「笑わないで。結構、探したんだから」
「ごめんって。俺もやったことあるから」
優子は少し唇を尖らせ、それから自分でも笑った。
昔も、ゲームで失敗すると、こんな顔をしていた。
再会した日には見られなかった顔だった。こういうふうに笑い合えるのが、俺は嬉しかった。
「今度こそ、捕まえたい」
「捕まえたら教えて」
「うん」
優子が自分の席へ戻った。
俺はノートを閉じ、しばらく、さっきの会話を思い出していた。
用事があって来てくれた。
でも、用事が済んでも、すぐには帰らなかった。
その違いが嬉しかった。
「勝也、何してる?」
翔太が戻ってきた。
「数学、ちょっと見てた」
「富田と?」
「うん」
「何か、楽しそうだったじゃん」
顔を見られていたと思うと、少し照れくさくなった。
「ゲームの話もしてたから」
「土曜日のマリオカート? 俺が勝ったやつ?」
「それも話したよ。そのあと、富田が昨日ポケモンやってたって話になって」
「マリオカートは、俺が勝ったってちゃんと言った?」
「言ったけど。あれ、俺がミスらなかったら勝ってたからな」
「負けた人、みんなそう言うんだよ」
翔太が、得意そうな顔をした。
次にやる時は、絶対にゴールするまで気を抜かないと決めた。
* * 優子視点 * *
席へ戻って、問題集を開いた。
教えてもらった順番で計算すると、さっきより短い式で答えが出た。
同じ答えになるのを確かめたあとも、鉛筆を持ったまま、少し笑ってしまった。
捕まえたら教えて、と言ってくれた。
勝也くんへ話すことが、またできた。
問題を聞く前は、忙しかったらどうしようと考えた。それでも、顔を上げて、どうした、と言ってくれたら、そのあとに言いたいことが続いた。
ゲームの話は、教室へ来る前に練習していた言葉ではなかった。
勝也くんの話を聞いていたら、私も話したくなった。
そんなふうにできたことが、嬉しかった。
「ああいう顔もするんだ」
すぐ近くから聞こえて、顔を上げた。
富永さんが、戸田さんの机の横に立っていた。
「富田さん。さっき、すごく笑ってたね」
戸田さんに言われ、頬が熱くなった。
見られていたのだと思うと、さっきの自分の声まで思い出して恥ずかしくなる。
「ゲームの話を、してて……」
「鵜飼君と?」
「……うん」
頷くと、富永さんが少し笑った。
「問題聞きに行ったんじゃなかったの?」
「それも……聞いた、けど……」
「ふうん」
何を答えればよかったのか分からず、問題集へ目を落とした。
聞きたいことがあったのは、本当だった。
そのあとも話したくて残ったことは、口に出すと別の意味まで伝わってしまいそうだった。
「私が本の話聞いた時、そんな感じじゃなかったよね」
富永さんが言った。
金曜日のことだと、すぐに分かった。
「……ごめん」
「いや、謝ってほしいんじゃないけど」
顔を上げた。
富永さんは笑っていなかった。
「私たちと話すの、嫌なのかなって思うじゃん。あっちでは普通に話してるのに」
「い、嫌じゃ……ないよ……」
それは、ちゃんと言いたかった。
嫌だったから返事を短くしたのではない。話しかけないでほしいと思ったこともなかった。
「ただ……何て、言えばいいか……分からなく、なって……」
「鵜飼君には分かるんだね」
返事が止まった。
勝也くんと話す時だって、迷うことはある。うまく言えずに、あとから悔しくなることもあった。
でも、さっきは楽しくて笑った。それも本当だった。
同じようにできないことが、そんなに悪いことなのか分からなかった。
だけど、2人の顔を見ていると、私が説明できなければ、そのまま嫌な人になってしまう気がした。
「……話したくないわけじゃ、ないの」
「うん。分かった」
戸田さんがそう言った。
富永さんは、戸田さんの机へ置いてあった筆箱を手に取って、別の話を始めた。
私は鉛筆を持ち直した。
もう計算は終わっていた。それでも、問題集を閉じると、どこを見ていいか分からなかった。
少しして、2人の声が小さくなった。
「でも、鵜飼君の時だけ、全然違うじゃん」
「あれ、相手が鵜飼君だからじゃない?」
顔を上げられなかった。
好きなのかと聞かれたわけではないのに、胸の中を指されたような気がした。
「さっき、男子も可愛いって言ってたしね」
「聞こえた。ああいう感じがいいんだ」
「大人しくしてても、可愛いって言ってもらえるならいいよね」
鉛筆の先が、同じところへ小さな点をつけた。
そう思って黙っているのではない。
可愛いと言われるために、話すのをやめたことなんてない。
声が出なくて困っている時に、そんなふうに見られていたのだと思うと、悲しかった。
勝也くんと話せて嬉しかった気持ちまで、隠した方がよかったのだろうか。
さっき笑ったところを思い出して、今度は恥ずかしさとは違う苦しさが胸に残った。
富永さんが立ち上がった。
「何か、やっぱり話しづらいんだよね」
戸田さんへ向けた言葉だった。
でも、私には聞こえていた。
嫌ではないと言った。
話したくないわけではないとも言った。
それでも、伝わらなかった。
2人が教室を出ていってから、私は消しゴムで小さな点を消した。
計算の途中まで薄くなったので、そこだけ書き直した。
勝也くんが教えてくれた式だった。
解けたよと話す時、また笑ってしまうと思う。
その顔まで気にしなければいけないのかと思うと、教室の中で、どんなふうに座っていればいいか分からなくなった。
* * 勝也視点 * *
帰りの会が終わると、翔太はいつもより早く教室を出ていった。
早く着替えておきたいらしい。
春樹と真弓も、今日は先に部室へ行くと言っていた。
俺は小島と、明日の朝に確認することを連絡帳へ書いていた。
黒板の連絡を消してよいか担任へ聞き、小島が自分の分を写し終わったのを待つ。
「じゃあ、こっち消すね」
「うん。ありがとう」
黒板を消して戻ると、優子はまだ席にいた。
綾香が、廊下で部活の先輩と話している。少し待っているのかもしれなかった。
「富田、さっきの計算、できた?」
机の横でしゃがんで聞くと、優子が顔を上げた。
「うん。同じ答えになった」
「よかった」
「勝也くんのやり方だと、計算するところが少なくなった。ありがとう」
「また使えそうな時、使ってみて」
優子が頷いた。
そのあと、リュックサックの紐を握ったまま、教室の入口へ目を向けた。
俺もそちらを見たけれど、綾香が先輩の話を聞いているだけだった。
「急いでた?」
「ううん。大丈夫」
優子は首を振り、こちらへ向き直った。
「今日、茶道部?」
「うん」
「また、荷物も運ぶの?」
「あると思う。今は、持つ前に、どっちが上か聞いてる」
「逆さにしちゃったの?」
「してない。しそうだったから、先に聞いた」
優子が笑った。
小さな笑い方だったけれど、からかうような顔に、俺も笑った。
「富田も、楽器持つ時、気をつけてね」
「うん。まだ、組み立てる時も見てもらってる」
「そっちも、大事だもんね」
優子が立ち上がったので、俺も立った。
綾香が、待たせてごめんね、と入口から声をかけた。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん。俺も行く」
3人で廊下へ出た。
分かれるところで、優子が俺の方を見た。
「国語、分からなかったら、聞いてね」
「うん。頼りにしてる」
「……分かるところだけだよ」
「それで十分」
優子が頷き、綾香と歩いていった。
俺は部室へ向かいながら、今日の宿題を思い出した。
先に自分でやってみる。分からなかったら、どこで困ったか聞けるようにしておこう。
ただ答えを見せてもらうのでは、せっかく教えてくれる優子にも悪い。
また会えて嬉しい。
入学式の日、俺はそう言った。
あの時、優子がどう思ってくれたのか分からなくて、ずいぶん落ち込んだことまで思い出した。
今は、向こうから話しかけてくれる。
用事が済んでも、昨日遊んだゲームの話をしてくれる。
俺の失敗を聞いて、笑ってくれる。
優子も、俺と話すのを楽しんでくれているのかもしれない。
そう思えることが、今は嬉しかった。
部室の前でリュックサックを持ち直し、扉を開けた。
今日の宿題は、国語からやろうと思った。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
優子と本やゲームの話で笑い合い、会話が増えたことを喜ぶ。数学を教える一方、苦手な国語は優子に頼ろうとする。
・富田優子
クラリネット担当に決まり、勝也へ嬉しそうに報告する。勝也とは自然に話せるようになってきたが、美咲や莉奈の前では緊張して言葉が詰まってしまう。
・鶴見春樹
休日の勉強会で、勝也が自分で答えを見つけられるよう手助けする。ゲームでは、負けて続けたがる勝也にも順番を守らせる。
・鳥居翔太
数学を終えてゲームに移ろうとするが、残っている英語を指摘される。マリオカートではゴール直前に勝也を抜き、得意顔を見せる。
・加藤真弓
翔太の大げさな部活の話や、宿題を後回しにする言い分に突っ込む。休日は仲間と勉強やゲームを楽しむ。
・井上綾香
吹奏楽部でフルート担当に決まる。優子が国語の問題を理解していたことや、会話ではまだ緊張している様子を勝也へ伝える。
・荒川宣仁
朝の教室で、登校してきた勝也と挨拶を交わすクラスメイト。
・小島裕香
勝也と黒板の連絡事項を確認する。放課後も翌朝の確認事項を書き留め、学級の仕事を分担する。
・大島奈々
勝也と数学の答えを比べ、写し間違いに気づく。国語の班活動では文章の読み方を示し、勝也と気軽に冗談を交わす。
・戸田美咲
国語の班活動で優子に意見を尋ねる。勝也と楽しそうに話す優子を見て、自分たちと話す時との違いを気にする。
・富永莉奈
優子に本の内容を尋ねるが、会話が続かないことに不満を持つ。勝也には笑顔を見せる優子へ、自分たちとは話したくないのではないかと問いかける。




