第2話 新しい生活
* * 勝也視点 * *
入学式のあと、初めて教室へ入る朝は、扉のところで少し足が遅くなった。
「勝也、入らないの?」
後ろから春樹に言われて、慌てて横へ寄る。
「入る。ちょっと、中見てただけ」
「自分の教室で合ってるよ」
「そこは分かってる」
春樹が先に入った。
その背中の向こうに、白い髪が見えた。優子はもう来ていて、机へ筆箱を置いているところだった。
入学式の日、帰ってからも、あの時の会話を何度か思い出した。
また会えて嬉しいと、俺は言った。また遊びたいとも言った。
優子は頷いてくれたのだから、それでよかったはずだ。それでも、話しかける前に思い描いていた再会とは違っていたことが、少し引っかかっていた。
でも、ここで挨拶もしなくなったら、次はもっと話しかけにくくなる。
リュックサックを自分の席へ置き、俺は優子のところへ行った。
「富田、おはよう」
優子が振り向いた。
椅子のそばにしゃがむと、筆箱に置いていた手を膝へ下ろした。
「……おはよう、勝也くん」
「今日、持ってくる物、多くなかった?」
「うん。何回か、確認した」
「俺も。入学式でもらった紙が多くてさ。どれを出すんだったか分からなくなって」
優子の目が、俺の席へ向いた。
「持ってきた?」
「持ってきた。多分」
「……多分?」
「確認はしたんだけど、聞かれると自信なくなるね」
優子の口元が、少しだけ緩んだ。
笑ってくれたのだと、今日は分かった。それだけで、来るまでに考えていたことが少し軽くなった。
「あとで、もう1回見ておく。じゃあね」
「……うん」
立ち上がって席へ戻った。
会話はそれだけだったけれど、挨拶をしなければよかったとは思わなかった。
朝の会のあとは、自己紹介になった。
名前と出身の小学校、それから好きなこと。先生が黒板へ書いた項目を見ながら、自分の順番を待つ。
廊下側の1番前に座っている男子が立った。
「荒川宣仁です。和歌山県で生まれ育って、小学校までは向こうにいました。中学に上がるんで、こっちへ引っ越してきました。よろしくお願いします」
話し終えたところで、近くの男子が声をかけた。
「じゃあ、この辺まだ詳しくない?」
「せやな。学校までの道は覚えたで。とりあえず今日も着いたし」
教室のあちこちから笑い声が出た。
荒川も笑って座る。そのあとに続く男子が、少し困った顔で立ち上がった。
俺なら、あんなに上手く始められない。そう思ったら、自分の番がすぐ近くまで来ていた。
「鵜飼勝也です。南小から来ました。漫画とゲームが好きです。よろしくお願いします」
「好きなもの、まだあるだろ」
翔太が言った。
俺はそちらを見た。
「今、全部言わないとだめ?」
「食べること!」
「お前もだろ」
また笑い声がした。先生にも笑われたので、俺は早く座りたくなった。
自分の好きなものを言うだけのはずなのに、座り直す頃には耳が少し熱くなっていた。
優子の番になった時は、俺もそちらを向いた。
椅子から立つと、前髪が眼鏡へかかった。優子は机の端へ指を置いたまま、教室の前を見た。
「と、富田……優子です。西小から、来ました。本を読むのが……好きです。よろしく、お願いします……」
小さな声だった。
先生が頷き、次の名前を呼ぶ。優子はすぐに座った。
俺と話す時だけ、声が小さいわけではないのだと分かった。でも、みんなの前で話すのと、俺と話すのは違う。
まだ、何がどう違うのかまでは分からなかった。
休み時間、提出する紙を種類ごとに分けていると、荒川が前から戻ってきた。
「鵜飼、その紙、職員室まで持ってくやつ?」
「うん。先生に頼まれた。場所、合ってるかちょっと怪しいけど」
「俺もそこ行くわ。これ渡してこいって」
荒川が、別の封筒を上げた。
「じゃあ、一緒に行こう」
「場所怪しいんやったら、俺についてきた方がええで」
「もう覚えたの?」
「昨日家で、校舎の図見たから」
「真面目だな」
「迷ったら面倒やん」
並んで廊下へ出た。
話し方にはまだ少し慣れなかったけれど、何を言えばいいか迷うほどではなかった。先生に渡す物を持っているというだけで、こうして話せることもあるらしい。
「鳥居と、前から友達なん?」
「うん。小学校から」
「あいつ、朝からずっと元気やな」
「帰るまであれだよ」
「それはすごいな」
荒川が感心したように言うので、俺は笑ってしまった。
職員室の前では、どちらが先に声をかけるか少し譲り合った。結局、場所を知っていた荒川が扉を開け、俺が挨拶した。
* * *
それから数日、校舎の案内や身体測定が続いた。
廊下で迷うことは減ってきたけれど、次に使う教室がどこなのかは、まだ友達同士で確かめていた。
優子には毎朝、俺から挨拶した。
返事をもらって自分の席へ戻る日もあれば、持ち物や、その日の予定を少し話す日もあった。
委員を決める朝、翔太は学校へ着く前から図書委員になると言っていた。
「そんなにやりたかったっけ?」
「本あるじゃん」
「図書室だからね」
春樹が答える。
「あそこ、何が置いてあるか全部見たい」
「図書委員じゃなくても見られるよ」
「春樹、俺のやる気を減らすことばっか言うなよ」
「なくならないでしょ、それくらいじゃ」
真弓が言うと、翔太は少し考えてから頷いた。
「なくならんな」
「じゃあ、いいじゃん」
綾香も図書委員を考えているという。
春樹は美化。俺はまだ決めていなかった。何をするのか、先生の説明を聞いてから考えるつもりだった。
ところが、その説明の最初にあったのは、学級委員長を決めるという話だった。
「立候補する人はいますか」
先生が教室を見渡した。
誰も手を上げない。
俺も鉛筆を机へ置き、次の言葉を待った。
「推薦でもいいですよ」
「はい!」
翔太の声だった。
嫌な予感がして振り向いた時には、もう俺を見ていた。
「鵜飼がいいと思います」
「何で俺なの」
「こういうの、いつも決めてるじゃん」
「委員長を決めたことはないよ」
「そうじゃなくて。遊ぶ時、どこ行くとか、何時に集まるとか」
先生までこちらを見る。
俺は椅子へ座り直した。後ろを向いて翔太へ言い返すだけで済む話ではなくなっていた。
「翔太が、遊ぼうって言うだけで何も決めないからだろ」
「そう! だから助かる!」
「褒められてる気がしない」
「褒めてるって」
教室から笑い声が上がる。
春樹も手を上げた。
「俺も、鵜飼がいいと思います。誰が何時まで大丈夫かとか、ちゃんと聞いて決めるんで」
「春樹まで?」
「前、この人、先に帰らないといけない綾ちゃんの時間に合わせてたし」
真弓が綾香を見た。
綾香も頷く。
「勝也君、みんなが大丈夫か、確かめてくれるから」
急にそんなふうに言われると困る。
誰かが帰る時間を知らなければ、途中で遊びをやめることになる。お金が足りないなら、使わなくていいところへ行けばいい。
俺の中では、それくらいのことだった。
「友達と遊ぶのと、クラスの委員長は違うだろ」
「でも、話を聞いてくれる人がいいじゃん」
真弓の言葉に、俺はすぐには返せなかった。
嫌なことを押しつけたいだけなら、もっと適当に言うはずだ。4人とも、ふざけているだけではないらしかった。
ほかに立候補も推薦も出ないまま、先生が俺の名前を呼んだ。
「鵜飼君、引き受けてもらえますか」
立って話すのは気が重い。うまくできるという自信もなかった。
けれど、いつまでも誰かが代わりに手を上げるのを待っているのも、落ち着かなかった。
「……分からないこと、聞いてもいいですか」
「もちろん。最初から全部分かっていなくて大丈夫ですよ」
「じゃあ、やります」
言った途端、翔太が拍手した。
周りもそれに続く。俺は小さく頭を下げた。
黒板に自分の名前が書かれてから、本当に引き受けてしまったのだと思った。
「それから、学級委員は風紀委員も兼ねてもらいます」
「……増えるんですか?」
思わず聞くと、また笑われた。
「この学校では、そうなっています」
「勝也、もう役職2つじゃん」
「翔太、あとで話そう」
「怖い言い方すんなよ」
副委員長には、小島裕香が自分から手を上げた。
まだほとんど話したことのない女子だった。先生に確認されても、落ち着いた声で返事をする。
俺もあれくらい普通に引き受けられればよかったのにと思いながら、前へ出た。
「決まった名前、私が書くね」
「ありがとう。じゃあ、俺が聞く方?」
「うん。何からいく?」
先生から渡された紙を、2人で覗いた。
それぞれの委員会の仕事と、必要な人数が書いてある。先生がそばに立っているので、困ったら聞ける。それでようやく、教室の方を向けた。
「じゃあ、図書委員。やりたい人は?」
「はい!」
「翔太は分かった。ほかには?」
綾香が手を上げた。
それから、少し離れた席でも手が上がっているのが見えた。
優子だった。
肘を伸ばしきらない、小さな挙手だった。俺がそちらを見ると、眼鏡の奥の目が動いた。
「富田も、図書委員でいい?」
「……うん」
返事を確かめて、小島へ伝える。
黒板に3人の名前が並んだ。
本が好きだと自己紹介でも言っていた。俺はその名前を見て、優子が自分から選んだのが、何となく嬉しかった。
美化委員には春樹が手を上げ、体育委員には荒川が立候補した。
すぐに決まるところもあれば、誰も手を上げないところもある。
「ここは、まだやる人がいないね」
小島が紙を指した。
俺は仕事の説明をもう1度読んだ。
「やること、もう少し詳しく聞いてもいいですか」
先生へ尋ねると、活動する時間や、ほかの学年と一緒にすることを教えてくれた。
それを聞いてから、後ろの男子が手を上げた。
「それなら、俺でもいい」
「ほんと? じゃあ、お願いしていい?」
「うん」
小島が名前を書く。
何をするのか分からないままでは選びにくいのは、俺も同じだった。残りも、先生へ確かめながら進めた。
最後の名前を書き終えたところで、小島が俺を見る。
「これで、全部かな」
「うん。……先生、これで大丈夫ですか」
確認してもらってから、ようやく席へ戻れた。
座った途端、背中から力が抜けた。自分では普通にしていたつもりだったけれど、ずっと緊張していたらしい。
「お疲れ、委員長」
翔太が言った。
「しばらくその呼び方するつもり?」
「嫌?」
「何か頼む時だけなら嫌だ」
「まだ頼んでないだろ」
「今、考えた顔した」
翔太が笑った。
俺も少し笑えた。とりあえず、最初の仕事は終わった。
* * *
その日の給食が運ばれてくると、教室は小学校と似た匂いになった。
白衣を着た当番が食缶を運び、机を寄せる音がする。初めは並ぶ場所が分からず止まっていた列も、何日かすると流れるようになった。
「勝也、それ食べないの?」
向かいから翔太が俺の皿を見た。
まだ箸をつけていないおかずがある。それを見つけるのだけは早い。
「あとで食べるの」
「ずっと残ってるから」
「好きだから最後にしてる」
「ああ、そういうことか」
納得すると、自分の給食へ戻る。
その横で、春樹が牛乳を置いた。
「翔太も、好きなものは最後に残したら?」
「先に食べたい」
「じゃあ、人のを狙わないで」
「聞いただけだって」
笑いながら、俺は残していたおかずを食べた。
同じ教室に4人がいてくれてよかったと思う。まだ名前を覚えきれていない相手もいる中で、こういう話なら、何も考えずに返せた。
昼休み、食器を片づけてから、先生に渡された紙を配った。
部活見学の案内だった。活動場所と、見学できる時間が印刷されている。
その紙を自分の机へ広げた時、小さな声で名前を呼ばれた。
「……勝也くん」
顔を上げると、優子が立っていた。
両手で同じ紙を持っている。
「富田。どうしたの?」
「これ……1枚で、いいんだよね?」
優子が見せた紙は2枚重なっていた。
俺は立ち上がり、机の上に残った束を確かめた。
「あ、ごめん。俺、2枚渡した?」
「多分。あの、同じだったから」
「1枚で大丈夫。持ってきてくれてありがとう」
上の1枚を受け取る。
優子は手元へ残した紙を見ていた。用事は済んだはずなのに、すぐには戻らない。
「……委員長、お疲れさま」
「ああ。ありがとう。前に立つと、みんなこっち見るんだね」
「……うん」
「考えてみたら当たり前なんだけど。急に何を言えばいいのか分からなくなった」
優子が俺の顔を見た。
「そうは、見えなかった」
「小島さんが横で教えてくれたからだよ。あと、先生もいたし」
「でも……ちゃんと、見つけてくれた」
「何を?」
「手、上げたの」
俺は黒板の方を見た。まだ、委員会の名前が消されずに残っている。
「見えたよ。図書委員、やりたかったんだね」
「うん。本、好きだから」
「俺も、どんなのがあるか見に行こうかな」
優子が頷いた。
その口元が緩んだのを見て、もっと話したくなった。でも、今度は俺が何を聞こうか迷う前に、優子が紙を持ち直した。
「……ありがとう。これ、戻してくる」
「うん」
自分の席へ戻っていく姿を見送った。
俺から行ったのではなく、優子の方から来てくれた。
紙を余計に配ったのは失敗だったけれど、それを返しに来るだけなら先生へ渡すこともできたはずだ。
委員長のことまで話してくれたのが、嬉しかった。
返してもらった紙を、束の1番上へ置く。
遊びたいという話の続きは、今日もできなかった。それでも、さっきより少し、次に話しかけやすくなった気がした。
* * *
その日の午後は、体育館で部活動の紹介があった。
見学に行くのは放課後だ。帰りの会が済む前から、教室が落ち着かなかった。
体育館で見た実演を真似するやつもいれば、どこから見て回るか相談しているやつもいる。
翔太はバスケへ行くと決めていた。春樹と真弓は美術。綾香は吹奏楽。
「勝也は?」
春樹に聞かれ、俺は案内の紙を指した。
「ここ、見てみようかな。茶道部」
「お茶?」
「うん。それに、なんな珍しい部活だなって」
「お菓子出るって言ってたもんな」
翔太が、すぐに口を挟む。
「そこだけ聞いてたの?」
「勝也も聞いてただろ」
「……聞いてたけど」
「ほら!」
真弓まで笑っている。
別に、それだけで決めたわけではない。運動部の実演はすごかったけれど、毎日あの練習をしたいかと聞かれると、まだ分からなかった。
茶道は、何をするのか知らない。知らないから、ちょっと見てみたかった。
「春樹も来ない?」
「俺は美術」
「翔太は?」
「バスケ。お菓子出たら感想教えて」
「そっちの方が菓子目当てじゃん」
誰もついてきてくれなかった。
ただ、茶道部の部室は美術室の隣だったので、廊下までは春樹たちと一緒だった。
途中で綾香が階段の方へ分かれる。少し先に、優子が案内の紙を見ながら立っていた。
「富田さんも、吹奏楽部?」
綾香が声をかけた。
優子が頷くのを見て、俺も足を止めた。
「富田、見学、楽しんできてね」
「……うん。勝也くんは?」
「茶道部。まず見てくる」
「お茶、飲むの?」
「そうみたい。まだ、それくらいしか分からないけど」
優子が、小さく笑った。
「……いってらっしゃい」
「うん。じゃあね」
綾香と優子は、並んで階段へ向かった。
2人が何を話しているかまでは聞こえなかった。でも、優子が案内の紙を綾香へ向けているのが見えた。
美術室の前で春樹たちと別れ、俺は隣の扉を見た。
中から女子の話し声がする。さっきまで一緒に歩いていた2人は、もう美術室へ入ってしまった。
俺は案内の紙を折り、リュックサックへしまった。
「すみません。見学、いいですか」
中を覗くと、畳の上で道具を並べていた先輩が顔を上げた。
「どうぞ。靴、そこで脱いで上がってね」
声をかけてくれたのは、3年生の部長だった。
勧められた座布団へ座る。ほかにも見学の1年生が2人いたけれど、どちらも女子だった。先輩たちの中にも、男子は見当たらない。
「男子、俺だけですか?」
「今のところね。気になる?」
「ちょっと」
「入っちゃだめってことはないから、そこは大丈夫」
部長が笑った。
膝の上へ置いた手を、少し緩めた。断られるとは思っていなかったけれど、そう言ってもらえると、ここに座っていてもいいのだと思えた。
部屋の端では、別の先輩が本を閉じていた。勉強道具の置かれた机もある。
全員が向かい合って、ずっとお茶を点てているわけではないらしい。
「鵜飼君、で合ってる?」
「はい」
「今日は、お茶を飲んでもらおうと思って。先にお菓子どうぞ」
小さな菓子を出された。
やっぱり出るんだ、と思ったのが顔に出たのか、部長が笑う。
「好き?」
「はい。ありがとうございます」
「いい返事」
甘い物を食べてから、先輩が点ててくれたお茶をいただいた。
湯気の向こうに、細かい泡が見える。茶碗を両手で持ち、少しずつ飲んだ。
苦いけれど、口に残っていた甘さと合っていた。
「どう?」
「美味しいです。思ってたより飲みやすい」
「よかった。飲んでくれる人がいると、練習する方も助かるんだよ」
部長は空いた茶碗を見てから、部屋の奥へ声をかけた。
「先生、この子、1年の鵜飼君です」
道具を確かめていた顧問の先生が、こちらへ来た。
俺は慌てて頭を下げる。
「見学に来てくれてありがとう。うちは、飲む方をお願いする部員がいてもいいんだよ」
「飲む方、ですか?」
「行事では道具も運ぶし、準備や片づけもあるからね。そういうことも、できる範囲で手伝ってくれたら助かる」
部長が横から付け足した。
「あと、余ったお菓子を食べてくれる人」
「それ、仕事に入るんですか」
「残るともったいないから。もちろん、無理して食べなくていいけど」
「無理はしないと思います」
言ってから、答えるのが早すぎたと気づいた。
近くの先輩たちにまで笑われた。
「じゃあ、飲む役と、荷物を運ぶ係。それから茶菓子担当かな」
「……それでいいんですか?」
先生と部長を、交互に見た。
茶道部の部員になるなら、自分で点てる練習をしなければいけないと思っていた。飲んで、食べて、準備を手伝うだけでいいと言われると、俺だけ得をしている気がする。
「いいよ。最初から、その役割で来てもらえたらと思ってるから」
先生が頷いた。
「お茶を出す相手がいないと、お客さんに飲んでもらう練習はできないでしょう」
「それは、そうですね」
「道具の名前は少しずつ覚えてね。運ぶ時、どれか分かると助かるから」
「はい。それなら、覚えます」
部長が、さっきお茶を点てる時に使っていた道具を示した。
茶筅。茶杓。
名前を聞くと、テレビなどで見たことがある気がした。でも、自分で使えるかと聞かれたら、全然分からない。
今は、どれが何という名前なのかを覚えるところからでよかった。
「あっちでは、宿題もしてるんですか」
机の方を見ると、部長もそちらを向いた。
「うん。練習の合間とか、空いてる時にね。本を読んでてもいいよ」
「漫画も?」
「終わってから片づけを手伝ってくれるなら」
それは、かなり魅力的だった。
部活へ来て、お茶を飲んで、空いた時間に本や漫画を読める。ずっと正座したまま黙っている場所を想像していたから、話を聞くたびに印象が変わっていった。
「宿題も、分かるところなら教えてあげられるよ。手伝えるところは手伝うし」
部長が言った。
俺は顔を上げた。
「ほんとですか?」
「全部できるとは言わないけど、1年生のところなら、まだ覚えてると思う」
「俺、数学、分からなくなりそうなんですけど」
「もう?」
「まだです。これから」
「先に心配してるんだ」
部長が笑った。俺も笑ったけれど、冗談だけではなかった。
教科書を見た時、知らない記号が増えていた。母さんに聞いてすぐ分かるとは限らないし、春樹たちだって、いつでも一緒に宿題をするわけではない。
分からない時に聞いていい、と先に言ってもらえたのが、嬉しかった。
「じゃあ、ここ、入りたいです」
自分でも、思ったより素直に言えた。
部長が、少しだけ目を丸くする。
「今、決まった?」
「はい」
「お菓子の時じゃなくて?」
「そっちも、よかったですけど」
また笑われた。
入部届は家の人の確認をもらってから出すように言われた。俺はリュックサックから紙を取り出し、希望の欄へ茶道部と書いた。
書いてみると、次にここへ来るのが楽しみになっていた。
* * 優子視点 * *
勝也くんたちと階段のところで別れて、井上さんと音楽室へ向かった。
廊下まで、いくつもの楽器の音が聞こえていた。長く伸ばしている音と、同じところを繰り返す音が重なっている。
扉の前に来ると、胸が少し落ち着かなくなった。
「見学、来ました」
井上さんが中へ声をかけた。
私はその隣で頭を下げる。先輩が来てくれて、ほかの1年生が集まっている場所へ案内された。
「富田さん、何かやってみたい楽器、ある?」
椅子へ座ってから、井上さんが聞いた。
「……クラリネット」
「あの、黒いの?」
「……うん。音が、好きで……」
「私はフルート。さっきの紹介で吹いてた先輩、すごかったね」
私も頷いた。
話しかけてもらって、ちゃんと返事ができたことに少しほっとした。
井上さんは、私が言葉を探している間も、急いで次の質問をしなかった。
好きな音のことなら、もう少し話せるかと思った。でも、顔を見られると続きが出てこない。私は案内の紙の端を指で押さえ、次に何か聞かれるのを待っていた。
先輩が、近くでクラリネットを吹いてくれた。
少し離れたところから聞いた時より、息の動きが近くに感じられた。こんな音を自分で出せるようになったら、どんな気持ちがするのだろう。
持ってみるかと聞かれて、私はすぐに頷いた。
手渡してもらうと、思っていたより重みがあった。
先輩に持ち方を教わり、指を置く場所を確かめる。家で弾くピアノとは、手の使い方も違った。
「ゆっくりでいいよ。最初は音、出ないこともあるから」
教えてもらったように息を入れた。
初めは、息の音だけだった。
もう1度やってみると、急に高い音が出て、自分で驚いてしまった。
「す、すみません……」
「大丈夫。びっくりしたよね。もう少し、ここを変えてみようか」
先輩は笑って、もう1度教えてくれた。
失敗したから終わりと言われなくて、安心した。指の位置を確かめ直し、息を入れる。
今度は短い音が出た。
さっき先輩が聞かせてくれた音とは違う。それでも、自分の息で楽器が鳴ったのだと分かって、嬉しくなった。
「出たね」
「……はい」
「どう? もう1回やる?」
返事より先に、頷いていた。
「……もう1回、やりたい……です」
もう1度吹きたい気持ちは、はっきりしていた。
それでも、先輩を見上げて伝えようとすると、声は途中でつかえた。
見学の終わりに、井上さんが私のところへ来た。
「どうだった?」
「……音、出た」
「よかったね。私、息の使い方がまだ全然分かんなかった」
「……私も、まだ……」
「難しいよね。でも、もうちょっとやってみたいな」
私もそう思った。
できなかったことより、次はもう少し長く音を出してみたい気持ちが大きかった。
同じことを思っていると伝えたかった。
案内の紙を胸の前で持ち直し、井上さんがこちらを向いている間に、声を出した。
「……ここに、入りたい……」
井上さんが笑った。
「私も。よろしくね」
「……うん。よろしく」
リュックサックへ案内の紙をしまいながら、勝也くんのことを思い出した。
お茶を飲めただろうか。茶道部は、どんなところだったのだろう。
見学、楽しんできてね。
そう言ってくれた時の顔が浮かんだ。
今なら、楽しかったと答えられる。短くても音が出たことを、話してみたかった。
教室で余分な紙を返した時も、勝也くんは、どうしたの、と聞いてくれた。
邪魔だと言われたり、返事をしてもらえなかったりはしなかった。それでも、呼ぶ前には胸がどきどきした。
委員長のことをひと言伝えるだけでも、あんなに迷ってしまった。
今度は、聞かれなくても話せるだろうか。
考えながら、井上さんと音楽室を出た。手の中にはもう楽器がないのに、まだ、さっき持った時の重さを覚えていた。
* * 勝也視点 * *
週が変わり、家で確認してもらった入部届を提出した。
ほかの4人も、それぞれ見学に行った部へ決めたらしい。
翔太はバスケ。春樹と真弓は美術。綾香は吹奏楽。
俺は茶道部の正式な部員になった。
「本当に決めたんだな」
昼休み、翔太が机へ肘をついた。
「うん。部長も先生も、飲む役でいいって」
「飲む役?」
「あと、荷物運んだり、片づけたり。茶菓子も余ったら食べていいって」
「ちょっと待て。それ、俺の方が向いてない?」
「向いてないよ。お前、もうバスケ入っただろ」
「掛け持ちは?」
「お菓子だけ掛け持ちしようとしないで」
真弓に言われ、翔太が顔を向けた。
「荷物も運ぶって!」
「じゃあ、バスケのボール運んでおいでよ」
「そういうことじゃなくてさ」
綾香が笑いながら、俺の方を見た。
「勝也君、先輩と話せた?」
「うん。思ってたより普通に話せた。漫画読んだり、宿題したりしてもいいんだって」
「それは合いそう」
「分からないところも教えてくれるって。そこがよかった」
春樹が頷いた。
「じゃあ、宿題を忘れる理由が減ったね」
「別に毎回忘れてないだろ」
「うん。だから、もっと減る」
「喜んでくれてる?」
「喜んでるよ」
言い方はいつも通りだった。
部室が隣だから、活動が終わる時間が合えば一緒に帰れるという。別の部へ入るのだから、毎日5人揃うのは難しくなるらしい。
少し残念だったけれど、朝の公園での待ち合わせまでなくなるわけではなかった。
優子も吹奏楽部へ入部したと、綾香から聞いた。
2人とも希望する楽器を伝えたところで、担当が正式に決まるのは、もう少し先だという。
「富田さん、クラリネットがいいんだって」
「綾ちゃんはフルート?」
「うん。まだうまく音が出ないけどね」
「あれ、どうやって吹くの?」
翔太が、横へ何かを構える真似をした。
綾香が説明するのを聞きながら、俺は優子の席を見た。
誰かに話しかけられたらしく、優子は紙を持って頷いていた。あとで聞ける時に、自分でも聞いてみようと思った。
* * *
その日の放課後、茶道部では、道具をしまう場所から教わった。
同じ1年の女子2人も正式に入部していて、部長が俺たちへ棚の中を見せてくれる。
「これは、ここ。茶碗の箱はこっちね」
「運ぶ時は、これごとでいいんですか?」
「うん。でも持つ前に、底を見てね。重かったら言って」
両手を差し入れて持ち上げる。
近くの机まで運ぶだけだったけれど、中で茶碗が動かないように気をつけた。
先生が置く場所を空けてくれたので、ゆっくり下ろした。
「ありがとう。助かったよ」
箱から手を離した。
何をすればいいのか教えてもらえれば、できることはある。まだ知らない人ばかりの部屋で、それは少し心強かった。
道具の名前も、前に聞いたものから確かめた。
茶筅と茶杓は、形と一緒に思い出せた。抹茶を入れる小さな容器は、棗というらしい。
部長が紙に書いてくれた字を見て、俺は少し黙った。
「読めそう?」
「今、教えてもらったんで読めます」
「明日は?」
「……明日、もう1回聞いてください」
部長が笑った。
俺は自分のノートにも書き、横へ読み仮名を振った。
先輩の練習では、お客さんの座るところへ座らせてもらった。
前と同じようにお茶をいただき、空いた茶碗を返す。自分で点てる順番が回ってくることはなかった。
準備と片づけで分からないことを聞いているうちに、部屋のどこに何があるか、少しずつ分かってきた。
そのあと、空いた机で数学の宿題を広げた。
授業はまだ始まったばかりだったけれど、問題集には、同じように見えて答えの違う問題が並んでいた。
教科書の例を確かめていると、部長が隣へ座った。
「分からないところ、あった?」
「ここです。答えが、さっきのと逆になって」
ノートを少しずらす。
部長は問題を読んでから、俺が書いた途中の式を指した。
「ここまでは合ってると思う。この符号、もう1回見てみて」
「……あ、写す時に違ってる」
「うん。まず、そこ直してみようか」
消しゴムを使い、書き直した。
次の行まで計算すると、さっきの答えと違う数字になった。
「できた?」
「多分。あ、解き方も合ってる」
「じゃあ、次は同じ間違いしないようにね」
「はい。ありがとうございます」
部長は別の1年生に呼ばれて、そちらへ行った。
俺は次の問題へ進んだ。聞ける人が近くにいるだけで、分からないところに当たっても、その先までやってみようと思えた。
宿題をしまってから、机の上を片づけるのを手伝った。
帰る時、部長から茶菓子の残りを勧められたので、遠慮なくいただいた。
「そっちの仕事も、よろしくね」
「はい。こっちは任せてください」
「荷物の方もね」
「もちろんです」
俺も笑いながら答えた。
ここへ入る前に気にしていたことは、今日はほとんど思い出さなかった。
* * *
部室を出たところで、美術室から出てきた春樹と真弓に会った。
綾香を待つというので、3人で昇降口へ向かう。
途中の廊下で、荒川が前から来た。
「鵜飼、今終わり?」
「うん。荒川は、剣道にしたんだよね」
「せやで。まだ慣れへんわ」
「何が?」
「足。正座もそうやけど、立ったり座ったりするだけでも、何か違う」
荒川が足元を見た。
「俺も正座したよ」
「茶道?」
「うん。すぐ崩していいって言ってもらえたけど」
「ええな。そっち、菓子も出るんやろ?」
「今、食べてきた」
「そこまで聞いてへんのに、えらい嬉しそうやな」
春樹と真弓が笑った。
そんなに顔に出ているだろうか。自分では、普通に答えたつもりだった。
「荒川も、見学だけ来ればよかったのに」
「今聞いたら行きたくなるやん。俺、剣道で頑張るって決めたとこやで」
「ごめんって」
「また教室でな」
荒川は軽く手を上げ、知り合いらしい男子の方へ歩いていった。
朝、教室へ入ると挨拶する相手が増えた。廊下で会っても、こうして少し話せる。
小学校からの友達だけではなかった。それが、ちょっと嬉しかった。
昇降口で靴を履き替えていると、綾香と優子が来た。
綾香が真弓へ手を振る。
「お待たせ」
「今来たところ。翔太はまだ終わらないって」
真弓が答えた。
俺は履き替えた靴の踵を確かめ、優子の方を向いた。
「富田、お疲れさま」
「……お疲れさま」
優子も靴を履き替えた。
何かを言いかけたように口が動いたので、そのまま待っていた。
「勝也くん、茶道部……入ったんだね」
「うん。今日から正式に。富田も、吹奏楽部なんだよね」
「うん」
「どうだった?」
優子の顔が、少し上がった。
「クラリネット……また吹かせてもらった」
「音、出た?」
「……出た。前より、少し長く」
言い終えてから、優子が笑った。
入学式の日に見えたかどうか迷った笑い方より、ずっと分かりやすかった。
「よかったじゃん。あれって、持つの難しくない?」
「指の場所、まだ間違えるけど。先輩が教えてくれるから」
「そっか」
話しながら外へ出た。
優子は両手を少し動かしてから、制服の前へ戻した。さっきまで持っていた楽器のことを考えているのかもしれなかった。
俺も、今日覚えた道具の名前を思い出した。
「俺も、茶道の道具、教えてもらったよ」
「お茶、点てたの?」
「ううん。俺は飲む係。あと、運んだり片づけたりする」
「……勝也くんらしいね」
「それ、お茶? それとも荷物?」
優子が俺を見て、少し考えた。
「どっちも」
短く答えて、口元を緩めた。
俺も笑った。お菓子のことまで話したら、それも似合うと言われそうだった。
校門を出て少し歩くと、優子とは帰る方向が分かれた。
綾香が、またね、と声をかける。優子が小さく手を振ったあと、俺も声をかけた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日、勝也くん」
優子が歩いていった。
話せた時間は短かったけれど、今日は、会話のあとで言い方を間違えたかと考え込まずに済んだ。
優子の方から、部活のことを聞いてくれた。音が出たと話す時、笑っていた。
それが嬉しくて、しばらく歩いてからも、つい思い出してしまった。
「勝也、明日の数学の宿題、やった?」
春樹に聞かれて、俺は頷いた。
「やった。部活で」
「もう?」
「そう。分からないところも聞けた」
真弓が、へえ、と声を上げた。
「じゃあ、帰ったら遊べるね」
「ほかの教科の確認はするけどね」
「真面目じゃん、委員長」
「だから、その呼び方やめて」
みんなが笑った。
俺も笑いながら、リュックサックを背負い直した。
朝は、いつもの公園へ行く。
教室では、優子へおはようと言う。荒川や小島とも話す。
放課後は、隣の部室へ入る春樹たちと別れて、茶道部の扉を開ける。
まだ、慣れないことの方が多い。
それでも、明日どこへ行けば誰に会えるのかが、少しずつ分かってきた。
優子とも、また話せる。
次に音が出た時の話も、聞けたらいいなと思った。
今回の登場人物
・鵜飼勝也
仲間の推薦で学級委員長と風紀委員になり、茶道部へ入部する。優子から声をかけてもらえることに喜びを感じている。
・富田優子
図書委員になり、吹奏楽部ではクラリネットを希望する。委員決めで挙手に気づいてくれた勝也へ、自分からお礼を伝える。
・鶴見春樹
皆の都合を聞いてくれる勝也を、委員長に推薦する声を後押しする。自身は美化委員になり、美術部へ入部する。
・鳥居翔太
勝也を学級委員長に推薦した、気さくな友人。図書委員とバスケットボール部を選び、茶道部のお菓子にも興味津々。
・加藤真弓
人の話を聞いてくれる勝也ならと、委員長への推薦を後押しする。美術部へ入部し、翔太の冗談にはすかさず言葉を返す。
・井上綾香
図書委員になり、吹奏楽部ではフルートを希望する。優子を部活見学に誘い、返事を急かさず待ってくれる。
・荒川宣仁
和歌山県で育ち、中学入学に合わせて引っ越してきた同級生。勝也と少しずつ打ち解け、体育委員と剣道部を選ぶ。
・小島裕香
副委員長に立候補し、委員決めでは黒板への記入を担当する。勝也と相談しながら、クラスの進行を支える。
・茶道部の部長
見学に来た勝也を、お茶やお菓子とともに温かく迎える。部での役割を教え、宿題にも手を貸してくれる先輩。
・茶道部の顧問
お茶を飲むことや準備、片付けも部の助けになると勝也に伝える。道具の名前も少しずつ覚えればよいと、入部への不安を和らげる。
・吹奏楽部の先輩
優子にクラリネットの持ち方や息の入れ方を教える。うまく音が出なくても励まし、初めての挑戦を支える。
・1年3組の担任
自己紹介や委員決めを進め、各委員会の仕事を説明する。戸惑う勝也に、分からないことは聞いてよいと声をかける。




